梅花
 
 アクセルを踏むと、境内を車が動くのです。まだ新しい、整地されて1年ほどの土の上にわずかにタイヤの跡を残しつつ、凸面鏡の前で停まって、道路の車の行き来を確認するのです。
 左に出れば南の街、右に出れば北の山々で、どちらに出るか五分五分で、日曜大工の品々の揃った店に行くには、いったん北に出てT川の土手に上がって西に走り、国道沿いに5、6年前にオープンした大型日用雑貨店の、広い駐車場をめざすのです。
 店に着いて、ざっと店内を物色して、花瓶を買って帰ると、
 「ちょっと安っぽいわねえ」と妻が手に持ってみて言いました。
 「こんなものしかないんだ」とわたくし。
 「やっぱりF市のデパートに行くべきだったのよね」
 「これでいいよ」
 Y谷の門徒の人が、今朝、梅の枝を持って来てくれたのです。Y谷の奥の梅畑は広く、5人の共同所有とのことですが、80を越えるその人は、今や谷の主のような存在なのです。
 「ここのところ冬らしい気候ですね」とわたくしが言うと、
 「冬は冬じゃが」とその人。「わしらにはこの方がええ」
 「ええ、そうかも知れません」
 「梅も年を取った」
 「見事な枝振りですねえ」とわたくしはその人の持って来てくれた梅を眺めつつ、感嘆したものです。「これは苔が生えているんですか?」
 「年を取りゃあ、皺も寄れば苔も生える」とその人は歯の欠けた口を広げて笑います。「ご院さんのお祖父さんはまことにええ人じゃった。これは、そのお礼じゃが」
 「ありがとうございます」
 こうして、新しい庫裡の2階の座敷の床に、古仏の座像と並んで、孟宗竹を模した陶器の花瓶にまだ蕾も小粒の梅が数枝、その空間を広げることとなったのです。
 「なるほど、良くなりましたねえ!」と電機製品を扱うKさん。「玄関の位置が変わりましたから、つい全体の見取りを間違えてしまいました」
 「よそに行くと、そんなものですよ。変わると、昔が分からなくなる」
 「ははあ…」とKさんは座敷の窓から本堂の屋根や墓地や町の屋根々々、東に迫った山を眺めます。「子供の時分には、よく墓に遊びに来て、前のご院さんに叱られたものです」
 「今は叱りません」とわたくし。「子供が来なくなりましたから」
 「そうでしょうなあ。わたしも白髪になりました」
 「室外機は庇の上に置く方がいいのですね?」
 「ええ」とKさん。「下に降ろすと、5、6メートル、いや、7、8メートルは遠のきますから、エアコンの性能が落ちます」
 「近いに限るというわけですか」
 「今は機械が静かですから」
 「うるさいと、これまた困るわな」
 「とくにお寺さんは困ってでしょう」
 しかし寺は困らないのです。まして床の梅が困るはずはなく、朝は朝日を浴びて透明な光の中にあり、昼は昼の日を受けて、冬であっても暖かげです。窓には銀杏の大木が、20年たって切り取られた枝を再び空に広げつつ、風に揺れているのです。新しい本堂の屋根の鬼瓦が、ずれ落ちかけながらもグッととどまって、すぐ窓の外でにらみを利かせているのです。
 雪が降れば、雪は白く窓いっぱいに風に舞います。白い夢の川が空中にたちまちに流れて、たちまちにその流れを変えつつ、しばし冷たく高い波の音を立てるのです。
 その時、確かに梅の白い蕾がポッとほころびました。1輪2輪3輪、見れば白さが膨らんでいます。しかし、4輪5輪6輪と次々に無数の花が開き、春が開くのは、まだまだ遠い先の世界なのです。
 「しかし道元を持ち出すのは賛成できません」と、床の梅は愛でつつも、一向寺さんが言います。「わたしらは浄土真宗ですよ」
 「そういう宗派意識は現代では通用しないんじゃありません?」
 「真宗教義の現代化を図るべきであって、他人のフンドシを付けても仕方がない」
 「真宗が全てとは、ボクには思われないんです」
 「と言うと?」
 「親鸞聖人の著作を読んでも、1日24時間をどう生きればいいのか、分からない。あるいは妙好人のように、全てナムアミダブツ、ナムアミダブツにひっくるめれば1つの理想の境地なんでしょうけど、違和感がありますね」
 「どういう?」
 「そこには聖人の言う悪の感覚が稀薄ではないかしら?.つまり、煩悩、自意識、言ってみれば社会的存在としての自己がきわめて弱い。そこが現代的ではないんですよ」
 「現代的か否かは二の次で、このわたしがいま現在、救われるか否かがポイントでしょう」
 「だからそれでは、少なくともボクは救われないんです」と冗談っぽく言いながら、わたくしは一向寺さんの煎茶茶碗にお茶を注ぎました。
 「しかし道元と言えば、自力派の雄だからなあ」と、若い一向寺さんはどこかまだその言葉遣いにも若いエネルギーが感じられます。そして、そういう人との会話を楽しむ年齢に、わたくしも差し掛かっていたのです。
 「伝統的区分に囚われる必要はないんじゃありません?」
 「そりゃそうかも知れませんが…」
 「道元の到達した地点から親鸞は出発したと考えてもいいんじゃないかしら。『十二巻本正法眼蔵』を読むと、教典の引用で埋め尽くされていますよね。そこに道元の最晩年の心境があるとすれば、あのひたすらなる帰依の精神は、『教行信証』の中で教典をPick-upしつづけた親鸞と、そんなに遠いところにはいないと思う。自力だ他力だと言ったって、見ようによっては、親鸞の悪人意識は現代風に言えば自力と言えなくもないし、道元の『生死』あたりの和文には、他力の精神が脈打っているしね」
 「何か都合のいい理屈を聞かされているような気がするんだなあ…」
 「理屈なんてそんなものでしょう」
 「正直なところ、わたしは付いていけません」
 「それでいいんです」とわたくしは笑いました。「『日常生活の冒険』という言葉が、道元にはピッタリと来る気がするんですよ。だから、道元を読むと、日々時々刻々、どのように意識を張り巡らせて行動すればいいか、教えられるんだなあ。それは芸術に通ずるものだと思う。社会生活の中で仏法に触れるには、ジャンルは何であれ、芸術が一番ではないかしら。もちろん、その自覚に基づいた芸術であることが前提だけど…」
 「今度は理屈にも付いていけなくなった」と一向寺さんはその愚直な顔に人の良さそうな微笑を浮かべます。
 「でも、この梅はいいでしょ?」とわたくしは厚いガラスを載せた座卓に肘をついて、その人差し指で床の梅を、ややイタズラっぽく指さしたものです。
 「それは分かります」と振り返って、一向寺さん。
 「それでいいんですよ」
 「ふーん」と腕組みした一向寺さんを見て、わたくしの口から思わず他意のない笑いがこぼれました。