北大農学部「札幌同窓会」への寄稿文
「報徳」ということ
掛川市助役 小松正明
  農学科花卉・造園教室の卒業と同時に北海道開発庁へ入庁し、以来建設省への出向を通じて都市公園に関わる仕事に携わってきた。北海道開発庁も建設省、国土庁などとともに組織改編で国土交通省となった。入庁当時は考えもしなかったが、二年前から国交省の派遣人事として、地方自治体からの求めに応じる形で静岡県掛川市の助役として自治体行政のど真中に身を置き、自治体経営の面白さと悲哀を味わっている。
  掛川市は人口約八万人で、静岡市と浜松市のほぼ中間にある農村工業都市である。日本有数の緑茶の生産地である一方、内外の一流企業が工場を進出させている、東海の元気のある市の一つである。
  ここには市長を七期目となった名物市長の榛村純一氏がおられて、日本初の生涯学習都市宣言や市民募金による新幹線新駅の誘致など大変ユニークなまちづくりを行っていることで知られている。
  さて赴任してみて、本市には江戸時代末期の村落経営の偉人二宮尊徳(幼名金次郎)の実践活動を今に引きつぐ社団法人大日本報徳社の本部があることを知った。二宮尊徳は神奈川県小田原市生まれで、幼少時の「負薪読書」像は全国の小学校に置かれたことでよく知られている。彼は自分自身が経済的に苦労する中で、権力側からではない、百姓の側に立った独特の農村経営哲学に至ったのだが、この実践理念が後に報徳思想として知られるようになったのである。
  この報徳の理念の要諦は「至誠」「勤労」「分度」「推譲」という四つの単語に象徴される。「至誠」とは、文字通り「誠実であれ」ということで、真面目に生きることを奨励している。「勤労」は一生懸命に働くことを奨励するものである。「分度」というのは、今日ちょっと耳馴れないが、これは自分の分限を知り、分をわきまえる、という生き方を説くものである。そして最後の「推譲」は、前三つの生き方を貫いて、分をわきまえた慎ましい生活をすれば、ある程度はお金も貯まるだろうけれど、そうした余裕については、世のため社会のため地域のために、すすんで差し出しなさい、という奉仕の精神を求めるものである。 
 この報徳仕法の実践によって救われた村々も多く、明治期には多くの人々がその志を持って地方に赴いた。かつて大友堀と呼ばれた札幌の創成川を築いた大友亀太郎や十勝の依田勉三も報徳の人であることを改めて知った。さらに戦後、疲弊した道内の農村漁村を立ち直らせるためにも報徳運動が沸き上り、あの雪印乳業も酪農業における報徳運動からできたということも知った。
  報徳思想は戦後、戦争に荷担した思想として批判を受け衰退したが、道徳教育を親も教師も誰も説かなくなり依るべき規範が失われた今日、こういう考え方を再び学び、何よりも一人一人が実践しなければ、地域の自立や北海道の再建も訪れはしないように思われる。
  さて金次郎は蘇るのだろうか。 (S57農学科卒 )