仏師
 
 「夢殿の救世観音を見ていると、その作者というような事は全く浮かんで来ない。それは作者というものからそれが完全に遊離した存在となっているからで、これは又格別な事である。文芸の上でもし私にそんな仕事でも出来ることがあったら、私は勿論それに自分の名など冠せようとは思わないだろう」という志賀直哉の文を小林秀雄が『私小説論』で引用していますが、長年、わたくしが気がかりだった言葉の1つです。それが私小説理論の究極かどうかはともかく、むしろ、わたくしには仏師と仏像との関係を考えさせて止まなかったのです。
 救世観音であれ何であれ、その作者が念頭に浮かばないのは、作者にその気があった・なかったの問題ではなかろうと思うのです。運慶、快慶、あるいは定朝など名の知れた仏師の方がむしろ例外で、仏を彫るとは実は個人・個性を超える営みではなかったでしょうか?
 生垣で正面が囲まれ、芝生に陽が降り注ぎ、玄関を入るとそこは和室なら20畳もあろうかと思われる、壁に暖炉の形の棚を付け、彫刻を置いて、何枚も額に入った画を掛けた、アトリエにもなる広間を持ったご門徒がいます。色白で、赤い口紅の印象的な顔立ちの中年の奥さんは多種多芸の人です。殊に日本画に凝り、広間の奥の仏間に入ると仏壇の周囲には額入りの画が所狭しと立てかけられています。観音画が床に掛けられているのを眺めつつ、
 「これもご自分で描かれたのですか?」と、読経後わたくしは尋ねてみました。
 「ええ」と奥さんはお茶と和菓子を出しました。「なかなか上手に描けません」
 「いやあ、さまになっているんじゃないでしょうか」と背を反らして改めて眺めたわたくしは、少なくとも自分にはこうは描けないと考えて言いました。
 「仏画は本当に難しいです」と奥さん。「特にお顔が難しい。ですから、仏画を描く前には必ず手を水で清め、般若心経をおつとめしています」
 「なるほどねえ。そういう清浄な時間は気持ちの良いものでしょうねえ」
 「そうなんですよ。私らの描く画では仏様に申し訳ないと思うんですけれど、何とも言えず清らかな心持ちにさせていただくのが嬉しくて、非才も顧みず、性懲りもなく何幅も描いています」
 なるほど、床に掛かった観音画はいささか顔が大きく、頬もボッテリと丸すぎて、俗っぽさを抜け切れているとは言えません。
 「でも、少しずつ進歩するのがこうして形に残ることはいいことですよね」
 「そうなんですよ」と奥さんは、わたくしが飲み干した湯飲みにまた茶を注ぎます。「仏様には悪いのですが、それも仏様なら大目に見てくださるだろうと思っています。そうすると感謝の気持ちが湧いて来て、また描きたくなるのです」
 「なるほどねえ」とわたくしは、しげしげと観音画を眺めながら、この奥さんは気性が激しいとの専らの噂だという、かつての母の言葉を思い返したものです。何が原因か父が盆・報恩講のおつとめに行くと追い返されることが続き、とうとう父は行かなくなったというのです。父の死後、わたくしが初めて訪れた時、
 「先代から何か聞かなかったですか?」とご主人が尋ねました。
 「いいえ」とわたくし。
 「そうですか」と言ったぎり、ご主人はもうその話題に及ぶことはなく、その後、奥さんともども決して愛想が悪くありません。
 「そうなの?」と母は意外そうです。「寺の代が変わったから、気持ちを入れ直しちゃったんじゃろ。昔はそういう人たちじゃあなかった」
 「まあ、ええが」とわたくし。「オレには関係ないことだ」
 しかし、オレには関係ないと言えるのも若いうちで、実は全てが関係しているとつくづくと実感されるこの頃です。バタフライ効果という理論だと、たとえば北京で飛んだ蝶々がニューヨークの地震の原因にもなるとのことですけれど、どこかまだ、関係の奥に第1原因を探るといった趣が匂われてなりません。そうではなくて、全てが全ての原因でもあり、また結果でもあるというのが、「関係」なるものの本来の在り方でしょう。それが「空」でもあり、「無我」とも「無常」とも言い得るものではないでしょうか。
 「うん」とX氏は生返事をしたなり、仏間の仏像を腕組みをして見ています。「阿弥陀さんか?」
 「そう」とわたくし。「真宗の阿弥陀さんは親指と人差し指で印を結んでいるんだけれど、この阿弥陀さんは親指と中指で結んでいるだろ」
 グッと身を乗り出したX氏は、
 「なるほど」と確認し、「それで?」と続きを聞きました。
 「それだけ」とわたくしは言って、コーヒーに口を付けました。
 ご門徒の婦人が寄進された阿弥陀像は丈が1メートル30もある大きなもので、本堂のものでもその半分くらいしかありません。ただ蓮台が幾重にも重なった造りだから、見た目に同じに見えるだけなのです。
 8畳の仏間に置くには大きすぎたのですが、他に適当な場所がなかったのです。穏やかながら研ぎ澄まされた半眼といい、ほのかな笑みといい、また、繊細な指の彫り出し・衣の襞の流れ等々、素人目にも尊く見える仏像です。
 婦人の経営する幼稚園の講堂の朝の礼拝の対象だったとのことですけれど、子供のいない婦人は経営を人手に譲るか閉鎖するか思案した末、後者の道を選んだのでした。
 「それが父母の願いでもあったと思いますのよ」と、無事、仏像を寺に安置した後、婦人は語ったものです。「本当に信心深い父母でしたから。わが家が繁栄できているのも、この仏様のおかげだから、常に仏様を中心に物事を考えないといけないと、いつも申しておりました。そりゃあ、ご住職、空襲を受けたときにも一番に仏様を防空壕にお移ししたおかげで、うちだけ火災を免れましたのよ!」
 それは、わたくしがすでに何度か聞いた逸話でしたけれど、そういう時の婦人の唇には強い語気が漂い、顔が揺れるほどでした。とうに70才を過ぎていても、色白で、目が弱いのかレンズの上半ばまで薄紫色のメガネをかけた婦人の表情といえば、どうしてもその口元にわたくしの注意が集まらざるを得ませんでした。
 「ご住職、仏様の力は偉大ですよ!」
 「はあ」
 「ご住職はまだお若いから、失礼ですけれど、まだ仏様の本当の力が分かっていないと思います」
 「そうかも知れません」
 「そりゃあもう偉大です!」と婦人はまた唇に力を込めて言いました。
 そんないきさつにはあまり興味が湧かないのか、
 「うーむ」とまた腕を組んで、X氏は阿弥陀像を眺めました。「確かに優れた仏像が信仰心をかき立てることはあると思うな。単に美的に眺めただけでは、その本当の姿は見えて来ないだろう」
 「彫った人にも、信仰心はあったでしょうね」
 「そりゃまあ、当然の話だわな」
 「ボクは最近、仏師の精神生活に関心がありますね」
 「と言うと?」
 「だって仏を彫るわけでしょ?悟った人を彫るのだから、まるでそういうことに無感覚なはずがない。だけど悟った人でもない。いわば非僧非俗の1つの典型でしょう」
 「まあ、そういうことだろうなあ」
 「要するにノミの先が仏を彫り当てて行くわけです」
 「そうねえ」
 「そうして出来上がった仏像が今度は仏師を励ますことになる」
 「そうねえ……」とつぶやきながら、相当気に入ったのでしょう、X氏はきらびやかな金色の宮殿に安置された、長い歴史を経て黒ずんだ阿弥陀像にいつまでも眺め入っています。そして線香が尽きたことに気づき、ろうそくの炎で火を点けてまた1本、香炉に添え、
 「ここでこんな仏に出会えた不思議を感ずるなあ」と言いました。「オレは信心家じゃないけど、世の中には確かにオレたちの理解を超えた不思議が存在すると思う。理性を取っ払うことなく、そういう不思議を喜ぶ謙虚さが必要なんだろうな」