読前読後2001年9月


■2001/09/01 何も起こらない話

読むたびに思うのだが、吉田健一の小説というのは不思議きわまりない。大きな筋があるわけでもないのに、なぜか惹きこまれてゆくのである。

今回初めて読んだ長編『埋れ木』(集英社)も例外ではなかった。
小石川の台地上に親から受け継いだ屋敷を構え、新聞に評論めいた雑文を書いて糊口をしのいでいる唐松という男が主人公である。
いや、「糊口をしのぐ」というのは正確ではない。売文による収入で余裕をもって暮らしていけるのである。

あえて全編を貫いている筋からいえば、唐松が住む小石川の屋敷地が次々とある土建業者に買い取られ、唐松の家にもその危機が迫ってきたところに、友人の田口の奔走で救われたという、現在でいえば「地上げ」の物語であると、いちおうの説明はできる。
しかしそれではこの物語を説明したことには、本当はならない。

主人公が寝て、起きて、食べて、飲んで、友人と会話して…という、ただそれだけの小説であると規定してしまうのは、言い過ぎだろうか。でも吉田健一の小説はすべてがそんな感じではないか。
『埋れ木』では、そのなかに吉田健一の持論とおぼしき文明論や(70年代前半の)都市東京論がたくみに織り込まれていることになる。

また、世俗にとらわれずに精神に余裕をもって暮らしていくことは「時をたたせる」という言葉で表現されている。別の本のタイトルにもなっている吉田健一独特の言い回しだ。
吉田健一といえば、そのユニークな評論『時間』が有名であるが、この『埋れ木』は『時間』が雑誌に連載される前年に刊行されている。
その意味では吉田の時間論の先行作品であり、かつ小説としての試みということができようか。
吉田健一の文明論や時間論、歴史認識の警句ほど心に沁み、引用したくなるものはない。そのなかから一箇所だけ引用しよう。

酒を飲んでいてそれが所謂いい酒ならば酔いが一定の所に留っていてそれ以上にもそれ以下にもならない。それは酔っているのに違いなくても意識が普通よりも多少は鮮明になっている程度のことでその状態が続けたいから飲むのを止めずにいることにもなる。

■2001/09/02 鵜の目鷹の目

何度か古本屋でお目にかかっていながら、その都度財布の中味が寂しくて買うことができなかった。後日、少し余裕があるぞとワクワクしながらその古本屋に行った時にはすでに売られてしまっていた。
そんな経験をしているのが、赤瀬川原平さんの『鵜の目鷹の目』(日本カメラ社)である。
今回ようやく山形のブックオフで縁あって手に入れることができた。

もっとも本書を棚に見つけてすぐに買おうと決断したわけではない。文庫ばかりを買っている身にとって値段はちょっと高めである。
パラパラめくっているうちに目に止まったある2点の写真によって購入を決断したのだった。

本書は木村伊兵衛・土門拳・桑原甲子雄から荒木経惟までの日本の高名な写真家だけでなく、ロバート・キャパなど外国の写真家の写真を取り上げて、そこに写っているものを“鵜の目鷹の目”で観察し、新しい見方を示したエッセイ集である。有名な写真にトマソン的解釈をほどこしたもの、ということができるだろうか。

たぶん書名となっている慣用句の出所は、宮武外骨の絵葉書コレクションにあるのではなかろうか。
「あとがき」にはその由来は書かれていないけれども、『外骨という人がいた!』(ちくま文庫)で「鵜の目鷹の目」と題された絵葉書コレクションを面白おかしく紹介している箇所が、私にとっても印象深いものだからだ。
この外骨のコレクションも、絵葉書の主題とは別に何気なく写っているものをことさらに取り上げて、印を付けて示したものであった。
赤瀬川さんの試みは、その対象を写真にしたものといえる。

さて私がひっかかった2点とは、二章目である「アジェのアタゴタイプ」と名づけられた一篇で取り上げられたウージェーヌ・アジェの写真一葉と、「信号のない交差点」で紹介されている木村伊兵衛の写真一葉。
アジェは最近面白く読んだ藤田宜永さんの『巴里からの遺言』(文春文庫)のカバー写真になっていることを指摘され、気に止めていた。
いっぽうの木村伊兵衛の写真は、1928年当時の本郷森川町を撮影したもので、「あっ、これはあそこじゃないの」と今の場所の記憶と重なったからである。

本購入の動機とはかように瑣末なことにすぎないことが多い。

■2001/09/03 宿願達成

今回の夏季休暇で吉田健一の『埋れ木』を読むからにはと、もう一冊吉田健一がらみで読もうと思っていた本も携えた。むしろこちらのほうが、過去長期休暇、長期出張などで何度か携えていきながら読むことができなかった本なのだ。

その本とは、アメリカ生まれの女流作家パトリシア・ハイスミスの『変身の恐怖』(ちくま文庫)。吉田健一訳なのである。

ハイスミスの作品中もっとも有名なのは映画化もされた『太陽がいっぱい』だろう。しかしながら彼女は、滝本誠氏による本書の「解説」でも述べられているように、「1990年代に再発見された作家」といえる。
当時河出文庫から“ハイスミス・コレクション”と銘打って彼女の作品が数冊翻訳刊行され、それが「再発見」の火付け役となった。私も『妻を殺したかった男』をはじめ何冊か購読して、そのサスペンスあふれる筆致に酔いしれた口であった。
当時(90年代初頭)河出文庫で出される作品には全幅の信頼をおいていたので、知らない作家でも読みたいという気にさせられたのである。
このシリーズは黄色い背表紙の本だったと記憶しているが、いま書棚を見回しても見当たらないから、売り払ってしまったのだろう。

いっぽう、やはり90年代前半に講談社文芸文庫に続々と入った吉田健一の著作に触れ、私はいっぺんに彼のファンとなってしまった。
同文庫の巻末についている「著書目録」を見ると、数多くの翻訳作品がリストアップされているが、そのなかでチェスタトンの作品と並んで異色と思われるのが、この『変身の恐怖』ではあるまいか。
ハイスミスに夢中になっていた私がそれを見逃すはずがない。
筑摩書房から刊行された「世界ロマン文庫」という聞いたこともない叢書の一冊として70年6月に刊行された本書は、ハイスミスと吉田健一という取り合わせによって、それ以来長らく羨望の書となっていたのである。

その羨望の書がようやく文庫化されたのは、それらの熱もおさまってきた97年12月であった。熱が醒め、忘れかけていたとはいえ、ちくま文庫新刊のなかに本書を見つけたときは驚喜したものである。

以来何度かこの本を読もうとしたが、前述のようにその都度果たせなかった。この宿願をようやくこの夏季休暇で達成したのである。

一読した感想としては、『妻を殺したかった男』を読んだときに感じた強いサスペンス感が伝わらず、多少期待をはぐらかされた。
あらすじは、カバー裏にあるものをそのまま引用するが、以下のようなものである。

独立したばかりのチュニジアで、ふとしたことから人を殺してしまったアメリカ人の小説家。しかしゴミを片付けるかのように死体は取り除かれていた。ここでは殺人はありふれたことなのだった。その奇怪な状況に慣れ親しんでいってしまう心の恐怖……。

主人公がおかしてしまった殺人のそもそもの原因は、被害者のアラビア人が、主人公の宿泊するホテルの部屋に忍び込んで窃盗を働こうとしたことにある。
つまり不法侵入・窃盗・殺人という、法治国家のなかでは当然警察権力の発動をあおぐべき事件が、アラビア人社会のなかにおいては刑事事件に値しないものとして闇に葬り去られる。
そのズレをズレと感じなくなった外国人とズレをズレと感じる外国人の軋轢として描き出すという流れの小説なのだ。
別の見方をすれば、本作品をいわばアフリカの“エトランジェ小説”と見ることも可能だろう。

サスペンス色は薄いものの、さすがハイスミスと感じさせられたのは、その殺人をおかしてしまうまでの主人公の心境の変化の細かな描写である。
アラビア人社会のなかで暮らすことに慣れてきた反面で、アラビア人への憎しみを少しずつ高まらせてゆく。その果てに殺人が据えられている。
ちょうどこのクライマックスともいうべき殺人はこの小説の半分まで読み進まないと行なわれないのである。しかしそれを退屈と思わせない心理描写は見事というほかない。

殺人を起こしてからの主人公と周囲の人物たちとの間の葛藤を描く後半部分も一気に読ませる。
解説の滝本氏によれば、本作品のサスペンス性の希薄さ、別の言葉でいえば、他のハイスミス作品と異なってミステリーより純文学に近い味が、吉田健一の訳文と見事にマッチしたのではないかという。
翻訳だから、訳文にあの吉田健一独特のあくの強い文体は生きていないけれど、吉田健一好きであればその痕跡をうかがうことはできるのではあるまいか。
また、「訳者あとがき」は淡々たるものだが、そこにこそ吉田節としかいいようがないフレーズが展開している。今日もふたたび彼の文章を引用して終わりたい。

従ってこれは誰もが人間であることを求めている小説であるといえるので、それでそこにわれわれもわれわれを見出すことになる。ここにはいかにあるべきかなどということは何も書いていなくて、だたそういうことを考えて生きている人間だけが描かれている。ここにあるのは古くも新しくもないそういう世界である。

■2001/09/04 泉麻人が見る都市東京

泉麻人さんの新刊『新・東京23区物語』(新潮文庫)を読み終えた。

「はじめに」によれば、本書の旧版(『東京23区物語』)は1985年に書き下ろされ、88年に多少の加筆修正が加えられ新潮文庫に入ったとのこと。
この旧版は東京に来てから古本屋で購入したものの、拾い読みしかしていないはずだ。妻が先に通読したような記憶がある。
書かれてから15年近くたっていて、そこに東京の歴史をうかがうのにも中途半端であるうえ、90年代末の現代東京とも完全につながらない。それゆえに読む気力を失ったのかもしれない。
少し東京のことがわかってきた今であれば、過去の東京を相対化できて、あるいは面白く読むことができるだろうか。もっともこの新版が出たから、無理に旧版を読む必要もなくなったわけである。

さてざっと一読してみると、本書は東京23区の特徴を大雑把につかむためには最適の本なのだろうと思う。したがってよりディープな、マイナーな情報を求める人間(たとえば私)にしてみれば物足りなさを感じないわけではない。
だが、ときおりフェイクな情報や極論がはさまれたりしている個所は思わず笑ってしまう。
だからこれで各区の特徴を大雑把につかまれても困りものなのかもしれない。

泉さんの東京論で突出しているのは、「中央線人」をめぐるものだと断言してもいいのではあるまいか。
杉並区を京王線沿線の人々と中央線沿線の人々を色分けする手法は鮮やかで、この中央線人種はさらに中野区―新宿区へとつながっている。
それらの地域にあまり縁がない私のような人間でも、何となく雰囲気がつかめてしまうから、見事な芸当である。
もっとも泉さんご自身は杉並区の井の頭線に近いほうにお住まいとのことなので(『東京自転車日記』新潮文庫)、このあたりの考察の鋭さは実生活上の経験にもとづくものなのだろう。
それはともかく、京王線・中央線というよりは、電車路線でそれを利用する人々を表現するというのが泉さんの方法論なのである。

読んでいて、旧版と新版の間に刊行された著作の成果が取り入れられていることもわかって面白い。
たとえば前掲の『東京自転車日記』をはじめ、『大東京バス案内』(講談社文庫)、『東京少年昆虫図鑑』(新潮OH!文庫)などがそれ。
とりわけ『大東京バス案内』でのマイナーバス路線の東京探索は、新版執筆に大きな素材を提供しているものと思われる。

本書の巻末には「東京マニアック・クイズ」なるカルトな知識を問うクイズが特別附録としてついている。本書を読んでもわからないような細かな設問には舌を巻くが、ここで一つとても驚いた問題があった。
「環八を舞台にしたユーミンのラブソング」という問題がそれ。
答えは「カンナ八号線」。知っている人にとっては当たり前なのかもしれない。
「♪カンナの花が萌えて揺れてた中央分離帯 どこへ行こうか待ち遠しかった日曜日(略)思い出にひかれて ああ ここまで来たけれども あの頃の二人はもうどこにもいない」という印象的なフレーズをもつこの曲は、私もかなり大好きな曲のうちに入る。
大好きだからこそ、この「カンナ八号線」とはどこなのか、気になっていたのだが、この本を読むまで私はこれを国道八号線だとばかり思っていた。地図で調べてみると神戸を通る路線なので、てっきり神戸の情景だと思い込み、「神戸ならマッチするなあ」と勝手に想像をふくらませていたのであった。

それが環八だとすれば認識を改めなければならない。一度機会をつくって環八を車で走り、カンナが咲くという中央分離帯をこの目で確認して、曲のイメージを再構成しなければならないと思っている。
この事実を知っただけでも、私にとっては読む価値がある本であった。

しかしここで恐ろしい疑惑が首をもたげる。
このクイズの答えまでフェイクじゃないんだろうな。本当は国道八号線でよかったんじゃないだろうな。

■2001/09/05 続・文庫解説輪舞

6/22条において「文庫解説輪舞」と題し、ある文庫本の解説者からその解説者の文庫本著作、さらにその解説者というリレーを自分の蔵書で試みた。
その結果9冊までつながり、最後は坪内祐三さんで途切れてしまったのは前回お知らせしたとおり。

その後7/30条で書いたように、七月末に坪内さんの『靖国』が新潮文庫に入ったので、これで見事10冊までつながったことになる。その本の解説は野坂昭如さん。手もとに野坂さんの文庫本がなく、ここでふたたび途切れてしまっていたのである。

ところが、新潮文庫サマサマというわけで、八月の復刊本のなかに野坂さんの『エロ事師たち』が含まれていたので早速購入した。
7/30条を受けて、やっきさんから本書の解説は澁澤龍彦だということをうかがっていたからである。
さてそれでは続きの「輪舞」を試みてみよう。

(1)山口瞳『酔いどれ紀行』(新潮)→丸谷才一
(2)丸谷才一・山崎正和『二十世紀を読む』(中公)→鹿島茂
(3)鹿島茂『パリの王様たち』(文春)→中野翠
(4)中野翠『ムテッポー文学館』(文春)→鹿島茂
(5)鹿島茂『この人からはじまる』(小学館)→猪瀬直樹
(6)猪瀬直樹『土地の神話』(新潮)→泉麻人
(7)泉麻人『東京自転車日記』(新潮)→陣内秀信
(8)陣内秀信『東京の空間人類学』(ちくま学芸)→川本三郎
(9)川本三郎『大正幻影』(ちくま)→坪内祐三
-----(ここまで前回分)-----

(10)坪内祐三『靖国』(新潮)→野坂昭如
(11)野坂昭如『エロ事師たち』(新潮)→澁澤龍彦
(12)澁澤龍彦『悪魔の中世』(河出)→谷川渥
(13)谷川渥『幻想の地誌学』(ちくま学芸)→鹿島茂(三度戻った)
(14)鹿島茂『絶景、パリ万国博覧会』(小学館)→荒俣宏
(15)荒俣宏『目玉と脳の大冒険』(ちくま)→養老孟司
(16)養老孟司『続・涼しい脳味噌』(文春)→中野翠(二度目)
(17)中野翠『会いたかった人、曲者天国』(文春)→夏目房之介(巻末対談)
(18)夏目房之介…

中野翠さんの新刊『会いたかった人、曲者天国』での巻末対談相手、夏目さんは、漱石とのかかわりで何か著作を持っていてもおかしくない。しかし残念ながら持っておらず、あえなく頓挫。
以前買った『東京風船日記』(新潮文庫)には解説はなく、新刊の本書に首の皮一枚がかかっていたのである。
意外に中野さんの文庫は持っていないから、『ムテッポー文学館』で持ち駒を使ってしまった感ありだ。
しかし中野さんの一つ前の養老さんも問題なのかもしれない。
養老さんの文庫本には、夢枕獏とか内田春菊とか、およそ私が持っていそうにないメジャーどころが解説を書いている。夢枕さんといえば『陰陽師』をかつて持っていたはずなのだが、いま見当たらない。

首の皮一枚といえば、意外に苦しいのは、澁澤・荒俣という一見「大通り」に見える大物二人。この二人の文庫本には解説付きのものが少ないのである。
大通りながら歩行者・公園スペースがメインで、車が通ることができるのは一車線だけという道路のごとし。谷川→鹿島で鹿島さんに帰ってきたのが三度目なのも苦しかった。

ある方からは、9冊ですら、ここまでつながるのはすごいというお褒めの言葉を頂戴したが、自分としてはまだまだいけたのではないかと残念でならないのである。

■2001/09/06 「三世澤村田之助小説」を超えて

今年の3/9条にて、三世澤村田之助が主人公ないし登場人物として登場する小説をあげ、これらを「三世澤村田之助小説」とくくってみた。
幕末明治期に美貌の女形として若い頃から立女形として活躍し、将来を嘱望されていたにもかかわらず、脱疽で両足や手を切断する悲運に見舞われ、それでもなお舞台に立ちつづけ、果てに狂死したという、波乱万丈の生涯をおくった歌舞伎役者である。

そのときあげたのは、南條範夫『三世沢村田之助 小よし聞書』(文春文庫)・山本昌代『江戸役者異聞』(河出文庫)の2冊。
このたび、そのなかに北村鴻さんの『狂乱廿四孝』(角川文庫)を付け加えることができたのは嬉しい。

長編「狂乱廿四孝」は第6回鮎川哲也賞を受賞し、95年に東京創元社から単行本として刊行された。ところが、著者曰く「あまりに紆余曲折がありすぎてとてもここでは書ききれるものではない」(「あとがき」)という事情で文庫化が遅れ、結果的に別の版元から文庫化された。
今回の文庫化にあたり、本作品に加えて、この原型だという短編「狂斎幽霊画考」(オール読物推理小説新人賞候補作)が“ボーナストラック”として付け加えられている。

夏休みでは休みのときに読もうと思っていた本を優先していたので、本書を持参しなかった。そういうこともあって、東京に戻るやいなや、すぐにこの本を手に取り、興奮のうちに読み終えた。
歌舞伎ミステリとして傑作である。

時は明治初年の東京浅草猿若町。すでに脱疽で両足を切断した澤村田之助が、からくりを駆使して「本朝廿四孝」の八重垣姫を勤め上げ、観客の度肝を抜いた守田座が主な舞台となる。
澤村田之助に加え、守田座の座付作者河竹新七(黙阿弥)、座主の守田勘弥、田之助のからくりをつくった大道具方の長谷川勘兵衛、それに五代目菊五郎、河原崎権之助(のちの九代目團十郎)、またこの物語のキーとなる幽霊画を描いた河鍋狂斎(暁斎)、戯作者の仮名垣魯文など、実在の人物が多く登場し、そこにお峯という黙阿弥に弟子入りした16歳の女性芝居作者がからんで話は展開する。

驚くのは、上記した実在の人物たちが、物語のリアリティを増すという目的だけで、たんに「特別出演」としてちらりと顔を見せるのでなく、一人一人が主人公と言ってもいいほどの深い人物造型で描かれていることにある。黙阿弥しかり、勘弥しかり、團菊、勘兵衛、狂斎・魯文もまたしかり。
そうした幕末明治初年における歌舞伎界の裏事情をうかがわせるような、歌舞伎ファンをくすぐる道具立てにさらに拍車をかけるのが、幕末の歌舞伎界の重大事件であった、八代目團十郎切腹事件と、河原崎権之助(九代目團十郎の養父)殺害事件という二つの事件が物語にからんでくるという仕掛けである。たまらない。

ミステリということもあり、これ以上内容に触れるのはひかえるが、「長編より先に読んではいけない」と作者・解説者(西上心太氏)に強く釘をさされた併録作の「狂斎幽霊画考」もまた興味深い。

長編と登場人物がかなり重複し、暁斎の幽霊画がキーとなることには変わりはないものの、微妙に役割や描かれ方が異なり、しかも…、おっと、これ以上は申すまい。

歌舞伎ミステリといえば、これまで戸板康二さんの中村雅楽物や近藤史恵さんの『ねむりねずみ』(創元推理文庫)があったが、この『狂乱廿四孝』は実在の歌舞伎役者やその周辺の人物の特徴を見事に生かしたうえで作中に配するといった、これまでの歌舞伎ミステリにはない新機軸を打ち出したものと評価できる。

■2001/09/07 はなはだしい落差

先月末東京を離れる前に読み終えていた上林暁さんの『禁酒宣言』(坪内祐三編、ちくま文庫)について、忘れてしまう前に書いておこう。

上林暁(かんばやし・あかつき)。何だか夏の避暑地、とある高原の雑木林のなか、朝露に濡れながら散歩に出た爽やかな夏の朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだようなイメージを持つ、この作家の名前を聞いたのはいつのことだったろう。
たぶん、仙台の古本屋でアルバイトをしていたとき、彼の全集が入ってきたのを目にしたのがきっかけだったのではあるまいか。

名前からは、当時夢中になっていた幻想文学系の書き手ではないと判断して、お店の先輩(私の澁澤道の師匠)に聞いてみた。すると「私小説、病妻物」という答えが返ってきた。
「なるほど」。何がなるほどなのか、内容と作家の名前が妙にピタリとはまったのに感心し、しかし自分には縁のない作家ということで、それ以上この作家について詮索するのは止めにした。

ところが、働いていた古本屋でもあまり見かけないマイナーな作家であるゆえか、なぜか気になるものと見えて、彼の作品が文庫になったのを見かけたときには、つとめて買い求めるようにしていたのである。
そうして手もとにあるのが3冊。
購入した順番にいうと、A『白い屋形船/ブロンズの首』(講談社文芸文庫、90年8月)、B『聖ヨハネ病院にて』(新潮文庫復刊、93年11月)、そしてC『禁酒宣言』(ちくま文庫、99年9月)となる。
Aは私小説作家としての彼の代表作を集成した趣がある短編集。
Bもまた短編集である。カバー裏の紹介文によると「重度の精神病を患った妻を介添えする夫の、自嘲と献身の狭間に揺れる姿を通して、神々しいまでの夫婦愛を示す表題作」とあるように、いわゆる「病妻物」作家としての姿が前面に押し出されている。
AとBの間には、奇跡的に(?)重複する作品はない。

買っただけで読んでもいないのに、この2冊によって私は完全に上林暁という作家を「病妻物」(病気という意味では、単純ながら堀辰雄系)の作家であると決めつけてしまっていたのである。

このイメージが、今回読んだCで決定的に覆された。
時間の流れでいえば、Bのあと、奥様が亡くなってからの自分の姿を描いた私小説ということができるのだろう。飲んだくれて人に絡み、女性を好きになってはフラれ、後悔して禁酒宣言をするも、やはりお酒をやめることができずに居酒屋を渡り歩く。そんな酒呑み中年男の悲哀が、この一冊に凝縮されている。
いかにも繊細そうな、しかも高潔なイメージの「病妻物」作家とは全然違うではないか。
清涼な名前のイメージと作物との差異、あるいは作品集間での内容の差異がこれほどまでに大きい作家は、そうそういないだろう。Cの編者たる坪内祐三さんの功績は大なりと言わなければならない。

その坪内さんは、小林信彦の批評に導かれて『上林暁全集』を読破するなかで、これらの作品群に出会ったのだという。だからこそ、このような従来の作家像と異なる、いや、従来の作家像に新たなる側面を付け加えるような仕事が可能だったのである。

Aに収録されている「作家案内」(保昌正夫氏執筆)にこの周辺のことはどんなふうに書いてあるだろう。

自筆年譜の昭和二十二年に「この年初頭より酒を過ごしはじむ」とあるのには、「嬬恋い」の情もからんでいるだろうか。「過ごしはじむ」は、ただ「やり始めた」にとどまらず、文字どおり「過ごす」ことになって行ったようだ。作品にも「禁酒宣言」(昭24)、「酔態三昧」(昭25)などがあらわれる。高血圧となり、節酒を心がけたが、二十七年正月、軽い脳溢血となり、絶対安静四週間。以後三年、禁酒した。

「自筆年譜」にもとづいた事実をなぞった記述であり、このなかで生み出された作品もたんなる紹介にとどまっている(上記二編はむろんC所収)。
だから、たとえAを読んでこの作家に興味をもち、「作家案内」を熟読したとしても、これら一連の酒場小説に行き着くことは難しかったのではなかろうか。

ちくま文庫の最近の趨勢を見るに、品切になる前に購入しておいたほうがいい部類に属する本である。

■2001/09/08 興奮二題

【その1 ミーハーとしての興奮】

歌舞伎座の昼の部を観に行った。九月大歌舞伎昼の部は、真山青果の「明君行状記」に中幕は「俄獅子」「三社祭」の軽快な舞踊二つ、それに重厚な丸本物「一谷嫩軍記」から陣門・組討の段、追い出しは「藤娘」である。

歌舞伎としての演目編成はともかく、松竹の狙いとしては、夜の部一番目の山本有三作「米百俵」が時事ネタ的で、今月の一押しなのだと思われた。
歌舞伎は江戸以来つねに巷の新鮮な事件やゴシップなどを取り入れた“現代劇”だから、取り立てて非難すべきものではないのかもしれない。
しかし私は、あまりに露骨な時流迎合的編成に嫌気がさし、夜の部は行っても幕見で「紅葉狩」を見にいく程度にしようと考えている。

さて、「藤娘」が終わって歌舞伎座の外に出てみると、出入口付近に報道のステッカーを身につけた人々やテレビカメラ数台が鎮座し、何やらイベントでもあるかのような様相を呈している。

その程度のことと判断して、歌舞伎を観終えたあとのお決まりのコース、奥村書店に向かった。
店に入って間もなく、私と同じく歌舞伎を見終えたとおぼしきお客さんが入ってきて、店主さんに何やら話しかけている。そのなかから「小泉さんが…」という言葉が聞こえてきた瞬間、私は奥村書店の外に出て、いま来た道を歌舞伎座に戻っていた。

歌舞伎座の出入口の前は大きくあけられて、両側に人垣ができあがっている。
幸い私が戻ったときには、この騒ぎの理由がわからないままとどまっている人が多く、人垣の前のほうに進むことができた。
人垣の前や出入口前の車道付近には、イヤホンをつけたSPらしき人々がたくさんいて人混みを整理し、歌舞伎座の前で停車するタクシーを前方へ誘導している。
夜の部を見るために歌舞伎座にタクシーを乗り付けて来た人は、いったい何事が起きているのかという不思議そうな、また、大群衆の前でタクシーを降りることに気恥ずかしそうな表情で足早に歌舞伎座の中に入っていく。

歌舞伎座と晴海通りをはさんだ向こう側の歩道にも徐々に人が集まりだした。入口近くのカメラも一斉に車道にレンズを向けている。
SPの動きが慌しくなって数分後、黒い車が立て続けに歌舞伎座の前にやってきて、そのうち最後の一台は後部座席にカーテンを引いている。これに違いない。

ドアが開くと同時に、車内から毎日ようにニュースで見ている、日本で一番有名な人物が飛び出した。人垣からはいつともなく拍手が沸き起こる。
車内から出てきた人物は、その拍手に応えるように軽く笑みを浮かべ手をあげながら、歌舞伎座の中に消えていった。私もニヤニヤしながらその光景を見守っていたに違いない。

そう、申すまでもなく、小泉純一郎首相が夜の部を観劇にやってきたのであった。
小泉さんは歌舞伎をはじめとする演劇好きで有名だ。首相になる前までは、ふらりと一人で歌舞伎を観に来ていたという話も聞いている。
松竹はこのこともあって、今日のような日を見据えて「米百俵」を上演することを決め、この日を用意していたに違いない。
同じ夜の部ではなかったものの、おそらく小泉さんが首相になって以来初めての歌舞伎座来訪に居合わせた偶然は、東京ミーハー人間としてこのうえない体験であった。

【その2 本好きとしての興奮】

小泉首相を歌舞伎座で目撃するという滅多にない機会に出くわして興奮した私は、それから一時間もたたないうちにさらに素晴らしい興奮の波に襲われることになる。

八月のとある日、ネットにて、自宅近くに古本屋があることを発見した。いつも利用する最寄駅一つ手前の駅近くにある商店街の中にあるらしい。
ただ、夏季休暇前はバタバタしていて立ち寄る機会を得なかった。今日、多少の余裕ができたので、一つ前で電車を降り、記憶を頼りにその店に向かったのである。

店は労せず見つかった。幸い開業中であった。
通りから店内を見ると、書棚に整然と本が並んでいるのが目に入る。すでにその時点で期待感がふくらむ。
店内に入ってその期待は裏切られなかった。それどころか、期待をはるかに上回る素晴らしい品揃えの古本屋さんだったのだ。近代文学や評論、思想、芸能関係の本を中心に、ほとんどの本がパラフィン紙で丁寧に包まれている。

原則的に作家名の五十音順で並んでいるが、必ずしもそうでない部分もあり、それが逆に本を探す楽しみを与えてくれている。
棚を眺めていくうちに、これは驚くべき発見、「灯台もと暗し」であることを実感して興奮状態になってきた。

いきなり小沼丹の『小さな手袋』『埴輪の馬』の単行本がある。
そのうえに、野口冨士男の小説集が五、六冊ある。
ネットを介してとある古書店に注文を入れたばかりの獅子文六の本があるではないか。
吉田健一の本の数も半端ではない。一つの古書店で、これだけの吉田健一の本を置いている店を今まで見たことがない。
さらに見てゆくと、あるはあるは。
一部の堀江敏幸さんのファンの間で有名な(笑)島村利正の作品集も五、六冊。だいたい島村利正の本なんて、古本屋で初めて見た。
木山捷平上林暁などの本の数はさらにそれを上回る。
要するに、本好き方であればこういうふうに言えばわかってもらえるだろうか。
この店は、講談社文芸文庫に入るようなレベルの本が主体となっている、と。
稀覯本というほどのマニアックさではなく、さりとて一般の古書店よりはマイナーな文芸書が置いてある。そんな位置づけなのだ。

数は少ない(段ボール二箱に乱雑に入れられている)文庫もかなりの高レベルだし、ワゴンに並んでいる雑誌のバックナンバー、たとえば『東京人』なども珍しいものが含まれている。何から何まで凄い。

極めつけは奧の店主さんの居場所近くにある棚。
ここにまで吉田健一がずらりと並び、澁澤・種村といったところも収まる。
しかも驚いたのは、さらに小沼丹の本もあったこと。
入り口近くで見つけた二冊は講談社文芸文庫に入っていて、ただそれでも「ある」という事実に感動したのだが、今度は違う。文庫になっていない本があったのだ。
『木菟燈籠』(講談社)と『不思議なソオダ水』(三笠書房)の二冊。
震える手で値段を確認すると、1800円と2300円。意外に安いと判断して、購入を決定する。しかし予算の都合上一冊は取り置きしてもらうことにした。店主さんは取り置きを快く受け入れてくれた。

小沼作品を一冊買い、一冊を取り置きしたもらったということで、支払いのとき、店主さんとこんな会話を交わした。

――小沼さんの本を集めていらっしゃるのですか?
――いえ、そういうわけではないのですが、講談社文芸文庫で読んでから好きになって。
――最近小沼さんは人気がありますよね。神保町の田村(書店)さんも大好きでね。
――『東京人』に出ていましたよね。
――ウチでもこのところ何冊か出入りがありましたよ。
――えっ、そうなんですか。『黒いハンカチ』を探しているんですけど。
――ああ、あれは高いよね。
――やっぱりそうですか。じゃあ手が届きそうじゃないな。
――いやいや、ウチの値付けは神保町よりは随分安くしてるでしょ。
――ようですよね。じゃあもし入ったら教えて下さい。

家から歩いてもたかだか二十数分の場所に、こんなハイブラウな会話を交わすことができる古本屋がある幸せ。これから、一つ手前の駅で降りて歩いて帰る日が多くなりそうだ。
小沼さんの本を見つけた棚の背後には、さらにすごい本が並んでいたのを見つけたのだが、これはすでに持っているものであることでもあり、これ以上触れないことにする。

同じ日にこのような大興奮が二つ重なるとは、思ってもみなかった。

■2001/09/09 エトランジェ物・その後

藤田宜永さんの『巴里からの遺言』や荷風の『あめりか物語』、そして堀江敏幸さんの一連の作品を読んだことで一本の線としてつながり、ひとつのジャンルとして私の頭のなかで形成されつつあった「エトランジェ物」は、ある本の「再発見」で新たな段階に入った。

ひとまずこれまでの経緯を整理しておく。
最初に私が掲げえたのは以下の四作品である(〔 〕内はその作品の舞台となる国・地域)。

・永井荷風『あめりか物語』(講談社文芸文庫)〔米〕
・堀江敏幸『おぱらばん』(青土社)〔仏〕
・藤田宜永『巴里からの遺言』(文春文庫)〔仏〕
・小沼丹『椋鳥日記』(講談社文芸文庫)〔英〕

その後掲示板にて読書好きの皆さんから寄せられた情報にて、次のような作品を教えていただいた。

金子光晴『どくろ杯』『西ひがし』『ねむれ巴里』〔中〕
須賀敦子『ミラノ 霧の風景』『コルシア書店の仲間たち』〔伊〕
辻邦生『夏の砦』〔北欧〕
森有正の作品〔仏〕

さて、数日前のことになるが、ある幸福な出来事があった。吉田健一でネット検索をかけたら、拙サイトが引っかかったという内容のメールをいただいたのである。見知らぬ本好きの方がメールを下さったり、掲示板に書き込んでくださることほど嬉しいことはない。

その方とは、ご自分でも“MunichLife”というサイトを開設しておられるisarさんである。
サイト名にあるとおりisarさんはドイツのミュンヘンに在住されておられ、ホームページではそこでの生活や、ドイツで読んだたくさんの日本の書物の感想などがきれいにまとめられている。
メールをいただいてさっそく訪れて驚いた。読まれた本の多くが私の読んだ本・買った本・興味がある本と重なっているからである。
遠いドイツにも本好きの知己を見つけた嬉しさ。

ところでisarさんが最も最近読んだ本としてあげられていたのが、谷譲次の『テキサス無宿』(現代教養文庫)だ。これを見て、はっ、とある本を思い出し、あわてて文庫書棚からその本を取り出した。
谷譲次の『踊る地平線(上・下)』(岩波文庫)である。
エトランジェ物といえば、この本があるではないか。カバーにある内容紹介だけ見ても、ロンドン・フィンランド・パリ・スペイン・モンテカルロ・リスボン・イタリア・サンモリッツなどなど。これをエトランジェ物と規定することには、あるいは異論もあるかもしれない。より内容に即せば「紀行文学」のほうが、この作品のジャンルとして適当なのかもしれない。
まあそんなことは私にとってはどうでもよく、買ってそのまま放っておいた上下二冊の本が、このような過程を経て「読みたい本」として浮上してきたことを単純に喜びたい。

ついでながら今ひとつ思い出したエトランジェ関係文献。
河盛好蔵さんの『藤村のパリ』(新潮文庫)である。今年の「読前読後」5/14条で触れている。
これは小説ではなく、島崎藤村がパリでエトランジェ生活を送った事績を追った傑作評伝なのだが、藤村自身もこの時の体験をもとに『エトランゼエ』という紀行集をものしている以上、それに触れた本書も外すことはできないだろう。

『藤村のパリ』をパラパラと見かえしてみると、この藤村の『エトランゼエ』は、かつては荷風の『ふらんす物語』と双璧をなすようなパリ旅行者のバイブルであったらしい。いまこの作品は全集以外のかたちで入手することができるのだろうか。

以上、「再発見」のエトランジェ物二つ。ひとつはisarさんの示唆であらためて視野に入ったものである。そのisarさんご自身もエトランジェ。
よくよく考えてみれば、上に掲げたなかにドイツを舞台にした作品がない。いま思い浮かぶのは、やはり鴎外、それに先日読んだ辰野隆作者説・芥川龍之介説が飛び交う官能小説「赤い帽子の女」もある。その他ドイツ・エトランジェ(そもそもドイツ語で何と呼ぶのか、シュトレンゲルとでもいうのだろうか)物がないかどうか、なお思案中である。

■2001/09/10 獅子文六が電車に乗って

物覚えが悪いうえに、最近手あたり次第本を雑読しているので、印象に残るような文章でもメモをしておかないとどこに書かれてあったのか忘れてしまう。情けないことである。
ある本に、獅子文六の著書『ちんちん電車』を取り上げて、この本を彼に書かせた編集者の炯眼を褒める文章があった。以来同書が気になって仕方がなかったのだが、このほどようやくネット通販で某古書店から手に入れることができた。
獅子文六『ちんちん電車』(朝日新聞社、1966年)。

本書は、「なぜ都電が好きなのか」という章で始まっている。
都電好きの獅子文六が、都電を通して変わりつつある都市東京を見つめ、過去の東京を振り返るという、珍しい趣向の東京論なのだ。
現在の視点から、都電が走っていた過去の街を懐かしく回顧するというたぐいのエッセイは多いと思われる。たとえば川本三郎さんの近刊『東京残影』(河出文庫)にも、そうした主題のエッセイが収められていた。

ところが、まだ都電が現役で走っていた時期に、それに着目して都市東京を透かしみるという試みは珍しいのではあるまいか。しかも書き手は獅子文六だ。
いろいろなかたちで我が読書にいい影響を与えてくださるふじたさんが彼に興味を持っておられ、彼の都市小説に注目されていることもあり、面白くないわけがないだろう。

ただ、肝心なことに、本書を買うきっかけとなった文章を誰が書いたものだったか、まるで憶えていないのであった。
やはり最近読んだ本がもっともくさい。
川本さんの本だったか、上述の『東京残影』のページを繰ってみるも、見あたらない。おかしい。
とすれば、坪内祐三さんだったか。しかし『古くさいぞ私は』(晶文社)にも獅子文六への言及はなかった。

いま一度最近の読了本一覧を見直す。ああ、ひょっとしたら、あれかもしれない。
書棚から取り出してめくってみたら、それは間違っていなかった。安藤鶴夫さんの『ごぶ・ゆるね』(旺文社文庫)だった。
「書評十五冊」という短い書評文を集めたパートから、『ちんちん電車』評をたしかに見つけた(初出『読売新聞』夕刊 昭和41年5月19日)。

たべもののうまいまずいがほんとうにわかって、明治ッ子の人情やきびしさがあって、パリのエスプリを身につけて、黒門町の西側の横通りにあったむぎとろ屋まで知っている獅子文六という世にもおもしろい作家が、ちんちん電車、つまり、都営の電車に乗って、古い東京と、いまの東京を、まことにさッぱりとした詩情ときびしい文明批評を兼ねたたくみな話術でガイドするのだから、ちかごろ、こんなにたのしい読み物はない。

こんなふうに安鶴さんから激賞されているのを目にしたら、猛烈に読みたくなるのは当たり前である。
そして冒頭で記した評言は、正確にはこう書かれてある。文章の締めくくりにあたる一文である。

この本が、これを連載した週刊朝日の発想で生まれたならば、わたしはその発想に敬意を表さずにはいられない。そして編集者とは、まさにそういうひとでなくてはならないと思った。

著者の獅子文六を持ち上げるばかりか、それを発想した編集者まで褒め上げるという最大級の讃辞である。楽しみに読もうではないか。

大事なことを忘れていた。先日訪れて興奮を私にもたらした古書店「デカダン文庫」に、本書があったのである。
前夜に注文したばかりだっただけに、この偶然には驚いた。同店での売価は、ネット通販の売価の倍であったのだが、もしこちらのほうを先に発見しても、その売価で購入していたと思う。購入を決断してもいいギリギリ上限の古書価ではあった。
もっともそのあとに通販での売価を見れば、きっと歯ぎしりをして悔しがったに違いなかったろうけれど。

■2001/09/11 幸田文の恥じらい

幸田文さんの『雀の手帖』(新潮文庫)を読み終えた。
見開き二ページに収まる短いエッセイの連作である。もとは昭和34年に『西日本新聞』に連載されたものである。

解説の出久根達郎さんが書かれている。「幸田さんのその魅力を、理屈で語るのはむずかしい」と。
まったくそのとおりで、読んでいると「いいなあ」と心に沁みてゆくのがわかるのだが、それではどこがいいのかと尋ねられたとき、論理的にそれを説明することはできない。

だから外面的なことを賞賛してお茶を濁すほかない。
まず、装丁が素敵だ。先日訪れた千駄木の古書店古書ほうろうで、偶然本書の元版を見かけたので手に取った。函入りの立派な、それでいて軽さを感じさせる本で、装丁がまた変わっている。
すべり止めの網目のような凸凹が表紙にほどこしてある。あの意匠は何と呼ぶものなのだろう。文庫本のほうは、元版と色合いや手触りこそ違え、元版の雰囲気を保った上品なデザインで、これも好ましい。

『文藝別冊 総特集幸田文』(河出書房新社)に、文さんの娘青木玉さんと孫の奈緒さん、そして堀江敏幸さんの鼎談が収録されている。
小石川の幸田・青木邸で行なわれたこの鼎談は、幸田文という作家の素晴らしさが十分に伝わってくるいい内容のもので、邸内にちょこんと座っている堀江さんの嬉しそうな表情が印象的な写真からも、その雰囲気が伝わってくるのである。

そのなかに、こんなやりとりがある。

堀江:(…)ところが岩波版の『全集』と前後して単行本未収録の作品がまとめられたり、文庫化されたり、90年代に入って突如幸田文の本が入手しやすくなった。あらためて読むようになったのは、このころからです。
玉:そうなんです。申し訳ないことをしましたけれど、うちの母って、本を出すのはあまり好きじゃなかったのね。「照れくさいから、いや」って言う。(…)

これを読んで、幸田文という作家がますます好きになってしまった。
これ見よがしでない恥じらいは『雀の手帖』収録の文章の端々からも顔をのぞかせている。だいいち『雀の手帖』自体、昭和34年(1959)に連載されていながら、まとめられ刊行されたのは没後三年を経た93年なのだから。
講談社文芸文庫にある「著書目録」を見ると、この恥じらいが歴然としていて驚かされる。生前最後の単行本は、昭和48年(1973)の『闘』なのだ。
そこからぽーんと約20年の空白期間をはさんで、没後翌年の平成3年(1991)に『崩れ』が刊行され、生前まとめられなかった文章たちが以後続々と陽の目を見るのである。

堀江さんはこの空白期を直接プラスに受け止めた幸福な人である。

あいだに出版面での空白期があったために、幸田文の初期の作品と晩年の作品とを、もっと言えば小説もエッセイも、全部同じタイミングで読むことができた。
あとからその軌跡を追うわけですから、作家の文体の変化も掴みやすいし、エッセイと小説の絡み合いや、つながりの深さを横並びにして読むことができる。(鼎談より堀江さんの発言)

さしずめ私は、空白期をプラスに転換しえた堀江さんの体験を通じて、それを追体験しているという二重の追跡者ということになろうか。
それはそれで幸せなことなのだろうと思いたい。

■2001/09/12 微妙に屈折した喜び

この人に自分の好きな作家やその作品を褒められると、何だか我がことのように嬉しくなる。
「この人」、丸谷才一さんだって最近読み始めたにすぎないのだが、いつのまにか丸谷さんは自分にとってそういう価値基準のような位置づけになってしまっている。

先日読み終えた『文章読本』(中公文庫)では、さまざまな書き手の、小説以外の多様な文章が随所に引用され、例文となっている。

さて9/8条で興奮しながら報告した「デカダン文庫」発見記において、店主さんと私の会話のやりとりをカギカッコではなく、――(ダッシュ)で表現した。この表記法は、わかる人はきっと「ははあ、あれだな」と苦笑されたと思う。
小沼丹さんが作品中でよく使うものであり、それをちょっと拝借してみたのである。

『文章読本』の第十一章「目と耳と頭に訴へる」では、文章を書くときの文字づかいをどうするかについて、大切なのはその趣味と感受性を洗練させることだとして、そのためには玄人の書いた名文を読むのが一番いいと述べる。
そこに一例として引用されているのが、小沼さんの「猿」というエッセイなのだ(講談社文芸文庫『小さな手袋』の一番はじめに収録)。

引用した後、丸谷さんは「まことに小手のきいた名人藝で、視覚的な面での配慮もいちいち感心するしかない見事なもの」と評価する。
もっとも小沼さんの文字づかいすべてをそのとおりに真似するのは愚かしく、「その名文と丁寧につきあひながら、しかしその文章のはしはしにまで示されてゐる筆者の神経それ自体を学ぶ」ことが肝要だと力説する。

また、台詞を表示するダッシュについても言及している。
「感銘を受けた文章をじつとみつめ、ただしその文章に四角四面にとらはれるのではなく、ぼんやりと、ごく自然に、影響を受けるのが一番いい」という。
その伝でいえば、私の使い方は、小沼さんの本を入手した喜びが半ば以上の動機となった、意図的で反自然的な文字づかいであるといえるのだろう。

ちなみにその直後に披瀝されている丸谷さんの文字づかいの好みに耳を傾けてみると、「台詞のときは一重のカギカッコを使ふ。以前はダッシュを使つたが、ハイカラすぎるやうな気がしてやめてしまつた」のだという。
ハイカラとは一般的な意味か、ご自分の作風に引き比べての意味なのか判然としないが、たしかにいわれてみればそういう気もする。

台詞のときにカギカッコを使うか、ダッシュを使うかという問題は、実のところどちらでもいいのである。
最初に戻って、私は『文章読本』のなかで小沼さんの文章が引用され、そればかりか「名文」と評価されていたことを素直に喜びたいのであった。

どうせだからこの際、もう二人、好きな書き手が登場しているので紹介しておきたい。吉田健一と戸板康二のお二人だ。

引用について論じられた箇所で、現代日本の批評家が引用の藝に長けていないことに触れ、その「例外的な名人」としてあげられているのが、吉田健一である。
そしてその理由は、「過去から伝はつて来て現在に生きてゐるあの伝統といふものの感覚が豊かだから」とする。
この場合の「感覚」とは、直前の一文では「歴史的・時間的感覚」と表現されている。
引用する人物と自己の距離を正確に測り、しかもその距離をたちまちに埋めて親密になれるという感覚の鋭さ。ああ、それからしてみると、このことを説明するために行なった引用の仕方がいかに拙いか。

いっぽうの戸板さんであるが、第六章「言葉の綾」の冒頭で、「文章にすぐれた人はみな語彙が豊富で、語感が鋭く、言葉に対する愛着が深い」と論じ、その「文章にすぐれた人」の一人として取り上げられている。
それはこんなエピソードである。

たとへば劇評家、戸板康二は、かくし藝として書く探偵小説のなかで、名探偵である歌舞伎役者が、国鉄では新幹線の座席指定のABCDをアメリカ、ブラジル、カナダ、デンマークと呼ぶことに興味をいだく、といふ情景を描いた。言ふまでもなく戸板にとつてこれがおもしろいことだつたからである。

戸板さんの中村雅楽物は「かくし藝」の域を超えてしまっているのではないかという疑問が頭をもたげなくもないけれど、それは瑣末事に過ぎぬ。上記の着想は戸板さんの言葉に対する鋭敏な感覚を見事に示している。
ここで題名を隠して言及されている作品に憶えはないから、おそらく未読の作品なのだろうが、「あの小説のことかな」というおよその想像はつく。

このように、丸谷才一から小沼丹・吉田健一・戸板康二へと『文章読本』を通じて回路が開かれていることを知ったのは、四人すべてが好きな人間にとって、これ以上ない幸せであった。

■2001/09/14 小沼丹作品における書き出しの研究

先日狂喜しつつ購入した『木菟燈籠』(講談社)を早く読んでみたくてしょうがない。となれば、それより先にすることがあるのである。
講談社文芸文庫で四冊出ている小沼作品のうち、唯一未読なのが『埴輪の馬』。こちらを読むのが先決だろう。
律儀な私のこと、とうとうこの文庫最後の一冊に手をつけてしまった。

案の定面白い。もう一冊の小説集『懐中時計』を読んだときと同じく、その巧まざるユーモアにすっかり魅了されてしまった。
『懐中時計』の場合、大寺さん物が含まれているとはいっても、「エヂプトの涙壺」「断崖」のような「作り物」的短篇も収録されていたのに対し、今回読んだ『埴輪の馬』は、先輩・知友たちとの交流をもとに多少フィクショナルな味つけを加えた、より身辺雑記に近い内容のものとなっている。
だからといって、作風が大きく変わっているわけではないのが好ましく、そこが小沼丹のよさなのだと思われる。

ところで読んでいて気づいたのは、各短篇の書き出しの類似ということ。試みに並べてみよう。

いつだったか、寒い晩、…(「煙」)
家の前の広っぱの水溜りが凍って、…(「ゴムの木」)
何年か前の暮の寒い日、…(「十三日の金曜日」)
大分古い話になるが、…(「連翹」)
珍しく夜中に目が醒めたから、…(「大きな鞄」)
想い出すと古い話だが、…(「翡翠」)
好い天気だが、寒い風が吹く日だったと思う。…(「散歩路の犬」)
いつだったか、電車に乗って…(「夕焼空」)
座敷の棚に、木彫のマリアの像が載っている。…(「トルストイとプリン」)
どんな経緯があったか忘れたが、…(「童謡」)
何となく埴輪の馬が欲しくなって、…(「埴輪の馬」)

「いつだったか」とか「古い話だが」など、自らの過去が対象化されてこれから語りだされるという雰囲気が充満している。すでにしてこの冒頭の一文から、読む者は小沼丹の私小説ワールドに誘い込まれるのである。

この作法は小説に限らない。
『小さな手袋』所収の「猿」(前回丸谷才一さんの『文章読本』でも引用されていると言及したあのエッセイだ)の冒頭は、「いつだったか、吉祥寺駅近くの空地に…」と、上記『埴輪の馬』所収の小説作品と何ら異なるところはない。
ここからあらためて思うのは、小沼丹さんにおいては、小説とエッセイの敷居がほとんどないということである。無駄な、そして野暮なこととわかっているとはいえ、こんな分析的なことはやってみるものである。

もちろん、そうした懐古談的書き出しでなくとも、たとえば「埴輪の馬」や「トルストイとプリン」でも、すでにそこから物語的仕掛けがほどこされているからたまらない。小沼丹はやっぱりいいなあ、としみじみ感じるのであった。
さていよいよ次は『木菟燈籠』だが、もう少し間をあけよう。読むのがもったいなくなってきた。

本書のなかでひっかかったことを書き留めておきたい。それは、小沼さんが早稲田大学を受験したときの日夏耿之介目撃記だ。
ちなみに、すでに日夏の思い出はエッセイ集『珈琲挽き』に収められているようで、このことはやっきさんが言及ずみである。

それはこんな記述。論文審査の口頭試問が終わったあとのことである。

試験官は莫迦に気難しそうな先生で、矢鱈に難しいことを訊くので閉口したと云うと、関口は我が意を得たりと云う顔をして、
――あれが日夏耿之介と云う人だ。
と教えて呉れた。

早稲田の同級だった友人関口との交友をつづった「大きな鞄」の一節だ。
小沼さんが試験官たる日夏に抱いた短い感想だけで、すでに「黄眠道人」の面目躍如といった風情である。

■2001/09/15 ありうる

宮部みゆきさんの文庫新刊2冊、『R.P.G.』(集英社文庫)と『人質カノン』(文春文庫)を立て続けに読み終えた。前者は著者初の文庫書き下ろし長編、後者は短篇集である。

2冊とも一分の隙もない完璧といっていいつくりで、もう「まいりました」と宮部さんの前で平伏するしかない素晴らしいものである。などというと褒めすぎであろうか。実際本当にそれぞれ面白くて、それしか言い様がないのだから仕方ない。
以前短篇集『淋しい狩人』(新潮文庫)を電車の中で夢中になって読んでいて、思わず下車時に傘を忘れてしまったという“事件”を報告した。このことが頭にあるから、宮部本を電車で読むときは常に持ち物に敏感にしているのであるが、それでも、あまりの面白さに夢中になって、ある駅に停まったことに気づかなかったという状況が毎度のこと。

『R.P.G.』はネットの掲示板がきっかけで形成された擬似家族4人のうち、お父さんの役割を果たしていた人物の殺害事件が発端となる。登場人物は残りの擬似家族3人と、彼らを尋問する刑事、被害者の家族のみといってよい。また舞台は警察署の取調室に限定される。この舞台設定もそうだが、全体的な構想、タイトルに仕掛けられた何重もの寓意など、その緻密な構成に舌を巻いた。
現代の人間がネットにはまりこみ、その空間の中で人的関係を構築していくさいの心理構造や功罪などが鋭く抉られている。「いかにもありうる」というリアルさの表現において、いまこの作家の右に出る人は果たしているのだろうか。ちなみにカバー裏には「舞台劇のように、時間と空間を限定した」とあるが、実際舞台化しようとしても、それはある理由で困難だろう。

さて「ありうる」といえば、『人質カノン』収録の各短篇も同じだ。すべてにおいて、こういう人、こういう事件、こういう人間心理、ありうるのである。このことは、いかに宮部さんの人間観察・社会観察が鋭いかということを物語るのであろう。人間観察の鋭さとストーリーテリングの巧みさは、時としてその作品がフィクションであることを忘れさせる。たとえば「十年計画」などは、そのリアリティにおいて、思わず沢木耕太郎さんのノンフィクションを思い出してしまったほど。この連想は誤っているものなのだろうか。

■2001/09/16 再読のスパン

初めて訪れた自宅にほど近い古本屋で、これまた初めて単行本を目にしたり、全集が新刊として発刊されたのを知ったりで、島村利正という作家との距離がこの一、二週間で急激に縮まったような気がする。
そもそもこの作家の名前を初めて知ったのだって、いまから約三ヶ月前に過ぎない。堀江敏幸さんの長編『いつか王子駅で』(新潮社)においてであった。

偶然が二つ重なったことがきっかけで、その『いつか王子駅で』を書棚から抜き出し、ふたたび読み始めた。
読了後もその余韻を楽しむために何度か手に取って、その都度再読の誘惑に駆られてきたのだが、今回のような偶然に際会すれば、読まないわけにはゆかなくなる。いや、読書という営為においては、このような偶然の機縁こそ大事にしたい。
それにしても、初読と再読の間が三ヶ月足らずというのは、これまで経験したことがないほどの短さだ。読みながら、再読はおろか、三読、四読にも耐えうる名作であることを確認する。

自分が読み終えてひと通りの感想を記したあとに目に触れた友人たちの感想からも得るものは多く、今回はそれらの指摘を確認しながら、前回読んだときにはあまり気に止めなかったような描写や小道具にも注目することになった。

だから本当は、主人公が島村利正の『殘菊抄』を入手した古本屋筧書房の主人が器用に本を包み込むパラフィン紙や、家庭教師の相手たる咲ちゃんが主人公のために作った「謹製鶏殻肉野菜盛りだくさんスープ」、主人公がリサイクル店から手に入れた変速ギア・ウインカー付き自転車とか、「かおり」の定番定食の一つ“秋茄子のイタリアン風揚げ物定食”(これは私の勝手な命名)などへの偏愛に触れたいのだけれど、それではあまりに芸がない。
ちょっと違った角度からふたつの提案をしてみたい。

ひとつは、本書のなかでもその描写が際立って素晴らしい箇所のうちのひとつ、都電の軌道の描写は、都電のいい宣伝コピーになりうるのではないかということ。
主人公の個人的な思い出を絡ませながら、早稲田から王子までの軌道の風景をF1サーキットに見立てて表現するその躍動感は無類のものである。
これを読んで何人の人が都電に乗ってみたいと思ったことか(うち一人は私)。

もうひとつは、堀江さんに新聞小説を書かせてみてはどうだろうか、ということ。
本業は大学の先生であるから、毎日連載しなければならない新聞小説に割く時間はないということや、そもそも多作のほうではないだろうから、毎日書き継がなければならない新聞小説向きではないかもしれないという考え方は、このさい脇にどけておきたい。

なぜそう思ったかといえば、一つの章の終わり方が絶妙であることなのだ。
この長編を初出の『書斎の競馬』連載時に読んでいれば、「次はどうなるんだ?」という興味を掻きたてずにはおかないような余韻の持たせ方なのである。
結局、このように読者を楽しませる小説作法を身につけた堀江さんであれば、新聞小説も毎日面白いかもしれない、読んでみたい、ただそれだけなのである。

■2001/09/17 ネットで書くということ

自分のホームページを作って、そこに日記めいたもの(自分では「日記」とは考えていない)を書いている以上、自己顕示欲がないといえば嘘になるのかもしれない。むしろ「自己顕示欲の塊じゃないか」と思われても仕方がない。
しかし、現実の私は、なるべく目立たず、世間に埋もれて静かに暮らしていきたい、これが信条なのである。
その反面、会話の中心になることは決して嫌いではないから、この信条も一定しない。
また、読んだ本などの拙い感想をつづってそれを相手の見えない空間にさらけ出すことと、目立ちたくないという信条も、必ずしも両立しないわけではなかろう。

こんなことを考えたのも、坪内祐三さんの新刊『文学を探せ』(文藝春秋)を読んだからなのである。
坪内さんは、インターネットにおける文章の公開に批判的だ。
ただし何も素人が自分の思ったことを自由にネットで発表すること自体を否定しているわけではない。
プロの文筆家が活字媒体を介さず、ネットに依存して文章を「書き流す」ことの危険性に警告を与えているのだ。この姿勢は本書で展開されている一連の安原顕氏批判で明らかにされている。

たしかにネットに文章を書く場合、いくら署名付きにしたとしても、書いたことに対する責任の持ち方が稀薄になりがちで、責任の所在も曖昧になる。それが必然的に書く立場に「書き流し」の気楽さを与えてしまうのだろう。
ここ「読前読後」では、「無責任」に読んだ本の感想を書いているのだが、この場合「無責任」といっても、「自由」と取り替えがきく程度の意味であって、自分の書いた文章に責任を持たないというわけではない。
事実でないことや他人(取り上げた本の著者も含む)を不快にさせるようなことは書かないよう、細心の注意を払っているつもりなのである。

ネットの世界では往々にして無責任な文章にもとづく中傷があって、それが書いた人間の意図するものではなかったとしても、やはり原因はネット世界における安易な書き流しやすさに還元されてしまうだろう。
『文学を探せ』で闘わされている坪内−安原両氏の喧嘩の源はまさにこの点にある。だから、坪内さんがパソコンを使わず、ネットをやらず、執筆はすべて手書きという方法には、自分はできないながら、共感をおぼえるのである。

■2001/09/18 宮部から沢木、沢木から丸谷へ

数日前、宮部みゆきさんの複数の短篇小説が、沢木耕太郎さんのノンフィクション作品を思い出させると書いた。せっかくそのような連想が沸いたのだから、次に沢木さんを読まない手はない。
以前から読もうと思っていた『バーボン・ストリート』(新潮文庫)を取り出し、電車で読み始める。

私はつい最近沢木耕太郎という作家に興味を持ち、読み始めたばかりだから、彼のノンフィクション・ライターとしての履歴はほとんど知らない。
ただ、この『バーボン・ストリート』は講談社エッセイ賞受賞作であって、私は同賞受賞作品の質の高さを知らないわけではないから、この作品がそれなりに彼の作家活動のなかでも重要な位置づけであろうことは予想できるのである。

しかも本書文庫版の解説は山口瞳さんであり、以下に述べるように、丸谷才一さんも登場するなど、このところはまっている作家とも深いつながりがある。
そういえば向田邦子さんの『父の詫び状』(文春文庫)の解説も沢木さんであった。
沢木さんを読むようになったのは、ももこさんのご推薦ではあったが、それがなくとも、遠回りしながらいつかはここにたどり着いたに違いない。
いっぽうでは読書にも遠回りの愉楽はあろうが、ここでは沢木道へのバイパスを付けてくれたももこさんに感謝したい。

さて、本書所収の「ポケットはからっぽ」という一篇に丸谷さんがこんな登場の仕方をしている。読んでいて思わず笑ってしまった。

ある日沢木さんは洋菓子屋のティールームで女性とデートのための待ち合わせをしていた。
待ちながら本を読んでいると、背後の席に座った「オッサン」の大声と楽しい話題につい惹きこまれてしまう。

プロ野球の戦績と総選挙の結果との因果関係とか、酒場の勘定の高低と文学の水準の連関とか、話題はとどまることを知らないかのように広がっていく。相手は上手に相槌を打つばかりで、ほとんどオッサンの独演という趣きが強かった。

相手の女性が姿を現わしてからも、彼女との会話に身が入らず、背後のオッサンの会話につい耳を傾けてしまう。そのためだんだん彼女との雰囲気が険悪になってしまう。
若い男女の仲を引き裂こうというこの不届きなオッサンは誰なのか。

私はどうしても背後のオッサンの顔がみたくなり、一度手洗いに立ち、戻ってくる時にチラッと盗み見をすると、なんとそこに坐っていたのは、和田誠描くところの似顔絵にそっくりの顔をした、丸谷才一だった。

本書のなかでもとびきり愉しいエピソードの一つである。

エピソードといえば、本書のなかで最も印象に残ったのが、「ぼくも散歩と古本が好き」と題する一篇だ。
タイトルから想像がつく方もいると思われるが、本篇は、植草甚一の日記を読み、彼を古本屋で見かけたというエピソードから語り出されている。
話はそこから野呂邦暢の小説やエッセイに移る。さらに大森にあったという古本屋山王書房での沢木さんの個人的な思い出から、今度は野呂と山王書房の接点に触れ、最後に植草甚一没後、マンションの前で捨てられる寸前の状態で積まれてあった探偵小説などの洋書を沢木さんが一括して引き取ったという話で植草甚一に立ち戻って締めくくられる。
古本エッセイとしてまさに絶品としかいいようがない作品である。
作品社日本の名随筆の「古書」「古書U」あたりに収められているかと思ったが、残念ながら収録されていない。古本が好きで、植草甚一が好きな人には、強く一読をお薦めしたい作品である。

さて、宮部みゆきさんの小説から沢木耕太郎さんのエッセイへと読書がつながった。
次はもちろん丸谷才一さんの作品へとこの読書の鎖をつなげてゆきたい。

■2001/09/19 ワシのみなもと

巨人の清原は相変わらず武闘派だ。昨日も阪神戦ですわ乱闘という騒ぎがあった。もっともあれは清原が悪いわけではなかろうが。
西武に在籍していた頃はあまり好きではなかったけれど、巨人に移籍してからは、同学年(同年齢)ということもあって、桑田とともに応援の対象となった。身勝手なものである。
先日桑田が好投を見せたとき、彼をベテランと呼んでいたのを聞いた。ああ、同い年のプロ野球選手がベテラン扱いになったか、と思うと感慨深いものがある。

不調つづきでマスコミから散々叩かれていた当時、清原はマスコミに注文をつけた。自分のことを「ワシ」などととは言っていないのだから、コメント記事の主語に「ワシ」と書くな、と。
その話を聞いたとき、あまりに問題が低次元なので笑ってしまった。

しかし実はこの問題は瑣末どころでなく、日本語表現の伝統形成に深いつながりをもつ問題であるらしいのである。
昨日触れた沢木耕太郎さんの『バーボン・ストリート』(新潮文庫)の最初の章「奇妙なワシ」では、この問題をすでに取り上げていて、読んで驚いた。

そのなかで、コメントに「ワシ」が使われている日本人スポーツ選手として、江夏豊、輪島功一、先代貴ノ花(現二子山親方)などがあげられていた。いかにも新聞で「ワシが云々」と書かれそうな、独特の雰囲気を持った人たちである。
ところが実際彼らはインタビューの場などではワシとは当然言わず、僕、俺などと称しているのだという。清原のワシは、スポーツ新聞における表現のあり方をめぐる問題の正嫡なのだ。

しかしよく考えてみると、ワシという表現は自分たちも簡単に使ってしまうことがあるのではあるまいか。
たとえば街で風変わりな(この形容詞はなくともよいか)ご老人を見かけたとする。
このご老人の心境を忖度して、何を思っているのか、頭の中で台詞仕立てで表現するとき、「ワシはなあ…」なんて言葉づかいでご老人の独言を構成してはいないだろうか。
かえりみれば私も紋切り型の用語法に毒されているのだといえ、日本語の伝統から決して自由ではないことを知るのである。

■2001/09/20 毛の生えよう

「伝記」と「評伝」ではどう違うのだろうか。
子供のころによく推薦図書に指定されるのが「偉人の伝記」であった。エジソンとかリビングストン、ナイチンゲールなどなど。
ところがいまの私は、ある特定個人の一生を記述したような本はたいてい「評伝」と呼んでしまっている。
子供が読むのが伝記で、大人は評伝。つまり評伝とは、まさに伝記に毛が生えたようなものだと考えればいいのだろうか。そんな簡単にはいかないだろうな。

と思ったら、辞書の意味はそれに近くて驚いてしまった。
『広辞苑』で「伝記」を引いてみると、「(1)個人一生の事績を中心とした記録(2)あることについて語り伝えられてきた記録」とある。
いっぽうの「評伝」は、「評論をまじえた伝記」となっている。
評伝は伝記に「評論」という毛が生えたものだったのだ。

しかし毛が生えていない伝記にしても、書き手の主観的意思によって対象が切り取られたものに違いはないから、そこに「評論」がさっぱり介在しないということにはなるまい。伝記でも「産毛」は生えているのである。

池内紀さんの新著『ゲーテさん こんばんは』(集英社)は、その意味では毛が密集している評伝といえそうだが、触ってみるとその毛は剛毛ではなく、触り心地がきわめてよろしい柔毛ばかり、そんな内容の軽妙な評伝、いや“エッセイ風評伝”であった。

生い立ちから死まで、ゲーテの一生をたどってはいるけれど、学者が書くような剛毛だらけの評伝とは異なり、何にでも興味を示したゲーテの関心の広さを、同じような関心の広さで追いかけて、同じくらい楽しんでいる。そんな雰囲気が読んでいてストレートに伝わってくる。

だから、池内さんご本人の嗜好とぴったり合うようなくだりでは、いちだんと文章が精彩にあふれるようになってくる。
たとえば偶然同じ温泉場に湯治にやって来ていたベートーヴェンと出会い、ゲーテとベートーヴェン二人の交流をあっさりした筆致で描いた「湯治場の二人」などはすこぶる面白い。

さてお次は『ファウスト』か、『イタリア紀行』か。

■2001/09/21 “L”“I”“コ”の誘惑

帰宅時、駅から家へと向かう道すがら、「○○の関所」(○○は最寄駅名)とテント屋根に書かれているモツ煮込みの立飲み屋がある。夜の早い時間だと煮込みのいい匂いがただよって食欲をそそられ、店内を見るとサラリーマンらしき人々の下半身であふれかえっているのが確認される。
時々、こんなところで一杯ひっかけてみたいなあ、と猛烈に思うことがある。

そう思うのなら一回やってみればいいのだ。立飲み屋なのだから一人で飲むのはうってつけのはず。
でも小心者だから、ついぞ店の中に飛び込んだことはない。

大川渉・平岡海人・宮前栄『下町酒場巡礼』(ちくま文庫)は、そうした飲み心をくすぐられる下町の居酒屋(というと洒落た感じになってしまうので、表題どおり酒場)の探訪記である。
取り上げられているのは、墨田・荒川・江東・足立・台東・北・葛飾といった、いわゆる「下町」の区がほとんど。ほかは、港区新橋・浜松町、千代田区富士見、豊島区上池袋のお店があるだけ。

私の住まいや行動範囲も上記の区であることが多いから、そこには本書で紹介されているようなお店がたくさんあるのは承知しているのだ。
上にあげたモツ煮の立飲み屋のほかにも、自宅に帰るまでに、美味そうな匂いでたまらなくなる焼鳥屋と、常連客ばかりしか入りそうにない狭い酒場の2軒は気になるお店としてチェック済みなのである。

さて著者たちは、普段バスに乗っているときなど、気になるたたずまいをしている酒場が目に飛び込んだとき、バスを降りてそのまま立ち寄ったり、メモをして後日訪れるなどして新しい酒場発掘にいそしんでいる。
また、彼らの経験では、お店の名前に「○○酒場」のように「酒場」が付いているお店はたいてい当たりだとして、電話帳からそういうお店をすべて拾い上げ、片っ端から訪ね歩くということもする。

歩き回って流した汗と二日酔いの苦しさで流した冷や汗脂汗、その結晶が本書であるといえようか。
これらのお店のほとんどは家族経営ゆえ原価すれすれの薄利で酒やつまみを提供している。
つまりべらぼうに安い。家族経営といっても、店のおやじさんおばさんはお年を召した方が多いから、元版刊行以後、この文庫版刊行までに閉店してしまった店も少なくないという。

また看板などにも味わいがあって、いい意味にせよ、悪い意味にせよ、前を通るとき気にせずにはおけない。
入ってみると、たいてい木のカウンターがL字型かコの字型、狭いときにはI字の一直線だけのカウンターで、小上がりの座敷などはない。椅子は背もたれのない丸椅子。カウンターの木は使い込まれて黒光りしている。壁にはメニューを書いた細長い短冊が所狭しと貼り付けられ、料理で出た煙に燻されて茶色に変色している。
これだけでも何年も前から料理の値段が変わっていないことを知るのである。

お酒は、泡盛を置いていたら、まずその店は当たり。
ビールがないお店も多く、焼酎かホッピー、ウィスキーがメイン。
このホッピーというのは、東京に来てはじめて知った飲み物だ。テレビ番組の「出没アド街ック天国」で下町が取り上げられたとき、必ずゲストで登場するのはなぎら健壱さんだが、彼の口からこの得体の知れない飲み物の名前が発せられたとき、その語感がいかにも下町の場末の酒場で煮込みなどと一緒に喉に流し込まれる液体の雰囲気とマッチして、いちじるしく興味をそそられたのであった。しかしいまだにこのアルコールは口にしたことがない。

なぎらさんのお話や本には、よく下町の酒場で飲みながら壁に向かって一人で話かけているオッサンが登場する。
本当にいるのかと訝しんでいたけれども、本書で紹介されている酒場の様子を知るにつけ、いてもおかしくないと思い直すようになった。

さて本書が、隠れた下町の名店などを紹介するグルメ本などと違うのは、お店の名前とその場所(地名)までしか書かれていないこと。詳しい番地も地図もいっさいない。本当に好きな方ならば、その街に実際に来て、自分の足で探してくれというわけだ。
これにより、本書で紹介されている酒場へ持ちつつあった親近感に待ったがかけられて、お店と読者の間に一定の距離が保たれる。その距離感がまたいい。

解説の種村季弘さんは「これを読んでその足で下町酒場に駆けつけるのは邪道、この本そのものを下町酒場的にたのしむのが正道」という。
行きたいながらも行く勇気のない私は、種村さんの言によって、店との距離感を楽しむことだけに徹しようと決意した。

■2001/09/23 エノケン・ロッパの時代

矢野誠一さんの新著『エノケン・ロッパの時代』(岩波新書)を読み終えた。
不世出の二大喜劇役者の生い立ちから死までを並行的に描きながら、一面での東京喜劇の変遷史にもなっているという好著であった。

ロッパこと古川緑波が生まれたのは1903年(明治36)、エノケンこと榎本健一はその翌年に誕生する。
一足先に喜劇役者として頭角をあらわしたのはエノケンで、1929年(昭和4)浅草のカジノ・フォーリーに参加したのがきっかけだという。
ロッパはそれに数年遅れるわけだから、この二人の役者としての歴史、ひいては東京喜劇史は昭和という時代とともに歩んだのであり、また反面で戦争による影響(思想統制など)も二人を語るうえで無視できないものであることがわかる。

以前読んだ、長坂秀佳さんの長編推理小説『浅草エノケン一座の嵐』(角川文庫)は、1937年(昭和12)に時期設定がなされている。矢野さんの本でいうと、第三章〜第五章にかけての、二人の全盛期にあたっている。
浅草でエノケン一座が人気を博すいっぽうで、ロッパは東宝と契約して丸の内(有楽座)進出を果たし、熱狂的に迎えられる。その直後エノケンも松竹から東宝に鞍替えし、同じく本拠を浅草から丸の内に遷すといった時期である。

『エノケン・ロッパの時代』にせよ、『浅草エノケン一座の嵐』にせよ、この二冊の本を読んで痛烈に感じたのは、ロッパの芸を見てみたい、ということであった。
エノケンの小回りのきいた軽妙な芝居というのは、これまでも断片的にテレビなどで見たことがあるように思う。もちろんそれだけでエノケンの面白さがわかっているわけではないのだが、大体エノケンの芝居の面白さは想像ができるのである。

いっぽうのロッパの芝居の面白さがあまり想像できない。声帯模写までは想像の範囲だが、その先はまったくつかみ所がない。
レンタルビデオでもあまりお目にかかることができそうにないのではないかとのこと。
どうにかその至芸に触れる機会がないものか。
それに加えて、『古川ロッパ昭和日記』を座右に備える時期というものがだんだんと近づいてきつつあるような気がする。

■2001/09/26 出会いは絶景

「出会いは絶景」というのは、1997(平成9)年、97歳で天寿を全うした俳人永田耕衣の座右の銘である。城山三郎さんの新刊文庫『部長の大晩年』(朝日文庫)は、耕衣の後半生に主にスポットをあてた評伝小説である。

永田耕衣、本名永田軍二は、三菱製紙高砂工場の製造部長兼研究部長を55歳の定年まで勤め上げ、そこからさらに四十数年の間、市井の一俳人として暮らしてきた。
「来る者は拒まず、去る者は追わず」をモットーに、公的には製紙工場の管理職として、私的には俳句雑誌『琴座』を主宰する俳人として生涯を送った。

公と私の二重生活というテーマは、最近私も気になっていた。また、これまでに何度か読書のなかで永田耕衣という俳人の存在を知らされ、その都度興味をかきたてられた。それゆえの購入、読了である。
私も、できることなら公の仕事と私的趣味生活を截然と分けたい。公の仕事によって趣味生活を浸食されたくない。職に就いて東京に移り住み、深くそのことについて思いをめぐらすようになった。

公の仕事を淡々とこなして、余暇には句作にいそしむ。その句作のため、読書ばかりでなく、散歩の時間も人間観察の絶好の機会ととらえる。他者との出会いは素晴らしいもの、それを大切にしたい。
その結果が冒頭の「出会いは絶景」という言葉に集約されている。

本書のなかで精彩に富んでいるのは、まさに「出会いが絶景」を章題にしている第五章、終戦直後の昭和22年、耕衣宅に同じく俳人の西東三鬼と石田波郷が来訪し、三人で自らの句を短冊に揮毫しあった。
城山さんはこの三人の出会いこそ、「耕衣の生涯の大きなハイライト」と評価している。

城山三郎さんといえば企業小説の名手であり、本書も、永田耕衣という一人の人物を題材にして、ビジネスマンの定年後の暮らし方を指南したものという読み方も可能である。
私としては、永田耕衣の生き方、他者との距離の取り方のうまさについて得るところが多かった評伝として、本書を評価したい。

■2001/09/27 本を探すときは余裕を持て

思いがけない臨時収入があった。といっても別に無から有が生じたわけではない。
もとから頂ける予定だったものを、たんに受け取りに行くのを失念していただけなのだ。
でもすっかり忘れていたから、自分のなかではほとんど無から生じたものと変わりなく受け止めた。

悪い癖なのだが、ただちに「何が買えるか(何を買おうか)」という思いが頭の中を駆けめぐった。江戸っ子気分で「宵越しの銭は持たない」というと大げさだが、気分はほとんどそれに同じである。
東京ドームの巨人戦チケットをディスカウント・ショップで探そうか。
いや、ちょうど今日は夜所用のため神保町方面に出向くのであった。何と運が良い(悪い?)ことか。

所用がすんで、小川町にあるリサイクル書店のブックマーケットに立ち寄った。ここはつい一週間前にも立ち寄ったのだが、買いたい本がなかった。というより、買えるような財布の中身ではなかった。
だから、今夜も立ち寄るだけ無駄かと思ったが、まあ懐事情も悪くないということで、何気なく店内に入ったのである。

得てしてこのようなときに「おっ」と思うような本を見つけるものだ。
新刊書店・古書店を問わず、素晴らしい本を見つけ出す条件として、体調の良し悪しがあるだろう。
もっとも体調がただ良くても、それを支えるだけの経済的条件を備えていなければ意味がない。
つまり、経済的に余裕があることは、それだけ余裕を持って書店の書棚を眺めることができ、そこから素晴らしい本との出会いが生じる可能性も高いということになろうか。

今日もたまたまそうした恵まれた条件下にあったため、「今年の出版本」コーナーを見てみることにした。先週はそれどころではなかったのである。
するとあるときにはあるもので、このところ各所で話題になっている本年度谷崎潤一郎賞受賞作の、川上弘美『センセイの鞄』(平凡社)を見つけた。
いちおう迷ったのだが、これもいいきっかけ、買うことに決めた。
その他、つい先日出たばかりのはず(奥付は9/20)の小谷野敦さんの『片思いの発見』(新潮社)まである。これは買わなかった。

今後の課題は、懐事情が悪くとも素晴らしい本を見つけ出す術を身につけることだろう。

■2001/09/28 近代化遺産への招待

「近代化遺産」、あるいは「土木遺産」という言葉は、去年復刊されたことで出会った伊東孝さんの『東京再発見』(岩波新書)で知り、大いに興味をそそられるものだった(2000/10/25条参照)。
もとより上記の本の復刊は、同じ著者の『日本の近代化遺産』(岩波新書)発売に合わせてのものであった。こちらはまだ読んでいない。

東京に住むようになって、明治・大正期の建築物にいっそう興味を持ち、それらを実際に見て回ったり、関連書籍を読んだりすることで理解が深まるにつれて、関心の範囲がたんなる居住建築物にとどまらず、それ以外の建造物にも広がっていったのは自然の成り行きといえる。伊東さんのお仕事に敬意を表したい。

しかし伊東さんの本は、多分に学問的で、取り上げられている近代化遺産の写真にしてもモノクロだから、私のような素人が近代化遺産の美しさを肌で感じることができるようなものではない。
ちょうど今月刊行された増田彰久さんの『カラー版 近代化遺産を歩く』(中公新書)は、その意味で近代化遺産を見ることの楽しさを教えてくれる快著であった。

本書は近代化遺産を26のカテゴリーに分けて、その代表的な建造物の写真とともにその取材時のエピソードや解説を加えた「素人向け」の本となっている。煩を厭わずカテゴリー全てをあげると、次のようなものである。

時計塔/駅舎/機関庫/橋梁/トンネル/ダム/水力発電所/浄水場/配水塔/火の見櫓/窯/工場/煙突/灯台/港湾/税関/倉庫/ドック/運河/要塞/送信塔/気象台/天文台/温室/ホテル/刑務所

巻末の都道府県索引を見ると、近代化に際した重点の置き方で、東京や神奈川、兵庫、福岡、北海道などにこれらの遺産が多く残されているのは当然にしても、全国各地にこれらの遺産が散らばっていることがわかる。

これまで近代化遺産としてほとんど意識していなかったトンネルやダム、煙突、送信塔などの項目はもとより、いくぶんかの注意を払って見てはいた橋梁や駅舎の項目などの写真や記述を読んでも、目から鱗が落ちることが続いて、今後の散策、旅行のときの目配りの仕方に少なからぬ影響を及ぼしたことは確実だ。

「港湾」では、宮城県の野蒜(のびる)に、明治15年に建築された岸壁があったことを知った。まさに灯台下暗しである。
大久保利通の主導で東北の産業拠点をつくるために野蒜に築港し、国際的な貿易の拠点にしようとしたそうなのだ。ところが外港に防波堤をつくらなかったため、二年後襲ってきた台風により流失して、いまは石積された護岸の跡を残すのみとなっている。
どこまで信用していいのかわからぬが、この野蒜築港が成功していれば、野蒜は横浜をしのぐ港湾都市になったかもしれないという。元宮城県人としてワクワクさせられるような歴史のifである。

その他、長崎県佐世保にある大正期にできた送信塔や、茨城県日立市にあった日立精錬所の、これまた大正期につくられた煙突風景の美しさにしばし見とれた。
また、歌舞伎座を手がけた岡田信一郎とその弟が兄弟で設計した、旧琵琶湖ホテルの建物があまりに歌舞伎座そっくりなのにも驚いた。歌舞伎座を見知っている人が大津市にある旧琵琶湖ホテルの前に立ったならば、一瞬自分が木挽町にでもいるかのような錯覚を感じるのではあるまいか。

山下洋輔さんの『ドバラダ門』(新潮文庫)以来、私にとってすっかり刑務所建築は馴染み深いものとなってしまったが、本書の最後に配されている「刑務所」の項目でこれらの写真をあらためて見直しても、洋輔さんの祖父山下啓次郎が設計した鹿児島刑務所や奈良刑務所の美しさ、迫力は群を抜いている。

神社仏閣にもまして、これら近代化遺産の建築物には心動かされるものがある。
人間の関心のなんと移りやすいものか。

■2001/09/29 本の重み

川上弘美さんの谷崎賞受賞作『センセイの鞄』(平凡社)を読み終えた。

いかにも女性の作家らしい、微妙な感情の推移をとらえた描写が素晴らしく、このような女性の内面の起伏をかなり露わなまでにさらけだすタッチはとうてい男性作家がかなうものではない。
それだけでなく、女性の読者にとっても「ここまで書くの」という驚きで迎えられるのではあるまいか。

住まい近くの居酒屋で偶然隣り合わせた主人公の女性と、彼女の高校時代の国語の先生である「センセイ」こと松本先生。
三十代後半独身の主人公と、七十歳前後の老年紳士との風変わりな付き合いがそこから始まり、余韻を残さずにはおかない結末へと一気に読む者を引っ張ってゆく。谷崎賞受賞も当然と思わせる好編であった。

川上さんの小説を読むのは初めてのこと。
本作品を読むにあたっては、ももこさんの強力なご推薦が大きなきっかけだったが、実は川上さんへの興味はそれ以前から少しずつ少しずつ自分の中で醸成されていたのだ。

最初に自分と関心が似ているかもと思ったのは、隔週誌『AMUSE』の2000年10月25日号の記事である。特集は神田神保町古書街。
企画の一つとして、作家に好きな古本屋で好きな本を買わせるというものがあって、そのなかの一人が川上さんだった。
川上さんは、神保町というよりは御茶ノ水駅に近い草古堂書店という古本屋で、川村二郎さんの『内田百間論』と松山巖さんの『乱歩と東京』を買い求めている。この2冊は私も持っていることもあって、そのすらりとした容姿とともに、俄然川上弘美という作家に興味を持ち始めたのであった。

さらに、『東京人』で最近連載が始まった日記(「東京日記」)や、丸谷才一さんの近刊文庫『男もの女もの』(文春文庫)の解説で川上さんのほんわかとした文章を目にして、これは隅に置けないと思っていたのである。
よく考えてみると、『センセイの鞄』でのセンセイと主人公の年齢差は、ちょうど川上さんと丸谷さんの差と同じくらいだ。文庫解説では、妙齢の女性の丸谷エッセイに対する微妙な距離のとり方が面白く語られていた。
まあだからといってセンセイが丸谷さんをモデルとしているなどということを言うつもりはない。

先に川上さんの作風の女性らしさについて書いたが、これとは全く逆に、地の文の言葉づかいやセンセイの言い回し、人物造型などはきわめて女性離れしている。
ときにちらりとのぞかせるフェティッシュな趣味は堀江敏幸さんを連想したほど。
老若男女を問わず好まれる書き手であるに違いない。

薦められた当初新刊書店で本書を手に取ったとき、本の物質的な「軽さ」に驚き、儀式的にパラパラと指を小口にすべらせただけで元の場所に戻してしまった。
期待の大きさと物質的な本の軽さのバランスが悪かったことに戸惑ったのだ。
ところが偶然リサイクル書店で本書を見つけて手に取ったとき、最初に感じたような軽さは微塵も感じられなかった。
前の持ち主が読んで抱いた気持ちが本を心持ち重くしたのだろうか。それと期待感が時間の経過により稀薄になって、ちょうどいいバランスになったのだと思う。

いま読み終えてあらためて本書を片手で持って上下に揺り動かして見ると、最初に感じた軽さは夢だったのかというほどに「重く」なっている。
本とは不思議なものだ。

■2001/09/30 平成日和下駄(24)―根岸の里子規の庵

正岡子規が34歳で没したのは明治35年(1902)9月19日のこと。
正確にいえば来年が没後100年ということになるはずだか、どのような計算を行なったのだろうか、ちょうど今年の9月1日から今日30日まで、没後100年記念と銘打って、子規が亡くなるまで暮らした根岸の子規庵が特別公開されていた。
最終日の今日、ぎりぎりその特別公開に間に合い、見にいくことがかなった。

もとより子規庵は毎週水・土・日曜日に公開されているのだけれど、今回の特別公開では普段は公開していない庵所蔵の子規遺品・関係資料もなかに展示されているのである。

さてこの子規庵、実のところは実際に子規が住んでいた当時の建物ではない。
1945年4月の空襲で焼失したのち、門弟の寒川鼠骨らによって戦後の1951年に忠実に再建・復元されたものである。
子規(と門弟河東碧梧桐)は住まいの間取りや庭にある植物の配置を克明に記録しており、だからこそ復元が可能だったのだ。脊椎カリエスによって横臥の生活を余儀なくされた子規にとって、寝床から見える庭の木々が、彼に季節感を教えてくれた小宇宙だったわけである。

これまで子規庵には二度ばかり訪れたことがある。しかしいずれも閉庵日・時間にあたってしまっており、中に入ることができなかった。だから中に入るのは今回が初めて。
鶯谷駅にほど近い根岸子規庵の周囲は、見事なほどのラブホテル街となっている。
リュックを背負い地図を携えて、ラブホテル街のラビリンスに迷いながらようやく子規庵を訪ねあてた人々はいちように戸惑いを隠せない。
子規庵を訪れる散策者と、ラブホテルを出てくるカップルが鉢合わせすることもある。まったく奇妙な空間だ。
隠微な空気の流れる人気のない空間に包まれながら、緑の庭と文豪ゆかりの木造建築はたしかに存在するのである。

最終日だけあって、さすがに訪れる人は少なくない。
玄関を入ってまっすぐ進んだ八畳間は、来訪者たちが集って句会などを催した部屋だという。今はここに遺品が展示されていた。小さな黒眼鏡がいい。馬蹄形の紙挟みも、使ってみたいという誘惑にかられる一品。
また、鼠骨に年始の年玉として贈られた地球儀もある。『墨汁一滴』の冒頭で触れられていた、まさにその地球儀である。

隣の、子規が臥していた六畳の間には、伸ばせなくなった左膝を入れるために、その部分だけをくり貫いて凹型になっている特注の座机が置かれている。
この部屋から子規は庭を眺め、痛みをこらえ、たらふく食べ、妹の律さんに当り散らし、句を読み、『病床六尺』以下の著作をものしたわけである。
ちょうどその六畳の病間の外には糸瓜棚が設えられて、大きな糸瓜数本がぶら下がり、黄色い花を咲かせていた。子規の辞世に詠まれた糸瓜も、100年前に同じようにぶら下がっていたのだろう。

庭の左手の空地にはプレハブとテントが臨時に作られ、絵葉書などが売られていた。また、今回の特別公開で訪れた人々が詠んだ句が書かれた短冊が色も鮮やかに、所狭しと貼り付けられていた。
いずれも子規庵を訪れたときの感懐を詠んだもので、句を読む人にとっての子規の存在の大きさをうかがうことができる。

テントには、子規庵の近くにある豆腐料理の名店笹乃雪が出店を構えていた。出されていた豆腐一切れを試食する。いかににも大豆が詰まっているという感じで美味い。
それと比べて、いま普通に自分たちが食べている豆腐のあの軽さ、あっさりさは何なのだろう。まるで違う食べ物ではないか。この笹乃雪の豆腐、子規も好物だったという。

句作のルールも知らない私が、子規庵にてひねり出した五七五の日本語。

子 規 庵 や 糸 瓜 鶏 頭 蚊 遣 香

さて帰りは入谷に向かうことにする。
子規庵から東にまっすぐ向かうと、地下鉄入谷駅に着く。
笹乃雪の向かいにある根岸小学校の脇の細い路地を入って、家の屋根同士が迫っているさらに細い路地を進むと、右手に煉瓦塀が部分的に残されている場所があった。屋根付きの門もある。たしかめはしなかったが、由緒ある家なのだろうか。

細い路地から大きな通りに出て、いきなり驚いた。
緑青も見事な看板建築の見本のような商店の建物が目に入ったからだ。たまらず写真を撮る。
以前、この建物がある道とまもなく直交する金杉通にも渋い看板建築を見つけたことがある。この下谷のあたりは戦前の商店街の雰囲気を濃厚に残した、隠れた名所であると思う。

帰宅後、看板建築のバイブルである藤森照信・増田彰久両氏の『新版 看板建築』(三省堂)をめくって、この建物がないか確かめた。するとたちどころに見つかった。やはり有名だったのだ。カラーとモノクロ、二枚の写真が掲載されている。
さらに同書所収の写真と比較して驚いたのは、私が撮影してきた現在の時点で、その物件はすでに右翼(向かって左側)が改築されて、中央と左翼側しか残されていないことだった。

また、同書の写真では、お店(雑貨の石川商店)は現役で、二階の窓からロッテの看板を覆うように布団が干され、生活臭も感じられた。
ところが、今日見た印象では、すでに人が住んでいないのではと思わせるたたずまいなのである。画像を見てもその雰囲気を汲み取っていただけるのではあるまいか(妻に見せたら、日曜だから閉まっているだけと言われた)。
あるいは今日撮影した画像も、数年先には貴重なものとなってしまうのだろうか。

今日は「日和下駄」を標榜するほど歩いたわけではない。
しかし、子規庵と根岸、看板建築と下谷、これだけでも十分に中身の濃い散策であったと、自分では満足している。