十二月大歌舞伎・昼の部

舞妓の花宴〔三階B席〕

成駒屋の舞踊。六代目歌右衛門が復活して、それでも四十年ぶりくらいらしい。いよいよ福助が次代を継ぐという準備に入ったか。舞踊自体は何だかパッとしない。

源平布引滝 実盛物語〔三階B席〕

以前富十郎の実盛で見て、かなり面白かった狂言。今回は新之助初役ということで期待していたが、期待どおりの面白さ。線が細い感じがするのは仕方ないにしても、若々しくて爽快な実盛を見事に演じきっている。
見得の決まり方がともかく素晴らしく、また口跡も抑揚をつけ、ときには呪力すら感じさせる(これが成田屋の藝の血か)口跡に寒気が来る。

狂言自体の面白さ、新之助の好演に加え、脇も揃う。左團次の瀬尾、九郎助の幸右衛門あたりはほとんど安心して見ていられる。亀治郎の葵御前も気品あり。

仮名手本忠臣蔵 道行旅路の嫁入〔三階B席〕

芝翫・福助親子の道行き。これもパッとしない。

西郷と豚姫〔三階B席〕

勘九郎の「豚姫」ことお玉に、團十郎の西郷。鷹揚な西郷は團十郎にぴったり。勘九郎の豚姫もさぞやいいのかと思っていたら、どうもこれまた精彩に欠ける感じ。見る方の体調などの問題と考えたい。
舞妓雛勇の松也がすこぶる可愛い。菊之助の次の若女形というところ。このひとが将来松助を継ぐと思うと、何だかもったいないような。

十二月大歌舞伎・夜の部

絵本太功記 尼ヶ崎閑居の場

素襖落

江戸みやげ 狐狸狐狸ばなし


吉例顔見世大歌舞伎・昼の部

梶原平三誉石切〔三階B席〕

吉右衛門・團十郎に次いで今回が三度目の「石切梶原」。すでに最初に見た吉右衛門の印象が薄れかけているが、今回の仁左衛門がもっとも捌き役的な爽快感がある。仁左衛門の今回も羽左衛門型。

懐紙を口にくわえ、刀の目利きをする場面、刀の切っ先をキッと睨むところが何とも様になっていて、まるで錦絵のよう。ほれぼれする。仁左衛門の当たり役の一つと言ってもいいだろう。

船弁慶〔三階B席〕

前夜松竹のサイトを確認したら、私の見る日の昼の部から復帰するというお知らせがあってひどく喜んだ。代役菊五郎の「船弁慶」を見ることは叶わなかったけれど、一世一代の富十郎の「船弁慶」、見逃さなくてよかった。

富十郎の静御前が出てくる時に、大向こうから「天王寺屋」というかけ声がかかったとき、私の左のおばさんは「うそっ」とつぶやき、右の中年カップルは「ええっ?」と疑問の声をあげた。実際に富十郎が出てきた時、場内ざわめいた。すでに知っていた私は何となく優越感にひたる。

「船弁慶」を見るのは、松緑の襲名興行以来二度目。隣の中年カップルの女性はかなり歌舞伎に詳しい方らしく、松緑の「船弁慶」と富十郎のそれでは比べ物にならないと言っていた。たしかにそうかもしれない。休演明けということもあるのだろうが、ただよう緊張感がまず違う。とはいえ、芝居自体それほど面白いというわけではないので、素人目には格段の差がある(らしい)ことには気づかない。
前回松緑で見た時、前ジテの静御前のときに女形の声ではなかったことをメモしておいたが、今回の富十郎も同じだった。型ということなのか、能から輸入した演目(松羽目物)特有の決まり事なのか。やはり解決しない。
藍隈をとった知盛の霊に凄味あり。

松竹梅湯島掛額〔三階B席〕

吉祥院お土砂の場

菊五郎劇団得意の喜劇。菊之助は相変わらず綺麗。
ドタバタ喜劇で、ふりかけると硬直した死骸もグニャグニャとなる真言秘法の「お土砂」という砂を、菊五郎の紅長が誰彼かまわずふりかけるところが見せ場だろう。松助の釜屋武兵衛が「お土砂」を説明する台詞を一瞬忘れてつまっているとき、硬直した死骸(になりすましている)役の菊五郎が吹き出すのを必死にこらえていた。こんなところが菊五郎劇団の喜劇の面白さ。

この芝居で面白かったのは、お土砂をふりかけられるのが登場する役者に限らず、小道具を片付けにきた黒衣や、舞台上手袖でバタバタッとツケを打つ大道具の人、また引き幕を引く人など、歌舞伎の約束事では見えないことになっている人にも及んでいること。境界を越えた融通無碍な歌舞伎の宇宙を感じる。

四ツ木戸火の見櫓の場

菊之助が人形振りで八百屋お七の火の見櫓を演じる。それにしてもこの芝居の意図がよくわからない。

吉例顔見世大歌舞伎・夜の部

近江源氏先陣館 盛綱陣屋〔未見〕

女伊達/うかれ坊主〔未見〕

心中天網島 河庄〔未見〕


芸術祭十月大歌舞伎・昼の部

盟三五大切〔三階B席〕

久しぶりに妻と二人で歌舞伎観劇。それもあって筋書を久しぶりに購入したところ、この「盟三五大切」は長く埋もれていて、昭和51年に二代目辰之助(三代目松緑)・仁左衛門(当時孝夫)・玉三郎によって復活され、それ以来人気狂言になったものだということを知り驚く。

序幕 佃沖新地鼻の場/深川大和町の場

幸四郎の源五兵衛、菊五郎の三五郎、時蔵の小万、やはり想像したとおりいずれもぴったりだった。伯父から渡された百両を、三五郎からそそのかされて小万のために提供しようという気持ちになるまでの変化がよくわかって面白い。

ここでは源五兵衛に仕える若党六七八右衛門の愛之助がいい。

二幕目 二軒茶屋の場/五人切の場

源五兵衛に小万身請けのために百両を出させるというのは、すべて仕組まれた大がかりな芝居だった。それを知り逆上し殺人鬼になる源五兵衛。小万が伴右衛門(團蔵)に偽りの愛想づかしをするさいには、お決まり胡弓の音色が流れる。

ここでは船頭伊之助の右之助、判人長八実はごろつき五平の橘太郎二人がしっかりと世話の味を出していて安心して見ていられた。やっぱりここでも橘太郎はいい。

大詰 四谷鬼横町の場/愛染院門前の場

「四谷鬼横町」では左團次の家主が相変わらずユニーク。一転後半では源五兵衛による凄惨な殺しの場面が展開。「愛染院」では人形首かと思いきや本首であったらしい時蔵の首が、カッと口を開くという怪奇趣味。源五兵衛実は不破数右衛門ということで、最後は切腹して果てる三五郎を残して討ち入りのために出立するという荒唐無稽。

筋は、さすがに現代に復活されたからかかなり面白く、堪能した。またこれは原作そのままなのだろうが、南北の遊び心が楽しい。登場人物や舞台となる地名に数字が織り込まれている。源五兵衛(実は不破数右衛門)、三五郎(幼名千太郎)、小万(実はお六)、六七八右衛門、ごろつき勘九郎、やらずの弥十、十二軒の内びん虎蔵、廻し男幸八、そして「二軒長屋」に「四谷」。小万の左腕の彫り物には最初「五大力」と彫られていたのが、三五郎によって、上に「三」、「力」の右側に「七」が書き加えられて「三五大切」となる。こんな数字の遊びは何が発想の源なのだろうか。

連獅子〔三階B席〕

三月に勘九郎父子三人で「連獅子」を見て以来。今回も前ジテでの踊りに魅了される。團十郎と比べると、いかにも松緑は現代的ななりで頭が小さいのがわかる。
後ジテでは最後の最後になって松緑が数回振りをねじ込んだという感じで迫力あり。千穐楽だったので最後の力を振り絞り「いつもより多く回しております」といった感じ。

芸術祭十月大歌舞伎・夜の部

祇園祭礼信仰記 金閣寺〔三階B席〕

「金閣寺」を見るのは、二年半前に次いで二度目。やはり雀右衛門の雪姫に幸四郎の松永大膳であった。此下東吉は今回は菊五郎(前は富十郎)。このときも感じたのだが、どうも退屈で私には合わない。なぜなのか理由はわからない。

とはいえ雪姫は雀右衛門この人しかいないだろうと思われるし、いま一番の大膳役者も幸四郎であると思う。此下東吉の菊五郎は爽快で口跡も素晴らしい。この組み合わせは今後語り伝えられるものかもしれないと思うと、それを心の底から楽しめない自分の気持ちを訝ってしまう。

松永大膳の弟鬼藤太役に信二郎。私は信二郎を幸四郎に次ぐ色悪・国崩しの悪役役者であると考えているので、次に信二郎の大膳で見てみたいという期待が高まる。

於染久松色読販 新版お染の七役〔三階B席〕

「金閣寺」から一転、退屈させない非常に面白い芝居だった。玉三郎がこの「お染の七役」を演じるのは15年ぶりとのこと。いくら歌舞伎に年齢はあまり関係ないとはいえ、役者だって実際に年齢を重ねるわけで、様々な役柄のうちその時にピタリとはまる役柄は違ってこよう。
15年前にはたぶんお染が本役で、その可憐さに場内からため息がでたものと想像される。もちろん玉三郎なのだから、15年たった今でも容色は衰えず、いまでもお染が本役であるという渡辺保さんの意見もある。ただし私は今回の七役のうち、玉三郎にもっとも合いそうにない「悪婆」の土手のお六に惹かれた。

序幕 柳島妙見の場/橋本座敷の場/小梅莨屋の場

「柳島」「橋本」では玉三郎がお染・久松・お光・小糸・竹川の五役を早替わりで演じ、客席を喜ばせる。

この芝居は人気女形による七役早替わりが眼目であるのは間違いないが、今回初めて観て面白かったのは、「小梅莨屋」と次の幕の「油屋」の世話場であった。「小梅莨屋」は場末の葛西に住まう悪婆土手のお六とその旦那鬼門の喜兵衛の家が舞台で、南北らしい陰鬱な雰囲気に早桶や髪結といった江戸らしい道具立てがめっぽう面白い。鬼門の喜兵衛を演じた團十郎がこれまた好演で、暗く凄みをきかせたなかにもユーモアがあって微笑ましい。この役柄には、「大敵らしい凄味や悪の味があるかと思うと、妙に三枚目じみた、とぼけた愛嬌があって、又、そこが面白いところです」という松本白鸚の芸談があるが(渡辺保『新版歌舞伎手帖』講談社)、團十郎はまさにそういう感じ。

二幕目 瓦町油屋の場/同 座敷の場/裏手土蔵の場

「油屋」での強請場も、いかにも世話狂言という雰囲気たっぷりで、ここでもユーモアが横溢して楽しい。やはり玉三郎は伝法なお六が素敵に似合う。
ここでは、何と言っても橘太郎の久太の好演に尽きる。フグにあたった油屋の丁稚久太が、喜兵衛・お六によって死人にしたてられて強請の道具に使われる。ところが息を吹き返して強請はあっけなく頓挫するのだが、油屋からも勘当されてすごすごと花道を逃げ出す橘太郎の楽しい芝居に場内大賑わいだった。橘太郎さんの聞書が一番最初に収められている関容子さんの『花の脇役』(新潮文庫)を取り出して読み返す。
「油屋座敷」は屏風と吹き替えを使った玉三郎のお染・久松・貞昌の三役早替わりでまた場内がどよめく。

大詰 向島道行の場

常磐津を使った浄瑠璃をバックに舞踊劇風に物語は進む。一番最初に出てくる舞台装置の三囲神社は私にとって、戸板康二さんの『芝居名所一幕見―舞台の上の東京』ですでにお馴染みの場所。戸板さんの本を見てみると、この場所はお染久松の道行といえばここというところらしい。昭和28年当時の三囲神社の境内写真が舞台装置とそれほどかけ離れておらず、興味深い。
松緑の船頭長吉・亀治郎の女猿廻しお作二人の踊りがなかなか見せる。戸板さんの本には、「お染の七役」とはまた別の「お染」(道行浮塒鴎)の舞台写真が掲載されているが、七代目三津五郎の猿廻しの踊りを見てみたかった。
最後は玉三郎を中心とした立ち回りをやり、玉三郎による「本日はこれぎり」の挨拶で締めくくられる。玉三郎のための芝居という感じだが、果たしてこの次に玉三郎で「お染の七役」を見ることができるのは何年後になるのか、そのとき玉三郎の適役は何なのか、想像すると興趣が尽きない。


九月大歌舞伎・昼の部

彦山権現誓助劔 毛谷村〔三階B席〕

この「毛谷村」は、有名な狂言のわりにこれまで縁がなかった。今回初めて観て、ストーリーの面白さを堪能した。何と言っても「女武道」という役柄のお園の造型が見事である。大力の持ち主でありながら、許嫁の六助の目の前ではしなを作る、そんなコントラストの妙を時蔵が愛嬌たっぷりに演じている。

悪役微塵弾正の段四郎が痩せていたのには驚いた。かなり心配。でも芝居はしっかりしていて安心して観ていられる。「安心」といえばこの頃の梅玉主役の芝居は安心・安定という形容がぴったり。梅玉・時蔵という好きな役者の顔合わせでの「毛谷村」、実は今回の昼の部のなかで一番楽しめたと言ってよい。梅・時二人とも、義太夫の糸にのった演技で、義太夫狂言をたっぷり見せてもらった。満足。

六歌仙容彩 業平・喜撰〔三階B席〕

「業平」の途中、芝翫が踊っている時に地震に遭遇した。意に介せず踊り続ける芝翫と脇で控える福助にプロ根性を見る。

「喜撰」は一度三津五郎の襲名披露で見た。三津五郎系の「喜撰」は顔のこしらえで、鼻の下に青く髭の剃り跡を書く。いっぽう富十郎は書いていない。この剃り跡がユーモアを醸し出していると感じていたので、富十郎の化粧に最初は違和感を抱く。

結局この違和感が最後まで尾を引いた。どうも喜撰が高僧であるという雰囲気や、この踊りに冠せられる「春風駘蕩」という空気が今ひとつ伝わってこないのだ。地震で私の心が動揺していたということなのだろう。

天衣紛上野初花 河内山〔三階B席〕

お楽しみの吉右衛門の河内山。初めて観た時には、幕切れのところの河内山の流れるような台詞廻しと、「バカめ」の啖呵にしびれたものだった。さすがに二回目(河内山自体は三回目)の今回はもう少し別の見方が入る。

「質見世」での又五郎の和泉屋清兵衛と吉之丞の後家おまき二人の「老播磨屋」の落ち着いた芝居にうっとりし、松江侯の梅玉には、いかにも勘が強い殿様という感じがあって笑える。松江家の家老二人、高木小左衛門の我當・北村大膳の芦燕の対照的な二人は絶妙なバランス。そこに宮崎数馬の歌昇もうまくかみ合う。

幕切れで「初代そっくり」という大向こうがかかった。その直後「初代を知ってるのかよ」と誰かが突っ込んだのを私は聞き逃さなかった。たしかに若い感じの声ではあったが。次に「じいさんそっくり」というかけ声。そっくりと声をかけられて二代目は嬉しいのかどうか。

九月大歌舞伎・夜の部

平家女護島 俊寛〔三階B席〕

幕開け、俊寛(吉右衛門)・成経(梅玉)・康頼(歌昇)の流人三人が会して千鳥(魁春)と成経の婚姻を祝し、瀬尾(富十郎)・丹基康(芝翫)の乗った赦免船が島にやって来て三人を赦免、千鳥が乗船を拒否されて千鳥のくどき、そして俊寛が瀬尾を殺害することで犠牲になり千鳥を乗せ、赦免船が島を遠ざかっていくのを俊寛が茫然と見送る…。一時間半足らずの時間が間然とすることなく緊迫感を保った絶品であった。こう役者を書き並べると、今回の初代吉右衛門五十年忌追善狂言がいかに豪華な配役であるかがわかる。

俊寛は以前観たことがある。そのときのかすかな記憶と比べると、素晴らしさでは一致するものの、どうも違う点もある。同じ吉右衛門なのにこうも違うものだったか…と訝って帰宅後確認したら、以前観たのは仁左衛門の俊寛であった。つまり吉右衛門の俊寛は初めて観たというわけである。

今回気づいたのは、第一に、俊寛が島に残ろうと決心したきっかけに、妻が処刑された報を瀬尾から知らされたという妻への愛情(情けないが仁左衛門の俊寛では心に残らなかった)、第二に、幕切れ、岩場の上から船を見送る場面で、花道の揚幕のあたりを茫然と見送る吉右衛門の虚ろな目である。仁左衛門の場合、幕切れはもっと激しかったように記憶している。つまりそこには赦免船への執着があらわれて(その点胸に迫る)いたと感じたのである。それに対して吉右衛門は静かだ。その静かさ、虚ろな雰囲気がまた哀れさを誘う。

帰宅後、たまたま同じ日の朝日新聞夕刊に「俊寛」の劇評が載っていた(朝日新聞編集委員山本健一氏)。そこでも同じく俊寛の妻への思いと幕切れの吉右衛門の目が特徴的と指摘されていて驚いた。山本氏は「岩上で一人、赦免船を見送る時の悲愁だ。孤独や虚脱を突き抜けて、ひとみは深い。演技に透明感がある」と述べる。まさしく同感。

吉右衛門の「俊寛」はいまの時代を生きるわたしたちにとっての宝である。

身替座禅〔三階B席〕

このコミカルな狂言も二度目か。前回は田之助の奥方で客を笑わせるサービスにあふれていたけれど、それに比べて吉右衛門の奥方はまだ床しい。どちらかといえば富十郎の恐妻家ぶりが目立つ。74歳にして二児の父となった富十郎の生身の姿が、恐妻家とだぶって微笑ましい。あのとぼけた雰囲気は当代一。

今回はこの狂言で笑わされるというよりも、常磐津・長唄掛け合いの舞踊劇を富十郎の切れのある踊りで楽しんだという感が強い。

無間の鐘〔三階B席〕

渡辺保さんの『新版 歌舞伎手帖』(講談社)によれば、六代目歌右衛門の当たり役だったらしい。今回その大役を福助が初役で勤める。相手の梶原源太景季には信二郎。二番目狂言に義太夫狂言の「ひらかな盛衰記」が入るのはなぜかと不審だったが、これは舞台を遊女屋という世話の世界に移した、いわば「千本桜」のすし屋のような狂言らしい。

一番目と中幕に吉・富という役者が出たとはいえ、二番目が福助と信二郎で組み立てられるとは、新しい時代を予感させる。とともに、最近信二郎贔屓の私にとって嬉しいものだった。

といいながら半分眠っていたので筋を追えていない。渡辺さんがこの狂言での歌右衛門の演技を称揚するほど福助が鬼気迫るものではなかった。


八月納涼大歌舞伎・第一部

源平布引滝 義賢最後〔未見〕

浅黄船/山帰強桔梗/近江のお兼〔未見〕

八月納涼大歌舞伎・第二部

通し狂言 怪談牡丹燈籠〔未見〕

団子売〔未見〕

八月納涼大歌舞伎・第三部

神楽諷雲井曲鞠 どんつく〔三階B席〕

何と言っても三津五郎の踊り。初お目見えの角兵衛獅子齋藤勇一郎くんが、まわりの役者さんたちの踊りに必死について行く様子は見ていてほほえましい。

野田版鼠小僧〔三階B席〕

面白かった。さんざん笑わせるだけ笑わして、おしまいにしんみりさせるのだからたまらない。またそこには批評精神もぴりっと効いている。スピーディな筋立てに台詞回しに酔う。

勘九郎はもちろんのこと、今回は七之助・扇雀・福助・孝太郎の女形陣がはじけまくって笑わせる。とくに七之助は今回一番光っていたのではないだろうか。
獅童は今回は死体と幽霊の役(笑)で、死体のときには勘九郎と「らくだ」のような掛け合いで笑わせる。

それにしても幕切れで鼠小僧がサンタクロースというのには…。一度だけ聴いたことのある神田山陽さんの講談もこういう話だったような気がする。

幕が引かれても拍手は止まず。たしか以前もカーテンコールがあったと噂に聞いていたので、皆このことを期待しているのだろう。場内の明かりがついてもなおカーテンコールは止まず、とうとう幕が再び開き、出演者一同が前に出て挨拶する。勘九郎さんが客席のほうに向かって手招きしているので誰かと思ったら、舞台に上がってきたのは脚本を手がけた野田秀樹さんだった。
「明日からもまた仕事やるぞー」という元気をもらってきたような感じ。


市川猿之助七月大歌舞伎・昼の部

昼夜とも観たのは今年に入って今月が初めて。結局猿之助歌舞伎は魅力的だということになるだろう。

妹背山婦女庭訓 蝦夷子館の場<〔三階B席〕

「妹背山」は有名な「吉野川」と「御殿」を各一回しか観たことがない。今回の「蝦夷子館」が出るのは珍しいそうだが、「歌舞伎座掌本」夏季号を見ると25年ぶり(前回は国立劇場)のようである。

暴君蘇我蝦夷がその非道を嘆いた息子入鹿の妻蓍(めど)の方を嬲り殺しにするも、謀反が発覚して自害し、善良だと思われていた入鹿が実は大悪人だったという筋。歌六の蝦夷の悪人ぶりや、藍隈をつけたあとの右近の入鹿の豪快な悪人ぶりが見事。これまで右近の荒事系の芝居に少し物足りなさを感じていたのだけれど、今回の「蝦夷子館」ではそれが払拭されたような感じ。

歌六・右近もいいが、それ以上に良かったのは笑三郎の蓍の方。権力者の家の正室という高貴な雰囲気が、古怪さをあわせて漂っている。笑三郎の顔を見ていて、この人の顔立ちが五代目菊五郎に似ているのではないかということに初めて気づいた。可憐な女形(たとえば笑也のような)というタイプではないのである。ニンにぴたりと合ったという印象。

檜垣

「澤瀉十種」の一つ。こちらも歌舞伎座で出るのは昭和26年以来とのこと。以前同様の老女物舞踊劇「黒塚」を観て感じ入ったので、今回も期待していた。「黒塚」は「猿翁十種」の内。松井俊諭『歌舞伎 家の藝』(演劇出版社)によれば、「澤瀉十種」は猿之助が「猿翁十種」を補足する形で祖父猿翁の十三回忌にあたる昭和50年に制定したものという。

逃避行を続ける四位少将(芝翫)と小野小町(亀治郎)の二人が、花道でもなく上手・下手でもなく、舞台の奥から出てくるというのに驚いた。奥から人物が登場するのは歌舞伎の定法としては異例なのではないか。もっとも浅茅が原の寂しげな雰囲気が朝倉摂さんによる舞台装置で十分に発揮されている。

昼食をとる長い幕間のあとにこうした清元舞踊が出るのは困りものだ。眠くなるのである。とはいえ終盤の骨寄せの骸骨踊りあたりから緊迫感が増す。芝翫があの役ではもったいないような気がする。

盲長屋梅加賀鳶〔三階B席〕

前回出たのは約四年前。道玄が富十郎で松蔵が吉右衛門であった。このときの「加賀鳶」を観て以来黙阿弥芝居にすっかり魅了されたという、自分にとっては記念すべき、そして再演を待ち望んでいた演目である。

序幕 本郷通町木戸前の場

ここはやはり三階席にいたのでは楽しめない。花道でのツラネが聞き取りにくいのである。三階席は雰囲気が弛緩してざわつく。
ここでは多数の加賀鳶たちが登場してツラネの台詞を言うのであるが、観ていて澤瀉屋一門の層の厚さを実感する。一門だけでここができてしまうのはすごいこと。

二幕目 お茶の水土手際の場

猿之助が、前幕で颯爽たる鳶の頭梅吉から小悪党道玄へと替わる面白さ。松蔵の梅玉も存在感たっぷり。

三幕目 菊坂盲長屋の場/竹町質見世の場

道玄の家がある盲長屋。観ていてふと思った。なぜ江戸時代にはこんなに盲人が多いのだろう、と。盲人の按摩は世話物には欠かせない風俗である。盲人ばかりが住む長屋が形成されるという社会背景に興味を持つ。

ここでは「質見世」での道玄と梅吉のやりとりに酔う。富十郎・吉右衛門のやりとりにしびれた四年前を思い出す。二度目で勘所がわかっているゆえに「次はどうなる」というサスペンスは感じなかったものの、猿・梅の台詞回しも絶妙。やはりこの強請場からだんまりほどきに至る七五調台詞の応酬は黙阿弥の世話物のなかでもピカイチだと思う。
富十郎と比べれば、愛嬌は富十郎が勝る。猿之助の道玄には愛嬌のなかに陰惨さがある。煙管入れの蓋をポンと開ける効果を台詞にあわせてコミカルに表現するのは富十郎の骨頂であるが、猿之助は蓋を開ける効果を重視していないようだ。殺人が発覚して煙管を落とすクライマックスでも、猿之助は客に分かるようにするためか大げさすぎるような気がする。でもだからこそその瞬間が目立つのだが。

道玄の相棒女按摩のお兼には東蔵。ニンにぴたりで猿之助と息の合ったコンビである。戸板康二さんが、多賀之丞の台詞として忘れられないと書く(『すばらしいセリフ』ちくま文庫)「枕つきの揉み療治、二朱より安い按摩はしないよ」という場面では、ほのかな色気さえ漂うのである。

大詰 菊坂道玄借家の場/加州侯表門の場

ここでは赤門前におけるだんまりの捕り物のコミカルな雰囲気を楽しめばいい。

市川猿之助七月大歌舞伎・夜の部

通し狂言 四谷怪談忠臣蔵

今年もやってきた猿之助歌舞伎の夏。「東海道四谷怪談」は「忠臣蔵」の裏エピソードであり、江戸時代にはこの二つの狂言は交互に二日がかりで上演されたという話は歌舞伎ファンにはおなじみである。今回の狂言はそれをギュッと縮約して四時間程度にまとめてみせたもの。まずこのアイデアに敬意を表したい。

発端 東海道四谷宿々外れの場

道中ひと休みしている高師直に新田義貞の霊が乗り移る。渡辺保さんは、猿弥の師直の老獪さに高い評価を与えておられたが、同感。この人何歳なのだろう、まだ若いだろうにと思うほどの老け役の見事さ。
藍隈をとった新田義貞の霊に段四郎。段四郎さんの出番はここだけなのだが、存在感たっぷり。猿之助一座には欠かせない。

序幕 足利館松の間の場/扇ヶ谷塩冶館の場/同塀外の場/浅草観世音額堂の場/宅悦住居の場/裏田圃の場/雑司ヶ谷四谷民谷伊右衛門浪宅の場/両国橋の場

松の廊下での刃傷から民谷浪宅でのお岩殺しまでを一気に見せる。松の廊下での師直による塩冶判官いびりやお岩殺しの場面でのお岩という女性の悲しい運命などはさらさらと軽く流される。まあ仕方ないが。
流れがあまりに早くて、一晩しか経っていないのに忘れかけている。「塀外」で猿之助の直助権兵衛が登場したとき、場内に爽やかな風が流れたよう。毎度遊び心、サービス精神あふれた猿之助に拍手。
今回宙乗りは意外に早く「両国橋」で出た。でもちょっと唐突、とってつけたような印象は拭いきれず。猿之助の新田鬼龍丸(義貞の遺子)が術を使ってスッポンから登場し、そのまま宙に消えていくというシーンだが、おしまいの本水を使った大立ち回りといい、宙乗り・本水を使うために新田鬼龍丸という人物をもってきたかのような印象。でも宙乗りは自体は毎回興奮させられる。無条件に楽しめるのが猿之助歌舞伎の魅力。
この「両国橋」では(おそらく川開きの)花火をバックに立ち回りと宙乗りが演じられる。花火の趣向はなかなか綺麗であった。

二幕目 砂村隠亡堀の場/深川三角屋敷の場

「隠亡堀」は、戸板返しに迫力が足りない。笑三郎の早変わりも小仏小平のほうがちょっとお粗末。
一転「三角屋敷」では、鶴屋南北らしい血の因縁がからみあった退廃的な世話場が展開される。なぜお袖が自害せねばならないのか、その心理的な過程がよくわかる。今回の通しのなかではこの場が一番面白かった。

大詰 天川屋義平内の場/高家奥庭泉水の場/同炭部屋の場/東海道明神ヶ嶽山中の場/同大滝の場

「義平内」では義太夫(葵太夫)が出る。義太夫にのった東蔵と猿之助の時代的な芝居が見事。東蔵さんもこの場だけだが存在感あり。
討ち入りの場面も慌ただしい。高家の庭での立ち回りでお岩の亡霊が宙乗りで登場するのはご愛敬。最後の「大滝」での本水は、前評判の大きさゆえか、迫力に多少欠ける。でもやはりこのスペクタクルは毎回息を呑みながら見ることになる。幕切れの挨拶で、本水から出てきたときに水しぶきを観客にかけるという猿之助の仕草。猿之助歌舞伎のサービス精神万歳である。


7月国立劇場(第63回歌舞伎鑑賞教室)

卅三間堂棟由来〔一等席〕

歌舞伎鑑賞教室のうち、七月の数日間は「親と子の歌舞伎鑑賞教室」といって、小さな子供を連れて親子で鑑賞するという日が設けられている。
そこで四歳になった息子を初めて歌舞伎観劇に連れて行った。家族三人で歌舞伎を観るのももちろんはじめて。

内容は「葛の葉」のような子別れ物の義太夫狂言。お柳実は柳の精には魁春、横曾根平太郎に信二郎。やはり信二郎がいい。また、ふだんは敵役や半道敵の役柄が多い市蔵が捌き役の進ノ蔵人家貞。これがまた素晴らしい。市蔵さんの新境地を見た思い。
ただし、四歳の子供には演目は渋すぎたよう。何せこの狂言自体39年ぶり、「もう歌舞伎はいい」と言われる。


六月大歌舞伎・昼の部

一谷嫩軍記 陣門・組打〔未見〕

棒しばり〔未見〕

芦屋道満大内鑑 葛の葉〔未見〕

藤娘〔未見〕

六月大歌舞伎・夜の部

夜の部に出ている演目二つは比較的人気狂言である。五年足らずの歌舞伎歴のなかで、何度か出る機会があったけれども、なぜか縁がなくまったく観たことがなかった。今回初めてこれらを観て、人気狂言たるゆえんを知った次第。

御存鈴ヶ森〔三階B席〕

鈴ヶ森は小塚原(現南千住)とならぶ江戸時代の処刑場だった。髭題目の題目塚に非人(雲助)たちがたむろしている。江戸の周縁としての治安の悪い雰囲気がたっぷりと伝わる。

最近高麗屋親子に懐疑的になってしまっているのだが、これを観て思い直す。とくに染五郎の時代がかった台詞回しがなかなか。幸四郎もこういう侠客のニンである。

通し狂言 曾我綉侠御所染〔三階B席〕

序幕 名取川見染の場/長福寺門前の場/浅間家殺し場

巡礼娘のおすて(玉三郎)が、いきなり雲助たちに絡まれる場面から始まる。まるで「鈴ヶ森」の続きを観ているかのよう。まさか“雲助つながり”で演目立てをしたわけではあるまいが、こうやって二つ続けて雲助の出てくる芝居を観ると、江戸時代に雲助という立場の人間たちの「悪さ」がわかって興味深い。
三田村鳶魚によれば、非人は火付盗賊改によって取締を受け、元結を切られて散切頭にすることで一般の人と区別されたという。また、歌舞伎でも侠客についてよくいわれる“二つ名前”というのは、この非人から出てきたという。大勢すぎて同じ名前の人間が多いので、上に渾名を付けて区別したというのだ。また彼らのなかには、主家没落により生活に窮して非人身分に没落するものもあり、ゆえに刀を持って悪事を働く非人もいたとする(以上中公文庫『鳶魚江戸文庫6 江戸の白浪』)。なるほど身ぐるみはがれた市蔵の飛脚はすぐに非人仲間に入ろうとするわけだ。

身よりのない薄幸の巡礼娘おすてを演じる玉三郎の可憐、それを見染める大名浅間巴之丞の染五郎の上品。

長福寺門前の場では、密通が露見して主家浅間家を追放された須崎角弥(のちの御所五郎蔵)と腰元皐月(のちの傾城皐月)の夫婦が登場する。この場面があることで、のちのクライマックスが引き立つ。
顔に腫物ができる薬を調合することを依頼した医師をひと突きで刺し殺す後室百合の方の毒々しさ。仁左衛門の際だった芝居である。

「時鳥殺し」で知られる嗜虐的な「浅間家殺しの場」でも、この仁左衛門の百合の方の憎々しさ、毒々しさが全開。二幕目に御所五郎蔵の役柄で颯爽と登場する立ち役が二役で演じるという趣向が素晴らしい。憎々しさから一転江戸の侠客のすがすがしさというコントラスト。初演の市川小團次はどんな雰囲気だったのか、知りたくなった。

二幕目 五條坂仲之町の場/甲屋奥座敷の場/廓内夜更の場

本花道と仮花道に分かれて五郎蔵一家と星影土右衛門一家が向き合いながら歌うように語る「ツラネ」に酔う。一度この場面はテレビで観たけれども、いまひとつ臨場感がなくて観きることができなかった。今回は三階席でそれぞれまったく役者さんたちは見えなかったのだが、目をつぶってこの「ツラネ」を堪能する。黙阿弥の七五調の粋。
あわや喧嘩というところで仲裁に入る秀太郎の甲屋女房お松に存在感あり。ほんのわずかな出番なのだが、これほどの存在感を感じさせるのはやはり秀太郎さんならでは。

「奥座敷」の前半は多少退屈。後半、皐月が夫のためを思って愛想づかしをするのだが夫五郎蔵はそれを理解できずに激高する場面、胡弓の音色にのった愛想づかしのうら寂しさと勢いのある五郎蔵の啖呵のコントラストは見事。
次の場で、なぜ皐月と間違われて朋輩逢州が五郎蔵に殺されてしまうのか、伏線が張ってある。

「廓内夜更の場」では、土右衛門が妖術使いであったことが判明する。妖術を使って五郎蔵の襲撃を避け難を逃れる。本花道のスッポンから登場して花道を悠然と去っていく雰囲気の大きさ、左團次の見せ所であった。ただそれにしても土右衛門が妖術使いであるというのは唐突すぎる。カットされた場面でその経緯がわかるのだろうか。

大詰 五郎蔵内腹切の場

「ほとんど上演され」ない(渡辺保『新版歌舞伎手帖』講談社)というこの幕、これが出ることで、この狂言が五郎蔵・皐月の哀切きわまる夫婦愛の物語でもあることがわかる。先に「長福寺門前」で手に手を取って町人として暮らそうと誓い合ったカップルの過去がフラッシュ・バックのように頭をよぎる。
五郎蔵は切腹、皐月は胸を突いて自害するのだが、死ぬ間際にそれぞれ尺八と胡弓を演奏して果てるという荒唐無稽な趣向に苦笑しつつも、これこそが歌舞伎なのだと楽しむ。仁左衛門・玉三郎コンビの傑作がまたひとつ私のなかで加わった。


團菊祭五月大歌舞伎・昼の部

其俤対編笠 鞘当〔未見〕

源平布引滝 実盛物語〔未見〕

極付幡随長兵衛〔未見〕

團菊祭五月大歌舞伎・夜の部

〔三階B席〕

歌舞伎荒事の代表的狂言である「暫」を初めて観ることができた。千秋楽に近かったせいか、團十郎の声がつぶれ気味で台詞回しがさらさらと軽く、迫力に少し欠けていたのは残念。

それにしてもこれだけの役者が揃うと壮観である。中で良かったと思うのは、照葉の三津五郎。女形もけっこうイケるのでは。魁春のような雰囲気。また今月坂東正之助あらため四代目河原崎権十郎を襲名した山崎屋も口跡が素晴らしい。「山崎屋」という大向こうのかけ声が新鮮だ。そのほか東金太郎の團蔵は柄が大きくて荒事向きだし、小金丸の亀寿は口跡がいい。亀寿さんも前から注目の役者さん。

梅雨小袖昔八丈 髪結新三〔三階B席〕

四年前初めて菊五郎の「髪結新三」を観て、その格好の良さに惚れて二度も観てしまったのだった。これで菊五郎の新三は都合三度目。相変わらず爽やかで、そのくせ小悪党の雰囲気もにじみ出ている。

今回、勘九郎の新三も合わせて四度目の「髪結新三」を観るにあたり注目したのは、渡辺保さんが『歌舞伎ナビ』(マガジンハウス)のなかで書いている次のシーンである。

この『髪結新三』の世話物としての味は、新三の内にあります。新三が人質に取った白子屋お熊を解放するところです。上手の柱に寄りかかって、懐から手を出した新三がお熊をいやらしい目でジッと見る。出て行くお熊にまた訪ねてきねえなんてことを未練たらしくいう。ここがこの芝居の味であり、一つの型なのです。(263頁)

今回このシーンでの菊五郎に注目した。たしかにいやらしい目線をお熊におくり、なかなか目を離そうとしない。しかもちろりと舌なめずりまでしている。うーん、細かい。

手代忠七には田之助。この役はいまではこの人だろう。安心して観ていられる。また白子屋お熊は菊之助。相変わらず美しい。
「新三内」。勝奴は松緑。現代的なスラリとしたスタイルが逆に損をしている。芝居も現代的で世話味に乏しい。大家は左團次。いままで團十郎・富十郎の大家を観たが、この左團次の大家がもっとも自然ではまり役という感じ。
私が観た日にはちょっとしたハプニングがあって、最後に大家が十五両と鰹半分をもらっていくところで、左團次さんつい「三十両」と口に出してしまった。菊五郎・左團次両人顔を見合わせ吹き出し、笑いながら台詞をいうという場面に場内もつられて大爆笑。ここで転んでもただで起きないのはさすが名役者。左團次は自分のミスを逆手にとったアドリブ(「また一から三十両を数え直さなくちゃいけねえや」)を言って再び場内大爆笑。いや楽しいやりとりだった。
弥太五郎源七に團十郎。声のかすれが目立ち、それが気になって仕方がない。

初霞空住吉 かっぽれ〔三階B席〕

素顔の役者さんたちを観る楽しさ。三津五郎さんはやはり踊りに切れがあるし、また、亀蔵さんは相変わらずユニークな役者ぶり。この人のあくの強い顔、まるで九代目團十郎をよみがえらせたかのよう。女形としての芝雀さんは好きな役者さんなのだが、素顔だと意外に顔が大きい。松緑・菊之助二人がコンビになった踊りのとき、場内に爽やかな風が吹いた印象。


四月大歌舞伎・昼の部

通し狂言 国姓爺合戦〔未見〕

慣ちょっと七化〔未見〕

四月大歌舞伎・夜の部

元禄忠臣蔵 大石最後の一日〔三階B席〕

真山成果の「元禄忠臣蔵」連作のうち、一番最初に書かれた作品だという。時期的にはもっとも最後の部分にあたるのだから面白い。

大石には吉右衛門。この作品が拠った原史料「堀内伝右衛門覚書」を記した堀内伝右衛門には我當。現在望みうる最高の配役だろう。吉右衛門は日本一の大石役者だし、我當は新歌舞伎のこの手の役回りが何ともぴったりだからだ。

死を前にして腹の据わった大石の重厚な雰囲気にしびれる。義士磯貝十郎左衛門には歌昇、彼の妻おみのに芝雀。

百千鳥鳴門白浪 二人夕霧〔三階B席〕

「廓文章」は仁左衛門で一度観たはず。紫の紙衣を着たしなやかな体のラインは和事味たっぷりで、伊左衛門には仁左衛門しかいないと感じた。「廓文章」の後日談にあたる本作も、もともと伊左衛門は仁左衛門が演じる予定だったが、病気のため梅玉が代役。

これはなかなか珍しい狂言だった。義太夫語りで物語が進行しながら、所作事のように流れていく。代役の梅玉も和事の味わいがあり、終わる頃には代役であることを忘れてしまうほど。対して魁春・鴈治郎の「二人夕霧」があまり目立たない。魁春の後の夕霧が花魁の衣装で蛸をぶら下げて花道から入ってくるギャップがおかしい。

人間万事金世中〔三階B席〕

黙阿弥の散切物。はじめて観る。金の亡者、ケチケチの強欲オヤジ勢左衛門の富十郎ははまり役。貧乏ゆすり(作中では「貧乏震い」と言っていた)が癖というのも、いかにもという設定。そのオヤジに負けず強欲な妻と娘に吉之丞・扇雀。この二人の小憎らしさも抜群で笑える。

勢左衛門に預けられ、虐げられている親類恵府林之助に信二郎。彼に莫大な遺産が転がり込んでから、彼に対する勢左衛門たちの態度が一変するおかしさ。ただ物語の筋が予定調和的なのが味気ない。黙阿弥作品に特有の複雑な人間関係と頽廃的な雰囲気が感じられない。それもそのはずもともと本作はイギリス作品の翻案とのこと。明治の人々にとって斬新で歓迎されたのかもしれないが、かえって今の時代は黙阿弥の世話物が迎えられるのではあるまいか。


三月大歌舞伎・昼の部

松寿操り三番叟〔未見〕

源氏物語 浮舟〔未見〕

勧進帳〔未見〕

三月大歌舞伎・夜の部

今月夜の部の狂言立ては間然するところのない完璧な組み合わせであった。よく考えてみると今回が今年初めての歌舞伎座であった。

傾城反魂香〔三階B席〕

「吃又」を観るのは今回が四度目。最初に観た吉右衛門の吃又に圧倒され、幕見で再見した。次いで猿之助・勘九郎の組み合わせで観たのが三回目。今回は富十郎・芝翫の人間国宝コンビである。富・芝それぞれ、吃又・おとくの役を演じたことがあるが、二人が顔を合わせるのは今回は初めてだという。意外である。私は富・芝コンビはとても好きなので楽しみだった。

富十郎の吃又が声をふりしぼって師の土佐将監に訴える場面は相変わらず迫真のもので、この場面はいつも息ができないほどの緊張感に覆われる。ただ吃りの迫真性ということであれば吉右衛門がやはり好みであることは変わらず。

芝翫のおとく。「どもり」と「しゃべり」のコンビということでいえば、吉・雀のコンビを上回る面白さ。渡辺保さんは、芝翫の古風な魅力を高く評価するものの、そのリアリズム、説明過剰にいつも警鐘を鳴らしている。今回の劇評でもそうだったが、私の場合はその説明過剰さこそがおとくなのだと考える。少し仕草がうるさい場面がないわけではないが、しゃべりで仕草がおおげさなところ、これが「どもり」の夫を支える「しゃべり」の妻なのだろう。

上記の吃又の訴えと手水鉢に書いた自画像が抜ける場面がこの芝居のクライマックスであるわけだが、今回観て新たに魅力を感じたのが、めでたく土佐の苗字を与えられ、裃を与えられて追手として向かう又平がひとさし舞う場面。さすが富十郎。切れ味鋭い舞に又平の人柄が透けて見えるかのようであった。

修理之助の勘太郎も口跡が素晴らしい。前回観た猿・勘での土佐将監が又五郎だったため、今回の左團次の将監には疑問を持ってのぞんだが、けっこうはまっている。北の方は吉之丞。この役にはもうこの人しかいない。雅楽之助は染五郎。

連獅子〔三階B席〕

初めて「連獅子」を観た。以前テレビの年越し企画で、この中村屋父子三人の連獅子を観たように記憶するが、生で、しかも歌舞伎座で観るのは初めて(というより彼らが歌舞伎座で「連獅子」を出すこと自体初)。

「連獅子」といえば後ジテの獅子の狂いで頭を何度も何度も振る場面が有名だ。今回ももっとも場内沸き立ったシーンがここであった。三人並ぶと、もっとも若い七之助の切れ味が鈍く、父と兄の振りについていけない。思わず「ガンバレ」と心の中で叫ぶ。

実は今回目を醒まされる思いだったのが前ジテでの踊りだ。三人の息のあったテンポのよい踊りに、まばたきするのを忘れてしまうほどの衝撃を受けた。ただここでも勘太郎・七之助を比べると勘太郎に一日の長ありという感じ。「こちらのほうが鋭い」と思って双眼鏡で確認すると勘太郎のほうだった。
間狂言の僧は信二郎に扇雀。

与話情浮名横櫛〔三階B席〕

「切られ与三」を観るのは二度目。前回いつだったかと振りかえると、何と二年以上も前のことだったとは。あのときはお腹の具合が悪くて満足に芝居に集中できず、「源氏店」での与三郎の例のセリフのあとトイレに駆け込んだのだった。今回そのことを思い出し、極力お腹の具合が悪くならないよう注意していたのだが、これはやはり思いこみ、精神的なものなのだろうか、芝居が始まると同時にお腹が痛くなり、「見染」の幕が引かれた直後トイレに駆け込んだ。どうも相性が悪い。

今回も前回と同じ仁左衛門・玉三郎のゴールデン・コンビ。そのうえ蝙蝠安には勘九郎が付き合うという豪華版。前回は多左衛門が羽左衛門であり、分別ある旦那はかくあるべきというはまり役だったことを思い出す。今回は左團次。「吃又」同様不安がなくはなかったが、観てみるとその不安は吹き飛ぶ。左團次もはまり役である。今後はこういう役どころはすべて左團次になっていくのだろうなあ。

前回蝙蝠安を演じた弥十郎が今回はお富の旦那赤間源左衛門。前回弥十郎は蝙蝠安だった。蝙蝠安にしては柄が大きく違和感を感じていたが、やはり弥十郎は赤間が適役。

その前回の感想で私は、蝙蝠安を勘九郎がやればどうなるだろうと書いた。それが今回実現され、観ることができてうれしい。意外や意外、初役なのだそうだ。観てみると、やはり蝙蝠安は勘九郎でなければと思わせる。抜群の愛嬌の良さ。仁左衛門の与三郎とのコンビも絶妙。仁左衛門の決めぜりふ、格好いいなあ。

観る前に、先年岩波文庫から復刊された芝居台本『与話情浮名横櫛』の該当部分だけ目を通してきたのだが、流れるような台詞のテンポに酔ってしまう。まわりに人がいなければ、声を出して朗読したかったところ。読みながら声色として想像するのは、与三郎が仁左衛門でお富が玉三郎なのである。

「切られ与三」といえば、十五代目羽左衛門・六代目梅幸のコンビに六代目菊五郎の蝙蝠安という顔合わせが語りぐさになっているが、私たちが観ることのできる仁・玉・勘・左の顔合わせだってこれに負けていないのではないか。これ以上の組み合わせはないという配役で観ることができた幸せを感じつつ、歌舞伎座をあとにした。


二月大歌舞伎・昼の部

通し狂言 義経千本桜〔未見〕

序幕 鳥居前
二幕目 渡海屋/大物浦
三幕目 道行初音旅

二月大歌舞伎・夜の部

通し狂言 義経千本桜〔未見〕

四幕目 木の実/小金吾討死
五幕目 すし屋
六幕目 川連法眼館

二月花形歌舞伎・昼の部

一谷嫩軍記 熊谷陣屋〔未見〕

鏡獅子〔未見〕

曽根崎心中〔未見〕

二月花形歌舞伎・夜の部

毛抜〔三階席A〕

松緑初役の粂寺弾正。この「毛抜」は歌舞伎十八番のなかで未見だった。これまで見る機会に恵まれなかったが、ようやく見ることができた。
松緑は最近の若手歌舞伎役者のなかでもとりわけ現代的なスタイルをしている人で、とても顔が小さい。だからあまり豪壮な隈取りは合わないように思うのである。粂寺弾正の隈取りは豪壮というよりは茶目っ気のある柄だからまだ良かったのかもしれない。ただそれでもどうも不似合いさは拭いきれない。

松緑の口跡は力が入って高音になるので、聞きようによっては耳障りしてしまう。やはり今回もその部類だった。また粂寺弾正という役柄は捌き役として重厚さが必要なのだと思うが、やはりそれも少し足らない。

ところがところが、姫との対面を待っている間に、若衆(扇雀)と腰元(福助)に懸想して両者からフラれるという場面での好色ぶりに眼を瞠った。男と女性別に関係なく色仕掛けをたくらむ助平な表情が何ともリアル(リアルではまずいのかな)でおかしい。

また毛抜と小柄が天井の磁石による磁力で上を向いて立ったのを発見するシーンの見得も、若さあふれるものですこぶる軽快。芝居自体は荒唐無稽ながら(荒唐無稽だからこそ)とても面白く、この人が年輪を重ねたすえの粂寺弾正が楽しみである。

歌舞伎で「弾正」といえば普通悪役の記号なのだが、粂寺弾正も捌き役とはいえ好色さという意味でそのようなアンチ・ヒーロー的意味合いが込められているのだろうか。

百姓万兵衛(実は石原瀬平)の中村亀鶴がいい。清楚な女形が持ち味だとばかり思っていたが、先日の「寺子屋」での涎くりといい、この粗野な百姓といい、線こそ細いが見事な立ち役ぶりで台詞回しも自在である。多才な人という印象。

雪の道成寺〔三階席A〕

桜の道成寺を雪の季節に置きかえた清元舞踊劇。菊之助・松緑共演。初役(梅幸・初代松緑)の孫同士の共演ということになるのだそうだ。ここはただただ菊之助の美しさに見惚れる。最近また美しさに磨きがかかったのではないだろうか。私だけでなく、場内「ジワ」が来たし、周りのおばさんや若い女性たちも菊之助の美しさを話題にしていた。舞踊劇としてはちょっと退屈。

杜若艶色紫〔三階席A〕

序幕 向両国の場

両国の見世物小屋のざわめきが伝わってくるような舞台装置。福助演じる蛇遣いの土手のお六の悪婆ぶりが見事。蛇とからむときの妖艶な顔つきが妖しい。福助はその面構えにおいて故九代目宗十郎の悪婆を継ぐ存在であるということを再認識する。むろん二役のもう一方花魁八ツ橋のような美しい役柄も兼ねることができるうえでだ。合わせる悪坊主願哲に橋之助。悪役の線の太さが少し足りないか。橋之助は色悪がいい。

金屋金五郎の七之助が、まったく世話物中の人物と化していてびっくり。いつの間にこんなに落ち着いた味わいが出てきたのだろう。

二幕目 万寿屋寮/庚申堂前

ここは佐野次郎左衛門と八ツ橋という「籠釣瓶」の世界が重ねられている。 福助による八ツ橋とお六の早替り。八ツ橋による次郎左衛門への愛想づかし、次郎左衛門による八ツ橋殺しとめまぐるしく物語が進行し、最後はだんまりという世話物の粋。

大詰 お六の家/吉原裏土手の場

気のいい主人(実は忠臣)伝兵衛に翫雀、白ぬりの次郎左衛門に扇雀。これまた適役。総じてこの狂言は適役揃いのうえ展開もスピーディで楽しむことができた。これが三島の「芝居日記」でいうところの“balance of power”なのだろう。


寿初春大歌舞伎・昼の部

出雲の阿国〔未見〕

矢の根〔未見〕

京鹿子娘道成寺〔未見〕

弁天娘女男白波〔未見〕


寿初春大歌舞伎・夜の部

菅原伝授手習鑑 寺子屋〔未見〕

保名〔未見〕

助六由縁江戸桜〔未見〕


1月国立劇場初春歌舞伎

通し狂言 双蝶々曲輪日記〔一等席〕

序幕 堀江角力小屋前の場

いわゆる「角力場」として独立で上演されることの多い場である。以前吉右衛門の濡髪、富十郎の放駒で見たことがある。今回は濡髪は同じく吉右衛門であるが、放駒は前回与五郎役だった歌昇が演じる。

相変わらず吉右衛門の貫禄たっぷりの濡髪がいい。若さにはやる歌昇の放駒の甲高い声量に圧倒される。うるささすら感じてしまうのは、珍しく一階席で観ていたためであろうか。もともと歌昇は小柄、吉右衛門は大柄ではあるが、濡髪と放駒の柄の違いが際立っていて面白い。

「突っころばし」という類型の役柄である若旦那与五郎には、最近の私のご贔屓信二郎。最近いろいろな役柄にチャレンジしているが、今回のような「突っころばし」もなかなか。

二幕目 大宝寺町搗米屋の場/難波芝居裏の場

ふだんあまり上演されない二つの場面。
米屋の場は眠くてストーリーを追えず。芝居裏の場で濡髪が殺人を犯す場面は初めて観る。次の「引窓」ではすでにお尋ね者として身を隠す立場に追い込まれている濡髪であるが、彼がそのような立場に落ちてしまった経緯がよくわかった。

三幕目 八幡の里南与兵衛住家の場

富十郎の南与兵衛、女房お早に時蔵、母お幸に吉之丞。情緒たっぷりで義太夫味あふれる芝居を堪能した。でもやっぱり富十郎さんの台詞が不安。幕切れの台詞回しが余韻を残す素晴らしい出来栄えだけに、途中の会話の場面で慌て気味に喋っているのが気になって仕方がない。吉之丞の老母ははまり役。いまやかけがえのない役者さんである。

この芝居での人間関係は、再婚・婚姻がからんで義理の血縁関係が支配的だ。しかしまるで本当の血縁関係にあるかのような、いやそれ以上に義理の親子、嫁姑、義理の兄弟同士での愛情が示される。この愛情に満ちたドラマは反語的意味なのか、あるいはある程度現実を反映しているのか。