3月
さんがつ


3月4日(金) 灯が、ぽつん

昨日(3日)、ミシャ・メンゲルベルク(pf)が天国へ。

その演奏を初めて聴いたのは、多分、エリック・ドルフィーの名盤「ラスト・デイト」。その後、ICPオーケストラなどの作品で、若い頃はずいぶん聴いたものだった。

生演奏を初めて聴いたのは、紀伊国屋の裏にあった頃の新宿ピットインで。ソロだったと思う。ステージはミシャ自身が吸っていた煙草の煙でもうもう。ヨレヨレのコートを着ていた。その姿と音に、なんだかわからないものを見て聴いた気がした。セロニアス・モンクのようでもあり、高橋悠治さんのようでもあった。

ドイツのベルリン・ジャズフェスでだっただろうか、ミシャはやっぱりヨレヨレの服装で、靴ではなくペタペタのスリッパを履いていたことに、ひどく驚いたことを思い出す。

http://www.icporchestra.com/
上記、ICPオーケストラのwebのトップに掲げられているミシャの白黒写真は、「音楽っていうのはね」とまっすぐに語りかけているように感じられる。たくさんの音楽をありがとう。心から冥福を祈る。

2月24日には辛島文雄(pf)さんが亡くなられた。無論、その演奏は聴いたことはある。以前、何組か出演する青森のジャズフェスでお会いしたときのことはよく憶えている。

2月27日には、かつて明大前にあったモダーンミュージックのオーナーである生悦住英夫さんが。私が駆け出しの頃、「ORT」をやっていた頃にお世話になった。

また、2月2日には高校時代の先生が亡くなられた。祖父の葬儀に、当時の校長先生と共に参列してくださった。去年の秋にお会いしたときは、にこやかに笑っておられたのに。夕飯を食べた後、夜にひっそりと亡くなられたと聞いた。

そういえば、アル・ジャロウ(vo)も天国へ逝ってしまったのだ。2月12日。若い頃、「スペイン」など何度聴いたことか。ジャズ・ヴォーカルでいわゆるスキャットやアドリブをする先人たちはたくさんいたけれど、アル・ジャロウが歌うそれは、どこか新しく感じたものだ。

そして、3月1日、ムッシュかまやつさんが。私は面識はないけれど。

ジャズを勉強していた頃に本を読んだ、油井正一さんも、清水俊彦さんも、副島輝人さんも、相倉久人さんも、みんな、空に逝ってしまった。

ここ2~3年、訃報に接するたびに、自分が過ごした時間の灯が、ぽつん、ぽつんと消えていくような気持ちになる。自身も歳をとったということなのだろうとは思うが、そのたびに空を仰ぎ、風に呼びかけている私がいる。

孤高の画家、高島野十郎が描いた「ろうそく」の灯の意味が、少しだけわかった気がする。




3月11日(土) 3.11に思う

この日に、多くの人が思いを寄せる文章を書いています。
敢えて、私は言葉を紡ぎません。今年もまた、その時間に、東北のほうに身体を向けて、空を仰ぎ、深く祈りました。涙とともに。どうしても涙はあふれてきます、毎年。そして、今夜は演奏します。

それにしても、政府主催の慰霊祭における、安倍首相と秋篠宮殿下の言葉の内容は、ずいぶん違っていると思ったのは私だけでしょうか。

ところで、以下は、今日の午前中、私が住む町の市長から送られてきたメッセージです。「自助と共助」というタイトルで、冒頭の部分は省略して、以下にアップします。

『改めて言うまでもなく、近年は火山噴火と地震が多発しています。昨年も同じことを述べましたが、これは事実なのです。大正12年の関東大震災から94年がたちます。私たちの住む東京に何時大地震が起きてもおかしくありません。いわゆる「自助」、自分の命と生活を支える準備をしておきましょう。

「共助」、助け合えるご近所やお知り合いも大切。普段、困りごとがない場合はお付き合いなど煩わしいかもしれません。でも、いざという時、公的機関の動きが遅いのは過去の例からも明らかですし、おそらく、避難所となる学校体育館は人であふれ、運営も混乱を極めると思います。困ってからでは遅いです。』

私が?と思ったのは、最後の段落の「共助」について書かれている部分です。たとえば、ご自分のblogで私的な言葉として書いているのならともかく、25万人余りの市民のいる、東京の西にある府中市の市長という立場にある方が、市民に伝える文章としては、私はいかがなものかしら?と感じました。

6年目を迎える今日、大災害が起きた場合の市としての危機管理意識やその体制、あるいは、市長の言う、その「共助」のために、市はどのような施策や推進活動を市民や自治会に促してきたかなどを、できれば力強く伝えて欲しかったと思うのは、私だけでしょうか?うーん、私、ヘンかなあ?




3月12日(日) 今朝思ったこと

今朝のテレビ番組から2つほど。

TBS『サンデーモーニング』で論議された森友問題。

寺島実郎氏が「愛国者を装う欺瞞の人に共鳴する政治家がいる。道義国家を目指すとして教育勅語が大事だという。だが、勅語は絶対天皇制の下で作られた。最後が大事。戦争があったら、国のために命を投げだせと書いてある。いま戦後民主主義が問われている。」と発言された由。

この森友問題は、国有地のこともゆゆしきことではあるが、何か、もっと根本的な戦後民主主義や教育のことも問われていると、心底思う。

さらに、NHK『日曜討論』における、今村復興大臣の「ふるさとを捨てるのは簡単だ」という発言に、朝から血圧が上がりそうになった。それなら、今村大臣みずから故郷を捨てて、あなたが帰還を促している、自宅の雨どいの下や裏山の放射線量が高い地域に、ご家族で移住してみてください、と言いたくなる。そこに生きる人々の声に耳を傾け、その思いを丁寧に拾っていれば、こんな言葉はけっして口から出ないと思う。




3月17日(金) 山川菊栄

午後、スクエア21・府中市女性センターで行われた講座『山川菊栄DVD上映会&トーク』に参加してみた。

まず、この府中市の女性センターというのは、市のwebによれば、「男女共同参画社会を推進する拠点として、市民の活動を支援し、女性問題を解決するための学習の機会と場を提供します。また、情報・資料の提供や交流・相談などの事業を行っています」とのこと。

この女性センターなるものがいつ頃できたのかは憶えていないのだけれど、ともあれ、“女性センター”という言葉に少々違和感を感じながら、私は初めて訪れてみた。

平日の午後ということもあったとは思うが、参加者は14~5名だっただろうか。全員、女性で、男性の参加者は一人もいなかった。という現実に、再び、違和感を覚える。

山川菊栄さん。まことに不勉強ながら、私はこの女性のことを知らなかった。市からのDMを読んで、直感的に行ってみようと思ったのだけれど、実際、行ってみてよかったと思っている。

山川菊栄は、1890(明治23)年東京に生まれ、1980年(昭和55)年に90歳で亡くなられた。戦前・戦後を通じて、女性運動の指導者。戦後の1947(昭和22)年9月、労働省の発足と同時に、初代婦人少年局長に就任。女性の人権のために、生涯闘い続けた。また、多くの著作や論文、翻訳書を残している。

今回の講座では、まず、その思想と活動が収められたドキュメンタリーDVDを観た。ちなみに、その中で語っていた人たちもまたほとんど女性だった。

その後、山川菊栄記念会の佐藤礼次氏、同会の事務局長・山田敬子氏のトークと質疑応答の時間が用意されていた。最終的に何を言いたいのかよくわからなかった男性の佐藤氏に比して、女性の山田氏のお話しは趣旨などが明瞭だったことも印象に残る。

その生涯を反芻する資料が手元にないので、詳細をここで書くことはできないが、その生まれは武家で裕福、充分な教育が受けられる環境にあり、1912年(明治45年)には女子英学塾(現:津田塾大学)を卒業している、いわばめちゃくちゃインテリだ。英語ができて、戦後まもなく海外視察にも行っている。頭が相当良かったのだと思う。

印象に残っているのは、いわゆる「母性保護論争」における山川の立場と論理だ。

以下はネット上の言葉になるが、引用する。

・・・・・・・・・・

母性保護論争(ぼせいほごろんそう)は、1918年から1919年にかけて、働く女性と子育てについて繰り広げられた論争。女性の社会的、経済的地位の向上の方法論をめぐる与謝野晶子と平塚らいてうの議論から始まり、のちに山川菊栄、山田わかが合流して繰り広げられた。

平塚らいてうは、国家は母性を保護し、妊娠・出産・育児期の女性は国家によって保護されるべきと「母性中心主義」を唱える。

それに対し、与謝野晶子は国家による母性保護を否定。妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義を、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと論評し、国家による母性保護を「奴隷道徳」「依頼主義」と難じた。「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。

女性解放思想家・山川菊栄は、与謝野と平塚の主張の双方を部分的に認めつつも批判し、保護(平塚)か経済的自立(与謝野)かの対立に、差別のない社会でしか婦人の解放はありえないと社会主義の立場から主張。

そこへ良妻賢母主義的立場から山田わかが論争に参入する。「独立」という美辞に惑わされず家庭婦人(専業主婦)も金銭的報酬はもらっていないが、家庭内で働いているのだから誇りを持つべきと主張した。

・・・・・・・・・・

私には上記の山川の考えが一番理に適っているように思われ、非常に感心してしまった。

さらに、1962年(昭和37年)に「婦人問題懇話会」を設立している。この懇話会は主義やセクト、会派などで分けられない、いわば超党派的な感じで、横のつながりを持つことができたと、DVDのなかで多くの人たちが語っていたことが、私には印象に残った。これはなかなかできるものではないと思う。そして、それはおそらく山川の人間性によるのではないかと思った。

山川のことをもう少し知りたくなったので、これから少し勉強してみようかと思う。と思って、市の図書館の蔵書検索をしてみても、全然出てこない。山川自身の著作も、伝記のようなものも一冊もヒットしない。

どうやら、山川にかんする本は、この女性センターにはあるらしいのだけれど、女性センターの蔵書は、市の蔵書検索のデータベースには組み入れられていないようだ。

うんむう、そもそも、今の時代にあって、この「女性センター」という名称が良くないと思う私だが、市はとりあえず女性問題にも積極的に取り組んでいます的態度を示している、ということなのだろうか?少なくとも、名称を男女共同参画センターとかなんとか、もっと男性も参加できるようなものにしないと、どう考えても片手落ちだと思う。というか、女性の様々な問題を女性だけで考えていてもダメだと思うのだ。

自分の若い頃から、私の周辺にはいわゆるLGBTの人がいて、私自身は彼らに対する偏見のようなものは一切持っていない。“性”をめぐる問題は、昭和の時代に比べれば、多種多様に社会の表に出るようになってきていると思われ、市はそのことに対応できる“センター”創りをめざすべきではないかと思った。

中学校の頃だっただろうか、テレビ画面の向こうに、ピンク色のヘルメットをかぶった女性たち、すなわち「中ピ連」のことを、私はよく憶えている。“ウーマンリブ”の時代的雰囲気は、なんとなく記憶にある。

などなどと考えながら、女性センターから自宅まで歩いて帰ったのだった。

参考:山川菊栄記念のweb




3月18日(土) この国を想う

私は同時的には観ていない(ネット上で観た)のだが、昨日のテレビ東京の番組『夕方サテライト』は、相当突っ込んだ報道をしている。

私はずいぶん前に読んだけれど、『日本会議の研究』の著書で、籠池氏のインタビューを受けた、菅野完氏のツイッターは、以下の通り。

「テレ東、本気出し過ぎw 稲田朋美の、「生命の実相」講義の動画+生長の家原理主義の話とか、どうしたおい!すげぇなこれ!と喝采をあげたくなるほど、素晴らしい。 / “「100万円寄付」総理は否定 昭恵夫人が籠池氏妻に驚きメール:ゆう…”」

今回の森友学園の一連の問題は、国有地の格安払い下げに政治的な力が及んでいるかどうか、とは思っているが、このテレビ東京の番組の最後で青木氏が話しているように、日本会議の存在を含め、その奥にある、この国をどういう方向へ持っていこうとしている人たちがいるかという視座を持つことが大事ではないかと思う。

それにしても、この一連の騒動は、SNSなどのネット上でかなりのことを知ることができる点において、たとえば先のロッキード事件とは、マスメディアの存在を含め、一般の人の受け止め方は相当異なっているのが現況ではないかと思う。籠池氏のふるまいは、どうやら日本会議内部からも猛烈な批判を受けているようだが、この問題は深刻なことであるにもかかわらず、なんだかB級劇画を観ているような気分になる。そして、私はこの国の国籍を持ち、生活している自分を想う。3.11以降、なんだかほんとうにひどい国になっていっていると感じる。




3月20日(月・祝) 東北を想う

今日は、『東北食べる通信』の催し、山地酪農家・中洞正さんと「 東北食べる通信」の編集長・高橋博之さんの対談、そしてその後の懇親会に参加してみた。実は、会場に着いたときになんとなくちょっと気後れして、懇親会は欠席しようと思ったのだが、中洞さんから「残れ」と連絡があって、そのままとどまることにした。

実は、私は中洞さんとは40年以上前に出会っていて、折に触れてお会いしたりお食事をしたりしているのだけれど、この「東北食べる通信」のことはほとんど知らないまま、とにかく足を運んでみた。

中洞さんは、岩手県岩泉町で、牛たちを24時間365日、自然放牧する酪農、すなわち山地酪農を行っている方だ。

高橋さんは、生産者と消費者をつなげる情報誌「東北食べる通信」の編集長をされている。この通信は、なんでも、雑誌に食べ物がついているらしい。

中洞さんと高橋さんの対談は、途中から日本酒を酌み交わしながらのものになった。その詳細については割愛する。

が、40年前から「俺は桃源郷を作る」と豪語していた中洞さんの信念は、まったく揺らいでいないと感じた。最後はただの酔っ払い親父になっていたが、その手も腕も、毎日山地を歩き、作業をしている男のたくましさにあふれていた。

ちなみに、この“なかほら牧場”では、雪が降ろうがなんだろうが、ほんとうに一年じゅう、牛たちを放牧している。牛たちは野しばを食べるから、牛乳の味は一定ではない。けれど、濃くて、美味しい。

“なかほら牧場”のwebはこちら

また、高橋さんの考え方、そして人間にも、私は非常に興味を抱き、少なからず共感した。

彼は元岩手県議会議員、さらに岩手県知事選に立候補したこともあるそうだ。その頃、相当つらい思いもされたのだろう。ご自身が繰り返し使っていた「きれいごと」という言葉に、「そんなのは机上の空論だ」「単なる理想論だ」と、彼が多くの人から言われたであろう体験と、そのたびに彼が抱いた苦い思いを感じた。

が、その後、政治の道を捨てて、“NPO法人 東北開墾”、『東北食べる通信』を立ち上げて活動されている。拠点は花巻だ。

『東北食べる通信』のwebはこちら

さらに、聞けば、3.11のとき、大槌や花巻で「ゆいっこ」を立ち上げたのは、この高橋さんだそうだ。

当時、私は門馬瑠依(vo)さんたちとのライヴや、他のライヴハウスでチャリティをした際に集まった義援金をどこへ送ろうかと真剣に探したことを思い出す。寄付したお金がどう使われるかまったくわからない日本赤十字に送るつもりはなく、そのとき、ここに、と思ったのが、実はこの「ゆいっこ」だった。なので、あのときの自分の判断は間違っていなかったと、高橋さんの言動を知り、確信したのだった。

対談の最後に、イチエフのことが少し出た。中洞さんが「放置された牛たちは、みんな同じ方向を向いて死んでいたんだ」と言う。なぜか?牛舎につながれた牛たちは餌を求めたからだ。この話を聞いたときは涙がにじんだ。

牛舎につながれている牛の寿命は3~4年だそうだ。でも、中洞牧場の牛たちは、もっとも長生きした牛で19年とのこと。自然に生きる、ということの意味が、私たち自身にも問いかけられる。

その後の懇親会にはけっこう多くの人たちが残った。残った人たちは、少なからず『東北食べる通信』に共感している人たち、あるいは志を同じくする人たちなわけで、話しをしやすかった。私などはほとんど門外漢状態なわけだが、東京・三鷹で肥料から農業を考えている人や、本の編集者など、様々な業種の方たちに出会うことができた。いい場だなと思った。

3.11以降、私の周辺には自給自足を考える友人や、“食”に関心を深くする人が増えた。電気を使う生活の見直しや放射能の問題も含めて、自分の生活や生き方を根本的に考え直そうという友人たちがいる。でも、現実、6年の月日が流れても、社会はそう変わっていないと思うことも多々あるのが事実だ。

実際、私の場合、拙宅の猫の額のような土が見えるところに、野菜を作りたいと思って、本を買ってきたのはいいが、未だに現実化していない。東京電力に加担したくないと思いながらも、スマートメーターで管理されたくないという思いや、東京ガスの機械から絶え間なく発せられているあの低周波の音には、この耳が我慢できず、未だに電力会社は東電のままだ。

ちなみに、もしピアノ弾き稼業をやめたら、私の関心はきっとこの方向に向かうだろうと思う。もはや畑を耕す体力は残っていないと思うが、なんらかのかたちで携わる予感がしている。




3月27日(月) 時代についていけるか、私?

先月、車を買い替えた。それまで乗っていた愛車のミッションが壊れて、その修理代に100万円以上かかると言われ、ディーラーの対応にも不満が残り、泣く泣く手放した。生涯最後まで乗るつもりだったのだけれど。

その新しい車には“アイサイト”というものが搭載されていて、車がしゃべる。ということに、驚いた。前の車が発進した、線をはみ出て運転している、速度超過を警告し、一時停止を教えてくれる。

自動運転システムやブレーキ・アシストも付いているが、おそらく私は使わないだろう。ダメなのだ、自分で車を動かしているという一体感がないと。アナログな体感かもしれないが。

実は、私にとっては初めてのカーナビも付いているのだが、未だに使い方がよくわかっていない。運転する自分の前に広がるスイッチやなにやらは、まだ全然わからない。今のところ、ただ運転するのに必要な、最低限のスイッチ等しか使っていない。

昨日、PCメンテに来てくれた友人の息子さん。エンジニアである彼は、私が一度も開いたことがない画面を次から次へと、しかも早く、操作している。のを、ただただ眺めている私。

そして、今日、銀行に行ってちょっと手続きをした際、銀行員はすべてタブレットで説明。初めての体験だったが、とにかく、質問に対する答えは、タブレットの画面に触れるだけ。必要な紙媒体はあとでプリントアウトして持ってくる。

20代半ばくらいの若い銀行員さんによれば、小学校のときはワープロ、中学に入ってからPCが学校にあったという。ま、そうだろうなとは思ったが、それゆえ、今、逆パワハラという現象があるそうだ。つまり、若い人たちのほうがPCなどの扱いに慣れているわけで、自分の上司に使い方などを教えなくてはならず、それでなんだか気まずくなったりすることがけっこうあるらしい。

いやはやな時代でありまする。ついていけるか?私・・・。




3月31日(金) 福島を想う

3.11以来、私が住む町で東北復興支援活動を続けている“チーム府中”が主催した上映会で、ドキュメンタリー映画『大地を受け継ぐ』を観た。

夕方から降り始めた冷たい雨もあってか、集まったのは20~30名くらいだっただろうか。途中で学生は入場無料に変わっていたが、集客は厳しい感じだった。そんなに風化しているのか?という思いになる。

2015年5月、ごく普通の16歳から23歳までの学生たちが、1台のバスに乗って向かった先は、福島県須賀川市の農家、樽川さんのお宅。映画のほとんどは、この樽川さんのお話しと、最後のほうに感想を述べる学生たちの言葉だけのドキュメンタリー映画だ。

以下、『大地を受け継ぐ』のwebから引用する。

・・・・・

2011年3月24日、福島県須賀川市で農業を営むひとりの男性が自ら命を絶った。原発事故を受け、地元の農業団体から農作物出荷停止のファックスが届いた翌朝のことだった。「お前に農業を勧めたのは、間違っていたかもしれない」。そう息子に言い残して。

それから四年。学生たちが訪れたこの農家の息子(樽川和也)は、母(美津代)とふたり、汚された土地で農作物を作り続けている。「福島の米や野菜は今までの値段では売れないし、売れても黒字になることはない」。農業だけで生きていくことが難しい現状だ。それでも自死した父や、先祖が代々受け継いできた土地を捨てるわけにはいかないと、彼らは土を耕し作物を育て続けている。

「いい土を作らないと、美味い野菜はできない」。そう言い続けてきた父。

毎年食べていた椎茸、ふきのとう、たらの芽、山菜は、いまこの土地には無い。

検査しているとはいえ、汚染された地で育てた作物を流通させる、生産者としての罪の意識。紛争解決センターでの裁判、東電からの補償金、身内からの批難…。次々に押し寄せる内外の葛藤。これは決して報道されることのなかった真実の告発、四年間の決意と軌跡。息子は言う。「これは風評じゃない、現実なんだ」と。

果たして、学生たちは何を想い、何を受け継ぐのか。

・・・・・

樽川さんが、ひとこと、ひとこと、かみしめるように話している言葉は、すべて、たいへん重く、胸の底にずっしり響いた。父を失い、傷つき、でも、自分の足元にある土を見て生きようとする人の言葉だったと思う。

そして、あらためて、原発を再稼働してはいけない、と私は強く思った。今月末に、高浜原発の再稼働が決まってしまったが。

上映後、南相馬市を拠点とする“NPO法人はらまち交流サポートセンター”の林丈雄さんが、その活動を報告された。悲観的になっていてはいけないという気持ちが伝わってきた。

が、私はどうしてもペシミスティックになってしまう。

林さんは誇らしげに、若い学生たちと開発したいう、菜の花やはまなすを使ったマヨネーズやジャムといった製品のことを説明された。その際、菜種油だっただろうか、そのラベルに記載されていた「放射能検査は、分析済みです」(こんな感じの文章だったと思う)という一文を見た。

正直、こんな文章、見たことがない。いったいどういう意味なのだろう?放射能は検出されたのか、されていないのか?この表記ではさっぱりわからない。というか、このような表記しかできない裏の現実を見させられた気がした。

2015年秋、私は震災後初めて福島県を訪れた。北茨城から入って、郡山、須賀川で演奏した。郡山では一般宅に泊めていただいたのだが、そこで聞いた実際の除染の話は信じられないものだった。須賀川では持参した線量計が見たこともない数値を表示していた。そして、須賀川駅には線量の掲示版。

さらに、2016年秋、仙台からバスで南相馬に向かった。避難指示解除が出てから約2か月後のことだ。6号線沿い、海側に延々と見えた、黒いフレコンバッグの群れ。国道はトラックがたくさん走っていて、コンビニは繁盛していると聞く。イチエフで作業している人たちが使うそうだ。そして、私が演奏した家の周辺には、もう戻らないと言っている農家もたくさんあると聞いた。夜、ホテルで見た地元のCATVでは線量が報告され続けている。

3.11以降、私の心のなかにできてしまったうす暗い影のようなものは、おそらく生涯消え去ることはないだろう。人は誰でもある程度の矛盾や相反する思いは抱えているものだと思っているが、このイチエフの爆発がもたらした放射能の問題は、永遠の自己矛盾を植えつけたように思う。

この国の総理大臣は「アンダー・コントロール」と世界に向けて宣言し、最近の森友学園問題においても、「私も妻も一切かかわっていない」と国会で言い切っている。こういう人は、自分の内側の矛盾に鉛のような蓋をして、見ないように、聞かないように、日々を過ごしている、いわば強靭な心臓の持ち主なのだろう。普通なら、心はとっくに崩壊していると思う。

(大問題なのは、それゆえに、その権力で、他者を犯罪人にしたり、共謀という名の元に逮捕したり、この国にそうした世の中を作っていくベクトルが生まれているということだ。)

そして、今日、午前0時に、帰宅困難区域を除いた、浪江町、飯舘村、川俣町山木屋地区の居住制限区域と避難指示解除準備区域の、計2万2000人余りの避難指示が解除された。明日には富岡町の一部でも解除されるという。が、これまでに避難指示が解除された多くの区域では、生活環境の不安などから住民の帰還率は10%台にとどまっていると聞く。

放射能に県境などない。イチエフの放射能を、私も浴びている。放射能を浴びたのは、無論、福島県だけではない。が、福島県の、特に避難指示区域に暮らしていた人たちが心に抱える、この永遠の自己矛盾のようなものは、私などよりもはるかに重く、苦しいものだと思うと、涙があふれる。





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