ニース海岸
 
 今や海外旅行は日常茶飯事で、北海道に行くより韓国やハワイの方が安上がりに付く時代です。わたくしの町の人でも月の半ばをタイに出張しているとか、上海で仕事をしているとかいう人が少なくありません。法事のために上海から帰国したのだというので尋ねてみると、ものの1時間半の行程です。
 「大阪へ行くようなものですねえ」とわたくし。
 「ま、日帰りもできますわなあ」と、ごま塩頭の50半ばのご主人は言いました。
 他の門徒の方の意見ですと、
 「中国人はごまかす。いくら国土が大きくて人口が多くても、あれでは先進国にはいつまで経ってもなれない。それに比べるとアメリカはすごい。アメリカが本気になれば、日本など吹っ飛びますよ」
 「ヨーロッパはどうですか?」
 「ヨーロッパは形が出来上がってしまっていますからねえ」と、1年の大半を世界中を飛び回っているその人は言いました。「歴史も伝統もあるから、アメリカのように自由には行かない」
 その時わたくしは誰かが、「ヨーロッパは老人の資本主義。アメリカは大人の資本主義。日本は子供の資本主義」と評していたことを思い起こしたものです。日本にいると受験競争に始まる競争社会であること、しかし古い国だけにそれだけにとどまらないものを感知せざるを得ませんけれど、わたくしが初めてパリの地も、日本とはまた違った意味での古さ、ドッシリとした重量感に満たされていました。それはむろん、パリの建造物のもたらす印象でもあったのですが。
 パリを離れて南に下り、アルルの鄙びたプラットホームに立って光の中で風になびく糸杉の群れを眺めた時、わたくしは強い解放感に心が洗われました。ゴッホの絵が連想され、駅の近くの公園の松は強い風のせいか右に左に幹をよじり、風景に溶け込むようにゆったりと老人たちがゲートボールに似た遊びに興じていました。その向こうの土手に登ると、とてつもなく川面の広々としたローヌ川が大きく湾曲し、橋が1本、向こう岸まで延びています。そして丘に点々と伺える家々は、まるで別世界のような遠くに臨まれたものです。
 アルルの次に訪れたニースは、これまた華やかな街でした。駅に降りるとまずわたくしはその日の宿泊ホテルを探すのが常でしたけれど、駅界隈をいくら探しても1つ星か2つ星のホテルは空いていませんでした。仕方なく再び駅に戻ってインフォメーション・センターの受付で順番待ちしていると、
 「ホテルを探しているのですか?」と肩を叩かれました。振り向くと、背の高い若い外国人が窪んだ感じの、しかし優しい眼差しでわたくしに微笑しています。
 「ええ」
 「ボクもさっき探して回ったのですが、1人ではムリですよ。一緒に泊まりませんか?2人部屋だとまだ空いているホテルがあります」
 実際、ホテルは2人が前提だとわたくしも感じていました。1人でも2人でも同じ料金ですし、たいてい部屋の中に2つベッドがありましたから、同じ費用で旅行するとなると、1人旅の場合、1、2ランク下のホテルを探さなければならなかったのです。
 日本語の達者な外国人はケネス田中さんという日系3世で、日本にも長らく滞在した経験のあるアメリカ人でした。
 「あなた、何歳ですか?」
 「何歳に見えます?」
 「日本人は20代から40代まで見分けが付きにくいです」と、つくづくとわたくしを見つめながら、ケネスさんは言いました。「結婚はしています?」
 「している」
 「信じられない!」とケネスさんは大げさな表情をしました。「家庭を持ってこんな所まで1人で来るなんて、ボクには想像できません!」
 何はともあれ、2人で泊まった部屋は光のよく入る、白い瀟洒な部屋でした。
 「これ、何だろう?」と隣の部屋の隅にある白い陶器の製品を、ケネスさんは屈み込んで吟味しています。蛇口をひねって、
 「洗面台ですか?」
 わたくしが行って尻を乗せる台を降ろすと、ケネスさんも便器だと気づき、
 「ははは!」と笑って、わたくしの背中をドンと叩きました。「危うく顔を洗うところでした」
 丘の上から眺望したニース海岸は、広い青空の下の丸みを帯びた水平線に応えるように、ゆるやかな弧を描いてどこまでも続き、道路が走り、ビルが林立しています。そして幅のない海岸線は小石で埋め尽くされ、歩くのも不便なほどでした。けれども、浜辺には華やいだビーチパラソルが並び、思い思いの海水着でくつろぐ人の中には、無防備に乳房を露出した女性も少なくありませんでした。
 木陰のテーブルに着いたケネスさんとわたくしはコーラを注文し、涼やかな風に吹かれつつ、しばらく目を細めて海を見ていました。
 「日本にはどれくらいいました?」とわたくし。
 「6年」
 「長いな」
 学生だったのかなと思いましたが、ケネスさんはMM教団の会員で、布教活動の1つとして日本に派遣されていたのでした。
 「のんびりしていましたけどね」とケネスさんはコーラをひと息に飲み干しました。「ボクは北海道が長かったけど、東京や京都にもいたし、大学の聴講生になったこともあります。大学で知り合った日本の友人とは今でも文通などしています。日本で得た一番大切な宝です」
 「MM教団はどんな活動をやるんですか?」
 「いろいろです」と言って、ケネスさんはニッとわたくしを見ました。
 「たとえば?」
 「あまり言いたくありません」
 実はケネスさんはMM教団を脱会し、その心の整理も兼ねて独りヨーロッパに来ていたのです。わたくしが寺の人間だと告白すると、
 「おお!」とケネスさんは嘆声を発したものです。「ひょっとして、あなたもボクと同じ目的でここまで来たのですか?」
 「いや、ボクは単なる観光旅行です」と言いつつ視線を送った、背もたれの広い布椅子のトップレスの金髪女性が、キッとわたくしをにらみました。オイルを塗って小麦色に輝く乳房につい見惚れたのが東洋人だったことが、あるいは彼女の神経を刺激したのでしょうか?
 同じ女性を無表情に眺めながら、
 「日本人は分かりません」とケネスさんは言いました。「ボクにもいくらか血が混じっているけれど、理解できない」
 「たとえばどんなところが?」
 「あなたが本当に坊さんなら、不思議じゃありません?ほとんどの日本人は寺に行かないでしょう。結婚式は教会でして、葬式は寺でするでしょう。寺は至るところにあるし、神社も多いです。それで経営的に成り立ちます?正直に言って、ボクがMM教団を離れる理由の1つは、経済問題です」
 「ボクはサラリーマンでもあるんです」
 「兼業農家じゃなくて、兼業寺院ですか」とケネスさんはいかにも日本通らしい顔を作って言いました。
 「そう」
 「そうまでして続けなければならないの?」
 「門徒、つまり信者がいるし……」
 「寺はいっぱいあるじゃないですか」
 「親から受け継いだものを自分の代でつぶすわけには行かないですよ。と言うか、ボクが継がなければ、他の人が寺に入るだけですけどね」
 「それも不思議です。寺の子供が寺を継いでいる」
 「天皇制が2000年近く続いているような国ですから」とわたくしは笑いました。「善きつけ悪しきにつけ、物を大事にするお国柄なんですよ」
 「ふう!」とため息を吐いたケネスさんの視線を辿ると、ずんぐりとした黒い日本女性が男性に腕を絡ませ、フェニックスが風になびく道路を渡って、向かいのホテルに帰るところでした。トップレスをひどく意識した態度でもあり、背中に水着の紐の痕が白く焼け残っていました。
 「脚が短いなあ!」とわたくしが思わず愚痴ると、
 「すぐに長くなりますよ」とケネスさんは確信のある風でした。「体なんて食糧事情で何とでもなります」
 わたくしはホテルの中に消えていく日本人のアベックを見送りながら、西洋人並みになったその体躯を夢想してみたものでした。