他力本願
真宗用語の中で最も乱用かつ誤用されているものといえば、やはり「他力」が挙げられるでしょう。政治家がちょくちょく「今の世の中は他力本願ではダメだ。自力で行くべきだ」などと発言し、本願寺がクレームを付けたといった記事とか噂とかを目や耳にしたことが、誰しも1度や2度はあるはずです。
「他力」は確かに現代人には不人気な言葉の1つです。そもそも学校教育で「自分の意見をはっきりと述べなさい」とか「自己責任で物事をやり遂げなさい」と学んでいる現代人にとって、「他力」と言うと、まるでその逆方向にベクトルが向いているように見えるに違いありません。
しかし、理屈を言えば、それも「他力」の「他」を「他人」の「他」と勘違いするところから生ずる誤解であって、「他力」の「他」は実は「仏」、具体的にいえば「阿弥陀仏」のことなのです。
阿弥陀仏の本願力が「他力」であって、それは「念仏を称えた人で1人でも極楽に行けない人がいるならば、私は悟りを開かない」と誓った阿弥陀仏が阿弥陀仏として存在しているからには、つまり仏になっているからには、人は誰でも念仏を称えるだけで極楽往生できるのだという信仰に基づいているのです。
「そこがまた難しいわね」とあなたは言うかも知れません。「信仰心があれば、そう聞くだけで信じる気になるのかも知れないけれど、ない場合、屁理屈としか聞こえないもの。いや、そもそも理屈になっていないでしょ」
それに対して、
「理屈になっていないからこそ、信ずるに値するのではないだろうか?」とわたくしは言いたいのです。「理屈として通ずるのであれば、せいぜい人間理性の範囲内のことでしょう。それを超えて信ずるところから、生死を超えた生き方が促されるのではなかろうか」
「不合理ゆえにわれ信ず…か」とあなた。「なんだかキリスト教の世界観みたいね」
「信仰・信心の構造はどれでも大同小異だと思うな」
「じゃあ、どれでも構わないってこと?」
「信ずるという一点に絞ればね」とわたくし。「極端に言えば、仏教でもキリスト教でも、オウムでもカナリアでも、信ずること自体にそれほど差異があるとは、少なくともボクは思わない」
「じゃあ、なぜあなたは仏教なの?寺だから?しかし、それでは主客転倒でしょう。日本はもともと仏教国だからと居直るのでは、これまた、信教の自由を侵すという法律違反になるしね」
あなたとはビルのネオンがよく眺望できる、都会の夜の屋上喫茶で話をしているのです。そこは人工島で、南を向くと黒い海に夜光虫のような灯りが揺れ、さらに沖合に第2の人工島が造成されているのです。
「人は一生、あるいは24時間、『信』の中に浸り切るわけには行かないと思うんだ」と言いつつ、わたくしはフルーツパフェをスプーンで掬いました。誰が何と言おうと、喫茶店に寄る3度に1度はパフェを注文しないことには、わたくしは落ち着かないのです。「夢から覚める時がある。その時、いわゆる日常人の脳に訴えるに足る理屈があるか否かによって、その宗教のレベルが分かるのじゃなかろうか」
「と言うと?」
「要するに、現代科学文明の中に溶け込めるか否かでしょう」
「真宗は溶け込める?」とあなたはいささか嘲笑のまなざしです。
「もちろん!」とわたくしは断言し、もう1掬い、パフェを口にしました。「教団の語り口調が余りに古色蒼然としているから分かりにくいだけで、ほんとは実に現代的なのだとボクは信じて疑わないね」
インドで起こった仏教は、個人の悟りをめざすものでした。しかしそれはきわめて小さな乗り物(=小乗仏教)だと批判され、人々全体の救いをめざす大乗仏教の流れが、紀元前後に勃発しています。それはいわば救う側に立った論理とも言えるものでしたけれど、逆に救われる側の論理が、親鸞に至って大きく花開いたのだと、わたくしは了解しています。
そしてそのキーとなるのが、「悪人」の自覚に他ならないと考えているのです。悪人というと、煩悩熾盛の凡夫、つまり内面に巣食うマイナス感情を指すのだと普通考えられていますけれど、そしてそれは決して間違いではないと思いますけれど、そこにとどまるものではないのです。
「人間とは社会的存在である」といった定義もまたしばしば語られるところで、その社会が資本主義経済に基づいた競争社会である限り、「欲望」の肯定は不可避の事態でしょう。それを「煩悩」、さらには「悪人」と自覚するところから、新たな世界観が広がるのではないでしょうか。
「それは欲望にブレーキをかけることに等しいでしょうね」とブラックのままのコーヒーを飲みながら、あなたの反応は冷ややかです。「それを受け入れた時から、その人は競争社会から1歩々々脱落して行くしかなくなるわ」
「ある意味ではそうかも知れない」
「結局、不満分子の心の慰めどころになるだけじゃない?」
「そうかなあ……」
「そうなのよ」とあなたは確信ありげです。「社会から1歩身を引いているあなたにはその実感が薄いかも知れないけど、わたしには分かる。だって、バリバリのOLだもの」
「なるほど」とわたくしは広い窓に映った夜の空と海に目を移しました。「だけど、山に入ると木々の1本々々はよく分かっても、全体は分からないってことも言えるだろ。離れて眺めた方が分かることもある」
「岡目八目…ね」
「まあ、そういうことだろうね」
「でも宗教って、結局、最終的には理屈じゃないでしょ?どれだけのめり込めるかでしょ?」
「そう。信じ切れるか・切れないかってことだろうな」と、むろん、わたくしも認めざるを得ません。「だけれども、ちょっと説明しがたいところだけど、ただ無造作に飛び付くのは危うい。ボクらには理性があるんだから、冷静な試行錯誤を重ねて、ギューギューと詰めに詰めた上で、そりゃあ、最後はお任せの境地に至るほかなかろう」
夜は今、ビルの外に静かに広がっているのです。もう暗くて見えない眼下の緑深い臨海公園は、つい数年前まで、恋人たちの格好の溜まり場でした。ところがそのすぐ沖合に第2の人工島の造成が始まって、広い遊歩道からウソのように人影が消えてしまったのです。エスカレーターを倒したようなムービング・ロードをいくつも乗り換え、夕刻にあなたと第2人工島に赴くと、整地されたまま雑草の広がる、道路もまだ石ころの目立つ平地の向こうに、かすかに海の気配が香るばかりでした。
これからね、と、造成地の真ん中にポツンと建ったビルの眺望台で激しい風に髪をなびかせながら、あなたが言いました。いずれここも人でにぎわうでしょうけど。
しかし、ここはまだ夜は寂しすぎるな、とわたくしは答えたのです。アベックコースとしては遠すぎるしね。
その時、靄がかかった南の空から幾度となくジェット音が聞こえたものです。それは海の向こうの空港を離発着する飛行機が空に残す、爪痕のようなものでした。
夜、厚いガラス窓を隔てて音は遮られていても、星かとまがう仄かな閃光がその飛行の痕を依然、今は露わな宇宙のほんの隅に残して漂っています。
「あれが自力の姿だ」とわたくしは独り言のようにつぶやきました。「凄いといえば凄いけれど、空しいといえば空しいよなあ」