後楽園
わたくしにとってもっとも印象に残る野球の試合と言えば、阪神の掛布が48本のホームランを放った年の夏、東京後楽園球場で行われた巨人・阪神3連戦です。
確かその第2戦目だったと思いますが、巨人・江川、阪神・小林という因縁の投手戦となり、初回早々、小林は打ち込まれたはずです(もっとも、得点には至らなかったと思うのですが…)。勝敗は忘れましたが、忘れられないのが、確か1回の表の掛布対江川です。
と言うのも、何球にも渡って江川はインハイに速球を投げつづけ、掛布はそれをファールしつづけたのです。静まり返った球場全体に乾いた甲高い音をカーン、カーンと響かせて、掛布の鮮やかなバット・スイングの真後ろに白い球がはじき飛ばされてネットに掛かります。帽子の鍔の陰で冷静に見つめていた江川は、再び同じコースに同じ速球を投げ込みます。明らかに江川は1つの意図を持って投げつづけたのです。掛布はそれを打ち返しつづけたのです。
その結果はどうだったか忘れたほど、掛布のファールボールの白い軌跡だけが、わたくしの脳裏に鮮明に刻み込まれています。ただ、3打席目かに掛布は江川のアウトハイのボールに飛び付くようにして、左中間にホームランを放ちました。
ちょうどわたくしたちの席の下方で白い球が跳ね返ると、阪神ファンの陣取るレフト・スタンドから鉦や太鼓とともにヤンヤの喝采が起こり、
「掛布ってすごいのね」と隣のC子がソフトクリームを舌の先で舐めながら言いました。「あんな大根切りでもホームランにしちゃうんだから」
「江川はまだ掛布を知らないのさ」とわたくし。「あそこはリストの強い掛布のホームラン・コースだ。いろいろボールを散らして、最後に1回のようなインハイの速球を投げ込めば、打たれなかっただろうになあ」
「なぜそうしないの?」
「だから江川はまだ掛布を知らないのさ」
「でも、江川は高校の時からすごい投手でしょ。それくらいの配球ができないの?バカ?」
「いやいや」と阪神ベンチの前で祝福を受ける掛布の背番号31を目で追いながら、わたくしは言いました。「それくらいのことは江川が知らないはずがない。きっと掛布を探っているんだよ。そのためにホームランの1本や2本、打たれても仕方ないと考えているのかも知れないね」
「へええ!」とC子は素っ頓狂な声を出しました。「試合なのよ。プロでそんなこと、許される?」
「プロだからさ」と、またタバコを口にしてわたくしは答えたものです。「プロだから、今後、何度も対戦するだろ。だから、1度打たれても、そのことを通して相手の弱点を知る方がよほど大切だ」
「なーるほど!」とC子は口の周りを手で拭き、大きな瞳でわたくしを見上げました。「試し切り、いや、試し投げね?」
「そう!」
「何でも試してみなくちゃ分からないわね」
「そう!」
「わたしを試す気、ある?」
「ははは!」とわたくしは笑いましたけれど、白地に赤いラインの入った夏シャツの、大きく開いた胸元のふくらみが、視界の端でチラチラしました。
「冗談よ、冗談!」とC子はアッケラカンと笑いました。「Jちゃんの目が今ぎらついた」
思わず苦笑したわたくしは、
「大人をからかわない方がいい」と言いました。「でないと、ヤケドするよ」
「東京って怖いところなのね」
「どこだって、Cちゃんのように無防備だと、怖い目に会う可能性がある」
「でも、やっぱり夢は東京に出ないと、叶わないことが多いでしょう」
「夢にもよるけど、Cちゃんにはどんな夢があるの?」
「バカね」とC子は胸を反らして、広いグラウンドに顔を向けました。「その夢を探すために東京に出るんじゃないの」
「ウーン」とわたくしは腕組みしました。
「気に入らない?」とイタズラっぽい目でわたくしを見上げると、「Jちゃんだって、大学を出て東京に来たのは、それなりに夢を求めてじゃない?」
「オレは単なる就職事情だけどね」
「だから!」とC子は勝ち誇ったように語気を強めました。「就職すると、もう人生、半ば縛られちゃうでしょ。その前に、自由な選択がいろいろ出来る東京に進学したいわけじゃない!」
「オレはそのことに反対してないよ」
「いや、してる」
「そうかな?」
「そう!」とC子は口を尖らせます。「なぜ?」
球場全体を明るくおおう照明の上の夜空を仰ぎながら、そうかも知れないと感じたわたくしは、
「夢という字にニンベンを付けると、はかないと読むよね」
「ウン」
「そりゃ今このグラウンドで活躍している人はみんな夢を叶えた人々だと思うけれど、誰もがそういう風に頑張らなければならないんだろうか?自分の夢を実現することも大切だけど、生きるということが夢というものかも知れないよね」
「人生ははかないってこと?」
「自分の夢にこだわると、いずれそうなる。だけど、人生の上に夢を実現するのじゃなくて、人生そのものが実は夢なのだと悟ると、その夢に対してはかないとか何とか、自分の価値判断を加える気も起きなくなるんじゃなかろうか?」
「ムズカシイ!」とC子はわたくしの顔の前で手を振って見せました。「これ、分かる?今、Jちゃんの目が点になって、1点をジッと見据えていたわよ」
「やめよう!」とわたくしは伸びをしました。「早めに球場を出て、どこかブラブラするか?」
「ウン、賛成!」
「オイ、兄ちゃん!」と、そのとき背後の席から、浅黒い中年男がドスの利いた声を発しました。「オレたちは野球を見に来ているんだ。イチャイチャするなら、出て行ってくれねえかな」