大審問官
 
 親鸞聖人と蓮如上人……浄土真宗を考える時、やはりこの2人がポイントとなることには、誰しも異存のないところでしょう。
 以前は親鸞にはプラス評価、蓮如にはマイナス評価が、少なくとも教団外では一般的でした。ところが近年は蓮如の評価が高まり、その価値観の変化の一翼を作家の五木寛之氏が担ったことは、わたくしには少なからず驚きでした。というのも、氏と宗教とはずいぶんかけ離れた位置にあると考えていたからです。
 わたくしは氏の小説が好きで、ずいぶん読んでいます。大衆作家と評されていますけれど、半端な純文学よりよほど深みも広がりもあると尊敬すら覚えていました。しかし氏が宗教、しかも蓮如に傾倒するとは予想だにできませんでした。
 ただ、最近の研究に依れば、そもそも浄土真宗は山の民や海の民、言ってみれば非定住民の間に広がって行ったとのことですから、「風の王国」の宗教だったとも言えるわけです。それは魅力的な考え方です。流動化、砂上化する現代生活の中に、ひょっとすると親鸞や蓮如が再び立ち現れる可能性を抱かせて止みません。
 ところで今一番わたくしが心惹かれる親鸞聖人の教えは、少なくとも蓮如上人との対比で考える時は、「化身土」です。本物の念仏行者が往生する先は「真仏土」、つまり「極楽」ですが、自力の心を残した者が往生できるのは仮の極楽である「化身土」だと言うのです。そこで他力信心を得た上で「真仏土」に改めて行くことができるというです。
 初めてその教えに接した時、親鸞もいささか調子がいいな、少なくとも調子のいい人間のことも念頭に入れているな、と感じたものでした。
 しかし、他力に徹した人が果たして現実に何人いるでしょうか?親鸞の時代であれ、多くはなかったのではないでしょうか?親鸞自身、自分の念仏にカスのように残る自力心を何度も懺悔しているではありませんか。また、だからこそ魅力を放っているとも言えます。
 妙好人のような生き方が浄土真宗の神髄である、それに比べると親鸞もまだそこに至っていないといった議論をどこかで読みましたが、賛成できません。妙好人のどこか小じんまりとまとまった生き方は、わたくしは好きにはなれないのです。
 聖人の「化身土」にはどこか道元禅師の「修証一如」と通ずるものが感じられます。つまり、どちらも自分には厳しく、他人にはきわめて心優しい教えだと思うのです。
 この他人に対する優しさが、蓮如の「信心決定」にはないのではないでしょうか?「信心決定」のお念仏をいったん称えると、あとは「報恩感謝」のお念仏になるというのが、蓮如が繰り返しその手紙の中で説いていることですが、それはいかにもスタティックな考え方でしょう。そこでは蓮如自身が心底で念仏をいかに受け止めているかが前面に出ることはありません。ただ、人々をお念仏へと啓蒙する姿勢が顕著なだけのです。
 だから蓮如はつまらない、親鸞は偉いといった意見も出て来るのでしょうが、はたしてそうか?
 言葉面だけ追う時、思想家としてのみ考える時はそうかも知れませんけれど、いざ宗教家として見直すと、にわかに蓮如もクローズアップされざるを得ません。と言うのも、「宗教家」の仕事に「布教活動」は不可欠だからです。そしてその布教活動において、蓮如は実に偉大でした。
 人々の精神的水準をイメージする時、親鸞や道元には精神的高みから人々のもとまで降りて来る優しさがあります。一方、蓮如は人々と同じ水準で感じ、考え、生き抜いた人だったのではないでしょうか。そしてそこに胡散臭さを感じるのは、一握りのインテリの傲りだとわたくしは今は考えています。
 「つまり蓮如は大審問官のような人物だったわけか」と、窓の外にそびえる銀杏の大木の葉々の深い緑のさざめきを眺めつつ、矢村氏が言いました。
 「えっ?」とその意味を測りかねたわたくしが問いました。
 「ほら、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に出て来る人物さ」
 「ああ!」とわたくしも遠い思い出にぶつかった喚声を発したものです。
 舞台は中世。スペインのとある町。異端狩りの盛んなその町に、イエス・キリストが再誕して来ます。異端者としてキリストを監禁した大審問官の長い弁舌には、確かに圧倒的な迫力がありました。
 要するところ、キリストは人々に自由を与えた上で自身を信ずる道を求めたために、得た信者は限られていたと大審問官は主張するのです。「おれは人の能力をそんなに高く買ってはいない。人は自由の重みに耐えられない。だから信仰はおれが人々に与えたものだ。それは本物の信仰ではないかも知れないが、それで人々が救われるのならば、いいではないか。おれを慕う圧倒的多数者がいるのだから、たとえあの世でおれが異端者として裁かれて地獄に堕ちるとしても、満足だ」
 そんな主張を黙って聞いていたキリストは、最後に大審問官に黙ったまま接吻します。
 ぶるっと身震いを催した大審問官は、
 「ここから出て行け!2度と来るな!」とキリストに命ずるという内容だったと記憶していますが、
 「そういう一面は確かに蓮如にもあるかも知れないな」と、矢村氏の視線を追って、本堂の屋根にかぶさるように広がる銀杏を仰ぎつつ、わたくしも肯定しました。
 「大審問官は決して否定的には描かれていないだろ?」と矢村氏。
 「まあね……」
 「宗教家の宿命みたいなものが出ているわな」
 「だけど悪魔に魂を売り渡したみたいな話だったと思うけど、それも宗教家の宿命かしら?」
 「ある意味ではね。宗教には限らないけど、特に宗教組織だと、そのトップは一種の偽善家たらざるを得ないんじゃないの?」と言いながら、チラッとわたくしを見た矢村氏の眼差しは微妙な表情を帯びていました。そして窓の外の銀杏から送られて来た一陣の風がサッと室内を巡り、氏の持つタバコの薫りが一瞬わたくしの鼻を衝きました。そして、
 「ボクも若い頃には『カラマーゾフの兄弟』に感心した時期があったから、あなたの意見はよく分かる」とわたくしは言いました。
 「まあ、世の中、純粋だけでは成り立たないからね」と矢村氏はタバコを灰皿でひねりつぶして伸びをし、立ち上がると、窓の外に身を乗り出しました。外は風が強いらしく、目を細めながら振り返り、
 「何年ぶりかな?」と聞きました。
 「さあ、20年は確実にたっているだろう」とわたくし。
 「そうだよな」と氏は厚い雲の広がった空を仰ぎました。「人間、変わるわけだ」
 わたくしは氏の湯飲みにお茶を注ぎ足しました。そんなに変わったわけではないんだが……と心の中でつぶやきながら。