コンピュータ事始め
 
 わたくしがコンピュータに初めて触れたのは5年ほど前です。現在と比較すると50年も昔のことのようにも思われるくらい、その進歩は日進月歩ですけれど、当時はまだMS-DOSの時代でした。人から勧められるままにまずワープロの「一太郎」を覚え、表計算の「ロータス123」、データベース「桐」と、1年の間に3種の神器と言われた当時のスタンダード・ナンバーのアプリケーションを覚えました。しかし、表計算とデータベースには重なる部分も多く、結局、最終的には「一太郎」と「桐」を重宝したものです。
 今から振り返っても、ちょうど時期が幸いしていました。勤務校を変わった1年目はいわばお客さん扱いでしたから、コンピュータに没頭できる余裕があったのです。更には学校の仕事として数年来、進路担当であった関係上、データ処理が大きい比重を占め、それもまたコンピュータの魅力を高める要素となりました。 データを打ち込む手間はコンピュータも手作業とそれほど異なるわけではありませんが、1度打ち込んでしまえば、後は自由自在に何とでも処理できるところが、コンピュータの強みだったのです。
 殊に「桐」に慣れたのち、その「一括処理」を卒業した(つまり飽きた)と感じるまでには、悠に2年の歳月を要しました。もちろん、毎日「桐」を使っていたわけではなかったのですが、それでも事ある毎に利用していました。
 「一括処理」はいわゆるプログラム言語の一種です。知人にC言語を操って自作のソフトを開発し、とうとう職業プログラマーになった人もいましたけれど、それほど自在な言語ではありません。「桐」という枠の中で、「桐」を自由に操るだけの話です。それでもわたくしにとっては1つ1つが困難な、しかし楽しい道のりでした。
 こうして、その高校での4年間はコンピュータに慣れる期間だったと、今から振り返ることができるのです。
 「しかし、あなたがここまでコンピュータに没頭するとは意外だったなあ」
 「コンピュータの仕組みにプラトンを連想するんですよ」
 「?」
 「詳しい構造は分かりませんが、コンピュータってすべてを2進法で処理するわけでしょう。それって、YESかNOの問答をとことん突き詰めて、あくまで理性的な結論を導いていくプラトンの対話によく似ていると思うんですよ」
 「ははあ……」
 「もちろん、考えすぎです。でも、それがボクの人生なんだから仕方がない」
 「考えすぎだとしてさ、そこに生きがいがあれば、いい人生の選択だったと思うな」
 「生きがいという言葉に含まれる目的意識には同意できませんけれど、それはそれとして、プラトンのコンピュータ化ってことはそれなりの歴史的帰結だと思いますね」
 「ほほう!」
 「西洋文明の淵源はギリシャで、最もギリシャ的思考といえばプラトンでしょうね。その理性主義の賜物がいわばコンピュータという形で一般化しているようにボクには思えて仕方がないんです」
 「何だな、コンピュータも理系の人間だけの専売特許ではなくなったわけだ」
 「そうそう!」とわたくしも相槌を打ちました。「Delphiって、本当にボクらのような典型的文系にも魅力的な開発言語ですよね。そこにはまさに思考の原型がありますよ、Object志向言語には」
 「ほほう!」
 「継承化って、ちょうど1つの思考過程だと思うし、Objectはまさに思考そのもの、つまり抽象化ですよね」
 「そう言えば、Delphiって、ギリシャの神殿か何かだよな?」
 「そうそう」とわたくし。「Delphiという名前自体が、その象徴的意味合いを感じさせるじゃないですか!」
 「ただ、Borlandが自社の開発言語にDelphiという優雅な名前を付けたのは、ObjectPascalというマイナーな言語を表面に出すのはまずいという経営上の判断があったようだけどね」
 「Borlandの意図を超えて、Delphiという言葉には深い意味合いが含まれているんですよ」
 「ははは!」と知人は笑いました。「そこまで傾倒している人は、Delphi愛好家にも少ないかも知れない」
 「ボクのは外野からの意見ですけどね」
 「坊さんとコンピュータというまるで違う2つの世界を生きるのもまた一興だろうなあ」
 「仏教的思考は決してコンピュータ化できないですからね」
 「ほほう!」
 「だから、ボクとしては、プラトン的思考がこういう風にコンピュータ化されてキチッと客観化されたことに実に深い安らぎを感じるんです」
 「?」
 「何の未練もなく、仏教的思考に自らを染め上げることが出来るからですよ。若い頃に憧れの的だったプラトンにはどこか後ろ髪を引かれる思いがするけれど、その解決策としてコンピュータ、とりわけDelphiに触れればいいわけだから」
 「ははあ……」
 ソフト開発を仕事としている知人がわたくしの言葉をよく理解してくれたとは思いませんけれど、すれ違いのやり取りせよ、彼とわたくしとの会話のテーマになり得るほどに、コンピュータは今やわたくしたちの生活に密着した存在となりつつあることだけは確かです。そしてそれが新しい時代の幕開けのベルであることも、また確かなことのようです。