こころを読む
秋の雨の後、強い香りに誘われて振り仰ぐと、そこに木犀が木の葉隠れにそこかしこ金の紙くずのような花を付け、路面にもまた黄色い花が散らばっていて、ある懐かしさに襲われることがないでしょうか?
秋になると必ず1度はわたくしはそんな感慨を催し、それは時に夏目漱石の『こころ』の1節に結びつくのです。その『こころ』には、
「私は挨拶をして格子の外へ足を踏み出した。玄関と門の間にあるこんもりとした木犀の一株が、私の行く手を塞ぐように、夜陰のうちに枝を張っていた。私は二三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に被われているその梢を見て、来るべき秋の花と香を想い浮かべた。私は先生の宅とこの木犀とを、以前から心のうちで、離すことの出来ないもののように、一所に記憶していた」
とあります。漱石に対するわたくしの思いにもまた、それに似たものがあります。
確か宮本百合子がどこかで、漱石の小説には女性が描かれていないと批判していたはずですが、はたしてそうでしょうか?
それは確か、『或る女』の葉子のような女性像が創造できていないとのことでしたけれど、葉子は品性を欠いている分、わたくしにはさほど魅力を訴えません。
それに比べると、漱石の女性には常に理想の影が付きまとっています。それはたとえば、『赤と黒』のレナール夫人とか、『戦争と平和』のナターシャに通ずる何かです。『こころ』の奥さん(=お嬢さん)にもまたその影は顕著で、だから、「母親とお嬢さんは先生とKとを天秤に掛けた結果、先生を選んだのだ。それを知っていた先生は恨みに思い、奥さんには黙って自殺したのだ」という読みも出て来るのではないでしょうか。
「それ、おもしろい!」と長女が言いました。「いま学校で『こころ』を習っているところなの」
「先生は誰?」
「金尾先生」
「ああ!」とわたくしは30年前、その先生が新任教師として赴任して来た頃が思い出されました。小柄でいつもニコニコ顔で、まだどこか自信なさそうだったものですから、からかう同級生も出て来たものです。先生の顔がだんだんと陰険なものになり、「水島!」とその張本人の生徒を叱咤しても、その生徒はヘラヘラと笑っているばかりでした。
「金尾先生がオレの読みを越えたら、偉い。もっと聞きたい?」
「ウン、ウン」と長女。
「理想化するってことはさ、本当の相手を見ていないことでもあるんだよ。分かる?」
「ウン、ウン」
「結婚しても決して本心をうち明けない先生は、奥さんを理想化したまま冷凍保存したかったのさ」
「ウン、ウン」
「それは現実的な損得勘定で自分と結婚した奥さんに対する1つの復讐でもあるわけだ」
「奥さんって悪い人ねえ!」
「イヤ、イヤ」とわたくしは打ち消しました。「結婚するとき相手の収入を考慮に入れるのは、誰だってやっていることだよ。それでもって奥さんを悪人だと決めつけるわけに行かない」
「でも、先生がかわいそう」
「ま、男と女の恋愛観の違いかも知れないな」
それにしても、「理想」とは何と苦い響きを持つ言葉でしょうか!「理想」の反対語は「現実」のように考えられていますが、むしろ「幻滅」と言うべきでしょう。わたくしは車のハンドルを握って車の前方を見ながら、
「ミッちゃんの理想は何だ?」と試みに尋ねました。
「それって夢ってこと?」
「まあ、そうだろうな」
「外交官になることかしら。とても実現できないことだけど」
「夢は夢のまま大切に胸にしまっておく方がいいのかも知れない。先生の不幸は夢を実現して、奥さんを手に入れてしまったことにあるのかも知れないからね」
「でも、そうなると、恋愛結婚なんてできなくならないかしら。私の場合、その可能性はないからどっちでもかまわないけど」
「恋愛するからといって、相手を理想化する必要はないだろう。ただ、先生も告白していたけど、理想化しないと夢中にはなりにくいだろうな」
「でしょ!」
「だけれども、それが間違いなんだよね。所詮、恋愛も1つの所有欲なんだから」
「じゃあパピタ(=わたくし)はどうすれば一番いいと考えてるの?」
「失恋することさ」
「それも寂しい意見ね」
「でも、少なくとも先生は失恋した方がよかったと考えてみたことないか?」
「そう言われればそういう風にも思えるし……。じゃあ、パピタはマミー(=妻)となぜ結婚したの?お見合いでしょ?」
まずいなと考えたわたくしは、
「だから、幻想を抱かない代わりに幻滅もない」と言ってから、大きく方向転換を試みました。「理想の、この世での実現は不可能なんだ。だから仏教では理想世界(=西方浄土)は死後、行くところになっているのさ。この世が極楽にもなれば地獄にもなると、いわば心理的解釈をする向きもあるけれど、かえって浅いと思う。凡人にも可能なことは、せいぜい理想世界に行く約束手形を手に入れることくらいだもの。もっとも、それは浄土真宗の考え方だけどね」
「ははあ、そう来たか」と、明らかに長女の思考の糸は切れかかっていましたが、もうわたくしは中断するわけには行きません。
「漱石は参禅しているが、その姿勢はむしろ真宗的だと、真宗びいきの作家がどこかで指摘していたけど、牽強付会に過ぎるだろうな。何々的などと宗派にこだわったところで、一般の人は付いてこない」
車の後部座席で長女はずっと黙り込んでいました。
「いずれにせよ、おもしろかっただろ?」とわたくしは自分の世界から抜け出して、改めて娘に言葉をかけました。
「ウン、ウン」と娘は大きく頷いています。「まるで私と違う読み方も出来るところがスリリングで、とっても良かった。国文科に行けば、こんな楽しい勉強が出来るの?私、国文科にしようかな」
「イヤ、イヤ」とわたくしはあわてて否定しました。「こんな読みが可能な作家はざらにはいない。日本では漱石ぐらいかも知れない」
「そうなの?」
「そうさ」とわたくしは断言しました。「漱石には理想に対する確かな感受性があったと思う。だから、おもしろいんだ」
だけれども、その向こうの世界もまたあると語るには娘はまだ若すぎました。それはあるいはこちら側と言った方が適切かも知れませんが、理想も幻滅もない、それこそ現実世界です。
わたくしは自分の生まれ育った寺及び仏教をそういう現実として受け入れるまでに、30年近くかかっています。現実とは自分が1歩踏み出すための確たる大地であり、また、蓮の花が咲く泥沼とも言えるものです。
娘を夜、街の学習塾から車で連れて帰るのも1つの現実には違いありません。その車の中で初めて、親子の対話が始まったのですから……。