鞆の浦はすてきな港です。医王寺から眺め降ろした町と港、海、そして仙酔島の配置と色彩の美に40歳を過ぎるまで、わたくしは無頓着でした。医王寺の裏の山を登るとまた今まで知らなかった視界が開け、そこには聖徳太子ゆかりの小さな社もあります。静寂の海の上を時折り遠い汽笛を鳴らして船が滑っています。仙酔島の急斜面の山は松が緑深く、入り組んだその海岸線に沿って歩いて奥の海水浴場を目指した昔が懐かしく思い出されます。生ぬるい夏の海を沖に出ると、波に隠れて島が消え、波に乗るたび陸の松林を眺めては安心もし、さらなる冒険心をそそられもしたものです。
小学5年の夏、北木島で行われた臨海学校で最後の日に遠泳に参加し、その一団から猛烈に遅れつつも完泳し、みんなの拍手に迎えられてフラフラの体で砂浜に上がったことが、つい昨日のように想起されます。その3日間で泳げるようになったのは、色白の若い女の先生の指導のおかげでしたけれど、あの先生は今どこでどうなされているのでしょうか?今ではもうあの先生を思い出す級友もなく、わたくし1人に閉じ込められた世界なのでしょうか?
30年ぶりに小学時代の同級生のKくんに会った時、
「本当に時間が経つのが速い」と彼は言ったものです。「そして決して若返ることがない」
「それでいいんじゃないの」とわたくしは言いました。「みんな若返ると、地球がパンクしちゃう」
「それはそうだけど、自分だけは例外でありたいって願望が、誰の心にもあるでしょう」
「そうかな?」
「それはあると思う」とKくんは禿げ上がった頭に無意識に手を当てています。「いくらあなたが悟っているとは言え、人間一般の欲望を否定することはできないぜ」
「悟る・悟らないは遠い世界のことだけど」と、ポケットから煙草を出したKくんに灰皿を差し出し、妻が運んで来たお茶と菓子を小卓に並べました。「無常って言うのは空しいって意味ではないよ。桜が散るのが無常ならば、咲くこともまた無常なんだ。ただ、日本では散る方にばかり意識が行ってるけどね」
どうぞごゆっくりと言って引き下がる妻に頭を下げたKくんは、フウッと煙草の煙を吐き出し、
「なるほど!」とうなずきました。「やっぱり寺の住職だな」
「ボクの言葉は理屈だけどね」と軽いため息混じりにわたくし。「信念にまでは至っていない」
「いいんじゃないの」とKくんは意に介する風もありません。「そう簡単に悟れるものなら、誰も苦労しない。寺で生きているあなたの口からそういう言葉を聞くことが、われわれ俗人には尊いんだよ」
「ボクの本心には関係なく……か」
「言ってみりゃそうだわな」と言って、Kくんはニヤリとしました。
不意に風が入り込み、目を上げると、庭の奥で半ば空を塞いだ百日紅の枝が風に揺れています。まだ青い葉を付けているその枝がまもなく露わになると、ブロック塀越しに境内の墓が日に光る様が、庫裏の中からも眺められるようになるのです。空の高みを行く筋雲が仰がれるようにもなるのです。
その日、真っ赤な夕日に染まった空をわたくしは久々に仰いだ気がしたものです。海浜ホテルが臨む海は凪ぎ、時間が止まったかのような一瞬の錯覚に酔いつつ、
「故郷に錦を飾った感想はどうですか?」とSくんにビールを注ぎました。
「教育長はもっと高給取りかと思ったら、2万円しか上がらなかった」とSくん。「文部省の仲間は早く帰っておいでと、赴任が内定したとき慰めてくれたよ」
「1つ上の役付きで帰るんだろうから、いいんじゃないの」
「そんな時代じゃありません」とSくんはビールを飲み干し、わたくしに勧めます。
「官僚批判が新聞紙上をにぎわせているからなあ」とわたくし。「だけど、ジャーナリズム界の主流は、東大を落ちて早稲田に進学した連中が多いらしいから、ル・サンチマンもあるだろう」
「教育長は孤独ですよ」と、それは応えず、Sくんは言いました。「最終的な決断は自分1人で下さなくちゃならないし、その責任もまた大きい」
「教員を続けていたら、協力くらいしたけどね……」
「隠遁したんだってな、驚いた。頭を丸めているのかと思ったら、髪がフサフサだから、また驚いた」
「うちの宗派は出家主義じゃないんだ」
「何宗だ?」
「浄土真宗」
「オレの家も確かそうだけど、うちの坊さんは頭を剃ってるぜ」
「それでもかまわないけどね」
「まあ、40歳を越えると、それもいいかも知れない。体力・人生の限界を確かに感じるよ」
「あなたはこれからでしょう」
それはSくんにとって聞き慣れたお世辞だったに違いありません。「いやいや」と高校時代さながらの率直な口調で否定して、新たにわたくしの注いだビールをあおりました。同窓生たちがビールを注ぎに来るたびに、小柄な、厚いメガネをかけたSくんは昔通りのよく通る声で受け答えし、いつまでもグラスを傾けています。
海浜ホテルの外はまだ、鞆の浦の凪が続いています。しかし空の高みにはすでに夜が降りて来て、星が光り、東の海岸に延びた工場地帯は夜光虫のように千々に輝き、高い煙突が赤い火の塊を吐き出しています。もう晩秋でしたけれど、そこには夏も冬もなく、わたくしと窓ガラスで隔てられた海に洗われつつ、抽象的で硬質な陰影を静かに帯びていました。