読前読後2001年5月


■2001/05/01 寺山修司の訛

昨日も触れた山口瞳さんによる寺山修司追悼エッセイ「寺山修司」(新潮文庫『男性自身 木槿の花』所収)には、寺山の訛についてのエピソードも紹介されている。
言うまでもなく寺山は青森三沢出身。VTRなどで彼の肉声をきくと、東北出身の私にとってたいへん親しみ深いイントネーションで耳に心地よい。

最後に山口さんが寺山と会ったのが東京競馬場ゴンドラ席。ジャパンカップの当日であった。
その場で山口さんは寺山に最終レースの勝馬予想を話す。

すると、寺山は、すかさず、
「その根拠は?」
と切り返してきた。そのがショノになり、根拠は? が尻っ挑ねする例のひどい東北訛りだった。
(太字部分は原文は傍点)

また、大橋巨泉の巨泉は俳号であって、彼が早稲田大学の俳句部に入り、その句会でのエピソード。
巨泉と寺山は同時期に早稲田の俳句部に在籍していたようである。

(…)句会があって披講されると、うしろのほうから、
「スーズ」
という低い音がする。
「目つむりゐても吾を統ぶ五月の鷹」
「スーズ」
「秋の噴水かのソネットをな忘れそ」
「スーズ」
という具合だったそうだ。それが寺山修司だった。あの自負の権化である巨泉が、俳句だけは寺山に叶わないと白状したことがある。

このエピソードで寺山が発する「スーズ」というのが何のことなのかわからないでいた。
ところがいま口に出してみたら、これはきっと「修司」のことなのだろうということに気づいた。この句が寺山の作であることがわかれば確実だ。

寺山の訛についてもう一つ思い出したのは、戸板康二さんとのエピソードである。杉山正樹『寺山修司・遊戯の人』(新潮社)に紹介されていたもの。
戸板・寺山の初対面のおり、戸板さんから「あなたは津軽? それとも南部?」と訊かれて、それが上京以来めったに問われたことのない質問だったので寺山が面食らったという。

戸板さんは祖父母が仙台生まれで、継母が弘前生まれだから、青森訛を懐かしんで訊いたにすぎなかったのだが、三沢(南部)・青森(津軽)双方で暮らした経験のある寺山は、両者の間の訛のギャップのために少年時代いじめにあった経験を思い出し、戸惑ったらしい。

群を抜いて優れた言葉の使い手であり、さまざまなメディアでその才能を発揮した時代の寵児でありながら、終生青森訛を捨てなかった寺山ならばこそ、このようなエピソードが残ったといえようか。

■2001/05/02 神保町水道橋哀話

【第1話】

いよいよ眼鏡を新しくあつらえようと、神保町の三鈴堂眼鏡店へ。

地下鉄淡路町駅の出口を出ると、目の前にはリサイクル書店「BOOK MARKET」が。ちょっとだけと自分に言い聞かせて入る。
山口瞳『同行百歳』(講談社文庫)を見つける。これまで一度も目にしたことがない本なので、どうせだからと購入。150円。

そのまま靖国通を北へ。三省堂書店あたりになると、古本屋がぼちぼち目に入るようになる。店頭本だけと自分に言い聞かせて見て回る。

村山書店の店頭本は、均一額ではないけれど、岩波・中公・講談社学術など、普通の古本屋では高めに値付けしている文庫本がかなり安く、かつ大量に並んでいる。
そこで思わぬ掘出し物。

森銑三『史伝閑歩』/戸板康二『折口信夫坐談』/大岡昇平『堺港攘夷始末』の三冊。いずれも中公文庫。三冊で750円。安すぎる。
とりわけ『折口信夫坐談』は、この本で戸板さんの文庫本が全部揃うということで、前々から気になっていたもの。それが100円なのである。幸せな気分。

神保町に行くとこのところいつも立ち寄っている共栄堂でカレーを食す。頭の毛穴から汗がしたたりおちる。
ここのカレーは新陳代謝の効果も絶大、しかも毛穴の掃除になって抜け毛対策にもなるのではないかと思う。ここでも幸せ。

えっ。眼鏡はどうしたかって?
いやあ、ゴールデンウィーク中は休みでした。
私はいったい何をしに神保町に行っているんだろう。

【第2話】

まあともかく、本とカレーで気持ちがすこぶるよろしいので、歩くことにする。
水道橋に出ると目に飛び込んでくるのは、丹下健三氏近来の傑作(と一応言っておこう)東京ドームホテルである。
首を上45度に向け口をあんぐり開けたまま同ホテルの威容を仰ぎたてまつる。

昨夜の出来事を思い出した。

昨夜の巨人×中日戦は、巨人にとっては散々な試合だった。ボカスカと中日打線に打たれまくりであったが、ホームランなどのVTRを見て、ネット裏のずっと上の方の席(たぶんC席)がけっこうがら空きなのに気がついた。ゴールデンウィーク中なのにっ!

思わず、
「おい、がら空きじゃねーか。明日の中日戦観に行ってくるかなあ」

言ってしまってから気がついた。お金がないことを(涙)。

でも、本を買ったりカレーを食べたりするお金があるのなら、それを我慢すればC席で観ることができるのである。

■2001/05/03 虫明競馬論・スポーツ論

寺山修司『競馬場で逢おう』(宝島社文庫)を、「読もうと思っている本」コーナーから、スライド文庫棚の「寺山〜競馬」コーナーに移そうと思ってのぞいてみると、寺山と虫明亜呂無さんの対談集『対談 競馬論』(ちくま文庫)が目に入った。

手にとってパラパラめくっていたら惹かれてしまい、読みたくなった。しかしそれは、そのまた隣にある虫明さんの競馬エッセイ集『野を駈ける光』(玉木正之編、ちくま文庫)を読んでからにしようと、ぐっと我慢する。
本書が文庫に入ったのは96年。買っていたんだなあ。

虫明さんの多様な活動の全貌を知らないのだが、私が知っている側面でいうと、「スポーツライター」の先駆者というものだろうか。また、本書と前掲の寺山との対談集を買っているからであるが、競馬評論家として知っている程度なのである。

前二章分、本書の分量としてほぼ半分が、純粋に競馬に関するコラム・エッセイである。寺山を読んだ直後だったためか、寺山の泥臭さと対照的な香気あふれる文章に陶然となった。
寺山のようなスタイルにも同じことがいえるのだが、いま、競馬論をこのような文体で語ることができる人はほとんどいないのではあるまいか。また、「競馬とは人生そのもの」といった、寺山の考え方と通底する主張もあって、共感できる。

さて、先ほど「純粋に競馬に関する」と書いたが、残り半分は、競馬にも触れたコラム、そして、競馬とはまったく関係ないエッセイで占められているのである。
競馬論を期待して読み進めた私にとって、最初は戸惑った。しかし読んでいくにつれ、また別の驚嘆をおぼえた。

第三章「馬からちょっと離れますが」にまとめられているのは、主として女性スポーツ選手を論じたエッセイ。これが素晴らしい。
きらめくような女性スポーツ選手のエロティシズムが、活字を通してじんじんと心に伝わってきて、また別の陶酔感を味わった。
本書の編者である玉木正之さんや、二宮清純さんのスポーツエッセイも好きで、それぞれの価値を認めないわけではないのだが、虫明さんのスポーツエッセイの一種独特のエロティシズムまでは兼ね備えていない。

虫明さんのスポーツエッセイを一言で表現すると、まさに「エロティック」がふさわしい。とりわけ躍動する女性スポーツ選手を語る文章にただよう艶かしさは尋常ではない。
本書中の著者の言葉は、はからずも自らのエッセイの特性を語っている。

スポーツは、所詮エロチシズムの変形にしかすぎないのである。

本書の解説は北上次郎さん。本の雑誌社社長の目黒考二さんであり、また、藤代三郎さんの筆名で抱腹絶倒の競馬論『鉄火場の競馬作法』も書いている文芸評論家である。
藤代=北上さんの『鉄火場の競馬作法』は、虫明競馬論の文学的香気からは対極にある本であるが、面白さの点からいえばひけを取らない。私の競馬予想のスタイルは、いまだにこの本の影響を受けているほどである。

その北上さんが哀切きわまりない解説文をこの虫明競馬論に贈っている。
虫明競馬論を継承する可能性を秘めているのは、沢木耕太郎さんか(といってもこちらはあまり知らないけれど)、この北上次郎さんなのかもしれない。

■2001/05/04 平成日和下駄(18)―師弟をつなぐ道

先日幸運にも入手できた戸板康二『折口信夫坐談』(中公文庫)をパラパラとめくっていたら、戸板さんが書きとめた折口の歌舞伎に関する談話の数々に惹きこまれてしまった。それぞれの談話が短いながら一個の劇評として確立している。そうした談話を丹念にメモする若き戸板さんの努力に敬意を表したい。
もとより話題は歌舞伎にかぎらないから、本書は「折口信夫ちょっといい話」というべきものである。

ところでこの談話が書きとめられた当時(昭和20〜23年)、折口は大井出石町というところに居を構えていた。この出石=いずるいし、という地名の語感が何ともユニークで、せっかくのゴールデンウィーク、そこを訪れてみようと思いたった。

現在の品川区大井にあたるという大井出石町を地図で確認していたら、そう遠くないところに洗足池があることを知った。
洗足といえば、戸板康二さんのお宅がある(あった)場所だ。この瞬間、散策の計画を、戸板邸→折口邸のコースに決定する。

『折口信夫坐談』の冒頭で戸板さんはこのように書いている。

家が荏原小山町で、先生の家とは、そんなに遠くない(戦後は品川区に合併されたため、同じ区内になった)。自転車に乗れば、二十分ほどで行けるので、この時期に、つとめて先生を訪問した。むろん、東洗足駅(今はない)から大井町まで電車に乗り、さらに省線(今は国電)に乗りかえて、大森から出石まで歩くこともあったのだが、自転車を利用した場合のほうが多かった。

自転車で二十分の距離であれば、徒歩にも耐えられるだろう。地図を見ながら念入りに歩くコースを検討する。

都営三田線が目黒から東急目黒線に乗り入れたため、洗足には行きやすくなった。目黒線の洗足駅で下車する。
駅から西は、現在は暗渠化されている立会川の筋に向かって緩やかな下り坂になっている。その高台の地名が、上の引用文の「小山」である。

目指す戸板邸は駅から歩いて五分ほど、小山の隣荏原にあった。
周辺は閑静な高級住宅地の雰囲気であるが、戸板邸のつくり自体は、失礼ながら何の変哲もないトタン主体の目立たぬ家であった。ただ表札の「戸板康二」が眩しい。
通りに沿ったフェンスには、鉢植えの花々が飾られ、今も未亡人がお住まいになっていることがすぐわかる。もっとも私が訪れたときには雨戸が閉ざされており、留守のようであった。
奇を衒っていないところが戸板さんらしいのだろうと納得し、もちろん感動もしながら戸板邸をあとにする。

丘を下りきった立会川の暗渠道(立会道路)を南下し、途中より再び西に折れる。
昭和大病院の威容を脇に見て中原街道を渡ると住所は中延になる。
ここから再び道は上り坂になる。後ろを振り返ると、今歩いてきたばかりのまっすぐの一本道が、いったん下って、荏原・小山あたりでぐっと上っていくという起伏がわかって壮観である。
なぜか私はこうした起伏の様子を道路で見るのが好きなのだ。

さて中延の「昭和通」を西にひたすら歩くと、東急池上線の荏原中延駅に出る。ここで腹ごしらえをすることにした。
事前に調べたところでは、この駅の近くに、ラーメン本には必ず登場する有名店「多賀野」があるはずなのだ。前々から写真で見て、美味しそうで行ってみたい店だったのだが、こういう形で実現するとは思ってもみなかった。

ところが店近くに来て仰天する。二十人ほどの大行列。仕方がない。ここに来る機会はめったになかろうから、腹を据えて並ぶことにした。
待つこと40分。さすがに待った甲斐がある味。ラーメンとは奥深き食べ物であることを痛感し、嬉しくなる。

気分よく今度は、駅から南下する。「中延スキップロード」というかなり長いアーケード商店街。途中一軒古本屋を見つけて立ち寄りつつ、ぶらぶら歩く。
商店街を出てまた西に向かう。今度は東急大井町線中延駅・地下鉄浅草線中延駅がある。そこを過ぎて国道一号線を渡り、南下。豊町、二葉といった、これまで聞いたことのない名前の町を歩く。
こちらに来ると、さきほどの荏原・小山の雰囲気とは異なり、やや庶民的な住宅地の趣きになってくる。

しばらく南へ歩くと、今度は大井・馬込の高台へと上る。その高台の尾根道である滝王子通という名前の道を西に行くと、目指す大井出石町である。途中伊藤博文の墓所などもあって驚いてしまう。あとで地図を見ると、大井に伊藤邸があったようなのだ。
さて、出石町という町名はすでにないが、町内会の名前として、また、公園の名前として出石という地名は残っている。

出石公園には湧水による溜池があって、このあたりを潤していたらしい。
公園内にある碑は溶岩のようなごつごつした、山水画に出てくるような峨峨たる山のミニチュアのような岩に埋め込まれている。これが「出石」の由来なのだろうか。わからない。

この公園周辺が「出石町内会」の範囲らしい。狭い道が込み入った住宅地となっている。現住所でいえば西大井三丁目にあたる。

地図には旧折口信夫邸を示す表示なく、『折口信夫坐談』には出石町以上の情報は記されていない。
一人でぐるぐると歩きまわって見つからないので、昔からここにありそうな地元の商店の人に尋ねてみた。「ああ、○○学舎かな?」とか、「そういえばそういうお屋敷があったような…」ということだけで、それでも詳しいことはわからなかった。

歩いたときにもそうだったが、ところどころで空き地の分譲やアパート建設がなされており、そのような事情もあって、昔はお屋敷が多かったのだけれど、いまはねえ、というのがお米屋さんのおばさんの言。案内板すら立っていないのだろうか。

最後の砦、派出所で尋ねてみても、応対してくださった警官はつい最近ここに赴任してきたばかりということで埒があかない。そろそろ足も疲れてきたこともあり、やむなく見つけられないままバスに乗って出石町をあとにし、大井町に出て今日の散策を終えた。

折口邸跡こそ見つけられなかったものの、出石町の雰囲気を肌で感じることができたし、何よりも最近傾倒している戸板康二さんのお住まいをこの目で確かめることができたのは貴重な体験であった。

■2001/05/06 眼鏡越しの空

パソコンの前で仕事をしていて、どうも目の調子がおかしいと感じるようになった。脇に本などを置いて、そこに書かれてある内容を入力するときに目を頻繁に動かすわけだが、そのときなどはとくに異常を感じる。

気になりだすと、時々目に黒い点が出てくることにも気づく。「飛蚊症」(ひぶんしょう)という症状である。
持っていた眼鏡二つのうち一つは子供に破壊され、もう一つのほうを常用するようになってから(4/6条参照)、どうも変だ。

思い切って眼科に行った。
症状を話すと、私のような強度の近視になると、網膜裂孔、さらに網膜剥離の恐れがあるから、検査したほうがいいという。一瞬目の前が暗くなった。
しかし、辰吉丈一郎だって網膜剥離から何度も立ち直ったじゃないか、と妙な理屈をつけて自分に落ち着くよう言い聞かせた。

焦点が合わずに目の前の世界がすべてぼやけてしまうような、瞳孔を開く点眼薬をさして検査を受ける。このままこの感覚が治らないなんてことはないよな、と一瞬不安になる。
でも検査結果は異常なし。胸をなでおろす。医師の話だと、近眼も行きつくところまで来てしまい、このまま眼鏡を使うとするとレンズが分厚くなってかなりつらいという。

そこで、医師の勧めもあって、思い切ってコンタクトレンズにしようと決意した。
中学入学時両目2.0を誇っていた視力は、横溝正史の読みすぎ(勉強のしすぎでないのが悲しい)により急激に低下し、高校入学後眼鏡を購入した。以来20年弱眼鏡のお世話になってきたが、この眼鏡生活にもいよいよ転機がおとずれたようである。

私はA型という血液型に似ず大雑把でいい加減、かつ物忘れが激しい性格のため、コンタクトレンズなどを使うと、すぐなくしたり壊したりするかもしれないと思い、これまでコンタクトを避けてきた(もちろんあんな小さいものを眼球に装着するという恐さもある)。しかし今度ばかりはそうも言っていられない。

眼科でコンタクトの値段を見ると、ソフト・ハードとも、思った以上に安価であることを知った。経済的な問題は少し安心。あとはいかにコンタクトに慣れるかである。
今後眼鏡をまったくかけないようにするわけではないが、「眼鏡越しの空」を見る機会は激減することになりそうである。

■2001/05/07 アニミズムを信じて

寺山修司と虫明亜呂無両氏の対談『対談 競馬論』(ちくま文庫)を読み終えた。

競馬に関するさまざまな話題を語り合った対談の合間合間に二人のコラムがはさまれているという構成をとっている。60年代後半、すなわち私が生まれた頃の競馬の話である。元版の刊行は1969年。
いまから30年以上前の対談であるにもかかわらず、話の内容がいささかも古びていないのはなぜだろう。ほとんど知らない馬に関する話題であるにもかかわらず、話についていけるのはなぜだろう。
それだけ二人の語る競馬論は普遍的であったということなのだと思う。

本書は内容的には四つの章に分かれている。
前の二章「競馬論」「牧場 調教」においては、二人のスタンスはかなり異なり、意見の食い違いが見られる。寺山の極論を展開するのに対し、虫明さんが抑えている感じ。

しかしそれが第三章「文化としての競馬」のなかの「競馬のアニミズム」というテーマになると奇妙に意見が一致するから面白い。
たとえばそこではこんな話題が議論になる。

・するめやのしいかを食べること。「する(擦る)めぇ」から。
・トイレに入ることを忌避。「ウンを落とす」。
・競馬場で火は借りない。「ツイているものを取る」ことになるから。
・3-4、3-5の次には必ず4か5が頭に来るという「数霊信仰」

こんな議論を嬉々として展開し、二人とも否定しないのだからなおさら楽しい。
寺山曰く、

この非合理性というのは、われわれの生活の中にまだまだいっぱいあって、アニミズムもまたひとつの文化だと思うけれども、そういうものをどんどん切り捨てていくことが、生活の近代化だというのは間違いです。

虫明曰く、

むしろ競馬に行くと、変な話だけれどもシャーマニズムとか、アニミズムというものの復活する、あるいは存続している要素というのは、非常に多いですね。ぼくはそういうところは、現代生活の中での競馬の面白さだと思うのです。

これは乏しい私の経験からも肯ける。ツイているときには何を買っても当たり、駄目なときはとことん駄目。
競馬ほどバイオリズムというものの存在を強く実感させられる機会はない。

■2001/05/09 続・神保町水道橋哀話

今度こそ眼鏡を買うために神保町三鈴堂眼鏡店へ。

【第3話】

神保町へ歩いて向かう途中、無人の古本文庫販売所を見つけた。
スチール製の文庫棚三つがマンションのエントランスに並べられ、買う本があったら硬貨を備え付けの箱に入れるという仕組みだ。1冊100円、3冊200円。

漫然と眺めていたら、山口瞳『男性自身 冬の公園』(新潮文庫)を見つける。続けて同『男性自身 困った人たち』も発見。
2冊で200円なら3冊買っても同じだからと、もう1冊買う本を見つけるため、今度は真面目に棚を見回してみる。

小銭入れをチェックすると、200円がない。手にとった山口本2冊をいったん棚に返して、近くのコンビニでガムを買って小銭をつくった。

取って返して山口本二冊を手に、もう1冊を探すが、こういうときにかぎって、なかなか「これ」という本がない。
かろうじて食指が動いたのが獅子文六『私の食べ歩き』(中公文庫)。獅子の食味エッセイは評価が高いので、三冊目はこれに決め、箱の中に200円を入れた。

即売所を離れてから冷静に考えると、『男性自身 困った人たち』は以前買ったことがあるような気がしてきた。タイトルに何となく覚えがある。
帰宅後確認するとやはりそう。ダブってしまった。

してみると、今日の私にとって買う価値があったのは、『男性自身 冬の公園』のみであったことになる。100円分の「損」。
これが「損」かどうかは、『私の食べ歩き』にかかっている。たぶん「損」したことにはならないように思う。

【第4話】

水道橋では、先日見つけた「尾道ラーメン 麺一筋」の新店(水道橋東口店)に入る。ラーメンに半熟煮玉子が入った「魂のラーメン」を注文する。700円。
値段こそ変わらないが、これまではラーメンと煮玉子別々に食券を買わなければならなかった。私の前にすわったサラリーマン風のおじさんは普通のラーメンを注文したようだ。

出来あがって私とおじさんの分がほとんど同時に運ばれてきた。私が先に席についたから、私の前に先にラーメンが置かれる。
これこれ。魚介だしあっさり醤油ラーメン、とろけるチャーシュー、背脂ミンチ、ごはん付き、ごはんに添える広島の漬物もうまい。

そんなことを考えて割り箸を取って食べ始めようとしたら、向かいのおじさんがほんの一瞬おかしな挙動を見せたことに気づいた。
そう、私とおじさんの注文品が逆だったのだ。
私のほうには煮玉子は入っておらず、おじさんのほうに入っている。たしかに運ばれたときに、「ラーメンです」と店員さんは言い、おじさんには「魂≠ナす」と言っていた。

気づいたときにはすでに割り箸をとって食べ始めようとしていたこともあり、店員さんにもおじさんにも、注文が逆だと申し立てるタイミングを逸してしまっていた。
煮玉子100円分、今回は仕方がないか。ラーメン・チャーシューでも十分に美味しいのだから、我慢しよう。でも釈然としない気分は残る。

おじさんだって、自分は煮玉子入りを注文していないのだから気づいているはずだ。同じくタイミングを逸したのだろう。
いつ玉子を食べるかと上目づかいでチラチラとおじさんを見ながらラーメンをすする。

おじさんは心なしか「得したなあ」というような表情を浮かべ、しかし平然と玉子をペロッとお召し上がりになった。半熟煮玉子の100円分を損した悔しさとそれを言い出せなかった小心者の自分の情けなさ。
しかし、自分の100円が、得したという気分で今日の残りの時間を過ごせるであろうおじさんの幸福感にかわったことを思えば、それも致し方ないと諦めよう。

えっ、眼鏡はどうしたかって。当分買わずにすむような素敵なものを買いました。長く続いていること自体がその店の信用であって、商売に真摯に取り組むからこそ一等地で長く店を続けていられるのだという、「老舗の秘訣」のようなものを感じてきました。

■2001/05/10 殺意の風景

宮脇俊三さんの『殺意の風景』(新潮文庫)を読み終えた。

本書は仙台に住んでいた頃に購入したのだと記憶している。奥付は平成四年2刷。昔吸っていた煙草のせいで、紙がやや茶色になってしまっている。
購入動機は、本書が泉鏡花文学賞受賞作であるということに尽きる。もちろん推理小説であるということも判断材料になっていることはいうまでもない。
去年引っ越してからは、ちくま文庫の『泉鏡花集成』の上に横置きにして、読む機会をずっとうかがっていた。

さて本書は十数頁ずつの短篇十八本から成る。
宮脇さんは言わずと知れた鉄道紀行文の第一人者であるが、本書はそうした著者の特性である旅情が満載されたもので、全国各地の旅の名所(あるいは隠れた名所)を舞台にした心理サスペンスの色濃いミステリーとなっている。

スタイルもさまざまで飽きさせない。ミステリーだから内容を詳しく述べることはしないが、各篇とも、真綿でじわじわと首を締めつけてゆくような精神的なスリルに満ちたものであり、人間誰しもが他人に対して憎しみを持ち、その結果として行なったかもしれない行為、あるいは他人から憎しみをもたれて何かの仕打ちをされたかもしれない、という選択の分かれ道の局面が巧妙に描かれている。

なるほど鏡花賞受賞作にふさわしいかもしれない、と思わせる本。

■2001/05/11 顔から眼鏡がなくなった日

眼科にいって、ついにコンタクトレンズを処方してもらってきた。

医師のすすめにより、まずはソフトでしばらくコンタクトに慣れて、いずれはハードにしようと思っている。
「初めてだとハードはちょっとねえ…」なんて言われると、コンタクトそのものに拒否反応がある私としては、ハードをいきなり、というわけにはとてもいかない。

ソフトにも、一日ごとに使い捨てにするもの、一週間連続、二週間連続装着のものなど、さまざまなタイプがあるようだ。私はいっぽうで眼鏡にも愛着を持っているので、一日ごとに使い捨てのタイプを選択した。

さて、最初は眼科の助手さんにつけてもらう。
眼科というのは、歯科に劣らず子供が怖がる病院ではなかろうか。私が病院にいる間に診察を受けた子供は例外なく医師の前にくると泣き出した。小学校の検診を思い出しても、思いっきり瞼をひん剥かれるあの眼科検診はかなり痛かったように思う。

大人になってもそれは痛いのである。それにコンタクトは怖いという拒否反応もある。
思わず瞼を閉じてしまったりするなど、装着に手間取る。最初に入れた右目が痛く、いったん取って再装着したりしているうちに、両目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

その後自分で着脱する練習をする。着けるのは眼球の上にちょっと置けばすむのだが、外すときに二本の指で直接眼球に触ってつまむことをするので、まだ慣れない。
それでも何とか一発でやれるようにはなってきた。さらに目には涙、そして充血。
とりあえず今回は数日分を試しにつけて適性を見てみるということで、購入までにはいたらなかったが、まあ着けることになるだろう。

眼科で練習したレンズを着けたまま帰宅する。眼鏡がないのにまわりがはっきりと見える。
当たり前のことなのだが、自分にとっては二十年近くこのような感覚から遠ざかっていたので、とても不思議な気持ちだ。
眼鏡を新しくしたのも嬉しいが、コンタクトを着けることで生活にも若干プラスの変化があるのだろう。さしあたり、運動のときに眼鏡を気にすることがない。歌舞伎のときに双眼鏡が使いやすくなる。
いまはこんなことしか思い浮かばないが、この出来事がわが人生のなかで一段階を画することになることは間違いない。

■2001/05/12 平成日和下駄(19)―祭りの渦中へ

神保町に眼鏡を取りに行かねばならない。夜は歌舞伎座である。
神保町と銀座という二点を結びつけたとき、せっかくだからここにもういくつかの点を設けて、そこを結んで歩きたいと思った。
地図とラーメン特集の雑誌を取り出し、これまで行ったことのない場所、食べたことがなくかねて行きたいと思っていたラーメン屋を探す。
検討のすえ歩いたのは、以下のようなコースである。

地下鉄日比谷線を小伝馬町で降りた。この駅を利用するのは二度目。前は夜に人形町で食事したとき、ここまで腹ごなしに歩いた。昼間は初めてである。
この駅の近く、小伝馬町に「ぽっぽっ屋」という去年開店した話題の店がある。

店はカウンターのみで狭い。並ばずに座ることができた。ラーメンは、超極太、脂が多めの醤油とんこつで、スープは甘め、キャベツがのって、小ぶりで柔らかいチャーシューが三枚。
そう、ここは「二郎」から暖簾分けされたお店なのだ。これまで私は二郎といえば堀切二郎でしか食べたことがないけれど、ここも美味しい。二郎好きを俗に「ジロリアン」というが、私もその一人である。

小伝馬町といえば、伝馬町の牢屋である。水天宮通に出ると、木々に囲まれた「十思公園」という名称の公園があって、そこが伝馬町牢屋敷跡である。吉田松陰が牢死したのがここであり、碑が建てられている。公園には「忠魂碑」も屹立していた。
私とほぼ同時に、シャツにスラックスを着て、大き目のかばんを持った、いかにも学者然とした集団も公園に入ってきた。
学会などのついでに、この人たちも牢屋敷跡を見学しに来たのだろうかなどと思って、自分は吉田松陰碑を見て公園を出ようとすると、その集団は「忠魂碑」の前で何やらタスキのようなものを身につけ、お祈りをする支度をし始めた。
何なのだろう。興味大有り。

このあたりは小さなオフィスビルの密集地帯だから、週末は静かなはずだ。なのに周囲が騒がしい。道路のところどころにテントが張られ、人がたむろしている。
よく見てみるとはっぴを着ている。少しするとそこにはっぴを着て鉢巻を締めた集団が御神輿を担いでやってきた。
今日は二年に一度の神田祭、神輿渡御の日にあたるのだ。

小伝馬町から西に行って、神田駅を過ぎて神保町まで歩いていくつもりであった私は、まさに神田祭で賑やかな場所に飛び込んでいくことになった。
自分は関係ないにしても、こういう雰囲気は好きである。

神輿を担いできた人々のために、涼しげなテントの下にはビールと軽食が用意されている。すでにビールを飲んで赤い顔の人もいる。
町内の揃いのはっぴを着た人々のなかには、現代風の若者もいれば、いかにも江戸っ子風のチャキチャキなおじさんもいる。子供たちまで祭りのなりをしている。おじいちゃんにおんぶされた赤ん坊まではっぴを着ていて、それが可愛い。
その赤ん坊にとっては今年が初めての神田祭であり、おじいちゃんも孫にそれを着せて祭りに参加するのが楽しみだったのだろう。建物の前に車椅子で出てきて、神輿を見物しているおばあちゃんもいる。

二年に一度のこの季節、神田・日本橋は待ちに待った祝祭の空間に変わるのだ。
ふだんはオフィスビルばかりで閑散としていると思われがちなこの界隈も、このときばかりは密な地縁的集団が出来あがる。江戸以来の伝統。よそ者として何となく羨ましい。
偶然とはいえこのお祭の時空のなかに入ることができたことは幸せであった。

■2001/05/13 沢木道へ踏み込む

沢木耕太郎『彼らの流儀』(新潮文庫)を読み終えた。
ふとしたきっかけで沢木耕太郎という書き手が気になるようになって、エッセイを手始めに数冊購入し、そのうち『彼らの流儀』から読み始めた。いわば私の沢木道入門書≠ナある。

コラムでもエッセイでもノンフィクションでも小説でもないという、曖昧な存在の物語群、そうした存在形態にまず惹かれた。
読んでみて、この私たちが住んでいる世界には様々な人間がいて、みんなそれぞれ個性的な人生を送っている、その断面が見事に切り取られて文章化されているという印象を持った。

「あとがき」で沢木さんは、この本のもとになる連載を「コラムらしいコラムを試みる場」にしようと考えたという。
「コラムらしいコラム」とは、「「発光体は外部にあり、書き手はその光を感知するにすぎない」ということを強く意識した文章」と定義される。結果として、まとめられた本書はこんなふうにふりかえられている。

「取材を積み重ねていくにつれて、私は自分でも思いがけないほど強く、発光体としての「彼ら」にひきつけられるようになっていった」
「現代を生きる彼らのひそやかな「生」の中には、彼ら自身も気づいていない不思議な意味を持った時間が存在していた」

この世に生きる人間は、色が違っていたり、照らす角度が違っていたり、ときどき節電モードになったりという違いはあれ、差別なく皆同じ明るさの発光体なのだと私は思う。
しかし、多くの人は、他人が自分と同じ発光体であることを気づかない。気づこうとしない。他人を思いやらないという姿勢から、人間関係の溝が生じ、他人を無視し、他人を傷つける。しかもそうしてしまったことすら気づかない。

多くの時間を過ごすにつれ、そのようなことをだんだんと意識するようになった。もちろん私だって他人が自分と同じ発光体であることを忘れてしまうことがある。あとでそれを思い返して強く後悔する。

沢木さんのこの本に集められたさまざまな「発光体」の照明記録を読むにつけ、こんなことを考えさせられた。自分を見失いそうになるときに読みたい本である。

■2001/05/14 藤村のパリ

評伝というのは歴史叙述に似て、客観に徹しようとしても、対象の選び方、そして対象の切り取り方に著者の恣意が入るから、完全なる客観性というものは成立しにくいように思われる。もっとも「完全なる客観性」を目指した評伝というものは存在するだろう。

いっぽうで、著者の個人的体験に引きつけて、評伝を通して著者の姿が透けて見えるというスタイルもまた存在する。いずれにしても魅力的な方法だ。

河盛好蔵さんの『藤村のパリ』(新潮文庫)は、その両者がうまく均衡しつつも、ある部分では極端に河盛さんの個人的体験が語られたルポルタージュ風叙述もあって、意外に奔放な島崎藤村の評伝となっている。

島崎藤村は、姪と肉体関係をもつという不祥事(いわゆる「新生」事件)を起こし、それを清算するために大正2年(1913)から同5年(1916)の実に足かけ四年にわたってフランスに洋行し、多くの期間パリに滞在した。

流行作家が四年という長期間海外に滞在するというのは、当時としては画期的、思い切ったことだったのだろう。
いくら海外滞在中の偶感を記した文章を定期的に日本の雑誌に書き送っていたとはいえ、四年も日本を離れて小説を発表しないでいれば、帰って来たときにはすでに浦島太郎で見向きもされないという恐れは抱かなかったのであろうか。

帰国後も、姪との関係を書いた「新生」や代表作「夜明け前」を発表して、自然主義作家の第一人者として君臨したそうだから、上の私の感覚は、時間の流れが異常に速い現代の人間のものなのだろう。
大正初期は、もっと時間はゆったりと流れていたとおぼしい。

著者の河盛さんは1902年生まれ。藤村がフランスに滞在したわずか15年後にパリ留学をしたという。
ここでは「わずか」と言ってしまおう。上述のように、時間がゆったりと流れていた大正〜昭和初期、15年という時間はそう隔たったものではないだろうから。

藤村のパリ滞在時の文集『エトランゼエ』を引用しながら、藤村が感じたパリの空気と自らの留学時の空気を重ね合わせる。藤村が書いたパリは、15年後の河盛青年の目にもほとんど変わらずに映っていたのである。
この生々しさは本書の大きな特徴である。河盛さんだからこそ書ける藤村との距離感である。

老躯をおしてパリに出かけ、藤村のパリの下宿先のおかみさんであったマドモアゼル・シモネエの生没年を執念深く追いかけ、滞在中に勃発した第一次大戦を避けるための疎開先である中部フランスのリモージュでの藤村の足跡を探索するくだりは、緊迫感がただよう上質のルポルタージュである。

藤田嗣治や河上肇、石原純、郡虎彦などとのパリにおける交流も活写されている。
パリ留学の先達として、敬意のこもったあたたかいまなざしで語られる「藤村のパリ」であった。

余談若干。
藤村は、滞在中パリで起こった政治的大事件にはさしたる関心を払っていなかったのではないかという。たとえば、カイヨー蔵相夫人によるフィガロ社社長カルメット射殺事件。
河盛さんの筆でも十分のこの事件の面白さは伝わったのだが、この事件を鹿島茂さんが書くとどうなるだろう。

河盛さんは大阪府堺出身。京大文学部教授でサンスクリット語を教えていた榊亮三郎氏から、「君は堺市の生まれであるのになぜ仏文学をやるのか」と問われて、意味がわからず唖然としたという挿話。
ここで、大岡昇平さんの『成城だより』を読んで以来気になっている大岡さんの遺作『堺港攘夷始末』への回路がもうひとつ開かれた。
私も最近まで知らなかったのだが、「堺事件」とは、堺でフランスの水兵と警備の土佐藩士が衝突し、責任を取って藩士たちが切腹させられたというもの。
もうひとつくらいきっかけがあると、『堺港攘夷始末』を読めそうな気がする。

■2001/05/15 波郷を読んで砂町を歩こう計画

石田波郷の俳句エッセイ集『江東歳時記/清瀬村(抄)』(講談社文芸文庫)は買ったときから気になっていて、机脇の読もうと思っている本<Rーナーに置かれたままになっていた。
「江東歳時記」は、現在の江東区砂町に住んでいた波郷が、江東区・江戸川区・葛飾区・足立区を訪れて作った俳句とそのおりの情景を記した短文からなっていて、そこに惹かれた。
下町といってもせいぜい触れられるのは深川、ちょっとマニアックになると玉の井(現東向島)程度だろう。足立区や江戸川区の亀戸・小岩などに触れた散策記などはほとんど見かけたことがないのである。

先日波郷の記念館が江東区砂町にあることを知り、周辺を散策がてら訪れてみたいという気持ちがわきあがった。

これまで砂町というと、荷風が歩いた町という印象しかなかった。
川本三郎さんの大著『荷風と東京』(都市出版)の第十七章「煙突の見える新開地―砂町」および十八章「「偶然のよろこびは期待した喜びにまさる」―元八まんへの道」にて、荷風が砂町(当時は砂村)をいかに歩いたのかが詳細に跡付けられている。

川本さんは荷風との関わりだけでなく、砂町に対する自らの印象記は書いていないのだろうか。
疑問に思って、ちくま文庫の各著作(『私の東京町歩き』『私の東京万華鏡』『東京つれづれ草』)などをひっぱり出して眺めてみたが、目次だけからはそれが判然としなかった。ひとまず『荷風と東京』で引用紹介されている荷風の随筆(多くが岩波文庫『荷風随筆集(上)』に収録)を読み、波郷を読んで砂町散策に備えよう。

散策計画としては、先に一葉を読んで竜泉を歩こう′v画があったのだが、これはとりあえず秋口の竜泉菊まつりの時期へと延期することにする。

■2001/05/16 川本道の足跡をたずねて

昨日触れたような川本三郎さんの都市東京をめぐる著書(『私の東京町歩き』『私の東京万華鏡』『東京つれづれ草』いずれもちくま文庫)を見ていると、必然的にその並びにある『大正幻影』(同文庫)にも目移りしてしまう。
谷崎・佐藤春夫・芥川らの幻想小説と都市東京の関連をめぐるすぐれた評論である。
90年に出た本書の元版を一気呵成に読み終えた昔を思い出す。当時の日記(90年10月18日)にはこう記してある。

昨日購いし『大正幻影』読了。所々に川本氏の炯眼が光っている、好著であった。(…)特に、谷崎・芥川は全集を持っていながらここしばらく読んでいないので、久々読もうかと考えている。一方の春夫は、書架にある種々のアンソロジーにいくつかの作品が収録されていて、読むことが出来るが、それでも氏が特に何度も論及していた「美しい町」は残念ながら読めない。春夫は、今最も再評価されるべき作家だとかねてから思っていたが、この好著を読んで、その感がますます深くなった。

元版刊行は90年10月だから、発売されてすぐに購入、一日で読み終えている。
当時の私はこのような評論集を一日で読み切るパワーがあった。

隔世の感があるのは、佐藤春夫の著作であろう。当時は「美しい町」ですら容易に読むことができなかった。
今では岩波文庫に収録されたうえに、各種アンソロジーに収められていそうであるし、だいいち新版の全集が出ている。当時の私であれば、新版全集は必ず買っていたに違いない。現在はいろいろな意味で買って読む余裕がない。

上の感想を読むかぎり、11年前の私は、この『大正幻影』を幻想小説論の側面に重きをおいて読んでいたとおぼしい。いま思えば不十分な読み方だ。
隅田川をはじめとした東京の水辺との関わりなど、都市東京をめぐる評論の側面も考慮に入れて再読する必要性を痛感する。

ところで、失礼な言い方になるが、『大正幻影』を読んだ10年前の時点で、私は川本三郎という書き手に対して、一種の胡散臭さのようなものを感じていた。
すでに川本さんは、コラムニスト・映画評論家、そして現在私が惹かれている東京散策エッセイの名手として名を成していたはずであるが、そのようなお仕事は当時の私の関心には入っていなかった。『大正幻影』も、上述のように面白く読んだいっぽうで、当時の幻想小説ブームのような時流にのった書物という印象をぬぐいきれなかったのである。

たとえば『大正幻影』の二年後に発表された澁澤龍彦論「ランティエの余裕と孤独」(『東京残影』日本文芸社、所収)は、荷風と澁澤を対比しつつ、澁澤の生き方を「ランティエ」(年金生活者、高等遊民)と規定した文章である。もともとは『鳩よ!』の澁澤特集号(92年4月号)に掲載された。

澁澤没後の読者である私にとって、没後から全集発売までの期間は、澁澤の著作をはじめ、澁澤について触れた文章、特集雑誌などを、まるで喉が渇いて水を捜し求めるように買い漁った。
ちょうどそのときに出た『鳩よ!』澁澤特集は、嬉しさのあまり二冊購入したはずだ。

そこに前掲の川本さんによる澁澤論が収められていたのである。
すでに『大正幻影』を読んで、その著作の面白さを知ってはいたものの、無理に澁澤を「ランティエ」と規定しているという感がぬぐえず、澁澤ブームの時流にのった書き手と決めつけてしまった。

もちろん現在、川本さんに対するこうした印象は綺麗に解消されている。当時の私がいかに狭量だったか。反省すべし。
その幅広いお仕事に尊敬の念を抱いている川本ファンとして、これもまたもう一度虚心に澁澤論を読んでみなければならないだろう。

■2001/05/17 言葉の解凍術

ある情景を切り取ってたった十七文字に込める俳句は、言葉の魔術である。
PC用語のアナロジーを使って単純化すると、言葉の「圧縮」術といえようか。エラーなく圧縮に成功すると、その句を読んだとき頭の中でパアーッと句に込められた情景が広がってゆくから不思議なものである。

このような言葉の「圧縮」「解凍」がスムーズにできる句を目にしたときはまことに清々しい気持ちになる。

句を作った本人が、その句が作れられたときの情景を「自己解凍」する。本来は句を読めばあらためて説明するまでもない。
しかし「解凍」された文章にも俳味があって、たんに句が作られた情況ばかりでなく、その人の人生経験や含蓄のある嬉しい話も付け加われば、たんに句を読むことに倍加するような読書の楽しみが広がる。

このほど偶然並行的にそうした本を二冊読んだ。
戸板康二『季題体験』(富士見書房)と石田波郷『江東歳時記/清瀬村(抄)』(講談社文芸文庫)である。

戸板本は、四季折々の季題をテーマに、その季題を織り込んだ句(自句・他句問わず)をあげながら、それにまつわる自身の体験や薀蓄が披露される。自句の場合、どのような情景で詠まれたのか、解説が加わることはいうまでもない。

対する石田本の「江東歳時記」はすでに5/15条で言及した。
この場合まさに自句自註、自句をエラーなく短文へと「解凍」することに成功した書物である。江東地域の商工業、地場産業、伝統工芸などにも着目したユニークな地域紹介にもなっている。

俳句を作る人の目というのは、まわりの季節の変化や動植物のたたずまいにとても敏感であるということを、いまさらながら思い知らされる二冊の本である。

■2001/05/18 キャプション変われば

色川武大さんの初期短篇集『生家へ』が講談社文芸文庫に入ったので購入する。
本書はもともと中央公論社から単行本が出て、そのまま中公文庫に入っていた。すでに品切(あるいは絶版)になっていたのだろう。

中公文庫版も持っている。しかし字が小さいので読みにくいから敬遠していた。
と思ってこれを機に見返してみると、それほど活字が小さいというわけではなかった。たんに読み惜しみをしていただけらしい。

さてこの短編集は、各短篇のタイトルが「作品1」から「作品11」という数字の羅列のみで、そこから内容を推測することを拒否している。初出一覧を見ると、『海』連載時は普通にタイトルがつけられていたらしい。まあ雑誌に「作品1」とか書かれても興味を惹きそうにはない。
この11篇に処女作で第6回中央公論新人賞受賞作の「黒い布」が併録されているのは中公文庫版・文芸文庫版とも同じだ。

異なるのは、表紙カバー裏の内容紹介のキャプション。
あえて文芸文庫版を購入しようと思った理由のひとつに、この文章に惹かれたということもある。並べてみよう。

【中公文庫版】
いつも想念が還りつく生家や現実を覆いつくす鮮烈な生家と<u>父</u>の記憶―。
不安にわずかな安堵を見出した幼年時代と戦争をはさむ不毛につらぬかれた悪夢のような青春を、負の精神史として描く異色の連作十一篇に、第六回中央公論新人賞受賞の若き処女作「黒い布」を付し、著者のすぐれた原質を示す作品集。

【講談社文芸文庫版】
生まれ育った生家へ子どもの頃のままで帰りたい―。戦時中、家の下に穴を掘り続けた退役軍人のが、その後も無器用に居据っていたあの生家へ。
世間になじめず、生きていることさえ恥ずかしく思う屈託した男が、生家に呪縛されながら居場所を求めて放浪した青春の日々を、シュールレアリスム的なのイメージを交えながら回想する連作11篇

共通の単語は太字にした。
全体を読んでかもし出される雰囲気は似たようなものがあるのだが、このように実際に見比べてみるとそれほどぴったりと重なっているわけではない。文芸文庫版のほうがいくらか具体的な感じがする。

父=退役軍人であることは、色川ファンには周知の事実であり、色川作品に共通したテーマがそこに流れていることをこれで知る。その父が家の下に穴を掘り続けるという奇妙な行動にまず興味をそそられるだろう。その生家へ子どもの頃のままで帰りたいという願望にも引っかかる。

「世間になじめず」以下の人間は、現代でも結構多くいるに違いない。シンパシーを誘う。そうした「青春の日々」を「シュールレアリスム的に」なんて言われると、つい手にとってしまうのではあるまいか。

要するに文芸文庫版のキャプションは、相対的に巧みだということをいいたいのである。
中公文庫版が拙劣だというわけではない。比較すると、文芸文庫版の文章がより多くの読者を獲得するのではないかということ。

こうした文章は多くは編集者が書くのだろうが、それにしても大変な仕事だ。

■2001/05/19 平成日和下駄(20)―偶然の喜びは…

「偶然の喜びは期待した喜びにまさることは、わたくしばかりではなく誰も皆そうであろう」
この言葉は、荷風の「元八まん」というエッセイ(1935年)の冒頭の一文である。「元八まん」とは、現在江東区南砂にある富賀岡八幡宮のこと。「喜び」とは、元八幡宮の古祠を枯蘆のなかから「発見」したことを示す。

荷風が昭和六、七年頃、砂町(当時は砂村)に好んで散策に通っていたことは、川本三郎さんの『荷風の東京』(都市出版)第十七・十八章に詳しい。
また、先にあげた「元八まん」をはじめ、『断腸亭日乗』の砂村散策の記事などが同じく川本さんの編集にかかる『荷風語録』(岩波現代文庫)に抜粋収録されている。

また、俳人石田波郷は戦後の1946年から12年間砂町に住み、江東区を中心とした東京東部の地域の秀句を多く残している。それらの句と散策ルポが『江東歳時記』としてまとめられ、最近講談社文芸文庫に入った。
近年波郷の記念館が、砂町銀座の真ん中にある江東区砂町文化センターのなかに設けられた。
今回は、この荷風と波郷の跡をたずねて、砂町を中心とした江東区を歩こうと思いたった。

散策の出発点は都営新宿線住吉駅。
地上に出てまもなく、猿江恩賜公園の緑が目に入る。前々からなぜこの公園に「恩賜」という名前がついているのか、謎であった。しかし入口の由来を読んで氷解する。
もともとこの場所は江戸幕府の材木蔵のあった場所で、それが後日東京市(東京都)に払い下げられて公園化されたとのこと。

猿江恩賜公園を突っ切ると、南北に流れる横十間川に行き着く。意外に大きな川だ。両岸は遊歩道として整備されている。
五月の陽気に少し強めの風で緑がそよそよとそよぎ、水面がきらきらと光る。まことに爽快なり。単純な私は、これだけで「江東区に住みたい」などと考えてしまう。

横十間川沿いを南下する。ほどなく小名木川と直交する。そこには四方から行き来できるように、「×」型の橋(クローバー橋)が架けられている。
小名木川も横十間川同様意外に大きな川だ。このあたりが「水の都市」であることを思い知る。

クローバー橋以南の横十間川は、親水公園としてさらに両岸が整備され、足こぎボートなどで楽しめる場所となっている。
南下してほどなく岩井橋に突き当たる。
ここは鶴屋南北の名作「東海道四谷怪談」で、戸板の両面に打ち付けられたお岩と小平の遺骸が発見される「砂村隠亡堀」の地に比定されている(『日本国語大辞典』)。
散策のために綺麗に整備された横十間川親水公園からは、あのおどろおどろしい隠亡堀の場面を思い浮かべる面影すらないが、雑草が生い茂り、水が淀んでいる場所があって、これを江戸時代に遡らせると…と想像すれば、いかにもの舞台設定となるようだ。

岩井橋をくぐってまたしばらく南下すると、今度は仙台堀川を公園化した「仙台堀川公園」と直交する。
両川の交差点≠ノは道路とすればロータリーのような島があって、「野鳥の島」と呼ばれている。鬱蒼と木々が茂り、ここが都会のなかであることを一瞬忘れるような空間である。

そこから横十間川に別れを告げて仙台堀川沿いに東へ折れる。こちらも親水公園風に綺麗に整備されている。
横十間川沿いもそうだが、この陽気ゆえに散策する人走る人、サイクリングする人、みんな思い思いに五月の休日を愉しんでいる。
しばらく東進すると、遊歩道は越中島貨物線の線路の下をくぐる。これがとても怖い。というのも、高さが2メートルほどしかないうえに、線路の枕木の間ががらんどうで顔を見上げるとすぐ目の高さに枕木の間から青空が見えてしまうからだ。
このときは貨物列車は通過しなかったが、通過時に下にいるとどんな感じになるのだろう。怖いけれど興味津々。

貨物線路の下をくぐってまもなく、明治通の橋である弾正橋に突き当たる。
ここで仙台堀川とも別れ、明治通を北上する。明治通と清洲橋通の交差点は境川交差点。江戸時代に開拓された新田を区切る川が流れていたことから発生した地名だという。
交差点に設置されていた説明板「境川周辺の移り変り」には、17世紀半ばの開拓直後から現代までの地図および航空写真が並べられている。

交差点から清洲橋通を清洲橋の方向(つまり西)に行くと、道筋が若干右にカーブし、しばらくして左にゆるくカーブして、周辺の道路との間の整然たる碁盤目状態を取り戻す。
説明板にある元禄15年(1702)の切り絵図を見ると、この斜めになる道筋が見事に出来上がっているのである。
つまり、元禄の世から300年の間、この清洲橋通の斜めにカーブする道筋は変わっていないということ。「江戸の名残」を感じることができて喜ばしい。

境川交差点から明治通を少し北上すると、右手に砂町銀座の入口が見えてくる。地図を見るとかなり長い商店街である。
入口に立つと、その道幅の狭さに驚いてしまう。車一台分ほどの狭い道幅(もちろん車両進入禁止)の両側に、もう一方の入口が見えないくらいの距離まで果てしなく商店街が続いている。とんでもなく素晴らしいところに来てしまったようだ。
ワクワクしながら商店街をぶらつく。激安を謳う魚屋の前には長蛇の列。開店を待っている人の列らしい。なかなか活気があって、歩いて楽しい商店街である。
やはり東京という都市は侮れない。まだまだ自分が知らない、活気に満ちた商店街があちこちにたくさんあるのだろう。

あまりに砂町銀座商店街歩きが楽しいため、途中にあるはずの砂町文化センターを通り過ぎるところだった。肝心の石田波郷記念館がある建物である。
記念館はセンターの建物の二階の一部分に設けられた小ぢんまりしたものだが、『江東歳時記』の原稿や新聞連載時のスクラップ、写真銅板、実際に波郷が撮影に使用した写真機材一式、さらに波郷の直筆色紙・短冊、眼鏡・硯・万年筆など執筆に使用した文房具など、波郷という俳人の人となりや江東区との関わりを適確に表現した、いい展示品ばかりであった。波郷の達筆に見惚れる。
私のほかには、俳句を嗜むとおぼしき老年入口の男女数名。

ここで目に止まったのが、波郷が『江東歳時記』を連載するときの取材に使用した江東区の地図。赤鉛筆や黒鉛筆で書き込みがしてある。見ると昭和31年製作の地図である。
私が携えてきた地図と比べつつ、このあたりもだいぶ変わったのだなあとしばし見ていた。

砂町銀座をそのまま東へまっすぐ行くと、砂町の火葬場があって、それも地図に記載されていた。これは川本さんの本に詳しい。
今日の散策はそのあたりを東限にしようと考えていたのだが、さらにそこから東に行ったところに、「同潤会住宅地」なる表示と、区画整理された道路を見つけた。あわてて手元の地図を参照すると、その道路は現在でも変わっていないようだ。
せっかく来たのだから、足を伸ばそうではないか。だいいち「同潤会」などと聞いたら黙っちゃいられない。

文化センターからふたたび砂町銀座に戻ってひたすら東進、砂町銀座を出ても東進。火葬場があったあたりは高い囲いがあって中は見ることができないが、その先のあたりも含めて、このあたりは高層マンションを中核とした再開発の途上にあるようだ。
南北に折れてなお続いている仙台堀川公園を横切ると、目指す「同潤会住宅地」の場所に出る。現東砂三丁目。ここはもう少し東に歩くと荒川放水路という位置にある。

中央に二車線の道が斜めに通り、そこに蜘蛛の巣状に交差する横の道が数本という構造。たとえて言えば、円の四分の一(90度角)の扇形がその「同潤会住宅地」であった。
しかし建物自体は、住宅地が造成されてだいぶ時間が経つためか、「同潤会」と聞いて思い出すような昭和初期的モダンなものはない。でもなかなか構造はユニークであった。
しかしなぜこんな東京の東の涯に?

ずいぶん長く書いてきたが、実はここでようやく折り返し地点にたどり着いたにすぎない。
ここからひたすら南下すると、南砂七丁目に「元八まん」富賀岡八幡宮がある。深川の富岡八幡宮の旧地だ。昭和三十年代に建てられた社殿と、裏には富士塚がある。社殿の右手に「元八まん道」と彫られた道標。しかし芭蕉句碑が見つからない。

心残りのまま元八幡を後にし、「元八幡商店街」というバス通りを、今度はひたすら西に戻る。
しばらく歩くと、ようやく一軒の古本屋を見つけた。散策では、事前におもむく場所の古本屋を調べたりせずに、偶然見つけた古本屋に入るのを愉しみのひとつにしている。
今回も砂町銀座で期待したのだが、あいにく一軒もない。雰囲気こそ素晴らしい砂町銀座も、この点だけが不足であった。

さてこの古本屋、入口から中を見ただけで仰天。天井近くまで書棚が伸び、文庫本がぎっしり詰まっている。入口の張り紙には「古本五十万冊」とある。
名前はたなべ書店。「日本の古本屋」サイトの登録店であるらしい。
入ってみて俄然胸が高鳴る。この店は「大当たり」だった。出版社別に分類された棚と、作者の五十音別に分類された棚があり、人一人ようやく通れるような幅しか設けずに、棚がぎっしりと聳えている。基本的に価格は定価の半額。
品切にこだわるわけでもなく、かといって流行のものばかりあるのでもない。ほどほどに混ざっていて、探す楽しみに満ちた古本屋だった。

文庫のほかにも、数は少ないが単行本も充実している。お金がないのにもかかわらず、思わず買ってしまった本6冊。最近探していた本もあり、思わぬ発見本もありで、散策の最後にきてこんな素敵な思いをするとは思ってもみなかった。店頭の50円均一文庫も質が高い。
これによりそれまで歩いてきた疲れが一気に吹き飛んでしまう。本好き文庫本好きにおすすめの古本屋である。住所は南砂三丁目。
この体験が、荷風謂うところの「偶然の喜びは期待した喜びにまさる」ということだろう。

興奮醒めやらぬまま、元八幡商店街を西進、途中から商店街の名称が「仙気稲荷商店街」に変わる。名前の由来は、この地にある仙気稲荷神社。荷風も詣でた「仙気」つまり下腹部の病に霊験のある神社である。
しかしたどり着いてみると小さな祠しかなく、説明板には本体は昭和四条年代に千葉の習志野に移ったとあった。祠は残っているので、とりあえず賽する。

「いい散策だった」。
幸福な気分になりながら、仙気稲荷を少し北に行くと、行きで通った仙台堀川公園の弾正橋を渡り、境川交差点に出る。ここで都バスに乗って清洲橋通を西に向かう。
あまりに気分がいいので、清洲橋手前でバスから下車し、隅田川の橋の中でももっとも好きな清洲橋を渡りながら隅田川の川風に涼んで帰途についたのだった。

■2001/05/20 同潤会住宅地の謎

昨日たくさん動いたので、今日は家でおとなしく読書などをして休日を過ごす。

昨日訪れた東砂の「同潤会住宅」がどうも頭の隅にひっかかったままなので、書棚から同潤会について触れている本を数冊取り出して、ベッドに寝そべりながら読み始めた。

思い当たるのは、『東京人』2000年9月号(特集「同潤会アパート」)、松山巌『乱歩と東京』(ちくま学芸文庫)、松葉一清『帝都復興せり!』(朝日文庫)。

それらによると、同潤会とは関東大震災後の大正13年(1924)に、内務省の外郭団体として設立された震災復興のための住宅供給組織であり、同会の事業は、(1)鉄筋コンクリート造によるアパートメントハウスの建設、(2)木造連戸建住宅の建設、(3)木造独立分譲住宅の建設に大別されるという。

これまで保存問題などでマスコミを賑わしたのは主に1のアパート群であり、上記の書物もそこに議論の比重が置かれている。私も同潤会というとこれらのアパートをまず思い浮かべる。
2とはいわゆる「長屋」のことだろうか。今回私が興味を持ったのは3のことなのだろう。これに関して触れた部分はほんのわずかであった。

松葉さんの本では、文章による説明は乏しいが、同潤会善福寺分譲住宅(杉並区)・同白河町分譲住宅(江東区)・同三好町分譲住宅(同前)の写真が掲載されており、分譲住宅地の雰囲気を知るよすがになっている。もっとも東砂の住宅地に触れた記述はない。

こういうときにネットは便利である。検索をかけてみると、素敵なサイトを見つけた。
「都バスで東京発見」という、都バス各路線の乗車記である。そのなかの「新小29甲 葛西駅⇔東新小岩四丁目」路線に行き当たった。

それによると、江戸川区中央二丁目から松江二丁目にかけての地域もまた同潤会と呼ばれていることが紹介されている。やはり昔の地図には「同潤会住宅地」という記載があるという。
そこでいまの地図でさっそく確認してみると、現在京葉道路沿いに同潤会というバス停があり、同地域を南北に貫通する「同潤会通り」と名づけられた道もあるので、東砂の「同潤会住宅地」以上にいまに痕跡を残している場所だといえよう。

住宅地の構造は、上記サイトの表現を借りると、「現在の同潤会通りを中心に南北に長細く格子状道路が入」ったもので、いわば同潤会通りを朱雀大路に見立てたミニ平安京といった趣きである。
よくよく見ると、家からそう遠くない。暑い季節になる前に自転車で行ってみようか。

新たな「同潤会住宅地」を見つけたのは収穫だったが、結局東砂住宅地の来歴はわからずじまいであった。おいおい関連文献を探してみようと思う。

ところで今回の「同潤会住宅地」探索の過程で松山さんの『乱歩と東京』を繙いているうち、いろいろと別の本へと脱線してしまった。これもまた本読みの快楽≠ナある。
ひとつは『定本二笑亭綺譚』(ちくま文庫)。
その筋のマニアには有名な奇怪建築である。門前仲町にあったというこの建物、東京に来た当初その故地を訪ねていったことを思い出しながらパラパラとめくる。

もうひとつは乱歩の名編「陰獣」
久しぶりに読み返したくなり、書棚から日下三蔵編『江戸川乱歩全短編2』(ちくま文庫)を取り出して読み始めた。100頁強の中編なので一気に読み終える。
東京に住んで初めてこの作品を読んだが、大江春泥が転々と移り住んだ家がある場所を具体的に頭の中の地図に置きながら読むと格別な味わいがある。強烈な自己パロディ・自作パロディの作品だ。

「陰獣」よろしく謎は謎のまま残されたものの、今日の知的探索の旅もまたそれなりに愉しいものであった。

■2001/05/21 鯛焼の餡について

上等な鯛焼を表現するのに「尻尾のほうまで餡が詰まっている」という言い方をよくする。
普段めったに鯛焼を食べないので、過去にこのような鯛焼にめぐり合ったことがあったかどうか、まったく記憶にないのだけれど、頭のなかでイメージするとたしかに「当たり」なのだろう。

ところが人によってはこれを「当たり」としないことを知って驚いた。
先日読み終えた戸板康二さんの『季題体験』(富士見書房)中の「鯛焼」の項の話である。そもそもそれ以前に「鯛焼」が冬の季語であることを知ってなるほどと感心してしまう。

このなかで戸板さんは、安藤鶴夫が尻尾の先まで餡が入っている鯛焼屋を新聞で褒めたら、その店の売上が伸びて間口を倍増したという逸話を紹介している。
実は戸板さんが、「尻尾まで餡」反対論者なのだ。
この安鶴さんとのエピソードが書かれてある。

しかし、私は鯛焼は、尻尾にだけは餡を入れずにおいて、食べおわってそれを噛んで、ちょっと口直しするのだと思っていたから、或る日安藤にそう云ったら、一瞬沈黙、ニッコリ笑って、「承っておきます」といった。

なるほどそういうとらえ方もあるのだ。ソフトクリームのウエハース的役割というべきだろうか。
この戸板さんの考え方は真面目なのか、それとも半分冗談なのか、そしてこのことを戸板さんから言われた安鶴さんは、「一瞬沈黙」の間にどのような想念が頭をかけめぐったのか、「承っておきます」とニッコリされた戸板さんはそれをどう感じたのか。
なかなか含みのあるやりとりで、読んでいて微笑ましい気分にさせられる。

■2001/05/22 挨拶のたいへんさ

丸谷才一さんの『挨拶はたいへんだ』(朝日新聞社)を読み終えた。
本書は、丸谷さんが1985年〜2000年の間に行なった祝辞・弔辞をはじめとしたスピーチを集めたものである。
先行作品としてすでに『挨拶はむづかしい』(朝日文庫)があるが、こちらは未読。

なぜこのような著作が成立するのか。
丸谷さんはスピーチのとき、失言などを未然に防ぐためにあらかじめ原稿を作成し、現場ではただそれを読み上げることにしているそうなのである。
そこに注目したとある編集者がこのスピーチ原稿を集めて本にすることを思いつき、前作『挨拶はむづかしい』が成立したとのこと。

その編集者とは杉山正樹氏。先般『寺山修司 遊戯の人』を上梓された方だ。
この杉山さんが芸術選奨新人賞を『郡虎彦・その夢と生涯』で受賞されたときの祝辞も収められている。このスピーチの前書に上記の事情が紹介されていた。
各スピーチには、このように活字を落とした前書が付いていて、そのスピーチの裏事情やその後日談などが紹介されていて、それを読むだけでも楽しいという仕掛けになっている。

たとえばこれら前書で知ったこと。ロシア語通訳者で名エッセイストの米原万里さんが、井上ひさし現夫人のお姉様だということ(『魔女の一ダース』講談社エッセイ賞贈呈式での選考委員挨拶)。
また、池内紀さんの多方面に亙る獅子奮迅の活躍は「週刊イケウチ」と呼ばれていること(『海山のあいだ』講談社エッセイ賞贈呈式での選考委員挨拶)。

巻末には井上ひさしさんとの対談が収録されており、これも読み応えがある。
ここには、なぜ原稿を書くのかという理由から、どのような立場でスピーチにのぞむのか、スピーチをするさいの心構えなど、ためになる話が満載されている。

私は大勢の人の前で話をすることはたいへん苦手なのであるが、拠所ない事情で恩師の退官パーティ、友人の結婚式などのさい何回かスピーチを仰せつかったことがある。そのたびに終わってから後悔ばかり。
対談を読むと、スピーチの要諦はゴシップにありと言われている。それはたしかに分かるのだけれど、やはりこれを自在に使うことができるのは、エッセイと同じように年齢を重ねないと無理なのだと思う。

■2001/05/23 倫敦滞在記の白眉

小沼丹さんの『椋鳥日記』(講談社文芸文庫)を読み終えた。
本書は小沼さんが、勤めている早稲田大学からの在外研修員として半年間ロンドンに滞在したときの記録である。記録というと仰々しいが、『小さな手袋』などの身辺に材をとったエッセイのロンドン留学版といったらよかろうか。

本書の刊行は昨年2000年の9月。このとき何度か手にとって買おうかどうか迷った挙句、結局買わないまま、いつも本を買う大学書籍部からは姿を消してしまっていた。
その後小沼ファンになって、いつかはと思っていた矢先、偶然古本屋で見かけたのは幸運であった。

読み始めてすぐにとりこになった。飄々たる味わいは、エッセイ集たる『小さな手袋』や代表作品集である『懐中時計』と変わらない。
小沼さんと、教え子でロンドンの案内者である秋山君のやりとりは、まるで『阿房列車』における内田百閧ニヒマラヤ山系君のやりとりを思わせるうえに、その他登場する春野君や夏川君などという人を喰った仮名の使い方も百閧フエッセイを彷彿とさせる。

前々から小沼さんの文章を読みながら、「誰かの文章の雰囲気と似ているなあ」と感じていたのだが、その一人が百閧ナあり、今回『椋鳥日記』を読んで頭に浮かんだもう一人が吉田健一である。英文学者という面でも小沼・吉田二人の共通性がある。

小沼さんは45歳で奥様と死別し、娘さん二人と暮らすことになった。
『椋鳥日記』におけるロンドン滞在では、次女の李花子さんが同行し、同書中にも主要人物として登場する。
私が読んだ文芸文庫版の解説には、小沼さんと李花子さんが仲良さげに写っている写真二葉が掲載されている。文章とあわせてこの写真を見ると、いい父娘関係であることが伝わってくるし、それに羨望を感じてしまう。

さて解説の清水良典さんが述べるように、本書は1972年の滞在記であるにもかかわらず、ずいぶん昔に書かれたような錯覚を起こさせる仕掛けがほどこしてある。ロンドンを倫敦、パリを巴里、アイルランドを愛蘭などといった漢字表記の多用がそれだ。
こういう効果もあってか、単純な私はすんなり世界に入ることができた。
いや、小沼さんは日本にいてもイギリスにいても、人間を描写することの強固なスタイルを変わらずに保持していたからこそ、こうした素晴らしい滞在記をものすることができたのだろう。

■2001/05/24 積読の誕生

何度も言うが、読まないだろうと思って買う本はないのである。
もとより通読を志すのではなく、レファレンス的に利用しようと思う本がないわけではない。また、「読みたい」という気持ちに多少の差異(期待度の★の数の差)はあれ、たいがいは読みたいと思って買う本ばかり。

それなのになぜこうも読まない本が出てきてしまうのか。いわゆる「積読」というやつである。
単純にいえば、自分が読むことのできるキャパシティをはるかに超える数の本を買ってくる、こう説明できるだろう。わかりきっていることなのだが、それでも読みたい本が出てくるのだからしょうがない。

これまでは新聞や雑誌などで見る新刊情報や書評、そして面白く読んだ本における言及・参照、この二つが読みたい本≠増やす主たるソースであった。もちろん「あった」という過去形を使うまでもなく、現在でも情報源の柱であることには変わりはない。
いまやこれにインターネットによる情報が付け加わり、収拾がつかなくなってきつつある。インターネットによる新刊情報、そして、サイト・掲示板を開設したことによる同好の士のみなさんからの推薦、刺激。
読みたい本≠ェ急速な勢いで増えている。

「読みたい」という気持ちが新鮮なほど手にとって読み始める確率は高い。
たとえば、ある日AとB二冊の読みたい本≠買ったとする。そのうちAを読み始めた。読んでいるうちにCとD二冊の新たな読みたい本≠ェ出現し、それを買う。Aを読み終えると次に手にとるのは、より読みたい度≠ェ新鮮なC。Bは取り残される。その繰り返しが結果するのが、要は「積読」という現象なのだろう。
積読は無限に反復され、その都度膨らんでゆく。何度も繰り返してゆくうちにBは忘れ去られる。その後何かのきっかけで浮上することもあれば、沈潜したままということもある。

その意味で、自分のホームページで作っている「購入した本・読んだ本」の一覧表は、沈潜したままのかつて読みたいと思っていた本≠浮上させるいいきっかけなのだと思う。眺めていると、「あ、こんな本を買っていた」と思い出すことがあるから。
人によっては、買った本読んだ本をネットで公表することなど自慢以外の何物でもないと思うだろう。少なくとも作っている当の本人にとっては、上記のような効果はあるのであった。

■2001/05/25 早朝はミシマ時間

もともと高血圧気味ゆえ朝は強いのだが、最近はそれが増進したわけでもないのに前にも増して早起きになっている。そのため、早起きしてから家族が起きるまで、ネットをしたりするなど私とってはかなり貴重な時間となっている。

最近この時間の過ごし方に読書も加わった。いまこの時間に読んでいるのは決定版三島全集。
ちょうど今週は代表長編の一つ『金閣寺』を読んでいて、読み終えたところだ。本作は初めての読了となる。
「購入した本・読んだ本」をチェックしたところ、三島を読んだのはちょうど二年前に読んだ『青の時代』以来であることが判明した。なかなか役立つではないか。

これまでの私の経験では、三島の作品は読もうという決心をするまでが大変なのだが、一度読み始めるとドライブ感#イ群だから、挫折なくぐいぐいと読み進んでしまう。
とりわけ今回の『金閣寺』などはさすがに代表作だけにたいへん面白く、三島の豪華絢爛たるレトリックと思想に早朝から酔いしれた。
一時期乱歩の「陰獣」と併読していたことがあったが、乱歩の平易でサスペンス感にあふれたレトリックと、三島のゴテゴテしたレトリックという両極端を味わうことになって、それはそれで稀有な体験だった。

相変わらず三島は、女性に対して悪意があるというか、底意地が悪いというか、冒涜的というか、『金閣寺』を読んで真っ先に感じた印象がそれ。こういう三島の女性に対する屈折した感覚は嫌いじゃないので、三島作品が嫌いではないのだろう。また、この作品にすでに「行為」と「認識」の二元論が胚胎していたことにも気づく。

読むのにある程度の集中力を必要とするような三島の作品群は、早朝の落ち着いた時間に読むのが最適である。この時間であれば三島全集を苦もなく読み継ぐことができるだろう。
問題なのは、『金閣寺』の場合、あまりに面白いので朝だけでなく深夜にも読む時間を費やしてしまったこと。

ともかくも、次は全集の同じ巻に収録されている『永すぎた春』に取りかかろう。

■2001/05/26 向田邦子の「遺書」

今年は、向田邦子さんが台湾における飛行機墜落事故で亡くなってから二十年目にあたるのだそうだ。1981年8月22日。私の記憶は微かなものだ。
向田邦子という名前も、直木賞作家としてではなく、「寺内貫太郎一家」の脚本家としてかろうじて知っている程度だったと思う。

今春私は、ふとしたきっかけで向田さんの第一エッセイ集『父の詫び状』を読み、大きな感動をおぼえて、いっぺんで向田ファンになった(3/15条参照)。
その後とりあえず文庫版エッセイ集のみ買い集め、いま書棚の一角にある程度のスペースを占めて並んでいる。
また、周辺から攻めていくのが好きな私としては、妹和子さんの『かけがえのない贈り物 ままやと姉・向田邦子』(文春文庫)と弟保雄さんの『姉貴の尻尾 向田邦子の思い出』(講談社文庫)という二冊の回想録も買い揃えた。

さて、そのおりもおり、『文藝春秋』6月号に、和子さんによる「姉 向田邦子の「遺書」」という談話と「遺書」の紹介がなされていて、読まずにはいられなかった。
生涯独身であった向田さんは、旅行のときなど、何があってもいいように後事を和子さんに託していったのだという。そして、和子さんに宛てた「遺書」的なメモも残していた。今回公開されたのはその二通である。

新しいほうの日付のものは71年12月。亡くなる十年前にしたためられている。
これを見ると、遺産の分配や借金の整理、印税の問題、飼っている猫の世話など、事細かに指示が出されている。詳細は興味がおありの方それぞれが文春にあたっていただくとして、心に残るのは次の一節。

○どこで命を終るのも運です。/体を無理したり、仕事を休んだりして、骨を拾いにくるひとはありません。

私は『父の詫び状』以外読んでいないのでこの本に違いないのだが、飛行機墜落による事故死の予感のようなものが時おり文章に顔をのぞかせていて、驚くことがある。
和子さんによると、海外旅行時はいつも保険金をかけていて、「遺書」でも受取人の指定がなされている。これには付け加えるべき言葉が見つからない。

いっぽうで細やか、他方で大雑把という向田さんの性格が和子さんによって楽しく、懐かしく振り返られていて、読みでのある記事であった。

■2001/05/27 平成日和下駄(21)―雨もよいの青山原宿表参道

「平成日和下駄」と名づけた散策記を綴りはじめてちょうど一年になる。

今日は青山に所用があったので、午後はこの界隈を歩くことにした。
週末はいい天気だという予報に反して、朝から強い雨が降っている。このままだとせっかく午後に歩こうと決めた心が挫けてしまう。

幸いなことに雨はあがった。さあ、折り畳み傘をたたんで出発だ。

青山通りから表参道に入る。
私はこの界隈が似合う人間ではないにもかかわらず、並木道の雰囲気がたいへん心地よくて、表参道を歩くのは嫌いではない。同潤会アパートの存在感が何と言っても大きいのだろう。
近い将来再開発の手が加わるという同潤会アパート群を眺める。古さ加減が並木とマッチして絶妙だ。雨もよいの空気もしっとりとして、快晴時とはまた違った雰囲気になる。

表参道を歩くのが好きなのは、同潤会アパートやモダンな建物のせいだけではない。
青山通りを含め、そこを歩く人たちを見るのも面白いからなのである。
すれ違う若者たち、カップル、この人たちはこれまでの人生、どのような時間を経て、今日ここ表参道を歩いているのだろうか。表参道へと至る時間の堆積を想像するのが愉しい。
表参道を歩いている人々は、そこを歩いているという気分で頭がいっぱいだから、すれ違う私の姿など眼中にない。自分を消して他人を観察できる通りである。

今日は好きな理由が一つ新たに付け加わった。
ハナエモリビル近くの歩道橋があるあたりから、同潤会アパート沿いに旧渋谷川を暗渠化した道路付近まで徐々に坂道を下りきり、明治通りさらには山手線へとふたたび上っていく起伏の眺めが素晴らしいのである。
明治通りと交差する付近に向かって、明らかに人が多くなっていく。そこにこれから身を投じるのだという期待感と、目前に広がる起伏をこの足で歩いていこうとする期待感がない交ぜになって、ゾクゾクしてくる。

さて、今日は原宿駅前のほうには出ずに、明治通りラフォーレ原宿のところを右に曲がる。少し進むとブックオフ原宿店がある。
厖大な売り場面積を誇ると噂の店だ。たしかに広い。しかも本の数もこれまで訪れたことがあるブックオフとは比べ物にならない。立地とは無関係に、シブい本≠熨スい。

ブックオフを出て、竹下通につながる原宿通から旧渋谷川歩道のくねくねと曲がった道を歩く。原宿通は若者の好きそうなお店が並んでいる。旧渋谷川歩道にも、道沿いにポツリポツリとそうしたたぐいの店が入っている。
しかし喧騒の通りから一歩入った静かな裏通りという意味では、「くぼみ町」的な匂いがただよっていた。

しばらく歩くと青山キラー通に出る。通り沿いにまっすぐ進むと熊野神社。前の通りは熊野通。さらに進むと高徳寺というお寺がある。
携帯している地図を見ると、このお寺に河内山宗俊のお墓があるらしい。河内山好きとしては訪れないわけにはいくまい。

通りから奥まったところにあるお寺の境内に入ってみると、意外に本堂は大きく、敷地も塋域も広い。このとき不安が頭をかすめる。探墓の嗅覚がみがかれたとはいえ、手がかりがなにもないのでは、見つけるのは困難をきわめる。
不安が的中して、結局河内山のお墓は見つけることができなかった。しかし、帰りしな本堂の脇に大きい「河内山宗俊之碑」を発見した。
裏に回ると、大正の世に初代吉右衛門と勘弥(何代目か不明)の二人が中心になって建碑したものであることがわかった。河内山は吉右衛門の当たり役と言われている。してみると勘弥は松江侯なのか。

帰宅してから、実業之日本社の『あの人の眠る場所』をめくってみると、高徳寺の宗俊の墓も紹介されていた。詳しくはないけれども、だいたいの位置が説明してある。もっとも写真は上述の「河内山宗俊之碑」。ちょっぴり悔しい。
この本も散策の時には必携だろう。

今日の青山・表参道・原宿散策はこれで終わり。
その後銀座線で日本橋に出、現在日本橋高島屋で開催中の「向田邦子 その美しい生き方」展を見る。
生原稿や筆記用具類はもちろん、衣類、装飾品から食器、書画のコレクションにいたるまで、向田さんの遺品があますことなく展示されているという印象。それにしても、と思う。向田邦子という人は、なんて美しく、オシャレな人なのだろう。

よく女性作家には「美貌の」とか「才色兼備」とか、そのような形容詞が付けられて褒め言葉とされているが、向田さんはこうした形容詞などを付けずとも、ポートレートを見るだけで見とれるほどの美しさ。
この姿を思い浮かべながら向田さんの素晴らしい文章を読むことには、いいようのない気持ちの落ち着きがある。
いっぽうで、こうした文章が不慮の事故によってすでに二十年も前に書かれなくなってしまったことを思うと、いいようのない悔しさがこみ上げてくる。

■2001/05/28 本好きゆえのストレス

仕事帰り、千駄木の古書ほうろうに立ち寄った。昨日同店のサイトを見て、行く気になったのである。

サイト中の日記には、23日に現在刊行中の筑摩書房『明治の文学』の田山花袋集を店に出したとあった。売価は1600円。編集は小谷野敦さん。
一番最近に立ち寄った新刊書店で、この花袋集は見かけていない。つまり、ほとんど新刊同様の本をすでに入荷しているのである。定価は2400円程度だったと記憶していたから、古書価はその2/3(33%オフ)となる。
状態が悪いとは思えないから、新刊同様の本がすでに定価の2/3で売られていると思えば、しかももともと買おうと思っていた本であるならば、この好機をみすみす逃すいわれはない。そこで今日の訪問となったわけである。

その前に、大学書籍部に新刊として並んでいる同書を確認する。「少女病」「蒲団」という小谷野さんらしいセレクトに、聞いたこともない長編「縁」。面白そうだ。
それにしても、新刊としても初めて見たその日に「古書」として購入することになるとは。出版業界を支えることにならないと複雑な気持ちで古書ほうろうに向かう。

ところが、田山花袋集はすでに売れてしまったらしく、同店の新入荷コーナーにはなかったのであった。
お金があまりないこともあって、1600円分が財布から消えてなくなることは回避されたとほっとした反面、新刊を三分の二の価格で買う好機を逃した悔しさも隠せない。悔しさ七割、安堵三割というところか。

ここで考える。
昨日この情報を同店のサイトで目にしなければ、花袋集を入荷したことは認識しなかったわけだ。知ってしまったことで、あるはずのものがないことも知り、そこで悔しさというストレスが生じる。

いっぽうで新入荷文庫本コーナーには、戸板康二さんの『ちょっといい話』系の青背の文春文庫が五、六冊ずらりと並んでいた。珍しいことだ。
とりわけ『久保田万太郎』がある。これだけ品切ゆえかパラフィンがかけられ、売価800円が付けられている。持っているのだが、無性に買いたくなった。
しかし我慢する。
見知らぬ誰かが戸板さんの著作と接する機会を奪うことは、戸板ファンとして慎まねばなるまい。我慢することでストレスが生じる。

このストレスは、本好きとして普遍的なものではなく、あくまで個人的な嗜好と入荷・売買の契機が今日という時間に集中した結果生じたものである。
たまたま私に条件が揃っていたために、私の上にふりかかってきた小さなドラマである。
しかしながら毎日、誰にでも、このようなドラマは身の回りに生じているに違いない。

■2001/05/29 ブッキッシュ!ブッキッシュ!

ブッキッシュ(bookish)とは、「本(好き)の、書物の上(だけ)」という意味の言葉である。ほかに「博学な、学者ぶる」といった意味もあるようだ。
私がこの言葉を知ったのは澁澤龍彦のエッセイであった。何で述べられていたのか憶えはないけれど、澁澤は自らをブッキッシュな人間と規定してはばからない。たとえば実際の旅行よりも、書物の上での架空旅行を好むといった嗜好性は、一種のブッキッシュな人間と言えるのだろう。

さて、先日の砂町散策で偶然訪れ、大興奮を味わった古書店たなべ書店(の支店)が、宮部みゆきさんの短篇集『淋しい狩人』(新潮文庫)のモデルであるという情報を掲示板「本読みは語る」で教えてもらった。
すぐに同書を新刊書店でパラパラとめくってみたところ、古本にまつわる種々の謎≠扱った連作短篇集であることが分かり、居ても立ってもいられなくなった。
その後幸い同書を古本屋で見つけたので古本で購入したのだが、一読、電車に傘を忘れてしまうほどの面白さで、こんな素敵な本があることを知らなかったわが不明を恥じるほかないのである。

引出物として包装したはずの本に、あとから字が浮かび上がったとか、急逝した父の部屋の書棚に同じ本が300冊もあったとか、網棚に放置されていた文庫本を見たら謎の名刺が挟まっていたなど、本にまつわり、本好きにはちょっと気にせずにはいられないような不可解な謎をキーに、各編が展開される。探偵役に該当するのが、たなべ書店の店主イワさん。このイワさんと孫の稔の関係も微笑ましい。

古本屋をめぐるミステリと言えば、書痴・マニアの生態を活写した紀田順一郎さんの一連の作品や、梶山季之『せどり男爵数奇譚』(ちくま文庫)を思い出すが、解説の大森望さんも述べるように、本書はこうした従来の「古書ミステリ」とは一線を画すものである。
書痴・マニアの奇怪な生態に驚きながら、自分はこのようなレベルに達していないと安堵する一種の安心装置が仕掛けられていないのはある意味残念だが、逆に、本書のような謎であれば、本好きなら出会うことがあるのかもしれないという親近感を感じさせる。

カバーに印刷されている本書の紹介には「ブッキッシュな連作短編集」とあるが、これはたんに「本に関する短編集」と解するのではなく、もっと深く広い意味をもたせた評価と解したい。

■2001/05/30 街の背番号

中村雅楽物≠ノ代表される戸板康二さんの一連の小説作品ばかりでなく、戸板康二という人物そのものにも惹かれ出したきっかけは、矢野誠一さんによる評伝『戸板康二の歳月』(文藝春秋)である。『家元の女弟子』を読んで小説にはまった約一ヵ月後の、去年七月中旬の頃であった(2000/7/13条参照)。

この評伝はその後現在に至るまで折りに触れて拾い読みしているのだが、そのなかでずっと気になっていた箇所があった。始めのほう、c章(このアルファベットによる章立ても戸板さん風)の文章である。ここで矢野さんは、戸板康二の山の手育ちの感性ということを問題にしている。

山の手育ちならではの感性が存分に発揮された最初の著作として、矢野さんは『街の背番号』という一書を俎上に載せた。

『街の背番号』は1958年青蛙房刊。青蛙房から刊行した六冊の著作のうちもっとも早いもの。青蛙房の刊行書目のなかでも、この本はきわめて異色のものであるという。もとは東京新聞社が出していた『週刊東京』という雑誌の連載コラムで、「一話がほぼ四百字内外の文章」(戸板あとがき)からなっている。

内容は、書かれた当時の風俗を彷彿とさせるもので、そこに散りばめられているユーモアのセンスは後年の『ちょっといい話』の原型であると位置づけられている。
本書刊行の一年後、戸板さんは「團十郎切腹事件」で直木賞を受賞する。それを踏まえて、矢野さんは本書を、「歌舞伎の批評とその周辺に限られていた戸板康二の仕事の枠が、大きく広がっていくポイントになった」ものと評価する。
また、装幀の素晴らしさにも触れられていて、ここでも「フランス文学者のエッセイ集を思わせる瀟洒な本造り」「精神的な自装」という高い評価が与えられる。

ところが、矢野さんは本書を入手できずに苦労したのだという。矢野さんは青蛙房から著書を出していることもあって、可能な限り同社の刊行書は譲ってもらうことができたのだが、『街の背番号』に限って社の保存用以外一冊もなく、古本屋をのぞくたびに捜し求めてもなお入手できなかったというのだ。
結局、偶然友人が所持していたことを知って無事に譲り受けることができたとの由。

以上、矢野さんでさえ入手に苦労して、しかも、内容的にもコラム好きの私にとってたいへん興味をそそられる本、それが『街の背番号』なのである。
タイトルも矢野さんの言う通り抜群のセンスである。この文章を読んで欲しくならないはずがない。
でも、入手困難な本ということもあって、自分が持つのは無理なのだろうとなかば諦めていた。

ところが、ところが。
先日たまたまネット上の古書検索エンジン“スーパー源氏”を見ていたら本書の名前が目に飛び込んできたのである。
上記のようなことは頭の片隅に置いているので、本書の名前をモニター上で発見し、売価が2000円であることを見るやいなや、ほとんど考えるまもなく注文ボタンを押してしまった。
これがたとえ3000円であっても購入したかもしれない。

いま、送られてきた『街の背番号』が手元にある。これで品切だったら、ショックは計り知れないものがあったが、幸い売れずに残っていたようだ。

どのような内容のコラムなのかは前述のとおりだが、体裁は、全326編のコラム(一編が十数行)が、習俗・礼儀・流行・女性・街頭など30のテーマ別に並べなおされ、それぞれのコラムの冒頭二行分の下方に、四角で発表順の通し番号が囲まれ、配されている。いわばこの番号が各コラムの背番号≠ニいえようか。

驚いたのは、扉に献呈署名が入っていたこと。
実はこの献呈先は、以前同じ書店からやはりネットを介して購入した『歌手の視力』(桃源社)と同一人物で、戸板さんのエッセイにもときおり登場する方なのである。『歌手の視力』は1961年刊。つまり『街の背番号』から三年後の著作である。
ここから推測を広げると、この前後の時期に戸板さんから某氏に献呈された著書が一括して某書店に処分され、整理が終わり次第店頭(ネット)に出ていると考えられる。とすればまだまだ目が離せない。

それにしても、ネットでは「署名入」という表示はなかった(『歌手の視力』も同じ)。某店は署名の有無にはあまりこだわらないらしい。

■2001/05/31 本の浸透圧

向田邦子『無名仮名人名簿』(文春文庫)を読んでいる。電車の中で少しずつ読み進め、半分ほどまで到達しただろうか。
この本を読みはじめてほどなく、「本の浸透圧」という言葉が頭に浮かんできた。

「浸透圧」とは生物の授業でおなじみの言葉だろう。『広辞苑』には、「半透膜の両側に溶液と純粋な溶媒とをおいた時、両側に表れる圧力の差」とある。
「溶液」とは、「液体状態の均一な混合物」であって、「一つの液体に他の物質(固体・液体または気体)が溶解して溶液ができたと考えるとき、もとの液体を溶媒、溶解した物質を溶質という」そうだ。

『無名仮名人名簿』を読んでいて、この関係を読書体験に置き換えるとどうなるだろうと考えたのであった。

要するにこういうことだ。
溶媒が自分の頭の中味、溶質が読んでいる本だとする。読んでいる本の内容が頭の中に入ってくるときに感じる違和感、あるいは、これまで自分が身につけた知識を総動員してその内容を理解しようとするときに要する時間的なズレ、これが浸透圧に置き換えられないだろうか。

『無名仮名人名簿』の場合、読み始めた途端、出だしから一字一句に至るまですべての言葉、書かれてある内容がまるで真綿に水が染み込むようにしっとりと頭のなかに溶け込んでいくような気分を感じたのである。
つまり私の現在の頭の中身と『無名仮名人名簿』は浸透圧がかぎりなく高い関係であるといえるわけだ。

こんな体験はめったにない。最近好きで読んでいる戸板康二・丸谷才一・山口瞳各氏の著作ですら、浸透圧がまったくないと言ったら嘘になる。必ず何らかのズレは感じるのである。
実際のところ、そちらのほうが当たり前だろう。

ところが、である。
読んでいて『無名仮名人名簿』はなぜこんなに言葉がスッと頭に入ってくるのだろうと不思議に思うほどの心地よさなのだ。
この体験は貴重なものに違いない。大切にしなければ。

※初出時の浸透圧に関する誤認識をあらためました。ご指摘いただいた嶋中康次さんに感謝申し上げます。