白い道
 
 蓮如上人が御文章の中で繰り返し説いていることは、「信心決定」と「報恩感謝」でしょう。それはひとえに「お念仏」の捉え方を示すもので、まず信心が決定した時のナムアミダブツがあり、その後のナムアミダブツは阿弥陀に対する感謝の念から起こるのだと説いているのです。「信」と「行」とを巧みに案配した考え方ですけれども、その「信心決定」が何よりも問題となるところです。
 浄土真宗は何を信ずるのか?むろん、阿弥陀仏の第18願、つまり「わが名を称えても極楽往生できないものが1人でもいるならば、わたしは悟りを開かない」と誓った阿弥陀が阿弥陀仏として悟りを開いているからには、ナムアミダブツと称えれば誰でも極楽に行くことが出来ると信ずることです。
 それは人間理性にとってきわめて不合理な話には違いありません。そもそもそんな仏が実在していないではないか。実在しない仏の実在しない言葉を信ずる精神構造が分からないと、高名な日本のクリスチャンの作家がどこかで述べていましたが、わたくしに言わせれば、それはキリストの復活を信ずる不合理と五十歩百歩と言ったところでしょう。
 親鸞聖人は、それを「誓願不思議」とか「仏智不思議」と述べています。「信心決定」とは、まさにその不思議への目覚めに他ならないのです。それはまた、生死の不思議、現に今生きているこのわたくしの命に対する不思議へと結び付くもののはずです。
 「自力」とはその不思議を自ら体得していく道であるのに対し、「他力」とは阿弥陀によって感じとらさせていただく道の謂いでしょう。そこに「聴聞」の重要性がおのずと浮かび上がって来るのです。仏説を聴く時、自分との隔絶意識が芽生え、おのずとナムアミダブツが称えられて行くわけですから。
 「自我」を逃れられない人間が「無我」に至る道が、そこには開かれているのです。むろん、それは死後、極楽に赴いてからのことですけれど、そう信じられる生き方は、悟りそのものではないにせよ、現世を生きる人間にとってきわめて実り豊かなものなのだと、浄土真宗では教えているのです。
 また、親鸞聖人が88才の手紙に述べている自然法爾もきわめて魅力的な思想です。その自然はいわゆる自然ではないにせよ、無関係なものでもないでしょう。秋、澄み切った空を仰いで我を忘れている時など、空にも心にも仏の光が射しているのです。それが、たとえば、海と山と坂に彩られた港町であれば、その感はさらに強まることでしょう。
 志賀直哉記念館の縁側から眺めた尾道の街もまた、そんな風情にあふれていました。志賀直哉が寓居した3軒長屋を復元した記念館の前は小さな公園が造成されていて、眺望がよく、石段を登ったあと、一息ついて見回すと、尾道水道の波は魚の鱗のような光を跳ね返し、ボーッ、ボーッと時に汽笛を鳴らしつつ船が行き来しています。対岸は向島の山肌に家屋が連なる一方、見下ろすこちら岸は瓦屋根とビルの屋上が入り乱れた街のにぎわいが、車の音と共に伝わって来るのです。
 東の街外れに架けられた尾道大橋はもうとっくにその風景と調和し、その横にもう1本、巨大な吊り橋が建設されています。
 「完成はいつ?」とわたくしが尋ねると、
 「来年じゃなかったかな」と弥勒寺さんが言いました。
 「四国までつながるのも、もう遠い先じゃないですね」
 「来年でなけりゃ、再来年だ」
 「3カ所も四国と本州をつなぐ意味があるのかしら?」
 「そりゃあるだろう」と弥勒寺さん。「だけれども、経済効果がどれだけあるか、特にこのルートは分からないだろうね」
 「莫大に費用がかかるのだから、それが償還できないとなると、いろいろ議論が起こるでしょうね」
 「出来てしまえば、おしまいさ」と弥勒寺さんは意に介しません。「われわれにとって橋があるかないかが問題であって、損得は二の次だもの」
 「そりゃそうですよね」
 「しかし中国の高官が尾道水道を眺めて、日本にも広い河がありますねえと言ったというのも、分かる気がする」
 「いろんな意味で狭い国ですからねえ」
 「それでも向こう岸まで橋を架けるとなると、大変な費用と技術が必要になる。何だな、現代の技術は確実に昔の精神の領域にまで突き進んでいるよな」
 「?」
 ちょっと弥勒寺さんの真意を測りかねたわたくしは大橋を眺め、さらに、2本の白い支柱の上あたりに延びる筋雲に目を移しました。
 「ほら、二河白道のたとえがあるだろ」と弥勒寺さんは続けます。
 「ええ」
 「炎の河と水の河に挟まれた一本の白い道、それが極楽に至る念仏の道だというのだけど、宇宙船から眺めると、きっと瀬戸内海に架かる3本の橋はそのようにも白く美しく輝いて見えると思うよ」
 そう言う弥勒寺さんは橋には無関心な風にタバコを取り出して火を点け、フッと白い煙を顔の前に吐き出しました。
 「そうですかねえ」とわたくしは俄かには賛成できません。「美しくは見えても、誰も念仏を連想しないんじゃありません?」
 「イヤ、1つの極楽の光景に見えるんじゃないの」と弥勒寺さん。「つまりさ、そこにある種の達成感を得ることは間違いなかろう。神を感じると言ったところで、それはもう人間の手で飼い慣らされてしまった神だものね。要するに、天国であれ極楽であれ、人間の夢の実現だわな。地球を飛び出して初めて見える夢の世界に、何か悲しい宿命を感じてしまうけどね。まあ、それはまだ一部の人の体験にすぎないけれど、それが日常化したときの人の感覚を想像すると、ちょっと怖いものがある」
 「今のままではと言うことでしょ?」とわたくし。
 「もちろん、そうさ」と言って、弥勒寺さんは澄み切った、その遠い彼方に宇宙船が飛行しているであろう秋の空を仰いだものです。