ガンダーラ
 
 いつまで経っても雨が降らずにカラカラ天気が続き、境内の松が枯れ始めた時にはわたくしも慌てました。見た目に明らかに葉が痩せ細り、ここかしこ茶褐色に変色していたのです。松食い虫とも違う印象でした。毎年剪定してもらう庭師さんの見立てでも、
 「これは松食いじゃない。こんなことはわしも初めてじゃなあ。春に雨続きで栄養をたっぷりもらったのに、肝心の夏が日照り続きだったものだから、弱ったのかもしれん」
 そして水を撒いた方がよかろうと言うことになり、9月半ばからわたくしは夕刻の30分、毎日水撒きに専念しました。
 ところが台風が、まだ7号・8号ですから例年と比べると少ないにせよ、立て続けにやって来て、今度は雨または曇りの日々が続いています。
 「だけれども、この天候異変は地球が弱った証拠だと考えるのは、人間の傲りだろうな」とW氏は言います。「人間にとって住みにくくなっただけで、いっそ原爆がみんな爆発して人類など消滅した方が、地球にはいいかも知れない」
 「死の灰が地球を覆うわけですよ」とわたくしは、W氏の主張は荒唐無稽と知りつつも、反論を試みました。
 「なあに、1万年もすれば、また生物に住みよい環境に戻るさ」
 「厄介者の人類などいなくなるわけですか」
 「その通り!」とW氏は澄ましたものです。
 「しかし、そこに至るまでの過程が大変かも知れませんね。死んでしまえば楽だろうけど、死ぬという意識が人間に未体験の恐怖心を与えるのですから」
 「その麻酔薬として、宗教が今もって存在しているわけだ」
 「うーむ」とわたくしは俄かに同意するわけには行きません。「宗教は麻酔ですか?」
 「阿片だって意見もある」
 「それはもうお蔵入りの意見だと思うな」
 「そもそも終末思想を説かない宗教はないけれど、終末が来れば、宗教も何もない。人間あっての宗教のはずなのに、その人間がいなくなるのだから」
 「信仰のない人間だけが滅亡するって理屈でしょうけどね」
 「それがウソだわな。地球環境が激変して滅びない人間はいないだろう、ゾンビじゃあるまいに!」
 「だけど、終末論はもっと心理的なものでしょう」
 「そんなことはない」とW氏は自信たっぷりでした。「物理的だから、説得力も出るんだ。だからウソでもあるわけだけどな。浄土真宗にしろ、浄土教の1つに違いないのだから、末法思想のお陰で広がったわけだろ?」
 「そういう一面は否定できないでしょうね」
 「宗教とはそんなものさ」
 「だけど、禅宗とか原始仏教には末法思想はないですよ」
 「だから、彼らは宗教家ではなくて、モラリストなんだ」
 「ははあ……」
 「枠に囚われて考えると、こういう評価は出て来ないだろうなあ」
 そうかも知れないと思いつつ、わたくしは広い窓ガラスにパノラマのように広がった、雨に煙る瀬戸大橋を眺めました。それは風景と調和していると言うより、明らかにその大きな橋脚で島々を圧伏し、海をまたいで向こうの陸まで延びています。鋼鉄製の強い人類の意志が感じられる建造物には違いありません。
 「不思議なものですね」とわたくしは独り言のようにつぶやきました。「尾道大橋が出来た時には、その下を走る道路から仰ぐとまるで空いっぱい橋が横切っているようで、大変な時代になったと驚いたけど、因島大橋が完成すると、逆にチャチに見えたものですよ。因島大橋はどこまでが島の道路で、どこから実際の橋になるのか、初めはピンと来なかった。ところがそれもこの瀬戸大橋と比べると、子供のオモチャというのは大袈裟だけど、ま、それに近い印象ですよねえ」
 W氏はあまり関心が湧かないと見え、口髭を蓄えた口にグラスのコーヒーを含んでわたくしの方を見たまま、
 「それが今は明石大橋の時代なんだよな」と言いました。
 「もうご覧になりました?」
 「イヤ、まだだ。今は物見遊山の観光客でごった返しているからね」
 「しかし、この激烈な進歩がいつまで続くのか、冷静に振り返って考えると、怖いくらいですよね」
 「いったん走り出した列車は、終着駅に到着するまで走り続ける他なかろう」
 「ま、それはわれわれの時代じゃないでしょうけどね」
 「分からないぜ。ノストラダムスの予言だと、来年7月が人類滅亡の月だしな」と氏は涼しげな麻のブレザーのポケットからタバコを取り出して、火を点け、フウッと白い煙を窓ガラスに吹き付けました。「横殴りの雨か。こりゃ台風の中心付近は大変だ」
 「しかし面白いな」とわたくしは思わず笑いました。
 「えっ?何が?」と、口髭のイメージに邪魔されなければすぐ分かる無邪気な目つきで、氏は問いました。
 「だってつい今さっき、Wさんが終末論を批判してたんですよ。その人が今度はノストラダムスを持ち出すんですからね」
 「ははは!」と氏は大笑いしました。「オレにとってどちらでも構わないことが、暴露されたな!」
 しかし、それはわたくしにとっては軽微な問題ではありませんでした。信心がやけに強調される真宗の教義になかなか馴染めなかったわたくしが、そこに心惹かれるようになったのは、何と言っても親鸞聖人の『教行信証』との出会いからです。そこには確かに仏教としての浄土真宗がありました。まずもって信心が求められるにせよ、語られている言葉1つ1つが仏教のものだったのです。
 浄土教はガンダーラの地で発生したとも伝えられています。そこはひょっとすると、ノアの方舟の漂着した地だったかも知れません。こうして東西の宗教が、遠い大洪水の記憶のもと、地球の最も高い地平面で融合したのかも知れません……。
 今、目の前では激しく透明な雨粒が無数の波紋を海面に叩き付けています。それは、三千大千世界に宿る仏たちの願いにも似た、夢幻の生命を奏でているようでもありました。