廃墟
 
 もう秋の涼しさが感じられましたから、バイクで出かける気はなかったのです。車で出るつもりだったのですが、昼過ぎの外はムッとし、じわりと背中に汗を感ずる暑さでした。テレビの天気予報の図を思い描いたわたくしは、バイクのキーを持って出て、エンジンをかけました。すぐに駆け出したバイクに乗って、広い道から山沿いの狭い旧道に入って走り、木立ちが覆って暗い切り通しを抜けると、ひっきりなしに車の行き来する4車線の産業道路です。そこを横断して、田畑と住宅とが徐々に下って行く平野を走り、川を渡ると急勾配の上がり坂になり、山に入って、山間を切り開いて新しく作られた道路を走り、また道幅の狭い旧道に戻って南に進むと、目的の街でした。
 いつも出かける街もバイクで風に吹かれてたどり着くと、今までと違う印象です。見る角度・高さが少し異なるだけで何か新鮮だったのは、その日のわたくしの心境にも依るものだったのでしょう。
 会議は2時間ほどで終了し、会場の寺を出て、いくらバイクのペダルを踏んでみても、今度はエンジンが空回りするだけです。仕方なく寺まで引き返し、
 「変わったことをするんじゃありませんでした」と、モータースの場所を尋ねたあと、わたくしは住職夫妻に言いました。「普段通りが一番ですね!」
 玄関先まで見送ってくれた夫妻は苦笑したなり、何にも言いませんでした。
 在来線と新幹線の2段作りの高架線が高い壁のように立ちふさがる道に出ると、線路に沿って西に行き、南北に走る広い道路の向こう、ささやかな公園の奥に、住職夫妻の教えてくれたモータースが見えました。
 「普段使わないのに急に使うと、こういうことがままあります。キャブレターに不純物が混ざるから、いつまた動かなくなるかも知れません。とりあえず今日はかかりましから、途中で止まることはないでしょうけどね」
 「キャブレターを洗えば直りますか?」
 「それは直ります。けれど、全く元通りというわけには行きませんよ。1度壊れかかったものを完全に復元することは不可能です」
 「どのくらいかかります?」
 「費用ですか?時間ですか?」
 「時間です」
 「1〜2時間はかかるでしょうねえ」
 もう西陽がビルに隠れる時刻です。あまり遅く帰るわけにも行きません。整備代を支払ったわたくしは、不安を残したバイクにまたがり、山を越えて、古い生まれ故郷に戻って行きました。
 「ご住職、そんなことは故障でも何でもありませんぜ」と法事のお膳の時、わたくしの話を聞いた本家のご主人が言ったものです。「わしらは若い頃、街まで歩いて行っとった。せいぜい自転車しかありませなんだしな。なあに、朝出て夕方に帰って来れば、それで十分でしょうが!」
 「ごもっともです」とわたくし。
 「目的もなく街に出るのもまた空しいですしなあ。空襲で街が焼け野原だというので、行ってみると、峠を越えるともう火の海でしたが!お城が燃え上がって崩れた様は本当に美しかった!」
 「なるほど」
 「わしはあんな美しい光景は他に見たことがありません。ドドッと天守閣が火の粉を散らしながら北に倒れたときの地響きを、わしの体は今でも覚えていますぜ。大勢の人間が汗水流して築いたものが一瞬のうちに炎に変わったから、美しかったのかも知れませんなあ。街の燃える様も凄まじかった。山火事などとはまるで違っていた」
 「それから50年経った現在は、別天地ですよね」
 「これからまたどうなるか分かりませんぜ」
 「そりゃそうです」
 「焼夷弾が空いっぱい落ちて来ましてね」と分家のご主人が話に加わりました。「卵形の爆弾が上下2つに割れて、炎の塊がパッと傘のように開くんですよ。あの割れた鉄のお椀は洗面器にちょうどいいというので、みんな競って拾ったものですよ」
 「ははは!」とわたくしは思わず笑いました。「アメリカ軍はまさか日用品の配給になっているとは思わなかったでしょうね」
 「それだけ日本は窮乏しとりましたねえ」
 「でも、たくましいと言えば、たくましい話ですよね。戦争に浸り切っていたわけでもないのだから」
 「戦争が好きな人間はいませんが!」と本家のご主人が言いました。「じゃが、なくならんでしょうなあ」
 「エゴとエゴがぶつかり合う限り、難しいでしょうね」
 「しかし、また何もかもが壊れれば、日本人も大切なものを思い出すかもしれんなあ」
 「そりゃまた過激な意見ですねえ」と、本家のご主人から酒を受けつつ、わたくしは言いました。「物質生活の豊かさが壊されると、心がすさみますよ。衣食足りて礼節を知ると言いますしね」
 「いやいや」と言いながら、わたくしの差し出した酒を猪口で受けて、本家のご主人は一気にあおりました。「焼け野原の向こうに見えた海の美しかったこと!波がキラキラと魚の鱗のように輝いていましたがな!」
 「それでもボクは現在の文明を否定できませんね」とわたくし。「その前提に立って考えないと、何でもOKという結論になり兼ねませんよ」
 「まあまあ、ご住職!」と本家のご主人の皺の寄った目が一瞬、光りました。「あの世が近い老人のざれ事ですがな。1度美しいものを見た人間は、その夢の中で一生を終える他ないんです。隣の街ばかりじゃなく、世界中が廃墟になった時の地球の美しさを想像すると、ご住職、身震いするほど興奮しませんか?」