トップページ

読前読後2002年5月


■2002/05/02 干支ひとまわりして

先日の連休で山形に帰省していたとき、たまたまブックオフで小林信彦さんの『小説世界のロビンソン』(新潮文庫)が安く売られていたので、ちょうどよい機会と購入した。

本書は硬くいえば文芸評論集、もう少しくだけていえば読書案内的エッセイである。元版は平成元年(1989)三月に刊行されている。
過去の日記を検してみると、私は翌平成二年八月三日に仙台の書店で購入している。読み終えたのは翌月六日とある。
この時期の自分を振り返ると、ちょうど乱歩を経て谷崎、澁澤にはまりつつあった頃だ。ホームページ“作家覗き箱”内の「シブサワーナ日々」の時期ととちょうど重なっている。

当時は谷崎全集の大正期までの部分の読破にチャレンジしていた頃でもあり、本書の第三十二章「「瘋癲老人日記」の面白さ」などの文章に惹かれて購入したのではなかったかと記憶している。
ところが、読了日の日記を見てみるとそのことにはまったく触れていない。不審である。

小林信彦の『小説世界のロビンソン』読了。氏の「『純』文学とエンタテインメント」の境界線或いは区別に関する熱意のこもった書き方に、同感と思ってしまう。この本の中で氏が言及して(激賞して)いる『富士に立つ影』とバルザックの諸作品に興味を持つ。機会があったら読んでみたい。

十二年前の私が「機会があったら読んでみたい」と書いた作品は結局読む機会を得ていない。もっとも「読んでみたい」という思いは弱まりこそすれなくなってはいない。

乱歩などの探偵小説の世界(エンタテインメント)から読書道にさまよいこんだ私にとって、この時期は谷崎や澁澤といった、小林さんにいわせれば「『純』文学」の世界へ関心を広げつつあった。
いまは決してそうは思っていないけれど、当時は「『純』文学」への越境は自分の読書道のランクアップだと愚直に信じ込んでいた。
そのような「越境」のための架け橋、口実として本書『小説世界のロビンソン』が選ばれたのではなかっただろうか。

目次を見ると、とくに漱石文学と江戸下町言葉の文化を論じた第一部は現在の関心に向いていそうだ。読むとすればちょうど「ひとまわり」の時間をおくことになる。

■2002/05/03 国破れて国語あり

井上ひさしさんの『東京セブンローズ(下)』(文春文庫)を読み終えたいま、ちょっとした達成感、充実感を味わっている。購入時にこのゴールデンウィークで読もうと立てた目標がその半ばで早くも達成されたからだ。
ちなみに今日のタイトルは下巻の帯の惹句をそのまま転用させていただいた。

すでに本書の特質と私が面白いと思った点については、上巻の感想を記したとき(4/29条)に記したので、そちらをご参照いただきたい。

下巻は最初のページの一行目から驚かされてしまった。頭が一瞬「???」となり、思わず上巻の最後のほうを見返してしまったほどである。なるほど上巻と下巻、うまい分割の仕方をしたものだと感心する。
下巻を読み始めて一行目から驚かされ、それゆえに物語としてのドライブ感がさらに増して一気に読ませてしまう力をはらんでいる。

上巻は正字旧かなの文章を一字一句楽しみながら、戦中戦後風俗の細かな描写を味読するという愉しみ方ができた。
もちろん下巻も戦後占領下風俗の細部を愉しみながら読むという読み方は可能だが、筋の運びにそれを許さないようなスピード感、緊迫感があって引っぱられる。つまり占領下の日本において、日本語を最終的にはローマ字化しようと企む米国民政官とそうはさせまじと孤独な戦いを挑む主人公山中信介の息詰まる論戦である。

根津の一団扇屋の主人、一人の日本国民にすぎなかった信介は、戦中戦後の激動の波に翻弄されて環境が激変する。当時の人びとみながそうであったに違いないけれど、昭和20年という一年は日本の人たちにとって長くもあり、短くもある一年だったようだ。

あの団欒はもはや永久に失はれた。警報下の壕舎にあつたものが、戦さが終つて平和になつた今は、もうどこにも存在しない。考へるたびに、自分は悲しみより先に、不思議な気分に襲はれる。たしかにこの一年間になにかとんでもないことが起つたのだ。きつと「歴史の塊」とでもいふやうなものが自分たちの中を通り抜けて行つたに違ひない。(85頁)

激動の一年を振り返った、翌昭和21年1月2日の信介の感懐である。
「歴史の塊」が彼らの中を通り抜けて行ったあと、あれだけ神国日本の勝利を盲信して疑わなかった多くの国民が、一転占領軍に媚びを売り、マッカーサーを天皇以上に崇拝するようになる。
マッカーサーを「チン」(朕)より偉いから「へそ」とあだ名する日本人に対して信介は怒りをあらわにする。

つい、この間まで神と崇め奉つてゐた超絶的な存在を、さう簡単に下がかつた冗談の種にしていいのだらうか。さうしていいのは、あの時代にも、天皇は神ではないと主張してゐた者だけではないのか。天皇を現人神と思ひ、他人にもさう思へと強制してきた者が、どんな動機があつたにせよ、そば屋で天丼でも誂へるかのやうにあつさりと簡単に、天皇からマッカーサーに宗旨を変へて、その上、かつての神を笑ひを誘ふための小道具にしてしまつていいのだらうか。ひよつとすると日本人は何も本気で信じてゐないのではないか。そのときそのときの強者に尻尾を振つてすり寄つて行くおべつか使ひに過ぎないのではないか。(35頁)

このような風潮にのせられず、戦中戦後を通して一貫して強固な信念を抱き続けた信介からこうした疑問が出てくるのはごく当然なのだが、日本全体からみれば彼の考えはきわめて少数派に属するものとなってしまう。痛烈な日本人批判でもある。

フィクションではあれ、この物語のなかで登場人物たちが身を挺して守った日本語という文化は、その後日本人自らが変えていってしまったではないか。本書の筋にかりて、井上さんはそんな毒の矢も放っているとおぼしい。

読んでいて私は、主人公信介に対する激しい感情移入の念を抑えることができなかった。
忘我の境地に誘い込んで登場人物に感情移入させるのがすぐれた小説であるとすれば、本作はまさしくそれに値する傑作であったということができる。

■2002/05/04 本は人間関係

佐野眞一さんの新著『だれが「本」を殺すのか 延長戦』(プレジデント社)を読み終えた。
出版業界に波紋を投げかけた前著『だれが「本」を殺すのか』刊行後、各所から依頼を受けて行なった講演や対談・座談、インタビューをまとめたほか、各メディアに掲載された同書の書評も数多く収録されている。
だから続編というよりは補遺編、「延長戦」という言葉に即した内容となっている。

前著のタイトルが長いので『本コロ』という可愛げな略称で呼ばれているのを、著者自身も嬉々として使っていることに多少の違和感を感じなくもないけれど、まあそれは内容とは無関係だからこれ以上言うまい。
前著を受けて依頼された仕事の集成だから、本書収録の諸篇には自ずと重複する発言、主張が多く、前著のような取材に基づく臨場感あふれた叙述を期待するとはぐらかされてしまう。

だが逆に、同じ主張が繰り返し述べられることによって、佐野さんの言いたいことがより鮮明になって読む者に伝わってきた、そう感じる。
タイトル(「だれが「本」を殺すのか」)の問いかけに対する答えがそれだ。佐野さんはいく度もそれは「読者」であると断言する。つまり本を読むわたしたちなのである。この発言に、たとえば対談相手の北上次郎さんも柏木博さんも同意している。
では読者が本を殺す犯人であるという根拠は何か。それはここでは書かないことにしよう。

パソコンおよびそれを使ったオンライン(ネット)に絡んでいえば、前著でも本書でも、CD−ROM書籍やオンライン出版による「紙の書物」の危機という問題が取り上げられている。
ただ、とりわけネットと本の世界との関わりでいえば、問題をオンライン出版(モニターによる読書)ということだけに絞るのは不十分ではないかという気がしてきた。
というのも、佐野さんのこんな発言を読み、共感をおぼえたからである。

本に関してしゃべりたいと思っても、周りに人がいない。そうなると、必然的に売れている本に行かざるを得ない。要するに、本というのは人間関係だと思います。(インタビュー「本をめぐる危機、本を殺すのは、だれ?」、289頁)

つまり、本についてあれこれと話し合う「書友」が周りにいない、「この本は面白いよ」といったような本に関する情報交換がきわめて困難になってきている。
これは逆に言えば人間関係を成り立たせる契機としての「本」の役割が著しく低下してきているということだろう。結局これは本を殺す犯人が読者であるという考えに通底している。

たしかにそうだと思う。そうだからこそ私は自分で本に関するサイトを作って、本について話すことができる「書友」をネットの世界のなかに見つけ出そうとした。
幸いなことにネットの宇宙のなかで私と同じような試みをされている「書友」の皆さんと出会い、それらのサイト群が形づくる星雲の一角に身を寄せながら細々と好きな本の感想を綴るいっぽうで、面白い本の情報を得てきてもいる。

ウェブの宇宙も本物の宇宙に劣らず広い。
本好きの人びとが自分の好きな本について語っているサイトは無数にあって、そのそれぞれがやはり自分のまわりにある星雲と似たような星雲を形づくっている星のひとつであることを知って茫然とすることがある。
こうした人びとは本好きというのはむろん、やはり皆本が人間関係を形成する重要な契機であることを信じて疑わない人なのだろう。
佐野さんがもしネットの宇宙に散在するこれら“本好き星雲”の数々を知ったならば、たとえ現段階で本を殺すのが読者であるとしても、決して未来は悲観的にはならない。読者こそが本を活かす源になるであろうことを確信するのではあるまいか。

ネットと読書の関係をたんに「オンライン読書」の問題のみに限定してしまうのは、問題の立てかたとして不十分であることを知っただけでも収穫であった。

■2002/05/05 二つのタイプのはざまで

たとえば男を、女との関係、とくに別れの場面に直面したさいにとる行動においてこんな二つのタイプに分類することができるのではないだろうか。
Aは、別れるときに「君が幸せになるのならそれでよい」と別れを受容するタイプ。Bは「絶対別れない」と未練たっぷりに駄々をこねるタイプ。
私ならばたぶんBに近いと思う。少なくともAのような悟った境地にはなれない。
女性にとってみればAタイプの男が歓迎されるだろうか。相手の気持ちを思いやるタイプであることは間違いない。
でも、Aタイプは、自分の感情を理性というか合理性という言葉で鎧って押し殺していそうで、かえって不気味ととられるかもしれない。

坪内祐三さんは、前の奥さんである写真家の神蔵美子さんが、好きな人ができたから家を出たいという意思を示したとき、Aタイプのような受け止め方をしている。
「美子ちゃんはアーティストなんだから好きにすればいい」「美子ちゃんが幸せでいてくれればいい」というだけで、相手が誰であるか聞くこともなかったという。
坪内さんと神蔵さん、そしてその相手たる編集者の末井昭さんの奇妙な“三角関係”の日々が神蔵美子さんの写真文集『たまもの』(筑摩書房)で明かされ、一坪内ファンとしてただ驚くほかなかった。

坪内さんは言葉の力によって自分の世界を構築するタイプ、それに対して末井さんは、ボーとしてただただ寡黙に押し黙り、まるでブラックホールであるかのように言葉という表現方法を身に吸い込んでいってしまうという対照的なタイプであった。
神蔵さんは末井さんのもとに走っても、いつも自己主張を抑えて静かな末井さんの姿に不安を感じ、週に一度は坪内さんと行動をともにするという生活を続けていた。

それにしても不可解で奇妙な三人の関係ではある。写真だけ見ていると息苦しくなる。
しかし添えられた文章を読んでいくうちにその息苦しさは次第におさまり、これが三人の進むべき正しい方向だったのかもしれないと思えてきた。
本書の最後から二葉目、本書でもっとも新しい今年三月の松田哲夫『印刷に恋して』の出版パーティで顔を合わせた末井・坪内両氏の笑顔のツーショットが飛び切り明るくて救われる。
もちろん撮影者は神蔵さんだから、この写真がいまの三人の関係を如実に物語っているわけで、この一葉があるおかげで息苦しさからの呪縛からは完全に解放された。

■2002/05/06 懐かしさ礼賛

川本三郎さんの新著『はるかな本、遠い絵』(角川選書)を読み終えた。
本書は角川書店のPR誌『本の旅人』に95年から2001年という長期にわたって連載された文章を柱に、その都度需めに応じて様々な媒体に寄稿された文章も集められている。
一回分原稿用紙五〜六枚で、「こちらが「懐しい」と感じる本や絵、映画、あるいは、東京の町について書いた文章を中心に」して「絵にたとえればスケッチ集」(以上あとがきより)というこじんまりとしたエッセイ集となっている。
肩肘はらない姿勢が文章を通して伝わってきて、読むほうも川本好みの世界を満喫できた。

いま上で引用した川本さんの文章に「懐しい」という言葉があったが、これにはたんに過去を想うことだけでなく、仮構されたあるべき過去への想いも含まれるという。
つまり自分が実際に体験しない事柄でも「懐しい」という想いを抱くような対象と頭の働きがあって、それを実体験から生まれる懐かしさと等しく肯定的に受け入れているわけだ。
実体験の伴わない「懐しい」という想いを語ることに一種の戸惑い、気後れの念を抱いていた私にとって、この川本さんのスタイルは心強く、今後は胸をはって懐かしさを語ることにしようと決意した。

本書の特徴のひとつは書名にもあるように、本・映画・東京という主題が中心だったこれまでのエッセイにはあまり見られなかった、絵や画家を多く取り上げていることにあるだろう。
「フェルメールやゴヤのような西洋の名画ではなく、明治、大正、昭和の近過去に生きた日本の「懐しい」画家たち」「前衛的、超現実的な作品より、なんでもない風景画や写生画が好ましい」(同上)という。

不思議なことに私も最近そうした世界に親近感を抱くようになってきた。
澁澤・種村の影響下ヨーロッパの超現実的作風を持つ画家(マグリットやデルヴォー、ダリなど)一辺倒だったひと頃に比べると、上で川本さんがあげられたような作風の画家へも徐々に関心が広がりつつある。
これは長谷川利行をカバー装画に使った堀江敏幸さんの影響もあるに違いない。
年齢を重ねるにつれて、懐かしさを求めるような嗜好性が前面に出てきたということか。

■2002/05/08 出色の歴史ミステリ

梓澤要さんの『百枚の定家』(幻冬舎文庫、上下二冊)はなかなか面白いミステリだった。

埼玉県磯崎市という架空の市に新たにつくられた市立の武蔵野美術館が舞台となる。
開館にあたって、同市出身の著名書家のコレクションが寄贈され、そのなかに藤原定家筆かと推測される「小倉色紙」が含まれていた。
「小倉色紙」とは、定家が編んだとされるあの小倉百人一首を一首ずつ色紙に認めたもので、現在確認できるのは二十数枚、ただいずれも定家真筆かどうかの評価は定まっていない。

開館準備にあたっていた気鋭の学芸員秋岡は、同館所蔵の一枚を出発点に、現在確認できる「小倉色紙」を一同に集めた展覧会を同館オープニング企画として立案する。
物語はこの「小倉色紙」をめぐって展開する。

本作はいわゆる「歴史ミステリ」の範疇に属するだろうか。「小倉色紙」をめぐって殺人事件も発生するが、これはミステリの筋立てのなかでは珍しくむしろ脇筋にあたり、殺人そのものに謎が秘められているわけではない。
では本作に仕掛けられた謎とは何か。

それが「小倉色紙」である。そもそも定家真筆なのかどうかという謎、偽作であれば誰が何の目的で作成したのかという謎、また、百人一首だから本来百枚あるはずのものがどのような伝来過程をたどって散逸し、現在二十数枚が伝来しているのかという謎。これが主題といってよい。
美術品の真贋という問題を主題に据えたミステリは数多いと思われるが、本作がそれらとは一線を画す特色を有しているのは、物の真贋以上に、その伝来という側面に重きを置いたことにあるのではなかろうか。
伝来すなわち人間関係であり、その時々の社会関係を照らしているからだ。

膨大な研究文献を参照してのことだろうが、これら色紙が掛け物として飾られた茶会記や、近世になって各大名のもとに秘蔵されていた宝物を調査した松平定信の『集古十種』などを渉猟し、さらに明治維新や第二次大戦の敗戦をきっかけにした海外への流出、有力財界人による宝物の蒐集を丹念に追いかけるなど、これらの過程に謎を見出したミステリはそうざらにお目にかかれないものである。

真贋の側面でいえば、藤原定家の事績はもちろん、彼の没後に生じた子息間での歌学の師範としての正統性をめぐる争いをきちんと跡づけ、また、室町期以降に沸き起こった定家様の書流ブームと“神格化”、そこにからむ連歌師宗祇や東常縁などの古今伝授をめぐる人間関係など、きわめて詳細にその歴史的過程を追いかけたものだと見え、書跡というテーマには疎い私には逆に勉強させられたのであった。

また本作を読んでいて興味深かったのは美術館の裏側である。
この作品の場合美術館といってもたとえば西洋絵画の展示にまつわる話ではなく、書跡というわりに歴史史料(古文書や古記録)に近いものを扱った展示をめぐる事件なので、博物館の裏事情と読み替えても可能であろう。
企画立案から各地に所蔵されている史料の借出し、図録の執筆編集や宣伝活動という広範な業務に責任を負って日々働いている学芸員(キュレイター)の姿が具体的に浮かび上がっている。

また、バブル崩壊を受けた各地方自治体の財政逼迫という状況から生まれたいわゆる「箱物行政」の批判という事象や、バブル期に海外の美術品を買い漁って顰蹙を買った日本人がバブル崩壊後にとった姿勢の変化なども見事にとらえられている。
その意味では、バブル崩壊・行政改革という社会的背景に強く規定されたミステリということもできるだろう。
もっともだからといって「小倉色紙」の作成・伝来の謎が色褪せるわけではないから、時間が経っても十分に味読に耐えるのである。

■2002/05/10 文学的推理小説

丸谷才一さんの『横しぐれ』(講談社文芸文庫)を読み終えた。
表題作の中篇「横しぐれ」と、「だらだら坂」「中年」「初旅」の三つの短篇から構成されている。以前講談社文庫としても出ていたが、構成は同じ。文芸文庫版の解説は池内紀さん、講談社文庫版は杉本秀太郎さん。

滝田ゆうさんによって漫画化された「だらだら坂」(講談社漫画文庫『滝田ゆう名作劇場』所収)はともかく、その他二篇の短篇はどうも私の好みではなかった。
いっぽうの中篇「横しぐれ」は読ませる。面白い。

亡父とその親友で自分の高校時代の国語の先生であった黒川先生が四国を旅していたとき、道後の茶店で愉快な話を披露してさんざん酒を飲み、勘定も払わずにふらりと出て行ってしまった乞食坊主がいたという。
そのとき横なぐりの雨が降っており、亡父はそれを「横しぐれ」と表現した。それに乞食坊主は感心しながら立ち去ったというのだ。

母校の大学で国文学の教師(助教授)として教鞭をとっていた主人公は、ある日、種田山頭火の自由律俳句のなかにしぐれの句が多いことに気づき、あのとき亡父たちが出会った乞食坊主は実は山頭火だったのではないかという疑問が頭をよぎる。
本作品は、亡父たちの足どりを確かめ、また、そのときの山頭火の流浪の様子を日記などで丹念に追いかけ、山頭火が当時置かれていた境遇や句風を検討しながら乞食坊主=山頭火という仮説を組み立てては崩されていく主人公の文学探偵ぶりが眼目のひとつとなっている、いわば「文学的推理小説」、アームチェア・ディテクティヴの小説である。

仮説を立てて事実を検証してゆく過程がまことにブッキッシュであり、また想像力に溢れているから、このような仕組みの話が好きな人間にとっては歓迎すべき、味わい深い作品に仕上がっている。
さらにこのなかには、後年『忠臣蔵とは何か』で波紋を巻き起こした御霊信仰のモチーフまで紛れ込んでいて、丸谷ファンにはたまらない。

この作品は、グレアム・グリーンの父親が友人とナポリに旅していたとき、街で出会った見知らぬ男が実は出獄間もないオスカー・ワイルドだったというエピソードから着想を得たのだという。
ワイルドを山頭火に換えて、そこからこの話を作り上げたのだから、丸谷さんの構想力には脱帽するばかりである。

■2002/05/11 平成日和下駄(33)―国立・荻窪を歩く

木曜日の朝日新聞夕刊で、山口瞳さんにゆかりの深い国立の画廊ギャラリーエソラにて、「山口瞳のスケッチブック」という個展が開催されることを知った。遺品のなかから新たに見つかったスケッチブックに描かれた水彩画が展示されるのだという。
日曜までというので慌てて国立行きの計画を立てる。国立は先日花見時に訪れたばかりだ(3/22条「平成日和下駄31参照)。

約一ヵ月半ぶりに降り立った国立の町は、桜の季節の華やかな明るさとは打って変わって深い緑が町一面を覆っていて、別種の趣きがある。

先日国立を訪れたときには偏奇館山口邸探しで歩き疲れた。
今日めざすギャラリーエソラは山口邸に近いということで、駅からかなり歩くことを覚悟していた。
事前に調べた道筋によると、駅から放射状に西南斜めに伸びる旭通りを突き当たりまで行き、そこから南北の通りを南下すればいいという単純なものだった。
また実際は、途中に古本屋を見つけたり、通りの両側にいろいろな店があるのを見ながら歩いたりしていたせいか、イメージほど遠さを感じなかった。
そもそも対角線状に斜めに伸びている通りだから、距離的にも短いのだろう。山口さんが散髪に訪れた「国立床屋」も発見したのは嬉しい。

さてギャラリーエソラは、喫茶店キャットフィッシュ(ここも山口さん行きつけの店)に併設されている画廊で、私が入ったときには喫茶店にマスターと店員さんのほか先客一人と女性一人がいるのみで閑散としていた。
入ると壁にはずらりと山口さんの水彩画が飾られている。色彩鮮やかで構図もきりっとまとまった風景画のほか、裸体画もけっこうある。
これには驚いたが、あとで買い求めた『特別展 くにたちを愛した山口瞳』(同実施委員会編)をめくると、とくに珍しいというわけでもないようである。

八割方の絵に売約済のシールが貼ってあり、残った絵の値段を見ると十万から数十万といったところ。
もちろん買えないので、代わりに上記図録(1000円)と、1997年と2000年の卓上カレンダー各200円を購入した。
カレンダーは月ごとに山口さんの絵が使われ、日付部分を切り離して絵葉書にできる(裏に郵便番号欄などが印刷されている)ようになっている。要は山口瞳の絵のポストカード24枚を400円で買ったということだ。

芳名簿を見ると、記帳者は今日私で二人目。一人目は山口さんとも親しかったはずの安倍徹郎氏の名前が。お店にいたのは安倍氏であろうか。もう一人の女性はひょっとして治子未亡人だろうか。
安倍氏の隣、つまり昨日の最後の署名者には司修氏、もう少し前をめくってみると山本容朗氏や常盤新平氏など、生前の山口さんと親しかった人びとの名前が見られる。
嵐山光三郎さんあたりがいらっしゃるかなという淡い期待を抱いていたのだが、そううまくはいかなかったようだ。
キャットフィッシュの店内には、同画廊にて山口・嵐山両氏と三人展を開催したこともある滝田ゆうさんの著作が並べられ、売られていた。

来た道を戻る。行きに目をつけていた古本屋二軒に入る。両方の店とも狭いながら質が高い。
山口さんの著作があったり、シリーズの案内チラシが挿入されている『種村季弘のラビリントス 吸血鬼幻想』があったり、心動くものがあった。

駅前の国立古書流通センターでは、昨日突如として発覚したテクスト間の異同により気になっていた井上ひさしさんの『國語元年』(新潮文庫)をあっさり見つける。一見したところ明らかに中公文庫版と内容が異なる。

さてせっかく中央線に乗るのだからと、今まで訪れたことのない町の古本屋に行ってみようと計画した。今日の第二の目的は、荻窪である。
中央線の町としては、国立・三鷹・阿佐ヶ谷・吉祥寺に次いで訪れることになる。岡崎武志さんの中央線沿線古本屋ガイド・エッセイ「古本は中央線に乗って」が収録されている『古本でお散歩』(ちくま文庫)の荻窪の箇所を一読し、もちろんリュックにも忍ばせる。

降り立って最初に向かったのは、岡崎さんが「この店ほど空振りの少ない店はな」いと絶賛するささま書店。たしかに各ジャンルの本が整然と並ぶ。
文芸関係では、山口瞳さんの著作が十数冊、永井龍男・野口冨士男といったところもちらほら。値付けも比較的安い。私はここで角川選書2冊を購入。

次に駅寄りの岩森書店。ここも文芸関係が揃っている。とりわけガラスケースのなかには、パラフィン紙がかけられた署名入り初版本がずらり。
また、レジの奥にはほぼ全著作といってよいのではないかと思われるほどの数の吉田健一の著作が括られている。聞くと一括30万ほど。

さらに南口の商店街を南下すると、岡崎さん曰く「骨のある品揃え」という古書銀河がある。店頭の百円均一棚には丸谷才一さんの最近のエッセイ集が多く並んでいる。店内はさほど広くないのだが、ミステリや時代小説、マンガから思想関係の良質な本が目白押しだ。
岡崎さんが書いているとおり、花田清輝の全集端本はじめ著作が多い。
また、ここも吉田健一が結構ある。とりわけ注目は『書架記』の単行本。背と表紙の隅が革装(?)という栃折久美子さんによる装丁で豪華な造り、また現在では文庫の古書価も高いながら、1800円という安さ。思わず買おうかと思ったけれど、財布の中身と相談して断念。
代わりに滅多に見かけない地方出版の池内紀さんの著書を購入。

ほくほく顔で北口に出て、ブックオフ荻窪店でしめようとする。ところが中に入りその奥行きの深さと物量に圧倒された。
まだ昼食を取っていなかったことに気づいたこともあって、腹ごしらえをしてから再チャレンジしようといったん外に出る。もっとも万全の体調で再突入するも、目ぼしい本を見つけることはできなかった。
先日やましたさんにご案内いただいた吉祥寺周辺もそうだが、やはりこちらの古本屋の質は高い。年一度のペースで通うのがちょうどいいかもしれない。

■2002/05/12 二つの『國語元年』顛末記

以下に述べることは井上ひさしさんのファンであれば周知の話柄に属すことであって、ことさらに騒ぎ立てることではないのかもしれない。ただ自分にとっては「大発見」ともいえる出来事だったのでその顛末を報告する次第である。

先月中公文庫に井上さんの戯曲『國語元年』が入った。
たしかこの作品は新潮文庫に入っていたはずと、黄色の背の新潮文庫に「國語元年」の文字が入ったイメージが頭に浮かんだのである。とすれば、新潮文庫で絶版になったから中公文庫に“移籍”したのだろうか…。

最近、かつてある文庫で出ていた作品が、絶版後別の文庫で再刊されるという企画をよく目にするようになった。
安直といえば安直であるが、再刊される作品はそれだけの価値がある場合が多いし、新装版と同じく、不況といわれる出版業界における一種の賦活行為として一概に批判はできないだろう。
再刊された作品が自分のかつて読んだものであったとしても、別の解説が付けられてカバーデザインも一新されたのを機にいま一度購入して読み返すのも一興。
…『國語元年』の刊行にあたって感じたことをこんなふうにまとめ、ここに書こうと思ったのであった。

ところが中公文庫を買ってみると、カバー裏の作品紹介に「文庫初登場」とある。
疑問に思って初出データを確認したところ、『日本語を生きる―日本語の世界10』(1985年6月、中央公論社)とある。中央公論社から刊行された作品が新潮文庫に入ることなど、普通は考えられない。
あれは思い違いだったかと、上に浮かんだ文庫の移籍の話を没にすることに決め、『國語元年』の作品自体は面白く読み終えたのである(4/30条参照)。

いったん納得しかけた『國語元年』への疑問が再燃したのは、同書をお読みになったというかわうそ亭さんの感想に触れたことがきっかけだった。
かわうそ亭さんは、名古屋弁のナレーションに言及されていた。たしかに私が読んだ中にも名古屋弁の人物(主人公の身の回りの世話をする書生)が登場するので、私が気にかけなかっただけだと思ったのだが、その名古屋弁の人物が修二郎という名前であることにひっかかった。私が読んだのは修一郎なのだ。
そもそもナレーションを気に止めないのもおかしな話。やはり変だ。

あらためて中公文庫版のカバー裏を読み返す。少し丁寧に見てみると「テレビ版戯曲、文庫初登場」とあった。
とすれば、かわうそ亭さんがお読みになった新潮文庫(新潮社)版は舞台上演用の脚本ということなのだろう。ようやくさまざまな矛盾、疑問が氷解しかけたのである。

昨日幸運にもその新潮文庫版の『國語元年』を古本で入手することができた。
結論から言えば推測どおり新潮版は舞台用戯曲であり、順序としてははじめに中公版のテレビ脚本があって連続ドラマとしてNHKで放映され、その後舞台用として書き直されたものだという。

連続ドラマとたかだか数時間の舞台であるから、分量的には後者は大幅に縮められている(文庫版の頁数で単純に比較すると、約300頁→約160頁と半分)。
これが単なる場面のカット、縮約かというとそう簡単な問題ではなかった。
タイトルは同じ、舞台設定も長州人官吏南郷清之輔が「全国統一話し言葉」制定を命ぜられ、その素案作成の過程で南郷家内の多様な出身地構成によって生じる混乱、ドタバタ、その先に見える国家と国語の関係という大筋は同じである。

ところが挿入される各エピソードは同じでも、筋立てはかなり違う。それにそもそも登場人物にも大きな異同がある。
中公版に出てくる南郷清之輔の子供重太郎が新潮版には登場しない。また、南郷家の女中の一人として江戸下町言葉を使う御田ちよが、新潮版では清之輔が大阪時代に契りを結んだ河内弁を話す大阪の遊女という設定に変わっている。下男太吉は中公版では弘前弁だが、新潮版では無口でブロークンな英語を話す人物になり、上記のように広沢修一郎が修二郎と名前を変えている(名古屋弁は変わらず)。

もう一つ大きな違いは、中公版ではストーリー全体の狂言回しで主要な役割を演じていた米沢出身の大竹ふみが、新潮版では女中の一人としてあまり目立たない脇役に回っている。新潮版の狂言回しはむしろ名古屋弁の修二郎である。
また、新潮版では清之輔の前職が「唱歌取調掛」であり、筋のなかにミュージカル的に文部省唱歌が挿入されている。

以上のような明瞭な違いがあるからには、中公版と新潮版二つの『國語元年』は、かわうそ亭さんのおっしゃりとおり別物と表現しても差し支えない。
それではどちらが面白いかといえば、私は中公版をとる。
短い時間の舞台戯曲版だといきおいはしょり気味かつテーマを詰め込み気味になってしまい、井上さんの意図するような問題が曖昧になっている。中公版は連続ドラマの脚本だから、全体に余裕があって、ゆえに細部に凝って楽しい仕掛けがあちこちに施してある。国家と国語の問題も登場人物間の愉快なやりとりを通して鮮明に浮き彫りにされている。

もっとも実演を見ればまた印象は変わってくるのかもしれない。
テレビ版から舞台版を作るにあたって大阪の河内弁を入れ、井上さんの地元である米沢弁を後景に退かせたというバランスのとり方や、唱歌を入れることによってお国言葉のやり取りで芝居を成立させるという単調さを払拭しようとした工夫がわかって、今回の二つの『國語元年』読み比べは愉しい体験であった。

■2002/05/13 戸板康二を読んで時間の堆積を知る

戸板康二さんは平成5年(1993)に亡くなっている。私はここ数年の間にファンになったに過ぎないから、亡くなったというニュースの記憶はないし、戸板さんの生前にその著作を読んだこともない。お名前だけ知っていたという程度である。

しかしながら、二十数年の間同じ世の中に生きていたということもあって、戸板康二は私にとって同時代人であるという認識でいた。
ところが先日エッセイ集『ハンカチの鼠』(旺文社文庫)を読んでいて、私と戸板さんの間にある同時代人という距離感が一瞬遠くなるのを感じてしまった。
「あの雪の日」という回想エッセイの冒頭の一節は実に衝撃的だった。

二十六年前の二月二十六日は朝から大雪であった。慶応の国文科一年に在学していたぼくは、十時少し前に、三田へ行った。折口信夫先生の「万葉集」の試験の日だったのである。

日付とエッセイのタイトルでお察しのとおり、この一文は二・二六事件の起きた1936年(昭和11)2月26日を振り返った内容である。
何より衝撃的だったのは、私にとってずっと昔の事件だとばかり思っていた二・二六事件が、「同時代人」たる戸板さんにとってたかだか二十六年前の出来事として追想されているからである。

もとよりこうなるについては自分の認識不足というか、認識のねじれのようなものが何点も介在している。
まずは二・二六事件をずっと昔の事件と思っていたこと。
私が生まれる約三十年前の出来事に過ぎない。三十年という時の流れは経験ずみであるから、この距離感はとくに遥か彼方というわけではない。
次に戸板さんを同時代人とする平板な認識。
自分より五十年も先に生まれた人なのだから、いくら同時代人といっても自分の知らない過去の事件を知っていて当たり前なのだ。
三つめはエッセイの初出年月日を踏まえていなかったこと。
「あの雪の日」は「ハンカチの鼠」を皮切りに1962年(昭和37)『西日本新聞』に連載されたエッセイのうちの一篇である。この年を起点に考えれば、現在2002年よりも1936年のほうがずっと近しい。

そんな当たり前のねじれ現象に気づかなかったのは、ひとえに四十年経っても古びない戸板エッセイの魔術の虜になったゆえなのだ。

■2002/05/14 歌舞伎論の方法

渡辺保さんの文章というのは、どれもこれも論理的具体的にして明快明晰、読みながらいつも「こんな文章を書いてみたいなあ」と思わされる。
ということで昨日は自らの認識のねじれについて三点をあげてそれぞれを説明するという、渡辺調文体に挑戦してみたが、ご覧のとおり惨憺たる内容に終わってしまった。

先日読み終えた『仁左衛門の風格』(河出書房新社)もまさに渡辺保さんのそうした魅力が存分に発揮された一書であった。
本書は現十五代目片岡仁左衛門の父十三代目仁左衛門丈(以下単に仁左衛門と表記する)の芸論、評伝である。94年に仁左衛門が亡くなる一年前、生前に刊行されている。

残念ながら私は仁左衛門の舞台を生はもちろんビデオなどでも観たことがない。かろうじて生前ワイドショーなどのニュースで取り上げられている姿を記憶にとどめているのみである。
ただ、本書に収録されている舞台写真を見ると三男である十五代目とそっくりなのに驚いてしまった。十五代目がさらに年輪を加えるとああなるのだろう。

渡辺さんは仁左衛門の傑作として、「菅原伝授手習鑑」の菅丞相と「仮名手本忠臣蔵」七段目の大星由良助をあげる。
とりわけ前者は絶品との評価で、この至芸は十五代目に受け継がれ、先日私は歌舞伎座で十三代目直伝の菅丞相を見ることができた。
素晴らしい点を説明する渡辺さんの叙述はきわめて具体的で、文章を読んでいてそれらの場面が目前に浮かび上がってくるかのようであった。逆にいえば知らない狂言についての叙述はさっぱりイメージが沸かないということ。

たとえば以下のような叙述がある。

これが義太夫のイトのリズムにのって、それこそポンポンポンという風に幾通りにも変化して、パッと腕組みに決まる。(41頁)

「鰻谷」の八郎兵衛の演技に対する表現である。
これではまるで長島茂雄的言語であって、実際にこの芝居を見たことがないと、しかもその芝居を熟知しないと理解不能だ。
本書を読んで、実際の芝居を見て、あらためて再読して、この繰り返しでようやくこの場面が髣髴としてくるのだろう。
渡辺さんの歌舞伎役者論『中村勘三郎』(講談社)・『歌右衛門伝説』(新潮社)はもとより、役者論ではない著書も含めて再読三読につれて味が出てくる本であると思う。

渡辺さんは別著『歌舞伎』(ちくま学芸文庫)において、歌舞伎には発声言語、身体言語、型の言語という三層の言語構造から成り立っていると論じている。
最初はいわゆる声に出して話す台詞のこと、二番目はボディ・ランゲージ、三番目は伝統の中で形成されてきたその役の演じ方(舞台衣装や舞台装置も含む)である。すべてが重要であってそのいずれが欠けても歌舞伎は成立しない。
ただ伝統芸能の歌舞伎においては、三番目の型の言語を守ることが重要視される。
型の伝統を踏まえない新しい演出などは“型破り”ですらないのである。

今月上演中の四代目尾上松緑襲名披露興行の劇評でも、新松緑が型をきちんと身につけていることに渡辺さんは高い評価を与えている。本書でも仁左衛門がいかに型というものを踏まえて工夫をしているかが特記されている。

歌舞伎は一般に人間を類型によって描き、その型を修得すればだれにでも一応の恰好がつき、抽斗の演技でことがすむと思われている。しかしこれはあきらかに誤解である。型がきまっているからこそ逆にかえってそこに微妙繊細な陰翳のむずかしさが要求される。

『歌舞伎』は初心者のときに購入し、歌舞伎とは何ぞやということを学んだが、それ以来繰り返し繙いてその都度なるほどと肯くことの多い名著である。

■2002/05/15 谷根千バンザイ

地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(以下『谷根千』と略す)の存在を知ったのはいつ頃だったろうか。記憶の糸をたぐり寄せようとしてもいまひとつはっきりしない。
少なくとも森まゆみという書き手は仙台に住んでいた頃から知ってはいた。96年に刊行された『明治東京畸人傳』(新潮社)を新刊で購入したからである。もっともこれを読んだのは東京に移ったあとの99年、文庫化がきっかけであった。

『明治東京畸人傳』の著者森まゆみが『谷根千』という地域雑誌を作っていることくらいは認識していたかもしれない。でもその記憶すらあやふやなのだから、ひょっとしたら東京に移って初めてその存在を知ったのかもしれない。
だいいち谷中、根津、千駄木といった地名を意識するようになったこと自体、根津駅を利用して職場に通勤するようになったあとのことなのだから。

『谷根千』の創刊からの顛末記である森まゆみさんの『「谷根千」の冒険』(ちくま文庫)は、私が同誌を知る遥か以前の奮闘を綴った記録である。元版は晶文社刊『小さな雑誌で町づくり』。晶文社の本は文庫に入らないと思い込んでいたから、いずれ古本などで出会ったときに読もうと思っていた本であった。

本書ではじめて知ったことは多い。
雑誌を作ろうと動き始めた時期から発刊、そして草創期の裏話はもちろんのこと、編集メンバーの一人仰木ひろみさんは森さんの実妹であることもはじめて知った。
巻末の全号目録を検すると、かつてこんな面白くてマニアックな特集を組んでいたのかと驚かされる。
鴎外・漱石・一葉はまだしも、渡辺治右衛門とか、質屋・銭湯・豆腐屋・貝塚・井戸特集なんて、このような地域雑誌、しかも谷根千地域以外考えられないのではあるまいか。

季刊ですでに七十号になんなんとしている同誌の成功の原因は、地域に根ざして住民本意の文化・歴史事象の掘り起こしを目指したことと、編集メンバーがその町に住みながらアマチュアとして制作しているという姿勢を捨てていないことなどがあるだろう。
最近しばらく購入していないことに気づいた。
定期購読することも小さな雑誌を支えることにつながるわけなので、谷根千地域を愛する者として、購入を疎かにしてはいけないと自分を戒めた。

■2002/05/16 小林信彦読書月間のとりあえずの終幕

先月の新刊である小林信彦『人生は五十一から』(文春文庫)を読んでいきなり頂点に達した“小林信彦熱”は、次に手をつけた『昭和の東京、平成の東京』(筑摩書房)読書中もそのままの温度を保ち続けた。
さすがにピークに達したのが早すぎたか、たて続けに同じ人の似たような文章を読んだために飽きがきたか、『人生は五十一から』シリーズの最新刊『物情騒然。』(文藝春秋)を読んだあたりから醒めはじめ、余勢をかって読み始めた『私説東京繁昌記』(ちくま文庫)は今ごろになってようやく読み終えた。

それにしても『私説東京繁昌記』が今回文庫に入るまでには、長い時間がかかった。文芸誌『海』に元となる文章が連載されたのが83〜84年。84年に同社から単行本として刊行された。その後92年に筑摩書房から『新版私説東京繁昌記』として刊行されたまま、十年経った今年になってようやく文庫化となった。
上に掲げた「東京三部作」の最終作『昭和の東京、平成の東京』刊行がきっかけだろうか。

いずれにしても元の文章はバブル以前、80年代前半に書かれている。
さまざまな分野から都市東京の存在についてアプローチが試みられはじめたのがいつか、正確には私もわからない。
たとえば前田愛さんの『都市空間のなかの文学』(筑摩書房)が文学作品をテキストにして都市東京を読み解いたのが82年、陣内秀信さんが江戸からの連続性を歴史地理的に読み解いたのが85年だから、後者はともかく前田さんの仕事を小林さんが知っていてもいいはずなのだ。
ところが昨今の都市論に対する不満を述べている箇所(286頁)を読むかぎり、これらの動きは小林さんの東京論に取り入れられることはなかった。

また藤森照信さんが神保町の古書街などに見られる震災後の東京に特有の建築方式を“看板建築”と名づけ、学会に発表したのが75年。
小林さんはこの建築物を「銅(あか)を魚の鱗状に貼り付けたもので、関東大震災後に、商家に流行した建築」とまわりくどい表現を使い、「よくよく見るとブキミな建物」と評している。
自分との距離感で東京を捉えるだけでなく、これら東京論の論者たちの視点も取り入れられると、さらに面白い東京本になったのではないかと思う。

■2002/05/17 井上学への招待

昨日井上章一さんの新刊『パンツが見える。』(朝日選書)を購入し、いま猛然と読み進めているところである。
たまたま先日、刊行時話題になった『愛の空間』(角川選書)も遅まきながら入手したところだった。
私はベストセラーとなって各界に波紋を巻き起こした『美人論』以降のファンである。その前に霊柩車を研究した人がいるという話を何かで知ったはずだが、その人物が誰かというところまでは認識していなかった。

これを機会に井上さんの著書リストを作成して今後の井上学摂取の覚えとしておきたい。
太字は現在所持、※は品切、★は文庫版。

見てみると『美人論』以後の読者であることは明瞭だ。
『美人論』は単行本で買って読んだあと古本屋に売り払ったのだったか、先輩から借りたのだったか。

(1)『霊柩車の誕生』(朝日新聞社)1984年11月
(2)『つくられた桂離宮神話』(弘文堂)1986年4月※
(3)『邪推する、たのしみ』(福武書店)1989年2月※
(4)『ノスタルジック・アイドル二宮金次郎』(新宿書房)1989年3月※
(5)『霊柩車の誕生(新版)』(朝日選書)1990年5月
(6)『美人論』(リブロポート)1991年1月※
(7)『美人研究』(河出書房新社)1991年8月※
(8)『おんな学事始』(文藝春秋)1992年1月※
(9)『美人コンテスト百年史』(新潮社)1992年3月※
(10)『The 霊柩車』(祥伝社、町田忍共著)1992年7月
(11)『けっこう仮面が顔を隠す理由』(メディアファクトリー、永井豪共著)1993年5月
(12)『法隆寺への精神史』(弘文堂)1994年2月
(13)『美人の時代』(文春文庫)1995年4月※
(14)『狂気と王権』(紀伊國屋書店)1995年5月
(15)『関西人の正体』(小学館)1995年7月
(16)『男は世界を救えるか』(筑摩書房、森岡正博共著)1995年7月
(17)『戦時下日本の建築家』(朝日選書)1995年7月
(18)『美人論』(朝日文庫)1995年12月★(6の文庫版)
(19)『グロテスク・ジャパン』(洋泉社)1996年11月※
(20)『美人論 新装版』(リブロポート)1996年12月※
(21)『つくられた桂離宮神話』(講談社学術文庫)1997年1月★(2の文庫版)
(22)『美人コンテスト百年史』(朝日文庫)1997年4月★(9の文庫版)
(23)『南蛮幻想』(文藝春秋)1998年9月
(24)『人形の誘惑』(三省堂)1998年11月
(25)『愛の空間』(角川選書)1999年8月
(26)『阪神タイガースの正体』(太田出版)2001年3月
(27)『キリスト教と日本人』(講談社現代新書)2001年5月
(28)『パンツが見える。』(朝日選書)2002年5月

■2002/05/18 平成日和下駄(34)―祭囃子の竜泉・吉原

昨夜から降り続いている雨もあがったようなので、昼過ぎに出かけることにした。目指すは竜泉にある台東区立一葉記念館
一葉は明治26年7月から翌27年5月に終の棲家となる丸山福山町に越すまでの十ヶ月間ここ竜泉で荒物屋を営みながら代表作「たけくらべ」を執筆したことで知られる。「たけくらべ」の舞台も竜泉である(以上森まゆみ『一葉の四季』岩波新書参照)。

先日竜泉を南北に貫通する国際通りは通ったけれど、あれは竜泉を歩いたことにはならない。今日が実質初めての竜泉歩きである。
一葉記念館はこの国際通りから少し東に入った住宅地の真ん中にあった。静かな週末の日の午後である。

建物は二階建てのこじんまりとしたもので、パンフレットによると、一葉の業績を顕彰するために地元住民を中心に組織された「一葉協賛会」が会員の積立金をもとに用地を買収して台東区に寄付し、記念館建設を要請したのだという。区もそれに応えて建設を決定、1971年に開館した。
三十年前のちょっと立派な公民館という風情である。

展示品は「たけくらべ」の自筆草稿をはじめ一葉の直筆書簡が多く展示されているほか、遺品である櫛、簪、笄もあった。
多く展示されている写真からは、一葉がやはり綺麗な人であったことがわかって、人物的興味も沸いてくる。

帰りがけ、ここで文庫版『台東区史』通史編3(上・下)2冊を買い求める。
実は一葉記念館を訪れようと思ったのもこれを買うのが目的の一つであった。先日谷中を歩いていたら、町内会の掲示板に文庫版『台東区史』が全六分冊で刊行されたという知らせが掲示されていたのに目が止まったのだった。

地方自治体史は一般の新刊書店で取り扱うことが少なく、一般の読者の目に触れにくい。その自治体の役所や博物館などで頒布されている場合がほとんどだ。
『台東区史』の場合も頒布場所が台東区役所や同区の図書館など複数箇所あるなかで、この一葉記念館も含まれていたのである。

そもそも自治体史は浩瀚であるものの、公的機関が出しているせいかおしなべて価格は低く設定されている。同じ頁数の本と比べると格段の違いがある。
この文庫版も一冊800円(400頁強)と、現在の文庫の価格と比べても安い。そして何よりも画期的で強調しておきたいのは、このような自治体史が文庫になったということなのである。ほかにこうした例を聞いたことがない。快挙だと思う。

さて一葉記念館を出たあと、すぐ近くにある吉原に向かう。現在千束という地名になっている吉原に行くのは実は初めてのこと。いまや一大ソープ街となっている。
まだ夕方というほどの時間にすらなっていない、午後まだ早い時間であるにもかかわらず、通りの両側のあちこちに客引きのおじさんやお兄さんが立っていて、前を通る私に声をかけてくる。

私はこういうのが苦手だ。
地図をこれ見よがしに携えて、いかにも散策者だという馬鹿面をして客引きの前を通るが、それでも声をかけてくる。このような情景を客観的に楽しむことができるほど人間ができていない。
散策もままならぬまま、足早に吉原大門のあった土手通りまで抜け出た。久保田万太郎句碑があるということだったが、それすら探す余裕はなかった。
吉原歩きを楽しめる心持ちになることができるまでにはまだまだ年齢と修行を重ねる必要がありそうだ。

今日はちょうど浅草三社祭の最中で、吉原のなかにも法被を着た地元の人々が見かけられ、休憩所もある。東のほうからは祭囃子も聞こえてくる。
おかしいのは、店先にちゃんと注連を張ってお祭りの提灯をぶら下げているソープランドが何軒か見られたこと。やはりここは江戸屈指の悪所であるのだ。

大門のあったあたりには、見返り柳の末裔が植えられていた。土手通りをはさんだ向かい側には、かなり昔に建てられたとおぼしいつくりの天麩羅屋と桜鍋屋が並んでいる。少し三ノ輪方面に歩くと神保町にあるような、何軒かつないで一つの意匠でまとまった看板建築風の商家もある。
もう少し「大人になって」吉原を歩いてみたいものである。

■2002/05/19 現代日本パンツ史の快著

井上章一さんの新著『パンツが見える。―羞恥心の現代史』(朝日選書)はいろいろな意味で(?)刺激的な書物であった。

井上さんは、現代日本パンツ史(?)をめぐる大きな通説に真っ向から立ち向かい、あらゆる資料を駆使してそれらの説が根拠のないものであることを論証し、新たなパンツ史を構築してゆく。
一番最初に餌食となるのが「白木屋ズロース伝説」。今はなき東急日本橋店の前身であった百貨店白木屋の1932年(昭和7)の大火災で命を落とした女性店員の死亡原因をめぐる有名な伝説である。

つまり、当時ほとんどの店員は和服のためズロース(パンツ)というものを身につけておらず、彼女たちが命綱で降りてゆくさい、下から見上げている野次馬に陰部を見られてしまうことの恥ずかしさに命綱を手放して思わず着物の裾を押さえた結果、落下してしまった。
これがきっかけに日本女性はズロースを履くようになったという説だ。

この当たり前だと思っていた説は、事件当初はまったく語られてすらおらず、死亡した店員一人一人にはきちんとした原因があったことを明らかにする。
そのうえでこの説がなぜ語られるようになったのかを突き止め、この説のとおり事故後ズロースを履く女性が本当に増えたのかどうかの検証を行なって、それもなかったことを明らかにしている。

そこから議論は戦前の女性の羞恥心のありようをめぐる内容に移る。
陰部が何かの拍子に他人に見えてしまうことに対する羞恥心が果たして存在したのか、他人に小用(それも立小便)を足すことを見られても羞恥心を示さないこと、パンツを履かないことが常態であるために生じた「毛の呪術」、ズロース着用推進派とそれを拒否する女性たちの葛藤、ズロース=貞操帯説、衣服の洋装化とズロースの関係などなど。

ズロース発達史観ともいうべき言説にも厳しい。
働く女性が増えるにしたがって、彼女たちが裾の乱れを気にしなくてもよいためにズロースを着用しだす。進歩的な女たちほどズロースを着用する、着用しないのは娼婦的女性であるというフェミニズム的考え方である。
しかしこの説も、女性がパンツを履くことによって、履かないことに性的興味を持ち出した男性が増加したことによる通念の変化に過ぎないと一蹴する。

最後の大問題が「パンチラ成立史」。
なぜ男性がパンチラを見ることを喜び、女性がパンツを見られることを恥ずかしがるようになったのかという歴史的検証である。
女性が脚をとじてパンツが見えないよう気をつけだすのが50年代後半であり、その原因には人目をはばかるような派手なパンティの流行があるのだという。
女性がナルシシズムのために履きだした派手な下着を男性に見られまいと立居振舞に気をつけるようになる。したがってパンチラ現象が新たな性感を催すことになる。これが「1950年代パンチラ革命説」の概要だ。

これでゆくと、現代の若い女の子がパンチラを恐れず大胆な座り方をしている現象も説明できるという。
派手なパンティが当たり前になってしまったため、パンティに過剰なナルシシズムを投影しきれなくなり、人目をしのぶものでなくなってきた、それゆえだというのだ。実に説得力がある。

パンチラについては、男の視線の代表として取り上げられているのが野坂昭如さん。数々の野坂作品をあげて、野坂さんがパンツに対して男性一般以上にこだわりを持っていたことが示される。
この野坂さんがパンツを見せることに羞恥心を感じない現代の若い女の子を見てどう思うか。

地べたに座ったローティーンの女、ミニスカートでパンツもろ見え、これ最新のはやりなのか、本邦にペデラスティが激増して当然、こんな女より男同士と少年が感じて不思議はない。(『妄想老人日記』2000年、井上著書371頁より孫引き)

子供の頃からパンチラ現象に性感を見いだしていた老作家の背中から漂う哀愁がじんと伝わってくる。本書を読んでいてもっとも悲しさを感じたくだりである。

以上に紹介した議論は本書のごく一部にすぎない。まだまだ刺激的な言説がたくさん詰まっていて、とても筋を追って紹介できるものではないのである。
以下は、本書で井上さんがとった方法論について触れることにする。

先述のように、本書では実に様々な資料が論証のために駆使されている。
新聞・雑誌の記事はもちろん、風俗資料となるようなグラフ雑誌や関連図書、さらに艶笑随筆、そして小説。
艶笑随筆などは古書店でも十把一絡げに扱われてしまいには処分されるような運命のものが多いだろうし、小説も今やほとんど読まれなくなった舟橋聖一や丹羽文雄、花登筐など、「よくこんなものを見つけてくるなあ」と感心する作品ばかり。
有名な作家、作品であっても、そこから丹念にズロース、パンチラといった事象を拾ってゆくことすら困難な作業だというのに。
まずはこうした資料の博捜に敬意を表したい。

そのうえで気になったのは、「史料」としての上記随筆・小説の扱いである。
読みながら小説のテキストがパンツ史の史料としてあっさりと使われていることに仕事柄引っかかりをおぼえたので、小説が引用される場面は注意して読んでいた。
小説はそもそもフィクションなのである。たしかに「自伝小説」「私小説作家」などと注意書きが加えられたうえで引用されていることが多いので、井上さんもその点史料批判を怠りなく進めていることもわかってきた。
そのうち、次のような断り書きに突き当たる。

通俗的な読み物を資料とすることに、歴史家は抵抗感をいだくかもしれない。(…)しかし、こうした読み物は、同時代の読者からうけいれられるように、工夫もされている。当該時代の生活感覚をさぐる資料としては、あなどれない。慎重にあつかえば、往時の心性を読みとくかっこうの記録となる。たとえ、つくり話であったとしても。
私がこの本で、小説などの渉猟にもはげんだゆえんである。(293頁)
いっぱんに、歴史家は、小説類を歴史の資料としたがらない。それは作家がくみたてる創作である。作家の空想でつくられた部分がないとは、言いきれない。そういうあやふやな記録にもとづいて、歴史をあらわすのはまちがっている。と、以上のように判断することが、一般の常識になっている。
(…)しかし、小説類を読んでいくと、そんな公的記録にはそぐわない場面も、よくでてくる。
こういう場合、歴史家はどうすればよいのか。作家のでっちあげた作り話だ。とりあげる必要はない。そう冷淡にきりすててしまう手はある。
だが、私はそんな態度を、とりたくない。小説類に散見される諸場面は、きちんと検討されるべきだと考える。なぜ、そういう場面がえがかれたのかは、きちんと問題にされるべきだろう。
それに、作家の風俗観察は、統計類よりするどく事態を見ぬいているかもしれない。その描写から目をそむけるのは、怠慢だと思う。まあ、統計や公式報告を軽んじている私にも、問題はあるかもしれないが。(341〜43頁)

正当な態度だと思う。そしてその考え方にもとづいてきちんとした史料批判がなされていることも、本書を読むとわかってくる。
ただ気になったのは、そのため逆にエッセイ類の史料批判がおろそかになっているのではないかという点だ。

たとえば種村季弘さんのエッセイ(「気違いお茶会」『食物漫遊記』所収)を引いて、1957年頃、種村さんが教えていた日本語学校で日本語を学ぶ白人女生徒が様々な色のパンティを履いていたことを例示する。
さらに別の箇所では、同じエッセイを引用して、パンティの多色化が男の視姦欲をそそっていたと論じる。

種村さんのエッセイにもフィクションが混じっている可能性はないのか。いや、種村さんだからこそ、面白おかしく当時の生活を脚色している可能性だって、ないわけではない。その点を踏まえなくていいのか。
エッセイのたぐいにも小説と同じような厳密な史料批判は必要なのかもしれない、そんな瑣末な疑問を抱いたのである。

「あとがき」で吐露される、井上学を受け止める「学界」に対する苛立ちや、そうした「学界」に背を向けていこうというマニフェストは涙なしでは読むことができない。
「生涯一好事家」。刺激的な仕事を次から次へと生み出す井上さんのような人だからこそ高らかに宣言することができるのだが、この言葉に勇気づけられずにはいられなかった。

■2002/05/21 マキノの誘惑、タネムラの誘惑

《マキノの誘惑編》

昨夜青山ブックセンターで開催されたトークショー「不思議の国のマキノ」を聴きに行った。
筑摩書房から『牧野信一全集』が刊行されたのを記念してのもので、話者は種村季弘さんと小森陽一さんのお二人。
正直言ってはじめは牧野信一自身にさほどの関心は抱いていなかったけれども、何といっても種村さんのお話が聴けるということと、小森さんとの組み合わせということに興味を惹かれたのである。

私にとって小森陽一さんは正統的な国文学者というイメージであったから、その人と異端文学・幻想文学論者の最高峰(まあこういう見方はそろそろ卒業すべきとは思いつつ)種村さんとの間にどんな話が飛び交うのか興味津々であった。

話は主として小森さんが種村さんに牧野信一の魅力、作品の特徴や、住んでいた小田原の地域的特性などを聴きだしていくというかたちで進行した。
『牧野信一全集』の宣伝的意味合いもあったし、小森さんも企画にタッチされていたこともあって、ホスト的役割で種村さんの奔放なる語りを導き出す役目に徹していたようだった。この点はやっきさんの“我楽多本舗”に詳しい。

さて種村・小森ご両人のお話を聴いていて、どうにも牧野信一(作品)に強烈に吸い寄せられていく自分の気持ちを抑えがたかった。
開演中私は、隣に座っていたやっきさんに、「牧野は以前読んだけどあまり面白いとは感じなくてそのままになっている」というような話をした。
かつて数年の間に牧野の作品集が違う版元から文庫版で3冊出るというちょっとしたマキノブームがあったが、そのとき買って読んださいには、どうも自分の好みと合わずに無理やり読み通したという記憶が残っていたのである。

ところが、過去の日記を検索してみると、そうでもなかったことを知って自分でも驚いた。
今から十一年半ばかり前の1990年12月6日に、岩波文庫の『ゼーロン・淡雪他十一篇』を読み終えてこんな感想を書きつけている。

「吊篭と月光と」から「酒盗人」までを読んで、そのファンタスティックな作風に新鮮さを覚え、非常に楽しく読んだ。たが、次の「鬼の門」からはその幻想的な物語に暗い影が射してきたことが私にも明瞭に読み取れた。これは解説の堀切直人氏も指摘している通りである。その後の話のなかでは「天狗洞食客記」がいい。女性主人公に、それまでの作品にはなかった妖艶さがある。加えてその裏には魔性も潜んでいる気がして、これはその点で面白く読んだ。全体的に、何でもっと早く読まなかったのだろうと思う程、気分が乗った作風であった。種村季弘、堀切直人両氏が推奨するのも頷ける。

そんなに楽しく読んだのだったか。
種村、堀切両氏の嗜好に合致させていこうと多少無理して背伸びしている面があったかもしれない。
ただ、その半年前の同年七月には大学の図書館から人文書院版『牧野信一全集』第一巻を借り出していたりして、彼に対する興味は旺盛だったようだ。

昨日のトークショーを聴いていた最中から心が動きはじめて、財政的な余裕のなさと引き比べて困惑しつつ迷っていた新『牧野信一全集』への思いが、購入のほうへぐらりと傾いた気がする。
ひとまずいま所有している文庫版3冊から、昨日触れられていたような作品を読み、本当に自分が愉しく読める作家なのか、慎重に見極めてからでも遅くはないだろう。
心覚えのために、3冊にどんな作品が収められているのか、紹介しておく(太字はそれぞれに重複している作品)。

(1)『バラルダ物語』(福武文庫、1990年10月)
「吊籠と月光と」「西部劇通信」「鱗雲」「バラルダ物語」「ゼーロン」「夜見の巻―「吾ガ昆虫採集記」の一節」「天狗洞食客記」「月あかり」「鬼涙村」
解説:柳沢孝子/牧野信一略年譜
※昨日この解説者で実質的に編集の任にあたったとおぼしい柳沢さんも会場にいらしていて、一言牧野についてお話をされた。小柄で陽気なおばさん。

(2)『ゼーロン・淡雪他十一篇』(岩波文庫、1990年11月)
「吊籠と月光と」「ゼーロン」「酒盗人」「鬼の門」「泉岳寺附近」「天狗洞食客記」「夜見の巻―「吾ガ昆虫採集記」の一節」「繰舟で往く家」「鬼涙村」「淡雪」
(エッセイ)「文学とは何ぞや」「気狂い師匠」「文学的自叙伝」
解説:堀切直人「荒武者マキノ」/初出一覧

(3)『父を売る子/心象風景』(講談社文芸文庫、1993年6月)
「爪」「熱海へ」「スプリングコート」「父を売る子」「父の百ヵ日前後」「村のストア派」「酒盗人」「泉岳寺附近」「心象風景」「裸虫抄」「淡雪」「熱海線私語」
解説:小島信夫「父を売り、買い戻した息子」/作家案内:武田信明/著書目録
※昨日会場で、「品切中で入手が難しくなっております」という触れ込みでかなりの冊数が積み上げられていた。矛盾なり。講談社文芸文庫品切の内実見たり。

この他、種村さんが責任編集にあたられた『日本幻想文学集成』の牧野信一の巻がある。全巻山形の実家に置いているので、内容はいま確認できない。
やっきさんによれば「風媒結婚」が収められているとの由。

とりあえず以上の文庫版3冊を見ると、昨日のお話を聴いたうえで興味をそそられるのは講談社文芸文庫版だ。「熱海線私語」を読みたい。
それに、岩波文庫版に収録されている「繰舟で往く家」も。種村さんが「大好きな作品」とおっしゃっていたので。

《タネムラの誘惑編》

種村さんの謦咳に接したのはこれで三度目か。
最初は江戸東京博物館で開催された「江戸東京自由大学」での講演、次にバー・ですぺらで催された「種村季弘さんを囲む会」、そして今回。
昨夜は、仙台に住んでいた頃に種村ぐるいになり、その著作に憧れを抱きつづけていた著者と同じ空間にいて、そのお話を三度も直接聴くことができる幸せをあらためて噛みしめていた。声を聴けるだけで嬉しかった。
「種村季弘さんを囲む会」では色紙に自作の俳句まで揮毫していただいている。家宝なり。

種村さんの大学教員時代の教え子であり、現在公認サイト“我楽多本舗”を開設しているやっきさんとお知り合いになれたのが大きな転回点なのだろう。感謝するほかない。
こうした基本的な事柄や新鮮な感激は常に忘れないようにしておきたい。

さて昨日の種村さんのお話を聴きながら、目くるめく思いであった。
メモも見ないですらすらと牧野作品の粗筋や牧野の住んだ小田原の歴史的文化的特質、彼の人脈と縁故関係を繰り出す。「博引傍証」という紋切り型の表現を使うのもはばかられる。
そのなかで意表をつく指摘(牧野の系譜に島尾敏雄を位置づける)もあって、すでに古稀になんなんとする種村さんの頭脳の明晰さに、日ごろの自らの怠慢を戒められているかのようであった。

聴きながら感じたこと。
第一に、小田原という町の歴史的流れや文化的ありよう、地理的特質といったいわば都市論・都市史を踏まえてそこに牧野信一とその作品を位置づけるという手法の鮮やかさ。
種村さんにとって、都市論・都市史、ひいては「歴史」そのものが文学評論、批評のための重要な方法論となっている。歴史として表現される血のつながり、系譜論や、人間の横のつながりたる交友関係の把握もまた、方法論の一つである。
後者の方法論は山口昌男さんにも共通する点が見いだせよう。

第二に、種村さんにとって作品把握はエピソード本位、“エピソード至上主義”であること。
作品からただちにその意図するところを解釈しようとする性急さを抑え、まず作品はエピソードととして把握される。評論・批評はそれら厖大に集積されたエピソードのコラージュによって展開され、そこから思わぬ論点、視座が読者に提供される。

第二の点、作品をエピソードとして把握するという点は、種村さんの著作を読むといつも気づかされ、そのつど真似しようと思うのだが、いざ小説に相対するとストーリーを追おうとする気持ちが先行してその気持ちが置き去りにされてしまう。

たまたま昨日、会場となった青山ブックセンターに開演前に立ち寄ったところ、河出書房新社から『文藝別冊 澁澤龍彦』が出ていたので購入した。
いまさら澁澤・種村を二元的に対比するのは愚かしい思考法なのかもしれない。しかし私にとってはやはりこの二人が常に並立して自分の読書を導いてくれた存在なのだ。
あえて澁澤という存在を上の種村さんの方法と対比して把握するとどうなるのか。

澁澤にとって「歴史」とは方法ではなくて「物語」だろう。
また、澁澤にとって作品把握はエピソードではなく、より局所化されたイメージによるだろう。

澁澤は「歴史」を物語として組み立てた。エッセイと小説のあわいをゆく後期澁澤作品のスタートラインに位置づけられる『唐草物語』に「物語」の二字が織りこまれているのは示唆的だ。
『うつろ舟』『ねむり姫』『高丘親王航海記』などはことごとく「歴史」が物語化されている。

種村さんの場合、「歴史」とりわけ日本のそれが明確に方法論として取り込まれた作品は何にあたるだろうか。
一つ考えられるのは「漫遊記」シリーズである。動坂亭さんの議論などでは「漫遊記」シリーズを「小説」として把握してみてはという提起がなされていて、とても刺激的だ。
ただ今の私の考え方でいえば、「小説」と見なすことができる可能性はあっても、それはけっして「物語」ではないといえる。
いずれにしても数多い種村作品を“方法論としての歴史”という意識で読み直してみる作業は無駄ではないのではあるまいか。
近著のなかでその点が鮮明に浮き彫りされているとおぼしい『東海道書遊五十三次』(朝日新聞社)をさっそく書棚の奥から引っぱりだして、机辺に備えたところである。

■2002/05/22 ドタバタ筒井の世界

筒井康隆さんの『自選短篇集1 ドタバタ篇 近所迷惑』(徳間文庫)を読み終えた。

私は筒井さんのファンではあるが、それは『虚航船団』あたりからの実験的な作品を次々と世に問うようになってからである。
『虚航船団』『夢の木坂分岐点』『残像に口紅を』『パプリカ』『朝のガスパール』『ロートレック荘事件』『旅のラゴス』『驚愕の荒野』などなど。
日記も好きだ。最近日記は発表されていないのだろうか。

本書に収録されているのはドタバタ小説九編。
「近所迷惑」「おれは裸だ」「経理課長の放送」「弁天さま」「欠陥バスの突撃」「自殺悲願」「慶安大変記」「アルファルファ作戦」「アフリカの爆弾」である。
日下三蔵さんによる自作解題インタビューによれば、もっとも新しいのが86年の「おれは裸だ」だから、筒井さんの世界からこうした傾向の作品がなくなってしまったあとのファンなのだ。

逆にもっとも古いのが66年の「慶安大変記」。私の生まれる前ではないか。
70年代前半に発表された作品が大半を占めている。ということは発表から三十年が経っているわけなのだが、選りすぐられた傑作を集めた選集だとはいえ、まったく古さを感じさせない(たとえそれがSFであっても)のが驚きである。

「弁天さま」は意図的に伏字を使って規制の逆手をとった実験作だが、解題での筒井さんの発言が笑える。

そうしたら東京新聞の「大波小波」かな、「苦しんで苦しんで書いたものが伏字になっている作家もいるのに、こういうのを逆に使うとはけしからん」なんてのが載った。バカだね、ほんとにもう。あのころは、なんかやるたびにバカが「大波小波」に書いたね、かならず。

個人的に好きなのは、「欠陥バスの突撃」。
一人の人間のなかに潜む多様な人格をバスにとその乗客に見立てて、女性を引っかけてセックスに持ち込むまでの葛藤を描いた傑作だ。すでにこの頃から精神分析的な手法が取り入れられていたのか。

自分でもなぜなのか理由はわからないが、本書を読んでいたら学術的な本を読みたくなり、大野晋さんの『日本語はいかにして成立したか』(中公文庫)を次に読み始めた。
大きな文字とゆったりした組みのせいか、文章を舐めるように読む喜びを感じさせてくれる小説集だったのは確かで、それゆえだろうか。

■2002/05/23 寺田寅彦は忘れた頃にやって来る

私の「寺田寅彦歴」は、むろん「岩波文庫歴」と不即不離の関係にある。
十数年ほどに過ぎない岩波文庫歴のごく初期に『寺田寅彦随筆集』全五巻を愛読した。初心者によくあることとて、いかにも岩波文庫的著作を読もうという心持ちがそうさせたのだったか。

荷風に関する著作や隅田川歩きの著作で知られる松本哉さんが『寺田寅彦は忘れた頃にやって来る』(集英社新書)という新著を出された。荷風から寺田寅彦とは、意表をつく関心の推移である。
読んでみると寺田寅彦という人物は、すぐれた物理学者(東京帝国大学理学部教授)でありながら、ほぼ同年齢だというアインシュタインの相対性理論のような先端的な物理学からは距離を置き、身近な現象を物理学的に解明することに一生を費やした、いわば「趣味人」であったという。
こうした点に荷風との共通点を見出されたのだろうか。

もっと違った観点から眺めれば、二人は厖大にして細かな日記を残しているという共通点がある。
先年岩波書店から『寺田寅彦全集』が出たとき、私も日記の巻だけ買っておこうかと真面目に考えていたことを思い出した。あるいは松本さんも日記という関心から寺田寅彦という人物へ興味を抱いたのかもしれない。

岩波文庫には上記随筆集のほか、『柿の種』といういっぷう変わった随筆集も入っている。タイトルのない、一篇一篇が数行からせいぜい数頁までの短い断章的エッセイの集成だ。
私はこの本も好きで、たまに書棚から取り出しては任意のページを開いて拾い読みすることがある。
松本さんの本で知ったことだが、たいてい岩波書店から刊行されてる寺田の著作のなかで、この『柿の種』だけは別の書店(といっても岩波出身者が興した)から出ているものだという。それがいま岩波文庫で読めるのも嬉しい。
たとえばこんな断章はいかがだろう。

猫が居眠りをするということを、つい近ごろ発見した。
その様子が人間の居眠りのさまに実によく似ている。
人間はいくら年を取っても、やはり時々は何かしら発見をする機会はあるものと見える。
これだけは心強いことである。(大正10年8月、渋柿、『柿の種』p38)

『柿の種』には、こんな感じの日常的疑問、発見がたくさん、そしてさりげなく書きとめられている。

■2002/05/24 藤原正彦をめぐるアンビヴァレンツ

一人の人間のなかにコスモポリタンとナショナリストが並存すること。いや、ナショナリストではなく、むしろ愛国者というべきか。
藤原正彦さんのエッセイ集『父の威厳 数学者の意地』(新潮文庫)を読みながら、そんなことを考えていた。

それまでお名前とエッセイの著作があることぐらいしか知らなかった藤原さんを、ふとしたことから新田次郎の子供であることを知って興味を抱いたところ、ちょうどタイミングよく上掲書が新潮文庫の「掘り出し本フェア」で並んでいたので手にとった。

新田次郎・藤原ていという作家の両親の間に生まれ、戦時中・戦後の激動を経験し、さらにアメリカ・コロラド大学やイギリス・ケンブリッジ大学での海外経験を生かしたエッセイはいずれも複眼的で奥深い。
しかもそれだけでなく、信州高島藩の最下級の足軽の家、すなわち武士の家に脈々と流れる質実剛健の気風を受け継いだ武士道精神が底流にある。
日本古来の物質文化、精神文化の伝統を重んじながらも、いっぽうでアメリカ・イギリスといった西欧社会に積極的に出ていくような国際感覚も併せ持つ。
すごい人だと思いながら読んでいたら、こんな主張に出会い、いっそうの信頼感を持った。

真の国際人となるのに最重要なのは、自国のよき文化、伝統、情緒をきちんと身につけることであり、郷土や祖国への誇りや愛情を抱くことである。たとえ外国語が堪能であっても、これら基盤なくしては、国籍不明人にはなれても国際人にはなれない。このような心なしに、他国人のそんな心を理解することも、尊敬することもできないからである。(p217)

そのいっぽうで、小学生の長男の修学旅行直前に実施された検便に対し非人間的と異を唱え、検便を拒否させて子供を修学旅行に行かせず学校側と衝突した顛末を記す「苦い勝利」には、愚直なまでに筋を通して猪突猛進、自説を枉げない頑固一徹ぶりを披露している。
正義のために闘い、日本的な中途半端な協調を嫌うその姿勢は、第三者の立場で読めば男として感情移入しながら著者を応援したくなるが、こういう人が身近にいたらさぞや迷惑に違いない。
「ああ、大学の先生はこれだから…」と最も私の嫌うタイプなのだ。

とはいいつつユーモアと愛情にあふれたそのエッセイはとても好ましく、贔屓のエッセイストが増えたと、未読の著作を数えてはほくそ笑んでいる。

■2002/05/25 吉田健一の匿名批評

5/22日条で筒井康隆さんの『自選短篇集1 ドタバタ篇 近所迷惑』(徳間文庫)に触れたさい、巻末の自作解題インタビューを引用した。そこでは東京新聞のコラム「大波小波」に対する苦言(というより嘲りか)が呈されていた。
この部分を読んでいて気になっていたことがあったのだ。
というのも、たしか「大波小波」には吉田健一が匿名でコラムを執筆していたのではなかったか、と思い出したからなのだ。
たしかめようと思いつつ延ばし延ばしになっていたのだが、ようやく確認することができた。

問題のコラムは、『吉田健一集成』別巻(新潮社、1994年)に「禿山頑太集」(「はげやまがんた」と読むのだろうか)として収録されている。上下二段組で約100頁強とけっこう分量がある。
ところで少し話が逸れるが、この『吉田健一集成』別巻は、上記「禿山頑太集」のほか、シェイクスピアの詩集翻訳や同人誌「声」「批評」の編集後記、武藤康史さんによる詳細な年譜・書誌に加えて、さまざまな論者による吉田健一論が集められていて、まことに面白いつくりの書物に仕上がっている。

さて問題の「禿山頑太集」は没後刊行された集英社版著作集にも未収録の貴重な文章である。
もとより吉田健一だけには限らないけれど、私は軽妙な断章的連作エッセイが好きだから、これを吉田健一の著作にあてはめれば『三文紳士』『乞食王子』(いずれも講談社文芸文庫)あたりが好みなのだが、この「禿山頑太集」もなかなか面白い。内容的には文芸時評、文壇時評的な趣きがある。

『集成』に集められたコラムの日付からいえば、吉田健一が禿山頑太の名前で「大波小波」に書いていたのは1952(昭和27)〜58(同33)年であり、筒井さんの「弁天さま」が発表された1974年のはるか以前のことだった。
筒井さんの「バカ」が吉田健一を指しているのではなくて安堵したのである。

そのまま「禿山頑太集」を読んでいたら、こんな面白いくだりにぶつかった。

吉田健一がかつて訳したヴアレリーの「ドガに就て」では、初めはコモードという言葉が安楽イスと訳されていて、これは明かに間違いであり、後の版でそれがタンスに改められていた。だれか注意したものがあつたのだろう。昔は、誤訳の指摘などというのは当人に対してすることで、余程自分の名前が売りたいものでもなければ、これを活字にすることをきらつたものだつた。そして大事なことは、コモードが安楽イスになつていようと何だろうと、吉田が訳した「ドガに就て」は名訳であるということなのだ。

誤訳の指摘に関して、公にされた文章でそれをやられて、腹に据えかねたのだろうか。皮肉を通り過ぎてもはやあからさまな怒りが文章から伝わってくる。
返す刀で自分の訳を「名訳」と言ってしまうところなど、吉田健一の翻訳に対する自負がうかがえるのである。

■2002/05/27 平成阿房列車(1)―横手日帰りせどりの旅

所用のため、秋田県横手市に日帰りで出張に行ってきた。こまちに乗車しても片道四時間弱、早朝に出て夜帰って来るという一日仕事である。

先日NHKのBSで、ミュージシャンあがた森魚さんが内田百間の「阿房列車」の旅を追いかけて横手を訪れるという小さな番組を放映していた。
百間は阿房列車の旅で横手にも来ていたことを知ったのだが、このことはすでに読んだはずの『阿房列車』(旺文社文庫、福武文庫など)中の「奥羽本線阿房列車」で触れられていたのである。
百間のこのときの奥羽への旅は以前ここで書いた(2000/4/19条参照)。ただそのときは私の郷里山形への旅にばかり気をとられて、横手を訪れていたことを閑却していた。
私が横手という町に関わりを持つようになったのはその後だから、仕方がないとも思う。

百間は横手の町がとくに気に入ったらしく、後年ふたたび横手を訪れる阿房列車を発車させた。
この旅の顛末は『第二阿房列車』(同上)に入っている「雪解横手阿房列車」にて報告されている。幸いこちらは未読だったので、ナビゲーターとして携え、車中で読むことにする。

さて百間は横手を再訪するにあたって、こんなことを書いている。

横手にはこの前、一昨年秋出掛けた時の奥羽阿房列車で泊まつた。だから曾遊の地である。阿房列車を同じ行き先へ二度も仕立てると云ふ事は、大体考へてはゐないが、ただこの横手と、もう一つ、熊本の先の八代とへは、重ねてもう一遍行つて見たいと思ふ。(旺文社文庫版32頁)

なぜもう一遍行ってみたいのかという理由には触れられていない。
全体を読んでもついに判然としなかったのだが、上記の番組では宿で相好を崩す百間先生の写真が紹介されていたので、町の雰囲気はもとより、おおかた宿のもてなしも気に入ったのだろう。

…などとそんなことを考えながら読んでいる間に、私も横手に着いてしまった。
盛岡から秋田に入る田沢湖線沿線の緑が美しく、田植えを終えたばかりでまだ小さな苗が並んでいるだけの田圃はまるで鏡のよう。
青空がまるっきり写し込まれ、青空にサンドイッチされているような気分になる。

横手に着いて約束の時間までまだ余裕があるので、あらかじめ調べておいたブックオフ13号横手店(13号とは国道13号の意)に立ち寄った。
横手駅から徒歩十分程度。駅の東に広がる中心部とは逆の、奥羽本線の西側にある。

さすがにバイパス沿いの店だから、器が大きい。しかも文庫棚を見て興奮した。東京の店ではあまりお目にかかれないような文庫本が数多く並んでいたからだ。
次々と選んでカゴの中に入れた文庫本を、主として懐の事情によってきたる自己規制から、会計前に絞り込む始末。

特記しておきたいことは、山口瞳さんの本の多さ。
これほど山口さんの文庫本が揃う店は、首都圏ではブックオフに限らずそう滅多にない。新潮文庫の青と集英社文庫のカーキ色(といっていいのか)、角川文庫の黄色がずらりと並ぶ。
かなりの冊数を誇る山口さんの本があまり東京では見かけられない理由について、たんに古いということより、手ばなしたくないという執着心の存在を考えたことがあった。
この執着心は一般的なものと漠然と考えていたけれど、そうでもないようだ。

つまり、山口文学とは、都会、それも東京の文学であるということ。
地方の人は東京の人間よりも山口瞳という書き手に対する執着心、親しみというものが薄いのではなかろうか。内容がたとえ日本各地をめぐった紀行文であるにしてもである。
山口文学とは東京ローカル色の強い性格なのだ。かくいう私も東京に来てから山口瞳という人物に関心を持ったのである。
山形のブックオフでも東京よりは多くの山口作品を見かけることができる。
山口ファンは全国にいて、ファンであることに地方とか都会といった区別をつけるものではないことを承知しているが、手もとに置いておきたいという愛読度、執着度はやはり都会の山口ファンのほうが高いのではないだろうか。

たんに山口作品のあまりの多さと古さに、売られても店に出せず裁断処分になっていたりして。でもこう考えてしまうのはあまりに悲しい。

結局ブックオフでは文庫本14冊・単行本1冊を購入した。しめて約3000円。
日帰りで荷物が少ないとはいえ、出張に行った先でこんなに本を買い込むなんて、バカである。阿房である。
カゴ一杯に文庫本を買い込む姿は、われながらまるで「せどり」に来たようであった。

昼飯はもちろん焼きそばだ。横手はなぜか「やきそばの街」として売り出している。町に何軒もあるお店を紹介した公式サイトまである。
去年初めて横手に行ったとき、町中にラーメンならぬ焼きそばという幟が多く見られることに気づいて、ある店で焼きそばを食した。その後地元の方から焼きそばを町おこしに使っているということをうかがったのである。

この間、ラーメン王佐々木晶さんの著書『ラーメンを味わいつくす』(光文社新書)で横手の焼きそばについて触れられているのを読んで、さらに興味を抱いた次第。

横手焼きそばの特色とは、麺が普通の焼きそばに使われる蒸し麺ではなく、ラーメンと同じゆで麺を使うこと。その麺も縮れ麺ではなく、中太のストレート麺だ。
炒めるときには鶏がらスープを使うという。具は肉とキャベツのみ。
そして横手焼きそばを特徴づける二つの添え物が、半熟の目玉焼きと真っ赤な福神漬。
カレーに付いてくるあの福神漬が焼きそばにも添えられる。
麺の上には目玉焼きがのせられ、食べるときには箸で黄身を破ってぐちゃぐちゃにして、その上からソースと青海苔をたっぷりかけてたぐることになる。

今回は佐々木さんも訪ねた老舗の焼きそば専門店「焼きそばのふじわら」に行った。肉玉ダブル(肉・目玉焼き入り大盛)を注文。これで550円はバカに安い。
一口食べてみてもう気に入ってしまった。スープを使って炒めた麺は柔らかめだが、ソースとスープの味が染みて、そこに目玉焼きの黄身がまぶされたアンサンブルは絶品。
この店の場合、肉は豚挽肉であり、麺を味わうことを邪魔しない。ダブルといっても多からず、食べ終わるまで飽きがこない。
用向きが済んでいないため、ビールで流し込みながら焼きそばを食べるという誘惑をはねのけるのが大変だった。
ブックオフといい、焼きそばといい、横手の町を訪れる楽しみが増えた。

作品としての「雪解横手阿房列車」も、相変わらず面白い。百間先生のひねくれた屁理屈と同行のヒマラヤ山系氏との間で交わされる飄逸な会話の妙。
帰りの寝台車に乗り込んださい、ヒマラヤ山系氏と一献を酌み交わしたあげく、英語で“No smoking in bed”と示されている寝台で煙草を吸おうとして喫煙を正当化するときの論理は以下のとおり。

in bedには冠詞がない。ベツドと云ふ実体を指してはゐない。慣用の成語だらうと思ふ。ベツドで煙草を吸つてはいかん、と云ふのではない。寝てゐて煙草を吸つてはいかん、と云ふのだらうと解釈する。我我は寝てゐない。寝台の上に起きてゐる。抑もこの寝台はベツドではない。汽車の寝台、船の寝台はバアス berth である。この掲示の bed と云ふ字は、berth の間違ひだと云ふのではない。これでいいので、熟語風に読んで、寝てゐてとか、寝たままでとか解釈する。

とうとう百間先生は寝台で煙草を吸ってしまった。
見えた/見えないで二人の間でちょっとした口争いになった鳥海山も、頂上付近に雲がかぶさってはいたけれど、確認することができた。

同じ『第二阿房列車』に収められている「春光山陽特別阿房列車」「雷九州阿房列車」二篇では、「曲がった鉄橋」について面白い記述がある。
内容から推察するに、ここで言われる「曲がった」とは、川の上で鉄橋がカーブしているという意味だろう。
前者において百間は、山陽本線の吉井川に架かる鉄橋が日本で唯一曲がっているものだと子供の頃教わったと書いた。すると「ここにもある」という投書が数通寄せられ、後者において「曲がった鉄橋目録」として四つの鉄橋が紹介されている。
曲がった鉄橋がいまもあるのかどうか不明だが、そんなものがあったなんて知らなかった。

百間は目録を記したあと、こんなふうにコメントを付けている。

これで見ると、曲がつた鉄橋、曲線橋梁はまだまだ外にもあるか知れない。カアヴだけでなく、高くなつたり低くなつたり、勾配のついた鉄橋があればなほ趣きがある。(旺文社文庫版173頁)

こんな鉄橋通りたくない。でも考えてみればこれはジェットコースターと思えばいいのか。
厳しく不機嫌そうに口を真一文字に結んだ百間先生を、起伏に富んだジェットコースターに乗せたらどんなふうになるのか。想像したらおかしくなった。

■2002/05/28 批評の三重構造

丸谷才一さんの文章に和田誠さんが挿絵を添えた共著『女の小説』(光文社文庫)を読み終えた。

読みながら、この本は丸谷さんの著作のなかでどのように位置づければいいのか、いかなる意図で丸谷さんはこの本を書いたのか、あれこれ考えをめぐらせてはみたのだけれど、結局まとまらなかった。
自分にはこの本のセールス・ポイントをうまく説明することはできない、とてもお手上げだと観念したところで鹿島茂さんの解説を読んだら、なんとも見事に本書の要点をまとめられているので、思わず「そうだそうだ」と納得してしまった。
したがって以下はほとんど本書に関する鹿島さんの解説の要約である。

鹿島さんは本書を、近代的な小説の享受方法である「黙読による分析」ではなく、前時代的な「対話による味読」による小説批評であるとする。
つまり、ある作品を俎上にあげて何人かの人間がああでもないこうでもないと色々な説を出して論評する形式を、丸谷さんは一人でやってしまっているというのだ。

そしてその分割方法として、自分を男と女に分割しているという。
男軸の批評とは、ストーリーや人物配置などの構成力から批評する観点、女軸の批評とは小説を細部の充実から見る考え方のこと。丸谷さんは後者の観点からスタートして、女の小説(本書の対象はすべて女性作家の作品)というものの特有の価値を指摘してゆくと高く評価する。

個人的に言えば、本書の批評を読んで読みたくなった小説は多い。女性作家、しかも多くは海外の作家だから、私の嗜好からかなりかけ離れているにもかかわらず、である。
たとえばバイアット『抱擁』、クレイグ・ライスの諸作品、野上彌生子『迷路』、佐多稲子『灰色の午後』など。こうしたあまり今まで馴染みの薄かった作品がどんなものかわかっただけでも本書を読んだ価値があった。

鹿島さんは、文章に各二葉ずつ添えられている和田さんのイラストを、丸谷才一の「批評」をイラストにしているとする。
本書は二度も「本物の批評」を楽しめる贅沢な本であるというわけだが、私はこれに加えて鹿島さんの解説も、丸谷的批評、和田的批評をさらに包み込んだ批評であると称揚したい。鹿島さんの言葉を借りれば三重に「本物の批評」を楽しめるのだ。
これで700円足らずとはかなりお得な文庫本だといえるだろう。