告発されて
 
 暗い夜でした。北に向かって車を走らせて町を離れ、馴染みのない小さな池に着くと、なるほど、その向こうに集会所があります。2階の窓は白々と明かりが漏れ、そこにすでに大野先生が来ているはずなのです。
 玄関に入ると下駄箱に入り切れない運動靴がいっぱいタタキに散乱し、その静けさに不安を感じつつ、わたくしは階段を上りました。2階の大広間の戸を開けると、一斉の視線が振り返り、正面のテーブルに独り大野先生が正座しています。先生に手で差し招かれて、その隣に坐って、改めて、ぐるりと子供やら大人やらにわたくしたち2人だけが取り巻かれているのが実感されます。わたくしは緊張せざるを得ませんでした。
 「J先生!」とどこかから声が掛かり、その方向を見ると、わざわざわたくしの勤める高校にやって来た他校の生徒です。「ボクらは非常に怒っている!.先生、なぜ遅刻したんですか?」
 「病院に寄って来たんです」
 「病院?.先生は病気か?」
 「胃潰瘍の初期症状らしいです」
 「病気か…」
 「そのことをアカネに話しましたか?」と生徒の横の縮れ髪の青年が尋ねます。
 「いえ…」
 「先生が来なかったらどうしようかと、アカネはとても心配していたんですよ。このこと1つ取ってみても、先生とアカネとの間に信頼関係が築かれていないことが分かりますね」
 「…」
 「先生はアカネをどういう生徒に育てたいのですか?」
 「どういうとは?」
 「先生として当然、生徒に期待するところがあるでしょう」
 「…」
 「ないんか!」と先ほどの生徒が驚いた顔をしました。「それがあんたらの高校の実態か!.どういう高校なんだ?」
 「大野先生、どうですか?」と青年は余裕たっぷりに穏やかに問いかけます。
 「差別に負けない強い子を育てたいと考えています」と大野先生。
 「ほう!」と青年。「J先生はどうですか?」
 「…」
 「先生は人権教育についてどう考えているんですか?」
 「…」
 「失礼ですけれど、人権教育って言葉は知っていますよね」
 「知っています」
 「採用試験の問題にも出されますよね」
 「ええ」
 「じゃあ、勉強なさったでしょう」
 「ああいう勉強は参考書を鵜呑みにするだけですから、余り心に残っていません」
 苦笑した青年は、
 「そもそも先生は差別について何かご存じですか?」
 「さあ、これと言って…」
 「何も知らない?」
 「小学生の時、何か映画を学校で見た記憶がありますが、よく覚えていません。ああ、それから…」とわたくしの脳裏に淡い思い出が蘇りました。「高校のとき校長が全校集会を開いて何かそんな話を1度した覚えがあります」
 「親から聞いたことは?」
 「ありません」
 「友達同士で噂したり、あるいはうわさ話を聞いたりしたことは?」
 「ありません」
 「信じられない!」と先ほどの生徒が大げさに驚きましたが、青年は冷静に、
 「生まれはどこですか?」
 「**町です」
 「小学校は?」
 「**小学校です」
 「中学は?」
 「**中学」
 「高校は?」
 「**高校」
 「大学は?」
 「**大学」
 「ほう!」と声を漏らした青年は、「学部は?」
 「そんなことまで答えなければならないんですか?」とわたくしはいささかムッとしました。
 「まあ、いいでしょう」と青年。「要するに先生は一見、差別とは無縁な世界に生きて来たわけだ。そして今、その問題に直面して、アタフタとしているわけだ」
 「そうかも知れませんが、仏教では四姓平等が大原則ですから、人を差別してもいいなんて考えたことはありません」
 「口では何とでも言えるんですよ、先生」と青年は言います。「ちなみに先生は差別とは何だと考えているんです?」
 「見かけで人を区別することでしょうね」
 「と言うと?」
 「世間の人がああ思っているから自分もああ思うとか、こう思っているから自分もこう思うとか、要するに、自分の意見が持てないことだと思いますけどね」
 「ああ!」と例の他校の生徒が救いがたいと言いたげな顔を作りましたけれども、
 「面白い先生だなあ」と青年はニヤニヤしながら、その細いねちっこい目でわたくしを眺めます。「オレはこんなずれた先生が好きなんだなあ」
 「…」
 「いずれにせよ、先生はもっとアカネを知らないといけないですよね」
 「…」
 「そのためには何が必要かが先生の課題だ。先生、分かった?」
 「はい」と思わずわたくしはまるで小学生のような素直な返事をしたものです。実際のところ、無数の強い視線を一身に浴びながらまともに考えろと言われても、それは無理な注文というものです。とにかくわたくしはその場を早く逃れたい一心だったのです。
 「ところで大野先生ですが…」と青年は何やらノートにペンを走らせています。「先生は大変な発言をなさっていますねえ!」
 「はあ?」
 「先生のクラスに中森ミカって子がいますよね」と青年は顔を上げました。
 「はい」
 「先生はミカに、人権教育のあとで何と仰いましたか?」
 「どういうことですか?」
 「人権教育のあと、ミカが、もっと生徒の立場に立ったクラス運営をしてほしいと、職員室に先生に訴えに行ったでしょう」
 「はい」
 「そのとき、先生はどう答えました?」
 「さあ…」
 「しらばくれちゃって!」と甲高い声が飛んだその方向を見ると、大野先生のクラスのアヤノでした。「先生はミカちゃんに『オレに挑戦する気か』と言ったでしょう!.ミカちゃんはすぐそのあとでわたしに泣いて訴えたのよ!」
 広間全体に一種異様などよめきが湧き、
 「どういう意味なんか!」と例の生徒が叫びます。
 「事実ですか?」と縮れ毛の青年はあくまで冷静でしたが、口元に薄ら笑いを浮かべてます。
 異様な沈黙がしばし続き、それはわたくしの肌をチクチクと突き刺したものです。
 「事実かと聞いとるんじゃ!」と突如、青年が声を張り上げ、思わずわたくしの肩がビクンとすると、
 「事実です」と大野先生の態度はきわめて殊勝でした。「しかし、それはボクのざっくばらんな性格のせいでして、決して他意があったわけじゃありません」
 「要するに悪気はなかったと言いたいんですね?」
 「はい」
 「先生に悪気があろうがなかろうが、事実として、その言葉が生徒の心を深く傷つけているんですよ。そのことについてどう考えていますか?」
 「配慮が足りなかった思います」
 「配慮?」
 「はい」
 「そういう問題?」
 「…」
 「生徒の訴えを力づくで封じようとする先生自体の体質が問題なんだろう!」
 「そうだ!.そうだ!」とあちこちから声が飛び、わたくしの肩は自然と縮まります。ふと気づくと、あぐらをかいた上に両手を握り合わせた大野先生は、テーブルの下でポキ、ポキとその関節を鳴らしているではありませんか!.翌日、職員室でわたくしが笑いながらそのことを語ると、
 「そうだった?」と先生も笑い、「サシで勝負しろって言うんだ。そうすりゃ、あんな連中に負けやしないや」といつもの居丈高な調子に戻ったものです。
 しかし、2、30人もの人間を前しては大野先生といえども、黙る他ありませんでした。
 会場全員の怒りの目が先生の上に降り注がれているのを冷静に観察しつつ、
 「アヤノ、先生の言葉をどう思う?」と青年が発言ます。
 「差別だと思う」と円縁メガネの奥の丸い目で先生をにらみながらアヤノが答えます。
 「オレも差別だと思う」と例の他校の生徒。
 いろんな服装はしていても、テーブルの前の席には高校の生徒が陣取っていて、
 「差別だと思う」
 「差別だと思う」
 「差別だと思う」
 「…」
 と次々にまるで判決を下すように言うのです。
 「J先生」と不意に青年に呼びかけられたわたくしは、また肩がビクンとしました。「先生はどう思う?」
 「…」
 「差別だと思う?」
 「…」
 わたくしたち2人が黙ってうつむいている様子をしばらくニヤニヤと眺めていた青年は、
 「これは先生たち2人だけの問題ではないわな。学校体制に根本的な問題があるわけだ。そうでしょ、大野先生?」
 「はい!」
 「そこで大野先生にも課題を1つ。学校のどこが問題だったのか、来週までにまとめて来て下さい」
 「はい!」
 「学校全体の問題にしないといけませんよ。分かった?」
 「はい!」
 10時が過ぎて、今日は終わりだと言われたわたくしたちは、そそくさと立ち上がり、黙って坐ったままの生徒やら教員やら青年やらの後ろから廊下に出て、階段を音もなく駆け下りました。
 外は深い秋の闇です。池を巡る白いガードレールに沿って駐車場に急ぎながら、
 「オレはあんたの巻き添えを食ったと思っていたのに、目当てはオレだった!」と大野先生は吐き捨てるように言いました。
 「来週もあるんですか?」とわたくし。
 「ある!」
 「いつまで?」
 「知るか!」
 駐車場に着いて車のドアを開けた大野先生は、わたくしを振り返り、
 「あんたはお寺さんだし、地元の人間だから、期待されてるんだ。オレは使い捨てのボロ雑巾にされたのさ」
 「どういう意味ですか?」
 「まあ、いい」と先生は運転席に座り、「今日は唾でも吐き捨ててさっさと帰って、酒を飲んで寝ようや」と顔を上げて言うと、バタン!.とドアを閉めました。そして、夜の底にチラチラと優しげな明かりの瞬く南の町に向かって、走り去りました。