お墓の話
Q婆さんは、テレビ草創期の人形劇『チロリン村とクルミの木』に登場させたいほどのクリンとした目をした、丸顔の、両膝を痛めて乳母車を押して買い物に出かける婆さんです。町はずれで旧道がカーブしている、山の麓の古い墓場に囲まれた、トタン屋根の小さな家に1人住まいをしています。
今年の夏、わたくしが盆参りに訪れた時、ガタピシ引っかかる戸を開けて、もう日暮れ近い家の前でQ婆さんは待っていました。
「いつ来てくださるんじゃろうかと、何度もHさんの家に聞きに行きましたがな!」とQ婆さん。
「よそで話が弾んでしまって、遅くなってすみません」とわたくしはバイクを道端に停めながら謝ります。
「なあに、ええですが!ところで住職さん、あの話はどうなったんじゃろうかのう?」
「墓のことですか?」
「そうですが!」とQ婆さんはクリンとした目でわたくしを見つめます。
「お勤めがすんでから、相談しましょう」と言って中に入ると、中戸は閉じてあり、ベッドとタンスと仏壇で込み合い、もう座布団1枚敷く場しかない部屋の中はクーラーが利いています。
「狭いところですみませんのう!」
「いえ、いえ」と仏壇の前に座ったわたくしは、ろうそくに火を点け、線香を焚きます。
「わたしが家を空けると、物が1つ1つなくなって行くから、財布をいつも肌身離さず持っていますがな!」とQ婆さんと会うとまず聞く言葉を、その日も聞いたものです。
「ええ、ええ!」と答えて、5分ほど読経した後、ナムアミダブツ、ナムアミダブツと手を合わせ、
「出てみましょう」とわたくしは言いました。
Q婆さんの家のちょうど前の墓地の、旧道に面した一角が昔の建物が取り壊されて大きく空き、その1部を分けてもらいたいと婆さんは申し出ているのです。
「山の上の墓地はわたしの足ではしんどうて行かれないんじゃ」とQ婆さんはこの前と同じ愚痴を繰り返します。「それで住職さんの言われたように、上の墓地を売ってここを買わしてもらおうと思うたんじゃがな、上は1度売ったものだから、もう売れないと言うんよう!」
「誰が言うのですか?」
「業者が言うんよう!」
「なぜですか?」
「業者がそう言うんよう!」
「ははあ……」
「それでなあ、住職さん」と額の汗を手で拭い、もう1方の手で乳母車の柄を持って、わたくしをクリンとした目で見上げながら、「わたしは生活保護を受けている身じゃから、あれが売れないとお金が入らんのよう。じゃけど、墓が要るんよう」
「ええ、だから何ですか?」
「じゃから、この家はわたしが買ったもんじゃから、わたしが死んだらこの家を寄付したいんよう。それで墓地を分けてもらえんかのう?」
「上の墓地が売れないんですね?」とわたくしは確認しました。家などを担保にして何かの騒動に巻き込まれたくはなかったのです
「そうなんよう。それで困っているんよう」
「それじゃあ、いつか出来た時でいいですわ」
「それでええですか?」と言うQ婆さんの目は、つぶらに輝きました。「すまんことですのう!」
「仕方がないですね。ただし、他の人には喋らないでくださいよ」
わたくしとしては、墓地が欲しいと言って悪い足で何度も寺まで赴いていた門徒の申し出をむげに断るわけには行かないのです。
紐で肩から下げた布袋の中をゴソゴソ探った婆さんは、
「これは生活保護でもらったお金じゃから、少ないけど、代金の1部として受け取ってくださいのう」
「それはいけません」とわたくし。
「いや、わたしには子供が月々の生活費を送ってくれるから、それで暮らして行けるんじゃ。これは受け取ってくださいのう」
そんな押し問答の末、
「じゃあ、これだけはお気持ちとしていただいておきます」とわたくし。「ただし、もうお気遣いはいいですからね。何かの拍子に上の墓地が売れたら、その時に支払ってください」
「へえ、すまんことですのう」と言うQ婆さんの、夕陽を浴びても丸いままの目と、丸顔と、背中が曲がって丸くなった体を後にして、わたくしはバイクに乗って帰路に就きました。
Q婆さんの娘さんは病弱で療養生活、息子さんは四国在住とのことですから、婆さんの死後、その墓の世話をする人がいなくなるのは明らかです。だからと言って、墓地の譲渡を拒否するわけにも行きません。そうほのめかした途端、婆さんのクリンと丸い目が急にねちっこい光を帯び、
「わたしには譲ってもらえんのですかいのう?」と邪推されたことがあったのです。
「人は死ぬ。だから滅びない何かが欲しいのさ」とT氏が言ったことがあります。
「だけど、墓にせよ、いずれ風化しますよ」とわたくし。
「死後のことは死んだ人間には分からない。滅びないという幻想が必要なんだ。霊魂の不滅説が今もって強力に受け入れられているのも、そのせいだろうな」
「と言うと、墓がなくなった時、本当に仏教が信じられるようになったということですかね」
「そこの予測は難しいな」とT氏。「そもそも宗教が必要とされない時代になることでもあるわけだから」
「なるほど」
「キミは困るわな」
「困りませんよ」とわたくしは言いました。「そんな時代がボクの生きているうちに到来するはずがないでしょう」
「分からないぜ」とT氏はさも愉快そうな表情です。「現代の変化のスピードは、われわれの予想をはるかに超えたものじゃないか」
「それでも困りませんね」とわたくしは繰り返しました。「生き死にには進歩も退歩もありませんからね。生まれて来てしまった人間は、いずれ死ななきゃならない。そしてその準備が出来ている人間なんてほとんどいないから、墓あるいは何かその代替物は必ず残りますよ」