憂愁
 
 「憂愁」という言葉がピッタリ来る時刻は、赤い夕日に西の空が染め上げられた後の、中天が黒々と染まり星が瞬き始めるまでのひと時にまさるものはないでしょう。それは、行き場を探しあぐねた若者たちが当てどなくさまよう夜の街角に一条の光が差し込む時刻でもあるのです。
 「どうなさったの?」と、振り向いたわたくしに向かって、大柄な、細いまなじりに人の良さげな愛嬌を湛えた、中年の婦人が尋ねました。「あなたの年齢にはよくある憂い顔ね。わたしが直してあげるから、ついてくる?」
 そう誘われてわたくしが従ったのは、ヒマだからと頭では考えていたけれど、心の中に誘われる部分があったからに違いありません。また、婦人もそんなわたくしの心の襞を見つめていたに違いありません。
 それはケヤキ並木の枯れた枝々が空に黒い両手を伸ばし、水銀灯の冷え冷えとした光に立体的に浮かび上がって来る冬のことでした。歩道でマイクロバスを待つ2人の背後にもう1つ、若い影が加わり、
 「この人、優秀なのよ」と婦人がわたくしに紹介しました。「1ヶ月で見る見る懺悔の腕を上げたの。きっとあなたのいい先輩になれるわ。同じ大学の先輩でもあることだし!」
 ニッと笑った青年の黒い唇に思わずわたくしがギョッとしたのは、何か非人間的に映ったからに他なりません。と言うか、余りに人間的に映ったと言うべきでしょうか。とにかくそこに馴染めない何かが宿っていたのです。
 黒いケヤキの腕の中から送り出されるように現れたマイクロバスは、青年に負けず劣らずニッと笑うと黒い影が唇の周辺に浮かび上がる男や女でいっぱいでした。そんな中に陣取った婦人はいかにも心安らいだ表情でわたくしに、「お坐りなさい」と顎で自分の前の座席を指示しました。
 わたくしの予期した通り、マイクロバスが到着した街外れの建物は新興宗教の建物でした。畳30畳は入る、白い柱が所々つっけんどんに並んだ空間の前はロウソクがいっぱい並べられた祭壇です。到着した人々は厳かな面持ちで正面の絵像の前に順序よくひれ伏し、何やらブツブツつぶやくと、晴れやかな表情になって同じような目の輝きを見せて、並べられた長椅子に腰掛けるのです。そして、隣人などいないかのごとくうつむいてブツブツと先ほどの続きのようなつぶやきを続けるのでした。
 「さあ、あなたも始めなさい」と婦人。
 「えっ?」
 「まさかあなた、今まで何も罪を犯さなかったってことはないでしょう! それを告白するのよ。そうすればきっと気が楽になりますよ」
 わたくしがモジモジと決しかねていると、あの青年がスクッと立ち上がり、
 「告白します!」とまるで小学校の学芸会のように几帳面に与えられたままのセリフを喋り始めました。「ボクは今日もまた大学で講義の代わりに若い教授の胸ばかり眺めて90分を過ごしました。知的な瞳が魅力的で、40過ぎだとのもっぱらの噂でしたけれど、ボクは講義を受けるたびに教授の衣服を1枚1枚めくっていく想像の楽しみに打ち勝てません。教授の赤い唇、白い肌、白い乳房、赤い乳首、引き締まった腰、柔らかいお尻、丸みのある太股、スラリと伸びた脚、そして黒々とした股間を想うたび、ボクは今日もまたピュッとズボンの中で射精してしまいました。ボクの目の前に黒いRの字が右に左に傾きつつ、次々と現れて視界を覆って行って、あとは多分、発情期の犬のようにハアハアと舌を出してあえいでいただけです。ボクはそのようにも罪な1日を今日もまた送ってしまいました!」
 ポカンと口を開けて聞いていたわたくしに、
 「どう、すごいでしょう」と婦人は言いました。「彼は告白の天才なのよ。でも、あなたにもきっと出来るはずよ、同じ大学の後輩なんだから!」
 しかしむろん、わたくしにそんな真似が出来るはずがありません。ただぼんやりと顔を上げたまま正面の祭壇を眺めていると、後ろの席の若い男が肩を叩き、
 「キミ、キミ」と咎める口調で言いました。「今みんな頭を下げて自分の罪の告白を行っているところですよ。キミだけそんな不遜な態度じゃいかんだろう!」
 そう言われてはじけるように座席を飛び上がったわたくしは、「待って!」と呼び止めた婦人の声にさらにはじけるように夜の暗闇に飛び出しました。
 外は暗い郊外で、まだ田畑の残る黒い道の果てにボンヤリと数々の灯りが見えます。遠い距離感に不安を覚えながらも、閉ざされた建物から飛び出すであろう者たちに捕まらないように、わたくしはひたすら街を目指したのでした。