読前読後2001年12月


■2001/12/01 蛙の子は蛙、そのまた…

あいだに出張をはさむことになってしまったが、青木奈緒さんの新刊『うさぎの聞き耳』と、青木玉さんの新刊『上り坂下り坂』(ともに講談社)を続けて読み終えた。
説明するまでもなく、幸田露伴―幸田文―青木玉―青木奈緒とつづく四代文人の名家で、玉さんまでの三代は自分にとって好きな作家であり、これまでそれぞれを愛読してきた。

今回初めて奈緒さんの著書を読んだことになる。
『うさぎの聞き耳』はインターネットの講談社のサイトに連載していたエッセイを柱にした軽妙なエッセイ集だ。
数えてみると私より四つ年上の奈緒さんは兎年であり、それがタイトルにも反映しているのだろうし、エッセイに登場する人物たちへの仮名のあて方も、うさ子ちゃんやらうさ実など、兎を織り込んだ楽しいものになっている。

大学卒業後単身ドイツに渡って翻訳などに従事し、帰国後文筆業に転じたという奈緒さん、文章の端々に、母まで三代続いている文人一家へのこだわりというか、居心地の悪さをのぞかせている。
ただ、そうした血筋を引く人間として見られることへの反発というか意識は、時間を経るにしたがって徐々に薄れてきているようである。
何よりも内容を見てわかるのは、奈緒さんはさっぱりした性格なのだろうなあということ。年下の男性からも頼りにされるような姐御肌の方らしい。
そしてやっぱり血は争えないというか、幸田家の作家だなあと感じさせるのが、「ぐうたらべえ」という言葉づかい(82頁)。
この言葉は祖母文さんの慣用句で、林えり子さんによれば、林さんご自身も時として使うが、いまの若い人たちは使っていない語に分類されるという(「東京っ子ことばの親玉は幸田文」『東京っ子ことば抄』講談社、299頁)。
でもパソコンを駆使して物書き稼業に励むお姿や感性は、私にとっては年齢的にも親近感を抱かせるものであった。

いっぽうの玉さんの文章は申し分なく素敵だ。
実のところ露伴から奈緒さんに至る四代のなかで、一番好きなのは玉さんかもしれない。今回の『上り坂下り坂』を読んでさらにその感を強くした。
とすると今のところ私のなかで四人の作品の浸透圧を高い順から並べると、玉―奈緒―文―露伴ということになりそうである。

■2001/12/02 谷崎は甘美な記憶

伊吹和子さんの『われよりほかに 谷崎潤一郎最後の十二年(下)』(講談社文芸文庫)を読み終えた。
上巻を興味深く読んだことはすでに10/22条で書いたが、下巻のほうで山場となるのは『瘋癲老人日記』だから、これまた面白くないわけがない。

本書を読むと、谷崎晩年の諸作品(たとえば『瘋癲老人日記』『台所太平記』など)は、ことごとく身辺での出来事とその観察が土台になっており、フィクションの味付けが薄いものになっていることがわかり、驚く。
もっとも、想像力の塊のような初期の谷崎作品が好きな私のような人間にとって、受け入れがたいという性質のものでもないのだが。

谷崎は『瘋癲老人日記』以後も旺盛な創作欲は衰えず、中絶したままになっていた名作『乱菊物語』『武州公秘話』の続編を書き継ごうと、伊吹さんに資料集めを指示していたというくだりを読んで、いいようのない悔しさというか、どこにもぶつけようのない焦燥感が沸き上がってきた。
両方の作品が好きな私にとって、このことは惜しいというにはまだ言葉が足りない。

この本を読んでいて、自分が谷崎を激読していた日々が脳裏によみがえってきた。
区切りとなる論文を提出し、進路を決める試験も終えて、前々から夢見ていた谷崎全集購入、第一巻からの読書が現実のものとなったのである。
そのときはもう夢中で谷崎作品の魔力に酔いしれて満足していただけだったが、このところときおり谷崎作品を手にとる機会があると、当時の記憶が甘美な雰囲気をまとってよみがえってきて、当時を懐かしく思うことがある。

結局このときは『卍』や『蓼喰ふ虫』といったいわゆる中期の傑作までたどりついたのをひと区切りにして、読むのを中断している。
だから晩年の諸作は『鍵』『瘋癲老人日記』のほか、「残虐記」など一部を除いてほとんど手をつけていないのである。

今回伊吹さんの本を読んで興味をそそられたのが『台所太平記』。伊吹さんは、この作品に谷崎の晩年の作品の中でも重要な位置づけを与えている。
私は谷崎の作品中でも一風変わったユーモラスなこの作品は、それゆえに遠ざけていたということがある。
年末年始にチャレンジしてみようか。

■2001/12/03 百間伝説の源

内田百間の頑固爺ぶりには様々な挿話がある。
このことは、中村武志さんや平山三郎さんなど、直接に百間を師と仰いだ有能な“百間の語り部”の存在抜きには考えることができない。

ドイツ文学者である高橋義孝さんもまた、百間を師と仰いだ“百間の語り部”と言っていいだろう。
よく百間と高橋さんの関係があげつらわれることがあるけれど、二人の関係を示す大本は、高橋さんの書いたエッセイ「実説百間記」にあったことが、このほどそれを収めた高橋さんのエッセイ集『私の人生頑固作法』(講談社文芸文庫)を読んでわかった。
さらにいえば、巷間伝えられている百間挿話のいくつかは、この高橋さんのエッセイが原典となっているものと思われる。

百間の『実説艸平記』をもじったとおぼしき「実説百間記」は、こんな書き出しで始まっている。

私は今ここに自分が百間内田栄造先生に関して知っていることの全部を書いてみようと思う。

以下書き連ねられている挿話の一つ一つが面白いこと。
『ノラや』で有名になった飼猫ノラの失踪事件のとき、百間の悲しみようが尋常でないので、たまらず高橋さんは酔った勢いで次のような電話をかけて罵倒する。

何だ、糞じじい、あんな野良猫なんか、今頃は三味線の皮になってらい。

その後高橋さんは一年余りの間出入り禁止になったという。

高橋さんが百間宅に招かれたとき、六時に来いと言われたから礼儀をわきまえて五分前に伺ったら、そんなに早く来られては手順が狂ってしまうと叱られる。
次の時に五分過ぎに伺ったら、遅刻されては困る、まだかまだかという緊張が身体に悪いと文句を言われる。
何だ糞じじいと、次に六時きっかりに門を叩いたら、そんなにぴしゃりと来られてはびっくりしてしまうとのたまった。

この話なども有名な百間挿話だが、高橋さんが出所であったか。

もっと紹介したいエピソードはたくさんあるが、字数の都合でこれでやめる。
私が死ぬまでに一度使ってみたい言葉は「イヤダカラ、イヤダ」。
こんな屁理屈を押し通して、権威を蹴散らしてみたいものだ。

■2001/12/04 追憶の文学、あるいは夢の顔合わせ

小沼丹さんの『木菟燈籠』(講談社)を読み終えた。

何が起こるわけでもない。平静な暮らしのなかで出会う人々、小動物、木、花などとの対話の断面を切り取り、見事な言葉で結晶化する。そんな魔法のようなわざにただ見とれて陶然とするばかり。
小沼文学といえばユーモアという言葉を思い浮かべるが、今回『木菟燈籠』に収録されている十一の短篇を読んではたと気づき、それが他の作品(たとえば『懐中時計』など)にも通底していることに思いが及んで、自分で納得してしまった。

小沼文学には「死」というテーマが色濃く投影されている。
すでに小沼ファンの間では周知の事柄に属するのかもしれないが、鈍感な私にもようやくそれを感じ取ることができたようだ。

もともと『懐中時計』などに収録されている“大寺さん物”は、奥様を亡くされた小沼さんご自身の姿がそのまま写しとられているわけだが、本書『木菟燈籠』でも、大寺さんだけでなく、ご本人そのものも登場して、しきりに亡妻の話題に話が及ぶ。

また、「「一番」」は大衆割烹の店を出している末さんや、馴染みの鮨屋「一番」のおかみさんが亡くなった話、最後の「花束」は新宿の酒場でよく顔を合わせた飲み仲間の毛さんが亡くなった話、「槿花」は火災保険の仕事で小沼家へ年二回ほど訪れる松木の爺さんが亡くなった話、松木の爺さんは、大寺さん物で、大寺さんの後妻が急病で入院した話である「入院」にも登場する。
こんなふうに、作品のいたるところに「死」や「病気」が登場して、それが登場人物の対話から醸し出されるユーモアと背中合わせに、お互いがお互いを際立たせているという格好になっているのだ。

「死」を読者に伝える締まった文章がまた素晴らしい。「「一番」」で末さんが亡くなったことを知った「私」の心象。

店に這入るといつも正面に、白いコック帽を被つて丸い赤い頬つぺたをした末さんの姿がある。それがこの夜は見えなかつたから、何だか物足りない気がしたのを想ひ出したが、末さんはこれから二度と姿を見せないと思ふと、どこからか寒い風が吹いて来るやうな気がした。

また、「花束」で、毛さんが亡くなったことを知った「私」の心象。

親爺の寄越した酒を飲んでゐる裡に、いつだつたか毛さんの奥さんが大きな花束を抱へてゐたのを想ひ出した。あれは何の花束だつたのだらう? 毛さんも奥さんもにこにこしてゐて愉しさうだつたから、そのときは何かいいことがあつたのだらうと思つたが、或はそれは思違だつたのかもしれない。
さう思つたら不意に空気が動かなくなつて、辺りがしいんとしたやうな気がした。

寒い風が吹いて来る、空気が動かなくなる、知己の死を知った瞬間の気持ちがこのたった一行に過ぎない文章のなかに封じ込められているのを読んで、鳥肌が立ってきた。

小沼さんがよく使う言い回しに、「かしらん?」という疑問形がある。「あれはどうなつたかしらん?」、こんな形で使われて余韻が残る。
この多用される「かしらん?」という疑問符も、よく考えてみれば追憶のなかで過去に出会った人物や物などを懐かしく振り返る文脈で使われていることが多い。
小沼文学を「追憶の文学」と呼んでみようか。

ところで本書冒頭の一篇「四十雀」には驚かされた。これに驚喜したため、全編を読み通すパワーが充填されたといっても過言ではない。

というのは、鎌倉の林(房雄?)邸を訪れたときのこのエピソード。

話をしながら何となく薄の方に眼をやつてゐたら、一人の男が薄の前を横切つて客間の外に立つた。半ば潰れた古ぼけた中折帽子を被つた中年男で、兵隊の着るやうな襯衣を着てゐた気がするが、はつきり想ひ出せない。どう云ふ人物なのか見当が附かなかつたが、…

という人物が、実は吉田健一だったのである。私の敬愛する二人の英文学者がこのような出会いをしていたとは。その後一度出版社で出会ったことも記されている。
小沼さんのロンドン滞在記『椋鳥日記』(講談社文芸文庫)を読んだり、倫敦とか卓子といった言葉づかいを目にして、吉田健一を思い出さないわけがない。この二人は知り合いなのだろうかと思ったこともある。
この二人の出会いを知っただけでも、読んだ価値ありという一書であった。
ちなみにこの「四十雀」には、小沼さんが久保田万太郎や久生十蘭とも鎌倉で会ったという話が書き留められていて、これもまた興奮させる挿話であった。

■2001/12/06 澁澤なひととき

河出文庫に澁澤龍彦の美術評論集『幻想の画廊から』が入った。
先月この本刊行の情報を知ったとき、もともと河出文庫に入っていた同書がいったん品切扱いになって、新装版としてふたたび文庫に入ったものとばかり思っていたが、これは大きな勘違いであった。

並んでいた同書を手に取り、帯に刷られていたキャッチ・コピー「美術界、思想界に文字通り〈革命〉をもたらした伝説の名著、待望の文庫化」とあるのを見て、まず不審に思った。
と同時に勘違いであったのではないかということにようやく気づきはじめ、河出文庫の既刊分ラインナップを確認するため、別の澁澤の著作を手にとった。
これでようやくわが誤りを認識したのである。

「あとがき」などを読み返して、徐々に思い出してきた。
私が持っているのは79年に青土社から刊行された新版で、白いカバーに薄い赤の線描(ゾンネンシュターンかスワンベルクの絵か)が入った瀟洒な装幀だったと記憶している(現物は実家に置いてあって確認できない)。
今度の河出文庫版のカバーはアルチンボルドのいかにもマニエリスティックな黒を基調にした色合いで、単行本のイメージを覆すものになっている。

単行本を入手したのは、“シブサワーナ日々”を見てみるといまからほぼ11年前の90年12月10日である。まだ青土社の新版が新刊書店に並んでいたのだなあ。

懐かしさに目次を繰って、目についた文章を数箇所拾い読みする。
私の絵画の好みはすべてこれら澁澤の批評・紹介が原点になっていることを再認識させられる。
それから十数年経って、すべてにおいて澁澤好みをコピーするという振る舞いはさすがに消えた。自らの感覚を頼りにふるいにかけられたすえ、いまだに好きな画家として興味が失せないのが、デルヴォーであり、キリコであり、マグリットである。
澁澤は触れていないが、フェルメールも加えて見渡してみれば、フランドル系の血筋を引く画家が自分の嗜好に合っているようだ。つまりは北方志向ということだろうか。

郵便配達夫シュヴァルやルードヴィヒ二世への興味も、ひょっとしたらこの本が出発点だったのかもしれない。

■2001/12/07 ある中央公論社盛衰史

粕谷一希さんの『中央公論社と私』(文藝春秋)を読み終えた。私のようなゴシップ好きにはこたえられない面白さの回想録であった。
文壇・論壇など出版社をめぐる著名人の裏話という意味では、嵐山光三郎さんの『口笛の歌が聴こえる』(新潮文庫)に描かれた平凡社の内幕にも驚かされたが、本書もそれに比肩する壮絶な内容である。

もちろん本書をたんなる出版社ゴシップの書とするのは皮相であり、1955年から78年まで在籍した中央公論社という出版社と自らの関わりを振り返るなかで、なぜ同社が現在のようなかたちで読売傘下に入らざるを得なかったのかといった、鋭い原因究明もなされており、そこに本書の真の価値が存在するのだろう。
ちなみに、粕谷さんの指摘する中公没落の直接の要因は「風流夢譚」事件と労使紛争にあって、その基底に流れる嶋中家によるファミリー企業体制の悪弊が示唆されている。
それに、そもそもなぜ中央公論社についての書物が文藝春秋から出されたのかも、本書を読めば得心する。

個人的には、幸田文・塩野七生・庄司薫・深沢七郎といった作家との関わりや、同僚であった綱淵謙錠・宮脇俊三さんたちの実像を楽しく読んだ。
鏡花賞作家であり、旅のエッセイストとしてしか知らなかった宮脇さんは、社内でも重要なポストに就いていた有能な編集者だったのだ。

ところで粕谷さんといえば『東京人』の編集人という立場を思い浮かべる。ああした楽しい、かつテーマ選択に鋭さが感じられるような雑誌を立ち上げた人物ということで、壮年の切れる人というイメージを抱いていた。
切れるというのは間違っていないかもしれないが、年齢は今年で71歳。もうけっこうなお歳の方なのだ。
『東京人』編集部に在籍していた坪内祐三さんとそりが合わなかったようだが、その理由も本書を読むとわかる気がする。

本書の性格上ご自分の立場を黒衣的な場所に置いているという傾きもあって、それでは粕谷一希という編集者はどのような人物で、社内でどのように見られていたのか、その点がはっきりしないというもどかしさがあった。
今度は、粕谷さんの立場をも客観的に盛り込んだような中公盛衰史を読んでみたいものだ。

■2001/12/08 混乱する本読みのはなし

四、五日前から電車本として沢木耕太郎さんのエッセイ集『チェーン・スモーキング』(新潮文庫)を読んでいた。

また、昨日から家で読む本として山口瞳さんの男性自身日記シリーズ第一作『還暦老人ボケ日記』(新潮社)を書棚から取り出した。
山口さんの日記シリーズは、そのスタイルゆえに読むのが中断されてもすぐ再開できるという利点があって、日常生活の隙間隙間でゲリラ的に読むことができて重宝する。家のなかで移動するときにはいつも小脇に抱えることになる。

やっぱり山口さんのエッセイは面白い。頭のなかは山口瞳一色になったところで、外出する時間になった。
電車に乗ってさっそく文庫本の栞を挟んであるページから読み始めた。そのエッセイは、向田邦子さんの「眠る盃」というエッセイで語られている挿話と似たような体験を著者もしているという話であった。

そこから著者の向田さんとの思い出にも話が及ぶ。初めて出会ったのは直木賞授賞式の当夜。ある酒場で顔を合わせて意気投合し、気づいたら朝まで飲み明かしていたという。
別れてから、向田さんに対して自分も同じような体験があるという話をするのだったということに気づいて悔やむ。

向田さんと呑んだ時に言い忘れ、こんど会ったときには必ず話してみようと思っていたが、「こんど」という機会はついに訪れなかった。

そういえば山口さんは向田さんの死を哀切きわまりない文章で綴っているよなあ。
その後このエッセイには、同じような体験の話(それは、子供の頃唱歌の歌詞を勘違いして覚えていたという話である)がさらに書き続けられている。
そのまま読み進めていったところでこんなくだりにぶつかり、頭の中が数秒間「?」だらけになった。

数年前、知人に誘われ、何人かでニール・サイモンの翻訳劇を見にいったことがある。その中のひとりに、どういうわけか山口瞳がいた。

あれあれ。この山口瞳って、あの山口瞳だよな。この文章は山口瞳が書いているんじゃなかったっけ。何でここで著者がこんな形で登場するんだ。
数秒間の頭の動きを再現するとこんな感じ。ページを行きつ戻りつした結果、ようやくこれが沢木さんのエッセイであったことを思い出したのである。

向田邦子さんというスイッチによって、沢木耕太郎―山口瞳が切り替わっていたのであった。あるいは、向田邦子という回路によって、沢木耕太郎の文章が山口瞳のそれに変換されてしまったということか。
こんなことは初めてなので、自分でも呆れ果ててしまった。

ところで『チェーン・スモーキング』と『還暦老人ボケ日記』を結ぶまた別のトンネルがあって、これにも驚いた。

沢木さんが新橋に近い酒場に行くと、先客に吉行淳之介と小田島雄志がいた。
吉行は沢木さんの顔を見るなり「そうだ」と何か面白いことを思いついたように笑いながら小田島さんにこう話しかけた。

どうだろう、今度は彼をゲストに呼んで、円地さんをおぶって下りてもらうというのは。

吉行・小田島と円地文子の三人は、ある雑誌の座談会で長くホスト・ホステス役を務めており、終わったあとはその酒場に立ち寄るのが恒例になっているのだけれど、円地さんは足が悪いので、急な階段を下りなければならないこの酒場に誘うのはためらわれていたのだという。
つまり沢木さんは、座談会のゲストは体のいい口実で、実は円地さんのおんぶ要員として招かれるというのである。

『還暦老人ボケ日記』では、なんとその吉行・小田島・円地の座談会に山口さんがゲストとして招かれた日の話が記録されている(昭和61年11月14日)。
それを見ると、「ある雑誌」というのは『銀座百点』であることが判明する。そこでのこんな楽しいエピソード。

座談会が始まったと思ったら、次回に誰を呼ぶかという相談になる。ずいぶん失礼な話じゃないかと思ったが、吉行さんによると、次回の人選は「今晩のおかずは何にしましょうかと家人に訊かれる」のと同じように鬱陶しいものなのだそうだ。そのくせ「結城昌治さんがまだですね。結城さんの食べものの話は面白い」なんて、その話に割りこんだりするのだから僕もどうかしている。

なるほどそのときのちょっとした思いつきでおかずは決められ、座談会のゲストが選ばれるのだ。
呆れる本読み体験あれば、素敵な本読み体験もあるものである。

■2001/12/09 心中複雑な本読みのはなし

歌舞伎座に行ったついでに、歌舞伎・芸能の専門古書店である奥村書店(四丁目店)に立ち寄った。そこで小林信彦さんの『和菓子屋の息子 ある自伝的試み』(新潮社)という本を見つけて手にとった。

小林さんは『私説東京放浪記』(ちくま文庫)という著作もあるように、下町生まれの東京っ子である。そのサブタイトルに心を動かされた。
小林さんのことだから、きっと子供の頃の東京下町の様子を克明に記しているに違いない。
帯には小林さん直筆の「私はこれを遺書のつもりで書いた」という一文がそのまま製版されて刷られている。
ひっくり返すと、カバー裏には弟泰彦さん製作にかかる1930年代の生地周辺の地図が刷り込まれている。薬研堀(日本橋米沢町)といって、いまの両国近辺なのだという。
両国といってもいまの両国(かつては東両国)ではなく、もとからの両国、現在では中央区東日本橋となっている場所である。これを見ると、小林さんは1932年にそこにある和菓子屋・立花屋本店の長男として生まれたのだそうだ。

これはいい本を見つけたぞ。心中でガッツポーズを取りながら値段を確認すると600円。奥付には96年8月発行とある。今から五年前だ。
とすれば、刊行時に私が興味を持たなかったはずがないのだが。しかも文庫になっている可能性がある。さらに最近のことになるだろう。
新潮文庫の小林さんの著作の黒い背に「和菓子屋の息子」の白い文字がある様子を頭で想像する。書店でもあまり見覚えがない。でもこんな面白そうな本、文庫にしてないとすれば新潮社の存立が問われるのではないか。

小林さんの生い立ちを知らなかったことからわかるように、もとより私はあまり小林さんの著作を読んでいるわけではないし、ファンというほどでもない。
だから、単行本・文庫版が出ても気づかなかったのかもしれないが、引っかからないというのも不思議だ。

ともかく内容的には申し分なく面白そうなので購入した。帰宅後ネットで検索したところ、やはり新潮文庫に入っていた。文庫版は古書価よりも安い。
ありがちなこととはいえ、こういう本が出ていたことを知らなかったのはショックだった。
その反面で、やはり文庫に入っていたかという安堵もあって複雑な心境だ。
ひとまず単行本で読んで、文庫版も後日買っておこう。

■2001/12/10 あの日、山口瞳と同じスタンドで

私が巨人戦(一軍の)を初めて観戦したのは、仙台の大学に入学した1986(昭和61)年、いわゆる「みちのくシリーズ」の遠征における仙台宮城球場での対広島戦ではなかっただろうか。
私と同級生の桑田のルーキーの年であり、彼のプロ初先発の試合だったと記憶している。三振の山を築いて好投したのも報われず、結果は引き分けであった。

まだドームになる以前の後楽園球場で初めて巨人戦を観戦したのは、その翌年1987年、セ・リーグの優勝を果たして、パ・リーグの覇者西武と対決した日本シリーズ第三戦である。
当時の西武は森監督率いる黄金時代で、野手は石毛・平野・辻・秋山・清原、投手は工藤・渡辺・郭泰源らを擁していた。日本シリーズは西武が勝った。
前々年のドラフトで巨人に指名されず、悔しさを噛み殺していた清原が、最後の打者のときに目を真っ赤に泣きはらしながらファーストの守備についていた、あの日本シリーズであるといえば思い出す方もいるだろうか。

さて私が観戦した第三戦(87年10月28日)は、巨人江川−西武郭の先発で、試合は石毛やブコビッチのホームランで西武が勝利した。ライトスタンドでの声を嗄らしながらの応援は報われなかった。
シリーズ直後江川は現役引退を表明する。つまりこの日本シリーズが彼の公式戦最後の登板試合なのである。
江川を現役最高の投手として入団以来尊敬していた私にとっても、結果的にこの試合は強く思い出に残る試合となった。

前置きが前置きといえなくなるほど長くなってしまった。
山口瞳さんの『還暦老人ボケ日記』(新潮社)は86年10月30日から88年3月9日までの日記体で綴られている。
そのなかで、山口さんがこの日本シリーズ第三戦を観戦されていたことが記されていて、驚いたのである。
秋の夕暮れの寂しさが西武に圧倒される巨人ファンの心中をあらわしていたようなあの後楽園のスタンドに山口さんもいて、同じ試合を観ていたことに、深い感慨をおぼえた。

山口さんはこんなふうに書いている。

むかし、日本シリーズの平日のデイゲームは、ガラガラに空いていたものだ。今日は超満員。暢気な時代だと思う。ネット裏にはパンチパーマの阿哥さんと厚化粧の姐さんが多く、宛然場末の競輪場のごとし。
(…)
僕は胃の痛くなるようなゲームだけは御免だと思っていた。一点差だが西武の楽勝で助かった。巨人の八安打は単打ばかりで、これでは点にならない。

上で私はいかにも過去の記憶を精密に憶えているかのような書き方をしているが、実は山口さんの記事を読んで思い出した部分が多い。

山口さんは名だたるアンチ・ジャイアンツであって、巨人を見る目は厳しい。
しかしその基底にはプロ野球、ひいては野球というスポーツに対する鋭い見識があって、巨人ファンの私であってもうなずかせられる指摘が多いのである。

先に江川引退のことに触れたが、江川が引退を決意したきっかけとなった試合は、広島球場での広島戦であり、小早川に渾身のストレートを叩かれてサヨナラ・ホームランを浴び、マウンドにがっくりと膝をついたあのシーンがいまだに脳裏に焼き付いている。

山口さんはこの日の試合をテレビ観戦していた(87年9月20日)。

この広島・巨人戦、一点リードされた広島の九回裏の攻撃のとき、妻(※山口さんの奥様は巨人ファン―引用者注)に
「大丈夫だ、今日の江川は凄いよ。よく見てごらん。こんな顔をしている江川を初めて見た。気合充分だ」
そう言った途端に小早川の逆転サヨナラ本塁打。僕の面目丸潰れ。この日、江川は帰りのバスのなかでも激しく泣いたという。しかし、野球はこうならなければ面白くないし、こうでなければ優勝できない。

この一事を見ても、山口さんの野球(人間)を見る眼の鋭さがわかろう。
この試合の裏話として有名なのは、“肩に鍼”の一件。
ここに鍼を打ったら、一時的に肩の痛みはなくなるが、それと引きかえに選手生命は終わりになるということを承知で江川は鍼を打ってもらう。それでその広島戦は全力投球が出来たのだが、結果は上記のような敗戦にというものだ。

引退会見で飛び出したこの裏話に触れた山口さんの文章は痛烈をきわめる。

僕がテレビで江川の話を聞いていて、最初に頭に浮かんだのは狼少年である。「狼少年、またやったな」と思った。江川は大人だと言われるが、これは子供の言訳である。
(…)いったい禁断のツボなんてものがあるのだろうか。これは全国の中国鍼の先生方に教えてもらいたい。鍼で肩がズタズタになるのかどうかも、あわせて御教示ねがいたい。

完全に敵意をむき出しにした酷烈な問いかけだ。
いまでも選手、解説者としての江川卓を尊敬し、巨人監督就任を切望している私にとって、この山口さんの文章は心穏やかなものではないのだが、そのいっぽうで、笑ってしまうほどの正直で正当な疑問であることも否定できない。
こういう山口さんのものの見方がたまらなく好きなのである。

■2001/12/11 山口瞳追悼文アンソロジー・その3

日記シリーズ男性自身のうち、既読の『還暦老人極楽蜻蛉』(本年6/1条)・『年金老人奮戦日記』(7/18条)でも行なった追悼文アンソロジーを、このほど読み終えた『還暦老人ボケ日記』(新潮社)でもやってみたい。

島尾敏雄氏死去の報。昭和二十年代の終りに、一緒の同人雑誌にいたが、島尾さんは別格の感があった。(86.11.13)

円地文子先生の訃報に接する。(…)円地先生は、亡くなった日も新年号の小説の口述筆記の約束があったという。わが身を顧みて忸怩たる思いがある。(86.11.14/18)

木村義雄十四世名人死去の報。また一人、昭和の巨人が消えた。電話取材には応じない主義なのだが、木村さんが非常なる文章家であることを言いたかったので、電話口で答えた。(86.11.17)

●前理事長武蔵川親方死去の報。一目見て巨人とも鉄人とも感ずるのは武蔵川親方のほかには将棋の大山康晴名人だけである。(87.5.31)

鶴田浩二氏死去の報。いいか悪いかわからないが鶴田浩二は任侠道に生きた人だと思っている。(87.6.16)

トニー谷六十九歳、石原裕次郎五十二歳、死去の報。(…)裕次郎は役者としても歌手としても映画製作者としても素人だった。素人主義は多くの若者に希望を抱かせたと思う。「俺だってもう少し股下が長ければ、もうちょっと声が良かったら」といったように……。(87.7.17)

川口浩さんがガンで死去。競馬の仕事で何度か一緒になったが、大映時代の暴れン坊の噂とは違って物静かな方だった。(87.11.18)

芹沢九段死去。五十一歳。彼も浴びるように飲んだ一人だ。飲み続けた。これは人生観の問題であって、他人が関与すべきものではない。僕は人生観が違うから抵抗を試みるつもりだ。(87.12.9)

石川淳先生死去の報。昔、銀座の酒場で老人二人が飲んでいて口論になり、いきなり一人が立ちあがって相手を殴った。驚破(すわ)やと腰が浮いたが二人は何事もなかったように再び飲みだした。殴ったほうが石川先生だった。(87.12.30)

宇野重吉死去。終戦直後、僕は夜の鎌倉の長谷通りで宇野重吉に会った。(…)木訥で何とも感じのいい青年だと思った。スターぶるところがない。その頃から宇野さんは喋り方も風貌もあまり変っていないように思う。(88.1.9)

一見した印象は、追悼文の数はそれほど多くないというものであった。
これは、山口さんご自身の死に対する意識が後の冊ほどに強くないということと、それとも密接に関連しようが、年齢的に友人・知人が亡くなるほどには達していない(といっても山口さんは書名にあるとおり還暦なのだが)という理由が考えられる。

また、本書は「男性自身」日記シリーズの第一作ということもあって、追悼文の書き方がまだ定まっていない。
以前紹介した二書では、年齢・病名まできっちりと書かれるようになるが、本書はまだそのスタイルが定まっているところまでいっていないようだ。

以上で紹介したなかでは、続けて亡くなった島尾敏雄・円地文子両氏の思い出が多く語られている。
また石川淳のエピソードはいったい何なのだろう。
土方巽のアスベスト館で澁澤龍彦が三島由紀夫にワインをぶっかけたという、嵐山光三郎さんの『口笛の歌が聴こえる』(新潮文庫)にあるエピソードを思い浮かべるが、こういう思考回路はどうも納得いかない。
飲んでいれば許せてしまうのだろうか。

■2001/12/18 二律背反と本好きの多様性

喜国雅彦さんの『本棚探偵の冒険』(双葉社)を読み終えた。
本書は、他人の本棚をチェックするだけでなく、他人の本棚に本を並べる手伝いをするのが好きだという“本棚探偵”を自称する喜国さんの、古本蒐集にまつわるエピソードをつづった連載エッセイをまとめたものだ。

読み進めながら、複雑な気持ちになるのを避けられなかった。
次へ次へと読み進ませるような強烈なドライブ感を感じるいっぽうで、「ちょっとここまでは…」と引きたくなる気分、それに、近親憎悪というと言葉が悪いけれども、それに近いような、他人が自分をこれに近いように見ているのだろうなあという居心地の悪さ、そうした様々な気持ちが複雑に交錯していたのである。

もちろん基本的にドライブ感を感じる本は、これまでの経験を振り返っても面白いということなので、それは本書においても変わりはない。
しかし、そのうえに上記のようなマイナスの感情が到来して、どうにもやりきれなくなってきたのであった。

喜国さんは、古書であれば何でもというタイプではなく、戦前のミステリ(主として日本の)という確固たるフィールドを持っている。
また、函欠の本がある場合に自分で函をこしらえてしまうとか、もともと函などがない文庫のセットに函を新作してしまったり、オリジナルの豆本まで作ってしまうなど、普通のマニアにはないセルフメイドの精神を持ち合わせている。
この姿はいっぽうの極みであり、敬服に値する。ただ同じ古本好き(あるいは本好き)でも、私にはそこまでのこだわりはない。

本書を読んでいて頭に去来したのは、「本好きの多様性」ということ。すなわち、さまざまなレベルの本好きがいるということだ。
喜国さんのようなセルフメイドに行きつく人、装幀が異なる版まで集めなければ気がすまない人、読めればいいという人、それに、そもそも古本をあまり好まない人、「本」という物体を愛し中味はどうでもいいというビブリオマニアなどなど。
インターネットという世界はそうした様々なタイプの本好きが掲示板などの情報交換の場を共有することが可能になり、それによって本好きの質が均質化しているように思う。
そのような趨勢に対しては、頑固に自分の殻(というか考え方)を守る立場もあろうし、その流れにまかせて自分の関心を広げていくという方向もあろう。

喜国さんが書き込んでおられる掲示板に集う人々(本書の巻末にある対談に登場する人々がその中心)の間では、本書はおおむね好意的に、全幅の共感をもって受けとめられているようである。
私は上記のような印象から、古本好きの生態として共感できる部分とついていけない部分の両面を感じ取った。
これは直接著者と面識がないゆえに客観的に読むことができたせいなのかもしれない。
いずれにしても、立場は異なるにせよ、喜国さんのような方が古本というテーマで函・検印付という凝った装幀の本を上梓され、それを読むことができるのは喜ばしいことであると思う。

こう書いている私だって、多少マニアックな、こだわりのある性質がないとはいえない。
他の本好きの方々のなかには、私のような本の買い方読み方は性に合わないという方がいるに違いないのだ。

たとえば今日買った本の話。
河竹登志夫さんの河竹黙阿弥以後の河竹家を描いた評伝『作者の家』が岩波現代文庫に入ったので買い求めた。二部構成の二分冊である。
これまで本書は、講談社刊の単行本、講談社文庫版(二分冊)、悠思社刊の単行本新装版という三種類のテキストが刊行されている。

私は基本的に読めればいいという立場なので、最初からもっとも安い講談社文庫版(品切)を探したところ、まず第一部のみを入手した。その後二冊揃の文庫版を見つけ、これも仕方がないので購入した。
ところがその後、別の古書店で格安(定価の半額)で同じ二冊揃を見つけたのである。迷ったのだがこれも購入した。安いということに加え、汚れも少ないというのが購入の動機である。すでに持っている一セットは読みたいという方に差し上げようというつもりであった。
ただ二セット目の揃いは、帯も付いていたことも購入のきっかけになったということを正直に告白しなければならない。帯は副次的なものにすぎないと思えども、あればそれに越したことはない。

さてそれに加えて今度の岩波現代文庫版の購入となる。都合三セット半(7冊)。
読めればいいというのであれば、岩波現代文庫版は不要だろうと思われる方がいるに違いない。
この買い方は断じて受け入れかねるという方がいらっしゃれば、どうか同じ本好きに免じてお許しいただき、そしらぬ顔で通り過ぎてください。

■2001/12/19 嵐山小説の不思議

嵐山光三郎さんの『頬っぺた落とし う、うまい』(ちくま文庫)を読み終えた。
本書は帯に「連作料理譚」とあるように、一つのメニューをテーマにした短篇を二十本集めた連作小説の体裁をとっている。各短篇の柱となる料理はカレーやラーメンといった、いわゆるB級グルメから、鯛茶漬やはまぐり汁、寿司、蟹のような多少高級感のただよう料理までさまざまだ。

主人公は東京文物大学(!)助教授として日本の街道文化を研究している神崎圭一という美食家。
彼が日常生活や旅先で出会ったり、彼自身が腕をふるってこしらえたりする料理をめぐる話である。そのなかでロマンスがあったり、助手や学生との交流や家庭事情が立体的に語られてゆく。

嵐山さんの小説はこれまで『口笛の歌が聴こえる』(新潮文庫)・『桃仙人』(ちくま文庫)の二長編を読んだことがある。本書で三作目にあたるわけで、これは決して多いという数字ではない。
だからこれだけから嵐山さんの小説作品について語るのは不十分なのだが、とりあえず今の時点で感じたところをまとめておこう。

そもそも小説としての芸術性という意味では高いレベルにあるはいえないのではないだろうか。
文体が説明的で、会話文がこなれていない。小説の文体というよりは、ノンフィクションの文体といったほうが近いかもしれない。
しかしこのことは逆にいえば嵐山作品の長所を示していることにもなる。つまりテーマ選択と構成の面においては絶妙で、小説でありながら実質は客観的な評伝に近いものであるということが文体にも反映しているいっぽうで、多量の情報をそのなかに含みこむことになるのである。

本書は評伝ではないが、「あとがき」では「出てくる店は話は、ほとんど私の経験」というノンフィクション的な様相を帯びているのである。
未読だが近作の『美妙、消えた。』(朝日新聞社)やつい先日文庫化された『文士温泉放蕩録 ざぶん』(講談社文庫)では明治文壇の情報が良質なまま大量に投入されていると見受けられる。

嵐山さんの小説は、意外に中毒性があるのだ。

■2001/12/20 クラフト・エヴィング商會風ものづくし

昨年末に刊行された『らくだこぶ書房|21世紀古書目録』(筑摩書房、以下『らくだこぶ』と略す)はいま思い返しても素晴らしい本だった(2000/12/17条参照)。
だから、ちょうど一年の時をおいて同じ筑摩書房から刊行された『ないもの、あります』にも大きな期待を抱いて読み始めた。

率直に言って、単純な比較で言えば私の好みでは『ないもの、あります』は『らくだこぶ』に及ばない。
なぜそう考えるのか、根拠はいちおうある。

『ないもの、あります』とは、「よく耳にはするけれど一度としてみたことのないものたち」の商品カタログのスタイルをとる。全23品。
たとえば、「堪忍袋の緒」「舌鼓」「左うちわ」「相槌」「口車」「先輩風」などなど、日本語独特のモノを比喩に使った(というと「風」はそれには含まれないがまあそれはそれ)言い回し(これを慣用句といっていいのだろうか)に実像を与えて紹介するといった、いかにもクラフト・エヴィング商會的な「架空の商品目録」である。

読んでいて微笑ましくなるほどに楽しいし、実物(?)イラストも笑える。
ただいかんせん実際に存在する言葉に実体を吹き込む試みだけに、限界、あるいは窮屈さがうかがえるのである。
その点『らくだこぶ』は書物という縛りこそあれ、そもそも書物の定義すら固定的でないわけだから、いわばゼロから架空のモノを記述するという意味で、想像力の羽を思い切り広げた伸びやかな内容だといえないだろうか。

こうした存在する言葉に実体を吹き込む文章実験といえば、別役実さんのお仕事を思い浮かべる。
『ないもの、あります』と親近性をもつ作品でいえば、『道具づくし』(ハヤカワ文庫)だろうか。目次から近い言葉を拾うと、「うしろがみ」「じだんだ」などはクラフト・エヴィング商會によって取り上げられても不思議ではない。
別役さんの“ものづくし”は、その硬質な文体と即物的な叙述によって架空の言葉が見事に実在感をもって立ち現われてくる。
クラフト・エヴィング商會のとる方法はこれとはある意味対極的で、ファンタジックな方向に想像力を飛翔させている。
良し悪しの問題ではないとあらかじめ断っておくが、別役スタイルに一日の長があるというべきだろうか。

■2001/12/21 往来堂書店の二つの時代

安藤哲也さんの『本屋はサイコー!』(新潮OH!文庫)を読み終えた。

安藤さんは、千駄木にある往来堂書店の店長として、取次の意のままになる金太郎飴型書店を脱し、ユニークな仕入れと棚揃えで店を一躍有名にした人だ。
マスコミからは、当時流行っていた言葉を借りて「カリスマ書店員」などと呼ばれたらしい。もっとも本書を読むとこの呼び名は本人は嫌いだったらしいが。

安藤さんは、店のウェブサイトを立ち上げ、メールマガジンを発行して軌道に乗せた直後の2000年春、オンライン書店のbk1に移籍したことでも話題になった。さらにbk1のサイト内に個人書店「ブックス安藤」を立ち上げている。

本書は安藤さんが大学卒業後に就職した出版社の営業や、転職後の別の出版社の宣伝部員の時代から、往来堂の店長になって店を育て上げ、bk1に移籍して現在に至る活動を自ら振り返ったものである。
安藤さんご自身はこう見られることに反発を感じられるかもしれないけれども、本書はその意味で一種の“サクセスストーリー”でもあり、ビジネス論でもある。もちろん本好きには一読をおすすめしたい。

私が往来堂書店に初めて立ち寄ったのはいつのことだろう。Googleサイト内検索をかけたところ、去年(2000年)1月に二度目(?)の来店を果たしているらしいから、もう少し前のことになる。
いずれにしても、店に入ってみてその棚構成の妙に感激し、それ以来大好きな本屋さんの一つになったのである。メールマガジンも配信してもらうよう、さっそく申し込みをしたのはいいのだが、その直後に移籍の話が飛び込んできたのであった。

往来堂書店の棚は安藤さん曰く「文脈棚」といって、棚の配置、本の配置相互に連関性のある、本好きをくすぐって購入欲を起こさせる性格のものだ。
岩波を除いて、既刊の文庫・新書などは単行本と分け隔てなく仲良く並んでいる。
叢書別の作家五十音別という並び方ではないから、ある本を購入する目的で店に入り、首尾よくその本を見つけたら、隣にもっと面白そうな本が並んでいて、ついそれも買ってしまう…、そんな仕掛けがいたるところに設けられているのだ。
この精神は安藤さん移籍後二代目店長に就いた笈入建志さんにも受け継がれていて、いつ訪れても何かの刺激を受ける楽しい本屋さんとして千駄木に君臨しつづけている。

■2001/12/23 出逢いとは素晴らしきものなり

有名人同士の出会い、あるいは、その後有名になった人同士の出会いを語るエピソードというのは、そこから発するエネルギーの大きさゆえか、話を聞くだけでも圧倒されるものがある。
推理小説作家結城昌治さんの文庫新刊『死もまた愉し』(講談社文庫)はそうしたエピソードが白眉となっている本である。

本書は、結城さんが平成8年1月に亡くなる一年〜半年前の平成7年2月〜6月の間に語り下ろされた同名の著作に加えて、句集『歳月』『余色』が収められている。
結城さんは戦後に趣味で俳句を始められ、一時中断の後また晩年に句作を再開されており、この二つの句集はその時期を編年でたどることができるようになっている。

語り下ろし部分では、結城さんの人生観、死生観が、自らの越し方を振り返りながら温かみをもって綴られている。
結城さんは戦後直後に結核を患って肋骨十二本を切除するという大手術を受けた。快癒の後もそれを原因とする低肺状態に悩まされ、無理な運動、仕事などを慎むことを余儀なくされた。そのようなこともあって、病んだこと、さらに老いたことによって至る枯淡の境地が伸び伸びと語られている。
もっとも結城さんは、人間枯れちゃおしまいで、他人に迷惑をかけない範囲で人間っぽく自然体に生きることが一番と主張している。
おっしゃるとおりなのだが、若いうちにはなかなかそれができず、いっぽうで枯淡の境地への憧れを抱いてしまうのである。

ところで出会いのエピソードである。
これは有名な話だが、結城さんが結核を患って入院した清瀬の療養所の隣室には石田波郷が、さらにその隣には福永武彦が同じ病気のために入院していたというのである。
結城さんは波郷からは俳句を、福永からは推理小説の面白さをそれぞれ学んだということで、その後の作家活動・趣味活動の基盤はここに形成されたわけである。
石田波郷・福永武彦・結城昌治の出会いというのも文学史上の大事件ではないか。
結城さんは本書のなかで、この恩人二人について実に懐かしそうに、愛惜を込めたオマージュを贈っており、読んでいて胸が熱くなるのであった。

最後に個人的に気になった結城さんの句から。

ぼ う ふ ら も 生 き る い と な み 死 ぬ な か れ (あるひとに)
い わ し 雲 ど こ へ ゆ く に も 手 ぶ ら に て
い く た び も 死 に そ こ な い し ゆ か た か な

■2001/12/25 遺書のつもりで

「私はこれを遺書のつもりで書いた」といういささか衝撃的な自筆キャッチ・コピーが帯に刷られている小林信彦さんの『和菓子屋の息子 ある自伝的試み』(新潮社)は、その言葉に違わず、渾身の力作である。

小林さんは、東京は両国(現中央区東日本橋)の老舗和菓子屋立花屋本店の十代目になるべき子供として、1932年12月、この世に生を享けた。
代々店主が小林安右衛門を襲名したこの和菓子屋は、祖父八代目のときまでは順調に老舗ののれんを受け継いでいたが、もともと和菓子屋を継ぐ意志がなかった父がやむを得ない事情で九代目安右衛門を襲名したあたりから歯車が狂い始める。それが決定的になったのは、昭和20年の東京大空襲による店の焼失であった。
それでも戦後かろうじて営業を続けていたのだが、いずれ閉店に追い込まれ、父九代目の死によって完全に再開の芽も摘まれてしまった。
小林さんが十代目安右衛門を襲名することはなかったのである。

本書は小林さんが生まれてから父の死までの二十数年間にわたる、下町商家の生活や下町の子供の生活が克明に紙の上に再現されている。
記述はもちろん本人の記憶が柱となっているのであるが、それにもまして重要な資料となっていたのが、母方の祖父が付けていた日録。
母方の祖父は、自分の娘が小林家に嫁いだときに日録をつけはじめた。
これはたんなる日記ではなく、いわゆる“貼雑”的なもので、孫(つまり信彦さん)からの来信やパーティの献立表などさまざまな物が貼り継がれて記録されているという稀有な資料で、小林さんの父九代目が亡くなった直後、祖父から母に手渡され、現在信彦さんの手もとに残っているのだという。
これがあるからこそ本書が成り立ったといっても過言ではない。
それにしても、現在の自分が全く記憶していない子供の頃の葉書を母方の祖父が大切に保存しており、それを数十年の後に見せられたときの心境とはどんなものなのだろう。

さて本書の記述は精緻をきわめ、その豊富な情報量からは小林さんの次代に残そうという意気込みがひしひしと伝わってくるのであった。
たとえば下町のたたずまい、下町人気質、下町言葉、下町の物売りなど、定型化して私たちに伝わっているいわゆる「江戸っ子」イメージの誤りを正すという体のもので、一々目から鱗が落ちるような指摘ばかり。
小林さんが通っていた下町の小学校では、不衛生な新聞紙にくるまれた露店のお好み焼き(牛天)を食べることが禁じられており、そのために小林さんはお好み焼きを生まれてこのかた食べたことがないと述べているのにも驚いた。

小林さんの個人的思い出・経験に触れた部分では、少年時代に見た寄席や映画の思い出、芸人・俳優の思い出など、すべてが興味深い。
忘れてならないのは、一人の子供の視点から振り返った空襲・疎開の様相と、そのなかでの国民生活であろう。戦前戦中の東京の下町を語るうえで、すべての面において本書は無視できない存在であると考える。

本書を読んで個人的に動かされたのは、古川ロッパ・高勢実乗の二人の芸人。
この二人の名前はこれまでも色川武大さんや矢野誠一さんの著作などで目にして、その都度心動かされるものがあったのだが、本書でそれが決定的になった。
二人が登場する映画をどうしても見てみたい。

戦局の推移によって歌舞伎や落語などの娯楽が制限されるなかで、次に引用するような小林家における“遊び”がなんとも微笑ましい。

空襲の近い一九四四年ともなれば、落語の放送はすくない。それでも、家族はじっとラジオにききいって、マクラから本題に入ったところで、
「入った……」
と真先に呟いた者が勝ち、というまことにシブいゲームをやっていた。

こんなことをいうのは今更という感がなくもないが、現在はテレビ、ビデオ、インターネットの普及などで娯楽の面で不足を感じることは絶無である。
充足した世の中で生活している私であるが、小林さんの少年時代におけるラジオや映画、寄席の存在の大きさというものをつくづく感じさせられた。

■2001/12/26 銭湯とファミレスから見た現代日本

星野博美『銭湯の女神』(文藝春秋)を読み終えた。

著者の星野さんの本業は写真家。大学在学中に香港に留学し、その後写真家橋口譲二氏のアシスタントを経て独立、さらに中国返還をはさんだ二年間ふたたび香港に滞在したという経歴をもち、この返還前後の香港滞在体験をもとに著した『転がる香港に苔は生えない』で第32回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞された新鋭エッセイストでもある。
寡聞ながら同賞受賞作は知らなかった。
本書の新刊時の宣伝「銭湯とファミリーレストランから透視した「東京」をめぐる39の掌編」というキャッチコピーに惹かれたのである。
読んでみてこの期待はまったく外れたものではなかったことを確認した。読み応えのある、鋭い現代日本社会批評の書である。

星野さんは、実家が東京にありながら、「自由」を求めて親元を離れ一人暮らしすることを決意する。職業もフリーの写真家であり、フリーのライターである。
それゆえ自由、フリーという言葉、その言葉の示す内容についての意識は研ぎ澄まされている。
「フリーランスとは、精神の自由ではなく、他者の資本から自由である立場」「自由はいつだって、経済問題だ」という指摘は重い。

銭湯とファミレスという二つの場所は星野さんがよく利用する空間である。
ファミリーレストランは、東京という都市にとって「一日座っていれば、そこに暮らす人々のコミュニティーのありようや人との距離、時間の過ごし方が見えてくる、そこの文化そのものを代弁するような場所」だという。
星野さんは、誰とも接触したくないが人がいる場所にいたい、そうした理由からファミレスで多くの時間を過ごす。
そこで見聞きする他の客の会話、ドリンクバーしか注文しない著者に対する店員の態度、これらの実体験を通して現代日本社会とそこに暮らす人間の病理が鋭く抉られている。

いっぽうの銭湯は、身にまとう社会的立場を脱ぎ捨てた人々同士が素っ裸で向き合う、ファミレスとはある意味対蹠的にある空間だといえる。
ファミレスに一日座っていれば、今の東京で人々がどんな生活をしているかおおよその見当がつくが、銭湯にいる限りその流れはさっぱり見当がつかないという。
銭湯とは「世界から取り残されることを厭わない人たち」が集まる現代社会のなかでは特異な空間なのである。
星野さんは一人暮らしをするうえでの経済的事情から銭湯を使うようになるが、次第にそこに行くことが生活の一部として根づいてゆく。そこでの微細な人間観察もまことに驚異的だ。
表題作「銭湯の女神」は、「人は一生の間に、一体何人の生身の裸をみるのだろう?」という問いかけにはじまり、「私は裸のあなたが好きだ。/裸のあなたが、大好きだ」という一文で締めくくられる刺激的で素晴らしいエッセイである。

やはり本書のなかではファミレス・銭湯を舞台にしたエッセイが群を抜いて面白い。
この透徹したまなざしは、ヨーロッパでもアメリカでもなく、同じアジアの、混沌たる都市香港での滞在経験と決して無縁ではないのだろう。客観的でありながら時々対象にズバリと切り込む間合いが、読む者をとらえて離さない。

このような視線から、現代日本の特徴的な事象、コンビニ、カフェ、携帯電話、インターネット、100円ショップを一刀両断する姿勢は、わが身の愚かさを責められた恥ずかしさをかき消してしまうほど爽快であった。

最後に印象に残った一節。

写真を撮るという行為には、いつも悲しみがつきまとう。写真家とは、記憶という墓場の墓堀人なのかもしれない。

■2001/12/27 2001年印象に残った本

今年は春に掲示板を開設したこともあり、そこからいろいろな情報を得ることで飛躍的に読書の幅が広がった“激動の一年”だった。
この場をお借りして書友の皆様に御礼申し上げたい。

さて、今年初めて読み、深い共感をおぼえた著者は数多い。
山口瞳、向田邦子、小沼丹、沢木耕太郎、堀江敏幸、藤田宜永などなど。
とくに最初にあげた山口さんなど、その後数多くの本を買い集め、読んだことから一端の通気取りになっているけれども、実は今年読み始めたばかりの初心者にすぎないのだ。小沼さんも然り。

以下、印象に残った本を列挙してみよう(★印は今年の新刊)。

青柳いづみこ『青柳瑞穂の生涯』(新潮社)
和田誠『銀座界隈ドキドキの日々』(文春文庫)
山口昌男『内田魯庵山脈』(晶文社)★
北村薫『リセット』(新潮社)★
丸谷才一・山崎正和『日本史を読む』(中公文庫)
『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』(中央公論新社)★
佐野眞一『だれが「本」を殺すのか』(プレジデント社)★
向田邦子『父の詫び状』(文春文庫)など
山口瞳『江分利満氏の優雅なサヨナラ』(新潮文庫)など
小沼丹『小さな手袋』(講談社文芸文庫)など
宮部みゆき『淋しい狩人』(新潮文庫)など
堀江敏幸『回送電車』(中央公論新社)など★
坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(マガジンハウス)など★
鹿島茂『文学は別解で行こう』(白水社)など★
沢木耕太郎『彼らの流儀』(新潮文庫)など
岡崎武志『古本でお散歩』(ちくま文庫)
赤瀬川原平『全面自供!』(晶文社)★
藤田宜永『巴里からの遺言』(文春文庫)
木山捷平『鳴るは風鈴』(講談社文芸文庫)★
川上弘美『センセイの鞄』(平凡社)★
藤森照信『天下無双の建築学入門』(ちくま新書)★
塚谷裕一『漱石の白くない白百合』(文藝春秋)
種村季弘『東海道書遊五十三次』(朝日新聞社)★
伊吹和子『われよりほかに(上・下)』(講談社文芸文庫)★
小林信彦『和菓子屋の息子』(新潮文庫)
星野博美『銭湯の女神』(文藝春秋)★

このなかから、息もつがせないほど面白く一気に読んだ本、読んでいてそのまま読み進めるのが惜しくなった本ということで十冊を選ぶと次のようになろうか(一人の著者からは一冊)。

『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』(中央公論新社)
伊吹和子『われよりほかに(上・下)』(講談社文芸文庫)
やはり谷崎はすごいということを思い知らされたのが上の二著。谷崎の魅力は尽きない。

向田邦子『父の詫び状』(文春文庫)
浸透圧ゼロ。読むのが惜しくなるほど、しみじみと文章を味わいたいエッセイ。

小沼丹『椋鳥日記』(講談社文芸文庫)
小沼さんの本すべてが面白かったのだが、あえて一冊となればこの作品。

坪内祐三『三茶日記』(本の雑誌社)
今年は坪内さんの本でいろいろ楽しませてもらったが、彼の著作活動、読書生活の裏側をうかがうという意味で一番面白かったのがこれ。

堀江敏幸『いつか王子駅で』(新潮社)
さほど間をおかずに再読してしまうほどの熱の入りよう。
文章のリズム、描かれた下町風景、堀江さん偏愛の小道具など、すべてにわたって非の打ちどころなし。

鹿島茂『背中の黒猫』(文藝春秋)
鹿島さんの著作も多く出版されたが、そのなかではこの抱腹絶倒のエッセイ集を選ぶ。
初めて聞いた講演会での楽しいお話も忘れられない。

赤瀬川原平『全面自供!』(晶文社)
赤瀬川さんと松田哲夫さんの合作というべきこの聞書き、赤瀬川さんの飄然とした、それでいながら過激であるという魅力を余すところなく伝える。

藤田宜永『巴里からの遺言』(文春文庫)
子供の相手をしながら公園で思わず読みふけってしまった連作。この一冊でハードボイルド小説作家としての藤田さんのファンに。

木山捷平『鳴るは風鈴』(講談社文芸文庫)
これまた、この本で木山ファンに。

藤森照信『天下無双の建築学入門』(ちくま新書)
知的刺激でいえばこの本がベスト。藤森さんの思想が凝縮。目から鱗。

選びきれずに一冊多くなってしまった。
このなかで、今年の新刊としてのベストをあげるとすれば、やはり堀江敏幸『いつか王子駅で』に指を屈するしかないと思う。
いや、これは新刊・古本に限らずベストだ。この作家との出会いは衝撃的だった。
来年早々新刊が出るとのこと。来年も目が離せない。

■2001/12/28 新宗教の空間

ある特定の宗教の施設を建築の面から眺めるということは、その宗教の空間を眺めることでもある。
宗教の空間というものは、その宗教の空間認識、別の言葉でいえば宇宙観を示すものに他ならない。
したがって特定の宗教の建築物を眺め理解することは、その宗教の教義を解釈することへと直結する問題なのである。
旧来の仏教や神道と一線を画した形で生まれた新宗教の場合でも、それまでの日本に伝統的な寺院建築や神社建築の様式をまったく無視しては成立し得ない。
既成宗教に対する準拠のあり方、価値判断が、建築から透けて見えることもあるのだ。

五十嵐太郎さんの新刊『新宗教と巨大建築』(講談社現代新書)は、建築史が専門の著者が新宗教の建築空間を読み解く試みであるが、その一方で必然的にこれら新宗教の教義を建築に即して平易に解説する得がたい一書となっている。

著者はこれまでの新宗教の建築に対するまなざしのあり方を批判することからはじめる。
由緒ある神社や寺院の古建築は文化財として尊重されるいっぽうで、新宗教の建築は莫大な建設費用や豪華さ、巨大さばかりが強調され、信仰の堕落、悪の象徴とみなされやすいというのである。
また、現代のポストモダン建築や過去の大聖堂について語る言葉があるいっぽうでの現代の宗教建築を語る語彙の欠落を指摘する。
誤りをかえりみず強引に要約すれば、新宗教の建築群を、先入観を一切取り除いたうえで、旧来の宗教の建築群や現代の他の分野の建築と差別せずに同一平面上で論じるべきだということになろう。

ここでいわれる「新宗教」とは、江戸末期から近代にかけて誕生した、旧来の仏教や神道とは異なる教義をもつ宗教のことで、本書では主に天理教・金光教・大本教が取り上げられている。
いずれも教祖は江戸末期に生まれ、幕府の崩壊、明治政府の成立といった激動の時代を背景として神がかりになり、多くの信者を獲得、急速に教勢を拡大した。

五十嵐さんは、これら新宗教にとって、空間理念を実際上の建築物として表現するのは教祖ではなくその後継者であるとする。天理教でいえば二代目真柱中山正善、大本教でいえば出口王仁三郎がそれにあたる。
彼らが教祖の言葉(天理教でいえば開祖中山みきの「おふでさき」、大本教でいえば出口なおの筆先)を空間概念に翻訳し、信者の信仰心を煽り立てる威容をかたちづくるのである。

東京の街を散歩するようになって、建築物などに目が向くようになったとき、ときおりこうした新宗教の目を圧する巨大な建物や、周囲の空間からは隔絶された異様な雰囲気の建物と出会うことがある。
前者でいえば飯倉にある霊友会の建物、後者でいえば上野池之端にある大本教の東京支部などだ。
私は特定の宗教を信仰しているわけではないのだが、このような建物に出会うとき、なぜかしら心に疼くものを感じる。
これらもまた寺院や神社建築と同様、宗教的なエネルギーをもっているからに違いない。

亀岡城跡にあった大本教の重要施設が戦前の弾圧により破却され廃墟と化した写真が、なぜか昔から脳裏に強く焼きついていた。このこともあって大本教は気になる存在であった。
気になる存在といえば天理教も同じで、中山正善が推進した古典籍の蒐集という側面で、天理図書館、ひいては天理教にも興味を持たずにはおれなかった。
今回本書によって、これら二つの新宗教の成立から教義、空間などを知ることができたのは嬉しい。

それにしても天理教は、その宗教名が市の名前になっているほど地域に根ざした宗教であるといえるわけであり、その都市空間がどうなっており、そこに住む人々はどのような暮らしを営んでいるのか、汲めども尽きぬ興味を抱かせられるのである。

■2001/12/29 百鬼園先生の屁理屈

アルバイトというかたちではなく、給料をもらう定職について何よりも嬉しかったのは、給料日が土日にあたる場合給料が金曜日に振り込まれることであった。
アルバイト代や奨学金などの場合はたいがい月曜日になってしまう。
振込日がそれにあたってしまった場合の土日の暮らしがいかに侘しいものであったか。

だから、給料日が前倒しになることは私だけでなく誰もが嬉しいものだとばかり思っていたのだ。
しかしそうではない御仁もいたのを知って驚いた。ほかでもない内田百間である。

池内紀さんの編集でまとめられた『百間随筆1』(講談社文芸文庫)に収められている「無恒債者無恒身」には、こんな楽しい所感が述べられている。

小生の勤務する鳳生大学の俸給日は、二十五日である。二三年前までは、その二十五日当日が、いい工合に日曜や祭日にあたる時には、俸給日を繰り下げて二十六日に、休みが二日続けば二十七日に伸ばし、或時などは、日曜や祭日が四日も五日も続いたわけでもないのに、俸給日を月末まで伸ばしてくれて、特にその内の一回は、丁度運よく十二月だったので、大晦日の午後に月給を貰うような廻り合わせになって、どんなに助かったか知れない。

文中の「鳳生大学」というのは、申すまでもなく百間が勤務していた法政大学の仮名である。
なぜ百間が給料日前倒しを毛嫌いするのか、すでにお気づきの方もあろう。
そう、給料日になると百間先生がツケ払いをしている様々な方面の人々が教員室の入口や廊下の隅で待ち構えているからなのであった。

しかし取り立てから正当に逃れることができた百間先生の黄金時代は過去のものとなってしまう。
規定が改正されて、大学は「甚だ厳酷」にも、二十五日には必ず月給を支給し、しかのみならず、それが日曜にあたっていようものなら、卒然と一日を繰り上げて払ってしまうのである。

ことほどさように百間先生の屁理屈ほど面白いものはない。

■2001/12/30 翻訳家の余技

すぐれた翻訳家による翻訳論、もしくは彼らが手すさびに書いたエッセイに「外れ」はほとんどない。
ある言語を別の言語に営々と移しかえる仕事は、複数の言語を巧みにあやつり、それぞれの言語を使う文化圏に対する深い理解なしには務まらない。また、たんに文章を機械的に移すのではなく、一つの単語でも、それぞれの作品の全体的雰囲気に即して、あるいは同じ作品でもその時々の文脈に応じて移しかえられる日本語は微妙に異なるものとなろう。それゆえ翻訳家には日本語のセンスや研ぎ澄まされた人間観察が必要になるのである。
文章がつまらないはずがない。

深町眞理子さんの文庫新刊『翻訳者の仕事部屋』(ちくま文庫)はその意味で「大当たり」のエッセイ集であった。
深町さんはSFやミステリーを中心に二百冊以上の翻訳を手がけている、その筋では著名な翻訳家である。本書でも随所で自分のミステリー好きに話が及ぶ。ミステリーのなかでも、クリスティーやクイーンなどの謎解きに重きをおいたいわゆる本格派が一番のお気に入りとか。

私も彼女の名前は何度か目にしたことがある。そう思って、本書に収められている「訳書目録」を繰ったところ、明確に購入して読んだ記憶があるのは、『アンネの日記(完全版)』(文春文庫)と『シャーロックホームズの事件簿』(創元推理文庫)くらい。

さて深町さんは、翻訳者の条件として、英語を正確に理解することとそれを日本語で的確に表現すること、これを必要条件としてあげたうえで、たくさんの本を読んで日本語に対するセンスを磨き、広範囲な教養を身につけることを主張する。
さらに訳者=役者論を唱える。ある一つの作品を翻訳者は自分なりに解釈し、それを翻訳という形の自己表現に仕上げる営みは、役者(俳優)が一つの台本を自分なりに解釈して役柄を演じるそれと似ているというのだ。その類似関係ゆえか、歌舞伎がお好きなのだそうだ。

嫌いなものは嫌いとはっきりいう江戸っ子的人柄(深町さんは1931年東京生まれ)も好ましい。
スティーヴン・キングの翻訳を多く手がけているにもかかわらず、キングの作品はあまり好きでないとはっきり言う。それにはそれなりの理由も述べられているのだが、読んでいて爽快である。

本書は深町さんの初エッセイ集。刊行からわずか二年で文庫に入った事情は、内容の素晴らしさの一端を伝えていようか。

■2001/12/31 せまじきものは宮仕え

タイトルの言葉は、歌舞伎三大狂言のひとつ「菅原伝授手習鑑」のなかの「寺子屋」において武部源蔵が吐く台詞であり、歌舞伎の名台詞のなかでも最も人口に膾炙しているものの一つといってよいであろう。
源蔵が主君の子を討てという命を受けながら、それができずに身代わりの子(実は松王丸の子)の首を討つ決意をしたときの述懐である。
岡本嗣郎さんの文庫新刊『歌舞伎を救ったアメリカ人』(集英社文庫)は、いろいろな場面でこの台詞が登場し、それぞれ強い印象を与えている。
その意味でこの台詞は、本書のモチーフの一つといっても過言ではない。

「歌舞伎を救ったアメリカ人」とは、戦後マッカーサーの副官として通訳をつとめたフォビアン・バワーズ氏のこと。
彼は戦後の民主化政策のなかで危機的状況にあった伝統芸能の歌舞伎を、その危機の淵から救ったことで有名な人物だ。
いや、本書で有名になったといえようか。本書がきっかけでテレビで特集され、私もそれで初めて知った口なのだから。

バワーズ氏は日米開戦直前の1940年、旅行で初めて日本を訪れた。そのとき、お寺と間違って入ったのが歌舞伎座。そこではちょうど「仮名手本忠臣蔵」が上演中であった。十五代目市村羽左衛門が勘平と塩冶判官を演じた伝説の名舞台である。
彼は日本語もよくわからぬながら、一目でこの「忠臣蔵」、ひいては歌舞伎という芝居に魅せられ、短期滞在予定を変更してそのまま一年間日本に滞在することになる。

日米の衝突が激しさを増し、開戦が時間の問題になると、アメリカ人のバワーズ氏は日本にいたたまれなくなって国外脱出を余儀なくされる。
その後終戦までの間に本国で徴兵を受け、先の滞在により完璧に身につけた日本語の会話能力を買われて、終戦と同時に通訳としてふたたび日本の地を踏むことになる。

戦中の日本で歌舞伎は、軍部から検閲を受けて、「寺子屋」の例の台詞は「お宮仕えはここじゃわやい」とまったく逆の意味に改変させられる。
戦時下に軍部によって槍玉にあげられた演目は、占領下のGHQにおいてはまったく逆の解釈がなされるのが普通である。
ところが「寺子屋」は、最も封建的、非民主的な演目の代表として上演を禁止されてしまったのである。

さてバワーズ氏はマッカーサーの副官として、有名なマッカーサーと昭和天皇の会見に臨むなどの歴史の目撃者となったいっぽうで、GHQの検閲部により歌舞伎の多くの演目が上演禁止になるという事態を憂慮し、副官という立場を利用した越権行為をおかしてその検閲に横槍を入れ、歌舞伎の存続に尽くした。
さらにそれでも十分でないと見ると、自ら副官の地位を投げ出して、民間人の立場である検閲官への転任を希望する。
マッカーサーという絶対的な権力者の副官として、何不自由ない生活をし、発言力も大きかった立場を捨て、給料も半分の一民間人として、より歌舞伎に身近に接する、台本を検閲する役人へと華麗なる転身を遂げるのだ。
まさに「せまじきものは…」である。
六代目菊五郎・初代吉右衛門や当時は若手であった松緑・歌右衛門・梅幸・幸四郎(白鸚)らとの交流を交えながら描かれる、このあたりのバワーズ氏の奔走は読んでいて迫力がある。

バワーズ氏のすごいところは、たんに日本語が堪能だというだけではなく、歌舞伎狂言ひとつひとつに持っている深い見識である。それがあるゆえに、封建的だ、残酷だという理由で退けられそうになった演目が、別の解釈を付与されてアメリカ人の検閲官に説得され、受け入れられる。
ときにはその解釈がアクロバティックな論理に支えられたものであったとしても、歌舞伎の「か」の字も知らないアメリカ人を説得するための方便であれば、バワーズ氏がブレーンとして師事した河竹繁俊博士としても容認せざるをえない。

そうしたバワーズ氏の力あって、いま私たちは伝統をこの目で感じることができるのだ。
本書の映像化にさいしてバワーズ氏も最後の来日を果たし、新三之助演じる「勧進帳」を観て「安心した」の言葉を残し、その十ヶ月後に世を去った。
本文庫版には、そのさいに著者岡本さんと、首相就任前の小泉純一郎氏との間で行なった鼎談が収められている。この鼎談は、バワーズ氏のユーモアあふれる語り口はもちろんながら、小泉さんがいかに歌舞伎好きであり、本書の元版を読みこなしておられたかがわかって興味深いものとなっている。