読前読後2001年10月


■2001/10/01 色川=阿佐田作品の隠れた傑作

もともと色川武大=阿佐田哲也さん(以下色川さんに統一)は好きな書き手であったけれども、今回このエッセイ集を読んで、ますますその魅力にとり憑かれてしまった。
集英社文庫に入っている阿佐田名義のエッセイ集『無芸大食大睡眠』である。

軽めのエッセイ集といった趣きで当方も軽い気持ちで読み始めたのだが、書かれている内容は多岐にわたって、かつ面白く、熱中して読んでしまった。
自伝的回想、身辺雑記、友人達との交友、ギャンブルについて、人生観、現代社会批評、そして芸人論…。
『うらおもて人生録』や『なつかしき芸人たち』(いずれも新潮文庫)、『阿佐田哲也の怪しい交遊録』(集英社文庫、未読)の陰の存在(?)ながら、色川さんの魅力を余すところなく伝えているという意味で、意外な大傑作ではないかと思う。

それにしても色川さんの交友範囲は広い。作家でいえば村松友視、山口瞳(色川さんへの追悼文あり)、沢木耕太郎、和田誠(これは映画の関係で当然)など、私が別の道筋で興味を持ち始めた方々ともお付き合いがあって、やはりつながっているのだなあと感慨ひとしお。
これらの人々との飲み歩きの記などを読むと、本当に楽しそうで、そして友人たちから色川さんがいかに慕われているかが図らずもわかってしまうのであった。
目立たぬ存在の芸人や俳優、力士たちへの暖かいまなざしで書かれたエッセイもよく、この人と呑んだり、競馬場で話したりするのはすこぶる愉しいに違いないと思うのである。

色川さんがいなくなって残念だと感じるのは、つぎのような一節を目にするときだ。
「腹話術の芸」という文章で色川さんは、この二十年来、腹話術はテレビ時代になって芸にならず、通用しなくなったとしている。
ところがモナコのホテルで見た腹話術師の芸に舌を巻く。本人の唄と人形の裏声での唄の二重唱をしたというのだ。「腹話術ならこれでないともう通用しない。芸人の世界もきびしいのである」と締めくくっている。

果たして色川さんがいまのいっこく堂の芸を見たら何とコメントするだろう。
私は初めていっこく堂の腹話術を見たとき、その素晴らしさに呆然としてしまったが、色川さんもきっと絶賛するのではなかろうか。

■2001/10/02 新書を侮るなかれ

たかが新書されど新書。新書という出版形態は、単行本などと比べて軽視されがちだが(これは私だけかもしれない)、「名著」といわれるような著書が意外に新書という形をとっているものが多い。
岩波新書を思い出してみても、あれと、これと、色々思い浮かべることができる。

このたびその仲間入りをするに値する新書にめぐりあった。藤森照信さんの『天下無双の建築学入門』(ちくま新書)である。
昨日書いた阿佐田哲也さんの『無芸大食大睡眠』ではないが、軽い気持ちで手に取り、最初は「ふむふむ、タンポポハウスやニラハウスを手がけた藤森さんらしい、独特の縄文建築論だなあ」と読んでいた。
ところが読み進めるうちに、これは大変な書物であるぞと居住まいをただし、昨夜のうちに一気に読み終えてしまった。
本書はもともとかつて筑摩書房から出ていた異色の雑誌『頓智』に連載されていた文章が原型となっている(本書T部)。その後『頓智』の休刊による連載休止を惜しんだ、当時大成建設に勤務していた増田彰久さんのすすめで、大成建設の社内報『たいせい』に連載が引き継がれた(本書U部)。
だから、分量的にはともかく、内容的には単行本で出てもおかしくないものなのであった。

さて本書は何が大変な書物なのか。
藤森さんが子供の頃過ごした長野の田舎生活の体験や、タンポポハウス・ニラハウスで培った自然な素材を使っての建築の体験といった具体的な事象から説き起こし、それらを縄文から現代までを見通した建築史の大きな流れの中に位置づけ、さらに欧米やアジア諸国の住宅文化との対比の中に位置づけられることで、これまであって当然、考えもしなかった居住空間の構成要素たち、たとえば天井・畳・壁・廊下・台所などがまったく別の相貌を帯びて立ち上ってくるのである。
建築史学の視点から見直したスケールの大きい日本文化論、比較文化論の「名著」である。

目から鱗の紹介したい箇所は多々あって、付箋がニョキニョキと本の天から林立している状態だ。

たとえば、なぜ日本は引き戸の民家が多く、ドア形式はないのか。ドアがあっても外開きばかりなのはなぜか。
また、廊下の章で、江戸時代の将軍は外出して帰ってきたとき、どこをどう通って大奥の寝室までたどりついたのか。もっともこの疑問は、生活史的研究が手薄な建築史学の欠点として指摘されているにとどまり、回答は用意されていない。

戦前から戦後の台所空間の変化を論じ、反面での座敷の消滅を説く。その最後で、「座敷、床の間、床柱、ああいうなくても日々の暮らしにはかまわない無用なものが家の一角にあることで、何かこう精神性が家に付与されていたような気がしてならない」のように鋭い批判を投げかける。
台所がたんなる調理の場だけでなく、食べる場と合体してダイニング・キッチンとなったのは六十年代後半に作られだした団地においてのことで、その設計には「マルクス主義建築学者」が関与していたという。
うーむ。マルクス主義建築学者なんていう人がいたんだ。

さらに紹介。
日本は本来「無階段階級」が国民の大半を占めており、平屋づくりの家が圧倒的に多かった。土地がたいして広くないのにもかかわらず、なぜ垂直移動を拒否して水平移動の住居を好んだのか。
そこには日本独自の身体表現、相撲や柔道、能や舞でのすり足による水平移動が関わっていないか。その証拠に、垂直構造の住居を好むヨーロッパでは、ダンスのような上に跳ねる身体表現があるではないか。

かつての日本の建築には必ず縁の下があった。ここからは「床下文化」が生まれ、それなしでは「忍者文化」は生まれなかった。さらにかくれんぼ文化や宝隠し文化、野良猫文化まで。
半分冗談のようでいて、かなり奥が深い指摘である。

また、戦前までは、広いお屋敷に住む偉い人ほど冬は寒い暮らしをしていたという仰天の指摘。
天皇や元大藩のお殿様(細川氏が例にあげられている)といった偉い人が囲炉裏にあたって炬燵に入るのはサマにならないだろうという、一見感覚的な理論の裏にはきわめて合理的な建築史学的解釈が隠されている。

もうあげれば切りがない。

語り口も豪快というか、奔放というか。
露天風呂を論じ、女性が体にバスタオルを巻いて入浴することをやめさせようとつい熱が入った議論を展開しているうちに、いつの間にか表現が「露出風呂」になってしまい、書きながらそれに気づいたことをそのまま記しているところなど爆笑してしまう。
また、タンポポハウスのように屋根に草花を植えた芝棟の親類を、フランス・ベルサイユ宮殿内にあるマリー・アントワネットが作らせた田園の家畜舎に見つけたくだりで、いつのまにか彼女が実際に乳絞りをしたかどうかという本筋を離れた話になり、きっとしたはずだという説にくみしたうえで、理由を「コスプレはしてみると分かるが、アクションをせずにはおられないものだから」と書く。
いったいこの人はどんなコスプレをして、「アクション」をしたというのだ。

読みながら、この本が放つ知的刺激のあまりの強烈さに、新書ではありながら何か賞をとるに値する本であると直感した。
サントリー学芸賞向けであるかと思ったが、文学賞をはじめとする様々な賞の歴代受賞者をリストアップしているありがたいサイト“Awardweb”を見ると、藤森さんはすでに『建築探偵の冒険・東京篇』ですでに同賞を受賞されているではないか。
とすると何か。芸術選奨だろうか。

■2001/10/03 怒りまくりの東京紀行

山口瞳さんの『新東京百景』(新潮文庫)を読み終えた。

今年に入ってから、すっかり山口さんのエッセイに傾倒してしまっている私であるが、実はこれが山口さんの著書を購入した初めての本なのであった。購入記録を遡ると、去年の上半期に見える。
もっとも購入の動機は、山口瞳という作家にあったのではなく、その内容、東京本たることにあった。
山口ファンと化した今、その立場で本書を読むというのも、大げさだが感慨深いものがある。

さて本書は、画材を携えて東京都内のホテルに宿泊し、東京の新名所をスケッチしながらその顛末を綴った、珍しい「東京紀行」となっている。連載されていたのは1986年。バブル以前のことだ。

むろんそれ以前から東京の変貌ぶりは急激だから、その変わりつつある都市風俗を細かに見聞しながら、ホテルの接客や若者の風俗、料理店の堕落などに怒りを爆発させている。
そんなに度々怒らなくとも…というくらいポンポンと頭が破裂する。宮武外骨の頭を爆発させた自画像を思い出してしまった。
私は山口さん晩年の「男性自身」のエッセイしか読んだことがないので、この怒り様には最初驚き、戸惑ってしまった。しかしよく考えてみると、もともと山口ファンになる前に抱いていた山口瞳という作家のイメージは、怒る人、というもの。つまりこれが本領なのだろうか。

本書のヤマ場は、浅草のストリップ小屋で、目当てにしていたストリップ嬢の登場を目前にして気分が悪くなり、ひどい嘔吐をしながら救急車で運ばれてゆく光景を自らルポした第三景と、帝国ホテル十七階のレインボーラウンジで目撃した男二人女一人の三人組のおぞましい愛憎劇を活写した第十四景だろう。
私の知らない世界。

本書中の名言二つ。

不思議なことに、浅草というところは、何をやっても、たちまち浅草になってしまう。原宿全体を浅草に持ってきても、浅草になるだけだ。これは偉大な町だ。(126頁)

歌舞伎の名優がいない、落語の名人がいないなんて町が、どうして東京でありえようか(181頁)。

こういう東京っ子山口瞳の啖呵を目にするにつけ、住んでいるからには楽しまないと損だという気になる。

■2001/10/04 日本語に取り憑かれた人々

ワープロに慣れてしまうと字を忘れていけないという議論があるけれども、あれは何か科学的な根拠があったのだろうか。結論めいたものが出たのだろうか。
私はワープロ(専用機)という機械は好きで、かつ字を書くのも大好きな人間だ。これはいわゆる「書」ということではなく、普通に字を書くのが嫌いではないということで、むしろ難しい字を綺麗に書いたりするのが楽しいのである。我ながら変な人間だ。

高校時代(80年代半ば)の頃から、量販店の店頭に置いてある、まだディスプレイが一行分しかないような初期のパーソナル・ワープロのキーボードを叩いて字が変換され、紙に印刷されるのを楽しんでいた。
大学生になって、親の助力を得て念願のワープロ専用機「文豪」を購入して、卒論はワープロで執筆した。もっとも指導教官がワープロによる提出を禁じていたため、最終的には打ち出した原稿を手書きで原稿用紙に写したのであるが。
そのとき、提出期限に間に合わせるため原稿書きを急いだためか、書いていた右手が動かなくなってしまったことを懐かしく思い出す。
そして字を書くことがこれほど辛いものなのかと、ワープロに慣れて手を動かすことをしなくなっていた自分を恨んだ。

紀田順一郎さんの『日本語大博物館』(ちくま学芸文庫)は、幕末から現代に至るまで、悪魔の言語日本語と格闘した人々の記録である。
活字の魅力に取り憑かれた宮武外骨・江戸川乱歩・中里介山から始まり、活版技術の歴史を一望する。さらに、日本語辞書作成の二大巨人、諸橋轍次・大槻文彦の事績、また、日本語の複雑さから解放されるために立ち上がった、カナ文字運動・ローマ字国字化運動・漢字廃止論の思想と盛衰が簡潔にまとめられている。

しかしそれらにも増して私にとって何より面白かったのは、活版やガリ版、写植、邦文タイプライター、ワープロの開発に携わった「知の職人たち」の列伝だ。
日本語を綺麗にかつ合理的に紙に印刷するための血のにじむような努力の跡をたどった技術史的記述からは、彼らの仕事に対する紀田さんの敬意が透けて見えてくる。

本書を見ると、本格的なパーソナル・ワープロ時代の到来を告げた東芝のRupoは、1985年に発売されたという。
自分はその頃からのワープロファンだったのだなあ。

■2001/10/05 本を語る理想の本

文芸作品の書評というのは一種の芸であり、短い枚数にいかに適確に内容を要約し、批評を加えるかは評者の腕の見せどころである。
文句なく素晴らしく、私が大好きなのは、丸谷才一さんに種村季弘さん、鹿島茂さんといったところ。
このなかに川本三郎さんも入れたい。

たまたま古書店で手に入れた川本さんの『本のちょっとの話』(新書館)は、最も新しく刊行された川本さんの著書『東京残影』(河出文庫)の著者紹介に「近刊」として出ており、かねがね気になっていた本であった。
気にはなるけど、新書館の本などは大書店にでも行かないと滅多にお目にかかることができない。しかもいざ大書店に行ったときには、そのことは忘れてしまっている。古書店でめぐり合ったのは幸運だった。

本書を掲示板で紹介したとき「書評集」としたが、これは本書の性格を適確に言い表していないことが、読んでみてわかった。
「あとがき」で川本さんは次のようにいう。

長いこと書評の仕事をしていると、細部が語られないことが次第に無念になってくる。総論はとりあえず置いておいて細部にこだわる。そんな書評があってもいいのではないか。

つまり、読んだ新刊書で気になった「細部」にこだわり、そこからまた別の書物へと連想がつながって、芋づる式に楽しい本が掘り出され、紹介される。
対象となる本と正面から向き合った「書評」と比べれば、まさに「ほんのちょっとの話」なのだが、話の広がり具合が無性に面白いのだ。
素人本読みである私は、きちんとした書評をする才能に乏しいので、「読前読後」ではこうした川本風書評を試みているのだが、このスタイルを貫徹するためには、幅広い関心と経験、それに加えて芸が必要であることが身に沁みてわかった。
川本さんはやはりすごいし、『本のちょっとの話』は私のめざすべき理想のスタイルである。

本文の下には脚注形式で紹介されている本のデータが示されている。大半が文庫本など廉価なものでありがたい。
本書を読んで心動かされ、すでに古書店に注文してしまった本一冊、積読状態から久々に手にとってみた本数冊。まだまだ波紋は広がりそうだ。
巻末に書名索引があればもっとよかった。

■2001/10/06 人生を修復する

先日読んだ藤田宜永さんの『巴里からの遺言』(文春文庫)は衝撃的なほど面白い作品であった(8/19条参照)。
このたび新潮文庫に入った『壁画修復師』も、カバーの内容紹介を見るかぎりその系譜を引いた作品のようだから、期待を抱かずにはおれないものだった。
そして読んでみて、その期待を裏切るどころか、前作に輪をかけて面白いものだったからたまらない。この二冊ですっかり藤田ファンになってしまったのである。

主人公の日本人アベの職業は壁画修復師(家)。フランスの田舎町を転々として、それらの町に存在する教会の漆喰壁の下に塗り込められ、偶然のきっかけで表面に表れた中世のフレスコ画を修復する仕事である。
フランスは文化国家だから、各地域にこれら文化財の保存責任を担う監督官という立場の役人がいて、壁画修復師はその要請を受けて各地に派遣され、実際の修復を行なうわけである。地元でも、教会から中世のフレスコ画が発見されたとなると、観光の目玉としてその修復、保存に積極的に関与するようになる。
何でもこれらの費用は、国が50%、県と地元の町がそれぞれ25%ずつ負担するとのことで、たとえば県が手を引いたりすれば、人口数百人の町では修復費用の負担に耐えかねて、修復そのものが頓挫してしまうこともあるわけだ。
また町によっては、教会の壁画が観光の目玉になるから、あるとも知れない壁画の「発掘」を依頼してくる。壁画修復師はいっぽうで「壁画発掘師」でもある。
本書はこうしたフランスの文化財行政の仕組み、実態を知る意味でも興味深いものであった。

エトランジェとして小さな村に滞在するアベは、村々で知り合った人々の壊れかけた関係、傷ついた過去に関する相談をもちかけられ、聞き手となることでそれが自然な紐帯となり補填剤となる不思議な存在である。

アベという、フランス語で「神父」を意味する音と同じ苗字、人生経験豊富なことを暗示する50歳という年齢、そして一時的にしか村に滞在しない、しかも、教会に中世の宗教画を甦らせるという、カトリック社会においては尊敬に値する職業、それら様々な要素が作用して、アベと付き合うとまるで心理カウンセラーのように自分の傷ついた過去を話さずにはいられなくなるフランス人たち。
この人物設定は見事というほかない。

そもそも料理人をしていたアベが壁画修復の仕事に携わるようになったのは、妻の妹と関係をもち、それを気に病んだ妻が自殺してしまうという事件がきっかけだった。
物語は連作短篇のかたちをとって、そうした主人公の過去が、事件に出くわすたびに徐々に明らかにされるという縦の構造をもっている。
『巴里からの遺言』もそうであったが、大きな縦のプロットが物語全体を貫きながら、一書を構成する各短篇も個々に完結しているという連作の魅力が存分に生かされた作品であった。藤田宜永=「連作の魔術師」という称号を与えたいほど。

とくに主人公の前職が料理人だったからというわけではなかろうが、本作品には食欲をそそられるような料理が数多く登場する。
フランスだからいわゆる「フランス料理」には違いないけれど、日本における高級料理としての「フランス料理」でなく、あくまで田舎町の普通の家庭やカフェで提供される家庭料理としてのフランス料理。食べたくなる。

料理だけではない。登場人物たちが食事のさいに飲み、あるいは酒場で酌み交わす果実酒にも格別の興味をそそられる。
ここでわざわざ「果実酒」と書いたのは、葡萄酒=ワイン以上に、林檎から蒸留された酒、シードルやカルバドスがむしろ物語で主要な役割を果たしているからなのだ。
とりわけカルバドスは一番最初の短篇の表題にもなっている(「五十年目のカルバドス」)。

ちなみに、本書は実際にフランスでフレスコ画の修復家・画家として活躍されている日本人高橋久雄氏にアドバイスを受けて成ったものなのだそうだ。

■2001/10/07 東京っ子の系譜

野口冨士男さんの自伝小説『かくてありけり』(講談社文芸文庫、書名は短篇「しあわせ」と併録のため『しあわせ/かくてありけり』)を読み終えた。

野口さんは複雑な家庭に生まれた。
離婚していながらも、事業に手を出して浮沈の波が激しく、失敗しては出奔を繰り返す父と、神楽坂で芸者置屋を経営する母の双方に身を寄せながら暮した幼少〜青年時代。
また、慶応幼稚舎から慶応大学に進むも、肌に合わずに大学を退学し、神田の文化学院を経て編集者、文筆業で身を立てる。物語は結婚、軍隊への徴集、母の病死を経て、父の自死で締めくくられる。

住まいも赤坂、牛込、神楽坂と転々とした。緻密な記憶力にもとづき大正期のこの地域の様子が描かれる。
関東大震災や二・二六事件に遭遇したときの記憶も生々しい。『私のなかの東京』(中央公論社)を読んで、野口さんのこうした記憶力の良さには驚倒したのだが、あらためてそこに感服してしまった。

私にとってやはり興味深いのは、大正から昭和初期にかけての東京の庶民生活の様子であり、とりわけ野口さんが育った花柳界のしきたりなどにはまったく疎いために、知るところが多かった。
以下ちょっと下世話な風俗語彙について紹介したい。

神楽坂のような芸者街ともなると、芸者たちは周囲をさほど気にすることもなく化粧などを行なう。部屋には所狭しと鏡台が置かれ、諸肌脱ぎになって襟白粉をぬる姿など当たり前。夏になると窓が開け放されるため、道を通るだけで芸者たちの半裸の姿が目に入ってくるのだという。
いつの時代にも覗き屋はいるもので、その彼女たちを目当てに路地へ入ってきて物陰で自慰する男がいて、「かき」と呼ばれて見つかると水をひっかけられたという。

そこから、花柳界の縁起担ぎについて話が及ぶ。
するめ=あたりめという、私でも知っているような言葉だけでなく、すり鉢=あたり鉢、すりこぎ=あたり棒、硯箱=あたり箱と言い換えていたという。これは知らない。また逆に、猿=エテは知っているけれども、なぜ禁句としてこう言い換えられたのかという理由がわからない。お茶=あがりというのも花柳界の言葉だったとは。その他、塩=浪の花、爪楊枝=黒文字、金=おたから、蛇=長虫…。ここまで来るとさっぱりだ。

野口さんが亡くなったのは1993年(平成5)である。
野口さんの訃報に接して、山口瞳さんはこんなふうに記している。

野口冨士男さん死去。呼吸不全。八十二歳。昔から何度もお目にかかっていたが親しくお話を伺う機会に恵まれなかった。以前は地味な文学史研究家という印象があったが、『かくてありけり』(昭和五十四年刊)あたりから僕に近いところにある方だと知ったのだが、残念なことをしてしまった。(『年金老人 奮戦日記』新潮社、p444)

野口さんは1911年(明治44)生まれで、1926年(大正15)生まれの山口瞳さんとは15歳離れている。
山口さんの『血族』(文春文庫)などを読めばはっきりするのだろうが、これまで読んだエッセイの端々からも、やはり家庭が複雑であったことをうかがうことができた。
そのような体験を土台に自らを振り返る私小説を書いたという意味で、山口さんは野口さんに対して「近いところにある」と感じたのかもしれない。

別のところで山口さんは、『かくてありけり』で語られているあるエピソードに言及している。
これまで慶応幼稚舎から男ばかりの世界で暮らしてきた野口さんが、初めて男女共学の文化学院の教室に入ったときに嗅ぎ取った「オカイチョ臭い」という匂いについてのこと。

『新東京百景』(新潮文庫)の第三景「浅草ビューホテルからの眺め」の章で、浅草のストリップ劇場ロック座に入った山口さんは、このオカイチョのにおいを嗅ぎ取ったという。
オカイチョとは何か。山口さんは戸板康二さんに質問したら、「御開帳」のことではないかという回答を得ている。そういうことである。ちなみに戸板さんは1915年(大正4)生まれ。

「オカイチョ臭イというのは、妙に懐かしい感じのする匂いだ」と追憶にひたりながら、山口さんはロック座でぶっ倒れたのであった。

■2001/10/08 「洲崎パラダイス赤信号」を観る

早朝、ふと思いたって阿佐ヶ谷にあるミニシアター“ラピュタ阿佐ヶ谷”のサイトをのぞいてみて、寝ぼけ眼が吹き飛んだ。
川島雄三監督の名作「洲崎パラダイス赤信号」が、10時45分からのモーニングショーとして昨日七日から今度の土曜十三日まで上映されていることを知ったからだ。

そもそもこの映画館の存在を知ったのは、ふじたさんから「洲崎パラダイス赤信号」を近いうちに上映するだろうという情報をいただいてのこと。以来、時々気がついたときに同館のサイトを見て、チェックするようにしていた。
偶然とはいえ、上映期間のそれも初期の段階で気づいてよかった。今週の自分の予定を冷静に考えると、今日しか見にいくことが叶わなかったのだから。

もともと今日は別の予定を立てていたのだけれど、急遽それを変更して身支度を整える。
阿佐ヶ谷に行くのは初めてであるから、どうせなら古本屋も見て回りたいと欲を出し、岡崎武志さんの「古本は中央線に乗って」(『古本でお散歩』ちくま文庫所収)を斜め読みして、駅と古本屋の位置関係を頭に入れる。
さらに予習のつもりで、川本三郎さんの『銀幕の東京』(中公新書)の「洲崎パラダイス赤信号」に触れた部分にざっと目を通した。

今回ラピュタ阿佐ヶ谷における「洲崎パラダイス赤信号」の上映は、「小林信彦が選びラピュタが贈る『20世紀の日本映画100本』」という企画としてのもの。続いて来週には同監督のもう一つの傑作といわれる「幕末太陽傳」が上映されるそうだ。

チラシに引用されている小林さんの評にはこうある。
「元赤線の女(新珠三千代)とヒモの男(三橋達也)が、あてどなく深川に向かう発端がもうただごとでない」
私にとっても本当にこれはただごとではなかった。

二人が勝鬨橋にたたずむシーンを皮切りに、木場とおぼしき掘割沿いを通るバスに乗って洲崎(「すさき」と女車掌は澄んで発音していた。これが正しいらしい)で降りるシーンなど、いきなりゾクゾクした。
新珠三千代は凛とした美しさ、三橋達也の風采のあがらない役どころ、見事。

舞台は洲崎パラダイスに入る洲崎橋のたもとにある居酒屋千草。
てっきり私は、この映画は洲崎遊廓の中で繰り広げられるものだとばかり思っていた。ところが実際の舞台は、パラダイスの入口(周縁)にあって、これから繰り込もうとする男たちや、中で働いている娼婦が行き交う接点となっている。
この微妙な空間設定もいい。

都電やバスが走る町並、東京湾埋め立てのための土砂を運ぶトラック、そば屋やすし屋、芝居小屋や神社(洲崎弁天)の風情、今と変わらぬ秋葉原電気街の賑わい、子どもたちの遊び、昭和三十年前後の東京が鮮やかによみがえる。
ストーリーも面白い。
新珠と三橋の煮え切らない関係、三橋にひそかに思いを寄せる芦川いづみ扮するそば屋の女、喜びから一転悲しみのどん底に突き落とされる千草のおかみを演ずる轟夕起子の名演。
また若き小沢昭一の滑稽な役どころを見るのも楽しい。ああいう人だったのだと思う。
そしてラストも勝鬨橋。よりを戻した二人は銀座方面(?)に走るバスに飛び乗っていく。

帰宅後、もう一度川本さんの『銀幕の東京』の当該部分を復習した。上記の感想も実はこれに拠るところが大きい。正直なところ、役者と役名がきちんと一致していなかったのだった。
また、川本さんの影響で興味を持った、映画の原作たる芝木好子さんの『洲崎パラダイス』(集英社文庫)もいよいよ書棚から抜き出して、読む体制に入った。

それより何より、この映画をきっかけに、私もついに昭和二十年代から三十年代に製作された名作映画の世界にはまり込みそうな予感がする。

■2001/10/09 親子三人の死をみつめて

今月一日に接した古今亭志ん朝師匠(以下敬称略)の訃報は衝撃的だった。
もとより名前と顔は知っていたものの、東京に来てから落語に興味を持ち、当代随一の噺家という世評を知るにつけ、一度高座を聴いてみたいと思っていた。
その望みが今年の上野鈴本演芸場の初席で叶った。そして何とこれが最初で最後の志ん朝の高座を聴く機会になってしまったとは。悔やんでも悔やみきれない。
せっかくほかにも聴く機会はたくさんあったのだから、もっともっと積極的に動けばよかった。

志ん朝ですらこれなのだから、父の故五代目古今亭志ん生は雑誌などで写真を見たことがあるだけ、兄の故十代目金原亭馬生に至っては最近知ったばかりなのである。

この夏、たまたま古書店で矢野誠一さんの『志ん生のいる風景』(文春文庫)を入手していた。矢野さんの文庫本という、ただそれだけの理由で買ったようなものであった。
それを今回、志ん朝追悼の意味を込めて読んでみた。矢野さんが毎日新聞紙上で志ん朝の追悼文をお書きになっていたことも、本書を手にとるきっかけになった。

読んで驚く。
本書は古今亭志ん生の評伝として、志ん生が逝去した1973年9月の矢野さんの個人的思い出から始まり、最後も同様に臨終の場面で締めくくられているのである。
それだけでない。途中、「6 父と子」において、1982年に逝去した金原亭馬生との思い出に一章を費やしている。
つまり矢野さんは、志ん生・馬生、そして志ん朝の親子二代、三人の名噺家の死を身近に体験し、それぞれ痛切な思いで見送ったということになるわけなのだ。
今回の志ん朝の追悼文において、うろ覚えだが「送る言葉は言いたくない」と書かれた矢野さんのお気持ちはいかばかりであったか。

評伝として、本書は志ん生を知らない私のような人間でも、志ん生の魅力が存分に伝わる素晴らしいものであった。
『戸板康二の歳月』(文藝春秋)・『三遊亭圓朝の明治』(文春新書)と同様、豊富な取材と文献の読みこなし、個人的体験の土台に立った矢野さんの評伝は、どっしりとした安定感があって信頼でき、読みごたえがある。
目配りがきいているから読むほうの知識欲も満足させられ、なおかつ文章もいいからドライブ感にあふれている。
この人の書く評伝に外れはない。

■2001/10/10 都電贔屓獅子文六

私が、生まれ育った山形から、大学に入学するため仙台に移り住んだのは1986年(昭和61)のことである。
すでに仙台市内から市電が廃止されてちょうど十年が経過していた。仙台の市電は1976年3月をもって運行50年間の幕を下ろしている(『仙台市史資料編5 近代・現代1』)。十年といえばまだ「記憶に新しい」という表現が有効なギリギリの時間ではなかろうか。
まわりを見回すと市電があった頃を懐かしむ人が結構いたし、実際二輪車などを市内で走らせていると、アスファルト舗装が削れて、その下に封じ込められていた軌道が表面に顔を出し、そのうえに車輪を乗せてしまって滑りそうになった経験もある。

ところが私は、そのような市電という交通機関にはほとんど興味を持たなかった。
今になって理由を考えてみれば、市電に乗った経験がなかった(修学旅行先の京都ですら)こと、また、仙台在住当時二輪車や自動車などを足にして、公共交通機関をほとんど使わない生活をしていたため、公共交通機関のよさ、さらに進んで市電のよさに思いが至らなかったことなどがあげられようか。

東京に移り住み、自動車を持たずもっぱら移動は公共交通機関を利用するようになって、都電のよさがようやくわかりかけてきた。しかしそれでも東京にはすでに荒川線が唯一の都電となってしまっている。
見直す声を聞くけれども、はたして今後実際に都電が復活するのかどうか。

「都電好き」を自称する獅子文六さんの『ちんちん電車』(朝日新聞社)は、刊行されたのが1966年(昭和41)。
池波正太郎さんの『食卓の情景』(新潮文庫)によれば、銀座を走る都電が廃止されたのは翌67年のことだから、ほとんど廃止寸前の都電を取り上げた貴重な記録でもある。

なぜ獅子文六は都電(路面電車)が好きなのか。
まず乗り心地のよさをあげる。軌道の上を走る安定感、「割り込み」をしない行儀のよさがいいという。
また、スピードを出さないことが逆にいいということを強調する。
加えて、都電の座席の高さが外の景色を眺めるのに好適だと絶賛する。
たしかに実際乗ってみた感覚でいうと、都電はバスに比べて目線が低いので、自分が歩いているような高さで移り変わる景色を眺めることができて、具合がよい。

その反面で貶されているのがバス・タクシー・国電(JR)の三つ。
バスは揺れるうえに、神経的で運転手も車掌も客もみなイライラしている感じがするのが嫌。
タクシーは、嫌な理由が「誰も知るとおりであって、説明を要さない」というが、はて、運転が乱暴、運賃が高いのが嫌なのだろうか。
国電は安定感はあるものの、混雑と車内の汚さがマイナスだとする。

本書では、もっとも獅子さんが利用したという品川−上野−浅草線に沿って、その沿線の泉岳寺・新橋・銀座・京橋・日本橋・神田・上野・浅草の街並みが青春の思い出とともに懐かしくふりかえられ、変貌する街並みに鋭い批判が加えられている。
意外に感じたのは、あまり銀座が好きではないということ。
むしろ日本橋のほうに好意が向けられている。浅草にもかなりのページが割かれている。
ここで獅子さんが触れた都電の路線は、いまや営団銀座線、あるいは都営浅草線となって地面の下を走っているが、地上の都電に乗ってこれらの町々を移りゆく風景をぼんやりと眺めてみるというのも、悪くないと思う。
都内に入る車の量を減らすことができれば、あるいは都電も復活の道が開けてくるのだろうか。

■2001/10/11 実地でいく老人力

坪内祐三さんの『文学を探せ』(文藝春秋)を読んでいたら、赤瀬川原平さんの新聞連載小説『ゼロ発信』(中央公論新社)に高い評価を与えていたので、同書を面白く読んだ(2/25条参照)私としてもにんまりだった。

もっとも坪内さんは、『ゼロ発信』の全編を手放しで褒めたたえているわけではない。いっぽうでは、日によって出来不出来の波が大きいこともきちんと指摘しているのである。
これは自分でも気づかなかったことなので、なるほどと思ってしまった。
この考え方を広げると、赤瀬川さんの連載物はだいたいにおいてそうしたことが当てはまるのではあるまいか。
例外的に初めから終わりまで傑作なのは『外骨という人がいた!』(ちくま文庫)だろう。思い返せば七月に読んだ『純文学の素』(ちくま文庫)は『ゼロ発信』以上に波が大きかったような気がする。

この点、今回読んだ『老人力 全一冊』(ちくま文庫)も例外ではない。
老人力を発見したくだりや、世間のさまざまな現象を老人力として理解する一節などは、ピタリはまったという感覚で、爆発的に面白い箇所であった。
またその反面で、書くことに苦しんでいるかのように見えてしまう章もあって、これが坪内さんの指摘するような出来不出来の落差なのだと納得したのであった。

引き続いて偶然にも同月に別の出版社から刊行された老人力をめぐる座談集『老人力のふしぎ』(朝日文庫)も再読したが、これは様々な世界、立場の人が相手となっていることもあって、落差の少ない、なかなか楽しい一冊であった。
座談そのものが「老人力」発露の場となっているからである。

たとえば東海林さだおさんとの対談でのある一場面。

東海林:やっぱりイギリスでいいんですかね。あの、ほら、そういう源流のとこ。何て言いましたっけ?
赤瀬川:メッカ? 聖地?
東海林:そう、聖地。老人力の聖地はイギリス。聖地が決まったとなると、あの、ほら、その始まりの人……。
赤瀬川:始祖? 開祖?

東海林さんは老人力を体現している。
体現しているといえば、長嶋茂雄監督もその一人。長嶋茂雄・ねじめ正一氏との鼎談を読んで爆笑してしまった。
長嶋監督の話の部分だけ抜粋してみる。

長嶋:みんなやられちゃいましたからね。完封でしょう、あのゲームは。ヒットは何本だったかな。ほんの二、三本だったんじゃないかな。完封をやられちゃいましたからね。(じつは延長11回4対1で敗れている。4安打)

長嶋:僕は、初ホーマーは権藤投手(大洋)から五月の十七、八日かな。二十日前後でしたね。(4月10日大洋3回戦の3回、2塁打の広岡を置いてレフトへ。このときは2番を打っていた)それが初ホーマーだったんですね。公式ゲームでの初ホーマー。

長嶋:(略)ただ国鉄スワローズのゲームになると、あの先生(金田正一…引用者注)が出てくる。それでやられちゃうということでしたからね。しかし六月にはもう初ホーマーを打ったんじゃないですか。(金田からの初ヒットは4月19日、初ホーマーは7月1日の後楽園)

自信を持って発言している長嶋さんに、編集者か赤瀬川さんかはわからないが(おそらく編集者か)、( )の中で冷静に公式記録を引っぱってきて突っ込みをいれている。
「違うよ」「だから違うって」「違うって言ってるでしょ!」という声がこの( )から聞こえてきそうである。

長嶋さんの場合、この勘違いというか微妙な記憶違いは老人力で説明できるものではないと思われるが、いかにも長嶋さんらしいやりとりであり、( )による注記はこの本らしい編集の仕方であると大喜びしてしまった。

平均的な面白さということでいけば座談集たる『老人力のふしぎ』のほうに軍配があがるが、これを読むためには『老人力』を読むべきである。
結局私のように2冊続けて読むのが、一番効率のいい老人力学習法なのかもしれない。

■2001/10/12 平成日和下駄(26)―憧れの旧岩崎邸

湯島にある国指定重要文化財旧岩崎邸が、都立庭園となってこの十月から公開を開始した。
正確には岩崎宗家の久彌氏の茅町本邸と呼ばれ、洋館部分は1896年(明治29)、イギリスからのお雇い外国人ジョサイア・コンドルの設計によって建てられた。
本来は居住空間としての和館と、パーティーなどの行事のさいに利用される洋館、さらに撞球(ビリヤード)室からなっているが、和館は一部しか残っていない。
和館の大部分があった場所は戦後国有財産となって最高裁判所司法研修所があったが、94年に文化庁の所管となり、今年になって都の管理下に入ったすえ、ようやく一般公開となった。

もともと岩崎久彌は都内に三ヶ所の邸宅を有していた。
いま述べた茅町の本邸に、深川と駒込の別邸である。現在深川別邸は清澄庭園、駒込別邸は六義園としてそれぞれこれも都立庭園となって一般に公開されている。
これを考えると、三菱=岩崎家が現在の都の公園のあり方に果たした役割は大きいといわねばなるまい。

ついこの間まで国の所管であった関係上か、旧岩崎邸は、まったくの非公開ではないが毎週金曜日に予約者のみという限られた人にしか見学を許していなかった。
東京に来て、それまでくすぶっていた近代建築への興味が爆発的に大きくなった私にとって、職場のすぐ目と鼻の先にあるという地理的条件も重なって、長らく憧れの対象だったのである。

公開初日はあいにくの雨降りだったが、そんなことはお構いなく、昼休みにいそいそと出かけていった。
その甲斐あって、結果的にはたいへんな幸運をもたらしてくれた。

これまでは指をくわえて前を通り過ぎるだけだった門は開け放たれ、新たに設置された都立庭園の標識が据えつけられている。
門を入ると右手にはなだらかな坂道が続き、庭園や建物がどのようになっているのか、上まで登ってみないとわからない仕組みになっている。
坂を登りきると左手にクリーム色の洋館の玄関が視界に入る。
もうそれだけで興奮で、自然に顔がほころんでしまう。
そのうえにこの日は「都民の日」で入場料が無料だった。たった150円とはいえ、嬉しい。

しばし玄関のある正面から建物の風情を楽しみ、自分が憧れの岩崎邸に来ている嬉しさを噛みしめる。
その後庭園のほうに回る入口を入ると、正面にはこれもコンドルの設計になる撞球室が建っている。洋館のクリーム色とコントラストをなす、バンガロー風の茶色い建物だ。ものの本によれば、スイス山小屋風らしい。

さて撞球室の前には、広々とした緑の芝生が広がっている。
訪れた日は開園セレモニーがあったため臨時にテントが張られていたけれども、これがなくなればさらに開放的な空間なのだろう。
そのテントの前まで行き、洋館のほうを振り返る。そうすると、写真でおなじみの列柱が並ぶベランダ・バルコニーが目に入る。これこれ、これなんだよ。
ただ、写真は建物を引き立たせるために工夫されているためか、実際に実物を見てみると、第一にこじんまりとした印象を持つ。柱や所々に様々な意匠がちりばめられているが、それはゴテゴテした豪華さではなく、押しつけがましくもない。

この洋館は事前情報によれば再来年2003年(平成15)3月いっぱいまで、修理のため見学ができないということであった。ところが洋館を見てみると中に人が入っているではないか。
初日ゆえレセプションに招待された来賓が特別に見学しているのだろうかと思いきや、それらしくないラフな格好をした人々もいる。

こうなったらせっかくの機会と、突撃することにした。
洋館の正面の人が出入りしている場所に近づく。すると、係りの人とおぼしき女性が「入口はあちらの和館です」と言うではないか。和館は当初より公開されることになっている。
ここは素直に従って和館の入口に近づくと、そこにいた係りの男性が「今日は特別に洋館も見れますよ。今日を限りに、あとは再来年まで見れません。時間ももう○時だから、はい、あなたで終わりにします」と、なんと私が洋館を見学できる最後の人間であった。

洋館の中に入ることができるとは夢にも思っていなかったので、天にものぼる気持ちで和館をざっと見学し(あとで知ったことだが、狩野芳崖の襖絵が何気なくあったという)、そこから洋館へと通じている通路を通って、夢の洋館の中に入った。

各部屋にはそれぞれ専用の暖炉がしつらえられ、その意匠が部屋ごとに異なっている。ある部屋にはその暖炉の上に大きな鏡が取り付けられている。天井も高くタイルや壁紙の質感も見事。
撞球室へ通じる地下通路へと下りる階段もあった。
東側に作られた大きなガラス張りのサンルームには柔らかそうなソファが何脚も置かれ、暖かい日にここで本なんて読みながらゆっくりと過ごすのは最高なのだろうなあという想像をめぐらせてみる。

興奮しながらあちこちを見回っていたら、近くに東京のケーブルテレビ局のカメラがあったことに気づいた。ニヤニヤしながらデジカメを撮りまくっていたところを、ひょっとしたら逆に撮られてしまったかもしれない。
それを潮時に、後ろ髪引かれる思いながら洋館をあとにした。二年半後、撞球室とともに、洋館にふたたび入ることができるようになる日を待とう。

南側には高層マンション、北側にはつい先日竣工したばかりの東大病院の病棟が聳え立って、周囲の景観は必ずしもいいとはいえないのだが、150円出して何度も訪れてみる価値のある庭園である。
昼休みに気軽に来ることができるという恵まれた環境を天に感謝したい。

■2001/10/13 周縁の物語

映画の「洲崎パラダイス赤信号」(川島雄三監督)を観たのがいいきっかけになって、その原作である「洲崎パラダイス」を含む芝木好子さんの『洲崎パラダイス』(集英社文庫)を読むことができた。
今度の場合、先に映画を観たのが私にとっては良かったかもしれない。読んでいるとイメージがモノクロ映像として結ばれるからである。

『洲崎パラダイス』は、「洲崎パラダイス」「黒い炎」「洲崎界隈」「歓楽の町」「蝶になるまで」「洲崎の女」という洲崎を舞台にした短篇六篇が収録されている。
解説の大島清氏によれば、これらの小説は昭和29年から30年にかけて集中的に発表された、芝木作品の中では異色の部類に入る作品群とのこと。

驚いたのは、このうち最後の「洲崎の女」を除く五篇が、洲崎パラダイス(特飲街)に入る洲崎橋のたもとにある居酒屋千草が舞台となっていること。
千草のおかみ徳子が五篇に共通して登場し、その千草で働く女性たちが主要な登場人物となっているのである。

この「連作」の妙はその舞台設定にあると断言できる。
特飲街の真ん中ではなく、そこへの入口にして、特飲街の区画外にある、つまり特飲街の“周縁”という両義性のある居酒屋を舞台としていることが、物語に厚みをもたせているのだ。
そこには、これから特飲街に乗り込んで娼婦を相手にしようと意気込む男たちが景気をつけるために一杯ひっかけにやってくる。また、ゆくゆくは娼婦になってお金を稼ごうと目論む女たちが、その足がかりにと女中になって働いている。さらに、特飲街のなかからは、仕事に疲れた娼婦たちが愚痴をこぼしに外に出ておかみを相手にくだを巻く。
洲崎パラダイスという一点に結ばれるさまざまな人々が交錯する場所、洲崎をめぐる人間関係が露わになり、そして露わになることがまったく不自然でない場所、それが周縁に位置する居酒屋千草なのだ。絶妙である。

映画「洲崎パラダイス赤信号」が、短篇「洲崎パラダイス」のモチーフや細かな場面を決しておろそかにしないで、精密かつ誠実に映像化していることを知ったのもまた驚きであった。しかもたんに「洲崎パラダイス」のみではなく、連作中の他の短篇からもエピソードを拝借して、うまい具合に組み合わせている。
千草のおかみさんの悲劇と芦川いづみの役割、これはどの作品中にもない、映画のストーリーの特色であろうか。

■2001/10/14 買いそびれた本のはなし

川本三郎さんの『本のちょっとの話』(新書館)を読んで(10/5条参照)無性に読みたくなってきた本の筆頭は、植物学者塚谷裕一さんの『漱石の白くない白百合』(文藝春秋)であった。

この本が出たのは1993年である。私が興味を持たないはずはないのだ。
実際この本が大学生協の書籍部に並んでおり、買おうかどうか迷った記憶はかすかに残っている。
結局買わなかった。なぜ買わなかったのか、理由に至ってはまるで憶えていない。

その後ときどきのこの本を読んでみたいという気持ちが浮かび上がってきては忘れるということを何度か繰り返し、今回の川本さんの本で読みたい気持ちが決定的になった。
それまで読みたい気持ちにさせられたにもかかわらず結局古本屋で執拗に探すことをしなかったのは、これにはちゃんとした理由がある。
刊行時話題になった本で、しかも文藝春秋という出版社ということもあり、いずれ近いうちに文庫に入るだろうと楽観視していたからである。
また、古本屋でも文芸一般なのか、植物なのか、どの分野に置くべきか迷うような類いの本だから、思いがけない出会いの機会もなかった。

ところが単行本刊行後八年を経過して音沙汰がない。今回忘れたらまた当分本書のことが頭に浮かんでくることはないかもしれない。
幸いいまやネットを使って家に居ながら古本を注文できるご時世、さっそく検索して見つかった同書を注文し、届いたのである。

日本の作家と植物をめぐる有名なエピソードは二つあって、それは三島が松を知らなかった話と漱石が稲を知らなかった話である。
このエピソードには川本さんも言及されているが、塚谷さんがその真意を解き明かしていそうで、読むのが大変楽しみな本だ。

新刊を慌てて買って読まないまま放っておいて、数年後文庫になってしまうという経験のほうがこのところ多いが、今回の塚谷さんの本のようなこともあるから、単行本にせよ文庫にせよ、心にひっかかった本はやはり気づいたときに買っておくべきなのだ。

■2001/10/16 本末転倒のはなし

いまから約十年ほど前の澁澤龍彦に夢中になっていた頃、私は自分の研究そっちのけで澁澤の本をむさぼり読んでいた。
澁澤が日本の古典に「回帰」しだした『思考の紋章学』以後の作品において、澁澤が日本史の史料を引用したり、日本史関係の書物に言及している箇所を見つけては、稚気まるだしで喜んでいたものである。

そういった意味で、自分にとって記念碑的意義をもつ作品が二つある。
一つは『唐草物語』に収録されている短篇「金色堂異聞」である。
今でこそ河出文庫に入って入手が容易になったが、私が興味を持った当時は単行本すら品切中であった。
ちょうど平泉中尊寺に行く機会があったとき、図書館からわざわざ初出の『文藝』誌をコピーして携えていったほど。当時世間の話題になっていた柳之御所跡よりも澁澤が「金色堂異聞」で描いた中尊寺月見坂の情景に恋焦がれていたのである。

もう一つは、今月文庫に入った『城 夢想と現実のモニュメント』である。
この本の中で澁澤は、織田信長と安土城に関して多くのページを割いて叙述している。
澁澤が私の専攻分野に接近遭遇している、そう思うだけで天にものぼる気持ちだった。

実はもっとひどい話がある。
私が大学に入学した頃、いまを遡ること約十五年ほど前に、日本史の分野ではいわゆる“社会史ブーム”が巻き起こっていた。その中心人物はいうまでもなく網野善彦さんであるわけだが、私はこのジャンルにさっぱり興味を覚えなかった。流行というものに背を向けたい天邪鬼だったからだろう。
ところがあるきっかけでその姿勢が一転した。

澁澤の遺著『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』(立風書房)に収録されていたと記憶しているアンケート(「'86 印象に残った本」、『全集』別巻1所収)で、澁澤が網野さんの『異形の王権』(平凡社)をあげていたのを目にした。
それから私は網野さんの著作に親しみはじめ、そこから“社会史”へと関心が広がった。
読書の面からだけでなく研究の面でも、澁澤龍彦は私にとって重要な位置を占める人物なのである。

■2001/10/17 ○○の文学誌

私は、文学作品をある一つのテーマを切り口として集め、分析・叙述するような、いわゆる「○○の文学誌」といったたぐいの本が好きである。
植物学者塚谷裕一さんの『漱石の白くない白百合』(文藝春秋)はさしずめ「植物の文学誌」「花の文学誌」といったところであろうか。期待に違わぬ知的刺激に満ちた本であった。

本書のタイトルの由来は、漱石の『それから』に登場する白い百合の素性を解き明かした同名のエッセイである。
それによれば、普通日本に自生する白い百合といえば鉄砲百合なのだが、小説における百合の描写(たとえば匂い)からそれではありえず、むしろ山百合が該当するという。
ただし山百合は地の色こそ白であるものの、花びらの真ん中に黄色い筋が通り、しかも濃赤色の斑点が多いため、とても「白い百合」とは表現できないというのである。本書の扉に山百合のカラー写真が掲載されているが、たしかにそうだ。
それにも関わらずなぜ漱石は山百合を白い百合と描写したのか。
ここでは「山百合の花弁の中のディテールを無視し、大把みに白いと表現したもの」と結論するにとどまっている。

その後、本書のために書き下ろされた新たな章である「描かれた山百合の謎」では、さらに日本文学における白百合の問題について突っ込んだ分析が展開されている。
漱石以外にも白百合を作品に登場させた作家が多数いることから、それらの描写を逐一抽出し、さらに遡及して古典文学での百合の描写を洗い出し、百合=白という描写法は、近代以後、キリスト教の普及とともに広まった聖性を帯びた記号的表現であると指摘する。漱石もまたこの規範から自由ではなかったわけである。

百合=白い花、白百合=純潔という近代的イメージの呪縛が薄れていくなかで、三島由紀夫が登場する。三島は近代日本文学の作家のなかで、はじめて山百合の精緻な描写をその作品『獣の戯れ』のなかで行なった。「山百合をあるがままに見」たはじめての作家が三島由紀夫だったという。

本書では、表題作や上に引用した章のほかにも、芥川の「河童」に触れた「クロユリ登場」や、尾崎紅葉の「金色夜叉」に触れた「『金色夜叉』の山百合」など、百合について書かれた文章が収められている。「百合の文学誌」の一面も持っているということになるだろう。

■2001/10/18 三島伝説と文学評論の可能性

昨日に引き続き塚谷裕一さんの『漱石の白くない白百合』(文藝春秋)の話である。

この本を入手したとき、三島と松をめぐる挿話があるということを書いた(10/14条参照)。
ドナルド・キーンの文章が震源になるこの話は、三島ファンであれば誰でも知っている話だろう。

三島が松を指さして「あれは何の木か」と訊ね、聞かれた植木屋が「松です」と最初答えたものの、いくらなんでも松の木を知らないはずはないだろうと「雌松と呼んでいます」と付け加えた。それに対して三島は真顔で「雌松ばかりで雄松がないのに、どうして子松ができるの」と聞いたので、植木屋もキーン氏も呆れてしまった。
これが挿話の大要である。

塚谷さんはこれ対して否定的見解を述べている。三島は松を知らなかったはずはないというのだ。
三島の他の作品における松の描写からみて、知らないはずはなく、むしろ植物に詳しい作家であるいうのが主旨である。
これは、昨日触れた山百合についての三島の描写からも明らかなこと。
それでは三島が植木屋に訊ねた意図は何だったのか。

塚谷さんは、三島は松を知らなかったのではなく、「雌松を知らなかった」だけだという。
関東平野で生まれ育った三島にとって、松とは海浜に多い「黒松」のことであり、対して植木屋に訊ねたのは山に多い「赤松」(別名雌松)のことだったからではないかと推測されている。
とすれば、逆に三島は松の違いが分かるという意味で、植物を見る目があった作家だということができるわけだ。
植木屋から教わった雌松という名称を、後に作品に登場させるときには標準和名の「赤松」に訂正した点で、植物に神経を使ったということができ、最近の作家のなかでも植物にこれほどの注意が払われているという例を知らないと三島に高い評価を与えている。

植物というものは、知らない人はさっぱり知らないから、それを小説に登場させる場合、イメージ喚起力という点で細心の注意が必要となる。
あまりに一般的、抽象的な描写に過ぎればその場面はさっぱり効果をもたないだろうし、逆に細かすぎるとついていけない読者が出てきて、結果作品そのものが見放されてしまう。
その中間のところをうまくつかむのが作家の表現力であり、また、作品としての戦略でもあろう。

ここにきて『漱石の白くない白百合』の目の前には、文学表現の方法論や、作家と読者の関係論へとつながる大きな地平が広がることになる。
白百合を例にとれば、漱石たちの時代は、百合=白いとのみ書いても全てが伝わるという読者との信頼関係の上に立っていた(塚谷さんはこの信頼関係すら疑問視しているが)。
いっぽう三島はとなると、「当時すでに舶来思想啓蒙の呪縛を逃れた、あるいはそれを失った地点に読者がいることを意識」していたという。

同様の立場から、塚谷さんは志賀直哉や井伏鱒二も高く評価する。
動植物に対する深くかつ正確な知識を有していたからこそ、作品で表現するときには逆に、不慣れな読者のためにあえて不正確な名称を用いることができたというのだ。
小説を書くということは、何と難しいことか。

「あとがき」のなかで、塚谷さんには、これらの文章の初出発表後「小説にはこんな読み方があるんですね」という感想が寄せられたという話が書きとめられている。
私が感じたのもまさにそれと同じことである。
また一つ新しい小説の読み方を教わった。

■2001/10/19 あふれ出る知識、ほとばしる情熱

安っぽいキャッチコピーのようだが、この本を読んでそういう言葉が頭をよぎったのだから仕方がない。私の語彙の貧困さを笑ってください。
森まゆみさん、藤森照信さんの共著『東京たてもの伝説』(岩波書店)を読んだのである。
もともとこの本の存在を知らないわけではなかった。ちょっと前まで書籍部の工学書のコーナーに並んでいたのを記憶しているし、古本屋でも何度か見かけたように思う。テーマも面白そうなうえ、森・藤森両氏とも、私の大好きな書き手である。

ところが中を見、対談が柱となっていることを確認して、すぐに買わなくてもいいと判断してしまった。いま思えばなぜそんなふうに考えたのか、不思議でならない。
結局復刊リストに入っていたことではじめて品切になっていたことを知ったほどである。

さて本書はお二人の対談訪問記だけでなく、森さんによる居住者の聞書なども挟まったバラエティに富んだ構成をとる。
お二人が訪問したのは、同潤会アパート(住利共同住宅・旧虎ノ門アパート)、平塚千鶴子邸(猿楽町)、旧亀井茲明伯爵邸(千石)、江戸東京たてもの園、安田楠雄邸(千駄木)。
どれがということではなく、全てが面白く、圧倒される。

何が圧倒されるかといえば、藤森さんのつつけば出てくる建築の細部にわたる技法や歴史の知識がまず第一。
その道の専門家かつ第一人者なのだから当たり前といえば当たり前なのだが、近代建築はおろか建築物全てをこういう人の解説付で見ることができれば時間がいくらあっても足りず、それも面白くて一瞬で過ぎ去ってしまうだろう。

対する森さんはもっぱり聞き役・質問役にまわることが多いのだが、千石の旧亀井茲明伯爵邸や千駄木の安田楠雄邸では、藤森さんに劣らない知識の広さ深さを披露している。
千駄木周辺の家々の来歴(いつ建てられて、誰が住んでいて、誰から誰に渡って現在に至るかなど)を逐一知っていることには驚かされた。まったく“歩く谷根千事典”である。

この二人がタッグを組んだ東京たてものめぐりなのだから、つまらないはずはないのだ。もっと早く買えばよかった。

二人が訪れた建物すべてが興味深いのだが、とりわけ行ってみたいという気を起こさせるのが、同潤会旧虎ノ門アパートだ。
昭和4年に竣工したと考えられているこの建物は、もともと三階までが同潤会本部として使用され、四階・五階が居住部分だったという。そしてそこには作家永井龍男も住んでいたとのこと。
ところが昭和59年に改修され、外壁を鋼板で覆われてしまっているので、見た目は最近できたビルのようなのだ。しかし内装はいかにも同潤会らしい意匠に満ちているのである。
現在は東洋鋼鈑という一私企業の本社ビルになっており(外壁の鋼板は自前ということ)、勝手に入って見学することはできないが、写真や訪問対談を見るだけでも雰囲気が伝わってくる。

また、千石の旧亀井邸は、資料が津和野の亀井家にも残っておらず、詳細は不明らしいのだが、所伝が正しければ建築年は明治17年となって、コンドルが設計したかの旧岩崎邸(明治29年築)を抜いて「東京に残る一番古い本格的な洋風邸宅」になるのだそうだ。
ところが見るかぎり大正期に大改修を受けたと考えられ、明治的な意匠と大正的な意匠が混在して、さすがの藤森さんでさえしかと判断しかねるような感じであった。

また最後の安田楠雄邸とは、安田財閥の一族のお屋敷で、楠雄氏は創始者安田善次郎のお孫さんにあたるという。この章で語られている邸宅での暮らしや安田一族の話は、自分のような普通の人間からは想像できないような驚異に満ちたものだった。
この本は、すべての章において、このような驚異に満ち満ちている。

最後に、本書の一番最後で発している藤森さんの言葉を引用しよう。

東京って、もし震災と空襲がなかったら、もう気持ち悪いくらいに由緒だらけの都市だね。歴史の襞にこびりついた垢のようなものが全部の土地にあってさ。東京の「雑巾がけ」は震災と戦災で終わってしまったかと思っていたけれど、まだこの辺(文京区…引用者注)は終わっていないね。

■2001/10/20 フローラ作家澁澤龍彦

漱石から鏡花、三島へと至る「フローラ作家」の系譜がある。
「フローラ作家」とはもっと正確にいえば、「フローラ(植物相)にこだわる、もしくは細心の注意を払う作家」という意味で、むろん塚谷裕一さんが『漱石の白くない白百合』(文藝春秋)できちんと彼らの仕事を跡付けているものだ。

その「フローラ作家」の末端に澁澤龍彦が位置づけられる。澁澤ファンには当然と思われるだろう。あの美しい花譜がついた『フローラ逍遥』(平凡社)という本を上梓しているほどなのだから。
塚谷さんが澁澤まで読み込んで論じられているのが嬉しい。

ちょうど河出文庫に『城 夢想と現実のモニュメント』が入ったので、この本を植物描写という点に注意して再読してみた。
各地の城を訪ねる紀行の要素もあり、そのくだりではごく自然に植生の描写が入って、さすがに澁澤はフローラ作家であるということを思わせる。

植物描写という面にこだわらなくとも、本書のクライマックスは、澁澤がサドのラコスト城訪問記にあるのではあるまいか。旅の出発から城のある村に入り、城に近づき、めぐり、あとにするまでが逐一時系列をおって記されている。
植物描写のところはこんなふうに書かれている。長くなるが引用したい。

風の吹きわたるラコストの大地には、ジャン・ジュネが愛したエニシダばかりでなく、ラヴェンダーもヒナゲシも立麝香草も咲いている。日本でよく見るネコジャラシ、ワレモコウ、アザミにそっくりな花も咲いている。紫や白の野菊もいっぱいだ。野生のスイトピーに似た豆科の草もある。キキョウやイチハツに似た花もある。そうかと思うと、とげとげのいっぱい生えた、何やら邪悪な感じの草もある。麦のような穂を出して群生し、風が吹くと一せいになびく禾本科植物もある。
しかし、それらの植物のなかでも私をとりわけ喜ばせたのは、小さな赤い花冠が五角の完全な星形をした、日本では一度も見たことがないような珍しい草であった。綿のような毛を生やして、小さな花冠が茎の先端に群がっている。赤というより真紅といったほうが近いような、濃い花の色である。中央に白い蕊が見える。いかにもサド家の庭に咲くのにふさわしい、幾何学的な美しい形とともに、血のような官能的な色を示している花である。(河出文庫版99頁)

上記の記述は当然日本に帰ってきてから書かれた文章である。
すなわち意地悪に解釈すると、この詳細な植物描写は、まわりの人に訊ねたり調べたりするなど、後知恵で書いている可能性がある。
幸いこのラコスト城訪問の旅は、澁澤が海外旅行のときに必ずつけていたという日記(「滞欧日記」)として残されているので、その日記の当該部分をふたたび引用しよう。

だんだん上ってゆくと、上は原っぱになっている。ネコジャラシ、ワレモコウ、アザミ、五芒星の草、黄色い草、ポッピー、紫や白の野菊、トゲトゲのはえた草、豆科のスイトピーの野生の草、あらゆる草花が咲き乱れている。キキョウ、イチハツに似た草花。風が吹く、麦みたいな原っぱが風になびく。オレはその原っぱを踏みしめて歩く。(『全集』別巻1、133頁)

日記のこのくだりも、「オレ」という一人称表記が登場するという意味で、ラコスト訪問時の澁澤の感情がはからずも吐露されている、他に類を見ない箇所であるという巌谷國士さんの指摘がある。
そして何より、上の紀行文とこの日記に登場する草花がほとんど同じであることに驚く。
日記に出てくる「五芒星の草」とは、紀行文では後段に詳しく描写されている花のことであろう。日記にはこの花の形がスケッチされている。

たいてい「滞欧日記」の一日分は、その日の夜に宿泊先で書かれたいたそうだ。
訪れた時点で、そこに咲き乱れていた草花について地元の人に取材した可能性もなくはないが、やはりほぼ澁澤のフローラに対する知識のなかで同定できたのではなかろうか。フローラ作家の面目躍如である。

塚谷さんの本を読んだおかげで、思わぬ読書の楽しみを味わうことになった。

■2001/10/21 つながりつながるつながれ

ときどき出会い方に不思議な運命を感じるような本がある。

歌舞伎を観にいった。
「絵本太功記」の「尼ヶ崎閑居の場」、通常「太十」と呼ばれる有名な丸本歌舞伎である。
私が歌舞伎を観だすようになってから初めてこれがかかったので、楽しみにしていたのである。雀右衛門の操が素晴らしかった。

八十歳を超えても衰えを感じさせず、当代随一の位置はまだどの女形にも渡しそうにない雀右衛門の芝居を見ながら頭を過ぎったのは、今年逝った名優たちのこと。
宗十郎、歌右衛門、羽左衛門…。やはり彼ら名優の芸は味わい深い。
雀右衛門のほかに、今のうちに観ておくべき名優は誰か。真っ先に思い浮かんだのが、中村又五郎丈であった。
そういえば最近舞台姿を観ていないが、まさかご病気ではあるまいな。心配になった。

つい数日前まで電車のなかで池波正太郎の『食卓の情景』(新潮文庫)を読んでおり、頭の隅にこの本の記憶が残っていた。
歌舞伎座を出たあと、その足で都営浅草線に乗って浅草に出、久しぶりに浅草きずな書房に立ち寄った。
店内の奥まった場所にある、主に芸能関係の文庫本のコーナーに、池波さんの文庫本を見つけた。しかし書名から時代小説かなと予断してほとんど気にかけなかった。

その後歌舞伎関係の単行本の棚で、『又五郎の春秋』(中央公論社)という本を見つけた。
これまた池波正太郎さんが、中村又五郎への取材をもとに書き上げた異色の芸談・歌舞伎論らしい。心が動いたが、値段が予想より高かったことと、池波さんの本だからあるいは文庫に入っているかもしれないので急いてはいけないと我慢した。

ふたたび先ほどの文庫本のコーナーに目を向ける。飛び込んできたのは『又五郎の春秋』(中公文庫)。
な、なんと。さっき素通りした文庫本は、時代小説ではなくて、いま断念した芸談の文庫本ではないか。ラッキー。
古本文庫としては値段が高めだったが、こういう経緯があった以上、見逃すわけにはゆかない。勇躍購入する。

雀右衛門―又五郎―池波正太郎という三人の人物が、ある秋の一日の午後数時間のうちに、私の頭の中で絡み合った結果、手元には池波正太郎『又五郎の春秋』という一書がもたらされたのであった。

■2001/10/22 裏話の快楽

物事には表と裏があって、その裏のほう、裏話というものにさっぱり興味がないという人は少ないのではあるまいか。
裏話とは強引に言い換えればゴシップということになろうが、これはその対象となる人物が大人物であればあるほど多様で、かつ面白いような気がする。
19日の記述で引用した藤森照信さんの言い方を拝借すれば、大人物ほど襞がたくさんあって、そこにこびりついている垢も多層的でバラエティに富んでいるということか。

そういう意味では、伊吹和子さんの『われよりほかに 谷崎潤一郎最後の十二年』(講談社文芸文庫)は、ひとまず上巻のみであるが、谷崎の「垢」だらけの興味深い回想記であった。
谷崎は何といっても「大谷崎」なのだから、“良質な裏話”がたくさん詰め込まれている。

伊吹さんは、戦後に起筆された源氏物語の改訳(いわゆる「谷崎源氏」)に際し、その口述筆記者として谷崎に雇われた京都の方である。
仕事は谷崎とのマンツーマンであるから、自然京都の谷崎邸(潺湲亭)や熱海の別荘(雪後庵)に出入りして、谷崎はじめ松子夫人や谷崎家の人々の日常生活に接することになる。

源氏物語の口述筆記の仕事を終えたのち、一時期その仕事から離れるが、最終的には「夢の浮橋」の口述筆記から仕事を再開し、「瘋癲老人日記」にも関与するらしい。
もちろんそうなると、われわれ谷崎ファンは作品執筆の裏話というものに興味を向けることになる。
この側面では、中絶された「残虐記」や「鴨東綺譚」(こんな作品があったことすら知らなかった)がなぜ中絶されたのか、今東光の母親を主人公とする河内を舞台にした小説がなぜ構想だけで頓挫したのかというエピソードに興味をおぼえた。

意外に、それ以上に読んでいて楽しかったのは、日常の谷崎潤一郎像のほうだ。
大文豪のわがまま奔放な生活が、ときには愚痴のような批判がましいニュアンスの言葉を丁寧にオブラートに包みつつそれとなく匂わせるという絶妙な語り口で披露される。たまらない。

来月刊行される下巻ではおそらくお二人の関係のクライマックスというべき「瘋癲老人日記」誕生裏話が展開されているだろうから、ますますもっていまから楽しみである。

■2001/10/23 現代古典論

古典と呼び習わされるような文学作品は百年単位で読み継がれ、生き残ってきたものをいうのかもしれない。
ただ、現代は感覚的な時間の流れが昔とくらべて段違いにはやく、文学作品もすぐ古びてしまう時代である。そのなかで数十年も生き残れば立派に古典という名称を与えてもよいと思う。明治・大正のすぐれた作品は古典なのだ。

いっぽうでは、戦後に生み出され、世紀が変わった今でも十分読むに耐える作品も存在するだろう。
それらをやたらに古典と称してしまうのは考えものだけれど、この流れのはやい現代を生き残ったという意味で、「准古典」もしくは「現代古典」(矛盾するが)と名づけたくなるような本も、たしかに存在する。

たまたま最近、このような「現代古典」といってもよい本2冊に出会った。
池波正太郎さんの『食卓の情景』(新潮文庫)と、小沢昭一さんの『ぼくの浅草案内』(ちくま文庫)である。
前者は1973年(昭和48)、後者は1978年(昭和53)の刊行。
だいたいこの2冊は、読んでいて途中までそんな過去に書かれた作品とは気づかなかったのだから、私の中では立派に「現代古典」と言えるのである。

池波本の場合、早めに気がついた。
最初のほうにある「惣菜日記」という文章で、「過去数年間の日記の、今日の日付のところをひらいて見よう」とあって、昭和42年から同45年までの12月9日の献立表が抜粋されているのを見て、「え? 過去数年間? 昭和42年?」と不思議に思ったのだった。
この記述にひっかからなければ、当分気づかなかったかもしれない。
食物エッセイだからということもあるが、そのくらい古びていない。
悪く言えば池波さんは、晩年まで同じような食物エッセイをずっと書きつづけている。〔 〕(キッコウ)を多用する表現も同じ。

いっぽう小沢本は、並木藪の天せいろの800円という値段で「あれ?」と気づいた。
いま800円で天せいろを食べられれば、いつも浅草に立ち寄ったときには食べたいくらいだ。倍くらいしてしまうのではなかろうか。
本書では浅草やその周辺の名所がかなり細かく紹介されているが、この間無くなったものもあるに違いない。
しかし残っているものについては、物価などはおいて、違和感なく説明や写真を受け入れられるから、小沢さんの本だけでなく、浅草という街も「現代古典」的要素を帯びているのに違いない。

■2001/10/24 いろいろな読み方

小池滋さんの『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』(早川書房)を読み終えた。
サブタイトルは「日本文学の中の鉄道をめぐる8つの謎」
書名となっている謎のほか、「電車は東京市の交通をどのように一変させたか」(花袋「少女病」)、「荷風は市電がお嫌いか」(「日和下駄」)、「どうして玉ノ井駅が二つもあったのか」(荷風「墨東綺譚」)、「田園を憂鬱にした汽車の音は何か」(佐藤春夫「田園の憂鬱」)、「蜜柑はなぜ二等車の窓から投げられたか」(芥川「蜜柑」)、「銀河鉄道は軽便鉄道であったのか」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)、「なぜ特急列車が国府津に停ったのか」(山本有三「波」)という、近代文学作品において鉄道がかかわる謎を解いた楽しいエッセイ集であった。

小池さんは鉄道好きのイギリス文学者としてつとに高名である。そのためか、本書で取り上げられているような日本文学の諸作品については、つとめて「門外漢」をよそおい、文学評論的な内容解釈の議論となることを避けておられる。
しかしそれが怖い。「詳しいことは専門家に任せて」と謙遜しながら、作品中に登場する鉄道に徹底的にこだわることによって、これまで考えもつかなかったような作品解釈を開示するからである。

たとえば、佐藤春夫の『田園の憂鬱』のなかで、主人公を悩ませる幻聴としての電車の音は、当時(大正初年)の日本の鉄道の状況を踏まえれば、新しい解釈が導き出される。
すなわち、当時(現在もだが)一般的だった狭軌に対して広軌に変更しようという運動があり、そのせめぎあいのなか、舞台となっている神奈川県では広軌の実験線の設置工事が行なわれていた。
そのため、ちょうど主人公が居住する地域にも、この工事のために往復する臨時貨物列車の騒音が聞こえてきて、それが「幻聴」としてフィクション化されたのではないのかというのだ。
この章の最後に提示される仮説がゾクッとさせる。
「日本の鉄道を広軌に変えるべきか否かの議論が、一人の文人を神奈川県の片田舎から東京へと追い返し、その結果、日本文学史上に一つの傑作が生まれた」

そもそも「坊っちゃん」が教師を辞めたあと市電の技術者になったことなど、まるで意識になかった。言われてみて「ああそういえば」と微かな記憶をたぐりよせはじめた次第だ。
小池さんはこの一見些細な記載から、「坊っちゃん」の経歴からみて市電の技術者になったことは必ずしも不自然ではないことを指摘し、さらに当時(明治末年)の東京の市電敷設の状況を振り返り、漱石文学の中における市電の役割の大きさを論じる。

また、これまた市電の状況を緻密に分析することによって、荷風作品(「日和下駄」や「深川の唄」)での一見実体験にもとづいた記述が、実はきわめて巧みに仕組まれたフィクションであったことも明らかにされる。
この過程はまさに推理小説を読む醍醐味に近い。
東武線と京成線の墨東地域への鉄道拡張戦争を跡づけることにより、エッセイ「寺じまの記」よりも小説『墨東綺譚』のほうが鉄道廃線の事実を正確に記しているといった指摘も加えると、この視角からの分析によって、荷風の創作手法が鮮やかに浮かび上がってきたわけである。

荷風は「日和下駄」で市電嫌いを標榜しているが、これは彼が洋行している五年の間に東京に市電が敷設され、市内の景観を一変させてしまったかららしい。
気づかなかったことであるが、市電網が市内にめぐらされているということは、その市電を走らせるための電線が道路上に走っているということを意味する。
本書の口絵として、明治頃の本郷三丁目付近の版画が掲載されているが、それを見ると、空にはまるで現代の高圧電線の列のように、縦横に電線が張りめぐらされている。
高層の建物がない昔は、いまに比べて空が広くてすっきりしていただろうと考えるのは早計なのかもしれない。

それにしても、文学作品はまだまだいろいろな読み方ができる可能性を秘めているということが本書で例証されており、興趣は尽きない。

■2001/10/25 真似すべからず

坪内祐三さんの新刊『三茶日記』(本の雑誌社)は予想どおり楽しい本だった。
古本好き・シブ本好きにはこたえられない。もったいないと思いつつも、一気に読み終える。

この本を購入するさいに書店の店頭でパラパラとめくって読んだ第一印象としては、掲示板にも書いたが、もう十年若いときにいまと同じような嗜好を持っていたとしたら、私も坪内さんのような編集者・ライターに憧れてその道に進んだかもしれないなあということ。
実際十年前に編集者となることを目指していたのだが、当時はあまりに未熟であえなく挫折してしまった。

違う道を進んでしまったいまの立場から見ても、この坪内さんの日々の生活は憧れてしまう。
しかし早まるなかれ。
古本屋をめぐって興味深い本を買い、ときには同じ本をダブり承知で四冊も五冊も買ってしまう。その買った本を読んで原稿を書き食べていく。
たしかに羨ましいのだが、それを仕事とするとなると果たして私のようなこらえ性のない人間が耐えていけるかどうか。しかも、『三茶日記』に書かれている生活はあくまで一年三百六十五日のごく一部であって、毎日こんな楽しそうな生活をしているわけはなかろう。
そもそもこうした仕事につく以前での基礎的な知識が欠けているうえに、坪内さんのようなしっかりとした思想的基盤に立脚していない。
憧れは憧れだけにとどめて、素人として読書を楽しむのがよろしい。
でもこれを読んでいる人は、絶対古本を買いまくりたい気分になるに違いない。

この日記を読んでいて気になったのが、坪内さんの本の読み方。
「本を読む」という行為を示す動詞が実に多種多様なのだ。「読む」というごく普通の動詞や、そこから派生した「読み通す」というものだけならばいいのだが、その他「拾い読み」「目を通す」「パラパラめくる」などいろいろな表現が登場する。
とりわけ多いのが「目を通す」。
たんに表現の単純化を避けるためにとられた方法ではなく、意味の使い分けという裏打ちがあると踏んだのだが、いかがなものだろう。
自分も使う表現ではあるが、「目を通す」というのは、普通に「読む」に比べてどの程度流すものなのか、知りたいところである。

■2001/10/27 三大新聞比較

最近(といってもかなり前からなのかもしれないが)、新聞の勧誘がしつこすぎはしないだろうか。
購読中の新聞を勧誘しにきたり、一度いらないと断った新聞の勧誘を別の人がしにきたり、勧誘のためのシステムは、いったいどういう仕組みになっているのだろう。

私はかなり偏向的な人間で、政治や経済の動きなどにほとんど興味がないため、新聞選びの基準も変わっている。
つまり、第一に書評、第二に出版社の新刊広告。この二点によって新聞の好き嫌いを判断している。

このところある事情で、三ヶ月ごとに購読する新聞を変えるということをやっている。しかるのち、今後長く購読する新聞を決めようというわけだ。
十月から毎日新聞で、それまで読売・朝日を購読した。もともと実家は読売で、私自身は仙台以来朝日(ときどき読売)をとっていたため、今購読している毎日新聞は初めてじっくり読むことになるのである。

毎日でいいのは、言うまでもなく充実した書評欄。これまで三回日曜の書評欄を見てきたが、先週(21日)の書評欄は鳥肌が立つようなすごいラインナップだった。
川本三郎さんによる平出隆『猫の客』評、渡辺保さんによる矢野誠一『エノケン・ロッパの時代』評、鹿島茂さんによる『18世紀パリ市民の私生活』評、沼野充義さんによる『自殺の文学史』評。前週は丸谷才一さんがボルヘス本を評していた。
本好きを唸らせるような魅力的な構成に、さて今後何を購読すべきか、迷って頭を抱えてしまったのである。

というのも、毎日は書評欄や、その他の本についての紙面が充実しているのに比して、新刊広告がきわめて少ないからなのだ。マイナーな出版社の広告が多い。
この点は読売はさらに見劣りし、断然朝日に軍配が上がる。文化面も同様。
その朝日は今年度から堀江敏幸さんが書評委員となって、ちょっと気になるようになってきた。
この二点で判断すると、朝日を購読紙として、日曜だけ毎日をコンビニなどで買ってくるというスタイルがいいのかもしれない。

ただ毎日の捨てがたいのは、書評面ではなくて、競馬の予想欄が意外に充実していること。
朝日が発走馬のリストと簡単な予想だけ、読売はそれより少し詳しい予想なのに対し、毎日は一面を割いてメインレースの馬柱を掲載し、競馬新聞が不要である。迷うところだ。

■2001/10/28 待望の対談集

『東京迷宮考 種村季弘対談集』(青土社)。書店の店頭でこの本を見かけたとき、一瞬にして頭のなかが真っ白になり、気が付くと本が積んであったワゴンから将棋の駒崩しよろしく本の山を崩さぬようそっと本書を抜き取り、レジに向かっていた。
もう少し待てばあるいは種村さんのサインをいただける機会があるのかもしれないが、本を目の前にして抑制がきかない。

青土社から出る種村さんの著作を手にするのはいつ以来だろうか。
『ビンゲンのヒルデガルトの世界』(94年刊)以来か。
しかしこの本は通読していないので、通読したという意味では『ハレスはまた来る 偽書作家列伝』(92年刊)以来となるかもしれない。
7年というもの間、青土社の種村さんの新刊を手にしていなかったとは、時の経つのも早いものである。

手にとってページをめくると、かすかにただよってくる匂いは、まさに青土社の本だと感じさせる。
もちろんこれは正確に身も蓋もなく言ってしまえば、青土社の本を製本している○○社の糊の匂いということになるのだろうが(いま新しめの種村本を一覧してみると、全て小泉製本だった)、この匂いは私にとっては種村本の匂いとイコールであり、手にとってずしりとくる持ち重りの快感は青土社の本の良さなのである。
最近の書物は紙質のせいか本がやたらと軽くなっていけない。

さて本書は「東京論を主にした近代の都市とその変貌を話題にした」対談を収録している。
相手は、川本三郎(2回)・寺山修司・田村隆一・日影丈吉・松山巖(2回)・戸井田道三・鬼海弘雄・池内紀・堀切直人・前田愛・井波律子・谷川晃一と超一流揃い。タイトルが刷り込まれているカバーを見ただけで期待が膨らむ。
もっとも、川本さんや松山さんをお相手とする雑誌『東京人』誌上での対談はかつて読んだことがあるのだが、こうしてまとめられて読むと、また違った感興が沸くというものである。

一読、期待どおりの知的興奮を味わうことができた。
奔流のごとく対談する二人から湧き出る単語の群れは、こういう本を読みたかったのだと渇望していた私の気持ちを裏切ってはいなかった。
いま読み終えた本書を何度もパラパラとめくり返して、目に飛び込んでくる固有名詞を見ながら余韻にひたっている。

思わず付箋をつけてしまった箇所。
前田愛さんとの対談(「現代食物考」)での前田発言。明治維新とともに一般に広まった「牛鍋」について。

牛鍋というのは鍋の中に牛肉だの葱だのごちゃごちゃ入れてグツグツ煮るわけね。それまでの日本人の考え方からすると、同じ鍋のものをつつき合って食べるというのは穢れるという発想があったわけですよ。(260頁)

なるほど言われてみるとたしかにそうか。
泉鏡花は同じ鍋を他人とつつくのがどうしても性に合わず、鍋に葱で仕切りをしたという逸話(嵐山光三郎さんの『文人悪食』参照)は、鏡花の保守性を示すだけで、とりたててエキセントリックな人格を云々するものではないのだ。
それにしても、すき焼きを「牛鍋」と呼ぶと、そのとたんに美味しそうな響きを帯びてくるように感じるのは、私だけだろうか。

川本さんとの対談(「昭和三十年代、東京」)では、貴重なエピソードがぎっしりつまっている。
銀座の並木座で「洲崎パラダイス赤信号」を上映したとき、種村さんと川本さんがばったり出会ったという話(177頁)、昭和36年に、とある職場で種村さんは向田邦子さんと一緒だったという話(187頁)。
このような自分の好きな書き手同士が出会う挿話を読むと無性に嬉しくなってしまう。

池内紀・堀切直人両氏との古本屋をめぐる鼎談(「ラビリンスとしての古本屋」)が、種村さんも含めた三氏の古本屋体験から、古本売買のシステムや古本好き人間の心理に話が及んで痛快に面白い。
思わず「これだ!」と思った池内さんの発言を最後に。

読まない本を買うのが本当の読書家です(笑)。(231頁)

買ったからには読まねばという強迫観念に常に苛まれている貧乏性の私など、「本当の読書家」には遠く及ばない。

■2001/10/29 わたしの地縁主義

私の場合、ある書き手を好きになるきっかけの一つとして、地縁という要素がある。
山形出身ということもあって、斎藤茂吉、井上ひさし、丸谷才一など、好んで読んできた。
もっとも丸谷さんへの傾倒はつい最近のことだが、その丸谷さんは、ファンから「私も同じ山形県人なんです」と言われても「だから何なの?」と思ってしまうという。
同郷だからという妙な連帯感を持たれるのが好ましくないらしい。この点私とは相容れない。

この私の「地縁主義」は、東京に来てからも変わっていない。
ただこちらの場合、自分の住んでいる地域を舞台にした作品を好ましく思う、そんな意味合いの性格が強かった。だから、もとからその気がないわけではなかった私の東京本好きは、これまたもとからあった「地縁主義」と相まって、東京に移って極度に増幅したわけだ。
極端にいえば東京を舞台にした小説すべてに関心を持ってしまうのであった。

今回、昨日触れた『東京迷宮考 種村季弘対談集』(青土社)の脚注で本来の意味での「地縁主義」の嗜好に火がついた。
文芸評論家の故磯田光一さんが私の住んでいる街の近くに長い間お住まいになっていたということを知ったのである。

さっそく講談社文芸文庫に収められている磯田さんの著作を書棚から取り出して、巻末を見てみた。
同文庫には年譜が付いていることが多いけれども、磯田さんの著作のうち私が持っている三冊(『永井荷風』『思想としての東京』『鹿鳴館の系譜』)にはいずれも解説と作家案内のみであった。
しかし、『思想としての東京』の作家案内(曽根博義氏執筆)に次のような記述を発見した。

磯田光一は昭和6年1月18日に横浜市中区伊勢町(略)に生まれたが、昭和14年9月、八歳のとき、一家で東京市葛飾区亀有町2丁目1440番地に移り、昭和46年6月に松戸市に転居するまで、戦中・戦後を通じて生涯の大半を常磐線亀有駅の南約800メートルのその地で過ごした。

曽根氏は上の一節に続けて、磯田さんの「東京」意識が微妙に屈折したものにならざるを得なかった理由として、この居住地の性格に求めている。

つまり、関東大震災頃までは農村であった亀有が、震災後に「下町」に隣接する工業地や住宅地として東京の一部に吸収されていく過程、この時期に磯田さんは精神形成の重要な青少年時代を過ごしたことを重視しているのだ。

たしかに日本橋や浅草、上野などの下町で生まれ育った、いわゆる「江戸っ子」ではない、新興の「下町」に育ったことのなかから、山の手や下町をも対象化する視点が生み出されるものなのだろう。
種村さんの対談集のなかにおいても、すぐれた東京論の論者は概して地方出身者か、たとえ東京生まれでもある時点で「外側からの目」を獲得した人間に多いということが、繰り返し話題にされていた。

さてこのような経緯で、磯田さんが、現在私が住んでいる街にかつて住んでいたという事実を知り、俄然人物的な興味が増大したのであった。
むろん講談社文芸文庫の著作を前から持っていたから、文芸評論家としての磯田さんにまったく興味がなかったわけではない。また、お墓が澁澤龍彦と同じ浄智寺にあるから、澁澤のお墓に詣でたときには必ず磯田さんのお墓へのお参りも忘れなかった。
ただ「地縁主義者」としては、より親近感をもって著作に向き合えるのではないかと思ったのである。

ちょうど松本哉さんの『荷風極楽』(朝日文庫)を読み終えた直後でもあり、『永井荷風』を手にとってみた。
岩波文庫の『摘録断腸亭日乗』を読んだことがきっかけで荷風へアンテナが向きだした私にとって、その編者による荷風論であるから見逃すことができなかった本だ。
講談社文芸文庫との長い付き合いのなかで、最初期に購入した本なのではあるまいか。
その頃吸っていた煙草のために天や小口が茶色に変色している。懐かしい本だ。

この間随分と私の荷風に対する知識や思い入れが変わってきたこともあり、初読(といってもすっかり忘れていたが)のときには十分に理解できなかったような個所にも目を向けられたのではないかと思っている。
作品と『断腸亭日乗』を素材に荷風の思想や個人主義的意識の形成などを論じた正々堂々たる評伝である。
本書を読んでさらに未読の荷風作品を読みたくなってきた。「腕くらべ」(十五代目市村羽左衛門のモデル問題があったという)と「おかめ笹」をまず読んでみたい。

■2001/10/30 文庫の申し子

新刊時に購入し面白く読んだ単行本が文庫に入ったので、これまた購入して文庫版で再読する。そんな本が2冊続いた。松本哉さんの『荷風極楽』(朝日文庫)と鹿島茂さんの『空気げんこつ』(角川文庫)である。
松本本は98年12月三省堂刊、鹿島本は98年10月文春ネスコ刊、いずれも約三年を経ているのも奇しき偶然。98年は私が東京に移り住んだ年であるが、ようやく生活にも少し慣れ、読書も落ち着いてできるようになってきた時期ではなかったかと思う。

松本哉さんという書き手を知ったのはこの本が最初ではなかったろうか。
これによって前著である『永井荷風の東京空間』(河出書房新社)や『永井荷風ひとり暮し』(三省堂→朝日文庫)のほか、『すみだ川気まま絵図』『すみだ川横丁絵巻』『ぶらり東京絵図』(いずれも三省堂)のような一連の東京散策エッセイを知ったのだった。

これまで何度も書いてきたが、私は記憶力に乏しく、そのため逆に再読でも初読と同じように面白く読むことができるという「特技」(?)を持っている。『荷風極楽』も例外ではなかった。
荷風と高見順が従兄弟同士であることは有名な話だが、その高見順の弟の娘婿(つまり高見順の義理の甥)が野村万作であることをあらためて知って驚いた。万作の子が萬斎であるから、彼もまた荷風と遠縁であるわけである。
それを示す系図(同書141頁)を見ると、さらにほとんど他人というべき遠縁に平岡家、すなわち三島由紀夫の家までつながっている。こういう話を知っただけでも再読の価値はある。

鹿島さんの『空気げんこつ』も同じで、内容をすっかり忘れていただけに、これまた楽しく読めた。
現代風俗批評の文章がメインなだけに、古びないかどうか心配だったが、さほどの古さも感じず、逆にその頃すでにこのようなことまで考えていたのかという予見性もあることには驚いた。「チョー現実的大学改革論」なんて現場の大学教師からの声として素晴らしいの一言に尽きるのだが、いまだに先行きが見えていない。

元版の洗練された装丁から一転、少女アニメ風のキャラクターを配した文庫カバーも度肝を抜かれる。鹿島さんが文句をつけたくなるような女の子が逆に「空気げんこつ」らしきグローブをはめているイメージはすこぶる逆説的だ。

単行本と文庫で同じ本を二度楽しむ。われながら文庫全盛時代の申し子のごとし。