白いページ
 
 人は誰でも、自分のページを持って生まれて来るのではありません。
 その日、その時、その瞬間に、たまたま巡り会った結果が、60年、70年、80年、あるいは人によっては不幸な事故か病気かで10年、20年の人生となって、我欲に囚われたページに黒い、細かい、蟻の行列のような文字を書き連ねていくのです。
 だから、「初めに言葉ありき」というのは嘘っぱちで、言葉は常に我欲の反映でしかないのです。
 ですけれど、言葉がないことには人間同士、コミュニケーションが保てないのも真実で、だから、「本音」と「建前」を使い分けるとしばしば日本人は批判の対象となるけれど、そしてまた、日本が本当に国際化されるには論理的な言葉で自己主張できるようにならないとダメだなどと有識者から指摘されるけれど、そもそも、白いままのページを大切にしたいのがわたくしたちではないのでしょうか?
 「ダメ、ダメ!」と、わたくしの報告書に目を通しながら、ちょび髭を蓄えた、50前の、昇進したばかりの課長は言いました。「キミ、キミ、これじゃ単なる事実の羅列で、キミの判断がまるでない。これくらいの作業ならコンピュータだって出来る。いや、こういう仕事はコンピュータの方がはるかに上手だ」と、キーボードにやっと慣れ始めた新課長は言いました。「どうも今の若い連中はセンターテストやらに飼い慣らされて、デジタル時計みたいにカチカチ細かく反応することしかできなくなっている。キミ、今や創造力こそ会社の資本と言える時代なんだがなあ!」
 「すみません」と差し戻しとなった新規事業の2階部分の部品構成の書類を手にしたわたくしは、広い窓際のデスクに戻り、ぼんやりと振り向いて、ビルの建ち並ぶ空に光る12月の太陽光線を仰ぎました。
 「気にすることはないぜ」と隣のデスクの、2年先輩の田中さんが言いました。「あの人、あきらめていた課長のイスを運良く手に入れて、今、舞い上がっているのさ。なあに、じきにイスから落っこちるってもっぱらの噂さ。だって能力のない人なんだから!」
 「能力はボクにもありません」とわたくし。
 「おいおい、ひどく謙虚じゃないか」
 「ボクはサラリーマンには向いていないんです」
 「ふうむ」
 しげしげとわたくしの顔をのぞき込みながら、「昔、5月病って症状が大学に入ったばかりの学生にはやったらしいけど、今のキミは何だな、12月病ってところかな」と田中さんは言いました。「オレの場合、8月病だったけど、キミの方が遅いだけ適応能力がある証しだぜ、きっと」
 いや、きっと違う、とわたくしは感じていました。誰もが同じレールに乗っかって、しかし違う方向を見つけろと言われたって、そもそもレール自体が人工的に造られたものに過ぎないと、わたくしは心のどこかで感じていたのです。
 「そりゃそうだ」と、誘った屋台の田楽の串に残る汁をしゃぶりつつ、田中さんは仰向いた顔のおかしさに似合わぬまじめな調子で言いました。「だけど、だからどうするってんだ? 毎朝きちんと定刻に起きて、定刻の電車に乗って出勤して、仕事をして、たまにはこうして憂さ晴らしをしながら9時、10時には帰宅して、いずれ、そうだな30過ぎぐらいで程々の女性と結婚して、子供を作って、教育費を稼いで、まあ、退職金まで担保に取られて30坪か40坪のマイホームを、それも都心から1時間の距離ならめっけもので、下手をすりゃ2時間以上のところに建てて、やがて定年を迎えるのさ。違うかな?」
 「いや、合っているでしょう」とわたくし。
 「それを否定して、一体どうなる?」
 「否定しているわけじゃないんですけどね」
 「いや、している!」と、今度はグイと猪口の酒をあおって、田中さんは言いました。「どうもキミは、こう言っちゃ失礼だが、いささか暗い。哲学科出身は総合的判断が出来るから今後の人材だというので、採用されたらしいけれど、どうも違うな」
 「それはあるんでしょうね。今日課長がひどくボクを揶揄したのも、それでしょう」と、わたくしの口調はまるで他人事です。
 「それ、それ!」と田中さん。
 「やっぱりボクはサラリーマンには向いていないんですよ。」
 「今のままではな」
 「……」
 「だけどクヨクヨするなよ」と田中さんはわたくしの肩を叩きました。「誰だって通過してきた道なのさ。やがて、そんなことに悩んでいたのではこの世の中、生きて行けなってことに気付くし、そう気付けゃ、それはそれで結構楽しみ方も分かってくるものさ」
 先輩の言葉にはハッキリとわたくしに伝わる優しさがこもっていましたから、この人にも同じ経験があるんだろうと感じつつも、頼り切る気になれなかったのは、多分、深夜に独りマンションに帰ってロックを外して灯りを点けた時、心に広がる白いページを大事にしたかったからに違いありません。その時、わたくしの胸には課長にも先輩にも都会にも染められない、ロウソクの芯のように隠れた、赤い生命の灯がともされていたのです。白いページに綴られた白い文字を読むための……。