2004年8月
8月22日(日)  バッハ

(前略)

「あらゆる演奏は編曲だが、抽象構造に色をつけるということではない。元のものは存在しない。バッハが自分で演奏したものは、かれのやり方にすぎない。音色はひじょうにたいせつだ。」

(中略)

「演奏はなりゆきであり、完成品のくりかえしや解釈ではない。演奏するとき、まずすることはきこうとし、自由なあそびをひきおこすことだ。演奏は西洋流にいえば即興のようになる。その場でその時におこらなければならないのだから、演奏者はバッハが作曲するのと同じ態度で演奏する。おこっていることに注意をはらい、しかも劇的効果のために音のうごきをコントロールしてはならない。これは自己表現をあらかじめ排除する。それは、作曲家・演奏者・きき手がひとつのものである完全に統合された音楽的状況にたいへん近づく。演奏するのはききとることなのだ。」

「聴衆はそこに参加し、音楽がひとりでに立ちあがるのをみまもる。音楽会やリサイタルは演奏者のただのみせびらかしではない。聴衆も消極的にきくだけではない。かれらの音楽への心づかいこそが、それをひとりでによびおこすものなのだ。」

(中略)

「バッハはおなじ曲が二度演奏されるよりは、あたらしい曲をかいた方が多かったにちがいない。このやり方では、作曲はとても即興に近い。いつも未完成だ。この意味で、かれは完全な作品をつくることができずに失敗したが、それはよいことでもある。完全な作品はとじたへやのようなもので、きき手の想像力にははたらきかけない。未完成にのこすのは、全体に風をあてる窓をあけるようなもので、そのほうがよいのだ。」

・・・「失敗者としてのバッハ」
『音楽のおしえ』(高橋悠治 著/晶文社)収録より

いきなり、長い引用になってしまった。私の中で何かが混乱している。自分の言葉で考えろ。


8月23日(月)  スポーツと気晴らし

ったって、エリック・サティの話ではない。

オリンピックも半分。女子マラソンを観て、あと一投観てから、と思いながら、結局最後まで観てしまったハンマー投げのおかげで、就寝は朝の5時過ぎ。あの玉は7.2kgくらいあって、身体には400kgの負荷がかかるらしい。
にしても、トラック種目とフィールド種目が同時進行していると、フィールド競技の選手はものすごくやりにくいだろうと想像する。まずは周囲の音、だ。どう考えても集中力を保つことにえらくエネルギーが要されるように思う。それに同じ空間に別の磁場が、違う呼吸があるのはやりにくいだろうと思う。

ただただ走ったり、空中で何回もくるくる回ったり、水の中をばしゃばしゃ泳いだり、人をえいっと投げ飛ばしたり。これが同じ人間かと感嘆のため息。
メダル獲得の華やかさよりも、実に実に、いかに地道に自分を鍛えているかを思うと、胸はじ〜んと重くなる。
たった半年間のクラシック音楽の練習で、身体が泣き始めた自分をしみじみ恥じ入る。

昨日、高校野球も終了。北海道に初めての優勝旗をもたらした男子高校生たちの眉毛の整え方は、私よりずっとうまい。


8月24日(火)  うたのありか

「うた」を他者に届ける、とは、どういうことだろう。
誰に向かって歌っているのか、
その時、その場を、誰とともに、生きているのか、
それらを常にしっかりとみつめる姿勢を失ってはならない。

言葉や歌詞の内容が理解できなくても、人の心が震えるのはなぜだろう。
言葉のない音が、思わず涙を誘うのはどうしてだろう。
記憶と希望。
ただ、そこにある、自分、そして、心。

かつて、斎藤徹(b)さんが言っていた。
音楽は天に呼びかける行為、踊りは天を呼び寄せる行為。

装っている声はすぐわかる。
らしく、ふるまおうとしている声もすぐ感じる。
そうではなく、その人の内実の声が、すべて。

美空ひばりをすごいと感じるのは、その表現に足る完璧な技術と、明らかに装いながらも、それを超えたところに、伝えようとする強い声があることだ。


8月28日(土)  そこにある、身体

『第6回 シアターカイ 国際舞台芸術祭2004』、今年のメインテーマは仮面と身体。その参加作品「四谷怪談 演劇的ダンス〜へいせいのIEMON〜」を観に行く。

連日オリンピックを観ている私にとって、舞台上の人たちの身体と、それを支える精神性は、ひどく脆弱なものに映った。ラ・ラ・ラ・ヒューマンステップスのようなすさまじいスピード感があるわけでもなく、ピナ・バウシュのように何故か最後には涙ぐむような味わいがあるわけでもなく、残念ながら、私には退屈だった。

その最後、舞台上の挨拶を終えて、それまでとはうって変わって賑やかな音楽が鳴る中、手拍子を打ち、元気に跳ね上がりながら走っていた彼らの身体の方が、はるかに生き生きとしていたのが印象的。

身体、そのものが何かものを言う、というのは、たいへんなことだと、しみじみ思う。
とはいうものの、自分がやっていることも、自らの身体を、人前でさらけ出していることにかわりはないことに気づく。演奏する姿が美しいかどうか、そこに立っている姿が凛としているかどうかは、おそらく、その人をみきわめる澪つくしになる。


8月29日(日)  はじめとおわり

音を出そうとする瞬間。
音を離そうとする刹那。
これはとても大切だ。


8月30日(月)  変拍子

オリンピックが閉会した。最終日、男子マラソンを見て、閉会式の中継が終わるまで観てしまった。何度目かの朝5時。聖地と言われるギリシャ・アテネで行われた開会式と閉会式はすばらしかったと思う。

その閉会式の前半では、ギリシャの田舎地方の民族音楽がたくさん登場したが、のっけから変拍子だった。そのリズムに乗って、ギリシャの人たちは手拍子を打ち、足を踏み鳴らしていた。音楽が踊りと共にある姿を見る。

最後は、現在のギリシャでもっとも人気のあるという歌手7人が、メドレーで約20曲くらい歌い続けている途中で、中継は終わった。中には、日本の郷ひろみみたいな感じの人や演歌歌手のような雰囲気を持つ人もいた。そこにはもはやステップを踏む踊りはない。

小泉文夫が自らの足で民族音楽の研究をしていた時代。いわゆるワールド・ミュージックという言葉が生まれたのは、'80年代末から'90年代前半のことだっただろうか、。そして'00年代前半の今、ジプシー音楽あるいはロマの音楽は、その情報量と採り入れられ方によって、トレンドと化しつつあるように思う。どこもかしこも変拍子に浮かれている。と感じるのは気のせいか?

今月、映画『炎のジプシーブラス』を観に行ったけれど、想像していたよりはインパクトを受けなかった。何故だろう?

約20年以上も前に亡くなった小泉文夫は、この数世紀間、ジプシー音楽がその強力な魅力で、ほとんど全世界を覆ってきたことを、ずっと以前に言っている。「ジプシーは14、5世紀に何度も波のように西アジアを経て、ヨーロッパに侵入した民族で(中略)世界でジプシーの存在が問題にされないのは、日本をはじめ東南アジアの一部に過ぎない」とある。

クラシック音楽の世界では、19世紀にはリストの「ハンガリー狂詩曲」、ブラームスの「ハンガリー舞曲」、シューマンの「流浪の民」、サラサーテの「チゴイネルワイゼン」などなど、さらに20世紀に入ってから、自身が生まれたハンガリーの民俗音楽の採集と再構築を行ったバルトークやコダーイの仕事などを挙げることができる。

いつの時代でも、異国風な情緒や形式・方法の目新しさは、人々の興味をそそり続けている。おそらく肝心なのは、それでもなお、自分の足元を見る姿勢を失わないことだろうと思う。

余談。高校時代にバスケットボール部の主将を努め、応援団の団長もやり、医学を志し、小泉文夫に影響を受けて、「自身の音」を作り上げてきた一人のヴィオリニストの孤独な闘いを思うと、胸が熱くなる。

それにしても、オリンピック中継における”解説”というのは大事だと感じた。私は日韓同時開催のサッカー・ワールドカップを機にhi-visionを導入したのだが、NHK総合とNHK・hi-visionでは映像も解説者も異なっていて、概してhi-visionの方がつまらなかったように思う。また、陸上のフィールド種目を解説していた人にはいっしょになって興奮したが、女子レスリングの解説者は自身の立場もあったのだろうが、「気合だーっ!」の浜口選手のお父さんとは正反対に、始終沈着冷静で、ちとつまらなかった。

あと気になったのは、例えばマラソン競技で、約42km近い距離を走ってきた選手たちが続々とトラックに入って来ているのに、会場で鳴っていたBGMの音楽だ。あんなもの、必要ない。かくのごとく、各競技会場でBGMとして流されていた音楽の扱いには、けっこう首をかしげることが多かったように思う。


8月31日(火)  二百十日

という夏目漱石の作品があったっけ。

今月半ばに、四国の南レク・ジャズフェスティバルで演奏した後、一日滞在を伸ばして、松山・道後温泉の湯に浸かってきた。漱石と子規がこの温泉に入ったのは明治28(1985)年。その漱石の息子が銘々したという部屋には、当時の写真などが飾られていただけだったが、なんとも風情のある昔の姿を残している公衆浴場だった。昼間から人がいっぱいで、おそらく毎日来ているであろうおばちゃんから、風呂の浸かり方について裸の講義を受けた。帰りには当然”坊ちゃん団子”なるものをお土産に買う。

その晩は琴平に泊まり、朝も早よから1368段の階段を登って降りてきた。金毘羅さんの奥社まで行って、汗びっしょり。午後は6月末に演奏した丸亀市にある猪熊弦一郎現代美術館で芸術鑑賞、学芸員の方と歓談。

それにしても、大型の台風がのっそり。四国、九州の被害はだいぶひどい様子だ。深夜から明け方にかけて、東京もすごい風が吹いていたが、台風はほぼ日本列島をなめるように爪跡を残した。




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