現代寺院考
親鸞聖人の面構えは、決して偉人などといった代物ではありません。アクが強く、我を捨て切れなかった聖人の人生そのものが、見事に象徴されている感があります。跳ねの厳しいその書に接すると、更なる確証を得た心持ちがするのは、わたくし一人ではないはずです。
そんな聖人の性格が端的に表わされているのが、「非僧非俗」という『教行信証』の末尾に出て来る言葉でしょう。朝廷の念仏停止の命とともに、法然は土佐へ、親鸞は還俗させられて越後に流されたわけですが、その時、「もう僧ではない。しかし、在家に戻ったわけではない」、つまりこれから自分は非僧非俗だと一種、居直るのです。そして、師・法然の死に際してももう京都に帰ることはなく、越後・関東の人々の間に20年間に渡って布教生活を繰り広げることとなります。
「そこが蓮如さんと違うところだわな」とF寺さんは言いました。「反・権力の姿勢に徹している」
「蓮如の場合、教団が大きくなりすぎて、いろいろ気を使わなければならなかったのでしょうね」とわたくしは弁護を試みました。「その点、親鸞聖人は気楽と言えば気楽だった」
「しかしですよ」とF寺さんの口吻に力がこもります。「蓮如さんの御文章を見ると、至るところで『内に仏法を蓄えて、表では王法に従え』と説いて回ってるじゃないですか。権力迎合主義に他なりませんよ!だから、私の寺では蓮如さんの絵像は本堂から外しています」
ええ?と驚いたわたくしは、
「本願寺から独立するお考えですか?」と尋ねたものです。
「そこまでは意図していませんけれど……」とせわしげにタバコの先の灰を灰皿に叩いて落とすまだ若いF寺さん(と言っても40代半ばですが)の指先を見ていて、講師の人選を誤ったかなとわたくしはちょっぴり後悔したものです。「本願寺も改革されないといかんでしょう」
「それは分かりますが、本願寺教団の基礎を築いたのは蓮如ですよ」
「それはそうですが、親鸞聖人こそ浄土真宗のご開山じゃないですか」
「蓮如は要らないんですか?」
「要りませんねえ!」とF寺さんは強い口調で言いました。「少なくとも私には必要ない。親鸞聖人の精神こそが、いま求められているのです!」
「オウムが起きた時、脱会した元信者の一人が『伝統仏教はボクたちにとって背景に過ぎなかった』と告白していましたけれど、それはある意味で正当な評価じゃないでしょうか?」
「と言うと?」
「門徒の全員と言わないまでも、その大半の人が寺に求めていることと言えば、葬儀と法事の執行ですよね。その事実を否定しても始まらないとボクは思うんですよ」
「もちろん、私も葬儀や法事の重要性を認識しています。それで寺は成り立っているのですから」
「でも、それって親鸞の精神とは関係ないんじゃありませんか?あまり純粋に考えると、寺に居られませんよ」
唇を曲げてしばらく考えていたF寺さんは、
「じゃあ、このままゆっくりと沈没して行くさまを手をこまねいて見ていればいいんですか?」と言いました。「私には耐えられない。あなたは若いのに似合わず保守派なんだなあ!」
「保守派かどうか知りませんが、寺は変わりようがない。そして仏教が変わるとすれば、寺の外からだとボクは思いますね」
「うーむ」と腕組みをして考え込んだF寺さんは、顔を上げてから、「そんな発想じゃ寂しくありません?」と内輪の者のみが持つ親密さで問うたものです。
「ははは」とわたくしは軽い笑いを漏らしました。「涅槃寂滅と言いますから、寂しいことはいいことですよ」
それを聞いたF寺さんのあんぐりと開いた口を見て、
「もちろん、冗談です」とわたくしはすぐさま付け足しました。「冗談ですが、寺の第一の仕事は葬儀と法事だと思い切る覚悟もまた必要だと思いますね」
「そんなもの、覚悟などという大袈裟なものではないな」とF寺さん。「お経が読めれば誰にでも出来ることでしょう」
「非僧非俗って親鸞聖人の言葉がありますよね」
「ええ」
「あれって、寺にいながら、しかし僧侶ではない。寺にいるわけだから、もちろん、俗人ではないという、真宗寺院の住職の心構えにピッタリだとボクは考えているんです」
「聖人の仰った意味はそういうことでは全然ありません!」
「そういう意味の広がりを可能にさせる、優れたメッセージだと思いますけどね」
「そういう勝手な解釈が真宗を堕落させる原因なんだよな」と言って、F寺さんはまた1本、タバコに火を点けました。「その点、蓮如さんは親鸞聖人の教えに忠実だったかも知れないけれど、本願寺という組織のトップだったが故に、裏切りがあった」
「これはもうどこまで行っても堂々巡りだから、やめましょう」とわたくし。
「ええ」とニッと笑ったF寺さんのふっくらとした顔に、やっと人の良さそうな表情が戻りました。「でも、また折りがあればやりたいですな。あなたの意見も分からんではないが、結局、現状肯定に終わるだけの気がして仕方がない」
「寺の住職であるという意識が1つ、仏教徒であるという意識が1つ。ボクの言う非僧非俗とはそういうことですけどね」
「寺と仏教とは別物だ……と」
「そこが微妙でしょう。絶対矛盾の自己同一かも知れない」
「ははあ……」
「冗談ですよ」とわたくしはまた軽く笑いました。「本当にもうやめましょう。時間が来ますから、ボクは本堂の準備に行きます」
そう言って立ち上がったわたくしに、床の花を振り返ったF寺さんは、
「彼岸花ですな」と声をかけました。「見事に赤く咲いている」
「床で咲いても野で咲いても、アピールする力の強い花ですよね」とわたくしは立ち止まって応じました。
「秋彼岸入る日のごとく赤々と燃やしつくさん残れる命……か。あれは西方浄土を意識したものですかねえ、『入る日のごとく』とあるのだから」
「違うでしょう」とわたくし。「自己意識が先ですよ、『残れる命』とね」
「そうか」とF寺さんは笑いました。
わたくしも軽い笑いを残して、階段を下り、本堂に行くと、案の定、午後の聴聞者は20人にも満たないものでした。顔なじみのお婆さんたち、それに2、3のお爺さんが肩寄せ合って、時に大きな笑い声を立てつつ世間話に興じています。
急いで濡れ縁に出て、カンカンカンと法要開始の鐘を叩くわたくしの目に、カッと咲いた彼岸花の小群がりが飛び込みました。それは静かに眠る墓場に降り注ぐ日の光を集めて、赤く燃え立ち、風の気配にも動じないもののようでした。