若き修行僧
 
 浄土真宗には報恩講という行事があります。開祖・親鸞聖人の恩に報いるための講というのがその由来で、本願寺第3代門主・覚如に始まるとのことです。西本願寺では親鸞聖人の命日の1月16日(新暦)に合わせて行なわれますが、各地の真宗寺院でも冬に行なわれ、それと前後して門徒の家を1軒々々お勤めして回るのです。
 わたくしが今年の報恩講参りを始めた日は実に久々の秋日和でした。あるいは今年初めての秋日和と言ってよいかも知れません。それほど天候不順の長雨が続き、そのクライマックスが台風の直撃でした。たいてい台風は西か東に逸れてくれる土地柄なのですけれど、今年最後かと思われる台風が夜この地の上を通過し、A川の土手を走ると、川州は深くえぐられ、樹木は根を宙にさらして横倒しです。橋の下の車が何台も川に流されて、車の中の人は救急隊によってやっと救い出され、全国版のニュースにもなったとのことです。
 「そりゃまた危険なところに駐車してたものですねえ」とわたくし。
 「いやね、ホームレスがいたんですよ」とご門徒。
 「なるほど、だけど洪水に気づかなかったのですか?」
 「真夜中でしたからねえ。それに奥のダムの水を流したという噂もあります。急に水かさが増したから、耐え切れなくなって放流したんでしょう。放流する前には土手をアナウンスして走ったらしいですが、ぐっすり寝ていた者には聞こえませんわなあ」
 「こちらに来る途中で、川を眺めましたけれど、凄かったですね」
 「わたしも50年ぶりですなあ。50年前に土手半ばまで水があふれたことがありましたけれど、それ以来です」
 台風の去った翌朝、西向きの本堂の濡れ縁を見ると、奥深くまで水浸しでした。そのせいかどうか、濡れ縁の一部をシロアリにやられ、指の先にちょっと力を込めて押すとポロポロと朽ちるのです。改修したばかりの本堂が朽ちたのでは、わたくしの立場がありません。修繕すべきか否か、さんざんに悩み、本堂は古い面影を残そうと、その正面には極力、手を付けなかったのですから。
 「お寺の昔の境内地にこの前、仲間と行きました」と、報恩講参りで行くと、歴史好きのご門徒が言いました。「正面の石は石見石ですなあ」
 「島根の石見ですか?」
 「ええ、尼子が持って来たんでしょう」
 「ははあ!」
 「法界と彫ってありましたから、真言でしょう。お寺が真言の時期がありませんでしたか?」
 「ええ、あります!」と、ご門徒の推測が正鵠を射たことに、わたくしはいささか興奮しました。「もともと天台宗だったのが、鎌倉時代に浄土真宗に転向しています。それから一時期、真言になり、真宗に戻って今の寺号になったのが1580年です」
 「天正の頃でしょう。その頃、尼子と杉原とが激しく戦っています」
 「なるほど、時期は符合しますねえ!」
 「お寺というものは、当時は城塞の1つでしたからなあ」
 それは吉崎御坊とか石山本願寺を想起しても、容易に納得できる見解でした。近代以前の為政者の民衆支配に非常に有効だったのが宗教なのだろうとは、わたくしも前々から感じていたことです。情報網のそれほど発達していなかった当時、人々の内面まで支配するには、何と言っても宗教の利用が効果絶大だったはずです。しかし、「権威」ばかりではなく、「権力」においても宗教の力は大だったのです。大きな境内・伽藍は1つの立派な城と言ってよく、その影響力を恐れた城主は有力な寺院を放火して回ることもあったらしいのです。
 「権威って奴に日本人は弱いからなあ」と、それを聞いたX氏は言ったものです。「寺が今もって存続できているのも、そのおかげに違いない」
 「それはちょっと外れていると思う」とわたくしは言いました。「ただ、本願寺は代々親鸞聖人の子孫が継いでいるわけで、それは日本でもっとも強力な伝統、つまり天皇制を模したものだという意見はある」
 「2世タレントとか2世議員も多いよな」
 「テレビを中心とした情報化時代の産物だろうけど、共通点はあるかもね」
 「ある、ある!」とX氏は力説します。「とかく本人自身よりその付属品に目が行きやすいのが日本人さ」
 「本音と建て前と使い分けているとよく言われるけれど、だから、ある意味では本人が直接、批判される厳しさから救われてもいるわけだ」
 「無責任体系の温床だわな。また、いったんその集団からはじき出されると、村八分やいじめの対象になる」
 「裏返せば、だから言葉を超えた心の通い合いも出来ているんだろうけどね」
 「ところが、それが出来なくなったんだ。個人の独立が叫ばれ、その割には古い体質が色濃く残っているから、結局、エゴイズムの世界が至るところでむき出しになっただけさ」
 「何か日本の未来は暗いなあ」とわたくしは軽く悲嘆したのち、冗談ぽく付け足しました。「いよいよ宗教の出番かな?」
 「もう終わったよ」とX氏は冷淡です。「オウム事件以後、宗教を見る人の目が変わった」
 「そうかも知れない」と言いながら、わたくしは喫茶店の窓の外に見える、小高い丘の上の大きな伽藍を眺めました。長い石段を登って山門をくぐると広がる、改修されてまだ新しい、地階に会館を備えたその寺は、高校教師時代、教え子のOくんが出家した寺です。
 Oくんの家の宗派は真宗でしたが、空手を始めて禅宗に関心を持ち、その後、当時のブームだった密教系のこの寺で、高校2年の夏、得度したのです。
 高校生の出家ということで、ちょっとした話題になり、テレビでも放映され、担任のわたくしも出演しました。昼のワイドショーの特集として放映されたために、見た人も多く、当分、思いがけない人々からその話題を持ち出されたものです。
 「テレビの効果は絶大だったなあ」と卒業後、久しぶりに尋ねて来たOくんに言うと、
 「あれからまた出演以来があったんですよ」
 「ほう!」
 「視聴率が良かったので、『その後の若き修行僧』というテーマで撮りたいと言って来ましたけど、そちらの方面にはまりそうだったので断りました」
 「タレントとして名が売れたかも知れないものな」
 「ええ、そうなんですよ」
 実行力のあるOくんは大学時代の1年間、ネパールで修行し、その土産の1つである人骨(肋骨?)を見せてくれました。ネパールでは日常的に何かと利用していたのだが、日本に帰ると、さすがに使う気がしなくなったと言い、
 「先生、あげましょうか?」と勧められましたけれど、わたくしももらう気分にはなれませんでした。
 「その子は今、どうしているんだ?」とX氏が尋ねます。
 「宝塚市の真言の寺に入っているはずだ」
 「文字通り出家したわけか」
 「初めは親も反対していたけれど、そこまで行くと、もう寺を出られない。出るとかえって親に見放されるだろうと、言っていた。それに比べると、オレなんかノホホンとした坊主だよ」
 「いいんじゃないの」とX氏は冗談とも本気とも付かない表情です。「キミはキミで寺に生まれたこと自体が1つの運命なのだから、そこに居直ることも修行の1つさ」
 それには答えず、
 「出ようか」とわたくしは言いました。
 カランコロンとドアに付いた鈴を鳴らして外に出、石畳道を下ると、狭い通りの奥に長い高い石段が延び、山門の上に美しい曲線を描いて本堂の甍が見えます。鐘楼や白い塀ともども空に浮かびつつ、それは確かに1つの権威を漂よわせていました。