宇宙旅行
 
 法泉寺さんの寺はもともと猿鳴峡と呼ばれる山の中にあったのですけれど、門徒が次第に平地に降りて行き、とうとう20年前、寺院の移転を決断したのです。と言っても平地ではなく、平地を見渡せる山の南斜面に、本堂、庫裡、墓地、会館が次々と造られたのです。
 わたくしが山の麓の大池を巡って谷に入り、狭い山道をグルグル走ったあと、大道山法泉寺と彫られた高い石柱を過ぎて南に出ると、そこは明るい日の降り注ぐ境内の中でした。車を降りて眼前に青みがかった街と田畑を眺めていたわたくしに、
 「おいでなさい!」と庫裡の2階の窓を開けた法泉寺さんが呼びかけました。「本堂に入って下さい。左手に座敷があります」
 本堂の重い鉄の扉を開けると外陣が広がり、なるほど、その左手に8畳2間の部屋が廊下を隔ててありました。
 「初めてですよね」と奥から出て来た法泉寺さんが言いました。
 「ええ」とわたくし。
 「分かりましたか?」
 「地図とにらめっこしてから出かけましたからね。電話の話だけだと、まちがっていたかも知れない」
 「山の中だからなあ」と言って、法泉寺さんはテーブルの前に座布団を出しました。「どうぞ」
 「ありがとうございます」
 わたくしに続いて法泉寺さんも坐って、煎茶の支度をしながら、
 「今年の秋はまだ暖かいけど、例年、この時期になると冷たい西風が吹き付けるんだ」
 「今年は異様に暖かいですよね。今も車の中で汗ばみました」
 「梅や桜が咲いているらしい」
 「ボクも門徒の家の庭先にサツキが咲いているのを目撃しました」
 「狂い咲きか。いよいよ地球も狂い出したのかなあ」と言いつつ、法泉寺さんはわたくしの前に出した煎茶茶碗に茶を注ぎます。
 「この程度では地球はビクともしないんじゃないですか」とわたくし。「要するに人間が住めなくなるだけで、人間がいなくなって1億年もすれば、また素晴らしい環境に戻りますよ」
 「そりゃそうだ」と法泉寺さんは笑います。「所詮、人間は人間という限界から逃れられないからなあ。とすれば、宇宙に飛び出すってことにはどういう意味があるんだろう?」
 「さあ」とわたくしは煎茶を口にしました。「今の科学技術は生命を扱うノウハウがまだ十分蓄積されてないんじゃないでしょうかね。ところが、生命を、しかも人間をいわば科学技術の粋のようなカプセルに乗せて、ポイと地球の外に放り出しているわけでしょ。まだまだ先は長いですよね」
 「今からいろいろ実験しておかないと、いざという時に困るわな」
 「いざという時って何ですか?」
 「そりゃあ、たとえば今の爆発的な人口増加だと、たちまち地球だけでは面倒みきれなくなるだろう」
 「火星に行くとか?」
 「ありうるだろうな」
 「それならなおさら、生命を扱うノウハウが変化しないとダメでしょうね」
 「だから、今は物理学より生物学の方が面白いらしい」
 「イヤイヤ、発想の根本が生命を扱うのにふさわしくならなくちゃあ……」
 「と言うと?」
 「それこそ仏教的発想が有効なのではないでしょうか?たとえば、縁起というのは、全てを関係の中で捉えることですよね。生命って、結局、そういうものだと思うんですよ。かつて生まれて来て、今生きていて、いずれ死んで行くこと自体、縁起のなせるわざでしょう。ところが、現代社会は『今生きている』ことだけに囚われすぎているじゃないでしょうか。だから科学技術は、生きている、しかも人間のためにしか応用が利かない。その結果、たとえば地球が疲弊して、人間が困る原因ともなっているわけでしょ」
 「なるほど」と法泉寺さんはグイと煎茶を飲み干します。「向井さんが2度宇宙に出たと言っても、われわれの宇宙旅行はまだまだ遠い先のことか」
 「単なる旅行なら分かりませんよ」とわたくしは思わずニヤリとしたものです。「ひょっとしたら、冥土の、いや浄土の土産に持って行けるかもしれない」
 「オレは1度行きたいなあ」と銀縁メガネをキラリと光らせて、法泉寺さんは笑います。「生きているうちにいろんな体験をしたいって欲望がある。あなたはない?」
 「もちろん、ありますよ」とわたくしも笑いました。
 「ああ、いかん。遅れる!」と腕時計に目を落とした法泉寺さんが叫びます。「出かけましょう!」
 「役僧さんは?」とわたくし。
 「直接、行ってもらっている」
 葬儀のやり方は1つ山を越えるともう違い、2つ3つ越えるとまるで違う面があると言います。一般の人には大差があるとも思われない手順であっても、実際の執行者となると厄介な問題も出て来るのです。
 たとえば葬儀の際中に役僧がジャンジャンジャン!と鉢を叩く地方は、他にはないそうです。僧侶も導師のほかに副導師が加わることが多々ありますが、これも珍しいそうです。浄土真宗には本願寺から出ている葬送勤行作法がありますが、作法通りには行かないのが実状でしょう。
 他宗の葬儀にまれに参列すると、やり方がまるで異質ですけれど、いずれにせよ、一般の人にとって故人を送る「儀式」であることがその第1目的に違いありません。いろいろ宗派独自の理屈を付けたところで、黙って聞き流されるだけなのです。もちろん、だからといって何でもいいのではなく、それでも理屈は必要なのですけれど。それはちょうど、「信心」がまず不可欠なのだけれども、「聴聞」が求められるようなものかも知れません。弥陀の本願に帰入された親鸞聖人が、それ以後ずっと「教行信証」の推敲・完成に心を砕かれたことも同じ脈絡で頷けるところでしょう。
 「もう1人の副導師は誰ですか?」と庫裡を出て車に急ぐ法泉寺さんの後を大きなトランク(葬儀に必要な法衣と法具が入れてあるのです)を手に持って追いつつ、わたくしは尋ねました。
 「あなただけ」と小型のワゴン車に自分のトランクを投げ入れ、わたくしのトランクを受け取りながら、法泉寺さん。
 「?」
 「ここいらは副導師が1人の葬儀もけっこうあるんだ」
 「ははあ、なるほど!」
 「役僧も1人。だから世話が大変だ」
 「なるほど、なるほど!」と頷きながら、わたくしは法泉寺さんの車の助手席に乗り込みました。