Kの自殺
 
 ソファに横になってボンヤリとテレビを見ていたわたくしは、うつ伏せに寝返り、畳の間の炬燵台で雑誌を見ている長女に向かって、
 「また『こころ』で発見があった」と言いました。「聞きたい?」
 パッとファッション雑誌を置いて駆け寄って来て、
 「ウン、ウン、ウン!」と長女は頷きました。
 「Kがいるわな」
 「ウン、ウン!」
 「先生の隣の部屋で自殺しているわな」
 「ウン、ウン!」
 「先生の部屋との仕切りのふすまを開け放したままで自殺しただろ」
 「そうだったかしら?」
 「教科書を持って来なさいよ」
 「ウン、ウン!」と頷いた長女は、自分の部屋から高校2年の国語の教科書を持って来て、わたくしに差し出しました。
 「ほら、ここに、『いつも立て切ってあるKと私の部屋との仕切りのふすまが、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い影はそこには立っていません』とある。つまり、Kは自殺する前ジッと、寝ている先生を見ていたわけだ。Kはどんな気持ちで先生を見ていたんだろう?」
 「ゾー」
 「開け放したまま自殺したところに、Kの先生に対するメッセージが込められていたんじゃないのかな。だから、先生は『枕元から吹き込む冷たい風でふと目を覚ました』わけだ。そして『暗示を受けた人のように』起きたわけだ」
 「ゾー」
 「『もう取り返しがつかないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました』とあるけど、いわばKの呪いにかけられたようなものだわな」
 「気持ち悪い」と肩をすくめる長女の向こうから、キッチンで後片付けしていた妻が、
 「あなた、そんなことを女学院の生徒に教えているの?」と言います。
 「悪いか?」
 「それはあなたの意見だとちゃんと断って言っているんでしょうね」
 「オレの意見だと悪いのか?」
 「それが本当だと信じたら、生徒がかわいそうでしょう」
 「話にならない」とわたくしはムッとしました。「優れた文学であればあるだけ、さまざまな解釈が可能なんだ。それを杓子定規な解釈だけ教えたんじゃ、それこそ生徒がかわいそうだ」
 「今日、駅でサユリちゃんに会った」と長女は、女学院に通う幼な馴染みの子の名を口にしました。「サユリちゃんも怖かったって言っていた」
 「それ、ごらんなさい」と妻。
 「あなたの言うような意味じゃないよ」とわたくし。「そうだろ?」
 「ウーン」と長女はあいまいな返事しかしません。
 それ以上は娘には語りませんでしたけれど、Kが真宗寺の息子であることもわたくしには意味深長に思われます。「肉食妻帯」を是とする真宗寺に生まれ育ったからこそ、若いKは「欲を離れた恋そのもの」も否定するほどの「精進の道」をめざしたのではなかったのでしょうか?
 仏教に惹かれつつも、自分の身近でありすぎた浄土真宗は、いわば自己確立のための否定的契機、つまりジャンプ台だったように思われてなりません。しかしジャンプし損なったKは、お嬢さんへの恋に、つまり「肉食妻帯」の道に戻ろうとしたのです。
 「お寺さんというあなたの立場からすると、そういう解釈も成り立つのかも知れないけれど、ボクは反対だな」と女学院の皿山先生は言いました。「志賀直哉がプロレタリア文学を提灯持ちだと批判したように、文学に文学以外の目的があってはいけないと思う。少なくとも漱石はそういう人でしょう」
 「ボクの解釈はさておき、漱石自身、確かどこかで『芸術的なものは倫理的であり、倫理的なもの芸術的である』と言っていますよね。芸術は単なる芸術で終わるものではないという意識が、漱石にはあったと思いますよ」
 「それはそうだけど、それをあなたの言うような形でKに当てはめるのはムリがあるんじゃないかな」
 「不可能ではないでしょう」とわたくしも引き下がりませんでした。「優れた作品ほど作者の意図を超えた読みが可能ですよね。『こころ』は語り手を通して描かれているだけに、語り手の向こうにさまざまな世界を構築できるだけの深みと魅力を備えた作品じゃないでしょうか?」
 「ウーン」と皿山先生は自分の机の前で腕組みをしたまましばし沈思黙考の構えです。そして、
 「やっぱり極論じゃなかろうか?」と言いました。
 「極論でもいいじゃないですか」とわたくしは、北向きの窓枠に光るグラウンドに響いている、若い、ひたむきな喚声を耳にしながら言いました。「自分のためになる読みであれば、それでもいいでしょう」
 童話作家としても知られている皿山先生は、純真な笑顔を見せながら、
 「いやあ、ボクはそこまで大胆には振る舞えないなあ」と言いました。「ひょっとすると、そういうボク自身、文学という枠に囚われているのかなと、あなたの話を聞きながらフッと感じはしたけれどね」