2月
にがつ



2月4日(木) 立春

春が立つ、と書いて、立春。確かに、庭の紅梅のつぼみはふくらんできているけれど。されど、まだ、寒い今日この頃。

私、実に不勉強にて、冷水ひとみ(ひやみずではなく、しみずと読むそうです)さんのことを知りませんでした。彼女が相棒としているヴァイオリン奏者・西田さんのことは存じ上げているし、演奏も聴いたことはあるのですが。って、80年代後半からジョン・ゾーンと既に仕事をしていた方なのですね。

彼女が作り、演奏しているという“微分音オルガン”。これ、一度でいいから、弾いてみたい・・・。オルガンというところがいいなあと。風、による、音色、だから。シンセサイザーではダメなのよ。

また、このインタビュー記事にリンクされている、山村さんのアニメーション『頭山』もすんばらしい。最近亡くなられた国本武春さんが語りと三味線をされているのですが、これがまたすんばらしい。
https://www.youtube.com/watch?v=9NMLiFcC91s

少し検索してみましたが、彼女が編曲している、やはり山村さんのアニメーション『カフカ田舎医者』の予告編で聴くことができる音楽もすんばらしい。語りには狂言方の茂山千作さん(2013年5月にご逝去)など。
https://www.youtube.com/watch?v=sPl60y4rhNM

そのメイキング映像はこちら。彼女が演奏しているのは、電子楽器オンドマルトノ。ともあれ、面白いです。
https://www.youtube.com/watch?v=8XZYSEk9NTo&feature=youtu.be


ところで、調律師が主人公の漫画『ピアノのムシ』第七巻の最後は、ピアニストが「このピアノではヴィブラートがかからない」と言っているシーンで終わっているのだけれど、さてはて、どうなるのでしょう?(笑)

以前、ハクエイキム(pf)さんと演奏した際、彼が演奏していた“ネオヴィコード”。これは彼の周辺に集まっている調律師さんを含め、技術者たちが開発した電気楽器ですが、ピアニストの指先がちょっとだけ喜びそうな「ヴィブラート」をかけることができます(笑)。といった方向にでも、漫画の話は進展するのでしょうか?
https://www.kait-acoustics.jp/neovichord/

ああ、憧れの音と色たちよ。、ドとド♯の間の音、ヴィブラート、チョーキング、ポルタメント・・・。






2月29日(月) 2つのレクチャー

今月、2つのレクチャーに参加しました。

1つは、20日に行われた『古楽かふぇ』が企画した、花井哲郎さんのレクチャー&トーク。フォンス・フローリス古楽院を主宰している花井さんが、ご自身の履歴も話しながら、古楽のどんなところに魅かれたのか、といったことを話してくださいました。

もう1つは、その一週間後、27日行われた『JMLレクチャー』。これは29日に予定されている、いわゆる現代音楽のコンサートの座談会。「コンテンポラリー・デュオ」として、トロンボーン奏者・村田厚生さん、ピアニスト・中村和枝さんが継続しているコンサートに先立ち、その演奏される作品について、演奏者2人と作曲家2人が同じテーブルについて、語り合ったり、質問を受けたり、といった会でした。

いずれも、お仲間が集まっている感じで、私はかなりアウェイな感じ。ともあれ、相当コアで、濃い時間を過ごしました。

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花井さんは想像していたよりずっと気さくな方で、そのお話しは軽妙でなかなか楽しかった。

会場に着くと、スクリーンにはフローベルガーの画像が映し出されていた。

花井さんは、まず、その演奏者として、G.レオンハルトの名前を挙げていた。あるいは、原典に立ち返り客観的な演奏をするK.リヒターを聴くといい、と。

で、今年、フローベルガーは生誕400年とのこと。その師匠はフレスコバルディだそうで、「楽譜の通りに弾いてはいけない」と、いつも言っていたそうだ(笑)。(この言葉には様々な意味が内包されていると思うが。)

花井さん曰く、中世、ルネッサンス期においては、即興演奏ができない人のために、楽譜は書かれた、とも。

そこで、こんなエピソード。

花井さんがオランダに留学したとき、教会でオルガンを弾いていたという同級生がいて、彼は即興演奏でどんどん弾けたけれど、J.S.バッハなどは全然弾けなかった。その現実に、花井さんはとても驚いたそうだ。バッハが弾けなくて音大に?という感じだったのだろう。(後に、彼はバッハも弾けるようになったそうだが。)

そして、チェンバロという楽器のお話しも。タッチによって強弱が付けられない楽器なので、いわゆる間(ま)が大事になる。ということで、花井さんは譜面に書かれた音楽を、2種類、すなわち、間を意識した演奏と、そうでない演奏を、弾き分けて聞かせてくださった。

というわけで、当然、演奏者によって演奏がかなり変わる、というのも古楽の特徴ではないかと話されていた。

付け加えれば、チェンバロにもタッチの問題はあるわけで、以前、西山まりえ(ハープ、チェンバロ奏者)さんのレッスンを受けに行った際、先生と生徒さんの音色や倍音の出方がまるで異なっていたことに、少なからず驚いたことがある。まりえさんが弾いた音は、生徒さんのそれとは全然違う響きだったのだ。

ちなみに、そもそも古楽は、今の譜面のように、音符が書かれているわけではなく、最低限の情報から、後世の人たちが解釈したり、編曲したりしているわけで、たとえば私がアントネッロの活動に深い共感や興味を抱くのは、それがとても面白く、すばらしいからだ。

また、「語るように音楽をする」。そのために、アーティキュレイションが大事になってくる。レガート、音を切る、小さい単位のフレーズになってくる、と。そして、アーノンクールの名前が挙げられた。

でも、ここで、私はふと立ち止まった。

花井さんの目の前に座ることになってしまった私からは、花井さんがチェンバロを弾く指の動きが見えたのだけれど、花井さんは現代のピアニストが弾くような運指でチェンバロを弾いていらしたと思う。

以前、私はフレスコバルディを演奏しているチェンバロ奏者から、彼女がイタリアで習ったという門外不出の譜面を見せてもらったことがあるのだけれど、それはもう今の指の運びとは全然異なるものだった。この指使いだったら、フレーズが細かく切れるのは当然だと思った。

という記憶がよみがえってきたので、「語る」ように演奏するということはよくわかるのだけれど、当時の指づかいのこと(悪魔の指?)や、演奏者の運動、身体性も問題になるのではないかしら?と思った。(このこと、質問できずに、終わったけれど。)

また、会場にはチェンバロのほかに、クラヴィコードも置いてあり、その作者もいらしていた。花井さんはクラヴィコードでも1曲演奏。1540年頃に作られたライプチヒにあるものが最古だそうで、もう長い歴史を持つこの楽器は、タッチで音量が変わり、しかもヴィブラートをかけることができる。

そして話題は9~10世紀のグレゴリコ聖歌に。当時はみんな暗記していたそうだ。ネウマ譜は音の高さを表そうという意図はない、とも。

「古楽とは何か?」当時の音楽家はどうやって、どんな楽器を使って、演奏していたのか?調律もいろいろあるけれど、花井さんにとっては、失われた響きを再現する、探るのが出発点とおっしゃっていた。この“響き”にこだわる、ということは、とてもよくわかる。

また、花井さんが習ったというレベッカ・スチュワートさんは、古いほうから今の音楽を考える人だったそうで、インドのラーガなど、民族音楽から、しかも、特に、声のほうから音楽をとらえる人だったとのこと。つまり、音や曲が先ではなく、声の使い方、言葉の響きを大事にしていた人だそうだ。そういう意味でアンサンブルをとても大切にしていた、とも。

こうして花井さんの学生時代の頃の話も聞いてくると、現在の花井さんの活動や音楽の内容が、あらためて明るくなるような気がした。

ただ、ここでも、私は、再び、立ち止まる。

なぜ、グレゴリオ聖歌をうたうのか?ここは面倒な話しになるので、これ以上は追究しないが、つまり、宗教、のことだ。

こういう場面で、私はかつて自分がゴスペルのグループの人たちのピアノ伴奏をする仕事をしていたことを思い出してしまう。彼女たちのひたむきな姿に深く共感したので、ずいぶん長い間やっていた。が、最終的には、彼女たちが声を合わせて「オー、キング!オー、ロード!ハレルヤ、ハレルヤ!etc」と神を讃える歌をうたうのに、どうしても自分の気持ちがついていけなくなったのだ。

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JMLのレクチャーは、作曲家・故入野義朗さんのお宅で行われた。一週間前とはうって変わって、今日は部屋にグランドピアノが2台ある。なんとも現代音楽の雰囲気?

それに、コンサートの宣伝、広報ということはあると思うけれど、まだ何も聴いていないのに、作品や演奏についての話を聞くというのも、なんとなく妙な気もしたりして。って、多分、ここにいる人たちの中で、私だけが作曲家のことを全然知らないのだろうなと思ったり。

ともあれ、私が足を運んだのは、演奏家と作曲家の関係に興味があったからだ。演奏行為と作曲行為が分離している状態で、どうやって音楽を創っていくのだろう?と思ったのだ。

まずは、このコンサートのために来日された、ドイツのデュッセルドルフに住んでいる作曲家・山口恭子(やすこ)さんが、ご自身の作品について語られた。

今回の新作『廃墟のペッカリー』というのは、ペッカリーというイノシシに似た動物のへんてこりんな動きと、吉田達也(ds)さんのルインズのCDの楽曲に、インスパイアされて書いたものだそうだ。その吉田さんのCDも、みんなで聴いたりした。

と言われて、私の脳裏をよぎったは、1980年代前半には抬頭していた、ジョン・ゾーンなどのノイズ・ミュージック。私は同時代的に影響を受けた一人だが、ともあれ、めまぐるしく変わるサウンド・コラージュ、といったことを想起した。

ちなみに、吉田さんとは、天鼓(voice)さんとのライヴで共演したことがあったように思う。さらに、どういう経緯だったか、浜松のジャズ・フェスティバルで、S.ロリンズの曲「オレオ」を演奏して、内田先生から「なんとかジャズの形になって助かった」と褒められたことを思い出す。私の記憶が間違っていたら、ごめんなさい。

で、山口さんの話で、私がもっとも興味を抱いたのは、演奏家とのリハーサルで、ある和音をピアノで弾くときに(五線譜には音と強弱記号などが書かれているのだろう)、たとえば、1m腕を上げて強く弾くのと、10cmくらいの高さから弾くのと、全然違う、ということに気づいたと発言されたことだ。

甚だ僭越なことを言えば、そんなことはあたりまえだろう、と私は思った。たとえば、鍵盤に置いた指を、立てて弾くのと、寝かせて弾くのでは、音色がまったく異なることは、誰にでも容易に想像できるだろう。

山口さんは無論、音質や音色に関心がないわけではないと思うけれど、ペッカリーの動きや、吉田達也さんの音楽に興味を持つならば(あのドラミングや声をYouTubeなどで見ているはず?)、演奏家の身体性、というか、演奏するのに必要な運動や動き、さらに生理、肉体、それに伴う響きや感じ方の違いを、もっとイメージすればいいのになあと思った。そして、そこに、私が見たのは、五線譜しか見ていないかもしれない(?)作曲家の姿だった。

誤解されないように付記すれば、私は山口さんを批判しているわけではけっしてない。だいたいにおいて、このアクセント付きフォルテの和音を、高さ30cmくらいから振り下ろして弾くように、などなど、いちいち譜面に書き込むことなど、まず不可能だろう。(って、もしかしたら、演奏者にそういう指定をする作曲家もいるのかもしれない?・・・いそうだなあ!)

リハーサルをして、このことに気づいたと、素直に話される山口さんはすてきだと思った。逆に、こんな弾き方、あんな弾き方もできます、と中村さんが楽しそうに弾いて見せている様子も目に浮かんだ。そんなプロセスこそが、作曲者と演奏者を結び付け、1つの作品に仕上げていく大事な時間なのだろうなあと思った。

譜面に書かれていることを読み解き、自分なりに解釈した演奏家が、実際に生きている作曲家の思惑とすり合わせをして、ああだこうだと、お互いに思っていることやイメージしていることをぶつけ合って音楽を創っていく作業は、そりゃ、行き違ったりすることもあるだろうけれど、きっと楽しいのだろうなあと、私は思った。こうしたことを知ることができただけでも、このレクチャーに参加してよかったと私は思っている。

なお、これは後の打ち上げで聞いた話だけれど、生きている作曲家のなかには、リハーサルに一切立ち会わないという主義の人もいるらしい。「それじゃ、尋ねるけれど、ベートーベンやモーツアルトに、お伺いをたてることができるかい?」ということらしい。それはそれでもっともだと思う。って、作曲家が演奏家にすべてをゆだねるには勇気も必要?

あとは、うれしいとか、かなしいとか、そうした感情は作品に持ち込まないと、山口さんが話していたことも印象に残った。うんむう、そうなんだ・・・。ちあきなおみの歌を聴かせたい。

また、石塚さんが質問していたが、リズムの問題は、おそらくあまり意識されていないのではないかと思った。

次に、作曲家・渡辺俊哉さんがご自分の作品について話をされた。それはトロンボーンの倍音を意識した作品らしかった。トロンボーンはスライドがあるので、そのポジションによって、出る倍音が異なったり、音を出しやすかったり出しにくかったり、ということがあり、ここで細かいことは省略するが、とにかく、演奏者の村田さんは、慣れるまではものすごいストレスを抱えたと言っていた。あの村田さんの表情は、ああ、ほんとうにストレスだったのだと感じさせるものだった。

とにかく作曲家の指定通りに演奏者は演奏しなければならないわけで、どう考えても、演奏者は人間的にはマゾ的な人でないと、演奏はできないのではないかと思ったりもした。そのことを村田さんに伝えたら、笑っていたけれど。無論、「なんだ、こんな曲を書きやがって、作曲家のバカヤロー」と思うこともたくさんあるらしい?

たとえば、村田さんの場合、いわゆる特殊奏法を駆使して演奏して、途中にごく普通に吹き、また特殊奏法へ復帰、というような曲を演奏するときは、唇や肉体がついていけなくなるときがあるそうだ。

それはものすごくよくわかる。

一昨年、西山まりえさんのセミナー合宿に参加した際、たった3日間、古楽の調べのなかにいただけで、その2日後に現代ピアノを弾いてライヴをしたときに、自分の耳や身体が感じた違和感といったら・・・、それはもう自分で驚くほどのできごとだった。

余談。実は、チェンバロを習おうかと思ったことがある。でも、もし習い始めたら、自分はピアノを弾けなくなる、身体を壊す、と直感的に思ったので、やめた。同じ鍵盤楽器でもどえりゃあ違うわけで。構造上、チェンバロとピアノのそれとはまったく異なるから、タッチの感触、指の感じ方や動きは、身体への負荷にかかわる問題になる。

また、渡辺さんは、たとえば、半音を7つに分ける微分音を指定したりする作品も書いているらしい。考えただけでも、私には気が狂いそうな話だけれど、実際、演奏するほうはもっとたいへんであろうことは想像にかたくない。で、それは私たちの明日にどうつながっているのだろう?と思ったのだけれど、質問しなかった私。

チラシには「近年は、音と音の関係性から生まれる陰影や微妙な差異を聴きだしていくこと、そして空間的、遠近的な音の状態を作り出すことに関心がある」と書かれている。このレクチャーでも同様のことを話されていて、どなたかが横糸のことを質問されていた方がいたけれど、では、渡辺さんにとって旋律というのはどういう意味を持っているのだろう?と私はちょっと尋ねたくなった。これもまた質問しなかったけれど。

そのほか、作曲家・鈴木治行さんはビデオでメッセージを届けていらっしゃった。どうやらミニマム的な作品?

それにしても、作曲家に新作を依頼し、初演をする、というのは、演奏家にとってどういう気分なのだろう?どんな作品かもわからず、およそ一ヶ月前くらいに届いた譜面を読み解いて一所懸命練習する、という行為。もし曲がつまらなかったら、どうするのだろう?などと私は思ってしまう。

しかも、中村さんはときどきたくさんの書き込みが入った譜面の写真を、SNSなどにアップされているけれど、いやあ、もう、私ごとき者にとっては、その譜面たるや、超難しいこと、このうえなく。自由に勝手に弾いてよいと言われたら、もしかしたら似たようなことはできるかもしれないけれど?

でも、中村さんはそれがとっても楽しいらしい。27日には作曲者とリハーサルを行ったらしく、「演奏に作者の息吹が注入され、代わりに私のちっぽけな自己が抜けていく、この感覚が好きだなあ」とつぶやいている。

いわば、窮屈な自分から解放されて、だんだん音楽になっていく感覚になる、というような感じのことかと思うのだけれど。そっか、そういうとらえ方もあるのだなあ、と私は気づかされた。

コンサート前日、28日の中村さん。「午前中の練習はちょっと久々のハノン60曲完走。暖房要らず!」

いやあ、この感覚もよくわかるなあ。本番とは全然違うことをやるの。でも、私はハノン60曲完走ならぬ、完奏なんて、とてもできないけれど。

演奏者の村田さん、中村さん。お二人とも、音楽に対してほんとうに真摯に向き合っておられ、お人柄もすてきで、私は大好きだ。今晩、すてきなコンサートになりますように!


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追記(3月1日)

2月29日付けの「2つのレクチャー」を読み返してみて、それは、自分の関心事や立っているところの再確認になっていると思いました。

古楽に見出す即興性や曲の自由な解釈に、おおざっぱに言えば、ジャズから出発した自分は非常に親密なものを感じていると思っています。

けれど、私が実際に演奏する音の表れは、他人からはよく現代音楽のようだと言われます。フリー・ジャズを演奏するミュージシャンからの冷たい視線も感じながら。(ここで、「自由」という概念を持ち出すと、話はややこしくなるので、話題にしません。)

また、先般、ラジオからベルクの弦楽四重奏が流れて来たときは、ああ、いいなあと思って、音量を上げました。クラシック音楽の歴史で言えば、シェーンベルクの作品をとても調性のある音楽に感じる耳が自分にはあるらしく、アイヴスの作品も好きなことを思うと、19世紀後半に生まれた作曲家のサウンド感覚が自然に自分のなかにあるのかもしれません?

ともあれ、このことをきちんと言葉にするには、まだちょっと時間がかかりそうですが、いずれにしても、近年、ますます、カテゴライズや、いわゆる音楽のジャンルやら形式といったことが、自分のなかでどんどん溶け出しているような感覚だけはあります。どーでもいい、のです。

音楽は自己表現の道具ではないと、はっきり自覚するようになってから、さらに今世紀に入り、弦楽器奏者との共演や、30年ぶりにブラームス(ピア三重奏の作品)に取り組んだ頃から、そして、一昨年、天才・喜多直毅(vn)さんと2枚目のCD『愛の讃歌』を発表して、この感覚はさらに加速している感じです。



追追記(3月2日)
上記、一部、訂正いたします。

JMLのレクチャーの話の中に、リハーサルに立ち会わない作曲家のことを書きましたが、この件について、中村さんよりご指摘を受けました。立ち会わないのは演奏家のほうだそうです。

つまり、もしリハーサルの場に作曲家がいたら、演奏家は帰る、ということのようです。自分が一所懸命解釈した結果だけ(本番)を聴いてくれということなのかもしれません?










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