銀色の世界
外に出て、その雪の白さに驚きました。踏み締める靴裏にサクサクと真新しい雪の音が響き、低く垂れ込めた厚い灰色の空から粉雪がまだ舞い散っています。道路に出ると、両側の歩道に堆く積もった雪の間をチェーンを巻いた車が思い出したように稀に向こうからゆっくりと近づいて来て、カチャカチャと鎖の音を残して南の街に朝の出勤に向かいます。
家に戻ったわたくしは、妻に向かって、
「こりゃ車はムリだ。歩いていく」
「そんなに降っているの?」
「うん!.ちょっと記憶にないくらいの量だ」
「そう。でも、まだ弁当が出来ていない」
「いいさ。これじゃあ、休校だろう」
「電話で確かめたら?」
「つながらないんだ。まだ誰も来ていないのさ」
コートを羽織ってマフラーを首に巻き、わたくしが実に久しぶりに長靴を履いてみると、まだ履けます。足のサイズが変わるはずはないのですから、履けて当然なのですけれど、なぜかホッとしたわたくしは、ズボンの裾を長靴の中に織り込み、肩掛け鞄を肩に掛け、勤務校に向かいました。
小さな町は雪に埋もれて昨日とはまるで違う世界に目覚めたかのようです。わたくしは1つまた1つと白い足跡を残して町の裏手を流れる川の土手に出、その向こうの広々とした一面の銀世界を白い息を吐き吐き、まっすぐ広い道路を北に歩きつづけて、真向かいに見えている丘の上に建つ高校の、5階建ての屋上に据えられた黒い時計塔をめざしました。歩いても歩いてもなかなか近づく気配がなく、稀に歩いて登校する折りにはいつもカフカの『城』が連想されたものですが、雪が降り込めた抽象的な風景の朝は、殊更その感が深まります。
それでも30分ほど歩いて最後に急な坂を上ると、そこは高校の玄関で、案の定、ロータリーの周囲に1台の車もなく、同じく白い雪の中です。
それは3年生の卒業試験の最終日だったのです。しかし、10時が来てもまだ半数の生徒も登校できない状態では実施できるはずもなく、試験は明日に延期となりました。これであの生徒たちともお別れだと、胃がチクチクと痛むような3年間だったわたくしは昨晩は安らかな眠りを眠ったのですけれど、それは1日延びることとなったのです。そうは言っても、3年間共に過ごすと、情も湧き、別れを惜しむ気分に浸っても不思議でないはずですが、とにかくホッとしたわたくしは、多分、教師向きに出来ていなかったのでしょう。
若い命が巣立つ手助けに生き甲斐を感ずるには、多分、わたくしは自意識が強すぎたのです。何よりもまず自分の生き方に囚われていたのです。それが寺に生まれ育ったわたくしの、いわば定めのようなものでした。
「先生!」と、丘を降りて深い白い雪の中を歩くわたくしに、坂の途中から呼び止める女子生徒の声がします。「待って!」
それは今年卒業していく小山宏美でした。彼女は手を振り、駆け下りて来ます。目鼻立ちの整った、色白の美人で、「大事に育てられた子だろうなあ」と某先生が評したことのある子です。
立ち止まって待っていたわたくしの横まで駆け付けて来た小山は、
「待ってくれるとは思わなかった」と言います。
「どうして?」とわたくし。「待てと言ったじゃないか」
「それそうだけど…」
「悪かった?」
「ううん!」と否定した小山と共にわたくしも歩き出しました。
「進路は決まった?」
「専門学校」
「どんな?」
「ビジネス専門学校。わたし、OLになるの」
「電機店があるじゃないか」とわたくしが言うと、小山は顔をしかめます。
「あんな店に養子に来てくれる男の人なんていないわ」
「分からないぜ」
「継ぎたくない」
「それが本音だな」
「そう!」と言って、小山はイタズラっぽい表情をしてわたくしを振り仰ぎます。「先生は寺を継ぐの?」
「もう継いでいるさ」
「だって頭を剃っていないじゃない」
「剃らなくったって、継げるんだ」
「ホント?.知らなかった!」
見渡す限り白い野は人の気配が絶え、わたくしたち2人だけの人いきれが互いの気持ちを暖かくしているのです。時に赤い手袋をはめた両手を口の前に持って来て、フーッと白い暖かい息を吹きかけながら、
「もう先生と会えなくなると思うと、寂しいな」と小山が言います。
「小山さんには未来が開けているじゃないか」とわたくしはこんな時、どこかで耳にした陳腐なセリフを繰り返すのです。「オレたちは川端柳なのさ」
「寂しい?」とまた小山が振り仰ぎます。
「イヤ、慣れた」とわたくし。「人生は慣れだ」
それには答えず、黙って銀色の世界を見渡した小山は、
「すてきな雪ね」
「うん」
「先生もこんな雪、初めて?」
「うん」
「こんなこともあるから、人生って楽しいのよね」
「めったにないけどね」
「先生」とひどく真面目な面持ちをして、小山がわたくしを見つめました。
「うん?」
「もっと明るく振る舞うと、もっと人気が出ますよ」
「ははは!」とわたくしは笑いました。「小山さんのアドバイスだから、心に留めておこう」
「きっとよ?」
「うん!」
何か温かいものが心から心に伝わって来て、言葉に出すとそれが消えて行きそうで、わたくしたちは黙って歩き続けました。
町の家々の屋根が雪をかぶって白くうずくまる橋まで帰ると、小山は欄干に近付き、
「先生、『いとをかし』ですね」と言います。
「うん?」
「ほら、先生、古文で習ったじゃありませんか。『春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる』。あのあと、『いとをかし』が省略されているんですよね」
「ああ!.よく憶えているなあ…」
「わたし、先生の授業は熱心に聞いていたでしょ?」
「うん」とわたくしは改めて小山と並んで、橋の欄干から小さな町の雪景色をしばし眺めていました。