4月
しがつ

4月7日(月) ふなっしーにはまった

なんだ、これは?うざい、騒々しい、でしゃばり、キモい、なんだか嫌だなあ。これがその姿を初めて見た時の印象だった。2013年末の紅白歌合戦、楽屋廊下での曲紹介のシーンで、激しく動きまわる、見たことがない黄色と水色の物体。

世の中は“ゆるキャラブーム”だったらしいのだけれど、そんなことをよく知らずにいた私は、それが「ふなっしー」と呼ばれる、船橋市非公認キャラクターだったことを、実はごく最近知った。

そしてマイブームは何の前触れもなく、突然やってきた。4月の初め頃だっただろうか、なんの気なしにYouTubeで見てから、・・・はまってしまった。

ちっともかわいくない。だいたい、何だ、あの目は。おまけに、背中の大胆なチャックはけっこうみっともない。思わず、開けたくなるじゃないの。足元が壊れた時は自分で縫っているらしく、ずいぶん雑な感じの縫い目の時がある。

そういえば、ふなっしーのあんなデザインは到底許すことができない、とデザイナーの友人は言っていたっけ。あ、って、こう書いていて、やっとわかった。ずっと何かに似ていると思っていたのだけれど、ミジンコ、だ。

そして、どうやら汚れていて、きたなくて、臭いらしい。だいたい、黄色は汚れが目立つにきまっている。(もっとも最近は石鹸会社がスポンサーについたらしく、花の香りがするらしい。)

しかしながら、いやあ、半端ない身体能力。激しく身体を揺する運動。右へ左へくねくね動く。上下に縮んだり伸びたりする。おまけに、驚異的なジャンプ力。そして足はとっても速い。ダンスもうまい。

たとえば、足が速い映像。
http://www.youtube.com/watch?v=1WDDOk_GECc

http://www.youtube.com/watch?v=w1CMxb9ldaU

「スリラー」で踊る映像。
http://www.youtube.com/watch?v=5xSkiQIjCFg

なにせ、しゃべる。さらに、高い裏声を駆使して奇声を発する。すべての文章の最後に「なっしー」が付いていて、まるで特異な言語感覚を持つ民族のようでさえある。ゆるキャラなのに、着ぐるみなのに、人格を持っているじゃないの。

インタビューを受けるふなっしー。
http://www.youtube.com/watch?v=krIO1cq30HE

しかも、身体も声も、異様なハイテンション。さぞかし疲れることだろうと、大人の同情を寄せずにはいられなくなる。実際、着ぐるみに入っていられる時間は20〜30分が限度らしいが。

いろいろ見まくっていると、最初はまったく独りで、勝手にキャラを演じて、勝手にイベントなどに参加していたらしい。その動画をYouTubeにアップしたりしていたものの、船橋市の公認も得ることができず、市役所ではたらいまわしにされ、アテンドやマネージャーもおらず、どうやら個人で活動しているらしい。

たとえば、その辺りの経緯を知ることができるのはこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=LoCKiLgu7RU

http://www.youtube.com/watch?v=jrOKIAd9ic0

このようなものが、否、このような人が、私の琴線のどこに触れたのだろう?とずっと考えている。

はっきり言って、そんじょそこらのお笑い芸人(ほとんど見ないのだけれど)より、百倍、面白い。大人が笑うことができるキャラで、久しぶりにわっはっはと声をあげて笑っている自分がいた。

たとえば、志村けんと。
http://www.youtube.com/watch?v=0xLaB716RDA

そして、この歌。
http://www.youtube.com/watch?v=y8A9bP6BkWI
なんて下手くそで、なんてすばらしいのだろう。ギターがあれば、弾ける人は普通にギターをつまびくのが常だ。(多分、彼は演奏できる。)が、彼は違う。水の入っていないペットボトルで、ギターを叩いて音を出している。叩いているタイミングは裏拍になったり表になったりはしているものの、リズム感は抜群だ。このリズム感が着ぐるみを身に付けていながらも、キレの良い動きやダンスを支えている。

さらに、この入浴シーン。
http://www.youtube.com/watch?v=Bz0mjTp0jVQ
すべてについて言えることだが、彼は自分の見せ方がものすごくよくわかっている。よく考え抜かれている。言い方は悪いが、明らかに確信犯だ。いつの世でもそうだけれど、“ブーム(流行)”などというものはいつか終わる、という覚悟あるいは認識を持った上で、今、自分は何をすべきかと周辺を見回しながら活動している。

とにかく、発想が新しい。

また、こういう時代、つまり、インターネットの時代だからこそ、広く認知された部分があると思う。その初期に、本人自身がYouTubeやTwitterを利用したことも含めて、世の中への新しい現れた方をしていると思う。

テレビやマスコミ、さらにふなっしーに次々と群がった企業(おそろしい数のグッズが売られている)は、いわばうんちみたいなものだろう。付け加えれば、彼がお笑い芸人が中心のテレビ番組に出演した時の、その番組の下品さたるや、今のテレビ文化の質の低さを目の前につきつけられるかのようだ。

そして、なにより、自由、だ。

「今となっては、船橋市に公認されなかったから、こんなに自由にふるまえている」と本人も言っているが、まさしく、そういうことだと思う。

いわばこのハチャメチャさは、こんな時代にこそ、とっても大事だと私は思う。(こんな時代、には、だんだんだんだん戦争ができる国になろうとしているこの国、という意味も含まれている。)なんとなく「ええじゃないか」に似ている現象にも思えてくる。(「ええじゃないか」には諸説あるが、ここでは世直しを訴える民衆運動として考えることにする。)どんどん鬱屈、閉塞していく時代にあって、個人が声を出して、ストレス発散、みたいな側面も含めて。

最近、彼は「ヒャッハー」のコール&レスポンスをよくやっているようだが、その様子を見ていて、私は坂田明(as)さんと中学生のブラスバンドと共演する仕事をした時のことを思い出した。

ブラスバンドは体育会系のノリがあるらしいが、とにかく子どもたちの声がとても小さい。子どもたちが指導する先生の顔色をうかがったり、あるいは逆に先生が子どもたちを押さえつけているという印象をぬぐえない状態だった。

その時、坂田さんが最初にやったことは、子どもたちに楽器を置かせて、まず「ヤッホー」「バカヤロー」といった言葉で大きな声を出す、ということだった。誰の目も気にせず、自分の声で、自分が出したいだけの声を出す。自分を解放する、ということだ。それは大切なことだろう。

ただ、別の角度から見ると、こうした様子はヒットラーを想起させる面もあると思う。紙一重だ。もし彼がふなっしーをやめるとすれば、ふなっしーがそんな自分に違和感を抱いた時だと思う。彼はきわめて個人の“個”を重んじているように、私には感じられるからだ。というか、もともとそこから出発しているわけだけれど。(ほかに、彼がふなっしーをやめるのは、己の体力の限界と身体能力が落ちたと自覚した時だろう。)

さらに、彼には場や空気を読む力がある。
そして、即興力、対応力がある。

当初、本名は?と尋ねられた時、彼はいつも適当に応えていたらしい。つまり、その時その場で思いついたことを口にし、あっちとこっちで言うことは違っていたらしいのだ。いわば、それだけヴァリエイションを持っていたということだ。それがいずれ同じ応えになっていったとしても。

これはもうセンスがあるとか、能力がそなわっているとしか言いようがない領域だ。様々なことに対応できるように、あらかじめ考えられ、用意されている言葉(なっしー、梨汁ぶっしゃー、イリュージョン、インストール、時々疲れたなっしーと言う、などなど)もたくさんあるけれど、彼の言葉の選び方や当意即妙なトークは、天が与えた彼の才能だと思う。

そして、それは話す相手によってかなり変わる。というより、その相手に柔軟に対応できる身体性や感覚を持っている。彼には志村けんとのコントにも対応できる力があって、笑いを誘う。けれど、イベントの舞台などで、マニュアルに書かれていることしか話すことができない若いお姉さんは、彼と会話を交わすことが全然できない。かくて彼はひとりつっこみとぼけをかますことになるのだが。

今、ふなっしーは“キモキャラ”とも呼ばれているらしい。キモイという気持ちもわかる。うんとキモクなればいいとも思う。

先月末で長寿番組『笑っていいとも』が終わったが、タモリも最初は相当キモかった。なにせ、私の認識は、タモリはスタジオの床を這いずり回るイグアナだった。その才能のすばらしさについては、坂田明さんからもいろいろ聞いたことがある。タモリを見出した故赤塚不二夫さんや山下洋輔さんなど、みなさんで遊びまくっていたという若い頃の話だ。

おまけ。タモリと坂田さんの即興芝居らしき参考映像。
http://www.youtube.com/watch?v=x00xuSDD7CE

話を戻せば、ふなっしー、NHKのインタビューに応えて
http://www.youtube.com/watch?v=S-Ou__9P0U8

上記で言われている“物語”は、今年の冬季オリンピック直前に暴露された作曲家と影武者の話を持ち出すまでもなく、日本人好みだと言ってしまえばそれまでだ。が、ともかく、彼はこういう自己認識を持って活動している。そんな彼にとって、自分があずかり知らないところで増殖していった物欲現象(各企業が様々なグッズを販売し、CDを作り、DVDを作るなど)に一番驚いているのは本人だと思うし、そりゃもうお金はどんどん入ってくるけれど、けっこう醒めたまなざしで見ているように思う。

このようなことをしている目的は何なのだろう?といぶかしげに思わなくもないが、上記インタビューの最後で応えていることは、あながち嘘ではないだろうと思う。ふなっしーは、道端に咲いているぺんぺん草みたいに在りたいと思っている気がする。

タモリは「反省はしない」と言っていたが、ふなっしーは、もしかして、だいそれた目的を持たない、のがいいのかもしれない、とさえ思う。彼は東北の南三陸の支援活動もしているけれど。

つい先程、『いいとも』の後の番組にゲストで出演したふなっしーを見たが、あんなに謝らなくてもいい。頭を地面にこすりつけて「ごめんなっしー」とたくさん言わないほうがいい。テレビやマスコミにへんに媚びないでいて欲しいなっしー。私はあのすばらしくへたくそな歌をうたっているふなっしーが好きだなっしー。

瞬間、瞬間に、ふなっしーは身体をはっている。怪我をしないようにね。

と、まあ、こんな分析をしてどうするんだ?という話しだが、ちょっと自分のためにまとめてみました。ヒャッハー!



追記
現在、同時にはまっているのが、クラフト・エヴィング商會の吉田篤弘さん。実に文章がすばらしい。久しぶりにこういう文章に出会ったように思う。

ふなっしーとは対極だ。ふなっしーがたくさんの子どもたちに囲まれた、太陽の光がいっぱいふりそそぐ野外のイベント広場が似合うならば、吉田さんは雪がしんしんと降り積もる、静かな一室にひとり、という光景が似合う。

と、書いて気づいた。いや、ふなっしーはひとりぼっち、だ。むしろ吉田さんは言葉を介して、無言の多くの人たちとつながっているのかもしれない。それは決してヒャッハーな状態ではなく、ほのぼとした掌の温かさのようなものを伴っている。

先月末、世田谷文学館のクラフト・エヴィング商會の展示に足を運んだのだけれど、 最終日、多くの若者たちが真剣に見たり感じたりしている様子を見て、この国はまだだいじょうぶかも?とちょっとだけ思ったりした私だった。こういうメンタルを抱えている人たちが、必要な時に、ヒャッハーと自分の声で自分の言いたいことを言える国であって欲しい、と私は強く願う。いや、あるべき、なのであって、私は声をあげ続ける、のだ。



さらに追記(4/8)
ふなっしー自身が作った、初期の映像を見ていて思った。

初期の映像には、ギターを叩きながら歌っている。お風呂に入ってパシャパシャしている。書斎らしきところで、パソコン倒したりしてごろごろ遊んでいる。誰もいない橋の上で、ひとりで勝手に踊っている。そんな姿や様子が残されている。

なぜ人はふなっしーに魅かれるのか?忘れていたのに、なぜまた繰り返し見てしまうのか?ということを考えた時、その答えは、ふなっしーの原点とも言うべき、これらの初期の映像の中にあることに気づいた。

ああ、そっか、人は自分の幼児体験を追っているのだ。自分が幼児だった頃を、あの姿に見ているのではないかと。そこにあるのは、記憶、だ。この感情と脳の働きが、人をふなっしーに向かわせているように思う。

そういう流れで考えてみれば、クラフト・エヴィング商會の展示で自分が感じた、「今、見ていることのもうひとつ先に、奥に、何かがある」という感覚は、この記憶ということにつながっていくことにも気づいた。薄暗い闇に向かって、ゆっくり歩みを進める自分がいる、という感覚。結局、自分を見ている、という感覚。

それは、たとえば、自分が生まれてこのかた、三味線の音(ね)などが隣の家から聞こえてくるような環境は皆無だったにもかかわらず、三味線の音を聞くと、なんだかずいぶん昔に聞いたことがあるような心持ちになるのと、少し似ているかもしれない。

もっと深読みすれば、この感覚が、日本の天皇制の問題にもつながっていくような気がしている。って、理屈ばかりこねて、わけがわからなくなってきました。これにて終わりにいたしまする。











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