鉄腕アトム
 
 『教行信証』の半ばで親鸞聖人は涅槃経から長い引用を試みていますけれど、それは「涅槃」とは程遠く、親殺し・釈迦殺しと言い得る内容のもので、昔からわたくしの心に引っ掛かっていたところです。
 いわゆる穏和な高僧のイメージとは隔絶した聖人の、クセもあればキレもある面構えをそこに思い描くとき、信と不信とは聖人の中で絡み合って深められて行ったのではないかと、わたくしなど妄想したくなるのです。ちょうど『カラマーゾフの兄弟』の熱い心臓の鼓動が「大審問官」に聞こえるように、あの長い涅槃経からの引用こそ、聖人のエネルギー源ともなった不信の声ではなかったでしょうか?
 「だけれども」とS寺さんは納得しません。「そう言うと、親鸞は不信の人となってしまうよ。そうだろうか?」
 「イヤイヤ」とわたくし。「不信がかえって信を深めるダイナミックな構造だと言いたいだけですよ。まあ、よく言われる指摘ですけどね」
 「なるほど、親鸞の不信を探る試みは面白いかも知れない」
 「イヤイヤ」とわたくしは同じ言葉を繰り返さざるを得ませんでした。「そういう意味ではありません。不信と言ったって、要するに、自我のあるところ不信の種はつねに播かれつづけるはずから、煩悩がある限り、不信もまた存在しつづけるわけでしょう」
 「それはそうだ」とS寺さんは天井を仰ぎ、どこか自らを顧みる風情です。「それが浄土真宗の教えだからなあ」
 「生命も同じ構造を持っているとボクは思いますね」
 「と言うと?」
 「個の維持はきわめて利己的な反面、種の維持となると、没個人となりますよね。その相反する本質の中で生命がダイナミックに営まれていることは、親鸞の信と不信の構造とそっくりじゃありません?」
 「屁理屈にも聞こえるけどね」とS寺さんは微笑しました。
 「ボクにもそう聞こえます」とわたくしは笑い、応接室の隅で映されたままのテレビを見ると、まだ手塚治虫特集が続いていました。
 『鉄腕アトム』『リボンの騎士』『マグマ大使』『火の鳥』『ブラック・ジャック』等々、彼の作品が紹介されるたびに、1960年代、つまり、わたくし自身の10代が思い出されます。それは確かに日本経済の上昇期で、360CCの小型車、それも中古車を買って、家族揃って畦道を走った時代だったのです。また、東京オリンピックと大阪万博がその象徴とも言えるイベントだったことは、識者の指摘するとおりでしょう。
 「昔を懐かしむのは年を取った証拠でしょうけどね」と紅茶をすすりながら、わたくしは言いました。「ボクの家にテレビが来たのはちょうど、人工衛星によるアメリカからの中継が始まった頃でもあったんですよ」
 「ほう、ちょっと遅かったな」
 「貧乏していましたから!」
 「あの時代、文化的生活が1つの憧れだったよな」
 「家族揃って岡山の後楽園に行く予定の日でしてね。朝早く起きてテレビをつけると、ケネディ大統領暗殺のニュースが飛び込んで来ました」
 「ああ、そうだったかも知れない」
 「いま、小学時代の卒業アルバムを見ると、まるで終戦直後かと思われるような印象です。こんな時代が自分たちの子供の頃だったのかと、ちょっと信じられない気分になりますね」
 「そりゃそうだ!」と同世代のS寺さんも同感しました。「水泳と言やフンドシだったし、まだゴム草履で登校する友達もいたものだ」
 「ボクにはゴム草履の記憶はありませんけどねえ……」
 「そりゃ浄玄寺さんの町が当時栄えていたからさ」
 なるほど、繊維業の盛んなK町は、至るところで織機の音が響き、小さな町工場が並び、小川は染色に使われた濃紺の溶液に染まっていました。境内の裏手の川を隔てたM家にも機織り工場があり、夜遅くまでその音が黒い墓の林立の上まで鳴っていたものです。
 初めて近所でテレビが入ったのは銀行家のお宅でした。わたくしたちは夕方になると数人の友達とともに訪れ、もっと見たいと思っても、6時が来るとその家のお祖父さんがプツンとチャンネルをひねり、
 「さあ、帰った、帰った」と追い返しました。その時だけは友達間のヒーローになれるその家のYちゃんがいくらせがんでも、
 「家の人が心配しとる」とお祖父さんは聞き入れません。
 遠く聞こえるように、「Yちゃんちのケチじじい!」と悪態をつきながらも、めいめい帰宅し、わたくしも、天井のない屋根裏の隙間から仄かに夜空が仰がれる台所の丸い膳に坐って、貧しい夕食についたものです。
 テレビとともに、マンガが強烈な娯楽の1つでした。中学生になると小遣いの全てをマンガに費やしたわたくしは、3年間、月刊誌の『少年画報』『少年』『少年ブック』、週刊誌の『少年キング』『少年サンデー』『少年マガジン』を、その発売日の授業の休憩時間に、同じマンガ好きの仲間とともに学校の北門わきにある本屋に買いに走るのが、ワクワクするほどの楽しみだったのです。
 『少年』に『鉄腕アトム』を連載していた手塚治虫は子供の目にも第1人者と分かる人気マンガ家でしたけれど、わたくしはむしろ、『まぼろし探偵』や『エイトマン』の桑田次郎や『鉄人28号』や『伊賀の影丸』の横山光輝の方が好きでした。内容もさることながら、絵柄が手塚治虫は余りにマンガ的すぎて、少なくとも真似をしようという気が起きなかったのです。
 「ほほう、マンガ家になりたかったの?」とS寺さんは愉快そうにわたくしを眺めます。「それは初耳だ。で、投稿か何かしたの?」
 「イヤイヤ」とわたくしは顔を横に振りました。「すぐに自分の限界に気づきましてね。どうしても、ある角度の絵しか上手に描けなかったんですよ。要するに、マンガ家のマンガをまねて描くマンガだから、デッサン力が付かなかったのです」
 最近、建てられた宝塚の手塚治虫記念館を訪れてみても、彼のマンガの基礎に緻密なデッサン力があることは明らかです。それを、テレビに登場した識者の1人が説くように、レオナルド・ダ・ビンチに匹敵する天才と称するかどうかは別しても、巧みなものでした。
 「彼のマンガは基本的に科学に対するオプティミズムがあるでしょ」とわたくしは言いました。「アトムはその典型じゃないかしら。あの絵柄はそうした主張にとてもよくマッチするとは思うけれど、あの明るさについていけませんでしたねえ」
 「暗い少年時代……か」とS寺さんは笑います。
 「そうそう」とわたくしも笑いました。
 しかし、識者たちに言わせると、手塚治虫には深い厭世観もまたあるというのです。宗教学者のN氏は、鉄人28号のように人間によって操縦されるロボットだと分かりやすいけれど、アトムのように人間の心を持つロボットとなると、非常に難しい問題を抱え込むことになると感じていたと、わたくしと同い年のはずですから、同じ10代に考えています。
 4年間続いたテレビのアトムは、その最終回で、地球を救うため自らロケットを誘導して太陽に飛び込み、太陽を蘇生させたとのことです。また、超過去から超未来へと延々と続いた『火の鳥』は、その超未来において人類が滅んだ後、再び超過去の人類誕生へとつながるのだそうです。
 生命の永遠流転説がそこに流れているとのことですけれど、ある識者の言うとおり、それは物語構築上の枠組み程度に考えた方が妥当なのかも知れません。
 「いずれにせよ、マンガが世界に誇るべき日本の文化であることは間違いないでしょう」とわたくしは断言しました。「曲がりなりにもマンガを描いた経験がボクにはありますから、日本マンガの質の高さは確信しています」
 「ディズニーよりも?」
 「高いんじゃないですか」
 「マンガも芸術の1つかも知れないよな」
 「そりゃそうですよ」とわたくし。「葛飾北斎だった描いているし、そもそも、描写の細かさに限って言えば、日本の小説も決して西洋の大文学と比べて見劣りしませんものね」
 「ははあ、そういうものかな」とS寺さんはもう撤退の姿勢です。大きく背伸びをして立ち上がると、
 「もう切るよ」とテレビの前で言いました。
 「ボクも失礼しましょう」とわたくしは腰を浮かせました。「つい長居してしまいました」
 「でも、なかなか面白いマンガ談義だった」
 「マンガであっても、日本は日本だと思いますね」
 「と言うと?」
 「さっきのテレビでは、手塚治虫の生涯の主題は生命と自然だと言っていたでしょう」
 「そうだなあ…」とS寺さんはつぶやきながら、ドアを開けつつ、
 「そうかも知れない」
 廊下に出たわたくしは、
 「それは『となりのトトロ』から『もののけ姫』に至る宮崎作品にも通底するものでしょ?」
 「ほほう……」
 「それはまた、親鸞の自然法爾にも通底しているかも知れないですよね」
 「ははは、それが落ちか!」とS寺さんは大笑いしました。
 「そうなんですよ!」とわたくしも笑いました。「ここまで話を持って来るのに苦労しましたよ!」