1月
いちがつ


1月1日(木) 初春

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。




1月20日(土) 小室哲哉の引退会見に思う

小室哲哉さんの引退記者会見の様子をネットで見ました。

今回の不倫騒動が引退の引き金になったと本人も言っていますが、音楽業界、エンタテイメント業界から身を引くことは以前より考えていた感じが伝わってきたように思います。そして、小室さん自身が内側に抱えてきた、抱えているものは、相当暗くて深いのではないかしら?と私は感じました。

つい最近のテレビ番組で、小室さんの憧れは坂本龍一と吉田拓郎だったことを知りました。また、富田勲のシンセサイザーを使った音楽に衝撃を受けたことも。

彼は私とほぼ同年代。

私もまた、中学生の頃に、冨田勲や深町純といった人たちのシンセサイザーによる音楽に非常に衝撃を受けました。未来の音楽だ!と感じたのです。その後、ステレオというものが家に届き、LP『惑星』(富田勲編曲による)を初めて聴いたときは、そりゃ、もうびっくりして、何度も何度も聴いたものです。

また、小学生の終わり頃に出合ったフォークソングは、私にそれまで知らなかった音楽の世界を目の前に広げてくれました。両親に頼み込んで、ギターを買ってもらったのもその頃です。縁側に座って、その響きに酔いしれ、ずーっと、じゃらーんと、Amのコードを弾き続けたりしていました(笑)。

安田講堂が放水される光景をテレビ画面の向こうに見ながら、新宿西口のフォーク・ゲリラの騒然とした様子を少しわくわく感じながら、赤い鳥、吉田拓郎、、四畳半フォークと呼ばれた人たち、五輪真弓(「恋人よ」が売れる前まで)、友部正人などを知りました。初めて門限を破ったのは拓郎のコンサートで、自分が中学2年生のときだったと思います。いわゆる、出待ちをしたため遅くなったのです(笑)。ユーミンや井上陽水は、既にニュー・ミュージックと呼ばれる領域にあり、私が知ったフォークソングとは異なる音楽として受け止めていました。“声”が違う、とも。

“教授”に関しては、私には特別な思いはありません。YMOにはあまりなじめなかったということもあります。が、本はけっこう読んでいるかも。ともあれ、実は地元の関係で、ちょうど小室さんが絶頂期に向かう頃から、小室さんのお父様と親しくさせていただいていたこともあり、ずいぶん以前から、小室さんは“教授”のようになりたいと言っていると聞いていました。

でも、そうならないし、なれないだろうな、と思っていました。人間と音楽が違い過ぎると思ったのです。(とても傲慢な言い方をして、ごめんなさい。)

といった同時代性を感じるため、なんとなく、小室さんの心境がわかるような気もするのです。彼は主に90年代のJ-Popを席巻し、時代を創ったと言えるとは思います。が、富田勲や坂本龍一や吉田拓郎のようには、彼はなれなかった・・・のは、なぜ?

音楽的には、たとえば、篠原涼子が歌った「恋しさとせつなさと心強さと」(作詞&作曲 小室哲哉)。この、いきなりサビから始まる歌を初めて聴いたときは、私はそれまでにない新鮮さを感じました。そのときの青空まで憶えています。歌詞の内容にはあまり共感できませんでしたが。

そして、なんとなく、思うのです。小室さんは、自分の内側に、ほんとうに伝えたい言葉と音楽がなかったのではないかしら?と。彼が作った歌やプロデュースした音楽のすべてを、私は知っているわけではありませんし、正直、TKサウンドと呼ばれる音楽に共感を抱くことは私にはなかったのですが。(なので、そんなことを勝手に言うなと怒る方もいるかもしれませんが、おゆるしください。)

CDの売上枚数は一億枚とも言われている小室さんですが、彼は音楽業界、あるいはエンタテイメント業界で生きる自分を良しとし、いかに時代に受け入れられ、他人が望んでいることを常に意識し、売れるものを作るかを考え、慢心もし、ありったけの贅沢もしたと思います。そういう意味では、時代が産んだプロデューサーという言い方はできるかもしれません。

でも、彼はそうした芸能界のなかで踊り、踊らされ、「音楽」のなかにはいなかったのではないかしら、と思います。おそらく、もともと持っていたであろう、ただ音楽をする、そのよろこびを享受する、やむにやまれず他者にこれを伝えたいという言葉や音を、どこかに忘れて、生きてきたような気がします。もしそうであったとしたら、音楽家としてこれほど不幸なことはないのではないか、とさえ思います。

舞台の上で、彼はピアノも弾くし、ギターも演奏するし、歌もうたいます。が、富田勲や坂本龍一や吉田拓郎のように、演奏家あるいは歌手としてそこに立っている、ちゃんと音楽を創っている、という感じが、私にはあまりしません。無論、そうした演奏家という側面よりも、作曲家、プロデューサーという側面のほうが、小室さんの場合は非常に強いとは思いますが、音楽を創作するうえで、おそらくもっとも大切な、自分自身と対峙する姿勢が感じられない、という感じでしょうか。

記者会見は自分で書いたという文章に目を通しながら話しをすると前置きされて始まっています。その会見を聞いていて、なんだかヘンな文章だなあと思ったところは、公式webにリンクされているFaceBookやinstagramに掲載されている文章を読むと、「今回の報道による罪を償う手段として、音楽をなりわいとする私は音楽の道を退くことが私の罰であると思いました。」となっています。彼は、この最後のところを「私の罪」と会見では話しています。単に読み間違えただけだろうと、ほとんどの人は言うと思いますが、私はこの読み間違えは、小室さんの資質を表しているように感じられます。つまり、言葉に対する向き合い方が少し甘いのではないかしら?と。(少し言い過ぎているかもしれません。)

もっとも、若きプロデューサー・tofubeatsさんも、小室さんの引退表明を受けてTwitterに引用した、会見中の小室さん自身の言葉、「僕は芸能人になりたかったわけではなく、音楽家になりたかった。ヒット曲を作りたかったのではなく、好きな音楽を作りたいと思っていた」は、私の胸にも重く響きます。これは彼の本心だろうと思います。

今から約10年前、小室さんは詐欺事件も起こしました。その詐欺事件以降、奥様の介護や、自身の体調不良、突発性難聴の苦しさを経験して、自分自身と向き合わざるを得ない時間を持つことになったと思われる、彼の10年間。その間に、彼はお父様を亡くしています。(そのお別れ会で、直接会ったときの小室さんの様子は、今でも忘れられません。)

私は彼に安易な同情をするつもりはありませんが、会見のなかで、彼は罪とか罰といった言葉を使っています。私はここがとても気になっています。必要以上に自分を責めることがないように、周りの人たちが彼を支えることが必要ではないかしらと感じました。でも、詐欺事件のときのことを思うと、さらにこの会見も一人で考えたと言っているので、思いのほか、彼には信頼できる友人やスタッフは少なく、自身は孤独の淵に生きているように思えてなりません。

同時代に生きた音楽家として、いわゆる業界につぶされるのではなく、音楽を愛する一人の人間としてあり続けて欲しい、今だからこそ作れる歌を作って欲しいと、私は甚だ勝手に思っています。







『洗面器』のインデックスに戻る