5月
5月1日(金) サウンドする

愛すべきナイス・ガイ、鬼怒無月(g)さんとデュオで演奏。2人だけで演奏したのは、2001年のことになるらしい。ひえ〜っ、もう8年も前じゃないの。

今回は「きれいなメロディーのものを」という鬼怒さんの希望を踏まえ、そういう曲と、ちょっとヘンテコリンなメロディーのものを選曲する。互いのオリジナル曲はやらない。また、チャーリー・ヘイデンが作曲したものを、という話があったので、候補曲を絞って結局2曲だけ演奏。

この2人、けっこういいサウンドしてるじゃん、というのが正直な実感。それに、演奏しながら感じたのは、思いのほかに「近い(かも?)」ということだった。青春時代に聴いていた音楽が少しだけシンクロしているからかもしれない。

演奏が終わって、ダブル・アンコールをいただく。大泉学園inFの資料部からの報告によれば、私はこのお店に昨年末の時点で162回も出演しているらしい。もちろんもっと出演しているミュージシャンはいるわけだけれど、歴代3位だそうだ。そんな経歴の中でも、ダブルでアンコールをいただくことはそうそうなかったと思う。素直にうれしかった。ということで、このデュオ、続くかも。



5月2日(土) 質感

夜もとっぷりと暮れた頃、マスタリングされたカルメン・マキ(vo)さんの新しいCD-R(最終音源/これがこのまま音盤になる)に耳を傾ける。

驚いた。質感がまったく異なっている。

今回は録音、ラフ・ミックス、さらにトラック・ダウンの過程にほぼ全面的に関わってきたのだが、最後の作業となるマスタリングだけ参加できなかった。マスタリングは一昨日の午後から深夜2時過ぎまで休むことなく続けられたと聞いているから、相当丁寧なやりとりがあったと想像される。

それで送られてきた音源を聴いたわけだけれど、いやあ、マスタリングで、これほどまでに音楽の質感が劇的に変わったと感じたのは初めてだ。まったく“別人28号”状態だ。

マキさんの声がかなり前面に出ている仕上がりになっている。かつ、非常に洗練された作品になっていると感じる。良くも悪くも、マキさんの声あるいは歌が内包している、ちょっとざらつくような肌ざわりのノイズ感、えぐみのようなものが、ほとんどなくなっているような印象を受けた。

トラック・ダウンの段階では、曲ごとに少しバラつきがあるように感じていたのだが、とにかく、全体に非常に統一感のある感じになっていて、独特な世界観に満ち溢れているものになっている。そんじょそこらではあまりお目にかかれないような、いい作品になったのではないかと思う。

質感。音質、音色、肌ざわり、奥行き、空気感・・・音楽の世界を決定的なものにするのは、こうした質感であることを、あらためて認識させられた。この歳になって、ようやっとピアノという楽器のことが少しずつわかるようになり、細かいタッチや強弱や響きのことなどなど、そうした“質”がどれほど大切であるかを思い知っている私だが、・・・う〜ん、遅過ぎ。

深夜、忌野清志郎さんが亡くなったことを知る。ネット上で情報がまわるのは早かった。私にとっては、まず、中学校の頃に出会ったRCサクセションの歌、「ぼくの好きな先生」や「2時間35分」だ。それで、ネット上にアップされている映像をずいぶん見た。毎年GW中に大阪で行われている『春一番コンサート』には、愛すべき不良大人のロック野郎やフォーク野郎がいっぱい出演しているのだが、ここのところなんだか毎回誰かに祈りを捧げている気がする。合掌。



5月3日(日) 不況の影響

深夜のメールで、ちょうど三ヶ月後の8月2日に予定されていた『よこはまSummer Jazz 2009』の開催が中止になったというしらせが届く。

「昨今の世界的な不況は、様々な企業、団体活動にも及んでおり、これまで支援していた協賛金の多くが継続できない状態になった」というのが、中止になった理由だ。

17年間、市民手作りのコンサートとして、比較的手頃な料金で演奏を聴くことができたものだっただけに、こうしたかたちで幕を閉じるのは、スタッフの人たちも無念だろう。残念。

こうして、スポーツ、音楽、、芸術、つまりは文化が、消えていく。自社で働く人たちをリストラしたり、人員削減するよりも、まずは文化事業への支援金を廃止する。それは企業としては当然のことだろう。みんな、生活、しているのだ。

電車内の吊り広告が減ったり、テレビ番組が改編されて質が悪くなったり。じわじわと不況の波を感じてはいたものの、直撃パンチを喰らったような気持ち。かくて、数少ない夏の仕事が1本飛んだ。



5月4日(月) 織りなす

午後、ベートーヴェン作曲ピアノ三重奏曲のリハーサル。昨日はめいっぱい練習したつもりだったが、私の左の蹄はなかなか割れない。やれやれ。

夜は、恵比寿・アートカフェフレンズで、カルメン・マキ(vo)さん、太田惠資(vn)さんと演奏。レコーディングした直後ということもあって、三者が織りなすタペストリーの目が一層細かく詰まったような、密度の濃い演奏になったように感じる。



5月6日(水) 雨の中

雨。高校の同級生二人と、ランチをいっしょにする。それぞれの“今”を語り、カレーとコーヒーで時間を過ごす。夜、その友人がメールに「こういう時間が大切になってきた」と書き送ってきた。うん、私もそう思う。




5月7日(木) 親指

太極拳の教室。五功の虚歩椿がまったくできない。この「虚実」という概念がほんの少し頭でわかっていても、身体がまったくわかっていなくて、ふらつく。自分の身体のどこに“重心”を意識すればいいかもわかっていない。ということがわかった。

また、攻撃をしかけてくる相手を想定したような稽古がほんの少しずつ入ってきているのだけれど、それにはまず“イメージ”することが大事。どこから攻撃されても、安定した自分を保つのはえらくたいへんだ。

終了後、音大を出た先輩からお話を伺う。ピアノを弾く時の指の意識の持ち方、指の使い方、また、これまであまり意識してこなかった、演奏する時の手の甲における重心移動のことなど、多くのアドヴァイスをもらう。さらに、音階やアルペジオを弾く時、なによりも“親指”が肝心であることを言われる。

で、自宅に戻り、それらを実践してみれば・・・、あ、ちょっと弾けたような気になる。しかし、時、既に遅し。されど、そんなことも含めて、自分にはまだまだやるべきことがたくさんあることを知る。ある意味、それはとても幸せなことだと思う。



5月8日(金) ベートーヴェン

大泉学園・inFにて、翠川敬基(vc)トリオで演奏。と書いても、メンバーは黒田京子トリオのメンバーで、太田惠資(vn)さんとのピアノトリオだ。明後日、10日に還暦の誕生日を迎えるという翠川さんをお祝いして、その翠川さん自らがリーダーを務める前々夜祭のライヴ。

翠川さんは全体を3部に分けた構成を考えておられ、それらは過去、現在、未来、を表すという。“過去”では翠川さんの処女作『Five Pieces of Cake』(Offbeat ORLP-1002/1975年4月19&20日録音)に収められいる曲から2曲。“現在”は黒京トリオで演奏している翠川さん作曲のものを2曲。“未来”はベートーヴェン作曲、ピアノ三重奏曲第三番、というプログラム。

それにしても、このトリオ。初見の曲が強いと思う。テーマを誰がどのように演奏するかも含めて、そのほとんどは即興演奏だが、結果、全体を通して「曲」として考えた時の完成度や構築感は非常に高いと感じる。処女作のCDに収められた曲のうち、その半分以上が当日持ち込まれた譜面だったことを思い返しても、そんな風に思う。

“過去”で演奏した2曲は、いずれもこのトリオでは初めてやった曲だ。各人に新鮮であることはもとより、そうした即興演奏イコール作曲しているという感覚は、いつにも増してとてもスリリングだった。今日は早く来てリハーサルをやったので、いろんな意味でいいコミュニケイションのある音楽創りができていたのかもしれない。即興演奏の中味は、非常に速いパルスのものなども含めて、フリージャズの手法だったと言っていいと思うが、非常に良い演奏内容だったのではないかという印象が残った。

“現在”はいつもトリオでやっている曲だが、なんとなく新鮮な心持ちになり、テーマの料理の仕方も含めて、いつもとはちょっと違う感じの演奏になったように思う。こういう時は想像力も飛ぶ。ジャズを、あるいは民族音楽的なことを意識しながらも、そこから自由だったり寄り添ったり。面白かった。

そして、問題の“未来”だ。「何故未来がベートーベンなのでしょうか・・・お先真っ暗ということでしょうか」 (笑)と言ったのは太田さんだが、翠川さんが考えていた、その深〜い意味はここには書かないでおきましょ。なににせよ、過去→現在→未来になるに従って、目の前の譜面に書かれた音符の数はどんどん増えている。来たるべき“未来”は圧倒的に増えている。特にピアノは怖ろしく増えている(笑)。

私の指はやっぱり蹄で、たまに音の粒は揃わずよれてしまったが、それでもなんとか最後まで止まらずに全体が流れた。何度かリハーサルは重ねてきたが、スフォルツアンドの感じや各楽章のテンポ感などは、おそらくこの本番が一番よかったと思う。

それにしても、ああ、怖かった。
ドソミソドソミソ。
ドレミファソラシド。
と弾くことの、なーーーんと怖いことか。
そして、なんと歓びにあふれていることか。

そして、今宵、私は自由だった。



5月9日(土) 弦楽器の倍音

斎藤徹(b)さん、喜多直毅(vn)さんとリハーサル。お二人はこんにちは、初めまして。そして、私は弦楽器の倍音を身体じゅうに浴びた感じ。それにしても、喜多さんはよく弾ける。2002年秋に初めて出会った頃のことを思い出した。



5月10日(日) 夜景

友人が家を新築して、オープンハウスをするというので、どれどれと足を運んでみる。とてもおしゃれなデザインのコンクリート打ちっぱなしの家で、内装の色調は白。これから新婚生活に入る2人にはふさわしい感じ。あな、うらやまし。

地下には30〜40人くらいのキャパのスタジオを造ってあり、そこでこれからちょっとした演劇や音楽をやっていきたいと思っているとのこと。で、少しアドヴァイスなどをする。

折しも母の日ということで、今日はまだ誰とも話をしていないという母を連れ出し、いっしょに見学。後、三軒茶屋キャロットタワーの最上階で食事をして帰る。運よく窓際の席に座ることができて、母はだんだん暮れていく風景を喜んだ様子。東京タワーがほぼ目の前の向こうに見え、ライトアップされたオレンジ色の姿は時間とともに鮮やかに目に映る。



5月12日(火) ステージ101

何故かわからないのだけれど、忌野清志郎さんの映像をあれこれ観ている途中で、急に思い出して、『ステージ101』をユーチューブで検索してみた。・・・したらば、あった。

これは1970年(昭和45年)1月から1974(昭和49年)年3月まで、NHKで放映されていた歌番組の名前。映像としてはその最終回しか残っていないらしく、それゆえ中には泣いて歌えなくなっている若者もいた。それにしても、なーんと健康的で、なーんとNHK的であることか。

当時のことがいっきによみがえった。そういえば、メンバーになってあそこで歌ってみたい、という憧れのようなものを私は抱いていたような気がしてきた(^^;)。さらに、歌をうたえる自分にもちょっと驚いた(笑)。若い時に聴いていた歌はどうやら忘れないらしい。

「涙をこえて」「若い旅」といった歌は、中村八大さんの作曲によるものだ。八大さんの歌はほんとうに歌いやすい。他にも、「怪獣のバラード」「人生すばらしきドラマ」など、聴けばすぐに口ずさめる。

この“当時”とは、私にとっては小学生の終わり頃から中学、高校という、青春真っ只中の時代を指す。'69年1月に東大安田講堂が放水されたから、この番組はちょうどその翌年から始まっていることになる。

ちなみに、'71年には小室等さん率いる“六文銭”と上条恒彦さんの「出発の歌」が、合歓の郷の“ポピュラーソング・フェステバル”でグランプリを受賞、その11月には“第2回世界歌謡祭”でグランプリを獲得した。

こうしたいわば夢と希望と未来に満ちあふれた健康的な歌の方向は、確かに私の心を震わせた。私が好きだった“赤い鳥”もこちらのほうに入るだろう。さらに、その延長線上に、少し意味合いは異なるが、冨田勲のシンセサイザーを使った音楽やプログレとの出会いがやってくる。それはもう中学生の私にはおそろしく新鮮に響いた。

けれど、それとはほとんど真逆と言ってもいいのが、いわゆるフォークソングだった。ギターを買ってもらったのは小学校6年生の時だったと思うが、特にそのギター1本でぼそぼそとつぶやかれるように歌われる、なんとなくじめじめした感じの“四畳半フォーク”と呼ばれる歌は、それまで知らなかった世界を私に感じさせるものだった。あるいは、青春の挫折や非常に政治的なメッセージを含んだ歌の数々。フォーククルセイダーズ、吉田拓郎、泉谷しげる、高田渡、加川良、遠藤賢司など、それにRCサクセションなどもこちらに入るだろう。

そして、深夜ラジオの世界、もあった。妹と同じ部屋で、しかも二段ベッドに寝ていたから、頭から毛布をかぶって、ひそかにひそかに聴いていた。ブラス・ロックを知ったのも、その頃だ。それは文字通り「長い夜」だった。

それに加えて、テレビの歌謡曲番組の影響も多大だ。歌詞の意味などまったくわからず歌っていた曲は数知れないだろう。

自分の“歌”の原点は、おそらくこの辺りにあると思う。自分が演劇のために作った歌や、子供ミュージカルのために作ったメロディーを振り返ると、あらためてそんな風に思う。今月、母校の体育祭に行ってみようかと思っているのだけれど、中学1年生の時に作った歌は今でも歌い継がれているだろうか。

夜、作曲家・三木たかしさんの追悼番組を観ていて、歌が歌われ続ける、ということは、どういうことなんだろう、と思った。一昨年には作詞家の阿久悠が天国に逝った。自分がよく歌っていた昭和の歌の作詞家や作曲家は、これからどんどんいなくなっていくだろう。

昨日、小室哲哉の裁判は結審していないが、とにかく執行猶予がついた。私とほぼ同世代の彼だが、上記の作詞家や作曲家とは、その生きた時代(つまり平成)や在り方があまりにも違う。再起したいと言っていたが、勝負はその「音楽」にかかっているだろう。って、まったく余計なお世話だが。




5月15日(金) 曲名

喜多直毅(vn)さんのトリオで演奏。新曲が3曲。北村聡(bandoneon)さんは初見でよくあんなに弾けるものだと感心。私にはできましぇん。それにしても、新曲のタイトル。「帰ってくるな」「病葉(わくらば)」、それにボリビアの曲。まあ、なんというか、喜多流ちょっとひねった文学的センス?



5月16日(土) 町内

この町内に引っ越して来てから15年以上経っている。自治会費というものを払ってはいるけれど、思えば、南西の家の旦那様とは顔を合わせたこともない。真南の家は建て替えられ、こちらに開かれた大きな窓付きの二世帯が入る住宅になった。片方は引越しの挨拶に来なかった。北東の家にいたおばあちゃんはとんと姿を見ないけど、もう天国に逝ってしまったのだろうか?北西の家も建て替えられ、おばあちゃんが一人で暮らしている。真北のアパートにはどんな人たちが住んでいるのか、まったくわからない。

そんな現実がありながら、近くの整体院の先生に誘われて、この町を元気にしよう、みたいな宴会に出席してみる。近くの市のホールや老人福祉施設で演奏会をやってみてはどうか?という提案などが出される。だ、だ、誰がやるの?中身は?さてはてどうしよう。



5月17日(日) 藤野

藤野・shuで、坂田明(as,cl)さん、吉野弘志(b)さんと演奏。私宅からは中央道を使って40分くらいで着く。距離だけなら、横浜に行くより片道10kmくらい近い。そして、山を一つ越えただけで、空気がまるで違う。ここのお店のお料理はなかなか美味で、終演後にたらふく食べてから帰る。



5月18日(月)〜19日(火) 富士山

風邪が治らず、行くべきかどうか迷ったが、とにかく母といっしょにちょっと一泊旅行へ。車を飛ばして、まずは本栖湖まで。もうだいぶ終わりかけていたけれど、それでもけっこう一面の芝桜。薄い桃色、濃いピンク、白など、色彩豊かな地面の向こうには堂々たる富士山。なぜか美しい。

それから宿に入ってひと休み。窓からは河口湖と富士山が一望できる。温泉に入って、久しぶりに母の背中を流す。こちらも普段手が届かない背中のど真ん中をゴシゴシ洗ってもらう。その後、ゆっくり夕飯をいただいて就寝。

翌朝、宿の部屋からは“逆さ富士”がくっきり。良い天気。

その後、ロープウェイに乗りたいと母が言うので、カチカチ山へ。そこからの富士山の眺めも絶景。太宰治の碑があるそうだが、そこまでは歩いて行かず。

そうだった。「富嶽百景」とか、「カチカチ山」を元にした作品(「御伽草子」)を書いていたっけ。タヌキ曰く「惚れたが悪いか」。そう言い残して、溺れ死んで行ったタヌキの話。ちなみに、この太宰の話を元に、裁判員制度の模擬裁判が小学校で行われたらしい。その判決によると、ウサギは懲役9年。

それから遊覧船。絵に描いたような観光コースだけれど、ここからも富士山はすばらしい。遊覧船の船着場辺りのお店は、お土産を求める団体の観光客でいっぱい。いろんな方言が飛び交っている。

なので、早々に引き揚げて、再び母のリクエストで猿まわし劇場へ。昨年、伊豆に行った時も、雪が降りしきる中、いのしし村に行った憶えがあるけれど、歳をとると動物が見たくなるのだろうか。

平日ということもあって、観客は少なく、小さな子供たち2人の笑い声に、場は救われる。なんだか昼の新宿ピットインにいるような気分になる。猿は懸命に芸をする。仕込むほうもさぞかしたいへんだろう。費やされる努力と時間を思うと、なんだか他人事には思えなくなってくる。そんな思いで、帰り際にはお猿さんに握手してもらい、写真まで撮ってもらう。

その後、湖のほとりでランチ。久しぶりにおいしいデミグラスソースのかかった牛肉のハンバーグを食べた。

そのそばには河口湖円形ホールがある。が、どうもあまり稼働していない感じ。河口湖ステラシアターも含めて、つい最近まで、そのwebは全然更新されておらず、ずっと去年のクリスマス状態だったし。また、昨日の芝桜祭りは富士急が運営しているのだが、どうも2〜3年後にはなくなるらしい、と駐車場整理係の人から聞いた。どこも生き残っていくのがたいへんな時代なのだ。

最後は久保田一竹美術館へ。その建物がある山全体が、ある種の美の表現になっているような感じ。そして、その作品(着物)は見事だ。私がもっとも気に入ったのは、確か「情」と名付けられた、一見、地味なもの。冷たく光りながら降りしきる雪の光景が、静かな情念と共に織り込まれているような作品。そこでお茶とケーキ。二日間で相当なカロリー摂取。夕方、帰宅。



5月21日(木) 黒のスーツとワンピース

コンサート・シリーズ 『耳を開くvol.2 東京弦楽宣言 交響する非調和』の第二回目。今宵は喜多直毅(vn)さんと、ソロ&デュオの日。

早くから、今日の衣装は、黒い上下のスーツに光沢のある白いシャツ、ピンクのネクタイ、と宣言していた、最近ますます痩せてきた喜多さんに対抗して、相変わらずメタボなままの私も、黒のワンピースでシンプルに、とりあえずキメる。

という格好も要因の一つとは思うが、前半は異様に空気が張りつめた感じになった。

最初は喜多さんのJSバッハ作曲「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第一番 ト短調」全四楽章から。重音がものすごく難しそうだったが、渾身の演奏。そして5拍子の「ウィメンズ・ダンス」。

ということで、私はブラームス作曲「ラプソディ第二番 ト短調」と、自作曲かつ今回のコンサートのタイトルとも関係ある「インハーモニシティ」(非調和性という意味/ピアノの調律用語)を演奏する。前半の最後は、喜多さんの曲「黒いカマキリ」を二人で演奏。

「死ぬかと思った」とはバッハを演奏した喜多さんの言葉だが、誰にも負けない蹄の左手を持つ私は、死ぬ以前にどこかの穴に入りたくなった。第一これだけの人の前でクラシック曲を弾くのは、高校1年生のピアノのお稽古の発表会以来のことだ。

まいった。想像以上に緊張している。という自分を見ている自分がいる。こういう表現をしたいわけではないでしょうと頭は叱りつけるように文句を言えども、指は勝手に音をはずしながらうわすべりに走っている感じ。おまけに、リハーサルの時には聞こえていなかった楽器のノイズが聞こえてきて、気になって仕方がない。あ〜あ。自分でもちょっと心残り。

後半はすべて二人で演奏。翠川敬基(vc)さんや太田惠資(vn)さんにはあまり評判がよろしくないらしい自作曲「ゼフィルス」のメロディーを、喜多さんはすばらしく大きく歌い上げてくれる。喜多さんは好きでいてくれてるらしい。他、喜多さんの曲を中心に演奏。この間初めてやった喜多さんの曲「帰ってくるな」は、私のような者には曲に慣れないとなかなか弾けない。私、歌えるようにならないとダメなのよ。

アンコールには、つい2〜3日前に彼がやりたいと言って宅ふぁいる便で送ってきた、ジャック・ブレルの「行かないで」、そして「泣く友を見る」。それで久しぶりにこちらもレオ・フェレなど、フランス語の歌を聴いたりもしたけれど。

このコンサートを行った門仲天井ホールは70名も人が入れば、まずまずいっぱいの感じの場所だが、それでも小さなライヴハウスでやる時とはやはりだいぶ違う。時々、こういう所でも演奏しなければだめだな、と思う。特に喜多さんのようなタイプの人は、これ以上のホールがよく似合う。本人は「僕はアケタかインエフ」とか言うかもしれないけれど。

なお、今回のコンサートで、それぞれがクラシック曲を演奏したことについては、それぞれにその理由をお尋ねください(笑)。

私の場合は、無論、このヘタクソな私の技術及び力量に見合った曲でなければならないのは大前提だが、今月、トリオでベートーヴェンのピアノ三重奏曲を演奏した際にも書き留めたように、クラシック曲をやることも、ジャズをやることも、即興演奏をすることも、歌手と音楽を創ることも・・・、私には等価であり、そこにおいて、私は自由だ、とはっきり言えるようになった。実はこれは他人にはなかなかわかってもらえないので、説明するのがけっこう面倒臭い(苦笑)。

なににせよ、こういう風に言える時が訪れるとは、自分でも思ってもいなかった。トリオでの活動にしても、やり始めた当初2004年頃は、1回のライヴにクラシック曲とフリーインプロヴィゼイションを演奏するなどということは絶対できない、などと言っていたことを思うと、そこからここまでよくも来たもんだ、と思わずにはいられない。

21世紀に入ってから、特にここ数年、ヴァイオリンやチェロといった弦楽器奏者との共演が増えたのは事実で、その響き合いから、その交響する空間から、未熟な私が得たことはまことに大きく、この身体が感じたものははかりしれない。

1990年代、実は、私は斎藤徹(b)さんに声をかけていただき、その前半は筝や十七弦と2台あるいは3台のコントラバスという世界にいた。こりゃ、弦だらけじゃないの。後半は小松亮太(bandoneon)君をメンバーに入れた、ピアソラ・ユニットでは小松君の奥様になられたヴァイオリン奏者とも共演している。太田惠資(vn)さんと知り合ったのもこの頃のことだ。

このようにたくさんのストリングスに囲まれていたにも関わらず、当時の私の弦楽器への意識は今のものとは比べものにならないくらい低かった。その頃テツさんに言われたことの一つに、「ピアノを弦楽器のように弾け」ということがあったが、まったくできなかったし、そもそも理解ができなかった。今ならほんの少しはわかったかもしれないけれど。弾けるかどうかは別として。

そして、この数年、翠川敬基(vc)さん、太田惠資(vn)さん、さらに若い世代の喜多直毅(vn)さんといった、弦楽器奏者との出会いや共演を重ねてきたことは、同時に、私が演奏する楽器を、すなわちピアノのことを、もっとよく知りたいという欲求や、より繊細で深い表現をしようという意思を生んだ。それはまた、他者に音楽を届けるというのはいったいどういうことなのか、という問いに私を導くものにもなった。

今、ジャズっぽく演奏することや、あたかもフリー・ジャズをやっているかのようにふるまうことや、さらに、音楽的であろうとすることから、私はだいぶ解放されたように感じている。いわんや、コード進行とか、格好良いフレーズといったものが、どんどんどうでもよくなってきている。やっと、そんな地平の入口に立っている気がする。

このような時代にあって、わざわざ会場まで足を運んで、生演奏を聴いていただく、というような仕事に、どういう意味があるのか。その答えのようなものも、なんとなく見えてきているように思う。

響き。

それはその場や空間で空気が震えていることを指し、それには温度や湿度があり、質感がある。音の色、風合い、色を除いた後の素のままの肌ざわり。・・・などなど。

そして、呼吸。生きている呼吸、だ。

そんな意味も含めて、この春、二回に渡って企画制作したコンサート『耳を開く』は、明らかに自分の足元を確かめるような時間にもなったように思う。って、なんとまあ、クソ真面目な総括なんでせう(苦笑)。って、総括なんぞするのがいけない?(さらに苦笑)



5月23日(土) ラッヘンマン

午後、現代劇センター真夏座の公演(at 文京シビックホール・小ホール)を初めて観に行く。『あした天気になあれ』という芝居。四人部屋の病室を舞台にしたもので、その四人のそれぞれが抱えている事情や思い、それに家族の関係などが描かれていた。

その後、ドイツ文化センターへ。『未知の彼方へ ヘルムート・ラッヘンマン』と題された催しで、DVD上映と、ラッヘンマン本人と細川俊夫さんによるディスカッションに出席する。

DVDは、アンサンブル・モデルンのために書かれた曲のリハーサル風景や、ロータス・カルテット(弦楽四重奏)の稽古の様子などが収められている。すべて作曲家であるラッヘンマンが立ち会っており、彼はそれはそれはもう細かい指示を出し、ほんの少しの音色のことにも演奏家に要求を突きつけている。例えば、ヴァイオリンに弓を押し当てる位置や圧力の強さまで。

余談になるが、その映像の途中、奥様であるピアニストが内部奏法をやっているところで、そのホールの人が文句を言っているシーンもあった。ああ、いずこも同じなのねえ、と苦笑いしたのは私。

上映後のディスカッションでは、大きな命題がいくつか提出されていたと思う。同時通訳の人は「魔法」という言葉を使っていたが、これは例えばヒットラーが音楽を政治的に利用した云々という話の時に、ラッヘンマンが口にしていた言葉だ。ホールという制度のことも話題にあがっていたし、果ては日本の京都学派の哲学者の話まで。このように、作曲された作品以外のことにもかなり話が及んでいた。

かくの如く、1935年生まれのラッヘンマンの博学や知識、理論を知るところとなったが、私には少し知が勝ち過ぎている印象が残った。細川氏が尺八を演奏する“身体性”について言及した部分を、もう少し掘り下げて聴いてみたかった。私がもっとも疑問に感じたところでもあったからだ。

一般的に、「ラッヘンマンの語法は、従来の楽器からいかに新しい、独自のサウンド(時にはノイズのような音も)を引き出すかというものです。・・・(略)・・・そのような未知の音響を追求する彼の作品は、特殊奏法や高度な技巧を多用するため、演奏は至難であり、・・・」とある。

この28日に演奏されるコンチェルトの指揮者、飯森範親さんの22日記載のブログによれば、「パート、セクションに分かれて作曲者立ち会いの練習です。なにしろ、説明を聞かないとどのように演奏していいのか、良く分からないのです…(苦笑)。そのくらい複雑な楽譜と格闘しています…。」ということらしい。

という状態にもかかわらず、たった一週間くらいの練習で本番の舞台にあげるのだから、プロはえらい?というか、それでいいのだろうか?と、私などは思ってしまう。

このコンチェルトで演奏するチューバ奏者・橋本晋也さんには、この会場でお会いしたのだが、やはり譜読みが相当たいへんだった、と言っておられた。ただし、「だった」そうで、その峠は越えて、今は余裕がある雰囲気だった。彼もまたオーケストラと合わせるリハーサルはおそらく1回か2回だろう。ひえ〜。

しかしながら、弦楽器の奏法を見たりサウンドを聴いている限り、私には斎藤徹(cb)さんと翠川敬基(vc)さんと太田惠資(vn)さん、喜多直毅(vn)さん、さらに別の意味で坂本弘道(vc)さんがいれば、全部聞こえてくるようなものに感じられたのも事実だ。ラッヘンマンを語る時に、ノイズ、あるいは音響といった言葉が使われることが多いようだが、それとても・・・というような気分になる。

私にとっては、楽器の特殊奏法といったことよりも、それを演奏する人間が、その音を出す時の関わり方のほうに関心がある。

私が関わっている演奏家の人たちは、自分がやりたいから、そんな音を出したいから、その音を出しているだけだろう。あるいは、自ら選んでそういう奏法を行ったり、その場で聴き合いながらその響きを創っているだけだろう。

けれど、こんな風に作曲者によって書かれたものを演奏する人たちは、どれくらいの真実味を持って演奏しているのだろう?あるいは、この肉体が分離したような状態で表現行為をしようとする作曲家というのは、どんな風に自分を保っているのだろう?と思ってしまう。

この場合、どちらの演奏のほうが強いか、と聞かれれば、既に答えは決まっているようなものではないか?といったことが、少し疑問になる。

なーんちゃって、よく知りもしないのに、これ以上書くのはやめませう(苦笑)。というか、知らないから、出かけてみたのだけれど。



5月24日(日) 優駿牝馬

競馬ピクニック開催。東京競馬場、G1レース、“第70回オークス”。あいにくの雨模様だったが、第10レースくらいから少し晴れてきた。馬場内の芝生はものすごく水はけがよくできている。さすがのメンテナンス。その青々とした草の匂いが身体を包む。

でもって、丸めた新聞を握りしめた手を振りかざし、「行けーーーっ」と叫ぶ。かくて、「今、フケて(=発情して)いるらしいし、雨が降ったから来ないよ〜」ということで馬券を買っていなかった友人の助言をあまり聴かず、3番レッドディザイアと7番ブエナビスタで買った“馬連”が当たった。(ゴールではハナ差で、後ろから追い上げてきた一番人気のブエナが一等賞。)万歳!でも、他のレースもやったので、全体としては2000円近い負けと相成り。

その後、みんなで蕎麦屋で宴会。久しぶりにちょっとだけ飲んだ日本酒、久保田が美味だった。



5月26日(火) ドレミで1の指

初めてレッスンに来た生徒。長い間ピアノを触っていなかったらしく、おそるおそるドレミファソと弾いている。少しずつ感覚を取り戻すために、いわゆる音階を弾いてみてもらう。片手の指は5本しかないから、ドレミファソラシドと続けて弾くためには、ファのところで1の指(親指)にしなければならない。と、一般的には教えられる。

さらに、白鍵から始まる7つのドレミファソラシドにトライしてみる。シャープが増えるので、あれ?という感じで音を間違えて、ドレミファソラシドに聞こえてこない時がある。ということを、自分が感じて、この音を弾けばドレミファソラシドになるんだ、ということを発見することが大事。それが音を奏でる歓びにつながっていくはずだ。

目の前に置かれた譜面に音符が書いてあって、さらにそこに指の運びを指示する数字が書いてあるのを、自分の指にあてはめて弾くことが音楽ではないだろう。だから、敢えて、彼女には運指の付いた音階の譜面は渡さない。少なくとも、本人が自分の意志でメモをしようとしなければ、五線譜に何かを書くことはしない。

ということに、教えていて、気づいた。

彼女の話では、ピアノを習っていた時の先生がものすごく怖かったらしい。弾きたいという気持ちはあったけれど、いつ怒られるかとびくびくして、結局やめてしまったのだという。かわいそうに。おそらくそういう人はたくさんいるんじゃないかしら、と思う。レッスンをするたびに、いったいこの国の音楽教師は何を教えているのだろう?と疑問を抱くことが多い。

したらば、彼女、普通の音大生がなかなかできないような、ジャズで言うところの“フェイク”をして、「ムーン・リヴァー」のメロディーを弾いていた。いいんじゃないの〜。




5月27日(水) 青春の日々

おそらくゆうに20年ぶり(?)くらいに、母校の体育祭に行ってみる。姪が高校三年生でこれがもう最後だというので、早朝5時半(!)には電車に乗って席取りをしたという妹に甘えて、正午過ぎにのこのことでかけてみた。

今や、校内に入るにはセキュリティが厳しい。卒業生であることを示すような書類が必要とのことで、それはあらかじめweb上にあるものをプリントアウトして、それに名前などを記載して持参することになっている。まるで江戸時代の箱根の関所の門をくぐるような気分だが、通行手形は生徒お手製のプログラムで、門番はすてきなお姉さまたち。

お昼御飯の後に、中学一年生から高校三年生まで、順番に“応援合戦”が繰り広げられる。各学年ごとに色が振り分けられているので、出身者はまず「あなた何色?」という会話から始まる学校なのだが、そんなわけで校庭は色とりどり。

とにかく全員一致団結してウェイヴを作ったり、パネルをひっくり返したりして、生徒たちが一面の模様を作ったりする。イメージとしては北朝鮮的マスゲームか祝賀会という雰囲気で、こんなことをやりたくない子供もいるだろうなあと、今となっては思ったりもする。とはいえ、私、当時はきわめて積極的に参加していたほうだけれど。

音楽はほとんどが太鼓がリズムをとる形で進行し、それに歌やシュプレヒコールが乗る。いわゆるトニックとドミナントが全体を支配するような応援歌調の歌はあまりなく、何故かそのほとんどがDmのドリアン・スケールのメロディーという感じ。

締め太鼓やカスタネットを使っていた最上級生の音楽のアイディアは、他の下級生と違って付点のリズムを用いていて面白かったが、いかにせん、演奏が相当やばく、全体が締まらない。一つ下の学年の太鼓が抜群にリズムが良かったので、これは最上級生は負けるかも?とさえ感じた。

けれど、どうしてあのようにどの学年も同じような感じなのだろう?妹によれば、応援にも流行り廃りがあるとのことだが。思わず、音楽は私にまかせなさーい、一等賞にしてあげるわよー、と言いたくなった。のは、まーったくご迷惑な、甚だ余計なお世話(苦笑)。

ちなみに、当時の私が毎年選手として出場していた種目は、なんと走り高跳び。今ではもう身体は空に舞いましぇんが。そして実によく泣いた。今はこんなでも、当時はこうしてみんなで何か一つの目的に向かってことを成し遂げる、というようなことに、おおいに青春を感じていたのだった。

ついでに書いてしまえば、ご本人も公言しているが、あの太田惠資(vn)さんだって、バスケット部に所属していて、しかも応援団の団長までやっていたというから、人間、わからない(笑)。

それにしても、父兄席の騒々しさは半端じゃない。驚いたことに、今は、父兄が率先してその学年色にちなんだ、お揃いの“父兄Tシャツ”を作るんだそうだ。学年のほぼ全員の父兄が、しかもペアで、購入するという。・・・。それに、“たれ幕”も作るんだそうだ。・・・。という勢いと熱意に満ち溢れている席で、この耳がきつくなり、私は途中退場。

その足で、カルメン・マキ(vo)さんと来月演奏することになっている、キック・バック・カフェというライヴハウスに行ってみる。

素材にこだわった食事を提供しており、こういう所では珍しく“母子ルーム”があった。この小部屋で、若いお母さんたちは気兼ねなく子供に授乳したり、そのおしめを替えたりすることができるようになっている。私が行ったのは3時近かったが、実際、乳母車(と言う人は今はほとんどいないでしょうねえ。ベビーカー、ね)のお母さんたちがたくさんいた。週末などには、子供連れで生の演奏を聴けるコンサートも開催されていると聞いた。

ブッキング・マネージャーの人ともあれこれ話をして、お店の方針やオーナー及びスタッフの人たちのことを知る。なかなかしっかりしている。仙川ということもあって、桐朋音大の関係者を巻き込みながら、これからも活動していきたいと話していた。

で、体育祭は最上級生が一つ下の学年にかろうじて二点差で勝った。母校に戻った時はすべての競技が終わったところで、表彰式を見学。私が高校生の時に、大学を卒業して赴任してきたばかりの社会科の先生が、今や校長先生。人柄がにじみ出るような挨拶で、なんだかにこにこしてしまうような校長先生ぶりだった。

夕刻からは、やはり来ていた同級生と引退した体育の先生と一献を傾ける。ポール・ニューマン風な先生は喜寿を迎えてもなお、週に3回はプールで泳いでいるという。ひええ。



5月28日(木) しっぽは

午後、太極拳の教室。「伸ばす」ことをする。筋、関節、それらすべてを伸ばして正しい姿勢を保つ努力をする。関節はすべての箇所を意識して伸ばす。

さらに、今度は下半身。左右、前後、上下、という運動を通して、股関節を緩めて鍛える。その時、お尻が出たりしてはいけない。そして、そう、しっぽは振ってはいけませんのよ。・・・って、もう足はパンパン。



5月29日(金) ぐっ

やっぱり雨。そりゃそうだ、天下の“雨女”さま、おおたか静流(しずる)(vo)さんと、久しぶりのライヴ。下北沢にある「ぐ」というお店の閉店記念、最終日の演奏。

下北沢という街は、私がこの仕事をやり始める駆け出しの頃に、いわゆるハコの仕事で毎週通っていたので、非常に愛着がある。頃はバブリン絶頂期で、毎回死にそうなくらい人がわんさかやってきた。店にいる所がないから、厨房の外のビール箱にこしかけて、まかないを食べたり、休憩時間を過ごしたこともある。

“ハナキン”と言われた金曜日の夜、誰一人として演奏なんか聴いていないような状況下、ベースとのデュオの演奏で、30分間×4回というステージこなしていた。ぼろいアップライト・ピアノだったけれど、その頃にスタンダード・ジャズをたくさん覚えた。

というような思い出などがたくさんある街なのだが、この「ぐ」のことは知らなかった。でもフォークやロックの関係の人たちの間では、相当有名な所らしい。という雰囲気は、お店の中に一歩足を踏み入れただけで感じられた。

で、彼女が新しく出したCDの中から何曲かやるかもしれないというので、その辺りだけごく簡単にリハーサルをする。最初はこの曲からやりましょか、程度のことしか決まっておらず、あとは何をやるのか皆目わからない。静流攻撃はなかなかフイを突かれることもあって油断はできないので(^^;)、一応譜面らしきものを傍らの机の上に置いておく。

されど、スイッチ、入りました(笑)。降りてきたかも。久々にこういう感じ。もうどこへでも連れてって〜。どこへでも飛んで行って〜。私はこっちへ行くけど〜。あらあ、そっちへ行くのね〜。

これほど久しぶりではなく、私がもっと彼女が歌う曲を完全に憶えていれば、天下無敵的気分。もっと自在、自由になれる、はず。

地へ深く、空へ遠く。時にはやさしく、時には激しく、風の吹くままに。そして、いつも祈りに満ちあふれ。それは光。

そんなことを身体ごと感じたような時間だった。

そして、今年はもう既に5回くらい(?)海外に行っているという静流さんは、「明後日からニューヨークなの〜。あはは〜。」だって。まあ、ほんとにすごい人だ。



5月30日(土) 密度

午前中、小学校の時からの同級生の告別式に参列する。中学・高校時代、彼女は水泳部、バスケット部で活躍した、スポーツがよくできる人だった。社会人になってからも水泳は続けていて、たくさんメダルを獲得していたような人だった。この3月に行われた小学校の合同同窓会で笑顔で会ったばかりだったのに。急激に病気が進行したらしい。

棺の横には思い出のコーナーが設けられていて、そこには昔の写真などがたくさん飾られていた。その中に、小学校4年生の時に写された、友人のお誕生日会の写真が一葉。それには私も写っていて、そのようなものを見たらば、もう目は海。出棺する時には、私宅で友人たちと録音したCDに収められた校歌が流れていて、また海。

最後のお別れ。彼女は私と同じ府中市に住んでいたのだけれど、やはり地元に住んでいた小学校の時の友人と、火葬場まで見送る。心から合掌。

その後、約10年ぶりくらいに会った彼と食事をしながら話をする。今、彼もまた銀座でピアノを弾いて生計をたてているという。当時、ピアノを弾けた男子などほとんどいなかった中で、彼はたしなんでいた1人。当時、器楽部でいっしょに活動していた仲間だ。で、その分野はまったく異なるけれど、なんだかうれしい。

夜は大泉学園・inFで、黒田京子トリオで演奏。なんと言ったらいいだろう。このトリオ、クラシック音楽の曲に挑戦すると、その後、なんとなく様子が変わる気がする。演奏内容の密度が濃くなるような。あるいは、3人の関係がぐにゃあと交錯し、うにゃうにゃとうごめく磁場が、うぐぐぐぐ、うぐぐぐぐ、とうごめくような感触。うーん、伝わらないだろうなあ(苦笑)。ともあれ、こういう感じは長くやっていなければ生まれてこないようなものかもしれない。



5月31日(日) 濃い

夜、下北沢・レディージェーンで、斎藤徹(b)さん、喜多直毅(vn)さんと演奏。

リーダーはテツさんで、選曲もすべてテツさんによるものだ。かくて、前半はピアソラや、ジョビン、ナシメントなどのブラジル音楽といった、人が作曲したものを。後半はテツさんのオリジナル曲を中心に。そして、なによりも、今日はテツさんと喜多さんの初めての出会い。

アップライト・ピアノを弾く私の、右側からは激しいコントラバスの、左側からも激しいヴァイオリンの。ああ、弓の毛はひきちぎれ。これでもか、これでもか、と楽器に己れをぶつけ続ける、愛すべき、どうしようもない、すてきな男たちの精神と身体にはさまれて。

喜多さんは普段あまり切れたのを見たことがない巻線が切れているし。テツさんは場所の狭さからコントラバスを横に寝させることはしないものの、普通のベーシストはあまり使わない部分を弓でこすって、まるでディジュリドゥのような音を鳴らし続けるし。

濃い。重い。音に、響き(サウンド)に、何度も溺れそうになる感じ。様々な風を呼び起こすメロディーと、波のようにうねるリズム。海と山の身体、の間にあって、ちょうつがいの私。みたいな・・・(笑)。囁くような息づかいとあえぐ呼吸。たまに少しだけ息苦しくなってくるので、まるで深海の底から浮上して、海上の空気を吸う如く、空を仰いでみたりする私。みたいな・・・(笑)。

喜多さんはきっとあっという間にたくさんのことをテツさんから吸収するだろう。また、前半、実は演奏中にあんなに笑っているテツさんを、私は見たことがなかったのだけれど、テツさんは喜多さんや私と演奏して楽しかっただろうか?この、音楽に対して「楽しい」という言葉からはほとんど遠いところにいるような気もしなくもないテツさんなのだけれど?そして、私?さすがにこうした三連チャンのライヴの最後で、少々疲れました〜。






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