洗脳
 
 生まれて来る時と、死んで行く時と、人の意志通りには行きません。自殺が人類の自由の証だと言って自殺した、キリーロフのような作中人物もいますけれど、再び生まれるわけには行かないのです。
 生まれて死ぬまでの今この時間を、わたくしたちは自分の自由に使っているに過ぎないのです。手を動かしたいときには動かし、歩きたいときには歩き、食事もすれば睡眠も取る、それが全てだと、つい錯覚して生きているのがわれわれ人間だと言えるでしょう。
 「死は人間に対する最大の悪だ」と哲学者の夫を失った時、これまた哲学者である西洋の女性は語っていますが、そういう姿勢ではたして「死」は見えるのでしょうか?「死」の見えない人生は、実は「生」も見えていないと言わざるを得ないのではないでしょうか?
 仏教がめざす生き方は、どの方角のものであれ、「生死を超える道」だと、わたくしは受け止めています。「自我」の観念は、実は今の自分の命に執着しているところから発生するだと、仏教は教えているのです。
 「自分の命」から「自我」、つまり仏教で言う「煩悩」が発生するのです。その超越の試みが、さまざまの宗派を生みましたけれど、浄土真宗は凡夫には超越できないと居直るところにその出発点がありました。
 「居直る」という言葉はあるいは不適切かも知れません。開祖・親鸞聖人は、そういうおのれを激しく深く懺悔し、わたくしたちの心に強く響く言葉の数々を残しています。
 たとえば「悪人正機」などその1つで、普通、心に「悪」を孕んだわれわれがアミダの救いの対象なのだと解釈されています。聖人の言葉を素直に取ればそれでかまわないのでしょうが、わたくしは「悪人」とはいわゆる「社会人」と考えたいのです。仏法の側から見ると、「社会生活」を営むこと自体、「悪」なのです。今やその高度に文明化された「社会生活」がもたらす弊害が、環境破壊とか天候異変とも言い得ましょう。
 「それはある程度、当たっているかも知れないわね」と一応、妻も賛成します。「でも、それはみんなが指摘していることだから、何も仏教など持ち出すまでもないでしょう。むしろそんなものを持ち出すと、かえって胡散臭く感じるのじゃないかしら?」
 「そうかも知れない」とわたくしも一応、同意しました。「さっきテレビに出演していたTOMOYAって人の意見も、詮ずるところ同じだものな」
 「でもあれはカルトじゃない?仏教ってカルト?」
 「カルトの定義がよく分からないけど、どういうところ?」
 「わたしもそう言われると困るけど、あの人、空中浮遊を見たって言ってたでしょ。そんなことあり得ないでしょう。そういうところにわたしは不信感を感じてしまう。あなたはそう思わないの?」
 「空中浮遊はあるけれど、それは重要なことじゃないって言ってただろ。自然の懐に抱かれている今この時がかけがえがないんだって」
 「じゃあ空中浮遊はあるの?まるでオウムじゃない!」
 「何を空中浮遊と名付けるかによるな。言葉では言い表せない、言い表すとすれば、そういう表現がいちばん近い何かを見たってことだって考えられる」
 「やっぱりインチキ臭いわね。洗脳されるようで怖い」
 「信仰の出発点ってそういう不合理なものだとオレは思う。それをすべて洗脳と名付けてしまうと、宗教は成立しない」
 「TOMOYAって人は本物の宗教家?」
 「宗教家じゃなかろう。現代社会には宗教家は居づらいよ。本物かどうかは、テレビ報道だけでは分からないけど、テレビで見た印象から言うと、気の毒だったな。まるでインチキを映し出さんばかりに大写しに顔を映していたわな。だけれども、そういうアングルを構えているカメラマンにどうしてそこまでアップで人を映す権利があるんだろう?気の弱い人間だったら、そのカメラを意識しただけで、表情がイビツになるかも知れない。でも、TOMOYAって人の表情にはオレは好感を覚えたけどね」
 「わたしは付いて行けない。そもそもどうやって生活しているのかしら?霞を食べて生きていけるわけないんだから、一種の霊感商法をやっていると疑われても仕方ないんじゃない?」
 「お釈迦さんだって、世の中を捨てて出家してるんだぜ。そういう人をみんな否定したら、凡人しか残らない」
 「そういう過去の偉人はとにかく、あの人の場合よ」
 「カウンセリングとか、CDや絵の販売をしているって今言ってたじゃないか」
 「それでやっていけるの?」
 「年収3〜4億って言ってたな」
 「ええ!そんなに儲かるの?」
 「まあ、元手の問題もあろうし……。それに現代日本だと、生活設計を先に立てなくても、何とか暮らせるだけの余裕のある社会にはなったってことだろ。フリーターって自由業もあるくらいだもの。こういう不況だから、それがいつまで続くか分からないけど、物とかお金とかを第一に見なさない人々も出て来ているんだよ」
 「わたしは古い世代ってことなのね」
 「年齢から言や、そうさ」
 「でも、あの人たち、どこか甘えてない?」
 「そりゃあ、本物か単なる甘えん坊か、試されるときが来ると思うよ。オウムの若者はテレビで見てても、心の殻が感じられて、ホントかなって感じだったけど、TOMOYAって人は、確かに心を開いて話していた」
 「ずいぶん肩入れするのね」
 「イヤ、単なる印象論!」と言って、わたくしはゴロンと畳の上に寝ころびました。そして目の前をふさぐような天井を眺めつつ、「いずれにせよ、ああいう風に信じ切れることが大切だよ。あれも1つの才能だ」とつぶやいたものです。