本願寺
 
 蓮如上人500回遠忌法要を「BIG FIESTA 500」と銘打っているからには、本願寺でもそれを1つのフェスティバルととらえているのでしょう。わたくしの地域の本願寺会館の館長が「浄土真宗では500回遠忌ともなれば、慶讃法要(つまり、よろこびの行事)ですよ」と口にしたことがありますけれど、それも間違いないことでしょう。真宗教義によれば、上人は極楽往生されているのですから。
 1日3000人の参拝者が100日集う予定ですから、計30万人に及ぶ数となります。それは、言ってみれば1年間をかけての祝祭なのです。
 秋が深まる11月上旬、わたくしの地域でもバス10台を連ねて400人の団体で参拝したところです。いろいろな集合場所でご門徒を乗せて、高速道路に入って最初の休憩所で檀那寺のバスに移ってもらい、昼前にはもう京都に到着していました。山科にあるホテルの地下ホールで昼食を取った後、琵琶湖の西を走る高架道路を通って、午後は比叡山の見物です。1000メートル弱の山ですが、一面杉木立に被われた急峻な斜面は、確かに厳しい仏道修行にふさわしい環境です。水色の大気の広がる水平な湖面が見渡せるだけに、とりわけその感が深まるのです。
 そもそも奈良仏教では葬式を執り行わないとのことです。南都六宗と言われた三論・法相・華厳・律・成実・倶舎はいわば学問仏教でした。山にこもった比叡山延暦寺の天台宗を母胎にして禅宗、浄土宗、日蓮宗等々、日本仏教の数々が生み出されたことに、誰しもが深い暗示を受けるはずです。「山」は確かに日本人の心のふるさとなのです。だから、平地に降りた、たとえば浄土真宗にせよ、山号を持っています。西本願寺なら龍谷山ですし、親鸞聖人をご開山と称することは茶飯事です。
 ドライブウェイを走って横川中堂でバスから降りると、さすがに冷気が肌にまとわりつき、上着の下にジャケットを羽織って出たのは正解だったとわたくしは思ったものです。今まで何度も比叡山を訪れていますが、横川中堂は初めてです。恵心堂にも行きたかったのですけれど、記念写真を撮ったこともあって、時間的にムリでした。400人の、それもお年寄りが大半の行動となると、至るところで時間のムダが生じ(それはまた、必要なことでもあったのです)、引率者の1人のわたくしは、結局、殆ど見物できませんでした。
 「猿に注意」という標識を道路端にたびたび見かけ、山の深さを感じるとともに、根本中堂のある中心地域に着くと、観光化していると改めて実感しました。観光バスでドライブウェイを走って訪れたわたくし自身、それを否定するものではありませんけれど、蓮如堂なるものをわざわざ大々的に宣伝しなければならないものか疑問です。確かに根本中堂の奥の谷を少し下った地に蓮如上人が17才から22才まで修行したという建物があるにはあるのですが、取って付けたような代物です。
 そう言えば、入場門を入って最初に目に付く大講堂の中には、親鸞、道元、日蓮といった各宗派の宗祖が一堂に会しているのも、違和感を拭い切れません。「延暦寺を訪れる大半の人が他宗の人だからなあ」と弥勒寺さんは、わたくしの隣で笑ったものです。案内人の1人は、「実はわたしも真宗門徒なのです。延暦寺にお世話になっていますが、わたしも蓮如上人の法要にはお参りさせてもらいました」と親しげに漏らしてもいるのです。
 「ちょっとやり過ぎの感があるけれど、これも1つの道ですね」とわたくし。
 「あなたは近ごろどうも現状維持派だなあ」と弥勒寺さん。「いつからそうなったの?」
 「葬式とか門徒制度とかを肯定し出してからでしょうね」
 「肯定するのは構わないけれど、そこにあぐらをかくのは問題だな」
 「その差はどこにありますか?」
 「布教しているか否かでしょう」
 「ボクもそう考えています」と答えたわたくしは、頭が一瞬、カッと熱くなりました。
 しかし、ご門徒という衆人環視の中で議論をふっかけるわけにも行かず、黙って弥勒寺さんに続いて同じバスに乗り込み、夕焼けに染まる京都の街に降りて行きました。
 市内は大変な渋滞で、ホテルに到着した時には暗い雲が低くたれ込め、窓明かりやイルミネーションが鮮やかに街を彩っていました。こんもり茂る東山の麓に都ホテルが見え、南禅寺の山門の甍が家並みの上に覗いています。街のここかしこに木々の緑が窺えるのは、景観保護条例のおかげに違いありません。
 遠く南に白い京都タワーがひときわ高く立ち、それを囲むようにこれまた高い京都駅ビルが、城塞のようにヌッと聳えています。あれだけ高いビルが次々と林立すると、街並みがガラリと変わるだろうと思いつつ目を移すと、中心街にも1棟、高層ホテルがありました。
 「観光か経済か、難しいところだな」とホテルの浴衣に着替えた弥勒寺さんが言いました。
 「だけど、京都は観光がすなわち経済の街でしょう」とわたくし。
 「全体的にはね。だけど、個々の企業となると、観光行政の枠にはめられると、やって行けないところも出て来るのじゃないのかな」
 「そうした得手勝手が街全体をつぶすかも知れませんよ」
 「そりゃそうだ!」
 けれど、バスの窓から眺めた街角には小商店が軒を連ね、どこか人の温もりの感じられたものです。むしろ地方において、郊外に大店舗が展開され、人が車で買い出しに出かけるアメリカ風の生活が広がりつつあると、その時わたくしは感じました。
 日本的風物のいろいろ残る京都にあって、その寺の多さは何と言っても圧巻です。ものの5分も車で走ると、必ず通りのどこかに境内が見え、甍が聳えているのですから。
 翌朝9時過ぎに西本願寺の駐車場に着くと、参拝者でごった返し、仮設の物産店と食堂が広い駐車場の半ばを占めていました。バス毎に並んで境内に向かい、記念写真を撮った後、正面にテントを張り渡した御影堂の、指示された3番ゲートから入場し、3000以上並べられたイスの1つに腰かけて、法要の開始を待ちました。太い柱が邪魔して内陣は見えにくく、何台ものテレビが設置されています。笙やひちりきといった雅楽の音とともに、色衣姿の僧侶たちが次々と入場し、最後に紫色衣の門主が登場しました。
 颯爽たる紳士の雰囲気が漂っていた門主も、前門主に似て頭の上が禿げて来る年齢にもう達しています。気苦労が多いと円形禿げになるという話をその時ふとわたくしは思い出しましたけれど、むろん、門主の場合は遺伝的要素の方が大きいのでしょう。
 「いや、分からないよ」と後で弥勒寺さんは笑ったものです。「大谷家は最後の貴族と言われているからなあ。一般庶民のように気楽には行かないだろう」
 「親鸞聖人の末裔が最後の貴族というのは歴史の皮肉ですかね?」
 「歴史ってそういうものさ。天皇が天皇たるゆえんも、ただ昔から天皇だったということが最大の理由だもの」
 「なるほど」
 「それだけ、何事であれ、続く・続けるというのは大変なことなのだろうけどね」
 法要の中心は全員でおつとめした正信偈でしたけれど、そこが昨日訪れた延暦寺との一番の違いでしょう。儀式化しているにせよ、西本願寺には浄土真宗の門徒が集っているのです。そしてみんなで正信偈という蓮如上人の定めたおつとめをし、バスに乗り込んで帰って、とっぷりと日の暮れた郷里で別れる際には、
 「おかげさまで今日はいい縁に預かれました。ありがとうございました」とご門徒は言うのです。
 「それを否定するのは傲慢だ」とわたくし。
 「そりゃそうだ」と弥勒寺さん。「けれど、大半の人にとってはやっぱり観光の1つじゃなかったかな?」
 「だけど、ただの観光とは違うでしょう。全くその気のない人は参加しないはずだから」
 「それは、信仰と言っても、きわめて受け身な形だね。門主が都会に出た子や孫にも仏壇を持たせて欲しいと言ってたよね。都会に出た人々に真宗門徒の意識が溶解しているから出た言葉だろうけど、仏壇を持たせるという発想自体、受け身でしょ?」
 「それでもいいんじゃないですか」とわたくし。「そういう形式的な、いわば習俗化した宗教も必要だと思いますね」
 「やっぱりあなたは現状維持派になったなあ!」と弥勒寺さんは笑いました。「それは身も心も中年になった証拠かも知れないよ!」