酒場にて
 
 橋を渡って河原に降りると、秋の夕べの川面には北の山々から爽やかな風が吹き下ろしています。護岸された川岸にアベックが肩寄せ合っていつまでも時の流れに身を任せているさまを指さしつつ、
 「うらやましいだろう」と大林が語りかけると、
 「うらやましいねえ!」と石部は仰ぎます。
 「ハハハ、キミは正直で実にいい!」
 小森とわたくしはそのでこぼこコンビの後ろを黙って歩き、土手を上がると、そこは繁華街です。浅瀬のきれいな水路に沿って柳並木の葉の揺れる小道が延び、その両側は色とりどりの看板が夜をにぎわす居酒屋やスナックが軒を並べています。
 小森が予約していた「樽」という酒場の1階は勤め帰りの客でいっぱいで、わたくしたちは2階の小さな部屋に案内されました。
 「いやあ、実に久しぶりだ」と大林は、すでに禿げかかった額を光らせながらおしぼりで手を拭きます。「今年初めてじゃないか?」
 若い女店員が敷居際に立って待っていて、
 「みんな、好きなものを注文してよ」と小森。
 「キミのおごりか?」と大林。
 「おい、やめてくれよ」
 「ハハハ、冗談だよ。冗談、冗談!」と言いながら、大林は上機嫌で献立表に目を通し、わたくしたちも壁に貼り付けてあるメニューを見て、それぞれ注文しました。
 まずビールで乾杯し、
 「Jと飲むのは初めてだったよなあ」と大林。
 「ええ」
 「実にキミはいい男だ」と大林はビールのグラスを差し出してわたくしのグラスに触れ、「石部もいい男なんだが、ちと単純でなあ」
 「それ、褒め言葉?」と、すでに四角い顔を真っ赤にした石部が人の良さそうな笑みを浮かべます。
 「キミに対する褒め言葉が何か他にあるか?」と、隣の石部にそのよく光る額を突き出して大林が言いました。
 「何か1つくらいあるでしょう」
 「イヤ、ない!」
 「ひどいなあ」
 「サルマタさんとはうまく行ってるか?」
 「イノマタさんだって」
 「ああ、そうだった!.どうもよく間違えていかん!」
 「この間、一緒に山登りして、そのときキスしたんだって!」と小森が肉感的な厚い赤い唇をゆがめて言いました。
 「小森のおしゃべり!」とどこか女性風に石部が抗議します。
 「あれ、喋っちゃいけないこと?」と小森はいかにも楽しげにとぼけます。「そうだったっけ?」
 「どうせオレだけには喋るなと、石部が口止めしたんだろう!」と、途端にメガネの奥の細い目がさらに鋭く細まり、隣の石部の肩を右手でギュッと締めつけます。
 「イテテテテ!」と石部。
 「謝るか?」
 「ごめん、ごめん」
 「何を謝っているんだ?」
 「よく分かんない」
 その返事を聞くや否や、大林の形相がものすごく怖いものとなり、
 「ごめん、ごめん!.もう大林には隠し事はしないよ」とあわてて石部が許しを乞う様子に、向かいの席の小森とわたくしは大笑いしたものです。そんなわたくしを眺めて、たちまち穏やかな表情に戻った大林が、
 「いやあ、実にキミは楽しそうだなあ」と言います。「キミの笑顔を見ていると、オレまで楽しくなるよ」
 「いつもこんな調子なんですか?」とわたくし。
 「そうだよ」と小森が楽しそうに笑います。
 「おお、イテテ…」と石部はまだ肩を揉んでいます。
 「何だってな、キミは好きな子がいたから、わざわざこの大学に来たんだってな」と大林がわたくしのグラスにビールを注ぎ足しました。
 わたくしが石部を見ると、
 「ごめん、つい口がすべっちゃったんだ」と石部は無邪気に顔を傾けます。
 「こいつは穴の空いたバケツだから、何でもすぐドードーと音を立てて漏れてしまう」
 「それは知らなかった」と小森も興味津々の表情です。「Jは情熱家なんだなあ」
 「現代では珍しいタイプだ」と大林。「オレは最初からどこかそんな気がしてたけどな」
 何か説明せざるを得なくなったわたくしは、
 「そんなカッコのいいものじゃありません」と言いました。「要するに、乗りかかった船というか、意地というか、未練と言えばいいのか、そんなゴチャゴチャしたものです」
 「それにしても、若い!」と大林。「ああ、オレにもそんな青春時代があった。高校の行き帰りの電車の中で、うつむきがちに恥ずかしげな視線を送ってくれた女の子がいたよ」
 「ハハハ、大林の18番が始まった」と小森が笑います。
 その笑いに気をよくして独り頷いたのち、
 「それを3年間の浪人生活が奪い去ったんだ!」とまるで舞台の上の役者のような大げさな顔つきを装って大林が憤慨しました。
 わたくしたちは大笑いし、石部は思わず口に含んだビールをピュッと吐きました。
 その泡がテーブルの上で小さく光るさまをジッとにらんでいた大林が、
 「楽しいか?」と陰に籠もった声で尋ねても、
 「ウン、楽しいねえ」と石部は無邪気に答えるだけです。
 「そうか、楽しいか!」と口をゆがめた大林がその手で思い切り頬をつねると、
 「イテテテテ!」とまた石部は叫びます。
 小森とわたくしはさらに大笑いです。
 わたくしたちを見てニンマリとした大林はすぐにその手を離して石部の肩を抱き、
 「仲良くしようや」と彼のグラスに空いた左手でビールを注ぎました。
 「フー」と大きな溜め息をついて、石部は頬をさすりつつ、そのビールを飲みました。
 「うまいか?」と大林。
 「ウン」
 そんな2人のやり取りを楽しげ眺めていたわたくしのグラスに、隣の小森がビールを注ぎながら、
 「恋愛を深刻に考えると、痛い目に会うのは男の方だよ」と優しい声で諭します。
 「女の子を得ることだけが恋愛の目的ではないと思うんですよね」と酔いを意識しつつ、わたくし。「得る得ないは二の次で、自分が高められることが大切なんじゃないでしょうか?」
 「得ることが一番だ」と小森は楽しそうに厚い唇をゆるめます。「全てはそこに至るまでの通過儀礼さ」
 「そうですかねえ…」
 「そうさ。Jはまだ失恋した経験がないんだよ。1度、失恋すると、それがわかる。それがわかると、今度は男の方がうわてになれるのさ」
 「それって、恋を相対的に捉えることですよね?」
 「恋ばかりじゃない。人生は相対的にできているんだ。そんな現実の見えない連中が、恋におぼれたり学生運動にうつつを抜かすことになる」
 「でも、何かを信じないと、生きていけないでしょう」
 「それが恋?」
 「恋とは言いませんけれど、恋を通して見えるものがあると思う」
 「いや、ないな」と小森は言い、「見えるのは裸の女ばかりさ」と笑います。
 「キミはニヒルだからなあ!」と、向かいの大林が興ざめした面持ちで自分のグラスにビールを注ぎました。「Jに毒を吹きかけるのはやめた方がいい」
 「オレはそんな悪人じゃないよ」
 「悪人じゃないが、性根が腐っている」
 「ハハハ、ひどいなあ」
 「小森はいい男だよ」と、壁にもたれかかってトロンとしていた石部が言いました。「とってもいい男…」
 「そうだよな」と小森が優しく声をかけ、
 「そう…」と石部が夢うつつに頷きます。
 「やれやれ、同じ高校出身の仲間意識が出て来たか」と大林は言って、わたくしに笑顔を向けました。「オレたちも仲間を組んで対抗するか?」
 「でも、高校が違いますよ」
 「構うものか」と大林。「仲間になる理由は何だっていいんだ」
 「ボクたち4人はすでに仲間でしょう」
 「ハハハ、Jは大林と特別な関係になりたくないんだって」と小森が笑います。
 「まあ、いいさ」と大林はメガネの奥の細い目を粘っこく光らせました。そして、
 「時間はいくらでもある。大いに楽しもうじゃないか!」と彼が差し出すビールをグラスに受けながら、わたくしは胸の内にどんどんと広がる違和感を抑えることが出来ませんでした。