彼岸の頃
 
 浄土真宗といえば農民主体の宗教といったイメージがあったのは、門徒に農家が多かったためと、もう1つは教科書などでそのように学んだためでした。しかし、ものの本を紐解くと、少なくとも真宗が広まった蓮如上人の頃まではそうと限られたものではなかったようです。むしろ山の民、川の民を主体とした非農耕民の宗教であったと最近指摘されていることは、わたくしにとって新鮮な驚きでした。
 「私の寺も元はそうでした」と、永代経の講師に頼んだ住職が言いました。「中国山地の鉱山で働く人々の寺、というか当時のことですから、道場が最初だったのです」
 「なるほど。すると、非農耕民に広がったのは親鸞聖人や蓮如上人が布教された北陸や関東ばかりではなかったのですね」
 「と思いますよ。全国的に言えることじゃないですか」
 「それはいつ頃の話なんですか?」
 「私の寺の場合、室町の中頃です。ただ、当時の資料が残っていないので、確定的なことは分からないんですけれど、言い伝えとしてはそういう風に伝えられていますな」
 「うちの寺は存覚上人が開基になっています」
 「ほほう」
 「ただ、存覚上人の備後における所在は今ひとつハッキリしないみたいですね」
 「光照寺にいたんじゃないんですか?」
 「イヤ、それがハッキリしないみたいなんですよ。光照寺と深い関わりを持っていたことは事実でしょうが、では、存覚が覚如から義絶されていた、確か3年間でしたかね、その間、光照寺に居留していた確たる証拠はないみたいですね。うちの由緒録を見ると、うちに来寓していたと書いてある。ただし、30年間と書いてあるから、いかにもウソですよね」
 「寺の由緒録なんてそんなものですよ」
 「そうそう」とわたくしはご講師にお茶を注ぎながら頷きました。「真宗としての開基は存覚で、そもそもの開基となると、天台の最澄の弟子が建てたことになっている」
 「なるほど」
 「ただ、最澄の弟子たちは全国に布教の脚を伸ばしているんですよね」
 「なるほど、まんざらウソとも言い切れないわけですな」
 「そうそう」とわたくしはまた頷きました。「弟子の名前は分かっているわけだから、比叡山延暦寺で調べれば分かるかもしれないと考えているんです」
 「ただ、比叡山は織田信長の焼き打ちに会っていますな」
 「そう。やはり火事は怖いですよ。うちも中世の戦乱で古記録を焼失している」
 「そういうことにして、寺の来歴を偽ることもあるわけだ」と言って、ご講師は笑いました。「たいていの寺がいつかの時点で火事で古記録を焼失している」
 「そうでしょう」とわたくし。「ただ、1580年以降は確かな文書が残っているんですよ」
 「それだけでもけっこう古い寺ですよ。それ以降に出来た寺もいっぱいありますからな」
 「これはごく最近気付いたことなんですけれど、1580年って真宗にとって大変な年だったんですよね。さっきも話題になった信長が石山本願寺を攻め落とした年です。それと関係あるんでしょうけど、顕如上人が西に下向した際、付き従っていた遠州浜松の寺の次男が永住して、この寺を復興しているんですよ」
 「なるほど、草葉の陰から窺った真宗史といった趣ですな」
 「そう。どこの寺にも大なり小なりそんな歴史が刻み込まれていると思いますね」
 「そういうところから歴史を紐解いていけば、日本の意外な側面が解明できるかもしれませんな」
 「今まさにそういう時代が始まったところでしょう」
 「そう、今まで余りにも当たり前すぎて誰も注目しなかった事柄の深い意味が、今問われて来ているんじゃないでしょうか?」
 「ボクもそう思います」とわたくしも賛成しました。
 ご講師は1つ大きく背伸びすると、立ち上がり、窓の外に迫る鬼瓦を眺めながら、「きれいになりましたなあ」と言いました。「費用がかかったでしょう」
 「寄せ棟だから、割安だったのですよ」とわたくしは言いました。「これが入母屋式だと、屋根の面積が広くなる上に、切って使わなければならない瓦が大量に増えて、高くなるらしいですね。しかも、入母屋造りの方が雨漏れがしやすいみたい」
 「まあ、見てくれだけのものでしょう。だけど、入母屋式の本堂が多いですな」
 「本山からしてそうですよね」
 「本山こそ見てくれが大切ですから」
 「ははは!」とわたくしは笑いました。
 「これはまた眺めがいいですなあ」と本堂の屋根、墓所、そしてその南の町並の屋根の向こうに迫る山や広い空を見渡しながらご講師は言いました。「明るいからいいや」
 「今まで庫裡が本堂の北側にあったもので、まともに日の当たる部屋は1つもなかったのです」
 「本堂、庫裡はいつ頃の建物ですか?」
 「江戸初期です」
 「どうもその頃の伽藍が多いようですな」
 「江戸時代に入って、社会が安定し、寺の盛衰も少なくなっていますよね」
 「そういうことですな」
 「この間、あるお寺さんからお宅とうちとは親戚筋に当たると言われ、いつのことですかと尋ねたところ、400年前だと言われ、ビックリしました。だけど、考えてみると、寺の歴史は100年単位で考えた方がいいところがありますよね」
 「そうですな」と言いながら、ご講師はずっと窓の外を眺めています。「まあ、われわれの命は塵みたいなものでしょう、地球、イヤ、宇宙の歴史から考えると」
 「そりゃそうですよね」
 「ところが、それでいて、空しいようで空しくないところが人生の面白味かもしれませんな。私もそういう風に感じる年になりました」
 「お幾つになられたんですか?」
 「65ですよ」
 「じゃあ、息子さんも立派な大人ですね」
 「息子は30を越えたし、孫もいるんですよ」
 「ははあ!」と言ったなり、わたくしはどう返答すればいいのか、ちょっと窮したものです。65才の人と話が合うほどにわたくしもまた人生の年月を重ねているのだなとの思いが、そのとき脳裏をかすめたのです。
 「午後の準備をして来ますから、ごゆっくりなさっていて下さい」と言って、色衣に五条袈裟に着替えたわたくしは、本堂脇の長押に吊り下げられた喚鐘をカン、カン、カン、カン、カン、カン、カン、カカカカカカーン、カカカカカカ、カン、カン、カン、カン、カン、カカカカカカーン、カカカカカ、カン、カーン、カンと叩きました。そして真宗々歌のテープが流された後、後ろ堂から本堂の内陣に出てみると、朝はほぼいっぱいだった外陣には空いた座布団が目立つばかりです。午後の参拝の人は20人足らずに過ぎません。それも60、70過ぎのお婆さんばかりですから、葬式仏教という揶揄が飛ぶのも無理からぬことではありましたが、ただ、これらの人々は寺にとって大切な人々であることには違いなかったのです。そこが出発点だなと考えつつ、経本を取り出したわたくしは、ナムアミダブツ、ナムアミダブツと唱えました。