現代門徒考
多分、心理小説を若い頃わたくしが好まなかったのは、心理=意識=自我といった構図が念頭にあったからです。「いかにかすべきわが心」とでも表現したいような自分の心に辟易としていたのです。むろん、それはわたくし特有のものではなく、いわば青春のシンボルみたいなもので、だから小林秀雄もどこかで述べているように、若返ることが当時の自我意識に戻ることでもあるならば、2度とあのような世界に踏み込みたいとは思いません。それぞれの時期にそれぞれの良さがあるはずだから、今までの不燃焼部分を取り戻せるように上手に老いたいと今のわたくしは考えているところです。もっとも、46歳にしてはいささか老けた感慨かも知れませんが……。
さて、70歳を超えても心は若いままでいたい人も多いと知った時、わたくしは意外の感に打たれましたけれど、ちょっと考えるだけで、誰でも老いたくはないのだ、老いた格好をしているのは周囲からそう強制されているだけで、痴呆症気味の人ならばいざ知らず、普通は親身に語り合えばその人の若いときと同じ印象をその発言の中から感得できるはずだと気づきました。
「そりゃあ、あの頃は男も女も生き生きとしていましたよ」と大半の歯が抜け、1本斜めに残る前歯が愛嬌をその顔に添えている、もう足腰が立たず1日の大半をベッドの上で過ごしているお婆さんが、語り出してくれた事がありました。「井口の奥さんはそりゃあ美人で品がよくて、井口商会が今のように大きくなったのは奥さんの功績も大だとわたくしは思いますよ。いや、わたしだけじゃなくて、当時の奥さんをご存じの方なら誰でもそう思っているに違いありませんわ」
「美人の奥さんだってことはボクも聞いたことがありますね」とわたくし。
「そうでしょう!」とお婆さん。「世の中、伝わるものは伝わりますからね。あそこもお宅のご門徒だったんですよ!」
「ええ、それも聞いたことがあります」
「そうでしょう、伝わるものは伝わるんですよ」と、人の良さそうな瞳と斜めに出た歯が愛嬌のお婆さんは大きく頷きました。「惜しいわなあ。あそこが門徒だったら、お宅も大助かりだったでしょうにねえ!」
「ははは」とわたくしは笑いました。「今回のような寄付を募るのもよほど楽だったかも知れませんね」
「そうですよ」とお婆さんはまた頷きます。そして、
「普通は分家は本家の寺の門徒になるのに、井口商会の社長と戦友だった**寺の和尚が上手に引き抜いたんですよ」とヒソヒソ声で言いました。
「信教の自由がありますからねえ」とわたくしは言いました。
「そんな体裁のいいものじゃありません」とお婆さんは手を横に振って否定します。「**寺の和尚は金持ちには取り入り、貧乏人は適当にあしらって、あそこまで寺を大きくしたってもっぱらの噂ですよ」
「ははあ」
「ご住職も見習わないといけませんわな」と言って、お婆さんはイタズラっぽい顔でわたくしを見ました。
わたくしが驚いたのは、その内容もさることながら、お婆さんの皺の間に如実に窺われる心の若さです。肉体が若返りさえすれば(むろん、それこそ不可能事なのですが)、街を無垢の肢体をさらして歩いている娘にすぐにも戻れることは明白でした。誰もがこうではなかろうと思いながらも、ふと門徒のお婆さんたちを連想し、意外に多くの人々が若いまま老いている事実に思い至ると、感嘆せざるを得ません。そしてそれは称讃すべきことなのか、あるいは否か、いささか判断しかねるけれど、少なくとも今のわたくしの目指すところではないことだけは確かです。
それにしても思えば不可思議な実態ではありませんか!徳川時代に端を発した門徒制度がいろいろな宗派のもと、日本全国に張り巡らされ、地域差はあるにせよ、たかだか数百人の門徒によって1つの寺が支えられているのですから!
門徒制度を単に徳川封建制度の遺物と考えたのでは、おそらくその本質を見失うことになることでしょう。盆とか、彼岸とか、報恩講とか、年に何回か坊さんが門徒参りを行うことが制度維持に大きく寄与していることは確かです。それならば、その意義をもっと坊さん自体、積極的に評価してもいいのではないでしょうか?インテリ層がそういう面に懐疑的になるのは1つの傲りで、仏教は高遠な思想とさまざまな儀礼という2つの面によって初めて、その本領を発揮しているものなのです。たとえば空海にせよ親鸞にせよ、偉大な仏教者は必ず両面を有していたのではないでしょうか?
「今日はどうもありがとうございました」と、足腰の立たないお婆さんに代わって若い奥さんが見送ってくれましたが、若いと言ってももう50はとっくに過ぎた年格好の人でした。
「お婆さん、お元気そうですねえ」とわたくしは車のドアを開けた拍子にちょいと振り返って言いました。
「はい、おかげさまで……」と奥さん。
「失礼します」とわたくし。
「失礼します」
以前はお婆さんが亡くなると寺との関係はどうなるのだろうかとちょっぴり不安を感じた時期がありましたけれど、それは全くの杞憂でした。そう、お婆さんの予備軍は次から次へと控えていて、まさしく生死は人間にとって不可避の事態なのですから……。