5月
5月1日(木) じりじり

無声映画は後半戦に突入。担当する残りの2本の映画を観る。『不壊の白珠』を観ていて、なんだかじりじりうじうじした気分になった。『警察官』はストーリーは割合に単純。牛鍋(?)をつつくシーンではお腹が鳴った。

夜は、門仲天井ホールの存続を考える会のミーティングに出席する。



5月2日(水) トリオ

夜、渋谷・ドレスで、坂田明(as)トリオのメンバーとして演奏。

今年は7月に関西のほうへツアーに出る。が、夏の軽井沢朗読館、秋の足利・ココファームには、トリオでは演奏しないから、とのこと。

坂田さんに声をかけていただき、ココファームの収穫祭(毎年11月の第3土日)には、これまで14〜5年に渡って参加させていただいた。このココファーム、そしてこころみ学園では、とてもたくさんのことを学んだ。園長先生は一昨年の年末にお亡くなりになられたが、初めて会った時の、あの園長先生の“手”を、私は決して忘れないだろう。収穫祭の時期はちょうど自分の誕生日とも重なることもしばしばあって、非常に思い入れが深い。ので、言いようのないさみしさが残る。



5月3日(木) にらめっこ

地元では今日から三日間、大きなお祭りがあるというのに、家から一歩も出ず。無声映画2本とにらめっこ。自転車操業的状態。どうも自分の肌に合う映画とそうではない映画があるようで、合わない映画の音楽を考える場合、とりかかるまでに時間がかかってしまっていけない。とりかかってしまえば、一気にいけるのだけれど。



5月4日(金) 無声映画・その3

神保町シアターで『不壊の白珠』(清水宏監督/1929年・昭和5年)の音楽を奏でる。

映画の内容は、要は、自分が好きな男性を妹に譲って煩悶する姉の話。妹はその男性と結婚するが、結婚後も以前から付き合いのある不倫相手とドライヴしたりダンスホールで踊ったり・・・結局、そのことを旦那様から責められた妹は家を出てしまう。ラストシーンは、傷心の旦那様が大きな船に乗ってどこか外国へ行ってしまい、見送る姉は涙をぬぐう、という感じで終わる。ああ、妹が一番自由奔放に生きているのね。

なお、その間、姉は勤め先の専務(妻を亡くしている)から結婚を申し込まれる。それで、姉は軽井沢の別荘まで出かけたりもするが、子供たちや女性たちや女中からも馬鹿にされたりする。この映画にも格差社会が描かれている。

また、冒頭、姉が夢を見ているシーンや、妹と男性の結婚式で眩暈を起こすシーンなどでは、おそらく当時最先端の編集技術が使われているのではないかと思う。

で、この映画には同名の主題歌がある。作詞:西条八十、作曲:中山晋平によるもので、一番の歌詞は、
「やさしき母の子守唄 ふたりで聴いて寝た夜の 思い出ゆえに 妹よ あなたに恋を譲るのよ」
この二番がちょっと悲惨。
「あなたは赤く咲く花よ 私しゃ冷たい石の墓 墓の表に刻まれた 姉という字のさびしさよ」

何も「冷たい石の墓」になんかならなくたっていいじゃないの、と思うのだが。自分の身(私は、姉/長女)に置き換えてみると、そういえば妹は赤とか明るい色の服を着ていたけれど、私はいつも灰色とか紺色だったかも、という記憶が甦ってきたりする。なので、ニュアンスは充分伝わってくるように思われ、西条八十の言葉の紡ぎ方にあらためて驚嘆する。

実は、今回、この映画に付けた音楽の発想の源は、この主題歌のイントロにある。
(YouTube(歌手・四家文子のデビュー曲)で聴けます)

最初に「ん?」と気づいてしまったのが運のツキ。7小節目に♭5、すなわちブルーノートが使われている。従来の日本の唄ならば、この音は臨時記号の付かないただの「ラ」だろう。ところが、ここが「ラ♯」になっている。

この曲のアレンジを誰がしたのかはわからないが、明らかに“ジャズ”の影響だと思う。それで調べてしまう。

偉大なる作曲家・服部良一がサックスとフルートを持って大阪から上京したのは昭和8年の8月。それより以前、彼はディック・ミネ(歌手)から「今はなんたってジャズの中心は東京へ移っている」と言われ、上京を勧められていたそうだ。

ということは、この唄の吹き込みがされた頃、東京ではジャズがヒップな音楽として広まっていたことは想像に難くない。実際、映画の中のダンスホールのシーンではもちろんジャズ・バンドが生演奏をしている。

さらに、そのモガぶりを発揮している妹の、高級車のカタログを見ているシーンの背後には蓄音機があり、彼女は何かのレコードを聴いていたりする。

ちなみに、東京でJOAK(東京放送局)が日本で初めてラジオ放送を始めたのは大正14年3月、その後大正15年8月に大阪の放送局と統合され、NHKラジオが誕生している。

なお、この映画が作られた1929年の前年は、先に『限りなき舗道』のところに書いた「私の青空」のレコードが発売されてヒットした年だが、アメリカで同時期に流行ったものが、すぐに日本にも輸入されてヒットしているという事態は、当時の交通事情や通信状況を思えば、ものすごいことだ。一般市民は飛行機になんか乗れないし、インンターネットの世界なんて無論ありゃしない時代なのだから。ついでに、明治以来、諸外国から輸入されたものを、いち早くなんとかしてしまう日本人の姿も垣間見えるように思う。

といった時代背景を踏まえつつ、あらためてこの主題歌を聴くと、なるほどなあと、私はひとりで勝手に納得してしまったのだった。

それで、普段はあまり好きではないのでやらないのだが、この唄をリハモナイズして、ちょっと現代的で透明感のある雰囲気にアレンジしてみた。そして、映画の中で何箇所か引用し、様々なヴァリエイションで演奏することにした。さらに、全体を思い切って、“ジャズの方法”(きわめて表層的な意味で、この言葉を使っているが)を意識的に駆使してみようと考えた。

この考えにさらに拍車をかけたのが、この姉の煩悶する心理描写(私はほんとうはあの人が好きなの、好きなのよ〜、でも妹のために、妹のために、妹のために・・・)に、どう音楽をつけようか?と考えた時に頭に浮かんだのが、数多くのポピュラー曲を作っているコール・ポーターのことだった。

コール・ポーター。もっとも有名な曲はおそらく「You'd be so nice to come home to」だろうか。彼の音楽には、1曲の中に長調と短調が混在していたり、♭5がなかなかえぐい役割を果たしていたり、という特徴がある。実際、この「ユービーソー」もマイナー・キーで始まるが、終わりはメジャー・キーだ。

それで、彼が書いた曲のコード進行をちょいと拝借したりして、気持ちの不安定さのようなものが出るかなあ?と思いながら、これもまたいくつかのヴァリエイションを考えて弾いてみた。

でも、姉の心の中を想像すると、それだけではどうも何かが足りない。そう思いながら一晩寝て、翌日家を出る直前にふと思いついて、小さな鈴を鞄に入れた。ほんとに小さな音しか奏でないのだが、「チリチリチリチリチリ」という感じがどうしても欲しかった。実際、この鈴を指にぶるさげながらピアノを弾くのは思っていたよりもたいへんだったのだけれど、使ってみてよかったと思っている。

こうした音楽が良かったのかどうだったのか、正直、自分でもよくわからない。が、おそらく他のピアニストはやらないだろうなあと思うアプローチでトライしてみた。

いずれにせよ、今回自分が担当した4本の映画については、方法論をしっかり意識して、できるだけそれぞれ違うアプローチで音楽をつけたいと考えていた。だから、今回はこんな感じ、というところだろうか。

なお、私は他のピアニストがどう音楽を作っているかを、ほんとうは聴きたかったのだけれど、期間中、結局、誰の演奏も聴かなかった。天池さんのリハーサルだけ、少し聴いた。正直、他の人の影響を受けたくないという思いもあったと思う。というより、実際、他の映画や他の人の演奏を聴いている余裕がなかった。今回は・・・ごめんなさい。



5月5日(土) 無声映画・その4

今日の映画は『警察官』(内田吐夢監督/1933年・昭和8年)。

ストーリーは複雑ではない。主人公の警察官の伊丹が、久しぶりに会ったかつての親友・哲夫(机の上に写真を飾っておくほど思い入れは深い)が、実は自分の上司の宮部をピストルで撃った銀行強盗犯ではないか?と疑い、嵐にもめげず外でハリコミをしたり、指紋を採取したりしながら、親友を追いつめていく。最後は彼の腕に手錠をかけて抱きしめる、というシーンで終わる。

映画の中には暗い夜のシーンもけっこう出てきて、車やバイクのライトなど、光と闇がとても効果的にフィルムに収められている。

音楽は、警察のテーマには低音でストラヴィンスキー風味、二人の友情のテーマには自作曲「with you」及びそのヴァリエイションを、上司・宮部の病床のテーマは悲しげなイ短調、銀行強盗の事件が起きたり、最後の夜中の1時過ぎに警察官が突入して銃撃戦が繰り広げられ、一味が逃げ回るあたりはパルス的なフリー。さらに、“指紋”をめぐるシーンや伊丹が親友に疑いの念を深くしていくところは、抽象的なアプローチにして、マレットを用いたごく初歩的なピアノの内部奏法を試みた。

この監督は、1シーンをけっこうしぶとく引っ張り、長いため、弾いているうちに自分の演奏に飽きてくる。ので、転調したり、パターンをちょっと変えてみたり。

で、この映画は途中であまり無音にできず。結局、一番最後に2人が対面するところで、音楽をカットアウトして、最後に映画が終わっても、演奏はそのまま残して終わることにした。場内の照明が上がっても弾いていた最後の音楽は、「with you」。

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終了後、無声映画について、自分の考えを少しお話しさせていただいた。

私はこれまで無声映画はもとより、演劇や朗読の音楽も長年やってきている。その際の「意識」はいわゆるBGMでもなければ、伴奏でもない。たとえば、演劇の“劇伴”ではないし、朗読の邪魔にならないように、背景に退いたような演奏をするというのでもない。

この姿勢は、普通に音楽のライヴやコンサートをやっている時、誰かがリーダーのバンドで演奏する時も、歌手と共演する時も、原則、変わらない。歌手と演奏する場合も、最初から伴奏という風に思って演奏することはまずない。

ただし、人を見て(まだ経験の浅い若い歌手など)、伴奏という態度でやったほうがいいと判断した時は、相手の意識に合わせて、そうする場合もある。(すべては“関係性”の中で変わる。)あるいは、音の現れとして、仮に伴奏のように聞こえたとしても、その時の自分の役割やポジション、弾いている音は、いつだって、この意識から生まれ、すべては意思で選び取られている。

ほんとうに創造的な行為は「対峙」する中で生まれる、というのが、私の基本的な姿勢だ。

なので、こうした考えと相容れない考えを持っている人とは、次第に疎遠になっていくし、こうした“創造”の姿勢に耐えられないと感じる人も少なからずいるらしく、そういう人は私に二度と仕事をオファーしてこない。

というわけで、今回の無声映画の音楽を作るにあたっても、私の基本的な意識は、このすばらしい映画と対峙する、という姿勢で貫かせていただいた。

なので、こんな風に考える私の音楽は、ちょっと主張が強過ぎて嫌だなあと感じた方も少なくないのではないかと思っている。

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また、無声映画に音楽を作るうえで、方法論として、私が一番大切に考えていることは、その場面(シーン)あるいは映像との「距離」だ。これは演劇や朗読も同様。さらに、この考え方は、普段の演奏や即興演奏の場合においても、さらに生活していくうえでの人間関係にも、敷衍して考えることができる。

その場面にベタにつけるのか、寄り添うのか、つき放すのか、真綿のように雰囲気を包み込むようにするのか、全然関係ないことを持ち込んで空間のベクトルを生みだすのか・・・様々な方法がある。ちなみに、「合わせるな」ということを最初に教えてくれたのは天鼓(vo)さんだ。

他には、できるだけ説明的にならないように、人の感情を直截的にヘンに揺さぶらないように、といったことは注意しているだろうか。

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さらに、私は無音の状態を作る、と先に書いたが、この点においても、私の音楽の作り方に不満あるいは批判を抱いた方も多くいらっしゃったかもしれない。私の無音を入れるやり方は異端かもしれない。いや、異端だろう。

なぜ無音の状態を作るのか?

無声映画において、音が何もない状態を意図的に作った私の根底にある考えは、何の音も聞こえない状態が、いかに豊穣であるか、いかにすべてを語っているか、それに尽きる。

これは映画『ひまわり』(ヴィクトリオ・デ・シーカ監督/1970年)から学んだ。最後のほう、マルチェロ・マストロヤーニがソフィア・ローレンを訪ねて来た時、二人は一言もしゃべらず座っているシーンには、確か音楽も流れていなかったと思う。あの「沈黙」を映像に描きこんだ監督はすごいと感じた。あの何も語られていない時間が、すべてを語っている。この映画のすべてがここにあると思った。

『音、沈黙と測りあえるほどに』(1971年)という本を出したのは作曲家・故武満徹。「沈黙劇」を試みたのは劇作家・演出家の故太田省吾だが、少なからずこの二人から影響を受けている私の、この「沈黙」を思考の中心に据える考え方は、大学時代に能楽を学んだことともあいまって、自分の本質的な資質、志向なのかもしれない。

実際、たとえば黒田京子トリオ(vn,vc,pfによる)の音楽にはスカスカな“間(ま)”があって、ちょっと奇妙だ」と感想を言っていた友人がいるのだが、それもまた、こんな私を反映しているのかも?私、弾かないで、共演者の演奏をよく聴いているし。てへ。

無声映画の話に戻れば、そもそも、監督の許可も得ずに、音楽なんぞを実に勝手に付けるという行為は、僭越、不遜きわまりない振る舞いだと思っている。(この辺りのことは、ほんとうは公開当時の弁士や楽士のことも勉強しなければいけないと思っているが、現時点ではまだ果たせていない。)

だから、誰かが音楽を奏でている無声映画は、その時点で、無声映画そのものとはまったく別のものだ、と考えるほうが自然だと思う。

そう考えると、私が対峙すべきは映画そのものということになる。

それで、たとえば映画が始まって割合に早い段階で演奏をやめて、音が一切聞こえない静かな時間を作ると、観ている者は映像そのものの力にぐっと引き寄せられる。すなわち、声がないゆえに、やや誇張されているとはいえ、役者の顔の表情や身体表現、切り取られた街の風景などが、音にまどわされることなく、観ている者の意識に、一気に届く時間が生まれる。それはとりもなおさず、この映画が無声映画であることを強く認識する時間を持つことにほかならない。

その時、観ている者は何を聴くだろう?自分が音によって流されていないと、多分、人はいろんなことを感じ、考え始める。ある人は、自分の呼吸する音を聴くかもしれない。ある人は、隣の人がコンビニのビニール袋を触っている音が気になって仕方ないかもしれない。ある人は、スクリーンに写っている役者のいぶかしげな表情から、今後のストーリーの展開につながる何かをみつけようとするかもしれない。ある人は、あのジャズバンドは何の曲を演奏しているのだろう?と想像するかもしれない。

などなど、いずれにせよ、観ている者はおそらく“生きている自分”を感じ、映画を観るという行為に非常に能動的になるように、私には思える。この感覚は、通常の映画を観るのとは全然違うもののように思うのだが、どうだろう?私には無音の状態は、観ている者、一人一人に問いかける時間を与えているようにも思えるのだけれど。

それを逆転して考えれば、そういう理由から、私は映画の始まりと終わりは、ほんとうはどうしても真っ暗闇の中で演奏したかった。今度は、何も見えないけれど、音だけが聞こえてくるという情況の中で、人は何を聴き、感じるだろう。終わった後ならば、その映画の余韻に浸りながら、人は必ず何かを思うだろう。

何も聞こえない。何も見えない。私はそのことを怖れない。

とはいえ、眼や耳が不自由な方にはたいへん申し訳ないが、網膜剥離になりかけたこの眼、突発性難聴に見舞われたこの耳、のことを思うと、上記の言い方は映画と音楽のことを考えた抽象論ではあると思うけれど。

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そして、このように考える私は、無声映画の上映は、現代において、非常にアクチュアリティのある側面を持っていると考えている。

今、テレビをつけると、うるさい。画面は総天然色どころか、ケバイ。最近はNHKの番組の中にもそういうものが増えているように思う。テレビはいったいいつからこんな風になってしまったのだろう。

今年度のアカデミー賞を受賞した映画『アーティスト』。残念ながら、私はまだこの映画を観ていない。この無声映画がなぜアカデミー賞を受賞したのか、私は知らない。

が、今、無声映画を上映すること、それを享受することは、単なる懐古趣味ではなく、時代的かつ芸術的な意味も含めて、新しい表現につながる何かがあるような気がしてならない。

無声映画の中で実に表情豊かに演じている役者たちの演技は、現代において希薄になっている、あるいはそのすべを知らないと言われている、人間のコミュニケイションの本質や問題を提起しているかもしれない。

また、映画を観る人には、ただ目の前に流れているものを受け入れるだけではなく、自分で能動的に掴み取ろうとする行為が、文化を真に享受する姿勢ではないかという問いかけを、無声映画は投げかけているかもしれない。

この神保町シアターの意欲的な企画は、映画館にピアノがあるということのみにとどまらず、映画さらに文化の可能性を広く社会に問いかける、開拓者的役割を既に担っているのではないかと思う。この企画が多くの人に受け入れられ、小学館(この映画館の持ち主)にもがんばっていただき、息長く続いていくことを切に願ってやまない。

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『警察官』の演奏を終えた後、観に来てくれていた大学の後輩たちと“ろしあ亭”で食事をして帰る。1人は能楽師、1人は国立劇場に勤めている。何か面白いことをやろうと話をする。



5月6日(日) 無声映画・その5

昨日に引き続き『警察官』の音楽を演奏する。アドリブの部分は、正確に言うと昨日と違うが(というより、同じことは絶対できない)、大幅に変えたりしたところは特にない。今日のほうが、“指紋”にかかわるシーンで、やや内部奏法を多用したかもしれないが。

無声映画については、上記「その4」のところで、かなり真剣に総括してみたので、今のところ、これ以上のことは書けない。現時点での考えをまとめるべきだと思ったので、思考しながら書いてみた。

それにしても、今回初体験したのは、演奏が終わって控室(事務所)に戻ると、その感想などが即ツイッターにつぶやかれている、という事態だった。ライヴやコンサートでもそういうことになっているとは思っているが、ここまでリアルに“時代”を感じたことはなかった。

神保町シアターは99席しかない小さな映画館なので、今回の企画の期間中、弁士も入る回などはチケットはSoldOutになっていた。せっかく来たのに、映画を観ずに帰らなければならない人が大勢いたらしい。なので、チケットの売れ行き状況を、シアター自身も刻々とツイッターでつぶやいていたのだが。

なんとも、ふえ〜、な時代になったものだ。

今日、この映画の音楽をやっていて、午後はまったく外に出なかったので全然知らなかったのだが、外ではたいへんなことになっていたことを、あとで知った。竜巻、突風、雹などで、つくば市などはひどい被害が出ているという。竜巻はこれまでの最大級だそうだ。スーパームーンになると自然災害が起きるというのはほんとう、ということなのだろうか。

夜、喜多直毅(vn)さんと打ち合わせを済ませた後、事務所に戻って打ち上げに参加する。

足を運んでくださったお客様、神保町シアターのスタッフのみなさん、今回の企画に誘ってくださった柳下さん、ほかいっしょに仕事をしたピアニストのみなさん、ありがとうございました。心から感謝いたします。



5月7日(月) 解放されて

無声映画から解放されて、買い物、しまくる。

エアカウンターを購入。自宅の庭や屋上などを、一応計測してみる。近くにある小学校の空間線量を定期的に発表している市の数値と、ほとんど変わりはなかった。が、やはり排水溝付近は、今でもちょっとだけ高い感じだったけれど。実は、震災以来、私は洗濯物をほとんど外に干していない。



5月10日(木) 複数の意識

午後、太極拳の教室。

今日は「複数の意識を持つ」ことを教わる。

これが、全然できない。先生は「意識を複数同時に使うことで、脳を刺激することが出来ます」と言う。ボケ防止にはもってこいの運動じゃないの。と思うのだけれど、なにせ、できない。でも少しでもできるようになりたい。

夜、大泉学園・inFで、通称タンコさんのロシアの唄のライヴ。今日は向島ゆり子(vn)さんがいないので、翠川敬基(vc)さんと石塚俊明(ds)さんと。これまでのライヴとはちょっと違って、それぞれがより自由に演奏した感じになった。

また、翠川さんの63回目の誕生日ということで、みんなでお祝いもする。みなさん、ピンク色のリキュールをたらしたウオッカを回し飲みされていた。うーん、どんな味がするのかしら?




5月12日(土) 間(ま)

地元の劇場、ふるさとホールで定期的に行われている“笑劇場”に行き、落語を聴く。「五代目小さん没十年」ということで、「東西の人間国宝のジュニアが共演」とうたわれている。

出演は、柳家花緑、桂米團治、仲入り後に、柳亭市馬、柳家小さん、という顔ぶれ。落語の前に、この4人が舞台上であれこれ話をするという趣向もあった。聞けば、小さんさんと米團治さんがこうして舞台で顔を合わせるのは初めてとのこと。

小さんさんは、81歳の時に人間国宝に認定された先代の子供。その際、先代は「ようやく国が口ものに目を向けてくれた」と喜んでいたそうだ。花緑さんは先代のお孫さんで、もう40歳だそうだ。

そして、米團治さんは、71歳で人間国宝に認定された桂米朝さんの子供。ちなみに、ほかには、平成14年に講談の一龍斎貞水さんが人間国宝に認定されている。

実は、私のご贔屓は市馬さん。この人が来るというのでチケットを買ったようなものだったが、今回の“笑劇場”は出演者それぞれの趣きが全然違っていて、なかなか面白かった。

花緑さんの落語には、どうも“間”がない。先代小さんさんが十八番にしていたという大酒のみの噺をやったが、全体がどことなく単調で軽く感じられる。

米團治さんは関西弁で軽妙なやや早いテンポの語り口。やはり関西と関東では、リズム感が違うと思った。

市馬さんはどこか落ち着いた感じで、はっきりとした口調で、ユーモラスに語る感じ。今日は歌わなかったけど。

小さんさんは、割合にゆっくりとしたテンポ感で、一番“間”のある話し方をされていたように思う。

落語は、言葉がどれくらいはっきり伝わってくるか、そしてテンポやリズム感、さらに“間”だと、つくづく感じた。

ところで、市馬さん。このたび本を出された。その名も『柳亭市馬の懐メロ人生50年』(白夜書房新書)。サインをしてもらいたかったが、かなわず。

で、この本。すこぶる面白い。剣道が縁で、先代の小さん師匠に弟子入りした時の様子なども書かれているが、メインは昭和30年代の歌謡曲の話。これがもう、市馬師匠、めちゃくちゃ詳しい。私よりちょっと若いのに。

それで、三橋美智也、春日八郎、村田英雄、三波春夫、岡春夫、フランク永井などなど、だんだん聴いてみたくなってきた。ちなみに、三橋美智也の生涯のレコード売上は1億600万枚!だそうだ。18曲がミリオンセラーを記録し、代表曲の一つ「古城」の売上は300万枚に達するという。す、す、すごい。

日本の古来より在る歌(あるいは唄)、民謡や浪曲などから出発した先人たちの、その発声や日本語の滑舌などは実にすばらしい。もはや現在の歌い手にはないものがいっぱいある。

そんなこんなを探っているうちに、辻康介(vo)さん、立岩潤三(per)さんとのユニット“Inventio”でやってみようかしら?と思う曲にぶちあたってしまった。乞うご期待、になるか?だいたい、このような歌を、J.S.バッハの著名な研究家を祖父に持ち、イタリア古楽に造詣の深い辻康介さんは歌うだろうか?というか、歌わせてもいいのかしら?でもね、うふふ・・・。



5月13日(日) 馬に燃える人たち

夕方から、“競う馬”に燃えている友人たちと、渋谷にあるパンダ・レストランで会食。昨日は“市馬”で、今日は“競馬”。

友人の一人は、共同馬主クラブのメンバーで、その中の一頭の馬が、このたびめでたく日本ダービーに出走することになったので、お祝いをする。また、別の友人は、日本に32人かしかいない某国家試験の第一級に受かったので、そのお祝いも兼ねる。それに、過ぎ去りし年末の有馬記念に、ある一頭の馬に単勝で百万円突っ込んだ愛すべき友人が花を添え、四人でわいわいと話をする。ちなみに、その百万円、それ以上になって戻ってきたそうな。

話しの内容のほとんどは競馬のこと。私にはマニアック過ぎて、ディープ過ぎて、全然わからないのだけれど、話を聴いているだけでも充分面白い。データの集積と濃い愛情と・・・いやあ、すごい。

ちなみに、今日の東京競馬場のG1レース“ヴィクトリアマイル”には、「オールザットジャズ」という名前の馬が出走。もちろん期待してテレビ観戦したけれど、最初からかなり後方に位置していて結局追いつけず、18頭中16位で、あえなく散ってしまった。



5月15日(火) 割れる

今朝、いつも朝食に使っている大きめのお皿を洗おうとした時、そのお皿が真っ二つに割れた。破片はない。

それより前、連休中に、鞄のポケットから定期入れを出そうとして、あやまって家の鍵を付けているキーホルダーを落としてしまった。そうしたら、それにぶるさげておいた、塩竈神社で買い求めた根付けの白い龍が、真っ二つに割れてしまった。

もう一度、何かが割れるだろうか?

ちなみに、拙曲に「割れた皿」という題名の曲があるが、これは孤高の画家・高島野十郎の絵からインスピレーションを受けた曲。

ともあれ、その間、パソコンは自動的に立ち上がらなくなってしまったし、お風呂の換気扇のタイマーは壊れた。おまけに、ここのところ左足が痛くて、歩いたり正座したりするのにとても難儀している。

そして今夜、喜多直毅(vn)さんからの急な報せ。本人がweb上で告知している(5/17付け)ように、しばらく転地療養をするために、6月下旬から8月末頃までに入っていた仕事をすべてキャンセルするとのこと。なので、7月25日(水)に予定されていた、黒田京子トリオのライヴもキャンセルになった。

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喜多さんが復帰されるまで、私は黒田京子トリオの活動を行うつもりはありません。喜多さんと再び共に音楽を奏でる日が来ることを、待ちます。

また、CDが売れない時代ではありますが、 このトリオでのレコーディングを考えています。 当初、来週の二連チャンのライヴで、“ライヴ・レコーディング”をしようかとも考えていたのですが、 あらためてスタジオで録音しようと思っています。 秋以降、あるいは来年になってしまうかもしれませんが。

どうか引き続きご支援賜りますよう、お願い申し上げます。

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それにしても、金環日食(実は富士山の中腹で観る予定)、それになんとも恐ろしい太陽のスーパーフレアといった大宇宙のいとなみ、。地震、津波、竜巻、突風、雷など、地球の怒る胎動。人類が作り出した放射性物質の脅威。スカイツリーのオープン、ああ東京タワー。サッカーWC(厠ではない)予選、そしてオリンピック。

実にいろんなことがあるけれど、 音楽をするしかない、のだ。




5月19日(土) 即応力

夜、東大和市民会館にて、おおたか静流(vo)さん、篠崎正嗣(vn、二胡)さんとのコンサートで演奏。

おおたかさんの、その時、その場、で“場”を創っていく即応力は抜群で、実に見事だとひたすら感心しながら、同じステージ上で指を動かしていた。以前、おおたかさんが「声のお絵描き」ワークショップをやった人たちとも、最後はいっしょに名曲「Voice is coming」を演奏した。

おおたかさんの会場の人たちとの軽妙なやりとりで、場内は笑い声にあふれる。しんみりとした歌や切々とした願いがこめられた歌まで、その音楽の幅はとても広く、深い。笑ったり泣いたり、人が生きていること、ただそれだけの有難さをあらためて噛み締める時間が、このコンサートの根底には流れていたように思う。

そんな感じだったからだろうか。朝から調律をしてくださっていた調律師さん。立ち会いもお願いして、ピアノの状態や音色などについて相談したりアドヴァイスをいただいたりした後、リハーサルの途中で私たちが休憩している1時間の間に、ピアノの音色をすっかり変えてくださっていた。調律師さんの職人魂に、またもや火をつけてしまったかしらと思いつつも、とてもうれしく、ありがとうございますと頭を下げる。

結局、調律師さんはご自分の仕事が終わってもお帰りにならず、本番の最後まで聴いていかれた。拘束時間に見合うだけの報酬を得られた一日とは想像できないけれど、こうして最後までいっしょに音楽創りに携わってくださった調律師さんに、ほんとうに心から感謝する。

ピアニストは演奏することが仕事ではあるが、より良い、志の高い音楽を求めるのであれば、調律師さんと共に音楽を創る気持ちを失ってはならない、と私は思っている。映画『ピアノマニア』ではないが、いわば“音の戦場”において、調律師さんと良い関係を生みだす力も、ピアニストには必要であり、それも仕事の内だ。調律師さんと如何に良いコミュニケイションを築くことができるか、それがその日のコンサートに大きくかかわってくる。



5月20日(日) いざ富士山

なぜだかわからないけれど、「行け」と言う声が聞こえた(って、単なる思い込みが半分)ので、YMCA東山荘(御殿場)の“金環日食キャンプ”に申し込んだ。

この話に、以前から毎年お正月は家族でここで過ごしているという高校時代の友人が乗ってくれて、いっしょに行くことになった。

新宿から高速バスに乗って、御殿場へ行く。東山荘に早めに着いたので、近所を軽く散歩する。人口湖の向こうに、大きな富士山が見える。ワーイという気分。

けれど、彼女がコーヒーを飲もうと誘ってくれた、東山荘の食堂に入ってから、体調がだんだんおかしくなってきた。頭痛がする。少し気分が悪くなってくる。

脳裏に浮かんだのは、京都の宝が池に泊まり、貴船、鞍馬に行った時のことだった。それにあの不気味なトンネル。なぜか一気に体調が悪くなり、結局、二日間、ホテルの部屋で寝た切り状態になってしまったことを思い出した。あの時は、帰京したら、ちょっと見える人から「あなたの背中には10人近い落ち武者がいる」と言われたのだ。ぶるぶる。勘弁して欲しい。

それでも、夕方からの全体ミーティングというものに出席。そうか、YMCAなので、人類みな兄弟、私たちは地球の家族、という感じであることに気づく。車座になって自己紹介みたいなこともしたりする。

参加者の中には、80歳を過ぎたご高齢のご婦人もいる。明日の学校を休ませて、子供といっしょにここに来ているお母さんもいる。また、還暦を迎えたというご夫婦の旦那様は、結婚した時に奥様に指輪を送ってあげられなかったので、金環日食のリングをプレゼントしに来たと、みんなの前でロマンティックなことを言ったりしている。

なんだかとても久しぶりの感覚にかなりとまどいつつ、体調はひたすら下り坂をたどっている感じ。

夜6時から夕食。“春鍋”ということで、グループごとに分かれて、食堂でみんなで鍋をつつく。・・・が、ダメだ。頭がガンガンする。何も食べられない。結局、友人には申し訳なかったが、部屋に戻って休むことにする。戻った途端、嘔吐。やばい。少し休めば、夜の“焚火”には出られるかも、と思ったが、まったく無理。むささびを見てみたかった。明日はどうしようと思いながら、横になる。



5月21日(月) 見えない

朝4時起床。最後まで迷ったが、なんとかぎりぎり行けそうだ。お腹にホカロンをあてて、でかけることにする。

ということで、朝5時にバスは東山荘を出発して、富士山の五合目を目指す。五合目には大勢の人がいるのでは?と想像していたら、ほとんど人はいない。パナソニックの部隊が何人かいる感じ。

駐車場で、服の上から上下ともレインスーツを身に付け、毛糸の手袋をはめる。首にはマフラー。なんたって、寒い。

そこから約1時間ちょっと、なだらかな山道を歩く。途中から、雨。ようやく広場のようになっているところに到着。雨に濡れ、冷たい風に吹かれながら、朝食に用意されたお弁当を食べる。私はやはり食べられない。温かいコーンスープとバナナを半分だけ食べてみる。

気がつくと、鳥の声が止み、周囲がなんとなく薄暗くなって来ていることを感じる。自分をとりまく空気や気配が変わっていく。

「時間(食の最大)になりました!」と声が聞こえる。空を見上げる。ったって、・・・み、み、見えない。見えないぞおおおおお、金環日食。えーん。

冷たい雨にさらされながら、むなしく天を仰ぐ、の図。生まれて初めて、富士山というところに足を踏み入れた記念すべき日だったのに。残念至極。

下山。雨はやんできた。子供たちは富士山特有の砂利の斜面ですべり台をして遊んでいる。とっても元気だ。

途中、ほんの一瞬、雲の切れ間から、欠けている太陽が見えた。多分30秒もなかったかと思うけれど。

ちなみに、後で聴いた話だと、富士山の頂上から金環日食を撮影する予定だったパナソニック部隊は、猛烈な吹雪で、撮影どころではなかったらしい。無論、見えないし、撮影できなかったそうだ。この撮影はクリーンエネルギー(太陽光発電)だけを使って、世界同時発信するというものだったそうだが、これもまた残念な結果になった。

五合目の駐車場に降りて、東京に電話してみる。母は「見たわよ〜!」と晴れやかな声で話している。・・・むむむううう。くやしい。

体調はいきなり最悪になるし、夕飯は一口も食べられず。おまけに足は痛くなる。富士山では雨に降られ、東京にいればよかったかなあ、と思ったり。でも、そういうことじゃなかったような気もしている自分がいる。

東山荘に着くと、すっかり晴れている。少し早めの昼食は食べることができた。その後、みんなで庭を散策。草笛を吹いたり、花や虫を観察したり。

正直、富士山の砂利をすべり台にして遊ぶ子供たち、草を口にくわえて音を出して遊ぶ人たち、そうした光景を見るたびに、私の脳裏には放射能のことがよぎっていた。御殿場は足柄(お茶の葉から高いセシウムが検出されたことは広く報道された)に近いからだ。

けれど、ここYMCA東山荘では、震災後、多くの一時避難者を受け入れたそうだ。大きな空の下、子供たちが心おきなく遊べる環境。そうしたことがいかに大切なことであるか。子供たちの笑い声が聞こえる中で、ここに来て、しみじみ思った。ちなみに、実際、線量は高くなかった。

そして最後もまた車座になって、撮影されたばかりのスナップ写真をみんなで見る。

撮り立ての写真をPCに取り込んで、こうしてみんなでスクリーンですぐに見ることができるなんて。幼い頃のことを思うと、夢のようなことのように思える。

昔、遠足に行った時などは、生写真がボードに一斉に貼られていて、それには番号が振ってあり、自分が欲しい写真を申し込んで、後で代金を支払う、なんてことをしていたのだから。

最後に、“黒ヒゲ危機一髪ゲーム”が順番にまわってくる。黒ヒゲの首を飛ばした人が、今日の感想を言うことになっていた。自分の番がまわってきて、私は引くような予感がすると思ったら、やっぱり首は跳ね上がってしまった。ので、体調を崩したお詫びと共に、ごく簡単に感想を話した。

帰りは予定のバスを早めて東京へ戻る。体調を崩してしまったので、同行した友人には申し訳ないことをしてしまった。金環日食は見ることができなかったが、今回の一泊旅行はこういうことだったのだと思うことにする。



5月22日(火) 連チャン・その1

夜、新宿・ピットインで、黒田京子トリオのライヴ。

私は上手に位置し、背中に、翠川敬基(vc)さん、さらに向こうに喜多直毅(vn)さんという配置。もちろん、PAを一切使わない、生音で。全曲、富樫雅彦(per)さんの作品を演奏する。

喜多さんはほとんど普通に演奏しない。普通って何?という話になるので、ここでは多くを書かないが、たとえば美しいメロディーをそのまま奏でるようなことはほとんどしない、安易にリズムに乗らず、はずすあるいはずらす方向へ持っていこうとする、音を出す際にはほとんどヴィブラートをかけない、ほか、特殊奏法、ノイズなどなど。

終演後、みんなは居酒屋に寄ったが、朝からほとんど食べていない私の体調は復調とは言い難く、お先に失礼する。

ちなみに、巷では、本日、東京スカイツリーがオープン。



5月23日(水) 連チャン・その2

夜、渋谷・公園通りクラシックスにて、黒田京子トリオのライヴ。

昨日やらなかった富樫さんの作品を、今日は演奏。昨日と同じ曲は演奏しない。こうして二日間、すべて富樫さんの作品を演奏してみて、演奏できるレパートリーは20曲以上はあることがわかった。

今日ももちろん生音。位置どりも同じように、私が彼らに背中を向ける。

喜多さんの演奏は、なんだか昨日と全然違う。という風に、私には感じられた。ちゃんとメロディーも弾いている。ヴィブラートをかけながら、歌うところは歌っている。あの歌い方は、ほかのヴァイオリニストにはないものだ、と思ったりする。

★なお、このトリオの活動は、来月21日(木)、渋谷・公園通りクラシックスでのライヴを最後に、喜多さんが復活するまで、休止いたします。



5月24日(木) ああ、足

午後、太極拳の教室に行く。どうも左足の調子が悪い。少し歩行困難。特に階段はつらく感じる。困った。先生には足の内側の筋肉を鍛えるようにしたらいい、と言われる。

夕刻、いつもの整体に行き、足の状態を観てもらう。歪んでいるとのことで、修正してもらう。少しだけ軽くなった感じ。

更年期か、加齢か、よくわからないが、いやはや、まいった。



5月25日(金) そのうちに

夜、西荻窪・アケタの店で、吉野弘志(b)さんとデュオで演奏。こうして二人だけで演奏するのは3回目になる。

いずれ、ジャズ・ミュージシャンが作曲したものを集めて、作曲家別にライヴをやってみませんか?と吉野さんに尋ねてみる。以前から、一度、ちゃんと系統立てて、そうした歴史を振り返ってみたいと思っていた私。吉野さんは一応「はい」と応えてくださったので、そのうちに。



5月26日(土) いつだってさようなら、の歌

夜、目黒・東京倶楽部で、金丸正城(vo)さん、古西忠哲(b)さんと演奏。今宵は超満員状態。

「Everytime we say good bye」はコール・ポーター作曲のすばらしい歌だが、私が坂田明(as)さんと共演していると聞いたお客様が「ぜひ自由に演奏を」と言うので、そのように演奏させていただいた。いつのまにか、金丸さんとのデュエットになっていた。こんな風な演奏になったのは初めてだったと思う。

金丸さんとのお付き合いが長くなっているのは、おそらく、僭越ながら、金丸さんがジャズを形式として考えておられないからだと思う。金丸さんはものすごくジャズを勉強されている方だが、そのお心はほんとうにフリーだと思う。尊敬しているジャズミュージシャンの方と共演できることは、素直にうれしい。



5月27日(日) ハナ差

快晴。春の競馬ピクニックの一日。今日は、そうです、日本ダービー(東京優駿)、なのだ。

今回はいつもの競馬ピクニックとは異なる。何が違うかと言えば、ピクニック仲間に、ダービー出走馬の共同馬主さんがいるので、それはもうおおいに盛り上がっているのだった。なんたって、7000頭余りの中の18頭に選ばれし馬、だ。

出走馬の名前はフェノーメノ。6枠11番。6枠の騎手の帽子の色は“緑”なので、男性諸君はネクタイは緑で決めてくる、と事前に連絡が入っている。なので、負けてはならじと、私は半袖Tシャツをモスグリーン、長袖Tシャツは明るいグリーン、さらに髪留めも緑でキメて、レースに臨む。

入場券を買って、正面入り口から入る。入場券がダービーの記念入場券だったので、正午過ぎでも入場者数は10万人に達していないことを知る。以前、ダービーだけは特別入場券がないと競馬場に入れなかったくらい、府中市の人口は一気に増えたものだったが。

さて、まずはお弁当。木陰を求めて、カラスの糞に気をつけろと書かれた看板をシカトしながら、正面入り口近くの池のほとりのベンチで、もぐもぐ、ごくごく。片手には競馬新聞。このピクニックは各自、どこに行っても自由、いつ来てもいつ帰ってもいい、ということにしている。団体行動を乱すことをしてはいけないというようなことは一切ない。

今や携帯電話があるので、いつでも連絡がとれるし。とはいっても、競馬場では電話投票する人もいるので、大きなレースの時はなかなかつながらないことも多いのだけれど。

さて、いよいよダービー。フェノーメノをパドックで観る。黒光りしている感じで、かなり格好良い。お尻も美しい。

レースはターフビジョンの正面辺りから観戦することにする。テレビ中継で、大勢の人がひしめき合って、競馬新聞を持った手を天に突き上げて「ウオーッ!」と叫んでいる姿がよく放映されるが、あの群衆のどこかにいる私たち、である。私の横にいる、緑のネクタイを締めた友人は、ものすごい声で「フェノーメノーオオオオオ!」と連呼している。

うおおおおお。どどどどど。うおおおおお。どどどどど。うおおおおお。どどどどどど。うおおおおお。どどどどど。うおおおおお。どどどどど。

結果、惜しい!フェノーメノはハナ差で2着。ゴール前、一瞬、差したか?と思ったのだが。あと10mあれば、1等賞だった、とみんなが口々に言う。それでも、おかげさまで、私は生まれて初めて投資した金額が10倍になって戻ってくるという経験をさせていただいた。3連複、枠連、いずれもゲット。

その場に馬主さんはおらず。みんなで早くお祝いを言いたいねと話しながら、最終レースまで競馬場に残る。ちなみに、ダービー(今年は10レース)の次の11レースには「ジャズピアノ」という名前の馬が出走。もちろん、購入。単勝一点買いしたのだが、惜しくも2着で、手にしていた馬券は塵と消えゆく。

競馬場を後にして、夕方からは宴会へ突入。まず、私は予約しておいたケーキを取りに行く。ケーキのプレートには「祝! フェノーメノ&○○○」「ハナ差 惜しい! おめでとう」と入れてもらった。そして、予約しておいたお蕎麦屋さんで打ち上げ。BGMの流れていない落ち着いた個室で、盛り上がりつつも、クールダウン。

楽しい一日だった。

後日、JRAのサイトから、「JRAの馬主になるには」を初めてクリックしてみたが、いやあ、馬主になる、ってたいへんなのねえええ。また、競走馬の行く末のことなどを調べているうちに、競馬というものを単純に楽しめない気分になった。競走馬は種馬になるか、銃殺されるらしい。いずれにしても、私は深入りはしない。ピクニックでちょうどいい。



5月29日(火) 一人

夜、大泉学園・inFで、市野元彦(g)さんとデュオで演奏。

彼との演奏は2回目で、前半は彼の曲を、後半は私の曲を演奏する。実は前回もそうしたのだが、そのほうが互いの色が鮮明になると考えた。

ギタリストとして考えた場合、彼の演奏の特色は音色や、いわば感情的に盛り上がらないような、サウンドのうつろいや色彩のアクセントにあるように思う。いわゆる、フレーズとかコードにおけるテンションといった、そうした演奏技術的なことや、音楽を形式的に横断するようなことは排除されたようなところに、彼の音楽はあるように思う。無論、それも変わっていくことではあるけれど。

それにしても、お客様は一人。ほかに調律師さんが一人。市野さんにもお店にも申し訳ない。・・・どうしたらいいだろう、私。



5月31日(木) ゴールデンな

午後、太極拳の教室。左足、痛くて曲げられない。なんてこった。

夜、代々木・ナルで、澄淳子(vo)さん、吉見征樹(tabra)さん、さらに佐藤芳明(accordion)さんとライヴ。“ゴールデン・ライヴ”と銘打たれた、めったにないメンバーで、今宵も楽しく演奏。






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