読前読後2001年6月


■2001/06/01 追悼名人

嵐山光三郎さんの『追悼の達人』(新潮社)は追悼される側の作家たちに軸を据えた読み物だが、追悼する側に焦点を当てれば、第一にあげられるのは山口瞳さんだろう。
前も引用したことがあるが、坪内祐三さんの『文庫本を狙え!』(晶文社)における、「「男性自身」の読み所の一つに追悼記があった」「不謹慎な言い方だが、山口瞳の親しい人が亡くなると、今度はどんな追悼文が読めるのだろうと、少し楽しみだった」という文章は、その点を評価する代表的なものである。

「男性自身」の後ろのほうの数冊は日記スタイル≠ニ銘打って、日々の暮しが事細かく綴られている。このスタイルであれば、山口さんの追悼文はよりリアルに綴られているのではあるまいか。
たまたまそのうちの一冊『還暦老人 極楽蜻蛉』(新潮社)を入手したので、読みながら誰かが亡くなったという記事を見かけたら、その部分に付箋を貼っていくことにした。
そうすると、あることあること。上下に(同書は二段組なのだ)付箋が林立している。

以下、目のつくものを紹介していこう。

●辰巳柳太郎氏死去。…昭和十五、六年頃は歌舞伎の黄金時代だと書いたが、新国劇もそうだった。まだ三十代だったと思われる辰巳や島田は男の匂いがプンプンしていた。
●徳Q君(新潮社出版部徳田義昭氏。『波』編集長)死去。食道癌。五十一歳。/臥煙君から知らせがあったとき、僕は「そうですか」と言ったきり、言葉がなかった。
●作家の隆慶一郎氏死去。残念でならない。僕は最も大きくなる作家だと思っていた。このタイプの作家が他にいない。初めに直木賞の候補になった『吉原御免状』を推しきれなかったのは僕の責任だと思っている。

●開高健死去。五十八歳。…いままでの至近弾が遂に僕等に命中してしまったという思いをする。…そば芳で開高を偲んで少し飲む。
●朝早く、春日野清隆前理事長が亡くなった。またひとつ、昭和が終わったと駄目押しされたような感じだ。
●昨日赤尾敏氏死去。向田邦子がテレビドラマの役者で使いたいと言っていたのを思いだす。
●朝の八時半に講談社『小説現代』編集部のS氏から電話があり、池波さんが午前三時に三井記念病院で亡くなられたということだった。急性白血病。六十七歳。S氏が追悼文を書けと言う。七枚というのを五枚にしてもらった。それでも書けるかどうか心もとなかった。
●藤山寛美死去。肝硬変。六十歳。やりたいことをやり尽くして早く死ぬというタイプがあるが、寛美さんはその典型。
●小暮美千代さん死去。心不全。七十二歳。コケティッシュ(色っぽい。蠱惑的)なんて言葉があったのを思いだす。
●朝、市役所のガマさんから電話があり、滝田ゆうさんが亡くなられたのを知る。…滝田ゆうは天才である。
●初井言栄さん死去。胃癌。六十一歳。大好きな女優さんだった。初井さんの出るドラマ(テレビだけだけれど)は必ず見た。
●河原崎国太郎氏死去。脳梗塞。八十歳。これも戦前の話であるが前進座の『鳴神』の雲絶間姫がいまの玉三郎と同じくらいに綺麗だった。僕は中学低学年生であったが、性欲を意識したのはこれが最初ではなかったかと思っている。

●永井龍男先生死去の連絡あり。心筋梗塞。八十六歳。/永井さんは僕が人生の師としていた方である。…永井さんは明窓浄机の人である。
●鹿内信隆氏死去。肝不全。七十八歳。慶応病院神経内科の待合室でよくお見受けしたが毅然としたところのある方であった。
●幸田文さん死去。心不全。八十六歳。ぜひ一度はお目にかかりたいと思っていて果たせなかった方の一人。…幸田さんは何を書いても何をなさってもキチンとしたところのある方だったと思っている。

まだまだ他にもたくさんあるが、主要なものだけでもこんなに多くの追悼文が収められている。生前に何らかの係わり合いがあった方から、そうでない方まで、山口さんの人を見る目の優しさと正確さ、交友範囲の広さがわかろうというものだ。

上記のなかでも白眉といえるのが、開高健・池波正太郎・滝田ゆう三氏ではないかと思われる(ほかに徳Q氏の追悼も痛ましい)。
開高健と山口さんはサントリー宣伝部の同僚で、サントリーでは開高さんが先輩(年齢は山口さんが上)にあたる、いわば戦友≠ナあった。山口さんを採用したのが開高さんだという。開高作品(とくに晩年の『珠玉』)に対する評価が高い。
池波正太郎さん危篤の報を知って亡くなるまでの山口さんの回想は、淡々と思い出話を語っているなかに痛切なものを感じる。
滝田ゆうさんと山口さんは、国立でご近所付き合いをする仲だったようだ。同じ東京生まれとして、滝田さんとは空間的・時間的記憶を共有しているという意識があったように思われる。

■2001/06/02 アナロジーの愉楽

堀江敏幸さんの最新散文集『回送電車』(中央公論新社)を読み終えた。

中味としてはエッセイ集に分類していいはずなのだが、著者的には「散文集」なのだろう。冒頭に配された「回送電車主義宣言」では、自己の文学スタイルをこの「回送電車」になぞらえている。
「特急でも準急でも各駅でもない幻の電車」たる回送電車は、「評論や小説やエッセイ等の諸領域を横断する」曖昧な存在たる堀江さんが生み出した書物を言い表すのに最適なのだという。

1章はもとは「図書新聞」に連載された文章群であり、そこにはさまざまな「回送電車」的現象が集められ、語られている。
内田百間いうところの「臍麺麭」や、四不像、踊り場などなど。
これらを読んで感じたのは、書物のなかや巷から、自らの同類たる「回送電車」的事象を切り取る目の犀利さである。さらに、文章中では意表をつくような比喩が多用され、しかもそれが言われてみるとなるほどと納得されるものばかり。

これらを要するに、堀江さんはアナロジカルな感覚が鋭いということなのだろう。
実はこのことは、すでに1章の最初の「贅沢について」のなかで半分種明かしされているようなものである。
「外側と内側をきれいに腑分けしようとする通念の暴力にあらがって生まれた」臍麺麭を、「多少強引に、餡と皮を文学のアナロジーと捉えてみたらどうか」という試みがなされているのだ。
そもそもが自らの著作物を「回送電車」と規定すること自体がアナロジーの最たるものといえよう。

意表をついたアナロジカルな思考、これが堀江文学の魅力のひとつかもしれない。
著者が小説的な散文に手を染めるきっかけとなったキーマンが、鹿島茂さんなのだという。
この逸話を念頭に置きながら本書を読んでいると、堀江さんは物へのこだわりがないというか、物につかないという印象がある。いや、こう言ってしまうと正確ではない。日本経済新聞連載の連作エッセイを収めた4章のような、周囲にある物・事にまつわる文章があるではないかということになる。

つまり、別の言い方をすれば、鹿島さんや高山宏さんのように、あるオブジェ・事象について歴史的に掘り下げようとする指向性を有していないとすべきだろうか。

4章で取り上げられた物たちは、あくまで著者本人との緊密な距離感を保ったまま、生々しく語られる。歴史性という客観化の視角の比重は低い。
もっとも生々しいといっても、ベタベタしたような物への執着が感じられるわけではなく、関わり方はあくまでドライなのだが。これは、鹿島・高山両氏が18〜19世紀文学専攻、堀江さんが20世紀の現代文学専攻という違いとしても言い表せるのかもしれない。

アナロジカルな感覚が鋭いということは、世界のさまざまな事象に通暁しているということでもある。おそろしく話題が豊富なのだ。
各編数ページほどの短いもので、私にとって読みやすいものばかりなのだが、一編を読み終えるたび、一息つこうという誘惑以上に「次は何について書いているのだろう」という期待感が優越して、つい次の文章に目が移ってしまう。この連鎖でほとんど一気に読み終えることになった。
私にとっては、初めて読む堀江作品が本書であったのは、幸運だった。

ところで、本書の装丁には著者自身も絡んでいるらしい。装丁が「堀江敏幸+中央公論新社デザイン室」となっている。
堀江さんは、4章に収められた「クレーンの消えた光景」で述べられているように、「本づくりに関しては可能なかぎり好みを貫きたい」という信念をもっている方のようなので、それが本書のつくりにも反映されていると思われる。
実際、白を基調としたシンプルかつ瀟洒なセンスは堀江さんのものなのだろう。
1章の各編のタイトルが「…ついて」で統一される様式美、目次が行末で揃えられ、各編の見出しも行末、すなわち下方に配されたやり方、奥付に記載される情報がすべて追い込みで印刷される、一昔前の中央公論社の谷崎の著作を思い出させるやり方、これらも著者好みなのかもしれない。

白くて瀟洒な装丁はとても好ましいのだが、つい読書に熱が入って指に力が入ると、白いカバーに指の脂がついて黒っぽくなってしまうのが難点。これはたんに私の手が汚いためなのか。
それはともかく、部屋の中から、ゴミ箱に捨てられずに放置されていた新刊書店でかけてもらう紙カバーをあわてて探し出し、本書を包んでから、読書を再開した。もちろん読み終えたいまは、その包みを外している。

■2001/06/03 装丁の奥義

ぼくも含めてたいていの本好きは、内容も外側も一緒になった本の総体が好きだと思うんです。だからブックデザインがあるんだし、きれいな装丁が喜ばれるんですね。

これはある装丁家の発言である。
まさしくそのとおりで、むしろ「読めさえすりゃいい」派に属する(と思っている)私ですら、装丁は綺麗なほうが好ましいのはいうまでもない。カバーを取り払ってしまうことが多い図書館の本に馴染めないのも、ひょっとしたらこんな性向があるゆえなのかもしれない。

さて上の発言の主は和田誠さん。和田さんの装丁論たる『装丁物語』(白水社)は、本好きの私にとってとても興味深い内容が盛りだくさんの書物であった。
依頼されてから出来上がるまでの過程、文字、シリーズものの場合、カバー・表紙・見返し・扉などで使用する紙、画材など、なるほどこうして装丁というものが出来上がるのかと目から鱗が落ちる話ばかり。書物を装丁という側面から見直すいいきっかけになった。

このところ丸谷才一さんの本を買い集めているせいで、和田誠さんの装丁にかかる本を目にする機会が格段に増加した。この丸谷本の装丁についても一章が割かれている。
ある程度和田風に慣れてくると、以前買ったあの本もこの本も和田さんが装丁したものだったかと今更ながら気づかされる。いまやわが書棚には、菊地信義さんに次いで、和田さん装丁の本が多いかもしれない。それとともに、和田さんご本人の著書も気にかかるようになった。

和田さんがプロとして装丁に携わるうえでのこだわりが随所に披露されているなかでも、鹿島茂さんの『パリの王様たち』(文藝春秋→文春文庫)について触れられた箇所が印象に残る。本書は「言い残したこと」として、これまでの各章で語られなかった本について振り返った章のなかで取り上げられている。

もともと本書は「巨匠の器」というタイトルで連載され、単行本もそのタイトルで刊行される予定だったのだという。
装丁を依頼された和田さんも、この言葉のイメージに合わせた真面目なタッチで、論じられているユゴー・デュマ・バルザック三文豪を描いたところ、校正刷りを見た文春のお偉方が、「このタイトルでは地味すぎて本が売れない」と言い出した結果、あわてて編集者・著者協議のうえタイトルが差し替えられたのだそうだ。

和田さんの装丁は出来上がっているから、タイトルの文字だけ差し替えられたことになる。
ところが和田さんはタイトルのイメージで絵を描いたものだから、その絵と新しい「パリの王様たち」という軽いタイトルがしっくり合わず、内心忸怩たるものがあった。
結局このズレは、同書が文庫になったときに、絵のタッチを変えることで解消されたという。

このくだりを読んで、私は慌てて書棚のなかから同書の単行本と文庫版を取り出して見比べてみた。なるほど雰囲気が違う。単行本は三人の肖像が油彩(グワッシュ?)的なタッチで重厚なイメージをかもし出しているのに対し、文庫版は三色旗をバックに線描で明るい軽妙なイメージになっている。気づかなかった。

和田さんの装丁に関するプロとしてのこだわりは、最終章で憤懣となって表れる。バーコード問題である。
本書を読んでもわかるのだが、カバー表裏で一つの装丁作品を作ってきた和田さんにとって、カバー裏にバーコードを否応なく入れられることは、作品に対する冒涜以外の何者でもなかった。

たとえば丸谷才一さんの『雁のたより』(朝日文庫)は、カバー表に花札の八月の山だけの札、裏に雁が飛ぶ札があしらわれている。つまり、そこにパーコードを入れられるとすれば、タイトルを暗示する花札を裏に配置した意味が損なわれてしまう。
この文庫版をいまだに入手できないのは、そのために重版がされなかったからなのではないかと邪推したりする。

バーコード反対派の和田さんは、出版社ごとに話し合って、妥協点を探る。
その結果、入れることにこだわった出版社の装丁ができなくなり、装丁のお仕事が最盛時の二割ほどになってしまったという。惜しい話である。
たとえば新潮社の『花の脇役』『虹の脇役』(関容子著)・『寺山修司・遊戯の人』(杉山正樹著)などでは、バーコードを印刷したシールがカバー裏に貼付され、読者が購入後自由に剥がせる仕組みになっている。

コストの点で問題があるのだろうが、このようなかたちで優れた装丁家の仕事を生かすことはできないものか。

■2001/06/04 和田誠の丸谷本装丁

和田誠さんの装丁については、装丁される側である丸谷才一さんの「和田誠の装釘」という一文がある(中公文庫『山といへば川』所収)。

このなかで丸谷さんは、和田さんが描いたものではない絵を指定して自著を装釘してもらった経験に触れ、「原画をどこからどこまで入れるか、字をどう入れるかがピシリときまつて、一分の隙もない」と和田さんの空間処理の方法をべた褒めしている。

通常、装丁のさいにどのような絵・イラストを使うか、あるいは使わないかは、装丁家の裁量に委ねられている。
和田さんが装丁のさいに絵を指定されたのは、丸谷さんの『日本文学史早わかり』(1978年)が最初だったのだという。

こういうケースではぼくはデザイナーに徹して、レイアウトをします。もとの絵を損なわないようにしながら必要な文字を入れてゆく作業というのは、パズルを解くような面白さがあって好きですね。(『装丁物語』第17章「人の絵を使う」)

プロとしてのこだわりのいっぽうで、仕事を楽しむことができる、これがいい仕事ができる条件なのかもしれない。

和田さんの丸谷本装丁におけるこのような「遊び感覚」について、『装丁物語』を読みながら丸谷さんの本をひっくり返して感動したことがある。
第6章「丸谷才一さんの本」のなかに、『挨拶はむづかしい』(朝日新聞社)のカバー写真が掲載されている(78頁)。「丸谷さんが原稿片手にマイクの前に立っている」という「逐語訳」のイラストである。
この単行本は持っていないので、文庫版を取り出してみた。すると、文庫版のカバーイラストは、壇上に丸谷さんはもうおらず、スタンドマイクと投げ込まれたとおぼしき花一輪があるのみ、下のほうに拍手する手のみ描かれている。
つまり、単行本のカバーで挨拶した丸谷さんがそれを終えて壇上から去り、列席者が拍手している図というイメージなのだ。カバー表から裏(あるいは裏から表)という時間的・空間的流れの表現は常套かもしれないが、単行本と文庫の装丁で一つのストーリーが形づくられている。
これには舌を巻いた。自分が持っている単行本が文庫になるときに注目すべき点がひとつ増えたわけである。

■2001/06/05 大学目薬という「橋」

向田邦子さんの『無名仮名人名簿』(文春文庫)の終わり近く、「ハイドン」と題するエッセイのなかで、どうしても息子を早稲田大学に入れさせたいと懸命になっている友人のエピソードが語られる。

なぜ慶応でも立教でもなく早稲田なのかというと、原因は「大学目薬」にあるのだという。子供の頃、茶の間の棚の上に、エビオスやオゾとならんで、「大学目薬」がのっていた。あの角帽をかぶった大学総長のような人物がとても賢い立派な人物に見えた。大学という字もこれで覚えた。

だから、その母親たる友人にとって大学とは大学目薬の絵であり、その絵のなかの角帽なのであって、丸帽の慶応や立教は大学ではないのだという。

この箇所を読んで休み明けの気だるさが吹き飛んだ。
というのも、つい最近別の本でこの「大学目薬」というものの存在を初めて知ったばかりだったからである。
その本とはほかならぬ堀江敏幸さんの『回送電車』
その名も「大学と目薬」というエッセイにおいて、「強度の近視と乱視に加えて飛蚊症に苦しめられている」という、同じ症状を抱える私にとって非常に共感を覚える告白のあとに、この「大学目薬」という名前のもつ強烈な牽引力について語られているのだ。

堀江さんは、この目薬の古風なパッケージと意味不明の商品名、若者向け人気商品の半額ほどの価格に惹かれて実際に購入し、試用している。

さしてみると他に類のない収縮感があり、疲れのひどいときには痛みもともなうけれど、なかなか効き目がある。これは「大学関係者」用の秘薬なのだろうか。

そう疑問に思って、何とメーカーのお客様相談室に電話をして由来を聞き出したという。
このエッセイで述べられているのは、自分がいかに「お客様相談室」好きかということなのである。
私にとっては、「大学目薬」という商品を媒介に、向田邦子さんと堀江敏幸さんの間に架橋≠ウれるという、得がたい体験記である。

「大学目薬」は参天製薬の製品。下記URL参照。
http://www.santen.co.jp/drug/daigaku_me.html

■2001/06/07 奇人という逆説

氏家幹人さんの『江戸奇人伝』(平凡社新書)を読み終えた。
副題に「旗本川路家の人びと」とあるように、幕末に活躍した幕臣川路聖謨の一族を主に取り上げて、幕末の人びとの暮らしぶりを追った楽しい本であった。

本書に目が止まり購入に至ったのは、その「奇人伝」というタイトルはもとより、副題の「川路家」によるところが大きい。
というのも、氏家さんの前著『江戸の性風俗』(講談社現代新書)を読んで、川路聖謨の日記に家庭内でかわされた猥談が明け透けに記されているということに驚き、かつ興味を持ったからなのである。

不勉強ながら、私はその『江戸の性風俗』を読むまで、川路聖謨が筆まめな人で、赴任先での紀行・日記・書簡などをこと細かに記していることなどまったく知らなかった。
そこで氏家さんが紹介しているような記事は、現代に生活する私たちにとって大変奇妙に映り、なるほどこのような細かさを押し広げても「奇人」というくくりで一書が成立するだろうと思ったわけである。

もっとも氏家さんは、『太陽』連載当初の目論見は、たんに川路家のみに焦点をあてるものではなかったようだ。
実際『江戸奇人伝』では、川路家以外の江戸の人びとの「奇」なるさまが切り取られている。そのうちの一例として川路家の話題を取り上げるために川路の日記を丹念に読んでいるうちに、この家庭の「奇」なることに惹かれ、次第に内容が副題に近づいてしまったというのが実情のようである。

ところが面白いことに、川路一家の暮らしぶりを聖謨の書き残したものから微細にうかがうにつれて、川路家は「奇」なるものなどではなく、極言すればごく一般的な武士の家庭の様子なのではないかと思えてしまう。
むろん川路家は聖謨に至って上級旗本クラスにランクアップしたから、「ごく一般的」としてしまうには語弊があるかもしれない。

伴蒿蹊の『近世畸人伝』や石川淳の『諸國畸人傳』にない味を追求したら、「奇」が「奇」でなくなった、そんな印象である。

■2001/06/08 江戸明治と現代を結ぶ大正時代

江戸時代の風俗は明治になって多くが廃れ、隅々にひっそりと息づいていた江戸の名残も大正12年の関東大震災によってほとんどが消滅してしまった。
江戸から近代にかけての社会風俗の変遷は、大雑把には以上のように理解されているだろうか。

ところが、矢野誠一さんの『大正百話』(文春文庫)を読むと、ことはそう単純でないことがわかる。

大正時代といえば、明治と昭和のはざまにあった地味な時代。
川本三郎さんによって打ち出された文学史的理解では、明治文学のように国家と社会や世界との関係で自己を見ることが中断され、夢や幻影や陰翳が静かに語られるような作品が多く生み出された時代。
作家でいえば、明治国家を形成した世代を父親に持つ二代目、富国強兵の論理によって失われたものに愛着を見いだそうとした荷風や芥川、谷崎に代表される時代である(川本三郎『大正幻影』ちくま文庫)。

いっぽうで芝居(歌舞伎・新派)・落語などのいわゆる芸能≠フ側面に目を向けてみると、等しく「変化」という言葉で語られこそすれ、その質は大きく異なっていたと思われる。

『大正百話』は、大正時代の芸能全般のスキャンダラスな事件やゴシップをエピソード風に並べ、融通無碍な文体で綴った楽しい本である。
これを読むと、歌舞伎や落語など近世に発生した大衆芸能は明治になっても大きくは質を変えずに存続してきたが、大正期に至ってようやく危機に直面したことがわかる。

歌舞伎でいえば、近代的な生活スタイルに合わせて、劇場内の平土間を廃して全て椅子席にした帝国劇場の開設に端を発した劇場の改革。
同様の問題でいえば、桟敷席を取り仕切り、食事の世話まで受け持った芝居茶屋の制度も旧弊だとして槍玉にあげられるようになる。
また、時間も江戸期よりは短縮されたとはいえ、午後二時開場、幕間二時間半をはさんで夜の十時まで蜿蜒と上演されたものを、当時の世情に合わせて短縮しようとする。
歌舞伎役者個々人に注目すると、若き日の六代目菊五郎・初代吉右衛門が市村座を牙城として「菊吉時代」を築き上げる。またあるいは、鉛毒による名優たちの若死が相次ぎ、化粧道具の見直しが求められるようになる。

落語や清元では、江戸から続いてきた一門・流派が内紛などで再編期をむかえたのがこの大正時代のことであった。

ことはいわゆる伝統芸能だけではなく、明治期に創出された新派においても、草創期の立役者である島村抱月の死と、そのあとを追って松井須磨子が自殺したのも大正期。はじめて直面した危機的状況がこのときだったに違いない。

ここまで列挙してきたのは、いってみれば制度や人間関係などのソフトの面における変革である。
面白いのは(というと不謹慎だが)、ソフトの面における変革が断行されつつあるさなか、突如としてハードの面での大変革、スペクタクルとして関東大震災が東京を襲ったこと。
結果的に、大正時代における芸能面での変質は、このようにソフト→ハードの順番で行なわれたわけである。

さて大正時代になされた改革は、そのまま現代へとつながるものが多い。劇場の設計、上演の制度はそのいい例だ。
また別の話になるけれど、先に述べた鉛毒による被害者として、現在歌舞伎役者の最高齢(87歳)である二代目中村又五郎さんの父初代又五郎が大正九年に35歳で亡くなり、翌年に二代目を襲名して初舞台を踏んだという記事も紹介されている。
初代吉右衛門の楽屋の一角に弟時蔵、末弟米吉(十七代目勘三郎)の鏡台が並び、その隣に又五郎用の小さな可愛い鏡台が並べられたという微笑ましい内容だ。

大正時代というと遠い昔のように感じてしまうが、現在もご活躍中の又五郎さんがこの本のなかで「歴史的人物」として取り上げられているのを見ると、そう深い溝があるわけではないことに気づかされるのである。
江戸・明治の遺制に改革のメスを入れ、それから現代にまで続く基礎が打ち立てられた、それが大正という時代であったらしい。

■2001/06/09 もうひとつの大正時代

大正という時代は、人間の心性においても、まだ江戸時代の精神が脈々と受け継がれていたとおぼしい。

自由民権運動の過程で、川上音二郎の壮士劇などにしばしば横槍が入ったり、芝居小屋の中に警官が常駐していて、政治風刺など風俗紊乱の恐れがある場面が登場するとすぐさま止めに入ったなどという話はよく聞く話である。

こうした政治的事由による芝居の上演中止などということは、これもまた遠い明治の話だとばかり思っていた。
むろん戦前の日本にも、軍部の検閲による思想統制などが行なわれていたわけだが、軍国主義に関わるとなると、ちょっと質が異なるような気がする。
昨日も触れた『大正百話』に、とある理由でとある芝居が上演中止の憂き目にあったという記事を見つけて、上のような思いを抱いたのである。

それは「大老劇の上演中止」という一文。新富座で上演が予定されていた中村吉蔵作「井伊大老の死」の上演が突然中止されたという事件のこと。
衣装・大道具・小道具もほぼ完成して上演を待つばかりという時期に、突然上演取りやめの決断がなされたのだという。

理由というのは、桜田義士を暴徒扱いするとは何事だ、という旧水戸藩側からの猛抗議によるもの。
劇場側が上演にさいし事前に当局や井伊家の諒解を得ていたという話も驚きだが、旧水戸藩関係者からの圧力があったとは、狂言作者の中村吉蔵は「時代錯誤もはなはだしい」と憤慨したそうだが、むしろ江戸時代の心性がここにも残っていたと言えまいか。

これに輪をかけて驚いたのは、上演にあたって「風教上面白からず」という文書を警視庁保安課に提出していたという人物。
田中光顕伯爵はまだしも、「史料編纂官某(水戸派)」という単語を見て、ただただ呆然とするばかり。こんなところにまでわが職場が登場しているとは思いがけなかった。

歴史家が登場したついでに、エール大学の朝河貫一も本書に登場することを報告しておく。
坪内逍遥の養子士行が英国留学から帰国したのを追いかけて来日した米国女性がいた(まるで鴎外のようだ)。彼女は日本に来るための旅費を朝河から提供されたという。
内田魯庵の日記に登場したときも驚いたが、朝河貫一をめぐる知られざる人的ネットワークというのは興味深い問題である。

■2001/06/11 文春文庫史上の大変革?

佐藤亜紀さんの『バルタザールの遍歴』が文春文庫に入ったので購入する。
パラパラとめくっていて、「ん?」と違和感にとらわれた。
文春文庫なのに、活字(正確には写植だが、活字という言葉で表現しておきたい)の雰囲気が違うからである。奥付を見ると、印刷会社は大日本印刷。もっとも、同じ文庫でも印刷会社が違えば当然活字のかたちも違うことになるから、文春文庫の活字の雰囲気が変わったと一概に言い切ることはできない。
ともかく調べてみよう。

最近購入した文春文庫を見る。
たとえば丸谷才一さんの『男もの女もの』(4月刊)。これこれ、この活字が文春文庫なのだ。印刷会社は凸版印刷である。やはり違っている。
またたとえば前回前々回と触れた矢野誠一さんの『大正百話』(98年3月刊)。これも凸版印刷。この活字は旧字体も整ったかたちをしている。

沢木耕太郎さんの『勉強はそれからだ』(2000年3月刊)はどうか。やはり凸版印刷だ。
別に凸版印刷ばかりを選んでいるのではない。
中野翠『ムテッポー文学館』(98年5月刊)、山本夏彦『私の岩波物語』(97年5月刊)とアトランダムに見ても相変わらず凸版印刷。
こうなると、それ以外の印刷会社を探すのが難しそうだ。

比較的昔に刊行されたものから揃っている一人の作家の著作で見てみる。丸谷才一作品を素材にしよう。
『年の残り』(75年4月刊)以降、活字の大きさこそ違え、やはりすべて凸版印刷だった。念のため戸板康二作品でも調べてみよう。『ちょっといい話』(82年8月刊)以降、予想どおり凸版印刷である。

さらに手あたり次第書棚にある文春文庫を確かめたが、一つとして例外はなかった。
文春文庫PLUSや、文春文庫ビジュアル版などの兄弟シリーズもすべて凸版印刷による。文春の活字は「あのかたち」というイメージができあがっているのである。
とすれば、今回『バルタザールの遍歴』が凸版印刷でなくなったことは、文春文庫史にとって大きな変化なのではあるまいか。
あとで今月刊行された他の文春文庫も確認してみなければならないだろう。

ちなみに付言しておくと、個人的には凸版印刷の活字の雰囲気のほうが好きである。

■2001/06/12 文春文庫史上の大変革?(追記)

こういうことには調査熱心の私。さっそく書籍部で調べてまいりました。

文春文庫の、佐藤亜紀本(といっても昨日私が最後の1冊を買ったため、これだけなし)以外の今月の新刊、および先月の新刊をざっと見ましたが、いずれも凸版印刷によるものでした。

昨日「大変革」として印刷会社変更の可能性を書いたのですが、以上のとおり大筋での変更はない模様です。
もっとも、凸版印刷以外の印刷会社も参入したという意味では「変革」といえるのかもしれませんが。

問題は、なぜ佐藤本だけ文春文庫の伝統を破って大日本印刷による印刷になったのかということになるでしょう。
『バルタザールの遍歴』の内容は凸版印刷の活字ではなく、大日本印刷の活字が似合うということなのか(まさか)。
真相はもっと現実的な問題なのかもしれませんね。

■2001/06/12 藤森記録者としての山下洋輔

いま、山下洋輔さんの傑作の誉れ高い『ドバラダ門』(新潮文庫)を読んでいる。感想などは読後に書くとして、今回はその余談的な話をしたい。

ジャズピアニストの山下洋輔さんは、ピアノを「叩いて」いる映像や、タモリ・筒井康隆といった人々との交友関係から、はちゃめちゃな芸術家肌の人だとばかり思っていた。
ところが、先日たまたま「笑っていいとも!」増刊号を見ていたら、テレホンショッキングのゲストで山下さんが出演しており、上述の思い込みは改めなければならないなと感じたのである。穏やかな人格者という印象なのだ(実際はどうかわからないが)。『ドバラダ門』を読んでいても、この二面性が如実にあらわれていて面白い。

むしろこのなかに登場する藤森照信さんのほうが、いかにも学者的*z放さである。

鹿児島刑務所の設計者山下啓次郎が山下洋輔さんの祖父にあたる話は有名であろう。
『ドバラダ門』を読むにあたって、まず鹿児島刑務所という建物がどんなものなのか確認するため藤森さん関係の著書をあたってみたところ、苦もなく『建築探偵 東奔西走』(朝日文庫)のなかに探し出すことができた。

同書によれば、明治期に重点的に整備された千葉・鹿児島(取り壊し)・奈良・長崎・金沢(取り壊し)の五刑務所を、その筋では「五大監獄」というのだそうだ。そしてその設計を一手に引き受けたのが山下啓次郎であった。彼の身分は司法省の技師である。

それぞれの監獄のどこがどう素晴らしいのかは、同書収載の写真(増田彰久氏撮影)と藤森さんの解説を参照されたい。さらにこの藤森さんの解説と『ドバラダ門』の叙述がシンクロしていて、双方を読み比べれば面白さが倍増すること請け合いである。

藤森さんのほうでは、これら監獄の設計者山下啓次郎の遺族探しに奔走し、山下さんのほうではなぜ祖父がこれらの監獄の設計者になるに至ったのかという調査に没頭する。その接点が、鹿児島刑務所保存運動のシンポジウムなのであった。
『ドバラダ門』のなかで書かれている藤森さんの講演が、実際に講演を聴いているかのように面白い。山下・藤森の初対面時における藤森さんのいかにも学者的″s動を見つめる記録者としての山下さんの冷静な観察眼が素晴らしい。
「藤森記録者」としては、赤瀬川原平さんに山下洋輔さんを加えて双璧とすることができるだろう。

■2001/06/13 星の翁の本

やましたこうしんさんのサイト“インターネット読書日記”の掲示板にて野尻抱影の名前を目にし、久しく読んでいなかったこの作家の本を書棚から取り出した。

野尻抱影(1895-1977)、本名野尻正英(まさふさ)。大佛次郎(本名野尻清彦)の実兄である。
英語教師を経、出版社勤務のかたわら、星にまつわる神話・伝説を収集して「天文民俗学」ともいえる分野を確立し、天文の普及に大きな功績を残した人物。「星の翁」と敬愛を込めて呼ばれている。

望遠鏡で星空を毎夜眺めるというほどマニア的情熱は持っていなかったけれども、私は子供の頃から星空を眺めるのが好きで、小学生の頃は図書館で児童用のギリシャ神話を読みながら星空の中に星座を確認したりしていた。
大きくなってからは夜空をぼんやりと眺めるなどという機会はめっきりと減ってしまったが、それでも時おり夜空の星を眺めては心をリラックスさせていた。

そういう「星好き」であったにもかかわらず、野尻抱影という人物の名前を意識したのは遅いほうに属するのかもしれない。
いまから十年ほど前、池内紀さんあたりのエッセイで知ったのだと思う。さっそく、当時まだ入手できた筑摩書房の選集『野尻抱影の本』4冊を買い込み、さらに新刊・古本で抱影の文庫本をこつこつと集めて、折りに触れて頁を繙き、拾い読みをしてきた。

そう、私にとって抱影の本は、通読するのではなく、星について何らかの感興がわいたときに必ず参照して拾い読みをするためのものなのである。

たとえば、中公文庫に『星三百六十五夜』という上下2冊本が入っている。91年4月中公文庫の「僅少本復刊フェア」で復刊されたのを機に買い求めたもの。
本書は、一年365日、それぞれの日にちなんだ星に関する短いエッセイを綴ったものだ。たとえば1月1日は「元旦明星」と題する暁の明星についてのエッセイとなっている。その日その季節にちなんだ星にまつわる伝説・民俗だけでなく、その季節の星にまつわる個人的な思い出なども綴られていて、たいへん面白い本なのだ。

このような形式ゆえに、時々思い出したように本書を書棚から抜き取って、その日についての文章のみを拾い読みしながら、星に関する季節感を味わっていたわけである。

本日6月13日は「冠座」というタイトルで、タイトルどおり冠座についての抱影の想いが語られる。
「四季の星座でこれほどその名にふさわしく、美しい可憐な星座はない」と絶賛するいっぽうで、それゆえに「この七つの星が実は見かけの集まりに過ぎず、おのが向き向きの方向へ動いていて、何万年かの後には散らばって、もう冠の影も留めていないだろうと聞いては、なまじ天文学に深入りしたのを悔まずにはいられない」という複雑な気持ちが語られる。
抱影の想像力の広がりと宇宙の深遠さを感ぜずにはいられない一節だ。

先取りして明日14日は「雨声」というエッセイ。梅雨の雨のなか、渋谷まで用事に出かけたおりに目にしたレインコートから思い出された過去が追憶される。
そしてその彼方には、はるか遠く雨雲の外にある夏の星々が見すえられている。
たんに星の伝説などの薀蓄が語られるだけでなく、時おりこうした現実の生活の情景がさしはさまれ、それでいながら星を記憶の奥底に、あるいは想像力の彼方に瞬かせているような抱影のエッセイは絶品であるとあらためて思う。

いつの日かこの「読前読後」にて、その日にちなんだ抱影の星のエピソードを『星三百六十五夜』から紹介したいと目論んでいたのだが、今回ようやくそれが叶った。きっかけを与えてくださったやましたさんに感謝申し上げたい。

またこれを機会に、品切が目立ってきた抱影の文庫本を一覧表にしたので、ホームページの“品切れ文庫本の世界”をご参照いただきたい。

■2001/06/15 多層的小説

山下洋輔さんの『ドバラダ門』(新潮文庫)を読み終えた。解説の筒井康隆さんが書いているように、本書は「多層的な構造」をもつ小説である。

山下さんが祖父啓次郎の設計した鹿児島刑務所の謎を解明してゆくという意味では推理小説的であり、山下一族や彼らと親交のあった西郷隆盛など維新の功臣たちが突然登場したりして時空を行き交うという意味ではSF小説でもある。
また、鹿児島刑務所の保存運動を克明に記録したという意味では、一級のノンフィクションといってよい。この点については、巻末に著者自身が「本書は大体においてノンフィクションであり」と述べている。しかしこのように著者がわざと記す小説というのも矛盾していて楽しい。

啓次郎の父房親を中心とした薩摩における明治維新期の話、啓次郎を中心とした近代建築学史的叙述はとても興味深い。
啓次郎は慶応三年(1867)生まれ。つまり坪内祐三さんの著書で話題の人物たちとまったくの同年であり、帝大の造家学科(建築学科)では、伊東忠太と同級生だったという。山下家には、啓次郎が碁を打つ場面を描いた伊東忠太の絵が飾られているのだそうだ。
さらに、何と言っても山下家と彼らにつながる縁戚のネットワークの話が無類に面白い。『東京人』連載中の石村博子さんの「東京の名家」で取り上げてもらいたいほど。

先日も書いたように、山下啓次郎は鹿児島刑務所をはじめとしたいわゆる「五大監獄」の設計者なのだが、同郷の薩摩人の邸宅も手がけているらしい。
御殿山の島津邸や樺山資紀邸も山下啓次郎によるものであると書いてあった(しかも藤森さんのお墨付き)。

しかしここで疑問に思ったのは、以前樺山資紀邸はジョサイア・コンドルの設計だと聞いていたこと。白洲正子さんは樺山資紀の孫にあたり、自伝にその邸宅のことも触れられていた。
樺山邸はのちに串田孫一さんのお父さんに売却され、串田さんも一時住んだことがあるという。その串田さんが、この家はコンドルが作ったと書いていたはずなのだ。
どちらが正しいのだろうか。

■2001/06/16 魯庵もすごいが山口昌男もすごい

ようやく山口昌男さんの大著『内田魯庵山脈』(晶文社)を読み終えた。
一月中旬のライブトークでサイン本を購入してすぐに読み始めたわけだから、読み通すのに五ヶ月もかかったことになる。
もっともこれは本書が面白くないということではないのだ。
質・量いずれの面においてもあまりにボリュームがありすぎ、読むのにはかなりの集中力を要したのであり、そうしてゆっくりと読んでいたら、当然ながらあとからあとから読みたい本が出てきてしまってそちらを優先させていたからである。

読んでいた期間が長すぎたために、前のほうはほとんど忘れかけてしまっている。
一つ言えるのは、魯庵を一つの網の目としたヨコの人間関係が知の構築に果たす役割の素晴らしさであろうか。

石神井書林店主内堀弘さん・月の輪書林店主高橋徹さん・なないろ文庫ふしぎ堂店主田村治芳さんと行なったライブトークのときにも話題にのぼったし、本書でも触れられていたが、こうしたヨコの人間関係は、現在のネットによるヨコのつながりのあり方にとても似ている。
ただ現代では、情報伝達が早すぎるほどにできてしまうので、つながっては切れ、切れてはつながるといったごとく、つながり方の強度が弱いといえようか。しかし弱いとはいえ、こうしたつながりは大切にしたい。

以下偶感を箇条書き的に羅列する。

○ICUにある松浦武四郎の「一畳敷書斎」にはやはり行ってみたい。
○魯庵の『バクダン』や『獏の舌』といったエッセイ集を何とか講談社文芸文庫やちくま学芸文庫などに入れてくれないだろうか。
○日本中世史学の大家I先生は高校生のときから柳田國男の所に出入りしており、民俗学的な論文を書いていた。やはり「大家」と呼ばれるような人は青年時代からすごいのだ。
○戦後、山口さんは私の職場内にあるT大国史研究室から、自由に持ち帰ってよいと放置されていた雑誌『民族』を持ち帰った。ほかにも平泉澄に対する献辞和歌が入った折口信夫の『古代研究』もあって、これを持ち帰らなかったことを悔やんでいる。たしかに。

■2001/06/17 ポルノグラフィの鉄人

鹿島茂さんの性愛をめぐるテーマについての対話集『オン・セックス』(飛鳥新社)を読み終えた。「対話集」と銘打って、座談・鼎談・対談・インタビューなどが集められている。

一言、面白すぎる。
丸谷才一・山内昌之・張競・氏家幹人・伴田良輔・佐伯順子各氏との間で洋の東西を問わない性愛の世界史に関する薀蓄の披露合戦を演じたと思えば、フェミニストの女性たちと現代の開かれた女性の性について議論をたたかわせる。
さらに作家の睦月影郎氏と変態性欲について嬉々として語り、団鬼六氏とSM論で渡りあう。
きわめつけは性科学者山村不二雄氏と交わした実践的な性交論。
いったいこの人の該博なる知識はどうやって身についたのかと思うほど。こういう人が共立女子大教授でいいのだろうか。いや、陰鬱にセクハラに逃げるのではなく、こういうからっと明るく性を論じられる人こそ、女子大の先生にふさわしいのかもしれない。

打ち続いてやまない性愛の話に、最後のほうはさすがに食傷気味になった。
収められている対話のなかで鹿島さんがもっとも劣勢なのは、女性フェミニストたる評論家や作家四人を相手にした座談会だろう。さすがの鹿島さんもたじたじである。
しかしそこで蒙った傷口を舐めあって慰めあうような最後の山田陽一さんによるインタビューで本書が終わるという筋書きはなんとも微笑ましい。

個人的にもっとも面白かったのは、第1部に収録された「世界史」シリーズである。
和洋中というまるで「料理の鉄人」さながらの「ポルノグラフィの鉄人」たちによって、古今東西の性をめぐるエピソードが縦横無尽に語り尽くされる。連想が連想を呼び、とどまるところを知らない。
ちなみに和とは氏家幹人・佐伯順子、洋とは鹿島さんに丸谷・山内両氏、中は張競氏のこと。
とりわけ張競さんによって披露される中国のエピソードは、よく聞くような豪傑や極悪人の話にとどまらず、中国の留学生に日本のAVを見せたら…といった日中比較文化史的な広がりを持っており、知的興味をかきたてられる。

楽しいエピソードに事欠かない本であったが、なかでもなるほどと感じたのは、SMは神への冒涜という色合いゆえにキリスト教国特有の性愛であるという指摘。
キリスト教のない国でSMが存在するのは日本だけではないかという。

また、『源氏物語』が書かれた背景をめぐる張競さんの切り口も鋭い。
当時大内裏で生産された紙は2万枚。源氏は400字詰1800枚相当。当時の一枚の紙にはせいぜい200字書くのが限度だから、源氏を書くのに少なくとも3600枚の紙を使用したことになる。下書きや書き損じを含めるとさらに厖大な紙の消費になるのだが、紙が貴重品だった当時、なぜこうした紙の消費が許されたのかというのだ。
鋭すぎる。

梅毒をめぐる話はさらにすごい。そのまま原文を引用したい。

山内昌之:梅毒がフランスに初めて広まったのは、十五世紀の末でしたか、シャルル八世のイタリア戦役でしょう。あれは面白いね。フランスでは梅毒を「イタリア病」と言った。するとイタリア人は「冗談じゃない」と、「フランス病」と呼ぶ。つまり、梅毒をうつらせた隣の国の名前を付けるんですね。ロシアでは梅毒を「ポーランド病」と言うし、ポーランドでは「ドイツ病」と呼ぶ。そしてドイツでは「フランス病」(笑)。日本はと言うと、二つのルートから来てるから「ポルトガル病」と「唐瘡」。
丸谷才一:ゼノフォビア(外国嫌い)的な表現があるわけですね。
張競:それは「性」に限りませんね。南京虫みたいなもので。
鹿島茂:ダッチ・ワイフもある。
丸谷:飛行機が揺れるのをダッチ・ロールと言うのも一緒ですか。
鹿島:そうでしょうね。たぶん、もともとは船の言葉だと思います。飛行機については、ほとんど航海用語がそのまま転用されていますからね。オランダとイギリスがもっとも敵対していた時代の言葉じゃないですか。
丸谷:やっぱりゼノフォビアですね。

梅毒の話だけでも興味深いのに、そこからゼノフォビアとして南京虫やダッチワイフ、ダッチロールへと話が波及する。
座談の魅力ここにあり、である。

■2001/06/18 星は目薬

東京は夜も明るいし空は狭い。学生時代の頃のように夜に出歩いてそのおりに星空を眺める機会が減った。
そうした条件と、大人になるのと引き換えに、子供の頃に蓄えた星座や神話の知識を失ってしまったこともあって、星に関する知識は格段に乏しいものになってしまった。
いまや夜空にはっきりと意識できるのは、オリオン座と北斗七星くらいなのではあるまいか。

相対的にいえば、昔に比べて現在、田舎に比べて都会では、星をはっきりと見ることができなくなったといえよう。山形・仙台・東京と馬齢を重ねるにつれて大きい街に住むことになった私にとって、これは実感せざるをえない現象である。
もっとも私がいま住んでいる場所は東京(二十三区)のなかでも夜は比較的明るくない地域に属するだろうから、まだ幸せなのかもしれない。夜空に星が輝いているのを見ると、得した気分になるのである。
ただ得した気分になること自体、星空が当たり前ではなくなっているともいえ、いっぽうで悲しくもあるのである。

よく「空には満天の星」という表現を使うことがあるけれど、本当に「満天の星」をこの目にしたときは、言葉にできないような感動があるものである。
仙台に住んでいた頃、何十年に一度という流星群が到来するということがあった。あれはペルセウス座流星群だったろうか。

この機会を逃すまいと、当時住んでいた家から比較的近かった仙台市北部の泉ヶ岳という山に妻と車で向かった。
季節は夏。泉ヶ岳は冬はスキー場で賑わう山なのだが、このスキー場あたりだとよく見えるのではないかと算段していたのである。泉ヶ岳に向かう途中麓の道路を走っているときにも、すでに空にはたくさんの星が散らばり、山の上で見る星空の素晴らしさが想像できるのであった。

スキー場の駐車場に着いてみると、私たちと同じような考え方を持っていた人がすでにたくさんいた。まるで花火大会を見にきたような人の集まり方であった。
はやる心を抑えて車を停め、外に出て空を見上げる。すると、夜空にはこんなに星があったのかと思うほど空一面に星が群れているのである。
仙台の街中でも星は見えないわけではないのだが、まるで別世界に来たかのようにたくさんの星が瞬いている。

流星群自体は期待したほどの数ではなかったけれど、それでも数分に一度は星が夜空を駆け抜けていくのを確認することができた。それらの流れ星にどれくらいのお願いを託しただろう。
流星群を見ることができた嬉しさと、それ以上に夜空にはこんなにも多くの星が瞬いているのだという「発見」が私を興奮させた。帰り道の車では、首の後ろが痛かった。

「星の翁」野尻抱影が星に興味を抱くきっかけのひとつとして獅子座流星群があったらしい。抱影が生きていた時代は、東京の街中でも私が泉ヶ岳で見たような満天の星空を見ることができたに違いない。

さて彼に「浜に生まれて」という晩年に書かれた連作エッセイがある。「浜」とは横浜のこと。生まれ育った明治の横浜から大正・昭和を経て世田谷に移り住むまでの様々な思い出をつづった小品である。
このなかに「桜新町」という抱影の終の棲家となった世田谷の住まい周辺の夜空を記した小文が含まれている。
抱影はこのなかで、戦前に比べて夜空の星の数が減ったことを嘆き、大正の初めころの、空に「降りかぶるような」星々を追憶している。

しかしながらたんに星が見えなくなったことを嘆いているばかりではない。その状況下にある自らの処し方を語る一文が、結晶のように澄んでいて美しいのである。

ただ、東京とその周辺の星がだんだん影が薄くなるのはぜひもない。わたしは昼間でも目をつぶれば星空が見えるのだが、近ごろはプラネタリウムの星になるので少し困っている。だから、ときどき山国まで出かけて、そこの星で目を洗ってくる。

最後のフレーズを目にした瞬間、私の脳裏に泉ヶ岳で見た満天の星がよみがえってきたのであった。
「星で目を洗う」。なんて美しい表現なのだろうか。

■2001/06/20 明治版ちょっといい話

もともとそのような傾向がないわけではなかったが、最近とみに明治・大正期を対象にした読物を読む機会が増えたような気がする。
これはもちろん偶然ではなく、ある本を読んでいたら次にそれと関連した本を読みたくなるという必然的なつながりによるところが大きい。

六月に入ってからの経過でいえば、『江戸奇人伝』『大正百話』『キリスト教と日本人』『ドバラダ門』『明治西洋料理起源』(これは中断)『内田魯庵山脈』と来て、現在坪内祐三さんの『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(マガジンハウス)を読書中である。

さらにこのほど、電車で読んでいた鶯亭金升の『明治のおもかげ』(岩波文庫)を読み終えた。
標題に掲げたように、役者や噺家の芸談、笑話、洒落、奇人伝などの短章がたくさん詰め込まれた「ちょっといい話」の明治大正版といった趣である。
いや、そう言ってしまうと著者の鶯亭金升に失礼にあたるだろう。むしろ戸板さんが「ちょっといい話」を書くにあたって、この本を頭の隅にちょっとだけ置いていたのではないかという想像をめぐらせたくなる。

著者の鶯亭金升は慶応四年(1868 おお!)下総船橋の産にして江戸は根岸育ち。諷刺的な記事で知られる『団々珍聞』の記者を長く勤め、落語作者としても知られる。

昭和16年に銀座で撮影された写真(本書290頁収録)を見ると、まさに「明治の頑固爺」という風情である。いかにも恐そうだ。長谷川伸は金升を「早くいうと江戸のサムライの見本みたいなところがあり、口跡は山の手でなく下町でなく、どちらにも偏向しない東京弁で今はああした口のきき方をする人は絶無になったかも知れない」と評する。

この人でなければ、あるいは、この時代の人以後には書くことができないだろうというものに、蜀山人の狂歌に込められた洒落を読み解く一文がある(「蜀山人」)。
「天龍や車軸の雨の降る時は/船頭ら馬子ら共に迷惑」という狂歌の意味がわからなかったところ、お経を聴いていたら、そのお経の音を洒落に仕立てたことに気づくというものだ。

本書は江戸の人、明治の人の生活を書きとどめた貴重な文献である。

■2001/06/21 「先行発売」の謎

坪内祐三さんの編集にかかる筑摩書房の『明治の文学』シリーズは、手もとにある巻(内田魯庵集・樋口一葉集・森鴎外集)の奥付を見ると、毎月15日か20日の日付になっている。
もちろん奥付の日付どおりに書物が刊行されるというのは「幻想」だろうから、だいたい下旬に発売されると考えてよい。

先月5月24日条に、「本好きゆえのストレス」と題してこんなことを書いた。

サイト(千駄木の古書ほうろうの…後註)中の日記には、23日に現在刊行中の筑摩書房『明治の文学』の田山花袋集を店に出したとあった。売価は1600円。編集は小谷野敦さん。一番最近に立ち寄った新刊書店で、この花袋集は見かけていない。つまり、ほとんど新刊同様の本をすでに入荷しているのである。

また、一昨日、やはり同様に同店にて今月刊行の泉鏡花集を見つけた。
花袋集と同じく新刊書店(大学生協書籍部)では見かけていなかったので、これまた驚いた。

昨日、所用で神保町に出たついでに、大書店三省堂に立ち寄ったところ、平台には花袋集が積まれていた。すでに古書店に鏡花集があるのに、大書店がこれではおかしいではないか。
首をひねりながら靖国通りを西に歩き、新刊本を一割引程度で売っている「日本特価書籍」に入ったところ、ここでも鏡花集が一割引で並んでいたのを発見したのである。

つまり、新刊書店(大学生協書籍部・三省堂)にはまだ並んでいないものが、新刊書店でない書店(古書ほうろう・日本特価書籍)で売っているのである。
不思議というほかない。
むろん買う立場のわたしたちにとっては、安くて新刊同様の状態であれば文句はないのだが、本好きとしてはこの「謎」はとても気になる。

あるいはこんな「謎」は、業界の人にとってはよくあること、当たり前のことなのかもしれない。
もしこの裏話をご存知の方がいれば、ぜひ教えていただきたい。

■2001/06/22 文庫解説輪舞

ある著述家の文章に言及されている他の著述家の文章を読みたくなるとか、好きな著述家が書評をしている本を読みたくなるなどの経験は、本読みとしてはごくごく当たり前の世界の広がり方だろう。
こうした連鎖によって、これまで意識すらしていなかった著述家の作品が自分好みだということを知ったとき、頭の中で世界がサァーッと広がってゆく至上の瞬間である。
本読みとしては無類の喜びに満ちあふれる一瞬。

ところで昨日、このような連鎖で好きになっていった著述家たちが、同じ日に古本で購入した文庫の解説を通じてつながったという稀有な(?)体験を味わった。

鹿島茂さんの『オン・セックス』のサイン本を見つけて悔しがった後、古本で購入した文庫2冊、山口瞳さんの『酔いどれ紀行』(新潮)と丸谷才一・山崎正和さんの対談『二十世紀を読む』(中公)がある。
買ったときにもまったく気づかなかったのだが、山口本の解説は丸谷さん、丸谷山崎本の解説は鹿島さん。ここで三者の円環がめでたくつながって感動した。輪舞(ロンド)である。

ひとつここである趣向を思いついた。このような「解説つながり」を自分の蔵書でやれないか、というもの。
上の2冊を皮切りに、解説に登場した人物の著作を書棚から抜き取り、さらにそのまた解説者の著作を探そうと言うもの。さて、それではやってみよう。

(1) 山口瞳『酔いどれ紀行』(新潮) → 丸谷才一
(2) 丸谷才一・山崎正和『二十世紀を読む』(中公) → 鹿島茂
(3) 鹿島茂『パリの王様たち』(文春) → 中野翠
(4) 中野翠『ムテッポー文学館』(文春) → 鹿島茂(うっ、また戻った)
(5) 鹿島茂『この人からはじまる』(小学館) → 猪瀬直樹
(6) 猪瀬直樹『土地の神話』(新潮) → 泉麻人
(7) 泉麻人『東京自転車日記』(新潮) → 陣内秀信
(8) 陣内秀信『東京の空間人類学』(ちくま学芸) → 川本三郎
(9) 川本三郎『大正幻影』(ちくま) → 坪内祐三
(10) 坪内祐三 …

意外や意外。衝撃的な結末である。まさか坪内さんで途切れるとは。
まだ文庫化作品がないから仕方がない。来月新潮文庫に『靖国』が入るそうなので、その解説に期待することにしよう。

■2001/06/23 偶像破壊の試み

『内田魯庵山脈』読了後、間をおかずに取りかかっていた坪内祐三さんの大著『慶応三年七人の旋毛曲り』(マガジンハウス)を読み終えた。
読み始めたのは15日からだから、一週間あまり。間に鹿島茂さんの『オン・セックス』も挟んでいるから、実際はかなりのハイ・ペースで読み進んだことになる。

これは、モシキさんという、同時期に同じ筋道をたどって本書に到達した仲間の存在が大きかったが、それに加えて、本書のもつドライブ感も無視するわけにはいかないだろう。

本書は慶応三年(1867)生まれ、要するに明治の年数と年齢がまったく同じになる七人(夏目漱石・宮武外骨・南方熊楠・幸田露伴・正岡子規・尾崎紅葉・斎藤緑雨)の「若き日」を激動の時代背景も視野に含めながら描いた力作評伝である。
いま「若き日」とわざわざカギカッコでくくったのには理由がある。この550頁にのぼる大著、明治27年(1894)、つまり彼らが27歳のところで唐突に終わっているからなのだ。

「あとがき」で坪内さんは、その理由をこう説明する。

私は飽きてしまったのである。

たしかにそれぞれ一人の評伝を書くのですらかなりの労力を必要とするだろう「旋毛曲り」たちを、同時並行的に、しかもそれが単に平行線をたどるのではなく、どこかでつながりあっていることを探りながら書き進めるのが目的なのだから。
「飽きてしまった」というわりに、最後のページに至るまで読者をひっぱり続ける牽引力は変わらず保ち続けており、もうちょっといけたのじゃないかと思ってしまうほど。

私は1967年生まれ、つまり「旋毛曲り」たちからちょうど百年後に生まれた。この意味で、まるで同年生まれのような親しみをおぼえてしまう。
彼らが19世紀から20世紀にさしかかるときに迎えた「世紀末」と同じ年齢で、一世紀後の「世紀末」を迎えたことに、妙なリアリティを感じてしまうのだ。

実はこの百年の差というのは、ある人にとっては、単純に百年離れているということだけでは済ますことのできないものであるらしい。

たとえば坪内さんは本書のなかで、彼らの生まれた1867年に起きた社会的現象である「ええじゃないか」運動を、そのちょうど百年後の1967年における学生運動(全共闘運動)にオーバーラップさせている。
また別の箇所では、1890年代初頭の日本には、1990年代初頭でのいわゆる「バブル経済」と似たような経済現象が起きていたという。

前者の連想について坪内さんは、「こういう連想はきわめて安易で、専門家からは馬鹿にされそうだが」と予防線を張っているが、あながちこうした連想は的外れではないのだろうと思う。なぜなら、まったく別の人も同様の発言をしているからなのだ。

その人とは山下洋輔さん。
先日読み終えた『ドバラダ門』で、明治維新期の政治情勢と、百年後の日本における政治情勢を、自らの祖先の行動と自分の履歴を重ね合わせながら「妄想的アナロジー」を湧き立たせているのであった。
明治維新期と現代それぞれに対する深い洞察なくしては、この百年を隔てた二つの時代をアナロジカルに結びつけることはできないだろうから、あらためて二人に敬意を表したくなる。

さて本書は、著者の意図か意図せざるものかはわからないが、標題に掲げたように「偶像破壊」、これまで持っていた彼らに対するイメージを打ち壊す効果を、少なくとも私にはもたらした。

反骨・反権力のジャーナリストとして知られる宮武外骨。
私はそのような外骨の姿勢がとても好きなのだが、坪内さんはたんに外骨は反権力を標榜していたわけではないことを見抜いている。
禁錮三年の刑を受けた『頓智協会雑誌』での有名な筆禍事件について、外骨の「政府や官吏を攻撃した記事は一つも」載せたことがないという言を紹介したうえで、「実は、穏健な、つまりきわめてまっとうな思想の持ち主だった」とし、そこにひどく惹かれると告白する。

さらに露伴。
露伴といえば漢語を縦横に駆使した白髯の「文人」、「翁」という尊称をつけて呼ばれるにふさわしい文豪というイメージでしかなかった。しかし、本書に描かれた若き日の露伴のとてつもないエネルギッシュな行動を見ると、あらためてその目で露伴を読み直そうという気が起きてくる。実際いま『一国の首都』を読んでいるのだが、何とこの本は明治32年、つまり露伴32歳の時の作なのだという。

言われてみると、鴎外観潮楼の庭で写された鴎外・露伴・緑雨の「三人冗語」の写真における露伴を思いだす。

いま出てきた緑雨もしかり。
狷介にして毒舌なる批評家というイメージで凝り固まっていたけれど、実際は遊郭などでは常にハンカチを口にあてて恥じらいを見せて突出しないスマートな人間であるという。

尾崎紅葉も、硯友社を率いて弟子を大勢抱えた文壇の権力者というイメージがある。
この場合は実際そうなのだが、年齢でいうと弱冠二十代前半なのである。何たる早熟さ。まあこれは本書で取り上げられた七人全員にいえるだろうが。

紅葉の早熟とは逆に、本書で描かれる明治27年の時点においては、現在もっとも読まれている漱石はようやく東京帝国大学を卒業し、史上二人目の英文学士として高等師範学校で教鞭をとっている一教師にすぎない。
親友たる子規も、ようやく俳句をわが道とすることに決めたばかりで、俳句革新運動の先駆者としての顔はまだ見せていない。
同年の七人を、等質な時間の流れのなかにおいて眺めると、そのような意外性も浮かび上がってくるわけである。

残る一人、南方熊楠は、大学予備門からそのまま海外に留学してしまい、本書が終わる明治27年時点ではロンドン滞在中のまま。それゆえ他の六人との関わりという視点で捉えられることがあまりなく、彼の海外でのエピソードが断片的に取り上げられるにとどまっている。
漱石・子規同様「これからの人」なのである。

坪内さんの叙述の巧みさ(含みを持たせて章を終える、あたかも新聞小説のような書き方)と対象同士の結びつきの意外性によって、最後まで読ませる作品であった。
もちろん本書を読んで、この七人にあらためて興味を持ったことは、いうまでもない。
露伴の『一国の首都』を読み始め、長らく書棚に眠っていた岩波の『露伴随筆』を取り出した。また、子規の『病床六尺』のような随筆集や句集を手にとった。段ボール箱のなかに眠ったままだと思われる緑雨の小説(岩波文庫)を発掘したいと思っているし、今までほとんど興味を持っていなかった紅葉にもちょっとばかり心が動いている。
今年のベスト10に入るかもしれない一冊である。

■2001/06/25 幻想性と実証性のあわい

世に「伝記小説」あるいは「評伝小説」というジャンルが存在する(本当にあるのかどうか自信はないけれど、あるということにしておく)。
評伝のごとき客観的叙述のスタイルを避け、ある人物の一生、もしくは特定の期間について小説的手法で叙述した作品のことである。当然「小説」だから、話のなかにフィクショナルな要素が含まれていることは念頭に置いて読まなければならないが、「評伝」という意味ではまったくの架空の話にするわけにもいかないだろう。難しい手法だ。

このほど読み終えた岩田準子さんの『二青年図―乱歩と岩田準一』(新潮社)はまさにこのジャンルに属する作品であると言ってよい。

内容は、サブタイトルのとおり、江戸川乱歩(平井太郎)と、その三重県鳥羽時代からの友人であり、男色関係文献での協力者であった岩田準一との「同性愛」の側面に光をあてた小説である。
この小説のなかで描写された二人の関係がもし真実だとすれば、乱歩の人物像にある種の衝撃を与えることになるだろう。しかも著者が岩田準一のご令孫にあたるとなれば、なお説得力を増すことになる。

もっとも、ここに書かれた内容をストレートに事実と見なすのはあまりに軽率である。
小説は岩田準一(僕)の一人称小説として展開する。
準一が竹久夢二門下の若手画家として売り出そうとしていた時期から、探偵小説作家になる前の乱歩との出会い、乱歩が探偵小説作家として爆発的な人気を博し、いっぽうで準一は夢二門下を抜け、男色文献を収集する地域の民俗学者として独自の活動を行なう壮年時代を経て、準一が東京の澁澤敬三邸で吐血して急死するまでを描いている。

その間、たんに二人の軌跡をたどるのではなく、あたかも本書がたんなる評伝小説と見なされることを拒否するかのように、頻繁に夢や幻のシーンがさしはさまれる。いわば一種の「幻想小説」仕立てともなっているのだ。
したがって、本書における乱歩と準一の交友も、幻想味を加えてよりショッキングに描き出したと言えなくもないのである。

個人的には、最近幻想性に高い価値を置かなくなってきたこともあり、また評伝としては鴎外の『澁江抽齋』のような極限まで刈り込んだ実証的作品に嗜好がスライドしていることもあって、本作品にときおり挿入される夢の場面はうるさく感じられた。
しかし、乱歩幻想のファンであれば、この程度では逆に物足りなさを感じるかもしれない。

幻想小説としてではなく、評伝小説としての側面を抽出すれば、岩田準一が学生時代に小津安二郎や梶井基次郎と交友があったという話(もっとも事実なのかは不明。おそらく事実なのだろう)は興味深かった。
反面物足りなさを感じたのは、準一と南方熊楠との交友に触れた部分。読む前には、ひそかにこの二人の学問的関係について触れられていないか期待していたのだが、主題が乱歩と岩田準一だから、当然深く掘り下げられたものではなかった。
ここに熊楠という要素を入れれば、「男色」をモチーフにした三人の人間の関わりという魅惑的なテーマが浮かび上がると思うのだが。

さて、タイトルの「二青年図」だが、これは乱歩と岩田準一の二人を暗示している。と同時に、乱歩ファンではおなじみの、乱歩邸に飾られた村山槐多の絵を想起させる。
私はすっかりこのタイトルが槐多の絵のタイトルと同じであると思い込んでいたけれども、槐多の絵のタイトルは、本作品にもあるように「二少年図」であった。

この「二少年図」が乱歩の手に渡る契機もまた、たいへんに興味深い(事実であったらなおさら)。
だがここまで書いてしまうと本作品を読む楽しみを減じさせてしまうので、興味がある方はご自分で読んでいただきたいと思う。

■2001/06/26 馬主の条件

ひところ『ダービー・スタリオン』(ダビスタ)という競走馬育成ゲームに夢中になっていた。夢中になっていた当時は、昼も夜も家にこもりっきりでひたすら画面を見つめながら、配合を考え、馬を調教し、レースに出馬させてはG1獲りを狙っていた。

ゲームをとおして分かったのは、当たり前のようだが、競走馬を育てるのには巨額の資金が必要であるということだ。ましてや一流の名馬を育て上げるためには、それなりの投資を覚悟しなければならない。
むろんその結果として一流馬が育ったあかつきには、現在最強の競走馬であるテイエムオペラオーの馬主さんのように、長者番付に名前が載ることも夢ではない。

かなりの金持ちでないと馬主になれないという話がある。だから、「金持ち」ではない人間は、法人馬主(たとえば社台レースホース)にいくばくかのお金を投入し、共同で馬を持つという制度にたよるほかない。いわゆる「一口馬主」である。

そのなか、このほどJRAは、法人を通さずに馬を共有できる「組合馬主」という制度を立ち上げることを発表したという。法人を通しての一口馬主と異なるのは、所有馬が優勝した場合、表彰式にも参加できることなのだそうだ。もとより、賞金などの実入りも、中間搾取がない分大きいに違いない。でないとうまみがなかろうから。

ただ問題なのは、この馬主になることができる条件。
新聞記事には「一定の条件を満たせば一般のサラリーマンなども馬主になれる」と謳っているけれども、「一般のサラリーマン」に属する私は、この条件ですらとても馬主にはなることができない。「組合が最低1000万円以上の定期預金を持ち、各組合員の年間所得が1000万円以上(競走馬生産者は750万円以上)あること」なのである。

それでは一般の個人馬主の条件はどうなっているのか。
新聞記事によれば、「年間所得が2年連続で2000万円以上あり、非居住資産が1億4000万円以上」だという。絶句。なるほど組合馬主の制度によって、馬主になれる条件は大幅に緩和されたのだろうが、レベルが高すぎる。

ドラマ「やまとなでしこ」で、松嶋菜々子がJRAの馬主を射止めることを究極の目標としていたが、この条件を見せられると、それが現実味を帯びてくるのであった。

■2001/06/27 そして王子駅へ

芥川賞という文学賞をとるような作品には、あまり興味を示したことはない。
最近の受賞者・受賞作を見渡してみても、興味をそそられたのは平野啓一郎さんの「日蝕」(98年下期)があるが、読んではいない。
そこからさらに遡ってみても、読んだことがあるのは52年下期の松本清張「或る「小倉日記」伝」を挙げうる程度。ひどい話である。

そんな私であるが、昨年下期の受賞者の一人堀江敏幸さんには心惹かれるものがある。
敬愛する鹿島茂さんから小説執筆を勧められたというエピソードや、ネットを通じて知り合った書友の皆さんがほぼ例外なく賛辞を贈っているのを見ても、私にとって堀江さんは、これまでの芥川賞作家とは一味違うものを感じさせてくれるのである。

先日初めて読んだ堀江本が、初のエッセイ集たる『回送電車』(中央公論新社)であり、一読して完全に堀江ファンになった顛末は6/2条に記したとおりである。
そして待ちに待った受賞後最初の単行本であり、著者初の長編である『いつか王子駅で』(新潮社)が刊行されたので、これまた買ってすぐに読みはじめ、あまりの面白さに瞬く間に読み終えてしまった。
ここでは、入手するまでの苦労(および憤慨)は書くまい。芥川賞受賞後最初の単行本であるにもかかわらず、売られ方が地味すぎるということだけ、声高に叫んでおこう。

さて本作品は、堀江さんがかつてお住まいになっていたらしい都電荒川線沿線の町(王子よりも東側とみられる)を舞台に、堀江さんご自身がモデルに違いない大学の非常勤講師の「私」を主人公に、その町で生活する人々との交流や日常のちょっとした出来事をつづった小説である。

この作品の素晴らしさの第一は、絶妙な小道具の使い方と、そこからにじみ出るリアリティにある。
抜き書きした単語を羅列すると、都電は申すまでもなく、古米・カレー・ネスカフェ・バスの後輪のうえの一段高い席・黒電話・靴下のワンポイントマークなどなど。
ある部分では抽象的でありながらも、突如としてこれらの小道具が作品のなかに投げ出され、リアリティが立ち上ってくる。そもそも本書のタイトルに「王子駅」という、メジャーともマイナーともいいがたい、しかし妙に都市東京好きの心をくすぐるようなトポスを編み込むことが、そのリアリティの最たる点かもしれない。

第二に、文章のリズム感。
『回送電車』はエッセイ集であり、また堀江本を初めて読むということもあって、書かれてある内容に気をとられてしまい、文章を玩味する境地までは達していなかった。
今回は余裕をもって堀江本と対峙できたせいか、堀江さんの文体のリズム感の良さに酔いしれた。決して短いとはいえないセンテンスの区切り方なのだが、とんとんと頭の中に入ってくるのである。
緊迫感の持たせ方も巧みで、第一章の終わりや本書全体の終わりの部分では、それぞれ十数行にわたって蜿蜒と句点なしで、つまり一つの文が続いていく。
締まりなくだらだらとというものとはまったく逆に、そうしたことを忘れさせるようなサスペンスをかもし出しているのである。

先日堀江さんの自作朗読会というイベントがあったそうだが、詩でもないのに、なぜライブで自作朗読会などを開催するのだろうかと、不思議に思っていた。
ところが今回、本作品を読み、堀江さんの文章には音読に耐えられる、あるいは音読でこそ魅力を発揮するようなリズム感を備えていたことに気づかされて、朗読会という催しに納得したのである。

道路を馬場、雨に濡れた軌道を稍重の鉄路、そして都電の電車を一両編成の黄色い逃げ馬に見立て、早稲田から王子へ至る都電の軌道をF1のサーキットに見立てるといった独特のアナロジカルな感覚は健在で、その鋭敏な感覚に読んでいて鳥肌が立つ。
もともと本作品は隔月誌『書斎の競馬』に連載されただけあって、往時の競馬の風景がところどころに織り込まれ、競馬ファンとしても、堀江さんの新しい一面が発見でき、自らとの嗜好の近似性をうかがうことができて嬉しい。

自分とほとんど同年代(三歳違い)でありながら、老成されたとでもいうべき細やかな人間観察に立脚した清新な小説を書く作家が出現したことを驚き迎えるとともに、まだ作家として出発したばかりのこの作家と同年代という矜持をもちつつ、今後続々と生み出されるであろう作品群とリアルタイムに向かい合うことができる幸せを噛みしめたい。

この、不思議に空間的感覚を呼び起こさせる作品に敬意を表し、仕事帰りに王子駅へと向かった。
さらに王子からは「黄色い逃げ馬」のゆったりとしたマイペースの逃げを味わいながら町屋までの道草を楽しんだのであった。

■2001/06/28 東京を愛するということ

読みたいと思いつつ果たせないでいたが、坪内祐三さんの『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』を読んだことをきっかけに、思い立って書棚から抜き取り読み出した。
幸田露伴『一国の首都』(岩波文庫)である。

明治32年(1899)、露伴32歳のときの書。文語文のうえに至る所に漢語のレトリックがちりばめられているこの大論文は、もとより私のような頭では一度読んだだけでは全てを理解することはできなかろう。

印象に残る露伴の主張は、東京を堕落させたのは都民として都を愛する人がいないからだということ。
江戸っ子は維新後に東京に移り住んだ田舎者たちのせいで堕落したと文句をいう。たしかに新しき都民達は、自分たちの帝都に対する立場を自覚せずに街づくりを行なったのが堕落の一因である。
しかし、江戸っ子にも非があるではないか。昔の江戸っ子たちが江戸をこよなく愛したような、そんな愛情を失っているではないか。
両者に対する露伴の評言は手厳しい。

そのうえで露伴は帝都東京に対してさまざまな提言を行なう。
賭博をして風俗を乱す遊び人たちを准警察官として雇用するという逆療法はユニークだ。また、青山谷中などの墓地がみだりに周囲の市街地を蚕食して広がってゆくのは避けるべきで、拡大するとすれば都心から離れていく方向に拡大すべきという主張は意外である。

このような露伴の主張は、露伴が江戸東京を愛するがゆえのものである。
翻って現代には露伴と同じ信念をもつ識者がどれくらいいるのかどうか、心もとないかぎり。

岩波文庫版『一国の首都』に併載されている「水の東京」は、河川運河堀などの水路にそくして東京を記述した地誌として、たいへん優れた作品である。
この作品を携えて、東京の水辺を歩きたという誘惑に駆られる。

■2001/06/29 彼に届いた葉書

平出隆『葉書でドナルド・エヴァンズに』(作品社)を読み終えた。
感想めいたことは明日にでも書くとして、今日はこの書物の成立過程に関する報告をしておきたい。

本書の初出が『is』だと知って驚いた。さらに驚くのは、1986年(32号)から89年(45号)という、今から十数年前に連載されていたことである。
『is』にこのような連載があったとは気づかなかった。そう思ってマガジンラックに保存されている『is』を見てみると、それも道理、私は50号あたりからしか買っていなかったのである。
ところが幸いなことに、連載期間中の号を一冊、バックナンバーで買っていた。
38号、特集は「お金のドラマトゥルギー」である。種村季弘・高山宏対談に惹かれて、宮城県美術館のミュージアムショップで買い求めたと記憶している。

さっそくワクワクしながら中を見てみると、果たして掲載されていた。
原題は「ドナルド・エヴァンズへの架空の通信」、第7回目である。
横開きの雑誌を90度回転して、上にページをめくるようなスタイルで割り付けされており、一通一通の脇にドナルド・エヴァンズが描いた切手がモノクロながら写しこまれている。

葉書の日付は、1987年8月6日から10月27日まで。奇しくも澁澤龍彦の訃報をドナルドに伝える葉書が最初に配されている。
読み終えたばかりの単行本のなかでも、とりわけここは印象深かったので、奇妙な偶然というほかない。

ところで単行本のあとがきに当たる「ノート」にて平出さんは、ドナルドに宛てて書いた186通のうち、十余年を経て、いくつかの場所から散乱状態で、また部分的な欠損をともなって見つけ出されたと記し、これらを復元して再度日付の順に並べ直して成り立ったのが本書であると報告する。
そして欠落した40通は、「それら失われた葉書こそは、ドナルド・エヴァンズの世界に届いたもの」だろうという。

この欠落し、ドナルドの世界に届いたであろう葉書は、初出で読むことができるのだろうか。
さっそく単行本と初出の『is』をつき合わせてみた。すると、こんな結果が出た。

右は初出、左は単行本。

(1)1987/8/6大船  → 1987/8/6鎌倉
(2)1987/8/6大船  → 1987/8/6鎌倉
(3)1987/8/18東京  → ×
(4)1987/9/7東京  → ×
(5)1987/9/9東京  → ×
(6)1987/10/13東京 → 1987/10/13東京
(7)1987/10/23東京 → 1987/10/23東京
(8)1987/10/27東京 → ×

驚くべきことに、連載第7回で掲載された8通の葉書のうち、半分が「ドナルド・エヴァンズの世界に届いた」とおぼしいのである。
しかも単行本に収録された葉書にも異同があって、本書の成立にあたって著者によりかなりの斧鉞が加えられたことがわかるのだ。

単行本で見ることができない葉書の内容も十分面白く、すべてを紹介したいのだが、ここでは最後の10/27付だけ紹介するにとどめる。
興味のある方は初出にあたっていただけば、まだまだ新しい発見がありそうである。

1987年10月27日
Tokyo
D.E.
 今日、澁澤龍彦『高丘親王航海記』という本がポストに入っていた。死者からの贈り物です。史実を枠にしたこの架空旅行記は、とても幻想的な綺譚にみちている。夢と現、過去と未来、こことここの対蹠点とがめまぐるしく反転するような、まばゆいような物語です。この物語を書いている途中で、澁澤さんは癌を宣告されました。物語の中の親王の死は、それに近づくにつれ、作者の死と重なっていきます。死の旅行記でもあるのです。
 本の見返しには地図が印刷されています。そこには盤盤とか驃とかアラカンとかといった、九世紀東南アジアの変てこな国の名がたくさん書かれています。この物語を読み、この地図を見れば、きみはきっと、それがたとえ切手という制度がない時代であっても、それらの国々に切手を発行させたくなることだろう、と思います。
 ところで、この前は言わなかったけど、六年前に亡くなったきみのお父さんも、同じく喉の癌だったのです。

■2001/06/30 架空の王国

ドナルド・エヴァンズ、アメリカ人画家。画家人生のなかで、42か国の架空の国を創りだし、そこから発行される架空の切手を実に4000枚以上も描き続けた。31歳のとき、住んでいたアムステルダムにて、友人宅の火事に巻き込まれ、死亡した。

『葉書でドナルド・エヴァンズに』(作品社)は、日本で開催された彼の展覧会に魅せられた詩人平出隆さんが、彼の足跡を追う旅を続けながら、その先々で彼に宛てて書きためた葉書の集成というスタイルをとる。
そのスタイルといい、ドナルド・エヴァンズに対する情熱的ともいえる平出さんの追慕が伝わってくる内容といい、読んでいて心が澄んでくるような気分にさせる一書であった。

加えて、本書に寄せて執筆された平出さんの「友愛の可憐な魔法」(『芸術新潮』2001年7月号)を読み、そこにカラーで掲載された美しい架空の切手の数々を見るにつけ、この画家は子供の頃の夢想を大人になってからも保ちつづけ、そのまま芸術に昇華させることに成功したのだなあと思わずにはおれない。

子供のころ、誰でも一度は自分の架空の王国を夢想したことがあるだろう。
私もひところ、方眼紙のうえに様々な形の島を描き、山を築き川を穿ち、都市を建設して行政区画を切り、それらの間に鉄道も通すなど、架空の島国づくりに熱中していたことがある。

子供たちが自らの「架空の王国」をつくるということで思い起こされるのは、谷崎潤一郎の短篇「小さな王国」(中公文庫『潤一郎ラビリンス5 少年の王国』所収)である。
ここに登場する子供たちは、擬似的な官僚組織を形づくり、驚くべきことに紙幣まで発行して仲間との間で所有物を交換する。

ことほどさように、「架空の王国」をつくる営為は、地図や人的組織、紙幣といったある種の現実的な制度を模倣し、無の地平に「秩序」を刻み込むということにほかならない。
この意味で、ドナルド・エヴァンズの切手による「架空の王国」づくりも、制度の模倣による秩序形成という営為に似ている。

彼の「架空の王国」が見事な芸術に昇華したのは、切手のシリーズ化やスタンプなどのリアリティと、そこに描きこまれた図柄から立ちのぼる王国の空間的広がりにある。平出さんのこの本は、画家のこのような世界を見事に要約しているといえよう。