現代悪人考
 
 親鸞聖人の教えで最も有名かつラディカルといえば、やはり、「善人なほもて往生す。いはんや悪人をや」ではないでしょうか。
 しかし、その言葉の真率な響きに誰もが感動するにせよ、自身をそこまでの悪人だと自認できる人は少ないのではないでしょうか。結局、聖人の罪悪意識の深さに舌を巻くといった、第三者的理解で終わってしまいがちであることも、また事実でしょう。
 なるほど、聖人の著作に目を通すとき、確かに「悪人」とはいわゆる罪深き人、怒り、欲望、ねたみ、憎しみ等々の感情に押し流されてしまう人間の本性を述べたものに違いないのでしょうけれど、それに止まるものではないとわたくしは考えます。
 「悪」とは何か?
 いわゆる悪いことだけが「悪」ならば、聖人の言葉とわたくしたちとを結び付ける結節点は意外に少ないと考えざるを得ません。むろん、わたくし自身、聖人君子でも何でもありませんけれど、心の襞々に巣食うマイナス面をいちいち数え上げるのはいささか不健康だろうと常々感じているところです。したがって、以前は聖人の言葉に今ひとつ共鳴できませんでした。
 それが深く納得できはじめたのは、ひとえに「悪」の解釈の変化でした。
 仏教でいう「善人」とは何よりも自力作善で仏道修行に励む人、そして「悪人」とは仏道修行に励むことのできない凡夫、いわゆる在家者、現代風に言えば社会的存在であるわたくしたち自身なのです。そう考える時、聖人の言葉はにわかな切迫感を持ってわたくしたちの胸に響くのではないでしょうか?
 「社会人であることが悪人なの? それじゃあみんなが悪人になってしまうし、そんな自己卑下した考え方には誰も同意できないわ」とあなたは反駁するかも知れません。
 「それを自己卑下と感じることが人間の傲りだと思う」と、それに対してわたくしは答えたいのです。「いつも自分が悪人だと考える必要はないけれど、まれにはそう考えることによって、今まで見えて来なかったものが見えるようになるのではなかろうか? たとえば環境問題。文明とは人類の大きな自己意識みたいなもので、その自己主張の結果が環境破壊、地球破壊につながっているのじゃなかろうか?」
 「でも、だからといって悪人だと思う必要はないんじゃないかしら。それって暗すぎない?」
 「いつも考える必要はないと言ってるだろ。だけど、文明は根源的には地球環境にとって悪なのだって認識は持つべきだと思う」
 「それは極論よ。地球、つまり自然ってことでしょ、その自然と人間との調和の取れた進歩の仕方を模索すべきなのよ」
 「もちろん、それがなされないことには人類の明日はないさ。だけれども、それは単なる妥協の産物であって、本質的に文明と自然とは相容れないものだと思うな」
 「そこが暗いのね。じゃあ、あなたは裸で洞窟の中で寝起きして、おなかが空いたら野や川に獲物を求め、雷が轟くと神の声だと感じて震え、ひょっとしたらわが子を八つ裂きにして生贄に捧げるような真似もし、病気の治療方法も知らないまま早死にしても、少しも後悔しないって言うの?」
 「それこそ極論さ」
 「どうしてよ?」と、あなたは脚を組んでイスの背もたれにもたれかかり、つぶらな瞳でわたくしに可愛い挑戦の光を放ちます。
 「何も仏教思想がすべてだとは思わないけれど、時にはその視点に立って、今のわれわれの社会や人生を振り返る必要があると思うんだ。ALL OR NOTHINGの話をしているわけじゃない」
 「でも、自分が悪人だと認めるのは、何かイヤね。何も悪いことなんかしていないんだから」
 「だからさ、悪いことをしたから悪人なんじゃなくて、自分があるってことが、すなわち悪なのさ」
 「そんなこと、誰も承知しないわ。だって、今生きているって感じられるのも、おなかが空いたら食欲が出て、おいしい食事をおいしく感じられるのも、こうして、たとえばあなたと、納得できないにせよ楽しい話ができるのも、恋をするのも、病気するのも、みんな自分があればこそよ。犬や猫にだって、生命保存のための本能があるから、一種の自分を持っているって言い方もできるでしょう」
 「だからさ、それをボクは否定しているわけじゃないんだ。ただ、時にはそれを悪だと考える視点に立って振り返ると、今まで見えなかったいろいろなものが見えて来ると言いたいだけなのさ」
 あなたはコーヒーカップを手に取って、マイルドな味わいが評判のコーヒーを舌の上で味わいつつ、顔を上げ、黒い梁の露出した、最近はやりの、天井のない、棟に向かって急角度でせり上がった白亜の壁をしばらく仰いでいたけれど、
 「やっぱり暗いと思うな」と言いました。「第一、あなた自身、本当に心からそう考えているの? 単なる屁理屈じゃない?」
 そう言われると、わたくしにも自信があるわけではなく、あなたの視線を追って天井を仰ぎつつ、
 「屁理屈だって、いつかは自分の血肉と化する時が来るんじゃなかろうか」と、自分自身に言い聞かせる風につぶやかざるを得ませんでした。
 それは、暖かいと言われながらも、急に寒波の到来した1月中旬の、街角の喫茶店の日暮れ時のことでした。雪を含んで灰色に曇った空のもと、観葉植物の鉢の並ぶ窓の外の道路はガラスに音の阻まれた自動車がひっきりなしに行き来しています。向かいの広い駐車場の向こうは年末に開店したスーパーマーケットのイルミネーションが点滅し、その24時間営業の余波をまともに蒙って、周辺の個人経営の店が苦しくなっているのだと、わたくしのような人間の耳にも届いていました。そう、ほんのささやかな地方都市でも、すぐ目の前で、社会化された自我の激しい生存競争が繰り広げられているのです。
 「あーあ」と両手を上げて大きく伸びをしたあなたは、「でも、楽しかった! また今度、人類の未来について語りましょう」と言って立ち上がりました。
 「ああ、また」とわたくしも立ち上がりました。「ボクも楽しかった。と言うことは、やっぱり屁理屈なのかな?」
 「違うかも……」とあなたはイタズラっぽい目をして言いました。「お互い、楽しい時には自分なんて忘れていたもの。だから、あなたが正しいのかも……」