十二月大歌舞伎・昼の部

小栗栖の長兵衛〔未見〕

紅葉狩〔未見〕

佐倉義民伝〔幕見席〕

序幕 印旛沼渡し小屋の場/木内宗吾内の場/同裏手の場

勘九郎初役の木内宗吾(佐倉宗吾郎)。渡し守甚兵衛に久しぶりに又五郎が出演。きっと勘九郎が頼み込んだのだろうなあと想像しながら、二人の息の合った芝居を眺めていた。それにしても又五郎さんがいると本当に芝居が引き締まる。その一挙手一投足を観漏らすまいとしているうちに、歌舞伎を観ているという気分が充溢してくる。

宗吾内の場では幻の長吉役で猿之助が出演していたのだが、眠くてほとんどその出演場面を観ていなかった。情けない。

それにしてもクライマックスの「子別れ」の場面。渡辺保さんは「子別れは、義太夫が入って、作品としては必ずしも傑作ではない。役者の芸で泣かせるところで、吉右衛門の宗吾は、その人品、滋味あふれる渋い芸が、この役に実によくあった出来ばえであった」と書いているけれども(『新版歌舞伎手帖』講談社)、まさにここは勘九郎の芸に泣いた。よくよく考えてみると、勘九郎は初代吉右衛門の甥なのである。
義太夫にのって緊迫感に包まれるなか、直訴を決意して家を出て行く父の袖を、もう一生会えないかもしれないと薄々察している子供たちが引いて離さない。涙ながらにそれを振り払って雪の中に駈けていく。

もうこの場面は涙が止まらなくて芝居をまともに観ることができなかった。歌舞伎を観て泣けたのは猿之助を中心とした澤瀉屋一門の勉強会春秋会の「水天宮利生深川」と幸四郎の「一本刀土俵入」があるが、こんなに涙が出てきて止まらなかったのは初めてのことだった。いまの自分の気分にピタリとはまってしまったということだろう。

途中で眠っていながら、また、お涙頂戴であることが見え見えの芝居でありながらあえていえば、感動的、今年観た歌舞伎の中でもベストと言いたい。これはもちろん又五郎丈の出演も含めての評価である。

二幕目 東叡山直訴の場

玉三郎の徳川家綱。代演で松平伊豆守を演じた正之助の口跡がいい。

十二月大歌舞伎・夜の部

通し狂言 椿説弓張月〔三階B席〕

三島が死の前年昭和44年(1966)に書き下ろした新作歌舞伎。歌舞伎座で上演するのは初めてとのこと。前回からも15年が過ぎている。また、三島が玉三郎に当てて書いたという白縫姫を、33年ぶりに玉三郎が勤めるという豪華配役。これをいま見ることのできる嬉しさよ。

上の巻 伊豆国大嶋の場

義太夫で重々しく幕を開ける。たとえ原作があるにせよ、いまこうした義太夫狂言を書くことのできる作家がいるだろうか。三島の才能に尊敬の念をもよおす。
猿之助の口跡は相変わらずさらさらと軽く、義太夫狂言の幕開けにしては物足りない。八町礫紀平治太夫役の段四郎丈が急病のため歌六が代役。このところ段四郎丈は病気がちなので、心配だ。

中の巻 讃岐国白峯の場/肥後国木原山中の場/同じく山塞の場/薩南海上の場

「白峯の場」では、もともと崇徳上皇の霊役だった歌六が紀平治にまわったため、亀治郎が代役。柄の大きさはないが、口跡が素晴らしい。雰囲気たっぷり。
「山塞の場」での、褌一丁半裸の武藤太を、白縫姫の女房たちが嬲り殺しにするシーンの趣向にはつい失笑。竹の釘のようなものを打ち込んで、血がたらたらと流れ、最後は口からドバッと血を吐いて絶息する。武藤太の筋肉質、これはいかにも三島的、「聖セバスチャンの殉教」である。また、「薩南海上の場」での勘九郎の高間が立ちながら切腹する場面も同じ。血を勢いよく吹き出して果てる。三島が好みそうなこと。

下の巻 琉球国北谷斎場の場/北谷夫婦宿の場/運天海浜宵宮の場

琉球国のいかにも南国的なエキゾチズムあふれる舞台装置と衣装にしばし冬であることを忘れる。
勘九郎が二役目の妖婆阿公(くまぎみ)を熱演。陰惨でありながらユーモラスな老婆役、勘九郎ならではの面白さ。前回は故九代目宗十郎丈がこの役をやったとのこと。これも観たかった。
最後には、三島が熱望して果たせなかったという宙乗りを猿之助が敢行。いつもながらサービス精神にあふれる猿之助の宙乗りに拍手。門之助の陶松寿、春猿の寧王女が良かった。

十二月国立劇場

通し狂言 彦山権現誓助剣〔未見〕


吉例顔見世大歌舞伎・昼の部

通し狂言 新薄雪物語〔三階B席〕

歌舞伎に登場する役柄(立役・女形・敵役・老役・半道敵・道化役・和事)がほとんど登場し、しかも大役揃いということで、大一座でないと出せないと言われている「新薄雪物語」がようやく上演された。見たいと思っていた狂言だった。歌舞伎座で通しで出されるのは、昭和42年以来35年ぶりとのこと。私が生まれた年以来のことではないか。

序幕 新清水花見の場

薄雪姫に孝太郎、籬に時蔵、園部左衛門に菊之助、奴妻平に三津五郎、秋月大膳に人間国宝富十郎、団九郎に團十郎。このなかでは安定感のある三津五郎と、ニンにぴったりで鷹揚な雰囲気の團十郎がいい。秋月大膳のような“国崩し”の大敵役は幸四郎などで見てみたい。富十郎だと顔は立派だが柄が小さすぎる。
後半は妻平の大立ち回り。立ち回りの様々な型のオンパレードといったおもむきで楽しめる。
いまひとつ、上に書かなかった役者でいいと思ったのが、刀鍛冶来国行の子国俊を演じた信二郎。先月の「忠臣蔵」での定九郎といい、私はいまこの人にもっとも注目している。

二幕目 幸崎邸詮議の場

園部兵衛に菊五郎、葛城民部に仁左衛門、幸崎伊賀守に團十郎、松ヶ枝に先日人間国宝の指定を受けた田之助。壮観である。ただちょっと退屈であった。

三幕目 園部邸広間の場/同奥書院合腹の場

ここでは園部兵衛の奥方梅の方として、もう一人の人間国宝芝翫が登場。前半の広間の場は少し退屈だけれど、後半の合腹の場はなんとも歌舞伎らしい荒唐無稽な筋で楽しめる。陰腹(ひそかに切腹していること)を切っていながらそのまま会話を続ける園部兵衛と幸崎伊賀守、最後に合腹の場の見せ場である「三人笑い」で幕となるが、ここも芝翫の泣き笑いの芝居が何ともリアルかつグロテスクで面白味が感ぜられる。

大詰 刀鍛冶正宗内の場/同風呂場の場/同仕事場の場

世話場たるこの「刀鍛冶」が今回もっとも面白かった。富十郎の老刀鍛冶正宗が人生を重ねてきた味が出ていいし、また、序幕に引きつづき信二郎の国俊、團十郎の団九郎もいい。勘太郎のおれんも可憐。
ただ富十郎の台詞(とりわけ名前などの固有名詞)が不安定で、見ていてハラハラする。この人のこうした姿は以前も見たことがあるが、まあご愛嬌というべきなのだろうか。

吉例顔見世大歌舞伎・夜の部

本朝廿四孝 十種香・奥庭〔未見〕

松浦の太鼓〔幕見席〕

仁左衛門の松浦侯、其角が左團次、大高源吾に三津五郎。お縫が孝太郎急病のため勘太郎代演。
「松浦の太鼓」は吉右衛門の松浦侯で観て以来二度目。この芝居は「秀山十種」にも入っている播磨屋の家の芸だから、それを仁左衛門が演じるとどうなるかという興味があった。もちろん前回観たときの、陽気で気難しがりの殿様を演じた吉右衛門がとても良かったので、芝居的な興味もある。渡辺保さんは『新版歌舞伎手帖』(講談社)のなかで「脚本としては決してすぐれたものとはいえないが、役者の芸と風格で今日にのこった」と解説されている。たしかに吉右衛門・仁左衛門という芸達者でないと、その面白さを伝えることができないのかもしれない。でもこの芝居、私はわりに好きなのである。「忠臣蔵」好き日本人の典型というべきなのだろうか。

今回の仁左衛門の松浦侯では、「バカバカバカ…」とすねるような愛嬌のある台詞が何度か登場して客席を笑わせていた。こういう台詞は播磨屋版にあったかどうか。また今度吉右衛門で観てみたい。
渡辺さんは初代吉右衛門の松浦侯を「ことに太鼓の音を聞いて舞台端へ膝で乗り出してくるところがわくわくするような面白さであった」と評している(前掲書)。当代吉右衛門の松浦侯でも、やはりその場面にわくわくするような感じがあった。今回仁左衛門でもここを注目していたのだが、吉右衛門ほどの昂揚感がない。なぜだろう。

鞍馬獅子〔未見〕

十一月国立劇場

通し狂言 仮名手本忠臣蔵〔未見〕


芸術祭十月大歌舞伎・昼の部

通し狂言 仮名手本忠臣蔵

大序 鶴ヶ岡社頭兜改めの場〔幕見席〕

忠臣蔵特有の「口上人形」が雰囲気を盛り上げる。
儀式にそなわる荘厳な雰囲気たっぷりで、観ていて厳粛な気持ちになる。下を向いた役者たちが、太夫に名前を呼ばれると目をカッと見開いて息を吹き込まれる歌舞伎の「大序」は文楽よりも好きである。

吉右衛門の師直が老獪、好色。鴈治郎の塩冶判官が何とも若々しい。魁春の顔世御前は、写真で見た六代目歌右衛門の表情にそっくり。

三段目 足利館門前進物の場/同松の間刃傷の場〔幕見席〕

吉弥の鷺坂伴内が飄逸でおかしい。吉右衛門はなぜこうも全ての役柄にわたっていいのだろう。吉右衛門万歳。

四段目 扇ヶ谷塩冶判官切腹の場/同表門城明渡しの場〔未見〕
浄瑠璃 道行旅路の花聟〔未見〕

芸術祭十月大歌舞伎・夜の部

通し狂言 仮名手本忠臣蔵〔三階B席〕

見に行くまえに、前月文庫化された関容子さんの『芸づくし忠臣蔵』(文春文庫)の該当部分を拾い読みして予習する。五・六段目は上方風ながら一度夏に見たので、「ふむふむこういうことになっているのか」と得心したにもかかわらず、実際芝居を目の当たりにすると細かい場面に気をつけることをすっかり忘れている。でも同書を復習すれば、よりいっそう「忠臣蔵」を理解できるようになるだろう。

五段目 山崎街道鉄砲渡しの場/同二つ玉の場

信二郎はやっぱり定九郎のような色悪がニンだ。幸四郎・橋之助あたりが定九郎のニンだと思うのだが、信二郎もそれに含まれるだろう。なかなか面白い。いまの段階では「忠臣蔵」はこの五段目が一番好きである。

六段目 与市兵衛内勘平腹切の場

勘九郎の勘平が飛び切りのもの。家橘急病の代役として老母おかやを演じた上村吉弥が老け役を好演。夏には一文字屋お才を演じていたというのに。

七段目 祇園一力茶屋の場

初めて観る七段目。吉右衛門の由良之助、放蕩三昧のうつけの雰囲気と、豪胆にして決断力に富んだ頼もしい雰囲気の切り替えが素晴らしい。表情一つ変えただけでこの二つの顔を使い分ける芸に見とれる。
この由良之助が中心になっている場面とともにこの段の山を作っている寺岡平右衛門の筋では、團十郎の平右衛門が大らかで場を盛り上げる。七段目といえば一力茶屋での由良之助の放蕩というイメージだけだったのだが、平右衛門という重要人物がいるということを知って、観る楽しみが一つ増えた。
玉三郎のお軽には愛嬌がある。

十一段目 高家表門討入りの場/同奥庭泉水の場/同炭部屋本懐の場

ここはテレビドラマや映画などではクライマックスだが、歌舞伎においてはおまけ的な存在になっている。カタルシスを感じない。

十月国立劇場

霊験亀山鉾〔未見〕


九月大歌舞伎・昼の部

佐々木高綱〔三階B席〕

岡本綺堂作の新歌舞伎。
石橋山の戦いはじめ源平合戦で数々の勲功をあげたにもかかわらず、約束された恩賞が与えられないため、頼朝に対して不満を持ってくすぶっている佐々木高綱が主人公。頼朝帰洛にさいし出迎えを拒否し、高野聖智山と話すうちに俗世を捨てて出家することを決意する。そこに、高綱に父を殺された馬子の子供二人がからむ筋立て。どうもパッとしない。梅玉の高綱はやはり適役で、梅玉はこのような新歌舞伎が似合っている。

通し狂言 怪異談牡丹燈籠〔三階B席〕

吉右衛門初役で善悪二役を演じるという期待の通し狂言。

「牡丹燈籠」といえばカランコロンの下駄の音。浪人萩原(梅玉)に恋焦がれて焦がれ死にした旗本の娘と、その看病疲れ(?)であとを追うように亡くなった召使二人の幽霊が浪人に取り付いて取り殺す三幕目が前半のハイライト。
青いライトを浴びて恐ろしい雰囲気を醸し出す娘(孝太郎)・召使(吉之丞)二人がいい。とくに吉之丞は怖すぎ。そのいっぽうでこの幽霊のシーンは何となくユーモラスだ。幽霊から萩原の家に張られたお札を取り除いてほしいとお願いされ、百両で請け負う下男の供蔵(吉右衛門)。幽霊と現世の人間の百両の取引というのも面白い。

後半では五幕目が面白かった。幽霊から得た百両を元手に栗橋で商売をはじめた伴蔵とお峰夫婦。伴蔵の浮気が・発覚してはじまる夫婦喧嘩がリアリティあふれたもので、お峰の魁春が良かった。魁春はもう一役のほう、旗本の愛妾の底意地が悪そうな役どころもいい。そこから伴蔵がお峰を幸手堤に誘い出して惨殺する場面が後半のクライマックス。
六幕目、金をゆすりに来た宮野辺源次郎の過去をあばいて逆にやりこめる伴蔵の啖呵が吉右衛門らしくて爽快。逆襲されて引き下がる歌昇の源次郎の雰囲気もユニーク。

結局、大詰で展開される吉右衛門のもう一役「善」の幸助のほうの物語はいまひとつということである。この芝居の一番は、やはり吉之丞の幽霊かな。

九月大歌舞伎・夜の部

天満宮菜種御供 時平の七笑〔三階B席〕

讒言によって罪を問われている菅原道真にいかにも同情的な姿勢を装っておきながら、道真が配流地に赴くために去ったあと、一人残った藤原時平は高笑いをする。裏表のある人間の怖さ。藤原時平が主人公という変わった芝居。
弟の仁左衛門は「菅原」の道真役の第一人者であるいっぽう、兄の我當はこの「時平の七笑」で時平をこなす。我當のよく通る声で豪快に笑われることの不気味さ。幕がすっかり引かれたあと、さらに一つ大笑いをするという、これまた変わった趣向であった。

年増〔三階B席〕

芝翫の舞踊。こういう役柄にいかにもお似合い。

籠釣瓶花街酔醒〔三階B席〕

吉右衛門の次郎左衛門に雀右衛門の八ツ橋。やっぱり吉右衛門はいいなあ。下男治六の歌昇も味がある。序幕の引っ込みでの八ツ橋の笑顔は押さえ気味という印象。写真で六代目歌右衛門の笑顔が目に焼きついているが、それとはだいぶ違う。
これを見るのは勘九郎・玉三郎のコンビのときに次いで二度目。ストーリーも頭に入っているということもあるからなのか、今回は異様にスピーディに筋が運ばれていったという印象を持つ。前回見たときはもうちょっと込み入ったところがあったような気がしたのだが。
八ツ橋の愛想尽かしのあと悄然とする次郎左衛門を気遣う九重に惹かれる。今回は東蔵。九重は母性ということなのか。

女夫狐〔三階B席〕

梅玉・時蔵の絵になるコンビ。やっぱり時蔵は女形のなかでも好きな人の一人。「千本桜」の川連法眼館の場のパロディという趣向も楽しく、梅玉や時蔵の狐調の台詞回しを聴けるなんて滅多にないのではないか。


八月納涼歌舞伎・第一部

播州皿屋敷〔未見〕

真景累ヶ淵 豊志賀の死〔未見〕

八月納涼歌舞伎・第二部

浮かれ心中〔三階B席〕

第一幕 鳥越之場「真間屋」/吉原之場「仲の町」/鳥越之場「真間屋」

井上ひさしさんの直木賞受賞作「手鎖心中」を脚色したのがこの芝居。
大店の若旦那にして、戯作者として名声を得たいという栄次郎に勘九郎。もうこういう役どころはこの人をおいて他にいないだろう。当て書きのような見事さ。
第二場の吉原之場は「籠釣瓶」を下敷きにしている。花魁帚木は福助。花魁行列も、花道七三でニッコリするところも「籠釣瓶」そっくり。「家に帰るのがいやになった」と台詞を吐くのは栄次郎の仲間太助(橋之助)。たまたま来月に本物の「籠釣瓶」がかかる。それを見越したアドリブも盛り込まれて、この「吉原之場」は面白い。
第三場で、狂言の夫婦喧嘩をやる場面も爆笑の連続。とくに福助がはじけている。勘九郎に鍛えられたのだろうなあ。

第二幕 深川之場「帚木の家」/亀戸之場「梅屋敷」/鳥越之場「真間屋」/向島之場「墨堤」

花魁帚木の間夫で、深川の妾宅に出入りして棚を作り続けている(!)大工の清六に扇雀。扇雀もこうしたユーモラスな役どころに味があっていい。やはりこの人は世話の立役が好き。
作戦成功で見事に手鎖の刑になり、鳴り物入りで家に戻ってきた栄次郎をどやす父親に弥十郎。「バカ」を連発しすぎ。面白いのだけれど軽すぎる。
幕切れの重要な台詞はとってつけたようで重みがない。まあでも最後の「ちゅう乗り」はサービス精神に満ちあふれた楽しい趣向であった。七月の猿之助、八月の勘九郎、客を飽きさせないこのサービス精神溢れた二人に拍手。

四変化 弥生の花浅草祭〔三階B席〕

勘太郎の切れのある踊りに瞠目。この役者は何だか将来すごい役者になりそうな予感。元三之助以上に注目したい。
常磐津―清元―常磐津―長唄と、四変化に合わせて目まぐるしく変わる地方を聞くのも楽しい。

八月納涼歌舞伎・第三部

通し狂言 怪談乳房榎〔三階B席〕

勘九郎三役早替りが見事。歌舞伎を見ることの興奮を味わう。これぞ歌舞伎、であった。


市川猿之助七月大歌舞伎・昼の部

御摂勧進帳〔未見〕

義経千本桜 吉野山〔未見〕

暗闇の丑松〔未見〕

市川猿之助七月大歌舞伎・夜の部

通し狂言 南総里見八犬伝〔三階B席〕

南総里見八犬伝は、馬琴のテキストを、八犬士が集まった半ば過ぎまで読み進めたまま読むのを中断してしまっている。この歌舞伎の場合、やはり八犬士が徐々に集まってゆくところに気分の昂揚感が感じられてワクワクするのだが、なにぶん現代の忙しい時間の流れのなかで、所々でカットしてエピソード的に羅列していかなければならないのが残念といえば残念。
その意味では「南総里見八犬伝」は、原テキストに勝るものはないのかもしれない。歌舞伎にしてしまうとそのあたりが物足りない。

歌舞伎としてみれば、澤瀉屋一門らしいスペクタクルに満ちあふれた楽しい芝居だった。屋台崩しあり、がんどう返しあり、巨大猫の登場やもちろん猿之助の宙乗り、本物の花火まで登場する。
猿之助は出番のところどころで腰掛を使っているところや顔の動きなど、体調が不十分なのではないかとかなり心配させられた。ただ口跡はそれまでと変わりないし、終幕に近づくにつれて長台詞もこなし、いつもの宙乗りもサービス満点だったから問題ないか。

偽公卿に扮して執権山下定包に金の無心を迫る長台詞には、32年間七月歌舞伎を続けてきたことへの客への謝意だとか、経済不況や米同時多発テロといった時事ネタを巧みに織り込んだこれまた客の沸かせ方を十分に心得た楽しいもので、聞いていて本当に気持ちいい。これは一人猿之助だけでなく、一門の役者さんたち全員に言えるものだと思う。猿之助歌舞伎はだから面白いのだ。
胸一杯の満足感で帰途についた。

7月国立劇場 第61回歌舞伎鑑賞教室

歌舞伎のみかた〔二階席〕

はじめてこの「歌舞伎鑑賞教室」というものを見た。鑑賞教室には高校生以下の学生のためにこうして最初に歌舞伎役者が歌舞伎のみかたを分かりやすく解説する企画が用意されている。今回は上村吉弥丈が担当。舞台機構や義太夫、下座音楽などの基本的な事柄から、女形らしく、女形の演じ方など、ユーモアを交えてとてもわかりやすく解説されていた。これは学生といった初心者だけでなく、私たちのようなある程度歌舞伎を知っている人間にとっても楽しめる企画である。

仮名手本忠臣蔵〔二階席〕

五段目 山崎街道鉄砲渡しの場/同二つ玉の場

勘平に扇雀、定九郎は弥十郎。弥十郎の定九郎になかなか陰惨な味があってよい。

六段目 与市兵衛住家勘平腹切の場

実はこの場「勘平腹切」は初めて見る。今回は上方風の演出だということであったが、江戸風とどう違うのか、関容子さんの『芸づくし忠臣蔵』などを読んで勉強してくればよかった。まあでも11月に鴈治郎の七役で「忠臣蔵」の通しが国立であるそうだから、それで見ればよいか。

おかるは孝太郎。以前も書いたが、扇雀は女形より立役がいい。とりわけ今回のような和事風の立役に関しては、父鴈治郎の後継者といえるのではないだろうか。

それにしてもこの六段目のストーリーの綾には堪能させられる。つい感情移入して、勘平に「早まるなっ」と思ってしまうのだった。ここは実際の赤穂事件とはまったく無関係の架空の場面であり、以前はそれゆえに軽視していたのだが、こうやって見てみるとストーリーとしてはここが一番面白いような気がする。やはり「忠臣蔵」は歌舞伎の独参湯であるというのが分かる。


四代目尾上松緑襲名披露六月大歌舞伎・昼の部

君が代松竹梅〔未見〕

御所桜堀川夜討 弁慶上使〔未見〕

権八小紫 其小唄夢廓〔未見〕

倭仮名在原系図 蘭平物狂〔未見〕

四代目尾上松緑襲名披露六月大歌舞伎・夜の部

鬼次拍子舞〔未見〕

口上〔未見〕

船弁慶〔幕見席(立見)〕

ウィークデーでしかも雨の夜、さすがの襲名披露狂言でも人は少なかろう。そんな考えで、仕事帰りに時間ギリギリで歌舞伎座に駆けつけたが、甘かった。すでに「立見」の札が。逆に、さすが新松緑襲名披露ではあると、自分の見通しの甘さを反省した。

さてこの「船弁慶」は九代目團十郎が制定した新歌舞伎十八番の一つ。松羽目物の長唄舞踊劇である。團十郎の弁慶は重厚な味わい。玉三郎の義経は意外にニンに合っているような気がする。そこに登場する新松緑の静御前。松緑は長身で頭が小さいという現代的スタイルだから、本役が立役であってもさしたる違和感はない。ただ役者ということを考えると、顔が小さいのは必ずしも有利ではないだろう。後ジテとして藍隈をとった恐ろしい形相の知盛の霊に変わった姿で再登場したとき、それを強く感じた。
さて前ジテの静御前に戻ると、声が女形風の発声ではなく、ごく普通の太い声だった。これは松緑の問題なのか、そもそも立役が演じるという成立時からの約束事なのか。
舟長に吉右衛門、二人の舟子に新之助・菊之助という豪華配役。さすがに吉右衛門が出ると狂言に重みが増す。先月病気のため休んだ新之助、やはり声に張りがないか。
幕見席だったため、この狂言での見所の一つ、知盛の霊の「渦巻き」と呼ばれる引っ込みを見ることができなくて残念だった。

新皿屋舗月雨暈 魚屋宗五郎〔幕見席〕

以前勘九郎の宗五郎で見て、その面白さを満喫した黙阿弥の生世話狂言。やはりその第一人者である菊五郎が演じるとあっては見逃せない。
勘九郎の宗五郎でも面白さを堪能したのだが、菊五郎の宗五郎も絶品だった。勘九郎に劣らず、禁を破って酒をぐいぐいとあおるにつれて、顔や胸元が紅潮してゆく。酒臭さがただよってきそうな酔い方の演技に見惚れる。二代目松緑から継承した菊五郎のこうした生世話のうまさを、さらに受け継ぐ人が若手に思い浮かばない。不安である。
新松緑が殿様磯部で出演。潔く町人に手をついて詫びる爽快さがいい。


四代目尾上松緑襲名披露五月大歌舞伎・昼の部

寿曽我対面〔未見〕

素襖落〔未見〕

義経千本桜 川連法眼館の場〔未見〕

銘作左小刀 京人形〔未見〕

四代目尾上松緑襲名披露五月大歌舞伎・夜の部

舌出し三番叟〔三階B席〕

三津五郎の家の芸ともいうべきこの踊り、たいへん楽しみにしていたのだが、眠くて駄目だった。三津五郎に申し訳ない。

口上〔三階B席〕

今までの口上のような、笑いをとるスピーチ風のものではない(それはそれでいいのだが)、静かで重い雰囲気の口上だった。

勧進帳〔三階B席〕

やはり勧進帳は何度見ても面白い。富十郎の義経は私にとって珍しく、富十郎の小さめな身体が義経の雰囲気にぴったり。
新松緑の弁慶はセリフに軽さが感じられなくなってよかった。

半七捕物帳 春の雪解〔三階B席〕

團十郎の半七・按摩徳寿の早替り。徳寿のユーモラスな動きに、團十郎の新境地を見る思い。「三千歳直侍」の二八蕎麦屋の趣向を模した蕎麦屋の場面での世話味もいい。肝心の「半七捕物帳」としての味わいは…、どうなのだろう、原作を読んでいないのでどうとも言えない。


六世中村歌右衛門一年祭四月大歌舞伎(二代目中村魁春襲名披露)・昼の部

鴛鴦襖恋睦〔三階B席〕

私は六代目歌右衛門の舞台を実際に観たことはない。写真か、テレビの映像で往年の舞台を知るだけである。そんな人間がいうのはおかしいのであるが、あえていえば、歌右衛門の当たり役であった遊女喜瀬川=雌鴛鴦の精を演じる福助に歌右衛門の面影を見た。
福助にとって六代目歌右衛門は祖父の弟、つまり大叔父にあたるから血がつながっているわけだが、それにしても似ていた(ように感じた)。これまで福助の芝居にそうした印象はほとんど抱かなかっただけに、今回のイメージは強烈であった。ビデオなどで勉強したのだろうなあ。やはり七代目を継ぐ人はこの人なのだと思う。

河津に梅玉、股野に橋之助と揃って面白い舞踊劇であった。以前鴈治郎・菊五郎・吉右衛門で観たことがあるが、それ以上に今回の印象は強い。

元禄忠臣蔵 南部坂雪の別れ〔三階B席〕

「南部坂」とは、浅野内匠頭亡きあと室瑶泉院が身を寄せていた実家である三次浅野家の中屋敷があった場所。現在の有栖川公園脇の坂道である。「南部坂雪の別れ」。この言葉の響きがいい。「元禄忠臣蔵」の芝居を知らなくても、そのうちの一幕のタイトルであるこの言葉だけは知っていた。
でも、渡辺保さんが「それほど面白い作品ではない」(『新版歌舞伎手帖』)と言うとおり、ちょっと退屈であった。ウトウト。吉右衛門の大石の重厚さと我當の羽倉斎宮(荷田春満)の歯切れのいい台詞回しで持っている。
それにしても我當さんはいいなあ。

忍夜恋曲者 将門〔三階B席〕

松江丈の二代目魁春披露狂言。「魁春」とは、養父六代目歌右衛門が徳富蘇峰から贈られた俳号であり、したがって初代を六代目歌右衛門とする。大向こうの掛け声を聞いたら、屋号は「加賀屋」のままであった。歌右衛門の俳号を継ぐのだから、成駒屋になるのだとばかり思っていた。

これも雀右衛門・團十郎の組み合わせを観て以来二度目。團十郎はまさに光圀役者である。新魁春の傾城如月=滝夜叉姫は、雀右衛門が持っていたような古怪さというか凄みに欠ける印象。可愛らしいのだ。夜の部の八重垣姫のほうに注目しよう。

壇浦兜軍記 阿古屋〔三階B席〕

歌右衛門の当たり役を玉三郎が継承し、いまや玉三郎一代の当たり役といってよいと思う。前回観たときには感動のあまり「私がこれまでに観た玉三郎の芝居のなかでは、もっともニンの合う、最高の舞台である」と断じたほど(2000年1月夜の部)。今回の再見でもこの発言は変更する必要を感じないものだった。

秩父庄司重忠の詰問にも毅然とした態度をとる遊君阿古屋。階段に上って重忠の前に身を反らせて投げ出すポーズに陶然、また陶然。錦絵の一幕。琴・三味線・胡弓の三曲を弾きこなす山場の緊張感は心地よい。怪しからぬことに、周囲には一緒に行った妻をはじめウトウトと眠っている人が。この昼の部を観に来て「阿古屋」のこの場面を眠って観ないとは何事ぞ。
重忠の梅玉も裁き役としての篤実さが滲み出、また憎まれ役岩永を人形振りで演じる勘九郎は、出てきて少し身体を動かすだけで場内の雰囲気がふと和む愛嬌のよさ。こういった愛嬌を感じさせる役者は勘九郎の右に出る人はいない。この組み合わせも最高であった。

六世中村歌右衛門一年祭四月大歌舞伎(二代目中村魁春襲名披露)・夜の部

沓手鳥孤城落月〔未見〕

口上〔未見〕

本朝廿四孝 十種香〔未見〕

ぢいさんばあさん〔未見〕


三月大歌舞伎・昼の部

道元の月〔三階B席〕

「道元禅師七百五十年大遠忌記念」として立松和平さんが書き下ろした新作。歌舞伎座を入ると、その左右に主だった役者さんの後援者のための受付が設けられているのだが、今回はこのため「曹洞宗受付」というのがあって、場内にもお坊さんとおぼしき頭を丸めた人がたしかに多いという印象。
こういう経緯でつくられた新作だから仕方ないのだが、あまりにも道元の人となりの高潔さを褒め称えている内容に終始しているのがひっかかる。新作としては面白いのかもしれないが、このあとの三本を見たあとでは、やはり見劣りがする感じ。

六歌仙容彩 文屋〔三階B席〕

今回一番の期待。さすがに富十郎。清元にのった踊りの素晴らしさよ。今月の昼の部はこの一幕を観るだけでも価値あり。

春ねむし聞きしに勝る文屋かな

一本刀土俵入〔三階B席〕

と、「文屋」を観終えた段階ではそう思っていたのだが、この芝居を観てさらに観に来て良かったという思いが去来する。観ながら不覚にも涙が出てきた。

腹をすかせて江戸まで旅を続けていた取的(下っ端の力士)の駒形茂兵衛。我孫子の宿で出会った酌婦お蔦からお金を恵んでもらい、将来の報恩、お蔦の前で横綱土俵入りを見せることを誓って別れる。
十年後茂兵衛は立派なやくざに、お蔦は堅気の女房に。お蔦にあのときのお返しをしようと家を訪ねあてたとき、彼女の夫辰三郎のいかさま賭博が発覚してちょうど追われていた途中であった。茂兵衛は十年前のお金を返し、また辰三郎を捕らえようとしていたやくざたちを乱闘のすえ倒し、お蔦一家が逃げてゆくのを見送る。乱闘は家の外にある一本の桜の大木の下で行なわれる。ちょうど桜の散りどきで、季節もぴったり。逃げてゆくお蔦一家を見送りながら茂兵衛が語る台詞の泣かせること。

「ああお蔦さん、棒っきれをふりまわしてする茂兵衛のこれが、十年前に櫛かんざし巾着ぐるみ、意見を貰った姐さんに、せめて見て貰う駒形の、しがねえ姿の土俵入りでござんす」

思わず目頭が熱くなった。腑抜けのような取的から風格のある渡世人への見事な変身。幸四郎近来の名舞台ではあるまいか。老船頭の幸右衛門・清大工の芦燕がいい味を出している。長谷川伸、泣かせるなあ。

二人椀久〔三階B席〕

さらにさらに、この「二人椀久」も素晴らしい。この踊りを見るのは二度目。前回は名舞台の誉れ高い富十郎・雀右衛門のコンビであったが、今回の仁左衛門・玉三郎コンビもまた幻想的かつ狂乱的で素晴らしい。

前回の感想(2000年9月歌舞伎座夜の部)を読んでみて苦笑を禁じ得なかった。ほとんど同じような印象だったから。前半は長唄の嫋々たる響きにウトウトしてしまったのと対象的に、後半の二人の切れのある激しい踊りにいっぺんで目を醒まさせられたのである。で観終えた直後には緊張感がようやくとれたという溜息。
渡辺保さんによると、この二人椀久の長唄は、伝存する曲のなかで最も古く、かつ難曲中の難曲なのだという(『新版歌舞伎手帖』講談社)。古曲・難曲であると同時に、名曲でもあろう。この気持ちのいい唄声の威力は一発で睡眠を誘うほど心地のいいものなのであった。

三月大歌舞伎・夜の部

平家女護島 俊寛〔未見〕

通し狂言 十六夜清心〔幕見席〕

序幕 稲瀬川百本杭の場/同川中白魚船の場/百本杭川下の場

相変わらず清元「梅柳中宵月」が耳に心地よい。
今回の清心は仁左衛門。前回観た菊五郎と比べてみると、菊五郎のほうがもう少し笑わせる場面があったように思う。また「悪」へと心変わりする有名なシーンは、菊五郎にユーモアと愛嬌があり、仁左衛門には型にはまった悪の香りがある。どちらが好きかと問われれば、菊五郎か。
清心に殺される恋塚求女には勘太郎。これがなかなか良かった。

二幕目 初瀬小路白蓮妾宅の場

ウトウトしてしまい、筋を追えず。

大詰 雪の下白蓮本宅の場

「十六夜清心」といえば序幕に尽きるとばかり思い込んでいたのだが、今回の大詰を観てちょっと考えをあらためた。「十六夜清心」は三回目で、この場も観たはずなのだがまったく記憶にない。それほど今回のものが強烈な印象だったということだ。

互いに死に損ない、のちに箱根で再会して悪の道をともに歩んできた十六夜=おさよと清心=鬼薊の清吉の二人。玉三郎の伝法で蓮っ葉なおさよがこれまたいい。このところの玉三郎の充実振りには目をみはる。
「切られ与三」の趣向を模した強請場の面白さは無類のもの。


二月大歌舞伎・昼の部

通し狂言 菅原伝授手習鑑〔三階B席〕

夜の部の三幕に対して昼の部の三幕は全くの未見で、期待を抱きながら歌舞伎座に入った。今年歌舞伎を観るのはこれが初めてでもある。

序幕 加茂堤

斎世親王と苅屋姫(菅丞相養女)の逢引を桜丸夫婦が手引きするという、この物語全体の導入部。
桜丸の梅玉は安定感があって素晴らしい。去年あたりから梅玉という役者の良さがわかるようになってきた。八重(福助)の牛引きの場面はユーモラス。松助の三善清行、彼は時平の手下として、悪役なのだなあ。

二幕目 筆法伝授

ここは何といっても仁左衛門の菅丞相の気品と、富十郎の武部源蔵の重厚さ。東蔵の左中弁希世と松助二人のおかしさが仁・富の芸を際立たせる。雀右衛門の園生の前の役どころ、いまひとつピンとこなかった。
菅秀才を演じたのは富十郎の愛息大ちゃん。大向こうから「大ちゃん」という掛け声がかかり場内が和む。年齢は私の息子と同じはずなのに、あの落ち着きは何だ。育ちの違いとはこういうものか。

三幕目 道明寺

渡辺保さんによれば、この「道明寺」は奇蹟劇・推理劇・宗教劇という三つの要素があるという。木像たる菅丞相と生身の菅丞相が立ち代わり入れ替わる。奇蹟劇と推理劇の深みがここから生まれる。木像を演じるときと生身を演じるときの仁左衛門の工夫が面白い。
難役「三婆」の一つだという覚寿に芝翫。こういう役こそ芝翫のものだという気がする。はまり役。秀太郎の立田の前は安定感あり。橋之助が奴宅内一役で出ているということだけ見ても、今回の通しのラインナップの豪華さがわかろうというもの。
言い忘れた。苅屋姫は玉三郎。ただこの幕はあまりしどころのない役ではなかったか。

二月大歌舞伎・夜の部

通し狂言 菅原伝授手習鑑〔三階B席〕

四幕目 車引

観るのは三回目か。荒事の迫力。吉右衛門の松王丸、團十郎の梅王丸、梅玉の桜丸、いずれも適役。ただ時平の芦燕だけちょっと迫力が感じられない。

今回はたまたま上手の脇の席で観ていたため、下手側の舞台の袖が丸見えだった。下手の書割の後ろ、舞台に見えるのではないかというほどのすれすれのところに、黒衣を着た小学生くらいの子供がいて、たぶん梅王の振りを一生懸命真似していた。誰であったか。こうして歌舞伎の伝統は継承されていく。微笑ましい。

五幕目 賀の祝

観るのは二回目。前回は少し眠ってしまったこともあって、あまりストーリーとして追えていなかったが、今回はそういうこともなく、話がよくわかった。白太夫は左團次。前回所演の“白太夫役者”羽左衛門亡きあと、この人しかいないのかもしれない。ちょっとまだ若いのかなあと思っていたのだが、いやいやどうして、かえって白太夫の悲運がはっきりと伝わってきた。
桜の枝を追ってお前のせいだと言いはる松王丸と梅王丸の二人、まだ前髪が取れない少年なのである。そうした稚気が演じる吉・團の二人から滲み出ている。

六幕目 寺子屋

観るのは四回目くらいか。乏しい観劇歴で言うのも憚られるが、近来稀にみる名舞台である。いつの世にも名役者がいて名舞台はあるのだろう。後々、われわれには吉右衛門・富十郎・玉三郎という名役者がいて、このときの「寺子屋」は素晴らしかったと誇れるような名舞台を観ることができたという感激。何ものにも代えがたい。場内からはすすり泣きの声がやまず、これほど観客を泣かせた舞台も、私がこれまで観たなかでは一番。私も思わず目頭が熱くなった。

涎くりと棒かつぎのチャリ場(といっていいのかしらん?)で笑わされたあと、沈痛な面持ちで花道を入る源蔵(富十郎)。ここに悲劇の種がすでに胚胎されている。
「せまじきものは宮仕え」を義太夫に語らせ、今日寺入りしたばかりの子供(小太郎、実は松王丸の子)を菅秀才の身代わりにしようと決意するまでの心の動き。春藤玄蕃と松王が検分に来たあと、その子供の首を打ったときの松王の仕草、首を実検した松王が菅秀才の首に間違いなしと言ったときの源蔵の表情。素晴らしい。
用を済ませて身代わりとなった小太郎を迎えにきた千代(玉三郎)が、身代わりとなって死んだことを告げられたときの嘆き、松王がふたたびやってきて、身代わりは当初から計画のうちだったことを告白したときの源蔵の驚き、源蔵が小太郎を討つときに身代わりのことを告げたら、笑って首を差し出したと言ったときの、松王夫婦の複雑な心境、場内の悲しみはクライマックスに達する。
最近このあたり眠くなってしまっていたのだが、なぜこんないい場面を眠ってしまったのだろう。つまりはそうした悲しみにいたるまでのドラマ性を十分私が理解していなかったということか。今回役者揃いの「寺子屋」を見て、この芝居がいつの時代にも熱狂的に庶民の歓迎を受け、だからこそお上に睨まれてたびたび上演中止になった理由がわかったような気がした。

いや本当に素晴らしい舞台であった。幕見で再見したいものである。


六幕目 寺子屋〔幕見席〕

ということで「寺子屋」だけを再見した。今回は幕見席という天井桟敷で、前よりは客観的に眺められ、また場内の雰囲気にあまり染まらない場所で見たせいか、こみ上げてくるものはなかった。
何がそんなに観客を感動させるのか、吉右衛門の松王はもちろんだけれど、これは玉三郎の千代が抜群にいいからであることにあらためて気づかされた。


寿初春大歌舞伎・昼の部

其俤対編笠 鞘當 〔未見〕

連獅子 熊谷陣屋 〔未見〕

妹背山婦女庭訓 吉野川 〔未見〕

さくら川 〔未見〕


寿初春大歌舞伎・夜の部

一谷嫩軍記 熊谷陣屋 〔未見〕

春興鏡獅子 〔未見〕

人情噺文七元結 〔未見〕


1月国立劇場初春歌舞伎

通し狂言 小春穏沖津白浪〔未見〕