読まずにホメる


「買ったときから、いや手にしたときから読書ははじまっているのです」(南陀楼綾繁)。
「本好き」であれば誰もが共感できるであろうこの言葉を出発点に、買って(手にして)から読むまでの、いわゆる「積読」状態に置かれている本を取り上げ、中味を読まないで書評する試み。『[書評]のメルマガ』に連載中。


(32)競馬はロマンだ

●大江志乃夫『明治馬券始末』紀伊國屋書店、2005年3月、1800円
 寺山修司ではないけれど、競馬はロマンだ。

 一攫千金の夢は当然のことながら、それが叶わなくたって、馬に、騎手に、レースに、ドラマを見る。競馬は、近代になってから軍馬改良という目的のため国家的・軍事的見地で導入された。そうした初期の頃に遡れば遡るほど、ますますロマンを強く感じてしまうのは私だけだろうか。

 たとえば競馬場。明治維新直後に設けられた横浜の根岸競馬場は、現在昭和初年に建てられたモダンな競馬場のスタンド遺構が、廃墟さながら現存している(現在は根岸森林公園のなかにある)。

 さらに明治十年代、上野不忍池には、池の外周を馬場とする競馬場があった。ここを歩くたび、馬が池のまわりを走っていた明治を幻視してしまう。明治末年から昭和初年にかけ、目黒には現在府中にある東京競馬場の前身目黒競馬場があった。G2レース「目黒記念」はこの競馬場に由来する。

 目黒競馬場があったあたり(現住所は下目黒)は現在住宅地となっているものの、「元競馬場前」という都営バスのバス停の名前として名残をとどめ、バス停付近には競馬場跡を記念する馬の銅像が建てられている。さらに付近の住宅地に踏み入れると、競馬場の馬場跡だというゆるやかな半円形を描く路地があり、ここでもまた競馬場のまぼろしを見ることができる。

 馬券についての挿話も面白い。戦前の馬券は高かった。大正時代には一人一枚という制限もあるうえ、当たっても配当は10倍を上限とした。『値段の明治・大正・昭和風俗史(上)』(朝日文庫)によれば、大正12年の馬券は一枚20円(「勝馬投票券」項は岩川隆氏執筆)。

 現代の物価と比較できる物差しを例示するのは芸がないので、変わったところを示せば、同時期の「遊女の揚代」が3〜10円(吉原大店の最高料金)、「芸者の玉代」が2円。馬券一枚が芸者遊び10回分に相当する。映画に至っては封切館で30銭である(いずれも前掲書)。

 だから懐に余裕がない一般庶民は、同じ目を買う見知らぬ者同士が集まり、共同出資で一枚の馬券を購入する。夢を担った一枚の馬券を握る人物の勝ち逃げを許すまいと、彼らはお互い手をつないで円陣をつくりレースが終わるまで観戦していたという。競馬場のあちこちに円陣を組んだ集団の花が咲いていたわけだ。

 そんなこんなで、草創期の競馬には、暗い軍隊の記憶以上に、不思議とワクワクしてしまうような要素がひそんでいる。本書『明治馬券始末』で取り上げられる舞台がたとえどろどろした政治の裏側であっても、競馬を対象としている以上、期待してしまうのである。(vol.209 2005.4.12)

(31)身体が演じる近代

●兵藤裕己『演じられた近代―〈国民〉の身体とパフォーマンス』岩波書店、2005年2月、3000円
 著者の兵藤裕己氏と言えば、『太平記〈よみ〉の可能性』(講談社選書メチエ)や『〈声〉の国民国家・日本』(NHKブックス)など、「口承文芸」「声の文学」(オーラル・リテラチュア)を追究してこられた方というイメージがある。とりわけ後者では、浪花節を素材として、オーラル・リテラチュアが日本の近代国家としての成立に果たした役割を論じられている。

 だから、今度の新刊『演じられた近代』を手に取り、帯に書かれている「九世団十郎の模索、川上音二郎の挑戦、小山内薫の苛立ち―」という惹句を目にしたとき、多少の違和感を感じた。「あれ、兵藤さんって、〈声〉だけじゃないんだ…」という単純な印象である。

 でもよく考えれば、発声だって身体的行為の一種である。この関心をさらに広げていけば、当然ながら他の身体的行為にも及ぶだろう。日常的な挙措動作はともかく、究極の身体的行為と言えば、パフォーマンスとしての芝居(演劇)が思い浮かぶのだから。

 わが国には前近代、すなわち江戸時代から伝統的に受け継がれた歌舞伎というすぐれた演劇がある。明治に入ると、こうした前近代的なものに変革の波が押し寄せた。九代目団十郎はこれに対し、「活歴」というジャンルの歌舞伎をつくりあげる。旧来の荒唐無稽な「お話」を脱し、史実に忠実な、一種の史劇である。

 けれども、現代人たるわたしたちから見れば、この「活歴」はあまり面白いとはいえない。近松や南北、黙阿弥といったあたりの、いかにも歌舞伎という作品のほうが断然面白い。それでは、九代目団十郎が「活歴」という芝居で表現しようとした近代とは何だったのか。近代国家になり百年以上を過ぎた時代に生きるわたしたちが考える「近代」と、当時の現代人だった団十郎の「近代」は違うのか、どうか。さまざまな疑問が浮かんでくる。

 団十郎のほか、オッペケペー節の川上音二郎や自由劇場の小山内薫が目指した演劇において身体というものがどのように扱われているのか、考えていくなかで、明治の人が直面した身体的行為の近代化が明らかにされるのだろう。どういうものが近代的な身体的行為と考えられていたのか、知りたい。

 今月から歌舞伎座で十八代目中村勘三郎襲名披露興行が始まった。演目のひとつに「鰯賣戀曳網」(いわしうりこいのひきあみ)がある。三島由紀夫が、十八代目の父十七代目勘三郎と六代目歌右衛門にあてて書き下ろした歌舞伎で、現代人がこのような歌舞伎を書けるなんてと驚くほど、伝統的なスタイルを踏まえて書かれている。

 最初に観たときは、ただただ三島の才能に瞠目しただけであったが、今回『演じられた近代』という本に接したことにより、三島が伝統的な歌舞伎のスタイルで表現しようとした「近代」ないし「現代」とはいかなるものであり、新勘三郎・玉三郎はそれを解釈しながら芝居のなかでどんな身体的パフォーマンスを演じてくれるのか、関心がひとつ加わった。(vol.205 2005/3/13)

(30)21世紀の寺田寅彦

●池内了『寺田寅彦と現代―等身大の科学を求めて』みすず書房、2005年1月、2600円+税
 今年は寺田寅彦没後70年にあたるそうだ。寺田寅彦と言えば、岩波文庫から5冊出ている随筆集を思い出す。私にとって岩波文庫体験のごく初期に属する本で、大学生のとき(私は岩波文庫は大学に入って初めて読んだ)味読した。一度手放したが、数年前古本屋の店頭本に出ていたのを見つけすべて買い直し、書棚に収まっている。

 その後、同文庫から出た断章集『柿の種』は短文好きの私にはこたえられない面白さで、折に触れ書棚から取り出し、任意に拾い読みしている。この本の解説が宇宙物理学者の池内了氏だ。

 池内氏はこの解説文のなかで、未来の見えない硬直化した社会の閉塞感を背景に、現代は「科学はありがたい、しかしもう結構」という気分が広がっているような「転回の時代」に入ったとし、そのなかで「少し立ち止まって、科学の在りようを見据えるべき時」であると論じ、手始めに寺田寅彦を読もうと提唱する。
寺田のように、科学の原点は日常の不思議にあり、役に立つことだけ を目指すわけではない、科学ですべてが知り尽くせるわけでもないと、思い定めようではないか。(岩波文庫『柿の種』解説「哲学も科学も寒き嚔哉」、305-306頁)
 このところの大災害つづきで、寺田寅彦の名前が頭をよぎった。「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉を言い出したのが寺田だと言われている。寺田は東京帝大理学部教授の物理学者で、大震災後東大地震研究所の設立に尽力し、同研究所所員を兼任していた。このところの大地震頻発で、東大地震研究所の名前を目にした方も多いだろう。寺田はその大先輩なのである。

 数年前、松本哉氏による寺田の評伝『寺田寅彦は忘れた頃にやって来る』(集英社新書)が刊行され、面白く読んだ。漱石の一番弟子として、『三四郎』の野々宮宗八、『吾輩は猫である』の水島寒月のモデルと言われるマルチ人間。そんな魅力を見事にとらえ、しかも住所を追いかけて地図に落とすといった松本氏ならではの観点も光る本だった。

 これに対し池内氏の本は、物理学の第一人者が、科学者ならではの視点から寺田の思想の現代的意味を捉え直すという試みとなっている。おそらく上に引用した『柿の種』解説文で示されている問題意識の延長線上に構想されたのだろう。難しい現代科学をわかりやすく噛みくだいて解説する本を多く書かれている著者による本格的な寺田寅彦論。寺田寅彦の思想は、混迷を深める21世紀社会にどのような指針を示してくれるのだろうか。(vol.199 2005/2/7)

(29)荷風本の最終兵器?

●草森紳一『荷風の永代橋』青土社、2004年12月、4800円+税
 永井荷風に関する書物はおびただしく刊行されている。最近の、私が持っているものに限っても、川本三郎『荷風の東京』(都市出版)・『荷風好日』(岩波書店)、松本哉『荷風極楽』『永井荷風ひとり暮らし』(朝日文庫)・『永井荷風の東京空間』(河出書房新社)・『女たちの荷風』(白水社)、磯田光一『永井荷風』(講談社文芸文庫)、紀田順一郎『永井荷風』(リブロポート)、菅野昭正『永井荷風巡歴』(岩波書店)、吉野俊彦『「断腸亭」の経済学』(NHK出版)、半藤一利『永井荷風の昭和』(文春文庫)と、百花繚乱である。
 
 内容も、いずれも「百花繚乱」の言葉どおり充実したもので、よくぞまあ書くネタがあるものよと驚くばかり。そのうえハズレがなくことごとく面白い。ひとえに日記文学の傑作『断腸亭日乗』の存在の大きさが推し量られるのである。

 そんな荷風本の山のうえに、ひときわ大きな爆弾が投下された。草森紳一氏の『荷風の永代橋』(青土社)だ。A5判878頁という浩瀚な本で、井上洋介氏によるダイナミックな永代橋の装画と、この大著の幅広い背にこそふさわしい極太の題字に圧倒させられる。

 本書は、中国文学の徒である著者が、永代橋の近くに住んでいるという縁から永井荷風という人物にアプローチを試みたものだ。荷風の父永井久一郎は、禾原の号で漢詩をよくした。また母方の祖父鷲津毅堂は幕末から明治初期にかけての漢詩人である。

 荷風に、この鷲津毅堂と彼を取り巻く漢詩人たちを描いた史伝『下谷叢話』がある。先年(2000年)岩波文庫に入った。この作品は師と仰ぐ鴎外の『澁江抽斎』などの史伝文学を意識して書かれ、文体もよく似ているが、一般的には鴎外の史伝からははるかに劣ると目されている。
 
 ところが私には意外にも面白く感じられたのである。それまで漢詩という文学形式にまったく親しみを寄せていなかった、むしろ忌避していたのだけれど、『下谷叢話』で毅堂やその友大沼枕山の漢詩が丁寧に読み解かれてゆくなかで、漢詩にも叙事的な性質があって、江戸の漢詩人たちは俳句を詠むように身辺の出来事や時々の感懐を五言・七言の絶句・律詩に託していたことがわかり新鮮だったのだ。

 そうした経緯があるから、『荷風の永代橋』では、草森氏独特の視点で荷風の体内に流れる漢文脈の血というものが捉えなおされるのではないか、そんな期待を持たずにはおれない。

 ただ、なにしろ4800円と値がはる本である。見つけてすぐに買うという決心がつかず、手にとっては躊躇して元に戻すということを何度か繰り返した。購入の決定的な動機となったのは、立ち読みのとき、荷風かかりつけの病院で、『断腸亭日乗』にしばしば登場する「大石国手」の中洲病院の建物写真を偶然見つけたことだった(603頁)。そのすこぶるモダンなたたずまいを見ていたら、背広を着て帽子をかぶり、蝙蝠傘をステッキがわりについて颯爽と病院に入っていく長身の荷風の姿がたちどころに脳裏にイメージされ、「やっぱり買おう」と決断したのだった。(vol.195 2005.1.10)

(28)時代は紙だ

●久米康生『和紙の源流―-東洋手すき紙の多彩な伝統』岩波書店、2004年10月、2700円
 一通の古文書があると、そこからさまざまな情報を読み取ることができる。書かれてある内容はもちろんだが、書き方による尊敬表現(専門的には「書札礼」という)、紙の大きさ、かたち、折り方、字のくずし方(行書・草書など)、封の仕方などなど。そこから発信者と受信者の関係、それぞれが置かれている立場、その文書が出されたときの状況などをある程度推測することができる。これらの知識は「古文書学」という学問体系として構築されている。

 学問は発展するもので、科学技術の進展が遅まきながら古文書学の分野にも及びつつある。というのは、顕微鏡や撮影技術の進歩により、紙というモノを基点に歴史を考えることが盛んになりつつあるのだ。

 三椏や楮といった紙の原材料による分類としては、和紙の世界は大雑把に楮紙(ちょし=ゴワゴワした手ざわり)と斐紙(ひし=ツルツルした手ざわり)という二つの系統がある。さらに、それぞれの紙の漉き方、漉くための簀の目の粗さ、漉くときに混入する填料(まぜもの。たとえば紙を白くするための澱粉など)、漉いた紙を干すときに使用する板などなど、諸条件を考え合わせて紙をより細かく分類し、それらがどんな地域で、どんな階層で、どんな状況で使用されていたのかを明らかにする。

 一人の人間が、出す相手・状況によって紙を使い分けることすら明らかにされつつある。これまで文献的に積み重ねられてきた紙の呼び名と、実際に残されている紙を照合し、紙の名称と材質を一致させる。ただこれはいまだ研究者間で諸説あって定説には至っていない。

 近刊のアニー・トレメル・ウィルコックス『古書修復の愉しみ』(市川恵理訳、白水社)を読むと、和紙が書物(もちろん洋書)修復の現場で大きな役割を果たしていることがわかる。洋紙にくらべ和紙の強度がすぐれているのは何となくわかるが、それではその和紙がどのように作られ、どのような歴史的経緯で現在に至っているのか、アジアのなかで日本の和紙はどのような位置づけになるのかといったことになると、すぐ説明することはなかなか難しい。

 本書はこうした疑問に一定の回答を与えてくれそうである。著者の久米氏は元毎日新聞の記者で、在職中『手漉和紙大鑑』(毎日新聞社編)の編集に携わって以来、和紙文化史・中国紙史の研究を行なってこられているという。

 書物史が盛んな現在、装幀・製本、印刷技術・活版・写植・タイポグラフィといった関心から数多くの本が出版されているが、紙(製紙)、とりわけ和紙に焦点を絞った本となるとあまりないのではあるまいか。本書の問題関心からずれることになるかもしれないけれど、ここで書かれている紙の問題を書物史に接続できないものだろうか。(vol.191 2004/12/8)

(27)地震と鯰絵

●北原糸子『地震の社会史―安政大地震と民衆』講談社学術文庫、2000年8月、1050円
 先ごろ新潟県を襲った新潟県中越地震では、東京都心部でも激しい揺れを感じた。たまたまそのとき私は職場の建物のなかにいた。関東大震災からまもなくして建てられた堅牢な建築物なので、多少の安心感はあったものの、建物内の防災扉が閉まるほどだから、危険一歩手前の大きさだったことがわかる。このたびの地震で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々に心よりお見舞いを申し上げたい。

 ところで地震がきっかけで気になっている本がある。それが今回掲げた『地震の社会史』である。副題にあるとおり、本書は安政二年(1855)年10月(旧暦)に江戸を襲った安政大地震を取り上げている。

 安政大地震で思い出すのは鯰絵である。鯰絵とは、地震で連想される魚の鯰、もしくは鯰が擬人化されたかたちで描かれた摺物(版画)であって、安政大地震の直後に広く世間に流布した。鯰絵に関する古典的研究と言うべきC・アウエハントの『鯰絵』(小松和彦他訳、せりか書房)によれば、鯰絵は「地震に対する予防、防禦」を担って流布し、これらに描かれた鯰には、地震を起こす張本人として嫌悪され攻撃される反面、社会悪や病魔を除き、そのため崇拝され賞賛されるという両義性を有しながら庶民の信仰対象となったという。

 北原氏はこの(地震)鯰絵を「災害を生き抜かねば明日がないと考えた人々が自ら編み出した励ましのメッセージ」「癒しの力を持つ」(6頁)とする。地震により肉親や財産を失った江戸の人々が鯰絵を地震に対するお守りとするいっぽうで、復興のよりどころとしていたということだろう。いまの世の中、中越地震の被災者の方々にとって、江戸の人びとにおける鯰絵のようなよりどころは存在するのだろうか。

 本書では、安政大地震を素材に、かわら版(今日の号外のような役割)・地震誌(ルポルタージュ)・鯰絵といった災害情報の問題から、御救小屋・炊出し・施行(しぎょう)といった公権力や寺社・豪商による救援対策まで、幅広く「地震の社会史」について論じられている。

 すでにお気づきの人もいるかもしれないが、来年は安政大地震150周年にあたる。去年2003年は関東大震災から80年目にあたっていた。安政大地震と関東大震災には約70年の空白があることを考えれば、いつ東京に大地震が襲ってきてもおかしくない。明治以前の前近代、むろん江戸安政の時代においても、地震のような自然災害は、為政者の失政と結びつけて捉えられていたことも付け加えておく。(vol.187 2004/11/8)

(26)ことごとく品切を嘆く

●洲之内徹『気まぐれ美術館』シリーズ(新潮社、新潮文庫)
 仙台市にある宮城県美術館で、いまコレクション企画「洲之内コレクション展」が開催されている(10月24日まで)。銀座にあった現代画廊の経営者で、稀代の絵の目利きにして、美術随想「気まぐれ美術館」で有名な洲之内徹氏が蒐集した絵画など美術作品(=洲之内コレクション)を、氏の没後一括して同美術館が購入した。コレクションは、おもに日本の近代・現代の油絵87点、素描・水彩44点、版画13点、彫刻1点の90作家146点から成っている。

 今回の展覧会は洲之内コレクションの全貌を展示するものとしては5年半ぶりだという。先日観に行ったのだが、ごく最近洲之内氏のエッセイを読むようになった私としては、これらのエッセイに取り上げられた絵の実物を見る絶好の機会となった。純粋に絵を観るということ以上に、絵にまつわる「物語」を味わい、追体験するために絵の前に立ったと言っても過言ではない。

「気まぐれ美術館」シリーズの原型となった愛媛新聞連載の「新聞版気まぐれ美術館」などを収めた単行本未収録エッセイ集『芸術随想 おいてけぼり』(世界文化社)が今年刊行されたことは記憶に新しい。これと東京白川書院刊『洲之内徹小説全集』全二巻を除く、いわゆる「美術随想」系の著作は、刊行順に『絵のなかの散歩』『気まぐれ美術館』『帰りたい風景』『セザンヌの塗り残し』『人魚を見た人』『さらば気まぐれ美術館』の計六冊が新潮社より刊行されている。

『気まぐれ美術館』以下は『芸術新潮』連載の単行本化であり、最後の『さらば気まぐれ美術館』は没後まとめられた。『セザンヌの塗り残し』まで函入り・クロス装、残り二冊はクロス装だが函がなくなりカバー装になった。また前半三冊は新潮文庫にも入っている。

 私は「読み惜しみ」をする性質の人間で、好きなシリーズができると、一気に読まずついちびちび読んでしまう。はたして良い癖なのか悪い癖なのか。だからこの「気まぐれ美術館」シリーズも、今回「洲之内コレクション展」を観に行くということで、ようやく『セザンヌの塗り残し』まで読み進めたのである。未読は残り二冊。ああもったいない。

「洲之内コレクション展」が開催されるのはファンとして嬉しいのだけれど、その反面嘆かわしいのは、『芸術随想 おいてけぼり』を除く洲之内氏の著作がことごとく、文庫版まで含めて品切になっているということだ。5年半ぶりのせっかくの全貌展示なのにもかかわらず、ミュージアムショップをのぞいてみると、洲之内氏関係の著作がほとんどなく、寂しいこときわまりない。わずかに美術館が編んだ『美術館散歩2 洲之内コレクション』という縦長の小冊子が主要な作品のカラー図版を掲載し、目を楽しませる程度。

 現在の出版事情だから、手に持って優雅な気分になるクロス装の元版の重版とまでは言わないまでも、せめて文庫版は重版して手に入るようにならないものか。それだけの価値があるエッセイ集なのである。新潮社にとってこのシリーズはとても大きな財産だと思うのだが。(vol.183 2004/10/7)

(25)「ずっしり」「びっしり」で購入

●佐藤卓巳『言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』中公新書、2004年8月、980円+税
 本を買う理由にもいろいろある。著者、内容、書名で買うというのは正攻法だろうか。ブック・デザインが目にとまり、そのまま買ってしまうこともあるだろう。装幀で思わず買ってしまうというのは、購入理由というよりは、購入動機といったほうがいいかもしれない。

 装幀の場合、目から飛び込んでくる情報だけれど、本書『言論統制』はちょっと違った。新聞広告で見たときから気にはなっていたので、書店に並んでいるのを見て手に取ったところ、ふつう新書を持ったときには感じられないずっしりとした重さに意表をつかれ、購入意欲が湧いてきてしまったのである。新書判で440頁という浩瀚な本で、通常新書は200頁前後だろうから、およそ二倍の分量があるわけである。

 内容は、戦時中「小ヒムラー」と怖れられた軍人で、情報局情報官だった鈴木庫三少佐を中心に、戦時中の厳しい言論統制のあり方を明らかにした〈戦時言論史〉である。これまで未公刊だった鈴木少佐が遺した日記「鈴木日記」を駆使して〈戦時言論史〉を書き換える意欲的な中味らしい。

 目次を見ると、講談社・朝日新聞社・岩波書店といった出版メディアと鈴木少佐の関係が論じられている。さらに本書の版元中央公論(新)社とも少なからぬ因縁を持っているらしい。著者は本書を中央公論新社から出すべきだとし、そのさいの書き出しは決まっていたとする(「あとがき」)。

「読まずにホメる」というルールを少し破って、その書き出しものぞいてみると、「中央公論社は、たゞいまからでもぶつつぶしてみせる!」という剣呑な鈴木発言から始まっていた。なかなか効果的ではないか。

 本書はずっしりと重いだけでない。パラパラとページをめくると、ポイントを落した小さな字になっている引用箇所が目を引き、一般的な新書よりも字がびっしりと詰まっている印象である。ふつう紙面に文字がびっしり詰まっていると購入意欲がそがれるものだが、ぎっしり重くて内容が面白そうなうえに「びっしり」だから、逆にそそられてしまった。

 奥付上の著者紹介を見てまた一驚。約2年前に本連載の第4回で取り上げた『『キング』の時代―国民大衆雑誌の公共性』(岩波書店)の著者ではないか。これで駄目押し。購入決定である。知らなかったが、この間『『キング』の時代』はサントリー学芸賞を受賞し、当時国際日本文化研究センター勤務だった著者は京都大学に移られている。二年の時をおいて同じ著者の本を紹介する当方ときては、ただ馬齢を重ねるだけでかわりばえしない生活を淡々と繰り返すばかり……。(vol.179 2004/9/14)

(24)一筋縄ではいかない人?

●黒岩比佐子『『食道楽』の人 村井弦斎』岩波書店、2004年6月、4200円
『食道楽』という本の名前は何度か聞いたことがある程度で、てっきり料理随筆だと思っていた。ところが小説だという。作者は村井弦斎。この作者の名前と彼の作品『食道楽』が私の読書アンテナにインプットされたのは、春に読んだ阿川弘之『食味風々録』(新潮文庫)がきっかけだった。

 同書所収「牛の尾のシチュー」という一文がそれで、結婚したとき奥さんが嫁入道具として新居に運び込んだなかに『食道楽』春夏秋冬の全四冊が混じっており、これを見て阿川氏は「おや、これは」と思ったという。「爾来此の本は、わが家の書棚の隅へ腰を落ちつけてしまい、度々の引越しにも処分されるのを免れて、五十年近く経った今尚、表紙が破れかけのまま居据っている」。

 五十年もの長きにわたり阿川家の書棚を生き抜くことができたのは、小説としてでなく、実用書として遇されたからだった。夫は『食道楽』を拾い読みするたび、妻に「此のへんのところ、お前よく勉強しといてくれよ」と念を押した。
何しろ、当時としては実に贅沢な、手の込んだ、和洋支の料理が列記してあって、お登和嬢がその作り方を、次々詳しく説明するのである。「当時」とは「食道楽」が出版された明治三十六、七年当時の意味であり、私たちが世帯を持った昭和二十年代の意味でもあるが、いずれにせよ今と時世がちがい、読めば一々珍しく、こんな旨そうな物一度食ってみたいと、驚きもし憧れもした。(新潮文庫版『食味風々録』28頁)
 このあとエッセイでは、表題にあるオックステール・シチューや「上質の豆腐か河豚の白子と似た味の、(牛の―引用者注)脳味噌の角切りフライ」、東坡肉、トマトジャムといった『食道楽』登場の料理が次々と紹介され、思わず舌なめずりをしてしまう。

 阿川氏のエッセイの記憶が消え去らないうちに、黒岩比佐子『『食道楽』の人村井弦斎』という評伝を得たのは幸運だった。カバーにある内容紹介を見ると、村井弦斎という人、『食道楽』以前には新聞小説家として長篇未来小説を著し、晩年は仙人を志して断食・木食などを研究実践した奇人であったらしい。宮武外骨・斎藤緑雨・矢野龍渓・澁澤栄一らと交友があったという事実にも惹かれる。

 本書は村井弦斎という人物の評伝であるだけでなく、彼の代表作たる『食道楽』が後年の食味随筆・小説に与えた影響にも目配りが行き届いているようで、巻末の索引を参照すると、上で触れた『食味風々録』もきちんと言及してある。せっかく岩波書店は評伝を出したのだから、いずれ岩波文庫に『食道楽』を入れてくれないものだろうか。

 ちなみに、このメルマガで南陀楼綾繁さんが推奨している遠藤哲夫さんの『汁かけめし快食學』(ちくま文庫)をいま読んでいるが、ここにも『食道楽』は登場する。いよいよ注目の本である。(vol.175 2004/8/4)

(23)酒と日記と初出一覧

●山口瞳『わが師わが友』河出書房新社、2004年5月、1500円
●吉行淳之介編『酒中日記』講談社、1988年8月、1300円(品切)
●吉行淳之介編『また酒中日記』講談社、1991年5月、1500円(品切)
 先日、ウェブサイト“戸板康二ダイジェスト”主宰の藤田さんから、メールで、山口瞳さんの単行本未収録の人物エッセイを集めた新刊『わが師わが友』はいいですよと教えていただいた。その数日後、たまたま某所で藤田さんにお会いする機会があって、その前に本屋に寄りくだんの『わが師わが友』を買い求めた。

 世の中には“あとがき派”と称し、本を買うと本文より先に「あとがき」から読むという人たちがいる。あとがき派かそうでないかといえば、私は断然あとがき派であることを否定しないのだが、私の場合、そのあと小声で「実はあとがきよりも「初出一覧」の方を先に見るけどね」とつぶやくだろう。いわば“初出一覧派”である。

 なぜ初出一覧が好きなのかと問われれば即答に窮してしまうが、短篇集なりエッセイ集なりに収められた文章群がもともといつ、どんな媒体に発表され、それらがどのように集められ組み立てられたのかという編集のやり方に思いを馳せるのが好きということかもしれない。まれに初出一覧というかたちで巻末にまとめられず、初出データが各文章の末尾に付けられている本があるが、これを見ると少しがっかりする。ましてやあるべき初出一覧がない本に遭遇すると、どうにも居心地の悪さを感じてしまう。

 ということで、『わが師わが友』を買う前に、儀式のように初出一覧を確認したのである。すると気になる単語が目に入ってきた。「ふうわふうわ」という一文の初出が吉行淳之介編『また酒中日記』となっていたからだ。

 リトルマガジン『BOOKISH』第6号戸板康二特集にて、藤田さんと私は、戸板さんが『小説現代』のリレーコラム「酒中日記」に書いた二篇を採録し、解題を付す作業を担当させていただいた。そのさいの売りのひとつに「単行本未収録」という点があった。ところが吉行淳之介編『また酒中日記』という書名を目にして心中が騒ぎ出す。しかも書名に「また」とあることは、たんなる『酒中日記』が存在する可能性もあるわけで、直後に藤田さんとお会いしたときこの疑念を申し上げたら、藤田さんもとっくにお見通しだった。とにかく現物を確認せねばとその日は別れたのである。

 後日、藤田さんが調べて下さったところによれば、予想どおり吉行淳之介編『酒中日記』『また酒中日記』という二冊が存在し、それぞれ『小説現代』の同名コラムのアンソロジーであり、しかも『酒中日記』には当の戸板さんによる序文が載せられていた。さらにわれわれが『BOOKISH』に採録した二篇のうち一篇が『酒中日記』のほうに収録されていた。自著に未収録という意味での「単行本未収録」であると言い逃れできるけれど(山口さんの場合も同じ)、『酒中日記』『また酒中日記』という本の存在を二人して知らなかった迂闊さを恥じたのである。

 ともあれ、この二冊のアンソロジーはかなり面白そうだ。文壇著名人が日記の体裁でお酒を通じた交友を綴ったもので、木山捷平や浅見淵といった名前も見える。興味をお持ちの向きはぜひ古本屋で探していただきたいと言いたいところだが、一、二週間の間に二冊ずつ古書のネット通販目録から消えたことは確実なので、はからずもわれわれは需要と供給のバランスを乱してしまったことになるのかもしれない。(vol.167 2004/6/6)

(22)いい仕事をしている地方版元

●岡将男『岡山の内田百間』岡山文庫、1989年3月、800円
●定金恒次『木山捷平の世界』岡山文庫、1992年10月、800円
●小澤善雄『飛翔と回帰―国吉康雄の西洋と東洋』岡山文庫、1996年7月、800円
 先日、職場の同僚と世間話をしているうち藤澤清造が話題に出た。数年前金沢の版元・龜鳴屋から『藤澤清造貧困小説集』が刊行されたとき、ちょっとした話題になったことを思い出す。貧窮の果てに芝公園で凍死した、知る人ぞ知る私小説作家の藤澤清造である。彼の郷里金沢の文学館ではそれなりに顕彰されているらしく、また代表長篇「根津権現裏」が『石川近代文学全集』中の一巻に抄録されている。

 実は、わたしたち二人が共通して知る古本屋にこの「根津権現裏(抄)」が入った『石川近代文学全集』の端本があったのだ。藤澤清造単独ではなく、加能作次郎らとの合冊で、値段もそれなりにするのだけれども、よく行く古本屋に、端本のうちよりによって藤澤の巻が置いてあるなぞ奇跡的なことなのではあるまいかということで落ち着いた。同僚は、鏡花や犀星だけでなく、藤澤清造のようなマイナーな文士の作品もきちんとフォローする金沢という町の文化度の高さに感じ入ったとこぼしていた。

 私はといえば、東京の大きな出版社の本にばかり目を向けがちで、ときどき地方都市に本拠がある出版社の出版物にすぐれた作品を見いだし、その都度驚く(たいていすぐそのことを忘れてしまうのだが)。金沢に負けず劣らず「いい本を出しているなあ」と思っているところに、「岡山文庫」を出している岡山の日本文教出版がある。

「岡山文庫」とは名前のとおり文庫本のシリーズで、現在までに総巻200冊を超える一大叢書となっている。郷土の出版物として、『岡山の植物』や『岡山の古墳』『岡山の民話』といった風土・歴史・民俗物から、岡山出身、もしくは岡山に深く関わった人びとの評伝などが幅広くラインナップされている。このうち私が持っているのは上に掲げた三冊。いずれも岡山出身の作家・画家について、岡山との関わりに重点をおいた、一般的な評伝とはまた違った角度から彼らを捉えたものである。

 現在竹橋の東京国立近代美術館で「国吉康雄展」が開催されており(5月16日で終了)、そこに『飛翔と回帰』が図録とともにうずたかく積まれていた。こういった本は出会ったときに買っておかないといけないという強迫観念が働き、つい買ってしまったのである。百間や木山捷平はまだしも、国吉康雄のような若くしてアメリカに渡ってその地で没した画家についても目配りが届く。そんな岡山文庫に注目したい。(vol.163 2004/5/11)

参考:「小さな橋の博物館」 http://www1.harenet.ne.jp/~wawa/B/bridge.html

(21)「千本桜」を見直す

●渡辺保『千本桜―花のない神話』東京書籍、1990年10月、2000円
 私が初めて歌舞伎を観たのは、六年前の七月、歌舞伎座での猿之助歌舞伎だった。演目は『義経千本桜』の「すし屋」と「川連法眼館」。このうち後者は狐忠信の宙乗りで花道を引っ込む、猿之助といえばこれという有名なものだ。いっぽう「すし屋」は初めて歌舞伎に触れた者ゆえか、受け入れがたかった。これは私が「すし屋」が仮託する世界(源平合戦の時代)に比較的近い時代を研究の対象としており、なぜそれらが江戸時代のしつらえのなかで演じられるのかという認識のズレを埋めることができなかったためである。歌舞伎という演劇に特有の「やつし」が理解できていなかったわけだ。

 以後、その先入観ゆえ「すし屋」がかけられても観る気が起きなかった。はなからつまらないと思いこんでいたのである。ところが先月、歌舞伎座で片岡仁左衛門による上方演出の「すし屋」を、そのプロローグにあたる「木の実」「小金吾討死」と一緒に観て認識を百八十度改めた。面白いのだ。何がどう面白かったのか、ここでは具体的に説明することは避けるけれど、一挙に好きな演目の上位にジャンプ・アップした。

「すし屋」の舞台は大和吉野の弥助鮨。だから主人公“いがみの権太”が関西弁を話すのはごく自然なのだが、江戸の名優五代目幸四郎がこれを江戸っ子のべらんめえ調で演じて人気を博して以来、江戸ではこの演出が採用されるようになったという(戸板康二『歌舞伎ダイジェスト』暮しの手帖社)。

 仁左衛門の「すし屋」に感銘を受けたので、帰宅後書棚から演劇評論家・渡辺保氏の『千本桜―花のない神話』を取り出した。「千本桜」を代表する一段たる「すし屋」に面白味を感じず、したがって古本屋でこの本を見つけたときも、懐に余裕があるから買っておこうか程度の気分で、買っても棚に差しっぱなしだったのだが、いまや違う。

 本書のカバーには金子國義氏描く義経像があしらわれ、歌舞伎の本という雰囲気がしない。一目見て金子氏の絵だとわかる、甲冑を着した凛々しい西洋人的武者である。買ったとき、なかに前述の「弥助鮨」の宣伝リーフレットが挟まれていたのに気づき驚いた。読んでみると創業八百有余年、店主は48代目、現在は鮨屋でなく「旅館弥助」と旅館になって吉野川の近く(下市町)で営業中らしい。もちろん弥助鮨(鮎鮨)は土産物としていまでも拵えられている。
 
 私の前の持ち主はこの本を携えて大和下市に旅したのか、たまたま土産で弥助鮨をいただいたのか。あれこれ想像がふくらむけれど、「千本桜」と弥助鮨のつながりを認識し、かつ「すし屋」が好きだった人に違いない。(vol.159 2004/4/8)

(20)日本の古典籍に惹かれるということ

●横山學『書物に魅せられた外国人―フランク・ホーレーと日本文化』吉川弘文館、2003年10月、1700円
 フランク・ホーレーという一人の英国人をご存じだろうか。1906年生まれ、1961年没。戦前に言語学者として来日、日本の大学で日本・日本語研究にたずさわり、戦後は英国の新聞「ザ・タイムス」の特派員として再来日し、同紙上に敗戦国日本の様相をレポートしたジャーナリストでもあった。そのいっぽう著名な日本の古典籍蒐集家としてその筋では知られている人物である。彼の蔵書は名前に漢字を当て「宝玲文庫」と呼ばれ、古典籍の一大コレクションとして名高い。蔵書印影は『国史大辞典』にも収められている(「蔵書印」項)。

 といかにも知ったかぶりで述べているけれど、私が「その筋」の末端に連なって彼の名前を知ったのはたかだか五、六年前のことにすぎない。古典籍の入札会に彼の蔵書印が捺された旧蔵書が出品されたことがあって、周囲の同僚たちが目録を見ながら当然のごとく「宝玲文庫」の名を口にしているのを聞き、それまで不勉強にもまったく知らなかった私は、外国人がこうしたコレクションを成したことに対し、素直に驚いたのだった。

「宝玲文庫」に蔵された貴重な典籍類の多くは、反町弘文荘経由で購入されたものらしい。反町茂雄氏は戦後昭和23年頃の「華客」として、第一に彼ホーレーの名前をあげ「西の横綱」と呼んでいる(ちなみに東は天理教の中山正善氏)。反町氏の著書『一古書肆の思い出』を繙くと、納本先としてホーレーの名前が頻出する。反町氏は蒐集家としてのホーレーについて、「その購買意欲に於て抜群、ただし経済力に於ては、やや不足が見えました。ドンドン買われたが、支払いを渋られました。しかし、兎に角大変に強力なお買い手でした」(『一古書肆の思い出』3、平凡社ライブラリー、475頁)と率直に述べている。

 また別の箇所で反町氏は、日本の古典籍蒐集に関するホーレーの興味深い談話を書きとめている。
「日本の古典籍は実に安い。欧米のほぼ同じクラスの本とくらべると、二十分の一、三十分の一。物によっては百分の一くらいですよ」。全資力も超え勝ちに、せっせと集められたのは、その様な認識に由来するのでしょう。(前掲書、483頁)
 これと合わせ、昭和24年、「弘文荘六十年の歴史の上で、最大の事件の一」と回想される吉田子爵家旧蔵の貴重な典籍が弘文荘を介して売りに出されたとき、その半分近くを買い入れ、その後家産整理の都合で買値の七、八倍ないし十四、五倍の価格で弘文荘へ売却したというエピソード(前掲書4、108頁)を読むと、ホーレーは戦後の混乱による市場価格の落差に乗じて闇雲に古典籍を蒐集した印象を与えかねないが、実像はそうでなかったものとみえる。というのも、彼は太平洋戦争勃発とともに逮捕され、それまで蒐めてきた「宝玲文庫」の蔵書ことごとくを「敵産管理法」によって日本政府に接収されてしまったからである。

 つまり戦後の蒐集熱は、散逸した戦前蒐書の買い戻しという意味合いもあったわけで、荒俣宏氏や鹿島茂氏のように日本人が洋書蒐集に熱をあげるのとは逆に、そこまで日本の古典籍に魅せられる外国人の心持ちとはいかなるものなのか、フランク・ホーレーという人物への興味とともに、この『書物に魅せられた外国人』を読んでみたい。(vol.155 2004/3/10)

(19)人死して名をのこす

●上村瑛『大江戸文人戒名考―寺々ぶらりの江戸・東京散策』原書房、2004年1月、2000円
 人は自らの名前を選ぶことはできない。外国のことは知らないから日本の話に限定することになるけれども、基本的にそう言うことができるだろう。もちろん例外はある。結婚による改姓は別にしても、通称、ペンネームなど、恣意的に名前を選択することはできる。また戸籍上の本名であっても、特別な事情による改名は法的手続きを踏めば許される。ただそこまでして生まれたときに名づけられた名前を変える人は、ごくわずかしかいないと思われる。

 これに対して死んだあとの名前であればいかようにも自分で付けることができる。戒名(法名)のたぐいだ。寺院にお願いしてそれなりのお金を積めば、戒名すら人まかせにできる。「○○院」より「○○院殿」と「殿」が付けばランクが高くなるそうだが、お金によってそれが可能になるなんて、死んでまでそこにこだわる人(もしくは遺族)がいることがちょっと信じられない。いや、死後の戒名をあらかじめ自分で考えておくほうが、あるいは「こだわり」の度合いが強いのか。

 遺書をのこす人は多かろうが、戒名をあらかじめ自分で付けておくひとはどのくらいいるのだろう。他人様に付けてもらった戒名はともかく、あらかじめ自分で考えておいた戒名を見ると、その人の人生や考え方がそこに封じ込められているような気がして面白い。

 江戸時代から近代までの文人・著名人の戒名を調べあげ、それにまつわるエピソードを紹介するばかりか、彼らの墓所のあるお寺めぐりのエッセイにもなっているのが、今回紹介する『大江戸文人戒名考』である。「はしがき」で紹介されている戒名を見ると、石川啄木が「啄木居士」、滝廉太郎が「正廉居士」といたって素っ気ないものであるのに対し、泉鏡花は通夜に集まった文士連の互選によって「幽幻院鏡花日彩居士」が採用されたという。徳富蘇峰は「百敗院泡沫頑蘇居士」という意味ありげな戒名を自作した。

 この機会に作家の墓所を集成したサイト「文学者掃苔録」で彼らの戒名を見ていたら、面白くてあっという間に時間が過ぎ去った。山口瞳(文光院法国日瞳居士)と澁澤龍彦(文光院彩雲道龍居士)は「文光院」という院号が同じである。永井龍男は俳号「東門居」(鎌倉の東御門に住んでいたため)をそのままうまく使って「東門居士」。俳号が戒名に入っている人では久保田万太郎もいる(顕功院殿緑窓傘雨大居士)。「傘雨」が俳号。こちらは「院殿」に「大」がつく堂々たるもの。

 その他思い出すのは獅子文六。彼は「牡丹亭豊雄獅子文六居士」で、生前の本名と雅号・筆名がたくみに織りまぜられている。院号でなく亭号というのが変わっている。そしてユニークといえば山田風太郎に指を屈しよう。「風々院風々風々居士」。戒名の骨法を守りつつそれをコケにするかのようなネーミングのセンスは絶妙である。本書ではこのような戒名を通じて、文人たちの死生観が見えてくるのではあるまいか。

 本書の元版は『江戸文人戒名帳』として昭和57年に同じ版元から刊行された。コピーライターを本業としていた著者上村氏は元版刊行の五年後昭和62年に逝去。このたびの新版にあたり、お孫さんにあたる上村祐子さん(24歳)による「復刊によせて」という跋が付されている。(vol.151 2004/2/9)

(18)「シリーズ民間学者」の遺族

●千田稔『地名の巨人 吉田東伍―大日本地名辞書の誕生』角川叢書、2003年11月、2700円
 学問、とりわけ人文社会系のそれは基礎が大事である。たとえ瑣末な、わかりきっていると思われるような事柄でもとりあえず基礎文献にあたって調べるということが肝要だ。

 大学に入り日本史学の研究室で学ぶことになったとき、まず先生方からレクチャーを受けたのは基礎的な辞・事典類の種類と、それが研究室のどこにあるかということであった。日本史の場合、この分野の基本的事項を解説した事典として、吉川弘文館の『国史大辞典』がある。さらに史料を引用した百科事典として同じく吉川弘文館の『古事類苑』。氏族を調べるときは太田亮編『姓氏家系大辞典』、漢和辞典は大修館書店の『大漢和辞典』いわゆる“諸橋大漢和”、国語辞典は小学館の『日本国語大辞典』にあたりなさいと教わった。

 地名辞典の場合、私の学生当時すでに三種類の大辞典があった。すなわち平凡社の『日本歴史地名大系』、角川書店の『角川日本地名大辞典』、そして吉田東伍編にかかる『大日本地名辞書』である。平凡社・角川のものは基本的に一県一冊だが、当時(現在もか)平凡社の事典は完結しておらず、角川版は研究室に備え付けられていなかったこともあり、地名辞書の古典『大日本地名辞書』には何度もお世話になった。だから、これを編んだ吉田東伍という名前は学問の世界に足を踏み入れた当初から聞き知ってはいたものの、いったいどんな人物なのかというところまでは無知だったのである。

 辞書の編纂といえば、前述の諸橋轍次や『広辞苑』の新村出といったいわゆる「碩学」と称されるような博識の大学者を思い浮かべる。体系的な学問を構築するかたわら後進の指導にあたるというより、辞書編纂のために広く文献を博捜して地道にこつこつと成果を積み上げ、その仕事に一生を捧げるといった、どちらかといえば非アカデミズム系の人物像をイメージしてしまう。石井研堂、南方熊楠、宮武外骨といった人びととの親近性を感じるのである。

 今はなきリブロポートから刊行されていた「シリーズ民間学者」に名前を連ねるような人物たちへの興味が、ここ数年自分のなかで沸き上がっている。話が横道にそれるが、最近出た田口久美子『書店風雲録』(本の雑誌社)を読んでいたら、このシリーズ(の売れ行き不調)がリブロポートの首を絞めた一因だったが、いざ同社が倒産して見切り本として棚に並ぶと飛ぶように売れたという興味深い挿話があった。私も飛びついた側の口だ。

 話を戻す。「シリーズ民間学者」にこそラインナップされていないものの、吉田東伍もまたこの系譜に名を連ねてもいいような“雰囲気”を持っているように思う。いま“雰囲気”と書いたのは、彼は早稲田大学で教鞭をとっていたので、「民間」と位置づけるのは必ずしも適当ではないかもしれないからである。それはともかく、今回紹介する著書は、その意味で失われた「シリーズ民間学者」の血筋を引いているような気がする。

 蛇足だが、越後・佐渡という現新潟県域の編年史料集『越佐史料』を編んだ高橋義彦は吉田東伍の実弟だということを初めて知った。高橋は『大日本地名辞書』のうちの越後・佐渡の部分の手伝いをしたことから『越佐史料』の編纂を思い立ったのだそうだ。この連載の(13)で触れた幸田兄弟のような活躍ぶりである。(vol.147 2004/1/12)

(17)獅子文六で一年を締めくくる

●福本信子『獅子文六先生の応接室―「文学座」騒動のころ』影書房、2003年11月、1800円
 今年初めて作品に出会い、熱狂的にファンになってしまった作家が何人かいる。そのうちの一人が獅子文六である。

 それまで獅子文六(本名の岩田豊雄含め)の名前を知らなかったわけではない。ところどころで目にしていた。ただ、現在彼の作品で入手しやすいのが食味随筆系の著作のため、どちらかといえばグルメ作家という印象を持たれやすく、私の認識もその域を出るものではなかった。またかつて(十年ほど前)は古本屋に文庫本があふれていたと記憶しているので、どうしても通俗作家というイメージを払拭することができなかった。

 いっぽうで獅子文六作品の面白さは書友を通じて伝わっていたし、実際著書を読んでいなかったわけではない。唯一読んだことがあった『ちんちん電車』(朝日新聞社、1966年)は東京人獅子文六が「都電好き」を吐露しつつ都電廃止に向かう都市東京をちくりと批判した内容のエッセイだった。

 読むきっかけの一つは小林信彦さんによる獅子文六再評価である。エッセイ集『にっちもさっちも』(文藝春秋)に収録されている「獅子文六を再評価しよう」という文章のなかで、「いかに出版不況とはいえ、こういう作家の作品が書店に全くないのはモンダイである」と憤っていた。その後たまたま古本屋で代表作『てんやわんや』(新潮文庫)の改版を入手したのを幸い、それを読んだところ、一気にハマってしまったのである。これが四月の出来事。

 それから『コーヒーと恋愛(可否道)』『自由学校』『青春怪談』『海軍』『但馬太郎治伝』と読んできたが、一冊もハズレがない。ユーモアが全編にみなぎり、テンポがいい。ストーリー展開が意表をつき、選ばれるテーマも絶妙。『但馬太郎治伝』などは、いま書かれている小説をなぜ書くことになったのかという経緯を縷々述べて、それがそのまま当の小説になっているという驚くべきメタ構造。

 全集も買ってしまったので、これから残りの作品を読むのが楽しみなのだが、これだけ作品が面白いと、その私生活にも興味を持つようになる。そこにうってつけの本が出た。標題の本である。著者の福本氏は22歳のときから岩田家に住み込みで働いていたという女性で、副題にあるように「文学座」分裂騒動前後の晩年の様子が日常生活の側面から描かれる。

 大河内昭爾氏の跋に目を通していたら、著者は、毎月の給料と一緒に先生の著書一冊を頂戴したいと願い出たというエピソードに目がとまった。そういう人物が書いた獅子文六の肖像だから信頼がおける。その年にハマった作家の実像を描いた回想を、一年の締めくくりに読んでみようではないか。(vol.143 2003/12/12)

(16)「読まずに」書評する本

●赤瀬川原平『赤瀬川原平の今月のタイトル・マッチ』ギャップ出版、2000年6月、1600円
 南陀楼綾繁さんからこの「読まずにホメる」というタイトルでの連載依頼を受けてこのかた、ずっと気にかかっていた、もう少し言えば目指していた、さらにちょっと不遜な言い方をすればライバル視していた本がある。今回紹介する赤瀬川原平著『赤瀬川原平の今月のタイトル・マッチ』だ。

 本書はなにしろ「本邦初! 読まずに書く書評」(帯のキャッチ・コピー)である。書名にあるように、そのタイトルだけを見て「書評」するのだ。赤瀬川氏が本当にタイトルだけで「読まずに」書評しているのかどうか、私は本書を「読まずに」取り上げているのでわからない。
 
 自らのことで正直に告白すれば、「読まずにホメる」で取り上げている本は、時々文章中にも書いているが、目次や「あとがき」程度は眺めることがある。純粋に赤瀬川氏のようにタイトルだけで評することができた本は、たぶんない。

 だから、タイトルだけで勝負できる赤瀬川氏はすごいと心より尊敬する。タイトルから中味を想像しなければならないのだから、まず想像力がなければならない。そのうえ、そうした想像力の上に乗って書評を展開できる筆力というか、膂力がなければならない。

 赤瀬川氏はこの手の“パワー”をもったたぐいまれな書き手である。「無から有を生みだす」と言うと極端だが、わたしたちがふつう見逃してしまうような些細な出来事に目をつけ、それに卵黄とパン粉をまぶし油で揚げて衣をつけ読者に供する技量に長けている。

 たとえば『純文学の素』(ちくま文庫)。この本は「自宅でできるルポ」をメインテーマとして、自宅およびその周囲にあるモノ、本人が出かけたイベントなどをことごとくルポしようという試みである。もっともこのやり方はいつも成功するとは限らない。『純文学の素』では読者をぐいぐいと引っ張る記述がある反面で、弛緩しきって何とか書きつないだという部分もあり、読むのをやめたくなったほどだった。

 坪内祐三氏が『文学を探せ』(文藝春秋)のなかで、赤瀬川氏の日記体新聞連載小説『ゼロ発信』(中公文庫)に触れ、「どうやら赤瀬川原平には、ひと月の中に、小説を書く上でのバイオリズムがあるらしい」と評しているが、他のジャンルにおいてもあてはまると思う。バイオリズムの波長が上向きの、別言すればツボにはまった文章においては、赤瀬川氏の想像力・筆力はとてつもない牽引力へと昇華する。はたして『赤瀬川原平の今月のタイトル・マッチ』にもバイオリズムの振幅があるのかどうか。(vol.139 2003/11/7)

(15)見ること、評価すること、集めること

●T・スクリーチ(高山宏訳)『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』青土社、2003年9月、4200円
●鈴木廣之『好古家たちの19世紀―幕末明治における《物》のアルケオロジー』吉川弘文館、2003年10月、3900円
 美術史という学問がある。ある美術作品の制作年代や技法、作家の制作活動の特質、流派の系譜などを、それらが置かれた社会背景などにそくして読み解き、その歴史的位置づけを考察する学問である。

 美術史学によって、ある美術作品に何らかの評価が付与される。学界をリードするような権威のある学者によって評価がなされれば、プラス・マイナスいずれにしても他に大きな影響を及ぼす。人びとはその評価というフィルターを通して作品を鑑賞するようになる。評価を与える「権威」の源は何も学者だけではない。国家であったり、政治家であったり、マスメディアだったりする。作品にいったんまとわりついた評価というフィルターはそう簡単に剥がれるものではない。

 私たちはそうした手垢のついたフィルターを通して美術作品を鑑賞していることになかなか気づかない。情報として頭に入っているフィルターを取り払い、作品そのものを純粋に「見る」ということは難しい。

 美術品を集めるということ。この営みは目に入った物をただ闇雲にかき集めるということではないだろう。蒐集品は、集める主体による一定の意思にもとづいて選別される。秩序立てられるということだ。この秩序立てというのも一種の評価だろう。美術館という空間は、ある一定の意思にもとづいてモノが蒐められ、並べられている。それらを私たちは「見る」わけだが、結局美術館が何らかの形で「評価」した作品群を見せられているわけである。

 あらゆる評価、固定観念を取り払って純粋に「見る」ことに集中することは至難の業だ。何らかの評価に支配されていることは覚悟しなければならない。しかしながら、多かれ少なかれ美術品にはそうした評価というフィルターがまとわりついているということを知っておくのは無駄ではないはずだ。

 美術品の評価・秩序立てのシステムを丁寧に解き明かした本がこのところ立てつづけに刊行されている。寛政の改革の主導者にして史料蒐集に熱を上げ、それを「集古十種」といったアンソロジーに結実させた松平定信の事跡を捉え直すスクリーチ氏の著書、幕末から明治にかけての「考古」ならぬ「好古」家たちが、モノをいかにして秩序立てたかを論じる鈴木氏の著書。これに美術を評価することの危うさを様々な事例をあげて指摘した山下裕二氏の『日本美術の二〇世紀』(晶文社)を併せ読んだあかつきには、私たちの美術品を見つめるまなざしは変貌しているかもしれない。(vol.135 2003/10/8)

(14)近代装丁史・製本史を知るために

●大貫伸樹『装丁探索』平凡社、2003年8月、2300円
 “本が好きな人”とひとくちに言ってもいろいろなタイプがある。「重版でも、たとえボロボロでもテキストが読めさえすればそれでよい」というタイプ。逆に初版・カバー・帯が完備した本をあくまで追求するタイプ。“本が好きな人”全員をこの二つのタイプのいずれかに押し込むことは無理な注文である。またこれに「読書家」と「愛書家」とレッテルを貼るのも少し違うだろう。「本好き」の分類はかように難しい。

 私個人にしても、本によって「読めればいいんだ」と「帯がないと駄目なんだ」という二つの考え方の間を固定することなくゆらゆらとさまよっている。ただし「読めればいいんだ」という考えの奥底には、「カバー・帯があって綺麗なものが望ましいけれど、とにかく読みたいので仕方がない」という諦念が潜んでいることを否定しない。帯まで含めた装丁は本を構成する不可欠の要素であって、版面のみで事足りるとはゆめゆめ思わないのである。だから、装丁や版面デザインを論じた書物を読むのは大好きだ。

 本書『装丁探索』の著者大貫氏はプロの装丁家(ブックデザイナー)である。巻末の著者紹介を見ると、私も持っている『幻影の蔵』(東京書籍)のデザインを手がけた方であった。また近代装丁史・製本史の文章を発表されているともある。

 本書はそうした近代装丁史・製本史について書かれた文章を集めたものとのこと。第一部「装丁探索」では、本の装丁にも携わった画家たち(橋口五葉・小村雪岱・竹久夢二・杉浦非水・谷内六郎・棟方志功・宇野亜喜良・司修・安野光雅ら)、自著の装丁にも積極的に関与した作家(谷崎潤一郎・木下杢太郎・武者小路実篤・室生犀星・萩原朔太郎ら)、同じく出版人(長谷川巳之吉・花森安治ら)が取り上げられている。また円本やカッパ・ブックスなど、それぞれ一時代を築いた叢書の装丁にも言及されている。

 第二部「針金綴製本と洋本化」では、針金綴・アジロ綴・無線綴などの綴じ方の歴史、表紙に使う板紙(ボール紙)や地券紙(私はこの名前を筑摩書房の『文学の森』や『ちくま日本文学全集』で知った)の誕生、面付け・ノンブル・目次といった和本には見られなかった概念の導入による洋本化などに触れられている。

 装丁といってもデザインの方面に目が向きがちで、書物を構成する要素ではせいぜい用紙の問題にとどまっていた私の装丁への関心と知識が、本書を読むことによって一気に深化するのではないかと、大きな期待を抱いている。(vol.131 2003/9/7)

(13)明治のタレント一家

●萩谷由喜子『幸田姉妹』ショパン、2003年7月、1500円
 船曳建夫さんの『二世論』(新潮文庫)を読んで驚くことしきりだった。この二世に対するインタビュー集に登場する人物たちの家系図を見てみると、親子で才能を受け継ぐことにとどまらず、兄弟姉妹間でもそれぞれ違った分野で一流の才能を発揮している場合があるからだ。村松梢風を祖父にもつ村松友視さんの場合、父の弟が脚本家・新聞社論説委員・中国文学者として名を成している。また、22歳という戦後最年少の若さで真打に昇進した五代目柳家小さんの孫柳家花緑さんの兄は、バレエ・ダンサーとして世界的に活躍中の小林十市さんである。

 もっともいまあげた家系はきわめて稀な事例かもしれない。それに、多少ひねくれた見方をすれば、さまざまな分野で専門化がいちじるしい現代だからこその現象なのかもしれない。たとえば明治へと時代をさかのぼれば、現代では兄弟に分有される多種多様な才能を一人の人間が兼ね備える、そんな“マルチ人間”がたくさんいた。家族による才能の分有よりも、こちらのほうが目立っているのだ。

 ここでふたたび話をひっくり返せば、現代からは“マルチ人間”の存在に目が向きがちな明治の世の中において、兄弟にマルチな才能が分有されているという幸田家のあり方は、あるいは当時としては珍しいのかもしれない。

 露伴幸田成行の兄郡司成忠は軍人として千島探検を果たした冒険家、弟幸田成友は日本経済史の泰斗であった。男兄弟ばかりでない。露伴の妹幸田延・安藤幸はそれぞれピアニスト・バイオリニストとして洋行、帰国後日本の洋楽界をリードする存在となった。作家、軍人冒険家、経済史学者、ピアニスト、バイオリニスト。明治における幸田家は“タレント一家”の先駆的存在であるといってよかろう。

 幸田延・安藤幸の二人は、これまで露伴との関係で「妹二人が音楽家だった」という語られ方で知る存在にすぎず、二人が黎明期日本洋楽界にどんな役割を果たしたのか、そこまで踏み込んで知る機会がなかったのである。そこに、萩谷由喜子『幸田姉妹』という恰好の書物が刊行された。

 幸田露伴―幸田文―青木玉―青木奈緒という直系四代の文学作品を愛読してきた人間にとって、幸田家の横のひろがりを知りつつ、これまでまったく興味のなかった日本の洋楽史の知識も得られるのだから、一石二鳥の本である。(vol.127 2003/8/7)

(12)文庫本解説の模範

●森信勝(編)『平野謙 松本清張探求』同時代社、2003年6月、2500円
 この本を書店の書棚で見かけたとき、ちょうど平野謙が解説を執筆している松本清張の短篇集(『黒地の絵 傑作短篇集(六)』新潮文庫)を読んでいたという偶然の符合に驚くとともに、最近たまたま平野氏が解説を書いている文庫本を読む機会が続いているということを思い出した。

 ところが家に帰って読書記録を調べてみると、どうやら私は勝手にこのような妄想を抱いていたらしい。読書中の松本清張の短篇集以外、最近読んだ平野氏解説の文庫本は一冊きり。山本周五郎『青べか物語』(新潮文庫)だけなのである。少し前に遡って読んだ本を調べれば、松本清張の別の短篇集でも解説を担当していた。記憶の混乱は、現在進行形で読んでいるものと過去に読んだもののイメージが強烈な印象として刻まれていたからなのに違いない。

 平野氏による文庫本の解説は、「解説」を逸脱した読書エッセイに大きく傾くでもなく、あくまで主体である作品の「解説」という本分を守りながら、その作品世界の広がりを読者に知らしめている。作品を読む前に解説を読めば、その作品の勘どころを教えてくれ、読後に解説を読めば、作品を読んだときの興奮をクールダウンしてくれる。そんな魅力にあふれているゆえに、平野氏の解説が記憶に残っていたのだろう。

 さて、本書『平野謙 松本清張探求』は、1959〜72年にかけて平野氏が松本清張について書いた文庫本解説、書評など四十数点の文章をすべて収録した“平野謙松本清張論集”である。編集にさいし、記述が重複している箇所などを削り、対象作品の年代順に並べ替えるなどの切り貼り作業が加えられている。テクストの行間に丸数字で註が付されており、これらの丸数字が原典と対照するようになっている。見てみると頻繁にこの丸数字が目に飛び込んできて、大きく手が加えられていることがよくわかる。

 その意味で本書は純粋な論集とはいいかねる。編者森氏による一種の“平野謙ダイジェスト”なのだ。重複箇所を削って並べ替え整理し、論旨を明確にした森氏の労を多としなければならないが、いっぽうで平野氏の文章そのままを味わいたいというファンには不満が残るかもしれない。

 昨年没後10年を迎えてもなお松本清張作品には多くの読者がいる。このようなかたちで平野謙の作品論がまとまり、さらに本書を介して松本作品の魅力を再確認できることを喜びたい。(vol.123 2003/7/9)

(11)ポエジーが人を動かす

●海野弘『東京風景史の人々』中央公論社、1988年6月、1800円(品切)
 私は気に入ったテレビドラマがあると、そのドラマがどこで撮影されているのかにも興味を持つ性分である。ドラマの内容そっちのけで、演じている俳優さんの背景にばかり見入ってしまう。ロケ地が特定でき、しかもそれが身近な場所であればそこを訪れ、俳優さんたちが立っていた姿を想像する。ミーハーなのである。

 テレビとは次元が違うかもしれないが、絵画にも同様の喚起作用がないだろうか。ある都市風景を描いた絵画を見たとき、その絵のモデルになった場所を探索しようと思い立つ。ひとしく都市風景画といっても、こうした誘惑を見る者に起こさせる作品(画家)とそうでない作品(画家)があるようだ。

 松本竣介は前者の代表格とおぼしい。洲之内徹は『気まぐれ美術館』(新潮文庫)のなかで、四章にわたって松本竣介の描いた風景を訪ね歩いた顛末を報告している。洲之内は、一緒に探索を行なった画家丹治日良氏との間で、「いったい竣介の風景の何が、私たちを、こうやって炎天の下を歩きまわらせるのだろうか」と訝りあったという(「松本竣介の風景(三)」)。

 後日洲之内がこのエピソードを同じく画家の岡鹿之助に話したところ、「それは松本竣介のポエジーだよ」という答えがかえってきた。画家のポエジー、絵のポエジー、そしてモデルとなった風景のポエジー、これらが一致してはじめて、見る者を風景探索へと駆り立てる。

 海野弘氏の『東京風景史の人々』(中央公論社)は、書名にも採られた第1章で小林清親・鏑木清方・木村荘八・竹久夢二・谷中安規・長谷川利行・織田一磨・松本竣介の八人の画家を取り上げ、彼らのまなざしを介して取り上げられたモダン都市東京を論じる。この八人には上記のごときポエジーが充ち満ちているに違いない。海野氏のモダン都市論といえば、名著『モダン都市東京』(中公文庫)ばかりが注目されがちで、私は迂闊にもその姉妹編ともいえる本書の存在をまったく知らなかった。

 八人の画家を取り上げた「東京風景史の人々」は『東京人』創刊号から第八号に連載されたものだという。『東京人』『銀座百点』に連載されていたものは無条件に良いと信じる私にとって、読む前の期待度大の一冊である。(vol.119 2003/6/5)

(10)博士の日記、博士の実像

●桑原隲蔵『考史遊記』岩波文庫、2001年3月、1100円+税
「[書評]のメルマガ」本号の責任編集人である南陀楼綾繁氏は名だたる日記本蒐集家である。南陀楼氏にはとうてい及ばないが、私も“日記本好き”を自認する人間である。日付のある記述が並ぶ版面を見たとたん、“日記本好き”の心が疼く。振り返れば「読まずにホメる」第一回で取り上げたのは山田風太郎の戦後日記だった。

 今回取り上げるのは、わが国における草創期東洋史学の泰斗桑原隲蔵(じつぞう、1870-1931)の紀行(調査)日記である。桑原は越前敦賀生まれ、京都府立中学−三高を経て東京帝国大学文科大学に学び、三高、東京高等師範教授を経て清国留学後京都帝国大学教授に任ぜられるという経歴をもつ(『国史大辞典』)。「俳句第二芸術論」で名高い京大教養主義の巨魁、仏文学者桑原武夫氏は彼の次子にあたる。

 本書は明治40年(1907)から二年にわたり、中国(当時は清)の長安・洛陽、山東省・河南省、内モンゴルに調査旅行を行なったときの日記である。中国の史蹟や陵墓、石碑、寺院、景観、民俗などが仔細に書きとめられ、写真図版も多く入った、いまとなっては貴重な文献の文庫化だ。前述の経歴でも触れたが、留学からの帰国後、桑原は京大教授となって先に着任していた内藤湖南とともに京大東洋史学をリードし、宮崎市定らを育てた。

 名前の字面からもいかにも謹厳実直そうなイメージを受けるのだが、実像はそうでもなかったらしい。薄田泣菫の『茶話』のなかに、「桑原博士の人違ひ」と題して桑原の人柄を垣間見させてくれるエピソードが紹介されている。その冒頭で泣菫は桑原をこんなふうにスケッチする。
京都文科大学の教授桑原隲蔵氏は、大きい声では言へないが、一寸そそつかしやである。学者には兜虫のやうな沈着家と蜻蛉のやうなそそつかしやと二種の型があるが、桑原氏はどちらかといへば蜻蛉の方である。(谷沢永一・浦西和彦編『完本茶話(下)』冨山房百科文庫)
 泣菫は大阪毎日新聞に勤めていたこともあって、『茶話』には昔の京大の先生のおかしなエピソードが多く収録されている。厳めしそうな帝大教授をおちょくってやろうという意図もあったのだろう。

 ところで蛇足だが、本書は岩波文庫にしてはかなりぶ厚い。本文・索引合わせて592頁もある。試しに『岩波文庫解説総目録』を調べてみたら、一冊の分量で本書を上回るものは十冊程度しかないことがわかった。青版では頁数がもっとも多い本である。(vol.115 2003/5/4)

(9)病める明治人の症例報告

●度会好一『明治の精神異説―神経病・神経衰弱・神がかり』岩波書店、2003年3月、3400円+税
 明治維新をきっかけに西洋文明が怒濤のごとくわが国に流れ込んできた。いっぽうで学問や文化を身につけようと欧米に留学する日本人も増える。これらの相互交流は必然的にカルチャー・ショックを惹き起こす。江戸文化が欧米に与えた影響として第一にあげられるのは浮世絵だろうか。浮世絵がゴッホたちに影響を及ぼしたことは、いまさら言うまでもない。

 ただ双方のベクトルを比較すれば、やはり西洋文明がわが国に与えた影響のほうがはるかに大きいと言わざるをえないだろう。とりわけ「近代的自我」なるものは明治の知識人たちを苦しめた。その代表格は夏目漱石。先ごろ双葉文庫に入った『「坊っちゃん」の時代』四部作(関川夏央・谷口ジロー)は漱石を中心に悩める明治人を描いた傑作である。それによれば、漱石は留学先のロンドンで極度の精神衰弱に陥り、「夏目狂せり」との報が日本にもたらされたという。そのロンドンやアメリカで大暴れした南方熊楠のような超人は別にして、多かれ少なかれ明治の知識人たちは流入してくる西洋文明の奔流に神経をいらだたせ、精神を病んだ。

 いやもちろん「近代的自我」なるものがない時代にも精神の病は存在したに違いない。たとえば徳川三代将軍家光は、現在で言う不安神経症の症状に悩まされていたとの説がある(山本博文『江戸城の宮廷政治』講談社文庫)。また目を庶民に移せば、これらの病は「狐憑き」「神がかり」といった民間習俗のなかで処理されていたのである。しかしこうした民間習俗・民間療法もまた近代的理性の前に屈服させられる。西洋直輸入の医学によってこれらの症状は「神経病」「脳病」というレッテルを貼られた。本書は病んだ明治人の症例を検討しながら、これら記号としての「神経病」「脳病」の具体相を掘り起こそうとする試みらしい。

 本書にも何度か引用されている精神医学者の草分け呉秀三は夢野久作『ドグラ・マグラ』の主人公たちのモデルとされているのではなかったか。してみると『ドグラ・マグラ』は病んだ明治人たちの行きついた場所ということになるのだろうか。(vol.111 2003/4/8)

(8)芝居町歩き今昔

●矢野誠一『東都芝居風土記』向陽書房、2002年11月、2500円+税
 今年は江戸開府400年の節目の年。すでに江戸東京博物館で「大江戸八百八町展」が開催されたほか、出版界でも江戸関連本の出版が目につく。今回取り上げる矢野誠一氏の本はそれに先がけて去年出版されたものであり、また94年から2001年まで連載されていた文章をまとめたものであるから、開府400年を当てこんだものではない。ただこれを機会にもっと注目されてしかるべき本であることには違いない。

 本書は東京のなかで歌舞伎や新劇の舞台となった場所を訪ね歩いた一種の「町歩き本」である。故地の写真や舞台写真とともに、達意の文章によって芝居名所としての江戸がよみがえった。ただ帯に「東京には芝居の舞台になったところが意外に多い」とあるのはいかがなものか。芝居すなわち歌舞伎と考えてよければ、「意外に」どころではなく、当然のことなのではないかと思うからだ。

 とはいえ、このように説明しなければならないほど時代は変化したというべきなのかもしれない。

 本書と似たコンセプトの先行作品として、戸板康二『芝居名所一幕見 舞台の上の東京』(白水社、1953年)や羽鳥昇兵『東京歌舞伎散歩』(読売新聞社、1971年)がある。羽鳥氏は「あとがき」で、戸板本を手に東京を歩き回った学生時代をふりかえり、執筆のさいつねに戸板本を念頭においていたことを告白している。矢野氏も同じで、戸板本は座右の書であり、本書の基本的な構想は「四十年前に師の歩いた東京の芝居名所のその後を、私の足でたどってみること」にあると書いている(「あとがき」)。師とはすなわち戸板氏のこと(ついでにいえば、矢野氏には『戸板康二の歳月』という傑作評伝がある)。

 その戸板本で一番最初に取り上げられている場所が「玄冶店」。お富与三郎で有名な世話狂言「与話情浮名横櫛」に登場する、お富の住む妾宅があった場所である。現在の人形町にあたる。矢野氏の本で玄冶店の故地散策記を探ると、それは「人形町」の項で触れられていた。戸板氏の時代は「玄冶店」で通じたが、いまやそれではイメージを形成するのが難しくなりつつあるのだ。

 矢野本・戸板本の二著を見比べてみても、この50年の間に歌舞伎芝居をめぐる環境が大きく様変わりしたことがわかるのである。(vol.107 2003/3/6)

(7)「お宝」のゆくえ

●松田延夫『益田鈍翁をめぐる9人の数寄者たち』里文出版、2002年11月、2800円+税
 テレビ東京「開運なんでも鑑定団」のおかげか、陶磁器や絵画、古筆などのいわゆる「お宝」に関する認識度が一般的に高くなってきたようである。もっともあの番組においても国宝重文級の「お宝」が鑑定にかけられるのはきわめて稀で、現代においていまだ知られていない古美術品が出現したとなれば、それこそ新聞の一面を飾るようなネタになり得るだろう。

 ところが明治から昭和戦前頃までは、こうした「お宝」は多く美術市場に流れ、莫大な財産にものをいわせた華族・実業家たちによってかき集められていたという。彼ら上流階級に属する蒐集家どうしの交遊によって形成されたネットワークは、いわば一種の「サロン」といえよう。お互い切磋琢磨し蒐集を競い合うことによって鑑定力が鍛えられ、文化財に対する一定の価値判断が磨き上げられる。わが国の文化財流出の危険性も彼らのサロンあるかぎり低かったのではあるまいか。

 本書は三井物産の創設者であり明治大正における三井財閥の総帥である益田孝(鈍翁)を中心とした蒐集家九人の交流を、古美術品の蒐集という側面から描いた評伝である。取り上げられているのは、高橋義雄(箒庵)・井上馨(世外)・赤星弥之助・朝吹英二(柴庵)・益田英作(紅艶)・馬越恭平(化生)・益田克徳(非黙)・石黒忠悳(況翁)・原富太郎(三渓)の九人。

 それぞれ各界で一家を成した名前がずらりと並ぶ。とりわけ維新の元勲である井上馨は、不平等条約の是正のため極端な欧化政策をとった人物、また財界と結びついた腹黒い人物としての印象しかなかったけれども、藤森照信氏の『明治の東京計画』などを読んで、銀座煉瓦街計画など、夢のあるユニークな近代化政策を推進した人物であることがわかって興味を持っていた。本書でも世外と号した彼の“数寄者”として側面に脚光があてられていてさらなる興味をかきたてられる。

 蒐集家たちの経済的基盤と彼らのネットワークは太平洋戦争によって瓦解する。益田男爵家も例外でなかった。「その質は飛び抜けて優秀、その数も相当に多数」と評価された益田鈍翁の書画骨董コレクションは、戦中から戦後にかけ子の太郎・孫の義信氏らによって幾度かに分けて処分され、散逸したという(反町茂雄『一古書肆の思い出3』平凡社ライブラリー、377頁以下)。

 なお蛇足だが、鈍翁の嗣子、帝劇重役にして喜劇作家益田太郎冠者こと益田太郎氏の評伝、高野正雄『喜劇の殿様―益田太郎冠者伝』(角川叢書)も面白い本である。(vol.103 2003/2/8)

(6)コラムの魅力

●今和次郎『野暮天先生講義録』ドメス出版、2002年11月、1800円+税
 エッセイ(随筆)・コラムといったたぐいの文章は年齢を重ねないといいものが書けないとよく言われる。人生経験を積むなかで身についたさまざまな知見が土台にあることによって、目配りが行き届いて滋味あふれる、知的刺激に富んだ文章が生み出されるというわけである。

 今回取り上げる本はそういう一冊。考現学の祖今和次郎が昭和42年(1967) に、日本経済新聞夕刊で連載したコラム112本のうち、今和次郎コレクション委員会が約半数をセレクトして編んだ『野暮天先生講義録』である。

 今和次郎といえば前述のように「考現学」が枕詞として必ずついてくる。関東大震災による帝都東京の崩壊後、焼け跡に簇生したバラック建築に着目して、 そのスタイルや建物に付属する看板類を観察、スケッチしたのが考現学のはじまりといわれる。それが震災復興後、モダン都市東京の世相風俗観察へと発展した。

 藤森照信氏によれば、今の思想は日本近代の建築家のなかでももっともオリジナリティにあふれており、彼の仕事は世相風俗観察としての考現学の確立にとどまらず、広く一般の文化や学問へ及ぼした影響は少なからざるものがあるという(藤森照信「今和次郎の逆襲」、柏木博・藤森照信・布野修司・松山巖『建築作家の時代』リブロポート)。

 藤森氏は今を「物の領分を絶対的等価に眺めることを通して、人が物を作るという営みのプリミティブな段階の魅力に最初に気づいた人」と評価する。物の格の上下(貴賎)、新旧古今に価値の上下をつけず、万物を同じテーブルのうえに載せたのである。

 目次を見ると、この今の思想が如実に反映されていて、それだけで十分面白い。 「記念の座布団」「道端のゴミ」「ネクタイ談義」「アパートとミニスカート」「ハイヒールの系図」「フォーク」「結婚衣裳」「うちの文化財「急須」」「バテレンの服装」「みやげものの美学」「くらしの電化」「公民館考」などなど。 各文章には今自身の手になるイラストも入って、読むのが楽しくなりそうだ。

 松山巖氏は一度だけ目にした今の風貌を「ジャンパーとゴム長のいでたち」 と回想している(ちくま学芸文庫『新版大東京案内(下)』解説)。本書口絵写真では、その松山氏の証言や本書タイトルの「野暮天先生」というニックネームを彷彿とさせる胡麻塩頭の今がたたずんでいる。(vol.99 2003/1/10)

(5)メジャーにしてマイナー

●池内紀『播磨ものがたり』神戸新聞総合出版センター、1997年10月、2000円
 毎日出版文化賞を受賞したゲーテ『ファウスト』の個人訳や、最近ではカフカの小説作品の個人全訳などの訳業に精力的にあたられているいっぽう、ちくま文庫の『温泉百話』などのアンソロジー編集にたずさわり、また、講談社エッセイ賞受賞作『海山のあいだ』などの紀行エッセイも多いドイツ文学者池内紀は、私がことさら強調するまでもなく著名な文筆家であることは、衆目の一致するところだろう。

 翻訳書を除いても八十冊前後にのぼる厖大な著作を見渡すと、文芸評論や評伝、紀行といったジャンルのほか、小説作品も意外に多い。『天のある人』にはじまり、『閣下、ご臨終です』『開化小説集』『街が消えた!』から、近年の『川の司祭』まで、個性的で面白い短篇集があるにもかかわらず、あまり小説家としての相貌が目立っていないのは、これらの作品がまったく文庫に入っていないことに原因があるに違いない。小説作品だけでなく、全般的に池内氏の著作の“文庫化率”はきわめて低い。宝物の山だと思うのだが。

 これは個人的な感想だけれど、池内氏には「いったいいつ出たの?」と訝ってしまうような、ひっそり刊行された著書が多くはないだろうか。全般的にマイナー指向なのである。とりわけその指向性が強いのは、『播磨ものがたり』だ。

 本書は姫路市文化振興財団から出ている季刊誌への連載をまとめた連作短篇集である。池内氏は姫路出身。その縁で連載を引き受けたのだろう。播磨はいまの兵庫県南部を中心とした旧国名で、姫路が地理的にも中心都市となっている。雑学の大家バリカン先生と美術史専攻の学生園田友子、そして姫路生まれの「私」の三人が、播磨の土地や人物をめぐって頭と体を動かす知的意趣に富んだ短篇集となっている。装幀は池内本といえばこの人田淵裕一氏で、本書専用の紙栞池内氏イラスト入)が付いている凝りようだ。

 雑学の大家バリカン先生といえば、池内ファンにはすでにお馴染み。“建築探偵小説”と銘打たれた連作短篇集『街が消えた!』(新潮社)にも登場する。こちらの場合は、バリカン先生こと女子大の教師外山大蔵に加え、赤門の建築史の先生たる「私」と、美人刑事、研究室の秘書の女の子という四角関係のなかで物語は進んでいった。とはいえ人物配置は何となく似ていなくもない。

『播磨ものがたり』の版元は神戸新聞ということもあり、やはり多くの人の目に触れないでいる本ということになるだろう。私も心覚えのために池内氏の著作リストを作成してはじめて本書の存在を知った。タイトルだけではどんな本なのか見当もつかなかったが、たまたま荻窪の古本屋で安く手に入れることができて、ようやく内容を知ったのだった。こういう本こそ文庫に入れて多くの人に手に渡るようにしてくれないものだろうか。(vol.95 2002/12/9)

(4)作家と読者とメディアの共犯関係

●佐藤卓己『『キング』の時代 国民大衆雑誌の公共性』岩波書店、2002年10月、3800円
 現在もあまり事情は違わないのかもしれないけれど、戦前においては総合雑誌・文芸雑誌・大衆雑誌に歴然たる「格」が存在したと言われている。
 小説家の場合を例にとれば、総合雑誌たる『中央公論』『改造』両誌に自作品が掲載されることは栄誉であった。いわゆる「純文学」系ではない、「大衆作家」と総称される時代小説・探偵小説作家にとっては、なおさら強くこのことが意識されたことであろう。日本の探偵小説の草分け江戸川乱歩は、代表作のひとつに数えられる「陰獣」(初出『新青年』)が当初『改造』に依頼されたものであったことに触れて、次のように書いている。
私にはやはり事大主義的なところがあり、「改造」を「新青年」よりも一級上の雑誌と考えていた。(講談社江戸川乱歩推理文庫版『探偵小説四十年2』62頁)
 自伝『探偵小説四十年』には、後年「石榴」が初めて『中央公論』に掲載されたときの反響についても詳しく記録されている。
 いっぽう大衆雑誌に目を向ければ、その最高峰は大日本雄弁会講談社(現講談社)の『キング』に指を屈する。ところが、1925年(大正14)に創刊され、日本で初めて百万部を達成したこの化け物雑誌に作品を発表することは、作家にとって意外にも逆の意味を持っていたらしい。

「昭和初頭のころまでは、小説家一般に講談社の雑誌に書くのを純売文に堕することとして、これを忌避する風習があ」り、「百万の読者を持ち、老幼男女誰にもわかる小説を書けと注文のつく」(以上同前書)『キング』がその代表だった。乱歩も当初講談社忌避組の一人だった。もっとも理由は「なんとなく」という気分的なものだったから、昭和四年講談社の別の雑誌『講談倶楽部』に『蜘蛛男』を初めて連載したあと、堰を切ったように同社の雑誌に作品を発表し始め、同社の看板作家的存在になってゆく。

 その乱歩が『キング』初登場を果たしたのは翌昭和五年に連載を開始した『黄金仮面』である。『キング』に作品を書いたことはいろいろな意味で「一大事件」となった。
殊に『キング』の方は読者から来る手紙の多いのに一驚を喫した。私の田舎などでは、『キング』に書き始めたので、私が俄にえらくなった様に言われた。お茶屋やカフェでもチヤホヤされる様になった。作者の気持から言うと、これはまことに変てこな現象に相違なかった。と同時に、講談社の勢力の偉大なことがよく分かった。(「探偵小説十年」、河出文庫江戸川乱歩コレクション6『謎と魔法の物語』所収)
 この乱歩の正直な告白は、作家の講談社観とそれを受け入れる読者(大衆)側の感覚の乖離、そして作家の姿勢の変化がよくわかって面白い。

 さて、この『キング』を、戦前のメディア史ならびに社会思想史のなかに位置づけているとおぼしいのが本書である。戦時総動員体制を形成するにいたるファシズム思想や大衆参加のメカニズムが、『キング』ひいては講談社文化、出版文化の果たした功罪に絡めて論じられている。上の乱歩の証言を見るかぎり、大衆に対するメディア操作を考えるのに『キング』が格好な素材であることがわかろうというものだ。

 国民がある一つの雑誌、ある一つのメディアに熱狂する時代はとうの昔に過ぎ去った。その時代の大衆がこぞって熱狂した雑誌、メディアの何たるかを知れば、戦争へと向かっていった集団心理の一端を知ることができるのではあるまいか。
 著者の佐藤氏は国際日本文化研究センターの先生。ここには井上章一さんといい、井波律子さんといい、ユニークな研究をされている人材が揃っている。(vol.91 2002/11/7)

(3)饒舌な犯罪者たち

●永井良和『探偵の社会史1 尾行者たちの街角』世織書房、2000年5月、2500円
 探偵という言葉がサ変動詞としてたんに「推測する」というほどの意味合いで使われだしたのは明治の頃らしい。さらにそれが現在のように人のできれば知られたくないプライベートな生活を穿鑿するような意味合いの言葉に変化したのは、どうやら明治末から大正にかけてのことのようだ。人の依頼を受けてある人物を「探偵する」ことを職業とする人間、すなわち「探偵」が生まれたのはそのあとのことになる。

 松山巖氏が論じられたように(『乱歩と東京』ちくま学芸文庫)、都市人口の増加にともなう人間関係の希薄化が、そうした不透明な関係を解き明かそうとする「分析的精神」を生み出したとすれば、その発動を職業とする探偵もまたその所産ということになるのだろうか。この言葉の揺籃期と比べものにならないほど人間関係がより希薄化した現代では、それと反比例するかのように、探偵という営為は「覗き」や「ストーカー」という犯罪にエスカレートし、毎日聞き飽きるほどの件数の事件が報道されている。

 本書はこの探偵という行為が未成熟な段階の社会学的な考察というスタイルをとっている。現代におけるストーカーや覗きなどの犯罪行為の発生論といえようか。

 本書でも取り上げられているが、「覗き」の代名詞といえば「出歯亀」だろう。女湯覗きの常習犯池田亀太郎がこう呼ばれ、それが一般名詞化した(『日本国語大辞典』第二版にも記載がある)。先日冨田均『続 聞書き・寄席末広亭』(平凡社ライブラリー)を読んでいて驚いたのは、庶民の野次馬的関心を集めた彼ら犯罪者は、刑期を終えて出所したあと、寄席の高座に上って一席話をしたというのだ。同書に拠れば、出歯亀だけでなく、かの阿部定も高座に上ったという。

 そういえばかつては「説教強盗」という犯罪者もいた。出歯亀や阿部定の体験談は話芸となり、現代ではドライに凶悪化するいっぽうの強盗にもかつては説教というおまけがついた。妙な言い方だが、現代犯罪の社会学的分析よりはまだ当時のそれのほうが彩りがあるような気がする。(vol.87 2002/10/14)

(2)青土社の小説、エトランジェの小説

●多和田葉子『容疑者の夜行列車』青土社、2002年7月、1600円
 私は多和田葉子の作品をまったく読んだことがない。情けないことにどんな作風の小説家なのかも知らない。よく訪問する読書サイト複数でときおりお名前を目にすることからすれば、おそらく自分の好みから大きくかけ離れている作風ではないだろう。その程度の認識でしかない。にもかかわらず本書を購入し、期待しているのは次の二点の理由による。

 第一は版元が青土社であること。青土社は申すまでもなく『ユリイカ』『現代思想』の二誌に代表される出版社である。同社の単行本はだいたいこれらの雑誌に連載されていたものが多い。すなわち、詩、エッセイ、文芸評論、現代思想関係の本を出している出版社というイメージである。

 そのなかで、たとえば『ユリイカ』にまれに小説も連載され、それらが単行本にまとめられる場合がある。元来が詩の雑誌であり、特集をメインにして連載も評論などが多いことを考えれば、そこに小説が連載されているという時点で、その小説は編集部によって精選された作者による入魂の作品という匂いを濃厚に漂わせている。最近でいえば堀江敏幸の『おぱらばん』がその代表であろうか。

 第二に、このところ個人的に“エトランジェ物”といったジャンルの文学作品が気になっていること。“エトランジェ物”とは私が勝手に名づけたジャンルだが、外国に滞在(あるいは旅行)した日本人による生活体験、また、異国で味わう違和感といったものを主に小説で表現している作品のことを指す。前述の堀江氏の一連の作品をはじめ、最近では藤田宜永の『巴里からの遺言』(文春文庫)・『壁画修復師』(新潮文庫)などが印象に残る。先駆的作品は荷風の『ふらんす物語』『あめりか物語』だろう。

 しかも本書は堀江・藤田両氏が舞台に選んだフランスだけでなく、中欧・東欧、さらに中央アジアも舞台になっている。本書は買った時点で私の“エトランジェ物”コレクションのリスト入りしているのだった。(vol.82 2002/9/10)    

(1)戦中派の「戦後」

●山田風太郎『戦中派焼け跡日記』小学館、2002年8月、2095円
 今回から「読まずにホメる」ということで、読まないでその本の良さを評価するという荒行に挑戦することになった。事の性質上、読んでみたら面白くなかったということは十分ありうるわけなので、その点はお許しいただきたい。

 私は日記体文学が大好きで、日記というと第一に登場する荷風の『断腸亭日乗』はもちろんのこと、最近では山口瞳の「男性自身」のうちの日記シリーズと呼ばれる晩年の四冊(『還暦老人ボケ日記』『還暦老人憂愁日記』『還暦老人極楽蜻蛉』『年金老人奮戦日記』いずれも新潮社)などを愛読している。

 日記といえば昨年亡くなった山田風太郎の若き頃の一連の日記を思い浮かべる向きもあろう。既刊行の日記には『戦中派虫けら日記』(ちくま文庫)、『戦中派不戦日記』(講談社文庫)があって、前者は昭和17〜19年、後者は同20年の日記である。山田風太郎自身も自分が日記好き(たとえば『断腸亭日乗』)であることを公言していたし、日記・日録好きの結晶とも言える『同日同刻』(文春文庫)のような著作もある。日記好きの人の日記ほど面白いものはない。いや逆だろうか。日記を付けていたからこそ日記体文学も好きになったのか。

 ところが、大きな声では言えないけれども、実は私は上記二冊を通読したことがない。いや、拾い読みすら数えるほどしかない。そこに今度新しく日記が翻刻刊行された。『戦中派焼け跡日記』(小学館)。前二冊を受けた昭和21年、著者24歳の時の日記である。

 日記好きの私をして読むのを躊躇させたものは何なのだろう。考えてみると、「戦中派」という山田風太郎に貼られたレッテルが読む邪魔をしていたとしか思えない。戦中派とは太平洋戦争中に青年期を過ごした世代を指す言葉だが、この言葉や「不戦」という言葉が重くのしかかり、気楽に日記を読むことを阻んでいたのだろう。だいいち山田の三年あとに生まれた山口瞳もまた「戦中派の権化」と言われているのである。それにもかかわらず日記を面白く読めたのは、書いた年齢という条件はもちろん、タイトルの語感によるところも大きい。

 戦後一年目たる昭和21年の日記がいま公刊された理由はわからない。ただこのことは少なくとも私にとっては意味がある。戦中派山田風太郎(の日記)に期待されていたのは、彼が青年期を送ったまさに「戦中」の日々の暮しと、彼がそこで何を考えていたのかという点にあった。戦中派による「戦後」の日記に何ほどの意味があろうか。

 しかし、書いた本人の長逝によって風向きが変わった。戦中派による「戦後」も戦中と地続きのものとして見直そう。この公刊にはそんな意図もあるのかもしれない。戦中派という言葉に拒否反応を示した私であるが、逆に戦後の日記が出たことによって、そこから山田風太郎の日記の世界に入って行けそうな予感がしている。(vol.79 2002/8/12)    

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