6月
6月1日(金)から7日(木)  酒と洗濯の日々・その2

1日(金)
雨が降ったり止んだりという天候の中、遠野ふるさと村を見学。ついでに、福泉寺も見学。大観音は一木彫とのことだったが、なんだかあまり有り難味がない感じ。

夜は大槌で演奏。町の過疎化は進んでいる様子だったけれど、最前列に座っていたおばあさんたちのノリはとってもよく、その帰り際「私は82歳になるけど、今日はよかったわ〜」と言っていた笑顔が印象に残る。

打ち上げはジャズ喫茶クイーンで、スタッフのみなさんと。手作りのお料理がとてもおいしい。外でストーヴをたいていた人たちはギター片手に懐メロ・フォークソングを歌っている。となると、黙っていられない元フォーク少女だった私。いっしょに歌ってしまうのだった。おまけにギターを抱えて歌っているところを、坂田さんやバカボンさんに目撃され、「君は何をやっているんだ?」と言われる。てへへ。

2日(土)
午前中、大槌にある東京大学海洋研究所を見学。なんでも坂田さんの卒論を見た先生がかつてここにいらっしゃったとか。最先端の設備が整う研究所内を見せていただき、耳骨(じこつ)も見せていただく。耳骨は樹木の年輪のようになっていて、それを調べることで魚の年齢を、また成分を調べることで、どの海で育ったかということまでわかると聞いた。

かくて、バカボン号は大槌から三陸町へ向かう。昨日の遠野から大槌へ向かう時もそうだったが、くねくねの山道を行く。アップダウンが伴う上、くねくね回るので、この耳はずっと唾を飲み込み続けなくてはならない状態になる。これでも去年よりはずっと楽になってきている。が、高速の真っ直ぐの登り坂や下り坂でも耳はやられるから、これはもうもしかしたら治らないかもしれない。

三陸町の廣洋館に到着。昨年、竜巻で宿の屋根がふきとばされたとのことで、改装されて少しすっきりした感じになっていた。

ピアノはアップライトで、今回は一関・ベイシーでいつもお世話になっている調律師の方が、前日に何時間もかけて整調してくださっており、ピアノは別人28号に生まれ変わっていた。すごい。それで、ここでは今回初めてピアノにマイクを立てなくてもよくなり、生音で演奏でき、坂田さんのサックスもよく響き、とても気持ちよく演奏することができた。採算を度外視して努力してくださった調律師さんに、これはもう、ひたすら感謝する以外に言葉はない。

打ち上げはやんややんやのアワビの踊り食いやらウニのてんこ盛りやら。私は調律師さんとあれこれ話して、夜は更けていった。

3日(日)
夜は一関・ベイシーで演奏。ピアノの前に座ると、どうも右の方へ斜めになっている気がする。したらば、先の地震で床が右下がりになってしまったそうだ。それでちょっと養生してもらう。また、頭の真上にはモニターにもなっているスピーカー、左耳の方には壁を伝って堰き止められているベースの低音が異様に響き、結局、今晩は耳栓をして演奏する。

終演後、ベイシーの音(JBL)を聴きに来たお客様のために、店内には大音量で音楽が流される。それでビールとつまみを持って、店の外へ避難する。そのサウンドが本当にめちゃくちゃすばらしいことは重々わかっているのだけれど、演奏し終わったばかりの疲れた耳にはきついので、ごめんなさい。

4日(月)
オフ。花巻南ICから車で30分くらい走ったところにある大沢温泉へ。偶然仕事でこちらの方面に来ていた高校時代の友人もやってきて、いっしょに夕飯をいただき、7年ぶりに混浴の露天風呂に入る。彼女が堂々としているからか、自分が歳をとってすっかりオバサンになったからか、よくわからないけれど、私たちが入っていくと、男性たちは去っていく者あり、隠れるように引っ込む者あり。・・・ああ、オバサンになった自分を自覚。

5日(火)
このツアー、最後の演奏。花巻・ブドリ舎には今回のツアーでお世話になった方々が全員集まり、それに応えるかのように力を出し切っている坂田さんの音に心が震える。

ドラムスが入ることでPAやモニターが必要になり、その調整に時間を要する。それぞれの立ち位置によって、自分が出している音や他人の音の聞こえ方がまるで違うから、どの辺りに妥協点を見出すかが勝負になる。最終的には、坂田さんはほとんど生音の状態で演奏し、私もほとんどスピーカーから音を出さないでもらうようにして、少しすっきりする。

で、今回のツアーで実感したのは、耳を患ってこれまでとは違う聞こえ方をしていることもあるとは思うものの、私の聴き方、すなわち耳の在り様がずいぶん変わったかもしれないということだった。まずモニターはいらない。外音のスピーカーからもほとんどピアノを出さなくてもいいようにしてもらっている、などなど。これは主として黒田京子トリオの演奏経験を経て、演奏中にピアニッシモを聴き取る耳、生音を聴く耳になっている、ということだろうと思う。自分の耳が聴覚過敏になっていることは言えると思うけれど、そんなこんなで、ドラムスが入り、エレキベースが大音量を奏でる音楽になった場合は、耳栓をしてしまうような耳になってしもうた。

6日(水)
オフ。東鳴子温泉へ。坂田さんは『東北学』などの雑誌を発行している“荒蝦夷(あらえみし)”の対談があって、私たちもここへやってきた。ちょいと便乗してご褒美の温泉(?)。

温泉は主として重曹泉で、なんだかとっても身体に効くような気がした。夕飯は昔の民家を改造したところで、山菜料理をいただく。自家製のどっぷり(法律では禁じられているどぶ○く)も美味。とてもヘルシーな気分。

7日(木)
帰途につく。栃木県辺りに入った頃から雷のオンパレード。でも耳がわんわんする感じがあまりなく、去年に比べたら耳の状態はだいぶ楽になってきていることを感じる。実際、気圧、風圧、音圧といったものに、この耳は非常に敏感になってしまったわけだが、それでも以前よりはましになっていると思う。

出会ったピアノたちの中には、響板に幾筋もの線が入って割れていて、瀕死の状態のものもあったり、私が2年前に演奏して以来、誰も弾いていなかったものもあったり。ま、いろいろ弾いて、いろいろ経験して。修行なのだ〜。

ああ、楽器を持ち運べず、選べないピアニストにとって、せめて信頼する調律師さんがいっしょに付いて来てくれれば〜。それに、今の私には整体師さんがいてくれれば〜。さらに、欲を言って時々温泉さえあれば〜。地方巡業はかなり楽になり、演奏にも充分に力を発揮できるように思う。って、ま、あり得ない、贅沢な夢のような話だけれど。

正直、さすがに“バカボン号”も、それに乗って各地を廻る人間の方も、少々歳をとった感じを否めないが、今回も楽しい旅だった。


6月13日(水)  フィゲレイド

ニコラウ・ド・フィゲイレド(チェンバロ奏者)の演奏を聴く。それはもう見事な演奏だった。

フィゲレイドは1960年、ブラジル(サン・パウロ)生まれ。ピアノ、オルガン、チェンバロを弾きこなし、オペラなどにも関わり、指揮もつとめているという。現在、パリ国立音楽院声楽科教授。

これは今月1日から24日まで目白を中心に行われている『第3回 目白バ・ロック音楽祭』のコンサートの一つで、場所は目白聖公会。ちなみに、今から25年から30年前くらいには、何度もこの教会の前を通っている。にも関わらず、あまり記憶にないのが我ながら情けない。

チェンバロの前に座る彼の姿は一瞬フェビアン・レザパネ(p)さんのような感じを受けたが、果たしてそれはパネさんと同じように、徹底的な“美学”のようなものに貫かれているような音楽だった。曲の合間に、したたり落ちる汗を何度もぬぐい、その布で何度も眼鏡をきれいに拭いていた姿が印象的。相当几帳面な感じ。

演奏曲目は、カルロス・セイシャス(1704〜1742)、ドメニコ・スカルラッティ(1685〜1757)、アントニオ・ソレール(1729から1783)のソナタなどが中心。休憩をはさんで二部構成。アンコールはおそらくJ.S.バッハの曲を2曲(?)。すべて暗譜で、とても生き生きとした演奏だった。

私がもっとも面白く感じたのは、その“身振り”だった。これはCDを聴いていただけでは絶対わからない。チェンバロを弾きながら、時々指揮をしているような仕草で手を挙げたり、時々歌をうたったり、足を前後に動かしたり。呼吸もよくわかり、表情豊かで、生演奏を聴く醍醐味のようなものを味わう。

にしても、舞台中央に鎮座まします、背が高く長いマイクスタンドとマイクロフォン、が非常に邪魔。単純に記録、あるいはネット配信のために必要なのだろうとは思うが、わざわざ会場に足を運んでいる聴衆をバカにしている、と私は思う。主催者はもっと考慮するべきだ。と、アンケートに書きなぐってきた。

もし私が演奏者なら、あんなド真ん中にマイクがぼうっと突っ立っているのは、とても不愉快だなあ。自分と客席をさえぎる感じがするから、きっと撤去してもらうように頼むと思う。

かくのごとく、録音器材、また録画機材の在り方は難しい。でも、言えることは、まずは、そこに音楽がある、ということが大切だろう。とりあえず、それ以外、つまりそこで音楽を聴くという以外の目的はいらない。マイクもカメラも、なんとなく、さりげなく、あるのが理想的だろう。しかしながら、世の中、デジタル化が進んで、ますます露骨になっているのが悲しい現実か。

この目白バ・ロック音楽祭は今年で3回目ということだ。横浜ジャズプロムナードのように、同時多発的ではないけれど、いくつかの会場で、約三週間強、毎日どこかでバロック音楽が奏でられている。多くの賛助会員もいるようだ。学生時代にあった店はもう片手くらいしか残っていなかったけれど、この音楽祭はなんとなく目白という街の雰囲気に合っていると感じる。


6月14日(木)  バイバイ、イエロー君

黄色の2ドアのスカイライン。生涯に一度は乗ってみたかったスポーツカー。その愛車に別れを告げることにした。平成十年式の車で、ナンバーは2桁。テールランプは赤い丸。何を血迷ってこのような車を購入したのか、今でもよくわからない自分だけれど、そのシートは身体をすっぽり包んでくれて、運転が楽しい車だった。緑深い山の中では、流線型のフォルムと黄色がひときわ映えて、惚れ惚れするほど美しかった。まだ2万5千キロも乗っていないけど。あまり乗らなくてごめんなさい。

午後は太極拳の教室へ。膝を使う練功を教わった。ひゃあああ、つらい。下半身がだいぶ弱っている。関節を柔らかく動かす成分が減ってきているのだろう。おそるべし華麗な、否、加齢な現象。それでも、全身を動かすので、終わった後はとても身体が軽くなる。週に一回でも、続けるべし。


6月15日(金)  アントネッロ

一昨日に引き続き、『目白バ・ロック音楽祭』のコンサート、アントネッロ(ユニット名)の音楽を、自由学園明日館(みょうにちかん)・講堂へ聴きに行く。

「ザ・南蛮 〜ファンキー・ルネッサンス・ライヴ」が副題。第一部は「天正少年使節と音楽」、第二部は「音楽のジャングルブック」。休憩をはさんで約2時間強のコンサートだった。

舞台の上にはギターを持った外国人が2人、和服(浴衣)を着た女性が3人と男性が1人、ドレスを来た女性が2人、洋装の男性が2人、というみなさま。これは明らかに第一部の内容を考慮してのいでたちで、第二部は普通に演奏会用の衣装になっていた。

楽器は、歌、ギター、ビオラ・ダルコ(チェロの前身)、アルパ(ハープの前身)、笛、パーカッション、クラヴォ(チェンバロ)、そしてリーダーは濱田芳通さんで、彼はコルネタ(コルネットの前身だと思うが、細長い楽器)とフラウタ(フルートの前身)を演奏する。何種類かの笛を吹き、さらに歌をうたう春日保人さんは、ほとんど巻上公一(vo)さんの弟のような雰囲気の人だった。

このアントネッロ、一部の巷では“色物”視されるという話も聞いたが、私にはそんな風には全然感じられず、あそこに例えば太田惠資(vl)さんが入っていても、何の違和感もないのではないかとさえ思えた。というくらい、なんとなく“近い”。

この“近い”という感覚は、おそらくちょっと即興演奏が取り入れられていること、歌があり、踊りがある、ということによるのだと思う。そしてそれは大きなコンサートホールでかしこまって聴くのではなく、当時の音楽はもっと自分たちの身近にあって、生活と共にあったのだ、というようなことを想い起こさせるのに充分なものがあった。さらに、それはそのまま現代の音楽の在り様に対しても問いを投げかけているように私には感じられた。

詳細な音楽内容はここには書かないが、そのプログラムは意欲的で、平日の昼間から楽しい時間を過ごした。(って、午後2時開演にも関わらず、ほぼ満席だったのにはちと驚いた。)終演後は、古典楽器センターに立ち寄って、チェンバロを弾いてみたり。そして夕方からビールを一杯飲んで、という、なんとも贅沢な半日だった。


6月16日(土)  まだこれから

黒田京子トリオのライヴ。夜8時半頃になっても姿を見せないヴァイオリン奏者のことは忘れて、翠川敬基(cello)さんと二人で演奏をし始めようとした、その瞬間、太田惠資(vl)さんがドアを開いて入ってきた。絶妙なタイミング。そのまま楽器を出して、いきなり弾き始めて、即興演奏が始まった。

振り返れば、このトリオの活動も丸三年半になる。正直、これまでの道のりの中には、少々だれた感じの時もあったと思うが、私にはどうも未だに何かが面白い。他の人たちとではできない、この三人だからこそできる音楽をやっているように思える。まだ行ける。まだまだ行きたい。


6月18日(月)  場所が要求するもの

某レコーディングのために、適当なホールを探している。いわゆるレコーディング・スタジオに缶詰状態で録音するのではなく、心地よい適度な響きを伴う空間で、生の音を大切にしたものにしよう云々といった目的で、今日は小さなホールに二ヶ所ほど行ってみる。

無論、ピアノの状態の良し悪しも条件に入る。が、まずはその建物の響きや、演奏していて気持ちがいいかどうか、といったことが問題になる。コンクリートの建物はやはり響きが硬いし、木の造りのほうが温かい感じがする。響けばいいかというとそういうわけでもなく、響き過ぎるとやりにくい。

二ヶ所目に行った小さなホールは、造りが教会のような雰囲気で、例えばブラームスの曲などは全然似合わない。何故かバッハかモーツアルトといった雰囲気になる。なんとも不思議なもので、これは明らかに場所(持ち主含む)が音楽を要求している。

さらに、オーナーさんは以前シャンソンの人に貸してみて、何があったかは知らねども、どーも非常に印象が悪かったらしい。さらに、どーもジャズもダメらしい。といったことも重なって、帰り際に「これからもクラシック音楽を広めてくださいね」と言われた。・・・・・。

うんむう、「まあ!こういう音楽もすてきですね」と言わせてみたい。トリオで乗り込んだろかっ。


6月21日(木)  孤絶の花

今年、新しく描かれたブルーポピーは、背景が黒色で、付けられていた名が「孤絶の花」。なんて厳しい題名の付け方だろう。

2001年に描かれた最初のブルーポピーは「幻の花」と付けられている。そこには少しロマンティックな香りが漂う。ちなみに、それは全部で3枚描かれたと聞いているが、おそらく私は3枚とも見ている(と思う)。

日本橋高島屋で行われている『堀文子展 画業70年 自然と共に生きて』を観に行く。これまでほとんど見たことがなかった、1950年代の作品を鑑賞することもできた。テーマごとに展示されていたが、その作風、作品の雰囲気はいわゆる統一性がなく、実にいろいろ。

それゆえか、この一人の孤高の画家は、つい最近までほとんど評価されていなかったらしい(?)。業界のことはまったくわからないけれど、今回のこの回顧展(この後、名古屋、横浜などを巡回するらしい)のことを一番喜んでいるのは、もうすぐ89歳になられる、堀さんご自身だとも聞いた。

私が初めて堀さんの一連の作品を見た時の印象は「なんだ、これは?!」だった。それで調べまくって、追っかけた。が、今回の印象はその時とは少しだけ違っていた。ほとんど直感だが、この作家にはまだ描いていないものがある、という気がした。

いかにも日本人が好きそうな牡丹の絵、は売れるだろう。かわいい絵本の挿絵、も多くの子女に受け入れられるだろう。箱根の某美術館で売られている、その作品をモチーフにした鞄やスカーフなどのグッズ、も奥様方のお気に召すだろう。この展覧会の副題である「自然と共に生きて」が象徴しているように、花や鳥やミジンコなどを描いている絵、は美しく、楽しいだろう。

でも、この作家が内に抱えているものは、これだけではない気がしたのだ。何か本当はもっとグロテスクで、どろどろしていたりするようなものがあるように感じられた。それを隠していると言ってもいいかもしれないが、そんなことは他人に言われるまでもなく、おそらくご本人が一番わかっていて“表現”をしている気がしてしまった。

なんて実に勝手なことを書いているが、要するに好きなのだから、これはもう仕方ない。そして、まったくもって僭越ながら、穴があったら入りたいくらいだが、堀さんと私はどこか似ていることをあらためて再認識した。


6月22日(金)  一体感

黄色い車に別れを告げたら、シルバーメタルの、プレミアムコンパクトカーと称される車がやってきた。まだまったく慣れていないけれど、車という物体を操っているという感じではなく、走っていて一体感があるのが面白い。

まだ600kmくらいしか走っていない中古車だから、がんがん乗らないといけない。ピアノという楽器が、新しいうちは毎日ガンガン弾いてあげないと、あとで音が鳴らなくなるのと同じように、車も最初のうちはいろんなスピードで走ってみたりして、どんどん乗らないといけないらしい。ということで、乗ろう。


6月26日(火)  夏場所

即興演奏ユニット“太黒山”(太田惠資(vl)、山口とも(per))で、大泉学園・inFで演奏。

束縛するもの、が何ひとつなく、三人が三人、そのままでいられる。なかなか、ない。


6月28日(木)  ボディ・ケア

午後、太極拳の教室へ。この教室には“さわやか”という名前が付いているが、最近はこれが“絶叫”に変わりつつある。「痛ーーーい!」「もうダメーーー!」みたいな。

練功十八法の前段がもう少しで終わるところまでこぎつけた。相変わらず身体は全然動かないし、動作を覚えるので精一杯で、まだまだ“意識”まで意識が及ばない。けれど、地面に両足で立って重心を感じるとか、腰を回すとか、背中を伸ばすとか、膝の運動とか、普段の生活では得られない身体感覚を確認することは、何か新しい発見があるようで楽しい。それになにより、身体が楽になる。

さらに、今日はその後、整体。どうしても肩甲骨の辺りが痛い。特に、朝起きる時に左肩に激痛が走る。右手は時々しびれている。それに、右手中指と右腕の腱鞘炎も完全に慢性化しているようだ。

ちなみに、月曜日、どうもあまり具合が良くないので、一応、整形外科なるものにも行ってみたのだけれど、やっぱり何も解決しなかった。スポーツ医療の看板も掲げているから、少しは役に立つかと思ったけれど、先生曰く「いやあ、ちょっと勉強しているだけですから」だって。ふざけるなっ!

結局、ピアノを弾く時も、こうしてパソコンに向かっている時も、同じような姿勢で、ずっとキーボードを打ち続けているわけで、どうもそれがいけないらしい。それとは逆のストレッチなどをして、バランスをとることを心がける必要があるらしい。マッサージしてもらっていると痛いのだけれど、何故か右腕をやってもらっている時にいつも眠ってしまう。

ということで、ボディ・ケアの一日と相成り候。


6月30日(土)  再会

それは確かに約23年ぶりの再会だった。

再会したのは、当時、新宿二丁目に“Lady Day”というお店を開いていた方だ。もちろん店内にはビリー・ホリデイの美しい写真が飾られていた。私は何故かここでひと月に一回か二回、ソロやデュオで演奏させてもらっていた。

そのきっかけは自分のカルテットで新宿ピット・インの朝の部に出演していたからだと思っていたが、そうではなかった。自分のバンドで初めて新ピで演奏したのは、1986年の1月のことだからだ。

私は大学を5年かけて卒業した後、勤めていた出版社のアフター・ファイヴに、ほんの軽いカルチャー・スクールのようなノリでジャズを習い始めた。1982年4月のことだ。それから丸二年間、ジャズを習っている間、「Fのブルーズ」と「枯葉」くらいしか弾ける曲がないくせに、ジャムセッションに通ったりしていた。

で、思い出した。自分のバンドで演奏する以前に、新宿ピットインで行われていたジャムセッション。この時の演奏がきっかけで、まだ右も左も何もわからない私は、そのお店でピアノを弾き始めたのだった。

ちなみに、その頃の新ピには、例えば「誰か粋のいい新人はいないか?」みたいな話がしばしばあったようで、この話も当時のブッキング・マネージャーが私を推薦してくれたのだったと思う。違ったかしらん?さらに、長いお付き合いになっている坂田明(as,cl)さんとの出会いも、そのきっかけは新ピでの演奏だったと記憶している。

その“Lady Day”は残念ながらいつもお客様は数えるほどだったが、そのお店の閉店パーティーは満員御礼だった。その時、初めて金丸正城(vo)さんにお会いした。私には大先輩という感じだったから、その時はほとんど話しもしなかったと思う。

そして、今日はその金丸さんと、久しぶりに再会したマスターの店で演奏。なんだか少し感慨深い。

そうそう、そのマスターが私を使った理由は、「あなたのピアノは女でも男でもないから」。女性ピアニストは概ねヒステリックに聞こえていけない。けれど、あなたは違う、みたいな。こんな風に言われたのは、これまでの生涯、この人からだけだ。




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