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読前読後2002年7月


■2002/07/01 青色のノスタルジー

川本三郎さんの掌編小説集『青のクレヨン』(河出書房新社)を読み終えた。

二百頁ほどの本のなかに、三十五篇の短い小説が収められている。
このうち最後のほうに収められている数篇以外は、川本さんご自身とおぼしき「私」が主人公のいわば私小説である。ほぼ『SWITCH』誌に連載されたものがそれに当たる。

私は川本さんの文芸評論や町歩き・紀行エッセイの愛読者ではあるが、このような小説作品を読むのは初めてであった。
読んでみると、上記のように私小説的色合いが濃く、いままで読んできた町歩きエッセイや房総紀行『火の見櫓の上の海』(NTT出版、4/14条参照)などで東京や房総を旅し、歩いたときに出会った一齣が切り取られて小説化された、エッセイと表裏一体のものという趣きだったから、違和感なくストーリーに入り込むことができた。

中年になった川本さんの眼で切り取られた東京の町や房総の町、海の風景、人間が描かれるいっぽうで、子供の頃のワンシーンを思い出して小説化している作品もある。
現在の景色にせよ、子供の頃(終戦直後の昭和二十年代後半)の思い出にせよ、すべてがセピア色の懐かしさに彩られている。
いや、セピア色といっては紋切り型に過ぎる。
本書のタイトルは青、カバー装幀にも淡い青色のクレヨン画が使われている。作品も青い房総の海や穏やかな瀬戸内の海が舞台となっているものが多い。
つまり「青色のノスタルジー」といえようか。

このなかでは、図書係だった高校三年生の夏をふりかえった「夏のボール」が、甘酸っぱい雰囲気を漂わせていて好きだ。

つい最近、本書収録の一編「浜辺のパラソル」だけを抜き出し、大判の絵本に仕立てたものが旬報社という出版社から刊行された。装画は『青のクレヨン』と同じ加藤千香子さんによる。
やはりこの本も青が基調になった、目に入りやすい本であった。

■2002/07/02 共感できる東京論

“極私的東京本集成”というコンテンツを作って、自分が持っている都市東京を論じた書物をまとめているくらいだから、これら「東京本」が嫌いなはずはない。
また、これら東京本のなかに、好悪に関する多少の差はあっても、一読して即本を投げ出すといった極端に厭わしい本もない。
逆に、楽しめこそすれ、論じられている考え方そのものが自分の思いにぴたりと合致するような東京本も滅多にお目にかかれないのも事実である。

そのなかで、このほど読み終えた出口裕弘さんの『私設・東京オペラ』(筑摩書房)は、数少ない賛同本であった。読みながら思わず「そうそう」「なるほど」とうなずく箇所がこれほどまでに多かった東京本も久しぶりである。

たとえば最近読んだ東京本として小林信彦さんの本がある。小林さんは1932年両国生まれのばりばりの江戸っ子、下町っ子だ。その観点から、現代の都市東京の変遷を「街殺し」の一語で表現する。
たしかにこの小林さんの議論は支持されるべきものであって、東京の破壊者たちに向けられる憎悪の込められた批判は、むしろ憎悪される側に属するであろう私ですら爽快さをおぼえるほどだ。

ただ、ここまで現代の東京を酷評されてしまうと、最近になってその東京に住まいを移して、東京生活を楽しみたいと考えている私にとって興趣を殺がれる面がないとはいえない。
やはり「街殺し」が行なわれた以後の情緒が失われた都市東京をも前向きに受け入れる、そんな論者を待望していたところがあった。
そこに出口さんの本を読み、この人こそが待ち望んでいた、私の考え方にフィットする東京論者であると喜んだのである。

さて出口さんは1928年に日暮里に生まれ、就学前に荒川の東、葛飾に転居した。1945年3月の下町大空襲では荒川の西側一帯が焼け野原となった。
出口さんはこのとき、空を真っ赤に焦がして真昼のように明るく炎上する西の空を、防空壕からときどき這い出しては見ていたという。
東京の葛飾に住んでいながら、荒川の東は空襲の範囲外だったというこのズレが、出口さんの都市東京を見る眼を規定しているものと思う。

長じて旧制浦和高校に入学した出口さんは、他の、たとえば山の手の人間と同じく東京出身と括られる。大学のフランス語教師となって最初に赴任したのは札幌だった。東京に戻って一橋大学に着任後は、東京の西郊調布に住まいを構えたという。
東京生まれ東京育ちでありながら、このような経歴によって、東京を外側から眺め、雑踏を楽しむといった姿勢を身につけられたのだろうか。

出口さんの東京を見る分析軸はユニークなものだ。
よくある下町/山の手とは異なり、それをも含みこみながら意味的にも若干異なる東/西という観点で東京を把握する。
これは上記のような経歴と無縁ではなく、本書収録の「下町から―生れ育ちのこと」というエッセイに詳しい。そうした把握によって、次のような東京像が描かれることになる。

よくも悪くも、東京は統一体など形成してはいないし、アメリカ風の画一主義とは、縁もゆかりもない。雑多、雑然、と評してもよく、群雄割拠と言ってやってもいい。(「東京、この気むずかしい恋人」、p22)
東京は、一国の首都としては品格を疑われるほどの複合体・多面体で、異質なものがあきれるばかりに混在しているから、そのうちの二つや三つ引っぱり出して非難攻撃してみても、全体としてはさっぱりこたえる風がなく、それどころか、非難論難をいい栄養にしていっそう頑健になってしまうようなところがある。つくづく、変な、そして変な分だけ、面白い街だ。(「原宿」、p105)

このように現代東京を肯定的に受け入れ、積極的に歩き回る。原宿だって、たんなる田舎者の町としりぞけず、「群雄割拠」「多面体」の一面として愉しむ。

出口さんの移動手段は車ではなく、もっぱら電車と足を使う。
無名の人間としてひとりきりで東京を歩き回る。あまり一ヶ所に長居せず、気の向くまま、行き当たりばったりを押し通す。そうして歩けば歩くほど妙に充実した気分になってくる。
「どこかにデカダンスの澱をよどませ、退行の安堵感をひそませている」「孤独な街歩きの快楽」である。

いま、荷風のほかに拠るべき人が見つかった嬉しさを味わっている。

■2002/07/03 ボクガイチバン、ウフフフッ

タイトルに掲げた奇妙な言葉は、これから紹介する物語の主人公が、小学一年生のときに出演した学芸会で発した台詞である。彼にとってこの学芸会の晴れ舞台は生涯唯一のもので、それゆえ頭に残り、ときおり文脈とは無関係に独り言のようにこの台詞をつぶやく。

松山巖さんの長編小説『日光』(朝日新聞社)を読んで上の台詞に接した。この作品、なんともわけのなからない小説だった。わけのわからなさは上の台詞に象徴されている。
ただ、幻惑されつつわけがわからないなりに読み通せたことは収穫だった。
というのも、このところ松山さんの本は手をつけても途中で挫折してばかりだったからだ。『世紀末の一年』(朝日選書)しかり、『まぼろしのインテリア』(作品社)しかり、『路上の症候群』(中央公論新社)しかり。それにしてもなぜ読み通せたのか、不思議でならない。

松山さんご自身が投影されているとおぼしき終戦の年生まれの主人公、開発の進む街のなか、関東大震災直後に建ててそろそろガタがきている陋屋に一人住まい。新聞や雑誌に「デタラメ小説」や身辺雑記のようなエッセイを書いて暮している。

彼女であるX+C(エクスタシー)子と奥日光の温泉旅行に行く計画を立てた。しかしその当日彼女と連絡がとれない。仕方なく一人で日光に向かう。そこで出会う奇妙な人々。
ローティーンに見える少女とフランケンシュタインのような怪物男のカップル、怪物男は硫黄泉に浸かったらしぼんだ。実は千姫と藤村操の生まれ変わりだという。なるほど日光に縁がある。
それを追う三人の不審な男たち。実は彼らは見猿・聞か猿・言わ猿の化身で、自称千姫・藤村操のカップルは、実は実は眠り猫と雀の彫り物の化身なのだという。

彼らをかくまったり、猿たちに自宅軟禁されたり、ともかくストーリーがあるようでないようで、わけがわからない。
どのような意図を持って松山さんがこの小説を書いたのか、まったく想像がつかない。

この本を堀江敏幸さんが書評している(「闇のなかの堂々めぐり」『本の音』所収)。
一読、そうそう、そういう小説だと思うけれど、やはりそれでも輪郭ははっきりしてこない。
珍しくブルーブラックのインクで印刷された本書の字面が内容を圧して強烈な印象を残す。この本を読んだ直後、普通の黒インクの本を見たら、なぜか文字が茶色に見えた。

■2002/07/05 性問題誇大関心症老人独白録

ものすごい本に出くわした。これは奇書中の奇書と称してさしつかえない。
その本とは、『金子光晴 金花黒薔薇艸紙』(小学館文庫)だ。

本書は、桜井滋人さんが詩人金子光晴の談話を話し口調そのままに書きとめたいわゆる聞き書きであり、昭和49年7月から一年間『週刊ポスト』に連載、翌50年に集英社から刊行されたものだという。
金子さんは当時八十歳。本書が刊行されたその昭和50年6月に、気管支喘息による急性心不全で逝去されたから、最晩年、ほとんど絶筆(とは正確にはいえないけれど)のようなものである。
最終回(「男と女」)にも、喘息が出たといった告白があって、直後の死を知っている者にとってはその死を予感させるものとなっている。

聞き手に「おのし」と語りかける口調の楽しさや、ときおり話に交じる「ヒイッヒッヒッ」といういかにも猥褻そうな笑い声といった文章としての面白さはもとより、内容がとてつもないエロ話満載で、ひたすら圧倒されてしまった。

これが本当に「不立」になった八十翁のやることなのかというほど、エロへの関心が旺盛なのだ。
性的な夢を見た話やら、覗き部屋体験、ストリップ体験、過去の性体験(それも普通じゃない)の回想、マッサージ体験から回春法開陳、淫本の話、おならの話、幻聴・幻視体験、素人娘・玄人女・人妻との体験談、食欲と性欲の関係などなど、ポルノなどを寄せつけない無敵の“性談大系”である。

金子さんは知人から、老年になっても性への関心の尽きない姿に対して、タイトルに掲げたように「性問題誇大関心症」と命名された。
八十になって「性欲って何だろうーって、最近ぼくはまた改めて考え直したよ」というのだから恐れ入る。エロス=生であることを再認識せずにはいられなかった。

このことは裏返して極論すれば、性欲がなければ生きている価値はないということになる。最終回「男と女」がそれを象徴している。
だから、以下に掲げる本書最後のセンテンスは、そのまま金子光晴が自分自身に下した死の宣告でもあるのだ。

女ってのは、欲ばりだってことは、ぼくにも、わかってたけど、こうまで図々しい生きもんだとは、思わなかったね。うん。だから、ぼくは、ちかごろ寂しいんだよ。ゼンソクもぶり返しちゃったんだよ。

■2002/07/06 川への畏怖

川という自然の前に身を置いたとき、わたしたち人間がとる行動としては、大きく分けて二つのパターンがあるように思われる。
ひとつはその川を遡ろうという衝動、いまひとつは逆に川を下ろうという衝動(このさい河畔にたたずむとか、川面に石を投げるとか、飛び込むといった行動は除外する)。

これをそのまま性格分析に適用するのはいささか強引に過ぎようが、あえてやってみれば、前者は物事の核心にまで深くメスを入れようとするタイプ、後者は物事をより広い視野に立って見つめなおしてみようとするタイプといえようか。

この性格分析とはまったく関係がないけれど、『川の旅』(青土社)を書いた池内紀さんは前者にあたるとおぼしい。私は断然後者だ。
『川の旅』は日本全国北海道から沖縄までの河川の探訪記である。
山歩きが好きでこれまではもっぱら山に関するエッセイを書かれていた池内さんに川のことを書かせた編集者のクリーン・ヒット。
川という自然と向き合うことに慣れている日本人、そのさまざまな向き合い方をいつもの淡々とした筆致で描いた、楽しい紀行エッセイだった。

さて先の話に戻れば、池内さんは辻まことがエッセイ「多摩川探検隊」で多摩川の源を探索したことを書いているのに触れて、自分も同様の経験があることを告白している(「はじめに」)。池内さんの場合、故郷播磨の夢前川だったという。

わが身をふりかえってみれば、川の源はどこにあるのだろうと考えたことはほとんどない。むしろ、この川を辿った先では、どんな川とどんな合流のし方をするのだろうという興味が勝っていた。
私は少年の頃、なぜか「合流点好き」だったのだ。

私の住んだ山形市北辺の学区には、市内を流れる馬見ヶ崎川(芋煮会の名所)が、山形市の北東にある高瀬地区(映画「おもひでぽろぽろ」の舞台)から流れてきた高瀬川と合流する合流点がまずあった。
別々に流れている川がある一点で交わり、一つの川になる、そういった点にロマンのようなものを感じていたのだ。

馬見ヶ崎川と高瀬川が合流したあと、その川は名前を白川と変え、私の通った中学校を取り囲むようにして北から西のほうに流れの方向を変える。中学校の校歌には、「♪白川よ 水清らかに 陽に映えて」という歌詞が織り込まれていた。
さて白川はその先、学区の辺境、山形市の隣中山町との境で、蔵王から流れてきた須川とまた合流する。
この合流点があったあたりを「船町」という。そのむかし、河川水運で栄えていたらしい。
合流後の川はそのまま須川を名乗るが、それもつかの間、本当にすぐに今度は山形県内を滔々と流れる大河最上川に合流する。だから「船町」の存在意義があったわけだ。
最上川にとってみれば、このように県内を流れる中小河川を集めるからこそ、あのような水量たっぷりの大河となるのだろう。

私は自分の学区内にあるこれら合流点を眺めながら、自転車で川沿いを下って行ったことを思い出す。
自転車で数十分走る間に、合流点という自然の神秘を三つも見ることができた。合流するたびに川は大きくなり、最後には最上川となる。
最上川沿いのサイクリングコースから、須川と最上川の合流点を眺めながら、ある畏れのようなものを感じてブルッと身震いした。
最上川という川は、そういう畏怖のような感覚を人間に与える川であった。

■2002/07/08 旺文社文庫内田百間作品集完集への道

先日『百鬼園寫眞帖』(旺文社)をめでたく入手したことによって、旺文社文庫の内田百間作品集がすべて揃った。
このシリーズは百間の作品を単行本別にほとんど網羅したもので、本編全39冊に加え、同シリーズの編者で百間の高弟である平山三郎さんによる評伝・回想録『実歴阿房列車先生』、平山さん編にかかる書簡集『百鬼園の手紙』、同じく座談集である『百鬼園よもやま話』、同じく知己による回想文集『回想の百鬼園先生』、平山さんと並ぶ高弟の中村武志さんによる評伝・回想録『百鬼園先生と目白三平』の別巻ともいうべき5冊をあわせ、計44冊の文庫が出ていた。
これらの蒐集については1999年3月に“品切れ文庫本の世界”にて、一覧表にして途中経過の報告をしたことがある。

ところで『百鬼園寫眞帖』は文庫ではなく、A5判上製の立派な本である。だから本来的には文庫版をすべて入手した時点で実質的に完集としていいわけであり、私もそれで満足していた。
ところが最後に入手した『新輯百鬼園俳句帖』のカバー袖に近刊予定としてこの『百鬼園寫眞帖』が茶色の文字で刷られているのを見て、ひっかかってはいたのである。
ただ文庫版のリスト(同シリーズに挟み込まれてある作品集のフェアちらし)にはこの『百鬼園寫眞帖』は見当たらず、自分のなかで同書は長らく幻の本となっていた。

かくてこの春先、幻の本が実物となって私の目の前に出現した。やましたさん、やっきさんと練馬方面の古書店めぐりをしたさい、練馬駅近くの古本屋「古書・遥」にて実物を発見したのだ。
幻だとばかり思っていた本を手にとったときの感動は筆舌に尽くしがたいものがあった。
おりしもその前の月に、文庫版最後の一冊であった『新輯百鬼園俳句帖』を入手してすべて揃ったと喜んだばかり。
見ると装幀が文庫版シリーズと同じ田村義也さんによるものであり、巻末には文庫版のリストが掲載されているから、たとえば講談社の『江戸川乱歩推理文庫』における特別補巻『貼雑年譜』のようなものであると見なすことができる。
旺文社百間作品集の特別補巻。これを買わないでいられようか。

といいつつ、そのときは熟慮のすえ結局見送った。いっときの衝動で購入するには値が張るものであり、またその後も訪ねるべき古本屋があったからだ。
夏のボーナスまで待って、それでも店に売れ残っていれば購入しようと我慢した。あえて取り置きもしてもらわなかった。この間もし売れてしまえばそれも縁と諦めようと思ったのである。我ながら大人になったものである。

季節はめぐり夏のボーナスの時期が到来した。
古本屋めぐり第二弾を敢行しようという話になったとき、今回は練馬界隈はルートから外れているため、やましたさんの手を煩わせて、同書をとうとう購入してもらった。無事に残っていてくれたのであった。
やましたさんから現物を手渡されたときの嬉しさ。一からこのシリーズの文庫本を集めようと思い立った昔が頭をよぎった。……

     ☆     ☆     ☆

……このシリーズ蒐集の第一歩を踏み出した記念すべき日は、日記を検するかぎり1990年4月6日のことであった。今から12年前である。
一冊目は『冥途・旅順入城式』。代表的な小説作品集であることもあり、シリーズ中でも比較的入手しやすいうちの一冊だろう。当時アルバイトをしていた仙台の古本屋から購った。

この店での私の主要な仕事のひとつは、文庫本を作者の五十音別に並べられた棚に品出しすることであった。体力的に疲れるけれど、私にとっては楽しい仕事であり、いまに続く文庫本好きはこの体験に発するものに違いない。
品出しでは、その日以前にも同シリーズを何冊か並べたように記憶している。ただそのときは集めようとまでは考えておらず、あとで思い起こして悔やんだのである。
品出しのときに目に止まったものを出す前にキープして、きちんとお金を払って購入する。古本屋人として多少ずるいやり方ではあるが、古本屋でバイトをする以上それくらいの旨みがないと続けていくことはできない。

その後4月13日には『阿房列車』、5月1日には『第三阿房列車』『百鬼園随筆』、6月19日には『続百鬼園随筆』『鬼苑横談』をそれぞれバイト先で入手している。
『鬼苑横談』を除けば、やはりいずれも入手しやすい巻ばかりといってよい。

もちろんバイト先ばかりでなく、オートバイを駆って精力的に仙台市内の古本屋めぐりもしていた。先輩から家の近くに古本屋があるぞと教えてもらっては駆けつけてみたり、一定期間を置いて定期的に通ってみたり。
9月15日には、そうした古本屋から『船の夢』『沖の稲妻』『菊の雨』『百鬼園先生よもやま話』四冊をゲットしている。

その後11月29日にバイト先にて『北溟』、翌年1991年の3月には市内の古本屋にて『随筆新雨』、6月5日にはバイト先にて『東京焼盡』、6月21日には、仙台駅前のデパートで開催されていた古本市で『ノラや』を入手した。

また、就職試験などで上京したおりに東京の古本屋などに立ち寄ってチェックすることも怠っていない。
しかし有名古書店で見つける同シリーズは、概して高額に値付けされていて(1000円〜1500円)、おいそれと手を出せるようなものではなかった。

同年11月28日にバイト先で『王様の背中』、翌1992年2月2日には同じく『第二阿房列車』を入手している。
後者からは、挟み込まれていた同シリーズのフェアちらしを初めて発見し、日記には「眺めているだけで購買意欲の沸く貴重な資料であって、嬉しい」と書きとめている。

また2月29日には『鶴』をバイト先から入手した。種村季弘さんが解説を書かれていることでかねがね欲しいと思っていた本である。
つづいてバイト先では3月8日に『無弦琴』、6月15日に『贋作吾輩は猫である』、7月19日に『有頂天』を入手している。いっぽう市内の古本屋では5月23日に『実説艸平記』を入手した。

過去の日記からわかるのは以上のことである。
仙台時代の後半(とくに結婚後)から東京に移ってきた九十年代の後半は日記を記していないため、この間に入手したものがあったかどうか記憶が定かではない。実際冊数の計算が合わないから、何冊か個別に入手していたには違いない。

そしてわが「旺文社百間文庫蒐集史」のなかでの最大の事件が1999年12月30日に起きた。年末年始で山形の実家に帰省中、実家近くのブックオフでの出来事である。
このときの記録は、いま「読前読後」を書く前に別のところで書いていた「東京物欲見物欲漫筆」に書いている。
検索しにくいので、長くなるが関係部分を引用したい。

実家の近くで、このごろ帰るたびに立ち寄っている寿町店(―ブックオフ、後注)にもいちおうまた行ってみようと、何気なく入って文庫の棚を見回して一驚。「う」の場所に旺文社文庫百間シリーズがびっしり並んでいるではないか。
興奮しながらも冷静に、いったん家に走って取って返し、Personal URL≠フ「品切れ文庫本の世界」に載せていた百間文庫の一覧にて未入手のナンバーをチェック、再び店に戻ってそれらを無事に入手することができた。
値段は一冊150〜200円の格安価格。普通の古本屋ではその10倍の値がつくそれら百間文庫を、2500円足らずで13冊も手に入れられるとは。しかも美本ばかり。幸運にも不所持のものが多く並んでいたために、百間文庫中未入手のものはあと2冊とあいなった。

このとき入手したのは以下の13冊。
凸凹道/丘の橋/鬼園の琴/無伴奏・禁客寺/いささ村竹・鬼苑漫筆/クルやお前か/つはぶきの花/けぶりか浪か/波のうねうね/馬は丸顔/麗らかや/残夢三昧・日没閉門/居候匆々

この時点での残り2冊とは、先述のように結局最後に入手した『新輯百鬼園俳句帖』と、別巻の『実歴阿房列車先生』であった。
『実歴』の古書価は2000円と高い。店は憶えていないが、残りわずかになって、今まで目にしたこともないものだったことと、懐に余裕があったからか、意を決して購入したことをおぼろげながら思い出した。『百鬼園寫眞帖』を除けば一冊の値段での最高額はたぶんこれだろう。
『俳句帖』は池袋サンシャインの古書市で見つけた。こちらは1000円だった。

1990年から今年2002年まで、足かけ13年にわたる旺文社百間文庫探索はようやく幕を閉じた。
嬉しいのは、これだけの冊数のシリーズをゼロから始めて自分の足でこつこつと、しかもあまりお金をかけないで集め得たということである。
いまや欲しい本は在庫さえあれば(そしてもちろんお金があれば)ネットで検索できるご時世だ。私は、ネットで古書を探索することにも古書探索の楽しみがあることは認めており、以前そのことはここに書いた。
この考え方はいまも変わっていないけれど、あらためてふりかえると、このシリーズを完集した達成感はやはり格別のものがあるのである。
さあ、あとはゆっくり、読むことを愉しもう。

■2002/07/09 句会は愉し、句作は厳し

小林恭二さんの二著『俳句という遊び―句会の空間』『俳句という愉しみ―句会の醍醐味』(いずれも岩波新書、以下それぞれ『遊び』『愉しみ』と略す)を読み終えた。
『遊び』がアンコール復刊されたことをかわうそ亭さんのサイトで教えてもらったのでさっそく購入し、ちょうどそれを読み終えた頃、うまい具合に『愉しみ』を古本で入手したのである。せっかくの機会だから続けて読んだ。
いずれも一流の俳人(歌人も含む)が会して催された句会の記録である。

このうち『遊び』のほうは新刊のとき(91年)に購入したが読まないまま売り払ってしまったため、手元になかったのであった。
当時は小説家小林恭二の奇想溢れる小説(『電話男』『小説伝』など)の熱心なファンで、その流れで小林さんの著作を買ったのである。これによって小林さんが学生時代俳句を作っておられたことを知ったのだった。

もっとも最近読んだ小林さんの著作は、黙阿弥歌舞伎のガイド『悪への招待状』(集英社新書)だから、このところ私はもっぱら紹介者としての小林さんの側面にばかり注目していたことになる(もっとも三島賞受賞作『カブキの日』は読んだ)。

『遊び』が自分の心を動かしたのは、春先にYoさんの「ポプラ句会」でのインターネット句会に一度だけ参加した経験があったゆえである。
俳句なんてほとんど作ったことがないずぶの素人をあたたかく迎えてくださった皆様には感謝してもし尽くせない。

小林さんは『愉しみ』のなかで、「俳句とは個人が独力で生む文芸というよりは、関係性から生まれる文芸だからである」と定義したうえで、こんなたとえ話を持ち出している。

その点、俳句は野球にたとえられるかもしれない。ひとりで野球の練習をすることはできる。野球を学ぶこともできる。しかし、ひとりで野球をすることはできない。俳句もまた同じである。俳句の練習をすることも、学ぶこともひとりでできるが、ひとりで俳句を完成させることはできない。(144頁)

インターネットの掲示板上という、実際に顔をつき合わせて丁々発止する空間に比較して「関係性」の薄い場であるとはいえ(だからこそというべきか)、句会というものを体験した身にとってみれば、上の小林さんの定義は深くうなずくことのできるものである。

句会という場でこわごわと自句を批評の俎上に載せ、また他人の句を選んであれこれ論うということはなんとも不思議な、愉しい体験だった。

ただそのときは、「ポプラ句会」というすでに濃密な関係性の構築されていた場に、インターネットというブラックボックスの助けを借りてようやく飛び込んでいけたことと、生来の人見知り小心者という性格があいまって、投句が終わってからの批評の場にうまく溶け込めなかったという思いが残った。
その後句作からはすっかり遠のいてしまっているが、これは現実生活のうえで句をひねる精神的余裕が減退したこともあるが、いま二つの本を読んで思うに、こうした関係性なるものの大切さを肌身で感じたからなのかもしれない。

ことほどさように句会はすこぶる愉しい反面で、そこに参加するために必要な句を作る営みは生半可ではない厳しいものであることを思い知ったのだった。
「気楽に作ればいいじゃない」という声もあろうが、やはりそのなかにも言葉に真摯に向き合い、言葉と言葉の関係を緊密にして一つの情景を浮かび上がらせる精神の運動はいささかも失ってはいけない。それが俳句だろう。

これで俳句というものを敬遠するようになったかといえばまったく逆で、あらためて俳句の面白さを教えられたという思いが強い。今度頭に句を作ろうという衝動が湧き上がってきたとき、この二著を読んだ体験がものをいうに違いない。

余談だが、『遊び』に登場する詩人・俳人高橋睦郎さんには一度お会いしたことがある。約一年前に北鎌倉の澁澤龍彦邸を訪問したとき、ちょうど澁澤邸をスケッチにいらしていた。寡黙な姿が印象的だった。
また、『遊び』『愉しみ』の仕掛け人である岩波書店新書編集部の川上隆志さんには一度酒席でお会いし、お話をうかがったことがある。
ある偉い日本史の先生が新書を出したその担当がやはり川上さんで、その先生がシンポジウムに参加されたさい、川上さんも一緒に出席されたのだ。私は学生で、シンポジウムの裏方として働いていた。
その頃出版社に入って編集者になるのを夢見ていた私は、川上さんからいろいろとアドバイスを頂戴したように記憶している。

また、そのとき川上さんの一押し本として、平出隆さんの『白球礼賛』を薦められた。
その直後購入して読んだはずだが、この本もいまや手元にはない。

■2002/07/10 筒井康隆のショート・ショート

筒井康隆さんの『自選短篇集2 怪物たちの夜(ショート・ショート編)』(徳間文庫)を読み終えた。
いまのところ隔月で刊行されているこの自選短篇集、先に刊行された第一弾ドタバタ編『近所迷惑』も購入直後に読み終えており(感想は5/22条参照)、まだ二冊目ではあるが、私にしては珍しく律儀に刊行→購入→読了というサイクルを守っているシリーズとなっている。

偶然藤原龍一郎さんもこの『怪物たちの夜』を読まれているところだということを知った。藤原さんはここに収録されている作品群が出た当時に読んでいるという筋金入りの筒井読者であり、初読時の思い出話などを興味深く拝読した。
藤原さんは初期筒井作品のファンで、『虚航船団』以降はあまり読まなくなったという。私は先日書いたとおりそのまったく逆で、むしろ『虚航船団』以降の実験的作品群に飛びついた口なのである。

だからこの『怪物たちの夜』収録の初期作品群はいずれもまったくの初読の作品ばかり。
八十年代後半から九十年代にかけての筒井作品愛読者で、かつ初期の活躍を知らない私のような人間にとってもなかなか興味深い作品集だった。

本集は乱歩に認められたという伝説のデビュー作「お助け」(60年6月)から、新しいものでも76年に発表された作品まで62編が収録されている。いまから実に25〜40年前に発表されたものなのだ。それがいま読んでもほとんど古びないのだから驚異というほかない。
タイムマシンのようないまでは手垢のついた感のあるSFネタや、当時の世相を諷刺した全学連ネタなどの時事的なものですら、いまでもパロディ作品として十分通用しよう。
「お助け」などはいかにも乱歩が好みそうな主題だなあと思わずにはおれない。

筒井さんが兄弟で出していた(ということを巻末対談で初めて知った)同人誌『NULL』に発表された「お助け」や「衛星一号」は人間の深淵を見据えた、意外にシリアスなもので、九十年代の深層心理学的な手法を取り入れた作品と見紛うものである。

とかいいながら、個人的には「亭主調理法」のような笑える作品が大好きなのであった。

■2002/07/11 猫小説の距離感

猫の出てくる小説を読むと、「それでは犬の場合は」などと対比する思考回路が発動してしまうのはいかにも月並みだけれども、そういう月並みな頭しか持っていないから仕方がない。
平出隆さんの『猫の客』(河出書房新社)を読んでのことである。

本書の帯には「魔術的私小説」という惹句が書いてある。
「魔術的〜」(マジック〜)という文学作品の一範疇の定義は相変わらず私にはどういう意味なのかわからないのだが、後半の「私小説」ということでいえば、たしかにこの作品は平出さんご自身とおぼしき、出版社勤めを辞めて物書きに専念しようとしている主人公とその妻の生活の中に、物理的にも精神的にも隣家の猫が入り込んでくるという話には違いない。

これが自分の家で飼っている猫ではなく、隣家の猫であるという点にリアリティを感じるとともに、うまい距離の取り方だなあと思わずにはおれない。
ここで犬との対比を出すことになる。犬は人につき、猫は家につくとよく言われる。
主人公は東京郊外の緑深い場所にある大邸宅の地所の一角に建てられた離れの家に借家住まいをしている。大家さんである邸宅には、寝たきりのお爺さんと、実質的に大家さんとして応対しているお婆さんという老夫婦二人が住んでいる。
ある日、お爺さんの病気のこともあって夫婦で老人ホームに移ることにしたため、地所を売り払うことになった。自然借家住まいの主人公夫婦もそこを離れざるを得なくなる。

彼らの借家という「家」についた隣家の猫(名をチビという)は彼らが越してしまったあともやってくるに違いない。
そこに彼らがいなくなったのを発見してチビはどう思うのか。想像すると胸が締めつけられるような気分になる。

物語はその延長線上で、引っ越しの日、主人公夫婦とチビの涙の別れという場面がクライマックスになると思いきや、そうではない。
友人のパーティなどで一日家を空けなければならなかった日があった。餌を出していたのだが減っている形跡がない。その後もチビは顔を見せない。
不審に思って隣家の男の子に聞くと、チビは交通事故で死んだという。
別れを湿っぽい場面として出現させるのではなく、過去の、しかも突発事件として呈示する。もちろん妻は悲しみにくれるのだが、小説の場面としてはドライに過ぎてゆく。なるほどなあと思った。

その後物語は、本来チビを飼猫としていた隣家の家族とのわだかまりなど、多少の浮き沈みがあって進行してゆくのだが、最後は突如としてチビの死んだ日に対する疑問を主人公が抱いたところでそのまま終わってしまうのだ。
まるで乱歩の「陰獣」のようだ。

この猫との交流をエッセイのような文章に仕立ててある媒体に発表していたため、それを読んだ隣家の家族が、まるで自分の飼猫を他家に取られたように感じたのではないかと主人公は推測する。そして彼はその猫に関するエッセイの連載を中断することにした。
それがすなわち本作品の前半部にあたる部分だと、小説の中でも触れられている。
つまりこの作品と、作品中で執筆されている作品が入れ子状の重層性をもっているわけである。

末尾にある初出を見ると本作品は『文藝』に一気に掲載されたものらしい。
それ以前に、作品中でも触れられているような原型作品が連載されていたということなのだろうか。あるいは、連載という事実は本当はなくて、それは作品中でのみ語られたフィクションなのであれば、私小説のように見えてそうではない、平出さんによって仕組まれた罠がそこにあるということになる。
むしろそう考えたほうが隣家との精神的な軋轢も際立たされるということになるだろう。
その手法が「魔術的」というのであれば、たしかに「魔術的私小説」という範疇の作品を認めたいような気がする。

■2002/07/13 読める時評

モシキさんは吉田健一の『時をたたせる爲に』(小澤書店)を評したさいの最初のひと言として、「吉田健一の本にはいつも同じことが書いてある気がする」と書かれている。
たまたま、昨日読み終えた吉田健一の『大衆文学時評』(集英社版著作集第15巻所収)について、読みながらそれに類することを考えていたところだったので、思わず共感して、笑ってしまった。まったく吉田健一は同じようなことを飽きずに繰り返している。
もっとも、繰り返しながらも、読むほうに読み飛ばしさせない力を持っているのだから吉田健一の筆力はまったく素晴らしい。

本書『大衆文学時評』は、昭和36年(1961)4月から同40年(1965)7月まで毎月、足かけ五年間にわたって読売新聞夕刊に連載したものをまとめたものである(巻末解題参照)。
タイトルにあるように対象はいわゆる「純文学」と区別されるところの「大衆文学」というジャンルの作品群で、たとえば時代小説、歴史小説、推理小説、SF、現代の風俗小説などといったものだ。
もっとも吉田は純文学/大衆文学というジャンル分けに懐疑的である。
すなわち、読める小説と読めない小説、分けられるのはこの二つだけであって、むしろ「大衆文学」の作家のほうに読める小説を書ける人がいるという評価を下す。

文芸時評というものはそれが発表された時期をのがすと鮮度を失って、後年読み返してもあまり面白さが感じられない場合が多い。よっぽど取り上げられた作品に興味がある場合か、執筆者のファンである場合以外では見向きもされないのではあるまいか。
たとえば種村季弘さんの朝日新聞での文芸時評が『小説万華鏡』(日本文芸社)としてまとめられているけれども、種村ファンの私ですら、これをいま通読しろと言われればきついかもしれない。
ただこれは評者の責任ばかりではなく、取り上げるべき文学作品自体に原因を求めるべきであろうか。

その伝でいけば、この約40年前にものされた吉田健一の時評はいまでも読めることは稀有なことだということができる。
当初は拾い読みでもしようと気楽にパラパラとめくっていたのだったが、書かれていることがあまりに切実な問題なので居住まいを正して最初から通読することに路線変更したのだった。
「切実な問題」というのは、ここでは詳説を避けるが、たとえば歴史小説をめぐって、「歴史」と「歴史小説」の違い、「歴史家」と「歴史学者」の違いなどに痛烈な批判の矢を放っているあたりである。

さて吉田健一のいう読める小説とは、そこに人間がいなければならないということに尽きる。
確固たる人間が描かれ、その人間がいかにも私たちの日常と同じような考えをもち、行動する。読んでそれがはっきりとした輪郭をもって浮かび上がるようなものが小説なのだという。
この考え方こそ、それこそ金太郎飴のごとくどのページをめくっても出てくるという物言いが極端でないほど繰り返し本書のなかで説かれている強調点だ。

だから彼は推理小説のなかでも、エラリー・クイーンのようないわゆる「パズラー」系の謎解き主体の小説は小説として認めない。推理小説としての謎を解く構造がまずあって、人間はただそのなかであたかも将棋の駒のように配置されているような話は小説ではないとする。
文章中に伏線が散りばめられていても、それをいかにも伏線として配置するのではなく、人間が物語のなかで動く自然な流れのなかに溶け込む、読んでいる者に「これは推理小説ですよ」と思わせないような物語こそ小説だという。

それでは直接吉田健一の声に耳を傾けてみよう。

小説というものは幻影を追つてこれを現実と化する術であつて、それに就て更にどういふ幻影を追はうと我々の自由であるが、先づ幻影は現実と化してゐなければならず、(…)(80頁)
我々をさうして架空の、或は我々が現にゐない世界に連れて行き、そこにも生命が、又、真実があることを示すのが小説に限らず、文学といふものであることは、何もサミュエル・ジョンソンの証言に待つまでもない。(147頁)
殊に小説といふ文学形式では、この我々の上を時間が過ぎて行き、それが要するに、人間は一通り生きた後に死ぬものといふことになる、その揺ぎない実感を伝へることが大切のやうであつて、もし小説といふものに一つの定義を下すならば、この認識を人物を描くことで伝へるのが目的である一つの形式といふことになるのかもしれない。(237頁)

このような厳しい批評眼をくぐりぬけて本書で高い評価を与えられている作家としては、司馬遼太郎・池波正太郎・鮎川哲也・佐野洋・多岐川恭・戸板康二・山口瞳・水上勉・伊藤桂一・村上元三・山本周五郎・永井路子・城山三郎・陳舜臣・小松左京・藤澤恒夫・海音寺潮五郎・子母澤寛・結城昌治・新田次郎・梶山季之・寺内大吉など各氏がいる。
さきほどの現代における時評の鮮度の問題を思い起こせば、この時期、取り上げるべき作家・作品のなんと豊饒なことか。いま読んでもまったく色褪せない作品が多く取り上げられているから、それを俎上に載せている時評も鮮度を失わない。
もちろん上記のような吉田健一独特の小説観が吐露されていることも忘れてはいけないが。

上記作家中、とりわけ司馬・池波両氏あたりは、作品が出るたびにいつも高く評価されているし、そうした「吉田健一お気に入り」の作家としては、戸板康二・鮎川哲也・多岐川恭・水上勉・結城昌治・新田次郎氏などがそうである。
また、山口瞳さんは「文学といふ仕事をしてゐるという意識がはつきりしてゐる」作家として、かなり期待を寄せられているふしがある。

SFでいえば小松左京の作品も激賞されていて、小松左京を紹介した文章などを探してみると、初期作品をここで吉田健一に高く評価されたことが、彼の作家としての地位を不動のものにしたらしいのだ。

いっぽうこの吉田健一の批評眼ですれば、山田風太郎などはどうなのだろうと考えてしまう。ところが月報に掲載されている尾崎秀樹さんの文章(「吉田健一の大衆文学観」)によれば、かなり偏向的に切り捨てられていた側に山田風太郎は含まれるらしい。
その他ここに属する作家としては、五味康祐・柴田錬三郎・南條範夫・山手樹一郎がいるという。なかなか興味深い。
ただ、後年の「明治物」などを吉田健一が生きていたらどう評価するか、興味があるところではある。「人間が生きていない」と歯牙にもかけない可能性がなくはないが。

本書単行本は垂水書房から刊行された。そこには索引が付いていた。
惜しむらくは私の読んだ著作集版には索引は省かれていること。再読、あるいは拾い読みのとっかかりがないのが残念きわまりない。

■2002/07/15 内田百間―川上弘美という系譜

川上弘美さんの『椰子・椰子』(やし・やし、新潮文庫)を読み終えた。これまた不思議な魅力をたたえた散文集であった。
これまで読んだ川上さんの作品はいずれも不思議な味わいをもったものだったが、本書はそれを上回る変てこりんな物語ばかりが収められている。

本書は日記のスタイルで主人公の女性(といっていいのだろうな)の春夏秋冬一年間の奇妙な生活を綴ったものであり、ところどころにそれとは別立てで(といっても登場人物は共通する)掌篇が挿入されている。

主人公の一年を春季だけダイジェスト版にしてみよう。
一月一日、もぐらと一緒に写真を撮る。
八日、冬眠に入る。
二月七日、たくわん売りとすれちがう。
十六日、ベランダにジャンとルイという大きな鳥が住みつく。
二十日、たちの悪い風邪をひく。
二十一日、ジャン(ルイかもしれない)からお見舞いにカエル十匹をもらう。
四月二十三日、左腕の傷口から白い砂のようなものがあとからあとからこぼれ出すので病院に行く。

こんな調子で主人公の一年が過ぎてゆく。

装幀・装画を担当されたイラストレーターの山口マオさんとの巻末対談によれば、この日々の記録は川上さんご自身の夢日記がもとになっているという。
夢ということであれば、この突飛なイメージの結合もさもありなんと思うけれど、そうした夢のイメージを文章化してしかもそれで出来上がった文章から強烈なイメージを喚起させる離れ業は並大抵のものではない。川上さんの真骨頂というべきだろうか。

読んでいて「これは内田百間直系だ」と感嘆した挿話がある。十二月十六日の記述がそれ。
長いものではないので、全文引用する。

十二月十六日  雨
歩いていると、どこからか、
「蜘蛛の子を散らすっ」という声がする。
怒鳴りつけるような声である。あわてて、
「承知っ」と答えると、もう一度、
「蜘蛛の子を散らすっ」と声は繰り返して、静まった。
家に帰ると、玄関のあたりかに霧がいっぱいにたちこめていて、かばんから鍵を取りだすとますます濃くなった。
扉が見えないほど濃くなってしまったので、途方に暮れていると、ふたたび、
「蜘蛛の子を散らすっ」という例の声がして、霧はあっという間に晴れた。

どこがどう百間なのだと説明を求められても困るのだが、雰囲気が実に百間なのだ。思わず感激してその部分に付箋をぺたりと貼り付けてしまった。

川上さんの作品から百間を連想するというのはたぶん珍しいことではないのだろう。だいいち、解説の南伸坊さんがのっけから百間の短篇「山東京伝」を引き合いに出している。
南さんはこの「山東京伝」のトボけた味わいによってすっかり百間ファンになったのだという。
そして、川上さんの本書を読んで、百間がいっぺんに好きになった時と同じように川上さんをいっぺんに好きになったと書いている。川上さんは文学作品の上で百間の正統な後継者といえるのではないだろうか。

よくよく考えてみると、先般新潮文庫に入った(復刊された)『百鬼園随筆』の解説が川上さんであった。やはり百間―川上というラインは何も私だけの発見ではないのだ。
この解説で川上さんは、例の「イヤダカラ、イヤダ」事件について、弟子の多田基さんの文章に拠りながら百間像を抽出している。
分析的な抑えた筆致で、川上さんの作風とはまた違った味わいの文章になっている。

このなかで、「余談だが、平山三郎氏にしろ中村武志氏にしろ、百間のお弟子はなぜみな余分なことをさしはさまず、かつ必要なことはすべて述べて、あのように余情のある文章をかけるのだろう」と書かれていることからは、やはり川上さんも相当の“百間読み”であることがうかがえるのである。

■2002/07/16 オッズは人間の叡智の結集

12日、地方競馬川崎競馬の最終レースで約88300倍の馬券が出たという。100円が883万円になるわけである。馬券の種類は三連単、つまり、ある一つのレースの一着から三着まで順番どおり当てるものだ。
先の土曜から、中央競馬(JRA)でも新馬券が発売になったということで話題になった。中央競馬の場合は三連複(一着〜三着までの馬を着順に関係なく当てる)と馬単(一着・二着の馬を着順どおり当てる)であって三連単よりは倍率は平均して落ちるが、それでもこれまでの馬券よりはずいぶん高配当の見込める馬券が導入されたことには変わりはない。

100円が883万円、何とも夢の膨らむ話ではないか。とは申せ夢は夢、皆が皆儲けられるかといえば大間違いである。
私の乏しい経験をふりかえってみても、ある一つのレースの一着から三着まで予想が見事に当たった(つまり◎=本命が一着、○=対抗が二着、▲=単穴が三着)ことなど数度しか憶えがない。ましてや予想のプロではないのだから自分の予想に責任を持つわけではない。
当初の予想が当たったレースにおいて、自分が付けた印どおりに馬券を購入しているとは限らず、発券機の前で気が変わることは十分ありうる。また、たとえ当たったとしても、大概はオッズが低い(つまり人気順の)場合がほとんどだろう。
以上を要するに、三連単は宝くじと同じで運次第だということなのだ。

オッズというものは、馬券を購入したすべての競馬ファンの叡智の結集、予想の結果なのだといわれる。あらゆる人が頭を悩ませて新聞とにらめっこしながら結論を出して馬券を購入した結果がオッズという数字に表現される。
「なんでこの馬の評価が低いの」と、オッズの高い馬を買ったらやはり来なかった。そんな時、上の言葉を痛感する。

話は変わって先日触れた吉田健一『大衆文学時評』で取り上げられた作家たちは、いずれもほとんど現在まで読み継がれている作家ばかり。
また彼らのなかには、よくのぞきにいくミステリ系サイトでも高い評価を受けて、その結果たとえば昔の作品が翻刻されたりするなど、再評価の気運が高まっている作家も多い。
ミステリ系サイトでの評価をオッズにたとえるというのは失礼なのかもしれないが、やはり定評のあるサイトでの評価というのは、競馬のオッズと同じく信頼するに足るものであるものよと、880万馬券のニュースを耳にしてつらつら思ったのであった。

■2002/07/17 古本購入のきっかけについて

以前新刊本購入のきっかけとなる三要素について書いた(2000/11/24条)。著者・内容・解説者である。
新刊の場合、購入以前にどんな本なのかという情報を比較的入手しやすいので、事前にこれを買うと決めていることが多いが、新刊書店で見かけて購入しようと決意するときは三要素は無論、加えて装幀も大事なポイントだろう。

それに対して古本はどうなるだろうか。
古本の場合は、もとからこれを探していたといういわゆる「探求書」は、事前に本の内容についての情報をおおかた知っている場合が多い。
いっぽう古本屋や古本市でたまたま見かけた本については、前記三要素(+装幀)が選り分けの一つのポイントとなるし、加えて古本の場合値段というものも購入するか否かを決断する大きな要素になる。

その他新刊と異なる古本だけの特殊な購入決定要因として、書き込み、挿入物の有無などがある。
書き込みの場合は、読むことに支障をきたさないものは措いて、書き込みした人が有名な人物であったり、書き込み内容自体が面白いといったようなことがないかぎり、不購入の要因になりがちである。
いっぽうの挿入物は一概に不購入に傾くような要因とはならず、むしろ購入を決める決定打ともなりうるだろう。挿入物とはたとえば、購入本の書評切り抜きなどのことである。

さて先日、奥村書店から渡辺保さんの『千本桜―花のない神話』(東京書籍)を購入した。タイトルどおり、歌舞伎の三大時代狂言の一つたる「義経千本桜」論である。こういう本があることは知らなかった。
金子國義さんの義経像を装画にあしらったカバーは異色で気になったのだけれど、個人的には「義経千本桜」という演目にさほどの魅力を感じていないため、購入しようかしばし本を持ちながら迷った。売値は1200円だったか。値段的には許容範囲だった。

結局購入した決め手は、その本をパラパラとめくっていたときに見つけた挿入物である。
というのも、「千本桜」の鮨屋の場のモデルになった奈良県吉野の釣瓶鮨屋(旅館弥助)の案内チラシが挟み込まれていたのであった。
これは本に最初から挟み込まれていたわけではなく、購入者がそこに行くなりして入手したチラシを挟んだものだろう(と私は判断した)。これに珍しさを感じたのが、購入を決めた要因なのである。

■2002/07/18 師弟関係、朋輩関係

ある師がいてその師を慕う弟子が複数いる。仮に弟子Aと弟子Bとしておこう。
師と弟子Aはうるわしき師弟愛で結ばれている。師と弟子Bとの間も同じ。傍目から見て羨ましく見える三人だが、実は弟子Aと弟子Bは犬猿の仲だった。
こうしたドロドロした人間関係はよくあるのではないだろうか。
つまり、師と弟子との間が良好な関係であっても、必ずしも弟子同士は仲が良いとは限らない。これは私がそのようなことがありがちな世界に身を置いているから、そう思うだけなのだろうか。

それではこの命題を逆から考えてみよう。
弟子Aと弟子Bは同じ師に師事した朋輩同士として、互いを理解したとてもよい関係にある。するとその場合たいがいは師と弟子A・弟子Bの関係は良好である。
先の命題より成り立つ可能性が高いのではあるまいか。

そんなことを考えたのも、平山三郎さんの『実歴阿房列車先生』(旺文社文庫)を読んだからなのであった。

近代文学における師弟関係といえばやはり漱石一門が第一に思い出される。次いで尾崎紅葉の硯友社か。
硯友社は措いて漱石一門に限れば、漱石と弟子の仲が険悪だという例を知らない。ただ弟子同士は仲が良かったかどうか、悪い例があるのか、これも知らない。

それに対して、漱石の弟子たる内田百間の場合、その弟子(あるいは教え子)との関係が険悪だったという話も、これまた聞いたことがない。
たとえば黒澤明監督によって映画化された「まあだだよ」を見ればいい。あれほど尊敬と慈愛の関係に結ばれた師弟関係はほかにないのではあるまいか。
今回それが『実歴阿房列車先生』で再確認できた。無愛想で突き放したようでいて、実は百鬼園先生の弟子を見る眼は暖かく、心遣いも細やかである。

阿房列車の旅で東北は盛岡に宿泊することになった。当地には教え子がいる。ところがこの教え子は身体の具合が悪くて酒が飲めない。そこで百鬼園先生は旅立つ前に次のような三つの条件付きの手紙を出した。
気を遣わないように、気を遣うなら行かない。旅館は盛岡の鉄道局で手配する。

そして最後の条件は、「僕はお酒を飲む。貴兄には飲ませたくない。飲ませたくない者のゐる前でお酒を飲むのは、僕の方で気を遣ふから、その席には招待しない」というものだった。
これに対して盛岡の教え子からは、自分で飲まないと決めているから、宴会などに出ても飲まないだけのことなので心配ご無用という返事が来た。

さて盛岡に着いた夜、鉄道局が手配した旅館で教え子夫妻などを招いて会食が催された。
百鬼園先生は最初の杯をあげて、一杯だけで教え子の盃を取り上げて自分の前のお膳の上に伏せてしまった。夫人が少しぐらいならいいんですよと言っても耳を貸さず、頑として教え子にお酌をしなかった。
このエピソードを読んで百鬼園先生の弟子を思う気持ちの強さに目頭が熱くなった。

こういう師だから、師思いの弟子がある。平山さんは自分の手で師の文集を作りたいと念願する。
戦時中応召されて北支に出征し、いつ日本に帰れるか分からないというとき、戦友だった甲府の材木会社の社長から、万一日本に帰られたお前は何がやりたいと訊ねられた。
平山さんは「自分の好きな作家の作品を、好きな装釘にした本を作る出版をやりたいな」と答えた。

その後無事に二人とも生きて帰ることができた終戦直後、材木会社の社長はそのときの話を憶えていて、金は心配しなくてもいいからあの時の話を実現しようともちかけてきたのである。
かくして昭和21年9月、平山さんが起こした出版社榜葛剌(べんがら)屋書房は師百間の『御馳走帖』を処女出版する。

このエピソードは弟子の師を思う愛情と、戦友という特殊な条件下での朋輩同士の友愛という二重の交情に支えられているまことにいい話であった。

本書『実歴阿房列車先生』は愛弟子平山さんから見た百鬼園先生の懐かしき姿であり、また、阿房列車の旅の同行者ヒマラヤ山系から見た「阿房列車註」でもある。
『阿房列車』や本書に引用されている百鬼園先生とヒマラヤ山系君の会話のとぼけた味わいは何とも見事なものなのだが、これを読んで、たぶん実際は少し違っていたんだろうなあということがわかって興味深かった。

■2002/07/19 日経、暮しの手帖、マリ・クレール

丸谷才一さんの鼎談集『丸谷才一と17人の90年代ジャーナリズム大批判』(青土社)を読み終えた。
丸谷さんがホスト役となって『東京人』誌上で行なっている座談会をまとめたものだが、このシリーズはこれまですでに六冊が単行本化されている。
一番新しい『丸谷才一と22人の千年紀ジャーナリズム大合評』(都市出版、以下『千年紀ジャーナリズム大合評』と略、他の本もこれに準ず)で触れられている書誌によれば次のごとくである(太字は所持)。

(1)『東京ジャーナリズム大批判』1989年
(2)『世紀末ジャーナリズム大批判』1990年
(3)『90年代ジャーナリズム大批判』1993年
(4)『ちかごろジャーナリズム大批判』1994年
(5)『もうすぐ21世紀ジャーナリズム大合評』1998年
(6)『千年紀ジャーナリズム大合評』2001年

なんとまだ半分しか持っていなかった。

さて今回読んだ『90年代ジャーナリズム大批判』で議論の対象となっているのは、『広辞苑』『大辞林』『日本語大辞典』などの国語辞書、『マリ・クレール』『スイッチ』といった新感覚の文芸誌、索引、ニュース番組、『日本経済新聞』、『暮しの手帖』、スポーツ新聞、逆引き辞典、大新聞の書評、『文藝春秋』である。

たとえば逆引き辞典では井上ひさし、谷川俊太郎という言葉そのものを意識的に作品に取り込んでいる文学者二人を相手に、それぞれの言葉遊びの作法などが解き明かされて興味深いものだった。

個人的には『日本経済新聞』『暮しの手帖』を取り上げた二回が面白い。
日経はこれまでまったく購読したことのない新聞であることもあって、経済紙という固定観念でしか知らなかったけれど、朝日・読売・毎日の三大紙のなかに日経を位置づけてその特性を明らかにして質の高さを評価する鼎談を読むと、一度購読してもいいかなと思ってしまう。
気になった一言。丸谷発言。

「日経」の文化欄で偉いのは新聞小説の筆者の選び方だね。文学的価値はともかく(笑)、エロで頑張らせる。大したものです。商売人だなあ。

次の暮しの手帖編も刺激的。
和田誠さんとファッションライターの川本恵子さんを相手にしての鼎談だが、『暮しの手帖』は頑固にスタイルを守り通していることによってある意味権威化している存在だから、三人にとって突っ込みやすく、また読むほうにとってもその突っ込み方(悪く言えばおちょくり方)を楽しむことができる。

たとえば商品テストではマンションを取り上げてほしかったという発言。
同誌のテストは編集部が小売店から正価で実物を買ってくることが前提となっているから、それはできない相談だった。

また川本さん・丸谷さんは同誌の書評欄に厳しい。
「選ばれる本が、ひじょうに教条主義的というか人生訓的な本ばかりになってくる」(川本)、「だいたい書評というのは難しいものであって、本職の批評家、小説家が、かなり力をこめて書かないとだめなんです。それを素人に書かせているというのは、夏休みの読書感想文みたいな気持ちでやらせているわけです」(丸谷)という具合だ。

この二人の鋭い批判に比べて、和田さんがやけにおとなしい。と思ったら、脚注にこんなことが書いてあった。
「一度、僕の著書が書評欄でとり上げられたことがある。とても嬉しかったことを告白しておきます」。道理で。
この本には鼎談のあと参加者から補足としてこのように脚注が随所にはめ込んであって、それもまた楽しいのである。

ヤスケンさんが大きく飛躍させた『マリ・クレール』、新たな文芸誌であると話題になったとき、私も興味津々だった。
でも雑誌の性格上女性誌のコーナーに並んでいるため、実に立ち読みしずらかった。したがって購入するのも勇気が必要で、結局購入したのは一冊くらいにすぎなかったのではなかろうか。

■2002/07/20 索引づくりの誘惑、そして断念

私は書誌のような著作リストや索引を作ることは嫌いではない。これはホームページをご覧いただければわかるだろう。
でも根気がなくて続かず、結局挫折することが多い。これも見てのとおりのざまで、もし期待してくださっている方がいたとしたら、合わせる顔がない。

昨日触れた『丸谷才一と17人の90年代ジャーナリズム大批判』(青土社)のなかに、谷沢永一・渡部昇一氏と丸谷さんによる「「索引」は情報化時代の鍵の束」という索引についての鼎談が収められている。
渡部さん(この人も山形出身だ)が欧米の索引文化についてこんなにお詳しい方だとは知らなかった。

このなかで丸谷さんは近代文学の作家別の語彙索引をつくってほしいと発言している。

最近、教育社が漱石、鴎外、志賀直哉、芥川、太宰の五人の語彙索引を作って、あれが便利なんです。あれで引くと、近代日本語がはっきりわかる。だから、もう少し言葉の癖のある作家、石川淳、尾崎紅葉、泉鏡花あたりの完全な語彙索引を作ってもらいたい。(99頁)

この鼎談を読んで、語彙索引ではないけれど、以前から考えていた索引づくりを実行に移してみようかと思い立った。それは丸谷さんのエッセイの人名・書名・挿話索引だ。
これがあれば丸谷さんの博引傍証の様子が一望できるのではないか。丸谷さんはこの人物についてこんなことを書いている、こんな挿話を引っぱってきている、そうしたことをたちどころに知ることができる。

でも、最新刊のエッセイ集『花火屋の大将』(文藝春秋)を読み終えたいま、やはりこの計画は自分一人の手には負えず、無謀であることを思い知った。出てくる人物が洋の東西を問わず多種多様で、項目の分量が厖大になるのだ。
項目を拾いながら文章を読み進めることつまらなさを思えば、丸谷エッセイをそんなふうに読みたくはない。

肝心の『花火屋の大将』だが、相変わらずの自由自在な話の運び方と知の奔流で楽しませてもらった。
とりわけ「不文律についての一考察」が面白い。
イチローが大量得点差で勝っているときにした盗塁が、メジャーでは「守備側の無関心による進塁」として記録されていたことなんて、初めて知ったのである。

■2002/07/23 発酵学者にまさる食味エッセイストなし

食の世界において「発酵」という作用の果たす役割ははなはだ大きいものがある。とりわけわが国はその恩恵を最大限に蒙っている国のひとつだといえよう。

先日岩波現代文庫に入った小泉武夫さんの『日本の味と世界の味』を読んで、その感を大きくした。
本書は日本の食物・調味料・酒などに、味覚や食感、製造過程の面で類似する外国の食物を対応させ、二つを一つの項目にして説明を加えたものである。
たとえば松茸/マッシュルーム、豆腐/チーズ、筋子・イクラ/キャビア、うどん・蕎麦/マカロニ・スパゲッティ、緑茶/紅茶、醤油/ウスターソース、日本酒/ワインといった日本と世界の類似した味覚が数多く並べられている。
すでにそれだけで上質の比較文化論、文明論となっている。

先ほどの繰り返しになるが、日本ほど発酵食品・調味料・飲料好きの国はないだろう。
醤油・味噌をはじめ、納豆・くさや・漬物といった「不精香」(ぶしょっか)と総称される食物、麹で作る米酢や日本酒など、日本人が好む食品の多くが「発酵」という作用を経て製造される。

いま出てきた不精香については、やはり彼我の差が大きいようだ。
もっとも納豆となると日本国内でも関西以西の人は嫌うほどだから当然といえば当然なのだが、逆に日本人もヨーロッパのヤギ乳のチーズの匂いを嫌う人が多い。
そうしたところに食物の嗜好の違いが浮き彫りにされており、興味深いところである。

小泉さんは本書のなかでとくに醤油について、日本食との関わりで大きな評価を与えているようである。
日本食を美味しく食べるうえで不可欠の調味料であるというわけで、その対比として、かわりに日本食にソースをかけると…などという仮定の話を出されると、字面を見ただけでも食欲が減退してしまう。

小泉さんは農学博士にして、醸造学・発酵学の専門家とのこと。
こうして見てみると、食の比較文化論を語るうえで発酵学者・醸造学者ほど好適な人材はいないのではないかと思える。同じく醸造学者の坂口謹一郎さんも然り。
もちろん、本書の端々からうかがえるごとく、醸造学者云々以前に、小泉さんご自身食べることと飲むことがとても好きらしいという前提は忘れてはいけないけれど。

■2002/07/29 秀逸なタイトルに抜群の面白さ

村松友視さんは作家になる前は中央公論社の社員として今はなき文芸雑誌『海』の編集に携わっていた。有名な話なのだろうと思う。
個人的にはこれまで、村松さんが担当された作家の作品や、作家・作品それぞれについて触れられた文章などを読んで、その事実を断片的に知っているにすぎなかった。

ところが先日、ある古本屋でたまたま村松さんの『夢の始末書』(ちくま文庫)という本を見つけた。
「いいタイトルだなあ」と思って手にとりめくってみたら、これが『海』編集部時代のことをふりかえった小説ではないか。即購入を決定した。

紆余曲折のすえ中央公論社に入社した(できた)村松さんは、最初『小説中央公論』という“中間雑誌”の編集部に配属となる。その後同誌の廃刊を受けて『婦人公論』編集部に移り、次いで『海』創刊にあたってその準備段階からの編集に従事することになる。

私は『海』はリアルタイムで読んだことがない。しかしそこに連載されていた本は読んだことがある(たとえば種村季弘さんの『山師カリオストロの大冒険』)。
それらを読むかぎりでは、『新潮』『群像』『文學界』といったいまも刊行中の文芸雑誌とは一線を画したユニークな執筆陣を揃えた雑誌という印象が強い。
そこには村松さんのほか、早世した塙編集長、また現在も活躍中の安原顕さんたちの力によるところが大きかったのである。

さて村松さんが担当編集者となって本書にその交流が綴られている作家には、次のような方々がいる。
幸田文、武田泰淳、野坂昭如、唐十郎、舟橋聖一、永井龍男、尾崎一雄、後藤明生、草森紳一、水上勉、色川武大、田中小実昌、川上宗薫、小檜山博、赤瀬川原平、椎名誠、吉行淳之介。錚々たるメンバーである。
しかもここに登場する作家とのエピソードがそれぞれ際立っていて、すべて紹介したいほどなのだ。なかでも唐十郎、田中小実昌、赤瀬川原平各氏とのエピソードが印象に残る。
村松さんは唐さんに小説を書かせようとし、田中さんの「ポロポロ」、赤瀬川さんの中央公論新人賞受賞作「肌ざわり」を書かせた張本人だったのだから。

繰り返すが「夢の始末書」というタイトルが秀逸である。
作家とのライブという非日常を日常生活として公私混同しながら十八年余の間生活してきた「夢のような時間」の懺悔録、それが『夢の始末書』の謂いなのである。

■2002/07/30 宇野浩二式

江戸川乱歩と横溝正史の二人が大きく影響を受けた作家に宇野浩二がいることは、よく知られた事実である。
乱歩はエッセイ「宇野浩二式」(講談社『江戸川乱歩推理文庫48 悪人志願』所収)のなかで、「横溝君も私も大の宇野浩二愛読者」たることを隠さず告白し、また、正史が「二銭銅貨」を宇野浩二が匿名で書いたのではないかと思っていたというエピソードを紹介している。

いっぽうの横溝正史は宇野浩二について何か書いているのだろうか。残念ながら手持ちの文献からは見つけることができなかった(たとえば最近出た『横溝正史自伝的随筆集』角川書店など)。

私は正史・乱歩の順で傾倒し、それがそのままわが読書道の入り口になっているから、すでにその段階で宇野浩二という名前は知っていて、気にはしていたわけである。だから岩波文庫で彼の作品が復刊されたときにはいちおう購入してはいた。
正史の短篇と同じタイトルの「蔵の中」、乱歩の傑作短篇を思わせる「屋根裏の法学士」などはかなり惹かれていたのだが、なぜか入り込めないままでいた。

最近私は関東大震災に言及した書物が気になっている。
そこにたまたま宇野浩二の戦後の代表長編と言われる「思い川」が、震災を重要な舞台背景として取り入れていることを知り、読んでみようと思い立ったのだった。
テキストは『思い川/枯木のある風景/蔵の中』(講談社文芸文庫)である。

震災との関わりはまたいずれ触れることもあるだろうからここでは触れない。
一つ気づいたのは、家の間取りの緻密な描写である。図面に基づく空間構築力というべきだろうか。これは宇野文学の特色なのかどうかわからないけれど、心覚えのために記す。
さて「蔵の中」は一読、たしかに乱歩・正史の文体を想起させる告白体だ。「二銭銅貨」云々という話もうなずける。こんな一節はどうだろう。

ああ、あの女が現れなかったら、私はあの蒲団を失いはしなかったのです。それはあの蒲団をこしらえてから一カ月余りしか立たない時のことです。
ある日、私は、未知の女から、あなたの小説を昔から愛読しているものです、(…)というようなことを、細細としたためた手紙を受け取りました。

今ごろになって、乱歩が受けた宇野浩二の影響の大きさというものを知ったのだった。