読前読後2001年2月


■2001/02/01 血とは衰えるものなのか

色川武大さんの『なつかしい芸人たち』(新潮文庫)を読み終えた。なかなかの名著である。
私は映画はあまり観ないほうだし、古い「お笑い」にも明るくない。漫才ブーム、「ひょうきん族」世代である。したがってここに登場する芸人(といっても、力士や行司、俳優や野球選手も交ざっているが)たちの多くを私は知らない。知っていたとしても名前だけ、あるいはテレビで見たとしてもせいぜい晩年の姿である。
たとえば水の江瀧子は「家族対抗歌合戦」の審査員としてしか知らない。しかしながら、それでも面白く読むことができるのである。
これを名著と言わずして何を名著と呼ぶのか。

これは、本書が、色川さんによる芸人たちのたんなる業績紹介であるだけでなく、芸人たちの生き方を通して、色川さんご自身の波乱万丈の半生も語られているからなのだろう。
人生の修羅場をくぐりぬけてきた色川さんの発言は概して重い。そのような処世訓は、別著『うらおもて人生録』(新潮文庫)にて語り尽くされている。

さて、本書で取り上げられた人びとは、職業柄「奇」の面が勝った人が多い。そのなかでも、左卜全の奇矯な行動に触れて自らをかえりみた次の一文が印象に残る。

(左卜全は)埼玉県の神官の家系の出で、父親は教育者だから異端児は理解されない。作男たちまで彼を狂人視していたらしいが、私も似たようなものでこういう話はすこしも驚かない。古い家系の衰えた血のせいで、非生産的なタイプがよく生まれてくる。

最後の一文など、色川さんはさらっと書いているが、よくよく読むとすごい文章だ。科学的にこのようなことが立証できるとは思えないけれども、色川さんに言われると「そうなのなかあ」と信じてもいいような気がするから、これも色川作品の魔力であろうか。

これでますます『狂人日記』(福武文庫)を再読したくなった。
わが文庫書棚の一角を占める「色川武大コーナー」から、くだんの本を取り出し、目の見えるところに置いておこう。

■2001/02/02 「奇人好き」の心理学

読みたい本が多すぎる。読みたいから買うわけだけれど、読むペースがそれに追いつかない。したがって未読の本が脇に積まれてゆくことになる。
そうこうしているうちにも読みたい本が次々出てきて、また買い込む。新しく買ってきた本のほうが関心度は新鮮だから、当然「過去の読みたい本」は徐々に忘れ去られる。

それではいけないと、酒井寛『花森安治の仕事』(朝日文庫)を手にとり、一気に読み終えた。一気に読み終えるほど、面白かったからでもある。
去年末、ホームページの「購入した本・読んだ本」の「購入した本」の表のなかに、読んだ本をグレーバックで表示してみようと思い実行した。ところが読書率(読了本/購入本)がすこぶる悪いことを今更ながら思い知らされ、「これではまずい」と居住まいをただした。

年が変わってもこの方法は続けている。見ると、新刊で期待度★5つの本が優先的に読まれている。期待度星5つの本はそれだけ読みたいという気持ちのあらわれであるから、手をつけるのはある意味当然。でも、新刊に負けず古本も買っているのに、その古本を読まないとは何事か。
そこで先日購入した『花森安治の仕事』が選ばれた。

花森安治の名前は、戸板康二さんの著作を通じて知っている。戸板さん初期の名著『歌舞伎ダイジェスト』『歌舞伎への招待』は、花森さんが編集長であった『暮らしの手帖』を刊行している暮らしの手帖社から出されているのである。
このことは、わが戸板道の先達フジタさんのホームページ(リンク参照)で教えてもらった。

最近、日本テレビの「知ってるつもり」で花森さんを取り上げたという。見ることができなかったが、札幌ラーメンを世に広めたというエピソードをはじめ、彼の人生が取り上げられたとのこと。
『花森安治の仕事』を購入し、読んだのは、以上ののような興味からであった。

花森安治という名前を耳にすると、「男でありながらスカートを履いていた」という伝説をまず思い浮かべる。というより、そのエピソードが強烈だから、ほかの事柄がすべてそれにかき消されるというべきだろうか。いわゆる「奇人」というイメージ。
いったいに私は「奇人」と呼ばれる人の評伝を読むのが好きだ。話が脇道にそれるが、近代日本の三奇人というと、南方熊楠・宮武外骨と、小川定明だという。このうち前二者のことはよく知っている。小川定明については、同じ朝日文庫の佐藤清彦『奇人・小川定明の生涯』を買ったまま、これも読んでいない。

先日来何度もここに登場する丸谷才一・山崎正和両氏の対談集『日本史を読む』にも、日本人の奇人伝好きが話題にのぼっていた。その意味で私は典型的な日本人なのだろう。
個人的に、自分の奇人伝好きを分析すれば、以下のようになるだろう。

私は普通の常識人だと思っているし、そうでありたい。でも、傍から見ると「奇人」と思われているかもしれないという恐怖感を常に持っている。「奇人視恐怖症」というべきか。
だから、飛び切りの奇人に関する評伝を読むことで、「ほら、世の中にはこんな奇人がいるじゃないか。自分なんてそれに比べれば…」と安心するのである。われながら極端な思考回路である。

さて、花森安治という人物は、世間一般の尺度から言えば「奇人」と見なされるかもしれないが、その裏返しとしての「天才」であり、逆に彼の仕事から世間一般の尺度というものが生み出されたというべきであることがわかった。
正論を正論として主張するがゆえ、建前重視の日本人の目に「奇人」と映ったのである。

本書を読んで、次に戸板さんの『あの人この人 昭和人物誌』(文春文庫)を取り出した。「花森安治のスカート」という一章が含まれているからだ。
一読、冒頭に酒井さんの著書があげられていた。そして前述した『歌舞伎ダイジェスト』の元となる文章連載時の思い出や、著書刊行の思い出が懐かしそうに語られている。

さらに興味を惹いたのは、戸板さんと花森さんが座談会で顔をあわせたのは二度あり、そのうちの一度は、江戸川乱歩を入れての鼎談であったというエピソード。
戸板・花森・乱歩、なんと豪華な顔合わせか。『あの人この人 昭和人物誌』には、「江戸川乱歩の好奇心」という一章もあるので、さっそくそちらも拾い読みする。

すると、どうやらこの鼎談は歴史的な意味を持っていたらしいことに気づく。
というのも、この場で乱歩が戸板さんに推理小説執筆を勧め、戸板さんはそれに応えた結果として、直木賞受賞作「團十郎切腹事件」をはじめとした一連の中村雅楽物が生み出されたからだ。
つまり花森安治は、推理作家・直木賞作家戸板康二誕生という歴史的な場に立ち会った人物であるということになる。

乱歩・花森のパワーが、戸板さんの一連の作品を生み出すきっかけになったと想像するだけでもゾクゾクしてくるではないか。

■2001/02/03 施主と設計者の幸福な関係

赤瀬川原平さんの『我輩は施主である』(中公文庫)。
これまた一気に読み終えてしまった。藤森照信さんの設計で日本芸術大賞を受賞した赤瀬川さんの家「ニラハウス」ができるまでを記した私小説≠ナある。

最近赤瀬川さんの本は買っても読まないままにのものが多い。たとえば『ゼロ発信』(中央公論新社)など。もったいないことである。昨日の繰り返しになるけれど、読みたいから買うのである。
ただ赤瀬川さんは、私とって、その独特の感覚に慣れて内容に入り込むまでが大変で、手をつけても読み通すのが難しい作家の一人なのであった。

ところが今回、久しぶりにドライブ感のある赤瀬川さんの作品に出会った。それが本書だ。
快著『外骨という人がいた!』(ちくま文庫)には及ばないものの、ほぼそれに近い感覚。赤瀬川作品特有のライブ感覚がグゥイーンと心をつかんで、離さない。
とりわけ藤森さんの公開講座を聞きにいった場面、木の枝を鉈で切り落とす場面が秀逸。『外骨という人がいた!』もそうだが、このような現場の雰囲気を余さず伝える筆力は、赤瀬川さんが随一だと思う。

読んでいる途中、思わず本を置いて、部屋の掃除をしてしまう。
なぜかといえば、あまりに面白く、ぐいぐいと力技で読み進んでしまって、そのまま読み終えてしまう危険があったからだ。あまりにもったいないので、強制的に読むのを中断して別のことをするのにしくはない。

設計者藤森照信さんと赤瀬川さんのコンビは絶品だ。お互いがお互いの感覚を許せない部分がある反面、一度噛み合うと絶妙なコンピ・プレーを発揮する。
攻めの藤森に受身の赤瀬川。

前に住んでいた建売住宅の話からはじまって、新しい土地探し、建材探しに自力での切出し作業、藤森さんの独創的なアイディアによる屋根のニラ…。細かいまでの叙述はまさに私小説≠ネのだが、主人公(赤瀬川さん)の名前が赤瀬川源左衛門というのが、人を喰っているというか、何というか。

ちなみに実際の「ニラハウス」の外観や部屋の中については、『太陽』99年9月号赤瀬川原平特集のなかで、荒俣宏さんの訪問記というかたちで紹介されている。
何ともいい雰囲気の家なのであります。

■2001/02/04 噫礼賛

2000/12/9条にて、噫、つまりげっぷまで美味しい食べ物のことについて書いた。
ラーメンでは堀切二郎、カレーではニューキャッスルがそうである。

ところが、「げっぷまで美味しい」どころか、「げっぷの味がメイン」の料理について書いた小説があるのである。谷崎潤一郎の短篇「美食倶楽部」(中公文庫『潤一郎ラビリンス7 怪奇幻想倶楽部』所収)がそれ。

谷崎の孫(血はつながっていないそうだが、その理由を説明すると煩雑なので省略する)にあたる渡辺たをりさんの回想録『花は桜、魚は鯛』(中公文庫)を読んでいると、祖父谷崎晩年の食生活がいかに贅沢であったかがわかる。この贅沢とは、物質的な贅沢という意味を超えて、精神的な贅沢という含意である。
その季節季節、あるいはその日の天気や体調に合わせて食べたいものを選び、選んだからには最も良質な食材、最も美味しい店にする。そして食べるさいにはできるだけ大人数で、会話を楽しみながら長い時間をかけて料理を平らげる。
これを精神的贅沢といわずして何といおう。むろんそれを楽しむためには、物質的な裏づけ(金銭)が必要なのだろうけれど。

さて、この本の解説は谷崎研究者の千葉俊二氏。解説「味覚の親和力」に、上述の「げっぷの味がメイン」たる小説「美食倶楽部」が言及されていた。
本篇は一度(ばかりか数度?)読んだことがあるが、これまではそうした面にはまったく気づいていなかった。

「げっぷの味がメイン」の料理とは、「鶏粥魚翅」(けいしゅくぎょし)という名がつけられている。

「たゞどんよりとした、羊羹のように不透明な、鉛を融かしたように重苦しい、素的に熱い汁が、偉大な銀の丼の中に一杯漂」っているもので、口に入れると「意外にも葡萄酒のような甘味が口腔へ一面にひろがるばかりで、魚翅や鶏粥の味は一向に感ぜられなかった」
ところが、口に入れた人間が味に文句を言おうとしたところ、その男の表情が一変する。以下そのまま引用する。

口腔全体へ瀰漫した葡萄酒に似た甘い味が、だんだんに稀薄になりながらも未だ舌の根に纏わって居る時、先に嚥み込まれた汁は更に噫になって口腔へ戻って来る。奇妙にも其の噫には立派に魚翅と鶏粥との味が附いて居るのである。そうし其れが舌に残って居る甘みの中に混和するや否や忽ちにして何とも云えない美味を発揮する。(…)第一、第二、第三と噫の回数が重なるに従って、それ等の味はいよ\/濃厚になり辛辣になる。

これぞ料理文学の極致!「噫礼賛」の文章である。
私は谷崎ほどの美食家ではなく、むしろ正反対の貧食家(そういう表現があるのなら)であるが、噫に食べ物の良し悪しを判断する基準を付与したという一点において、谷崎との共通点を見いだすことができたのは嬉しい。

ところで千葉さんは、食べ物の美味しさを言葉で表現することの難しさについて前記解説で触れ、谷崎の「美食倶楽部」をその最たる試みと評している。この才能はきちんと孫のたをりさんにも受け継がれたようである。
次の文章を読んで、取り上げられた食べ物を食べたくなってしまった。

私が一番懐かしく思い出すのは、「モンブラン」(熱海市内−引用者注)のチーズトーストです。(…)薄く切った玉ねぎをカリカリに揚げたもの、きゅうりのピクルス(甘くないもの)、ベーコンをすべて細かくしてチーズと混ぜ合わせ、固めのペースト状にしたのを少し薄めのトーストの片面に塗りつけ、焦げ目がつくまで焼くと出来上がりです。

ああ、食べてみたい。

「美食倶楽部」は久しぶりに再読したが、中公文庫『潤一郎ラビリンス』のシリーズは、活字の大きさや配置に余裕があって、字体もよくまことに読みやすい。
正字で現在常用漢字にあるものはそれを使用したり、「おどり」の多用など谷崎の文章の雰囲気がうまく読者に伝わる本のつくりだ。旧かなならばなおよし。
印刷会社は三晃印刷。

■2001/02/06 文楽への興味

昨夜(正確にいえば今日の深夜)、床に就こうと思ってテレビを消そうとしたら、偶然つけていたNHKにて、「NHKスペシャル」の再放送が始まって、思わず動きが止まった。
文楽の人形遣い吉田玉男さんと義太夫の竹本住太夫さんという二人の人間国宝を取り上げた番組内容だったからだ。

そのまま座ることもせず、立ったままで腕を組みながら、最後まで見続けてしまう。
眠くて目が痛かったのだけれど、眠らせないほど、二人の仕事ぶりには迫力があり、七十八十になっても向上心を失わないような芸に対する姿勢が胸を打ったからである。

動かない無表情の人形に命を吹き込むのが人形遣い、その人形たちの会話を代弁しつつ情景をも語るのが太夫。それぞれの芸が本当のものになるのは六十過ぎてからだというのは、身に沁みて重い言葉である。

つい先日、織田作之助の短篇「文楽の人 吉田文五郎」(大川渉編『聴雨・螢』ちくま文庫所収)を読み、文楽のとりわけ人形遣いに関心をもったばかりだっただけに、まことにタイムリーな番組であった。

織田作之助の短篇の主人公吉田文五郎も有名な人形遣いらしいが、その方面に疎い私は初めて聞いた名前であった。吉田玉男さんとどのような関係にあるのかも知らない。
恥ずかしながらこの短篇で、一体の人形を動かすには、主遣い(胴)・左遣い(左手)・足遣い(足)という三人がかりであることも初めて知ったのである。そのうちもちろん主遣いがメインで顔を出し、その他の二人は黒衣で顔を出せない。足踏みは足遣い担当なのだという。この世界のとば口に立ったばかりだ。

織田作之助の本作品は、大阪弁の聞き書きというスタイルをとっている。そのなかで文五郎は自分のことを「わい」と称していた。
巨人の清原が、新聞で自分の発言を書かれると、決まって「わい」とか「わし」とか書かれるが、実際はそんなことは言っていないと文句を付ける。活字で「わい」と書くと、いかにも関西人という雰囲気が出るのだが、本当にそう言っていないのだろうか。「わい」とは、関西人を表現する紋切り型なのだろうか。

■2001/02/07 我慢の限界

今月はすでに本をたくさん買いすぎ、そのうえに大きな買い物もしてしまったため、このところさっぱり本を買っていなかった。
ところがこういうときにかぎって、欲しい本買いたい本というものが出てくるものである。

谷崎潤一郎晩年の大傑作『瘋癲老人日記』の颯子のモデルとなった渡辺千萬子さん(養子の嫁にあたる)と谷崎との往復書簡がそれだ(『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』中央公論新社)。
千萬子さんの娘たをりさんの『花は桜、魚は鯛』(中公文庫)を読んだばかりであるため(2/4条参照)、谷崎家に対する興味が頭の中に残ったままなのである。

そのうえに今朝の新聞でこの往復書簡についての記事を目にしたからたまらない。ついに我慢の限界。買ってしまう。
パラパラ見ていたら、かなり面白そう。ひょっとして『瘋癲老人日記』より面白いかも。それはないか。

ちょっと残念なのは装丁。棟方志功による『瘋癲老人日記』元版の装画がそのままあしらわれているが、本のタイトルは何か一昔前のワープロで打ち出したよう。手抜きの感が否めない。内容的にたいへん興味をそそるものだけに、もう少し気を使ってほしかった。

買ってきて、家で撫でさすりながら見ていたら急に鼻血が出て、木口のところにタラリと血痕がついてしまった。せっかく買ってきた本なのに…。
棟方志功の版画(裸女)に欲情したわけではないのだが。

■2001/02/08 新旧芸人伝

吉川潮さんの『突飛な芸人伝』(新潮文庫)を読み終えた。
ちょうどその前に色川武大さんの『なつかしい芸人たち』(新潮文庫)を読んでいるので(2/1条参照)、うまい具合に新旧芸人伝読み比べができた格好となった。

私にとって、色川本で取り上げられていた芸人は、知らないか、知っていてもその芸(演技)を見たことがない人がほとんどであった。
吉川本は逆に、現在存命している芸人に限って取り上げているので、知っている人がほとんどである。
たとえば、月亭可朝・八方、林家木久蔵、ヨネスケ、石倉三郎、ポール牧、正司敏江、桂小枝、坂田利夫などなど。名前しか知らなかったのだけれど、興味を持ったのが快楽亭ブラック。あるいはこの人とは歌舞伎座の中ですれ違っているのかもしれない。

色川・吉川の両者は、無関係というわけではないようだ。吉川本の元版が出た1988年、色川さんが推薦文を書いたという。そして色川本のもとになった連載が『銀座百点』誌上で連載されていたのは86〜88年、単行本となったのは89年である。単行本化は吉川本が早く、文庫化は色川本が先であった。
あるいはお互いに影響しあっていたのかもしれない。

この二書、芸人たちを取り上げるときの姿勢(書き方)がまったく違う。
2/1条でも書いたとおり、色川本は、芸人を取り上げるにあたって自らの体験談から説き起こしているので、自然と自叙伝味も帯びている。色川武大という人間を知るためにも絶好の本となっているわけである。

いっぽうの吉川本は、ほとんど聞き手としての自分を消し、芸人たちのさまざまな奇行をエピソード風に紹介し、また、芸人の生い立ちから今に至るまでの半生をたどって、「奇行」が生み出される背景を探る。
一人一人の分量は短いのだが、その芸人の良さが凝縮されていてたいへん面白く読むことができた。

現在色川本は残念ながら品切。新潮社はもったいないことをする。吉川本を売るときに、横に色川本を並べておけば、きっと二つ一緒に売れること間違いないと思われるのだが。
私が本屋の店長であれば、そうする。

■2001/02/09 これは事件である

これはもはや事件である。谷崎潤一郎の二百通を超える渡辺千萬子宛書簡のすべてが公開されるばかりか、それに応えて渡辺千萬子さんから谷崎潤一郎へ宛てた手紙も公表されて、往復書簡が編まれることになった。その面白さは、ある意味では谷崎の小説を読む以上であるといっていいかも知れない。普通、作家の書簡集などはその作家を研究しているものにとってこそ貴重で面白いが、一般読者にはさして関心もなければ、通読し得るほど面白いものでもないだろう。が、これは違うのである。谷崎潤一郎というひとりの個性的な作家が、私見によればその最高傑作を書き上げるナマの現場に立ち会うことができるし、しかもその作品がある種スキャンダラスな要素をもつとするならば、その面白さも倍増するというものだ。ともかくメチャクチャに面白いのである。

いきなり長く引用したが、これは『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』(中央公論新社)の巻末解説「颯子≠超えて」の冒頭のパラグラフである。
この千葉俊二さんによる紹介、賛辞は本書の魅力を余すところなく伝えており、ほとんど付け加えるべき言葉が見つからない。
ここにきて、まったくすごい谷崎本が出たという印象である。

谷崎と千萬子さんの関係は、戸籍上義妹の養子の嫁、すなわち義理の伯父・姪という関係にあたる。
しかしそこは複雑で、松子夫人が谷崎と再婚したときに、前夫との間にもうけた一子清治さんが、松子夫人の妹重子さんの養子に入り、千萬子さんはその清治さんと結婚したということになる。

したがって、渡辺清治・千萬子夫妻の子たをりさん(『『花は桜、魚は鯛』』の著者)は、谷崎松子夫人の実の孫にあたる。谷崎にとっては、血がつながっていない孫になる。また、戸籍上は松子夫人の妹重子さんの孫でもあるわけだ。
千萬子さんと谷崎は戸籍上義理の伯父・姪ではあるが、実際は義理の息子の嫁ということになる。かなり複雑。

手紙のうえでは、千萬子さんは谷崎に対して「伯父様」と戸籍上の呼称で呼んでいる。これは建前を重視する谷崎が望んだのだという。
しかしそれと内容は別。下世話に言えば「エロじじい」、何も知らない人がこの往復書簡を見たら、まるで恋人同士のラブレターかと見紛うほど、行間から色気が漂ってくる。

二人の微笑ましいエピソードをこれらの書簡から拾うと、枚挙に遑がないほど。たとえば、谷崎からの手紙の差出には「潤」とか「潤一」、宛名は「千萬子さま」である。
最初の頃、千萬子さんが谷崎宛の手紙の差出に「千萬子拝」としたら、谷崎は「拝」は他人行儀だからやめてほしい、もしそちらが付けてくるのなら、自分も「潤一郎拝」と付ける、と駄々をこねている。

あるいは、「私はどんなことでも君の言葉通りに絶対服従します 君には何か他人を服従させずにはおかない威力のやうなものがあります」(1961.8.6付)とか、「今後は何事も私に命令するつもりで御遠慮なく頭から高飛車に云つて下さい 私は崇拝するあなたの御意見なら喜んできゝます」(1962.9.15付)などは、かつての松子夫人へ宛てた書簡を彷彿とさせる。

ちょうどこの三十年前の昭和七年(1932年)、谷崎はまだ根津夫人だった松子さんに宛てて、「決して\/身分不相応な事は申しませぬ故一生私を御側において、御茶坊主のやうに思し召して御使ひ遊ばして下さいまし、御気に召しませぬ時はどんなにいぢめて下すつても結構でごさいます」という内容の手紙を出している(全集第23巻、書簡番号132)。
こうした谷崎の女性に対する態度を見るにつけ、それぞれの体験が創作意欲を湧き立たせ、傑作を生む原動力となったということを思わずにはおれない。
松子夫人からは中期の傑作群、千萬子さんからは晩年の傑作のインスピレーションが汲み出されたのである。

谷崎の「エロじじい」ぶりは、千萬子さんに洋服の、しかもスラックスを履いた写真をねだったり、千萬子さんの写真を集めた「千萬子百態」といったアルバムを作りたいと宣言する文章などで際立っている。
千萬子さんが美しくいるためにはお金も惜しまない。松子夫人や重子さんに内緒でお小遣いをあげたり、ハンドバッグや装飾品を買ってあげたりする。本当にいいおじいちゃんである。
老いてなお女性に尽くす谷崎。

個人的に興味を持った箇所。乱歩と対談することになり、千萬子さんに松本清張の『点と線』を送ってほしいと依頼していること(58.11.24付)。千萬子さんはミステリ・ファンで、松本清張に関する意見もいっしょに求めている。

また、千萬子さんが深沢七郎の問題作「風流夢譚」が掲載された『中央公論』誌の入手を谷崎に懇請している。二週間ほどあとに同作品を読んだ彼女は、谷崎に宛てて「深沢氏のはいつでもちょっと口あたりのちがふお酒をのむやうな味がするので時には面白い」という感想を書き送っている。

さてこの往復書簡、千葉氏の評するごとく谷崎の小説作品より面白いかはともかく、世に刊行されているいかなる「往復書簡」という形式をとる書物のなかでもっとも面白いだろうと思われる。最近読んだ大作家の往復書簡、たとえば三島−川端の往復書簡などがあったが、あれなどより断然読みごたえがある。
一般読者として、そこらへんに転がっているつまらない小説などよりも、はるかに味読に堪えるものである。

■2001/02/10 家の色

一月、二月と、歌舞伎座では十代目坂東三津五郎の襲名披露が行なわれている。
夜の部にはいずれも口上があって、幹部俳優総出演で坂東家および新三津五郎に関する楽しい話を聞くことができる。

先月この口上を見ていたとき、隣で見ていた妻が「家によって裃の色が決まっているのかなあ」という質問を発した。よく見てみると、たしかに一門(主に屋号)によって裃の色が違っている。
私のほうは漫然と話だけ耳で聞いていて、さっぱり気づかず迂闊であった。

今月の口上ではさっそくその点に注意して見てみた。やはりそのようだ。
ちょうど偶然にも、歌舞伎座内で無料頒布されている『歌舞伎座掌本』冬季号に、この疑問を氷解させてくれる一文が載っていた。「家の色」という。

それを見ると、やはり裃は家ごとに決まりがあって、同色の場合は同系の家柄を表しているという。たとえば今回襲名した三津五郎家は大和柿(柿色に赤味を加えた色)。実際は肌色っぽく見えた。

その他、橘屋は薄柿色、京屋はヒワ色、天王寺屋は紫紺色、松嶋屋は河色・コキ色熨斗目ぼかし、音羽屋は梅幸茶、播磨屋(又五郎)は納戸色、播磨屋(吉右衛門)は老松色、萬屋は御召茶色、成駒屋は芝翫茶、成田屋・高島屋・高麗屋は柿色ということだ。

天王寺屋(富十郎)の紫紺といわれると、見た目と名前のイメージが一致するが、その他はなかなかイメージが沸いてこない。
見た目でいうと、音羽屋は薄緑っぽかった。それが梅幸茶という色なのか。茶というと、いわゆる「ブラウン」を連想するが、よく考えると抹茶色というのもありえる。

そこで書棚から長崎盛輝『日本の傳統色』(京都書院アーツコレクション)を取り出して調べにかかる。

大和柿は見えず。薄柿は「明るい灰黄赤」(Vanilla)。見た目はオレンジに近い。大和柿はそれを薄くした感じであった。
梅幸茶は、別名草柳、「明るい灰黄緑」(Silver Sage)とある。
河色も見えず。見た目は濃い緑のようだった。この松嶋屋のぼかし(グラデーション)はとても綺麗だった。
ヒワ色とは「鶸色」と書き、「黄みのあざやかな黄緑」(Light Olive Yellow)。
納戸色とは「緑みの暗い青」(Tapestry Blue)。
老松色はなし。この播磨屋の色は見た目グレーっぽくて、居並ぶなかでもっとも地味だった。
御召茶色とは「青みのにぶい青緑」(Moon Gray)。時蔵は立役の扮装。
芝翫茶は「黄みのにぶい赤」(Copper Rose)、たしかにこれはいわゆる茶色。
柿色は「黄みの灰赤」(Brick Dust)、紫色のように見えた。

かぎかっこのなかの色表現はJIS一般色名、( )内は英語表記である。
調べながら、思わずこの『日本の傳統色』を読みふけってしまう。日本にはいろいろ微妙な色がたくさんあって、それぞれに絶妙な名づけがされていることに、あらためて感じ入る。色の和名には温かみが感じられる。歌舞伎と深い縁のある色もたいへん多い。

このように色はいろいろあれども、染め具合や舞台での光線の具合で、見た目はかくも異なって見えるとは。驚きだ。
もちろん『日本の傳統色』で印刷されている色見本だって、正確なのかどうか、怪しんでみる必要はあろう。たとえば紫に近い色に見えた成田屋の柿色は、見る人によればちゃんと「柿色」に見えたのだろうか。
いやはや色の表現、イメージの多様さとは、なかなか繊細な問題である。

■2001/02/11 花森安治神話

唐澤平吉さんの『花森安治の編集室』(晶文社、以下『編集室』と略)を読み終えた。
さきの『花森安治の仕事』(酒井寛著、朝日文庫、以下『仕事』と略)が、花森安治および『暮しの手帖』を外から取材して構成した評伝だったとすれば、この『編集室』は内側から見た花森安治像を記録したものであるといえる。著者の唐澤さんは、花森さんの晩年六年間を『暮しの手帖』編集者として怒鳴られながら付き合った人だからだ。

まず何といっても晶文社の造本がいい。
四六版よりひと回り小さいA5版の大きさは、手に持って読むときにちょうどなじむ大きさで、しかもカバーの適度なざらつきは持ってみると手にしっくりする。まことに快適に読める造本だ。
平野甲賀さんによるカバーデザインも瀟洒で、ひと休みしようと本を閉じたとき、気持ちよくタイトルが目に飛び込んでくる。

花森安治という人は、このような本の装釘(花森さんは装丁でも装幀でもなくこの字を選んだという)に人一倍気を使ったという。本書にはこうした花森安治のこだわりや思想がたくさん詰め込まれていて、前掲『仕事』と併読すると花森安治そして『暮しの手帖』の魅力が鮮明に立ち現われてくる。

また、『編集室』には、花森安治神話≠ニいうべきエピソードも満載されていて、いよいよこの人物の魅力に惹きこまれてしまう。個人的に面白かったのは、編集執筆をめぐる話。

十八字三十行の文章を口述筆記させるとき、花森さんは点の打ち方、漢字の使い方、改行までを細かく指示しながら、一発でちょうどの分量に収めてしまうという。でもこれは天才編集者としては当然なのかもしれない。
また、花森さんは、句読点の位置が数行にわたり同じ位置に横にならぶのをとても嫌っていて、口述してもそうした空白ができなかったという。頭の中に原稿用紙があるのだろう。

森茉莉さんが一時『暮しの手帖』編集部に身を寄せていたときの話。茉莉さんが書いた原稿が字数をオーバーしてしまったら、花森さんが字数分の言葉をチョチョッと削ったら、文章まですっきりして、茉莉さんを感心させたという。

いろいろ書いていたら、花森さんの戸板康二評を書く余裕がなくなってしまった。興味のある方は実際に本をあたっていただきたい。

■2001/02/12 平成日和下駄(15)―花森道散策

今年はじめての日和下駄出動。
最近花森安治さんに関わる本を読み、彼に俄然興味をもった。その彼が陣頭指揮をとった暮しの手帖社が東麻布にあると知り、行こうかなと漠然と思っていたところに、昨日触れた『花森安治の編集室』中で花森さんのお墓が芝増上寺にあることを知り、お墓参りを兼ねての芝・東麻布界隈散策が一気に頭の中で具体化した。

都営三田線御成門駅下車、南下してまず増上寺へ向かう。まだ増上寺を訪れたことがないのだ。
朱の剥げた古めかしい重文・二天門を過ぎ、同じく重文の三解脱門より境内に入る。
入ると目の前にそびえるのが、米大統領グラント将軍手植えの松「グラント松」。左手にはブッシュ(父)大統領手植えの「ブッシュ槙」。さすがに松のほうが大きい。米大統領と縁の深いお寺のようだ。

門を入って右手には、「め組の碑」がある。ちょうど歌舞伎座で「め組の喧嘩」を見たあとだけに、碑に刻まれている纏は記憶に新しい。辰五郎は「浜松町の頭」と呼ばれていた。浜松町は増上寺から東にまっすぐ行くとある。芝のこのあたりもめ組のなわばりだったのだろう。

本堂前では巨大な白テントの設営中。最近名士が亡くなりでもしたのだろうか。
本堂をお参りし、裏手にある墓地へ。ところが、この墓地は造成中で新しいお墓が十数基ぽつんぽつんと立っているだけ。とても1978年に亡くなった花森さんのお墓がある雰囲気ではない。
本堂に戻って、寺務所受付で聞いてみる。すると、花森さんのお墓は地下二階の霊堂にあるのだそうだ。だから、正確にいえば墓所ではなかった。
受付で地番を教えてもらって行ってみると、仏壇がロッカー状に整然とならんでいるという感じ。「花森家」とある仏壇の扉を開けると、左右に花森さんと奥さんの遺影が飾られている。刻み香で焼香して辞去する。

さて、東京タワーを右手に仰ぎながら、桜田通りを渡ると東麻布。
このあたりは台地のふもとにあたるので、山の手の閑静な住宅地という雰囲気ではない。マンションやつぶれた商店、雑居ビルなどがひしめく。

東麻布二丁目に暮しの手帖社はある。目指す場所に行ってみると、果たして以前歩いたことがある道であった。
前は、三田から北上して、暮しの手帖社のすぐ目の前を通り、狸穴坂から飯倉・ロシア大使館辺に出たのであった。そのときは暮しの手帖にも花森安治にもまったく興味がなかったから、視界にも入ってこなかった。

建物はグレーの壁で覆われ、かまぼこ状の屋根をした、周辺のマンションと比較すればちょっと異質なもの。屋上にそびえる看板がいかにも花森風か。ここに花森さんは毎日三輪車で通い、世の中に対してメッセージを送り続けていたわけである。

永坂を横断して六本木に入る。左手に下っていくと麻布十番。人で賑わっている様子。
右手には鳥居坂。この坂はきつい。鳥居坂の中腹から麻布十番方向(南)を眺めると、まっすぐその道がふたたび急坂になって上っていくのがわかる。地図を見ると暗闇坂。元麻布に抜ける坂道だ。以前そちらは歩いたことがある(平成日和下駄11、2000/10/10条)。

この鳥居坂界隈は、明治の頃は久邇宮邸があったという(鈴木博之『東京の[地霊]』文春文庫)。ほかにも地霊にまつわる話があったように記憶しているが(岩崎邸?)、いまただちには思いつかない。
右手にお嬢様学校の東洋英和女学院、左手には国際文化会館。

そのまま北上して、六本木に出たところで、抱き合う外人を横目に麻布警察署のところで六本木通りに。この警察署はいまニュースに頻繁に登場するところ。
隣の青山ブックセンター六本木店でひと休み。買わなくてもいい本をつい買ってしまう。場所柄洋書や輸入雑誌が多い。

ここでおしまいにしておけばよかった。でもそこで終わるのが中途半端な感じだったので、所期の予定どおり六本木通りを渡り、一路赤坂を目指す。
防衛施設庁の脇を通って長州藩中屋敷跡の檜町公園に出、さらにアメリカ大使館宿舎を右に見て、赤坂氷川神社の境内に入る。頑張りすぎたためか、ちょっと足元がふらつき、気分が悪くなる。一瞬ここで倒れるのではないかという幻想が頭をよぎる。

何とかこの精神的危機を切り抜け、昼食予定地赤坂六丁目のラーメン屋茂助に。ラーメンを食べて気を取り直し、赤坂から帰途につく。
麻布に入ってから、六本木・赤坂と、坂、坂、坂でたいへんな散策となった。坂の眺望がもっとも壮観だったのは、先述した鳥居坂から暗闇坂に向かう道。いったん麻布十番辺が谷状になっている。
しかしよくもこんな起伏が多い土地に建物がたくさん建って多くの人々が生活しているものだ。当分坂道は歩きたくない、そういう心境。

■2001/02/13 いろのいろいろ

歌舞伎の「口上」の場における「家の色」に気づいてから、色の和名、名づけの由緒などへと関心が広がり、さらに色一般についても興味をもつにいたった。

色というのはなかなか難しい問題だと思う。
光学的現象であるいっぽうで、地域によって特定の色に関する語彙に多寡があったり(極端にいえば認識・名づけされていない色もあったり)、名づけ方にもその地域の特性があらわれるなど、社会学的・歴史学的関心の対象にもなりうる。

そこで、新刊で出たときに購入したままになっていた、柏木博『色彩のヒント』(平凡社新書)を書棚から探し出して読み始めた。

本書は、スタイルを一見すると、たんに各色の記号学的意味を並べたてた事典風読物だと判断されがちだが(実は私はそうした記述を期待して購入したくち)、内実はそれにとどまらない。
色彩に関する事象、色彩をそなえた対象物までが渾然と五十音順に並んでいる。体系的叙述でないのが、かえって新鮮だ。

「色彩に関する事象」とは、たとえば「退色」とか、「色直し」「汚れ」など、「色彩をそなえた対象物」とは、たとえば「家電」「車」「キッチン」など身近なものから、「道路」や「ニア・ウォーター」といった意外性のあるものまでが叙述されている。
「道路」などと言われて、はじめてそれに色が付いているというごく当たり前の事実に気づかされるほどである。

その意味では、日常何気なく見ている物体にはすべて色があって(「透明」ですら項目に入っている)、それらがなぜ「○○色」でなければならないのか、などの問題を意識させてくれただけでも、本書を読んだ収穫と言わなければならない。

■2001/02/14 澁澤龍彦自装本の研究

澁澤龍彦は遊び心をもっていた人で、自分の本を自分で装釘することもした。つまり自装本である。
『澁澤龍彦全集』別巻2の「書誌」によると、1974年に刊行された『胡桃の中の世界』が最初の自装本と思われる。

長らく澁澤の本の特徴だと思っていた意匠があって、それは『種村季弘のネオ・ラビリントス』のシリーズにも受け継がれているから、澁澤・種村系の本の特徴的意匠であると信じ込んでいた。ところが最近そうでないらしいことに気づいた。

その意匠というのは、目次のデザイン。章目次全てをコモチ罫(太字が外側、細字が内側の二重線)で囲い、一つ一つの章見出しの間にもオモテ罫(細線)で区切る、あのデザインのことだ。これは朝日文庫版『玩物草紙』(成田朱希装釘)でも使われている。

この意匠は私も気に入っているが、実はこれを創案(?)したのは花森安治さんらしいのである。初期の『暮しの手帖』誌や、暮しの手帖社から刊行されている本、たとえば私の手もとにあるものでいえば戸板康二さんの『歌舞伎への招待』や『歌舞伎ダイジェスト』などは、すべてこの意匠が目次にほどこされている。

さらに先日触れた『花森安治の編集室』(唐澤平吉著、晶文社、平野甲賀装釘)もこの意匠を援用したものであった。
同書中、印刷工場の老職人さんと花森さんの交遊をつづった「ナベさんの涙」の章に、この意匠を採用した『暮しの手帖』の目次写真が掲載されている。
キャプションには、「見やすさ読みやすさを基本とした」「端正」という言葉が使われている。タイトルとノンブル(頁番号)をリーダー(点線)でつなぐのも特徴のひとつだろうか。

澁澤龍彦は、ひょっとするとこの花森デザインが気に入って、自分の著書にこの意匠を援用したのではあるまいか。
残念ながらこの『胡桃の中の世界』元版は、書棚のスペース確保策のため、実家送りになっていて手元で確認することができない。記憶では、このデザインではなかったようにも思う。もう一つの自装本『思考の紋章学』はあるいはこれであったか。

澁澤における花森安治の影響。なかなか興味深いテーマだが、全集別巻2の「著作年譜」によるかぎり、澁澤は『暮しの手帖』に寄稿したことは一度もない。まあ当然か。

■2001/02/15 あの有名な『断腸亭日乗』の・

澁澤龍彦の書いたものを読まなくなって久しいが、やはり根っからの澁澤好きなのだろう、読んでいる本に澁澤龍彦が言及されていたりすると(しかもそれが好意的な言及であればなおさらのこと)、わけもなく嬉しくなってしまう。

ちょうどいま、電車で丸谷才一さんの『男ごころ』(新潮文庫)を読んでいて、澁澤龍彦の名前に遭遇したのであった。

同書に収録されている「日記考」という一文。
そのなかで丸谷さんは、室町〜戦国時代の公家三条西実隆の日記『実隆公記』に登場する「将棋」という言葉は、実は金の貸し借りの暗号だったという増川宏一さんの推理を褒めたたえ、日記における暗号についてさらに話を展開させている。

そこで引き合いに出されたのが、永井荷風の日記『断腸亭日乗』の日付上に付された「・」である。これが何を意味するのか、私は澁澤龍彦『思考の紋章学』に収録されている「ウィタ・セクスアリス」ではじめて知った。
澁澤は「広い範囲にわたる筆者の性的体験」と推測している。
もっともこれは澁澤も述べているように、荷風研究者にとってはあまりにも有名な議論であり、『断腸亭日乗』を取り上げた著作や荷風の性生活を論じたには必ずといっていいほどこの「・」の意味について触れられている。

さて、丸谷さんは「・」について、こう述べている。

一般に、日記に暗号はつきものである。最も単純なのは『断腸亭日乗』における日付の上の黒マルで、あれが色情と関係があることは誰だつて察しがつく。だが、実事のしるしだとすると、老年になつてからも頻繁にすぎるので、たしか澁澤龍彦は、何か色情的な気分になつたといふ意味だらうと推定してゐた。つまり、露骨に言えば勃起のことか。

この本当に露骨な言いようは丸谷さんの戦略的意図から出たものに違いない。
だからこそ「広い範囲にわたる筆者の性的体験」(「色情的な気分になった」という丸谷さんの引用紹介はかなり意訳に過ぎる)とオブラートに慎重に包む澁澤の言い方が、随分と含羞に富んだ言い回しであることに気づかされるのである。

■2001/02/16 本郷の先生の本

相変わらず丸谷さんの本は知的刺激に満ちていて、読むと何かそれについて書かずにはいられなくなるような気を起こさせる。

昨日触れた『男ごころ』(新潮文庫)を読み終えた。
後ろのほうに収められている「本郷の先生」というエッセイは、池内紀さんについて書かれた三頁ほどの小編である。そこでは、池内さんが『ファウスト』を論じた文章について、「かういふふうに書いてもらへば、素人が学問のエッセンスを気楽に味わふことができる、ありがたい」とやはり褒めたたえ、さらにこう続ける。

もともとこの人の書くものは、いつも、奇想と実證とがさながらミックスト・ダブルスのペアのやうに花やかに協力して、話術は巧妙を極め、文章はわかりやすくて趣味がよく、まことに結構なのだが。

賛辞の連続だ。最後はこう締める。

『私の人物博物誌』(筑摩書房)のやうなおもしろい本を池内さんが書くことは、本郷の先生として果していかがなものか。

丸谷さんに言わせると、本郷の先生は「おもしろい本」を書いていけないらしい。
しかし「おもしろい本」(もしくはおもしろそうな本)を書く先生は跡を絶たない。
ちょうど内田隆三さんの『探偵小説の社会学』(岩波書店)と藤森照信さんの『建築探偵、本を伐る』(晶文社)を購入したのだが、どちらも「本郷の先生」だ(厳密にいえば藤森さんは「六本木の先生」)。

ここまで書いて気づいたのだが、今日はこれに、探偵小説の触れ込みの物集高音『大東京三十五区冥都七事件』(祥伝社)も買った。おまけに松本清張の『点と線』(新潮文庫)の久しぶりの再読を開始した。
何だか「探偵(小説)」づいてもいる。

■2001/02/17 単語の羅列による紹介

佐野眞一『だれが「本」を殺すのか』(プレジデント社)を読み終えた。
本好きにとっては、興味深く読み進めることができる内容であると同時に、考えさせられる重要な提起も含まれている。

これ以上書くと、通り一遍のつまらない感想文に堕してしまう可能性が高いので、筒井康隆よろしく本書で触れられていた出版社・組織・公共機関・個人の名前をひたすら羅列する試みをしてみる。
ここにあげられた固有名詞を見て、どんな内容が書かれてあるのか、わかる人にはわかると思われるし、私が本書のどんなところに興味を持って読んだのかも自ずと知られることになろう。

●第一章 書店―「本屋」のあの魅力は、どこへ消えたのか
ジュンク堂書店,駸々堂書店,紀伊國屋書店,旭屋書店,教文館書店,恭文堂書店,往来堂書店,さわや,平安堂書店,今井書店

●第二章 流通―読みたい本ほど、なぜ手に入らない?
ブックサービス,アマゾン・コム,トーハン,日販,セブン・イレブン,bk1,アクスルブックカフェ,三洋堂書店,ブックオフ

●第三章 版元―売れる出版社、売られる出版社
中央公論新社,小沢書店,平凡社,筑摩書房,岩波書店,幻冬舎,角川書店,草思社

●第四章 地方出版―「地方」出版社が示す、「いくつかの未来図」
地方・小出版流通センター,無明舎出版(秋田),津軽書房(青森),南方新社(鹿児島),葦書房(福岡),石風社(福岡),海鳥社(福岡),郷土出版社(長野),崙書房(東京),歴史春秋社(福島),沖縄出版社(沖縄),那覇出版社(沖縄)

●第五章 編集者―「あの本」を編んでいたのは、だれか
安原顯,小沢一郎(講談社『五体不満足』),石原正康(幻冬舎『永遠の仔』),大出俊幸(新人物往来社),松岡佑子(静山社『ハリー・ポッターと賢者の石』),守田省吾(みすず書房),藤原良雄(藤原書店『地中海』),佐藤誠一郎(新潮社),山田裕樹(集英社),落合美砂(太田出版『バトル・ロワイアル』『完全自殺マニュアル』)


●第六章 図書館―図書館が「時代」と斬り結ぶ日
日本図書館協会,荒川区立南千住図書館,大阪府立中央図書館,高月町立図書館,国立国会図書館関西館,浦安市立中央図書館,TRC(図書館流通センター)

●第七章 書評―そして「書評」も消費されていく
このミステリーがすごい!,ダ・ヴィンチ,本の雑誌,週刊文春,朝日新聞,毎日新聞,本の花束,トップポイント

●第八章 電子出版―グーテンベルク以来の「新たな波頭」
津野海太郎(本とコンピュータ),荻野正昭(ボイジャー),中西印刷(京都),新潮社,日立デジタル平凡社,青空文庫,スティーブン・キング,電子文庫パブリ,ビル・ゲイツ

上に出てくる人々へほとんど取材を行なっているのだから、その取材力に恐れ入る。
これまで読んだ「本に関する本」のなかでも群を抜いて面白い書。

■2001/02/18 十数年ぶりの『点と線』

松本清張『点と線』(新潮文庫)を読み終えた。
中学か高校の頃に読んで以来だと思うので、実に十数年ぶり、下手をすると約二十年ぶりくらいの再読になる。
さすがに「社会派推理小説」の古典的名作だけあって、世紀が変わっても読む者をとらえて離さないドライブ感に衰えなく、一気に読み終えてしまった。

本作の雑誌連載開始は1957(昭和32)年のこと(単行本化は翌年)。いまから44年も前の出来事だ。
『点と線』が書かれた年から同じ時間を遡ると、1913(大正2)年。明治から大正に時代が移った時期にあたる。
手近な年表によれば、この年中里介山の『大菩薩峠』の連載が始まったという。探偵小説は生み出されてすらいない。

単純にいえば、いま『点と線』を読むということは、50年代に明治末・大正初期の小説を読む感覚であるといえる。それを考えるとずいぶん遠い昔の作品だと思える反面、50年代にとって明治・大正はそれほど大昔のことではなかったということもできようか。
もっとも、現代は時の流れが早いとよく言われるから、いまの40年は昔の40年以上に時間の経つ感覚が大きいのであろう。

たしかに、『点と線』で使われるトリックに重要な役割を果たす交通機関を見ても、現代とは雲泥の差である。新幹線がない。連絡船がない。飛行機も時間がかかる。いまの感覚で読むと、この小説を成り立たせる交通機関のあり方は理解不能であろうし、それを調べる刑事がいかに時間を無駄にしているか、笑われるのだろう。
しかしそれは、あくまで現代のスピードに慣らされたわたしたちの感覚で『点と線』を読むからそう感じるのである。50年代の、ちょうど「高度経済成長」一歩手前の日本社会を描いた小説としては、これほど効果的に交通機関を利用した小説はなかったのではなかろうか。
そうした意味で『点と線』を読むと、とても面白いのである。

それに、電車と飛行機を利用すれば北から南まで短い期間に移動できるシステムは、ほとんど変わっていない。しかも、事件の遠因は「××省」の官吏と出入り業者の癒着による汚職である。だから現代に読んでも違和感がないというのは、松本清張の着眼がいいのか、この構造は変えようがないのか、ほとほと飽きれてしまう。
それを考えると、この40年と50年代から大正初期までの40年を比べれば、意外に変化はこの40年のほうが緩慢だったのかもという印象を持ってしまうが、いかがなものであろうか。

『点と線』といえば有名なのは、東京駅の「空白の四分間」だが、初読以来私はずっと、それを上野駅のイメージで思い描いてしまっていた。
これはやはり私が東北人で、東京駅はほとんど利用したことがないことに由来するのだろう。
いまや四分ですら成り立たないのかもしれないが、ミーハー気分で東京駅13番ホームに立ってみたい心境だ。

■2001/02/19 松本清張の部屋

松本清張『点と線』の発端は、いうまでもなく東京駅である。
彼は「空白の四分間」のアイディアはどこで得たのだろうか、そう思って書棚から種村直樹『東京ステーションホテル物語』(集英社文庫)を取り出して拾い読みをする。一番最初で、この松本清張と『点と線』について触れられている。

赤レンガの東京駅舎にホテル(東京ステーションホテル)があるということを知ったのは、たぶん内田百閧フエッセイか何かだったと記憶している。
有名な「摩阿陀会」もこのホテルで開催されていたのだ(詳しくは福武文庫『まあだかい』参照)。

知ったものの宿泊するわけではないから、いまだに入口すら確認していない。もちろん入ったこともない。
だいたい私は、東京駅の丸の内口から出入りすることはほとんどないのである。

さて種村さんによれば、東京ステーションホテルの209号室が「松本清張の部屋」と名づけられているのだそうだ。『点と線』執筆当時、よく滞在していたことから、「空白の四分間」の着想はここから生まれたという伝説が生み出されたらしい(ホテル側でもこの伝説を喧伝している)。

ところがこれは俗説で、実際のところは違うようである。
きっかけは、『点と線』が連載されたJTBの『旅』誌の編集者による、全国的な視野で、できれば時刻表を使った推理小説をというリクエストなのだそうだ。
ちょうど前年末、『点と線』で重要な役割を果たす東京発博多行の特急「あさかぜ」が復活(戦時中に廃止)したのを機に、それを盛り込んだものにしたいという意図が編集部にはあった。

その要請を受けて、松本清張側からホーム目撃の作為が着想され、そのような時間は東京駅に存在するのか、その編集者に調査依頼があったのだという。それに実際『点と線』が同ホテルで執筆されたという確証はないらしい。

このホテルにはほかに、「内田百閧フ部屋」「川端康成の部屋」、さらに「江戸川乱歩の部屋」もある。乱歩の場合は『怪人二十面相』の舞台になったことが由来だという。
一度行ってみて、優雅に泊まってみたいなあ。

■2001/02/20 『大東京三十五区 冥都七事件』

物集高音『大東京三十五区 冥都七事件』(祥伝社)を読み終えた。
著者の名前は『廣文庫』の国学者物集高見を思わせるが、関係があるのだろうか。略歴を見ると、ほかに角川書店から『血食』という小説を出しているだけの、新進作家であるらしい。
装釘は戦前のモダンなデザインを思わせ、昔の地図が刷り込まれており、なかなかのもの。思わず手にとって見たくなる造りをしている。

内容は、昭和6年〜7年の東京を舞台に、早稲田鶴巻町に住む早稲田大学の貧乏書生とその下宿の大家である総髪白髯の老人(間直瀬玄蕃という名前も古めかしい)がワトソンとホームズになって、明治の過去(といっても作品の時代設定からすれば30年前程度)や東京の諸方に起きた超常現象などを科学的に解明するという探偵小説的連作小説である。
とりあげられた場所は、品川・大崎・三ノ輪・向島・根岸・飛鳥山・日比谷で、それぞれが舞台の七編から構成される。そして最後の短篇で全体を包む大きなプロットが明らかにされるという構造となっている。

文体も戯文調で親しみやすく、明治の架空の新聞を引用したくだりなど、鏡花の文体を連想させる(なーんて、鏡花をたいして読んでいるわけではないのだが)。

明治の新聞などを引用した箇所は、おそらく実際に存在した新聞を加工したもので、作者のまったくの創作というわけではないのだろうが、それにしてもその雰囲気を十分に兼ね備えている。

読んでいて聞き慣れない言い回しを、さっそく先日購入したばかりの正岡容『明治東京風俗語事典』(ちくま学芸文庫)で調べたところ、説明がちゃんとあるので驚いた。
たとえば「けちりんも、判らぬありさまで」「けちりんも」。これは同事典によると、「ほんの少しも。「いわない」「しない」と否定した場合に使う」とあって、円朝落語が典拠としてあげられている。
あるいは「むかいの板塀にジャーとしっちょぐる」「しっちょぐる」。事典では「放尿する。小便する。→「しょぐり」。もとは「ひょぐり」であろう」とあって、芝全交という人物の文章(戯作?)が例示されている。
いまあげた二例のうち、とりわけ後者は、新聞記事の引用ではなく地の文なので、作者がこうした言葉を作中に取り入れていることに加えて、『明治東京風俗語事典』は使える書物であること、二重の驚きであった。
もっとも本書巻末の参考文献には、槌田満文『明治大正風俗語典』という本があげられているから、上記の言葉はこれに拠っているのかもしれない。それにしても使うのはなかなかできないだろう。

感心したのは、文体、人物配置・舞台設定がいかにも昭和初期にマッチしたものであるというだけではない。
聞書風に挿入される記事などの語り手が、たとえば四十歳台のいまでいえば働き盛りの男性である場合、語り口がそれを思わせない六十歳台の老人を思わせる文体で書いていること。
いまの四十歳台と昭和初期の四十歳台では、昭和初期の人たちのほうが老成していたんだろうなあというイメージまで伝わってくるのだ。恐るべし。

この作品には、高橋克彦・京極夏彦両氏が帯に推薦文を寄せている。

■2001/02/21 月も朧に

私はちょうどいまくらいの、冬から春にさしかかろうとしている季節が結構好きだ。

冬のカラカラに乾いた空気でなくなって、何となく湿り気を含んだようになる空気の匂い、肌ざわりが何とも言えないのである。
都会の汚れた空気とはいえ、胸一杯にこの空気を吸い込むと気持ちがいい。

山形に住んでいた頃はいわゆる「日本海側」にいたわけだから、この季節の変わり目をこのように感じることはなかったはずである。この時期は、全盛時のスパイクタイヤの粉塵でそれどころではなかったように思う。
やはりこの季節への好みは、仙台すなわち「太平洋側」に移り住んでからのものだろう。

気持ちがいいので、隅田川の川風にあたればさらによかろうと、浅草に行ってみる。
吾妻橋の上に立って、下流から上流に向かって吹く強い川風にあたる。最高である。頭には「三人吉三」の名台詞がよぎる。

月も朧に白魚の、篝もかすむ春の空。冷たい風もほろ酔ひに、心持よくうか\/と、浮かれ烏のただ一羽。塒へ帰る川端で、棹の滴か濡れ手で泡。思ひ掛けなく手に入る百両。

この台詞は節分の夜のもの。時節はまさに今である。シチュエーションも自分の今の状態にぴったり。
残念だったのは、吾妻橋に来る前に立ち寄った古本屋で「濡れ手で泡」の「思ひ掛けな」い掘出物を得ることができなかったことか。

そういえば月も見えなかった。曇ってきたこともあるが、旧暦二十八日(正月)だから仕方がないか。

■2001/02/22 中村雅楽物登場人物相関図作成計画

私は筋金入りの三日坊主である。
ホームページで計画している諸種の計画のうち、終わっているものは恥ずかしながらほとんどない。百閧フ随筆索引、乱歩の地名索引、「ちょっといい話」人名索引などなど。オモテのHPのほうでも頓挫した計画がある。

ではあるが、もう一つ立ち上げたいと思っている計画がある。
タイトルのとおり「中村雅楽物登場人物相関図作成計画」である。
中村雅楽とは、いうまでもなく戸板康二さんの推理小説に登場する探偵役の老歌舞伎役者のこと。彼の屋号は「高松屋」。

とある方のご好意で、私が未所持の雅楽物のうち、先方で重複した本を譲り受けることができたので、これをきっかけに、楽しみつつ読みつつ進めたいなあと考えている。
ところが「謎宮会」沢田安史さん作成の雅楽物リストによれば、私が持っているものはまだ三分の二程度なのではないだろうか。道のりは遠い。

何かのエッセイで戸板さんは、この雅楽物を書くにあたって、とくに人物相関図を用意したわけではなく、思いつきで書き散らしたので、人物関係で矛盾があるかもしれないというようなことを述べていたように記憶している。

今回の私の計画は、そうした矛盾を明るみにだそうという目的のものでは決してない。
『團十郎切腹事件』などを読んでいて、架空の歌舞伎役者の芸名のつけ方の巧さ、また、架空の屋号のつけ方の巧さ、そのようなものを感じ、それらを集めてみたいなあ。そんな単純な動機なのである。

まあ、まずは読み込まないと駄目だから、立ち上げることすらできないかもしれない。これも気長にやろう。

■2001/02/23 一葉の息づかい

森まゆみさんの新著『一葉の四季』(岩波新書)を夢中になって読み終えた。

これは「好著」を超えて、もはや「名著」といってよい。
いままで読んだ森さんの本のなかでも一番に推したいと思わせる内容であった。
本書は三部構成をとる。一部「樋口一葉―ささやかなる天地―」は、一葉のミニ評伝。二部「明治の東京歳時記」は、一葉の作品・日記を丁寧に読み込んで、彼女ひいては明治の人々の一年の暮しを再構成したもの。三部「一葉をめぐる人びと」は、一葉と関わった男性たちに触れている。
いずれも見開き2ページに収まる短章によって構成されており、短章好きの私にとってこの上ない書物である。

一部は50頁ほどの分量なのだけれど、転々と移り住んだ場所を主軸にすえ、簡潔にして意を尽くしたかたちで一葉の生涯を描き出している。ここを読めば樋口一葉という人物の人となりがわかってしまうほど。

二部は、季節季節の風物をトピックに、一葉や彼女の家族たちの暮しを活写する。
現代に生きる自分たちが忘れかけつつある「季節とともに暮らす」という感覚は、まだ100年前の日本人には備わっていた。
一葉もその例外ではない。二部の構成を追いつつ読むと、それがよくわかる。幸田文さんは一葉の小説を読んで、「季節のもとに息づいてゐることのかなしさ」があると感じたそうだ。本書も一葉のそうした感覚を大切に受け継いでいる。

一葉はよく歩いた。居宅を転々としなければならないという外的条件もあったが、それにしても歩いた。ときには、住んでいる竜泉から、上野の山、本郷の台地を越えて、小石川の台地まで歩くこともあった。
私も朝昼夕といく度となく歩いている根津・本郷・谷中・上野・小石川周辺の坂道を息せき切って登ってゆく一葉の息づかいが、本書から聞こえてくるようだ。菊坂はもちろん、弥生坂・善光寺坂など、100年あまり前に、一葉がさまざまな思いを胸に同じ坂を上り下りしていたことを考えると感慨もひとしおである。

時間が自分を通り過ぎていくという感覚とともに、空間的にも臨場感があって、「一葉を読んで竜泉を歩く」どころか、一葉の息づかいが感じられる旧小石川区・本郷区・下谷区全体を彼女の足跡をたどりながら歩いてみたい。
そういう思いを抱かせる素敵な本である。

■2001/02/24 右手に綺堂、左手に一葉…

ホームページの「購入した本・読んだ本」などを見ていると、あまりに並行して読んでいる本が多いので、私をずいぶんな乱読家だと思われる人もいるだろう。でも自分自身はそうだとは思っていないのである。
「乱読家」という称号は、もっと幅広いジャンルを素早く読みこなす人にたてまつるべきであり、それからすれば私などは足元にも及ばない。

もっとも最近自分でも「ちょっと同時並行しすぎだ」と感じられなくもない。
これは以前も書いたが、少なくとも電車で読む本と自宅で読む本の二系統がある。このうち自宅本が複雑に分化してしまっているのだ。
眠る前の落ち着いたときに読む本、子供の相手をしながらその合間に読む本など、シチュエーション別に読む本を用意している。
これはもちろん読みたい本が多いからなのだが、いま現在、前者は『怪奇探偵小説傑作選1 岡本綺堂集』(ちくま文庫)、後者は昨日触れた森まゆみさんの『かしこ一葉』(筑摩書房)だ。岡本綺堂と樋口一葉とは、われながら傾向が分裂気味だなあと思わずにはおれない。
ただ、一つ共通点を発見して驚愕する。一葉と綺堂は同じ1872年(明治5)生まれなのだ。不思議なめぐりあわせである。

さて、並行読書の話に戻る。
上の二冊の自宅本に加えて、赤瀬川原平さんの『ゼロ発信』(中央公論新社)までかじってしまった。また、読まないまでも、書棚ではなく自分の周囲に置いておきたい本もあって、家の中で居場所を移動するたびに本数冊を抱えるという異常事態。

「同時に本を読むことなどできないのだから、一冊だけにせよ」と妻からお小言まで頂戴する始末。
「右手に綺堂、左手に一葉、唇に雑誌で、背中に原平を」という状態で、沢田研二じゃないが「あーあ、あーあ、あーああああぁっ」と叫びたい心境である。

■2001/02/25 見開き二頁の喜び

2/19条にて東京ステーションホテルのことについて書いたら、掲示板のほうで反応があってとても嬉しい。
興味がある方がけっこういらっしゃるものです。

ところでまたまた読書の偶然。赤瀬川原平さんが去秋出した新聞連載小説『ゼロ発信』(中央公論新社)を今ごろになって読んでいる。齧ったと思ったら惹きこまれてつい深く読み進んでしまった。
そのなかに、赤瀬川さんもここに泊まりたいということを書いているのだ。

路上観察学会の仕事で山形方面(奥の細道)に行き、帰ってきた翌日に今度は千葉の柏に仕事で行かねばならないという。
その数日前、赤瀬川さんは故土方巽のAスベスト館にて開催されたとある写真家の追悼会に出席したおり、階段から滑って尾てい骨を怪我している。

赤瀬川さんのご自宅「ニラハウス」はたしか町田にあったのではなかったか。
東北から帰ってきた翌日に柏まで、尾てい骨が痛いのをおして出かけなければならない。そこで赤瀬川さんは東京ステーションホテルに泊まろうと発案したのであった。
以下赤瀬川さんの文章。

路上観察学会をはじめたころ、千代田区の調査であそこに泊まった。東京のど真ん中の駅に泊まれるというのが何だか痛快だった。戦前からの建物だから、天井の高さが贅沢で、木のドアのがっしりとした古さが、非常に重厚な感じだった。
そうだ、あそこに泊まれるなら、と俄然元気が出てきた。ただのスケジュール上の一泊が、わざわざ好んで泊まる味わいの一泊みたいに変わってくるではないか。
(三月C日1)

東京近郊に住んでいる人間にとって、このホテルに泊まるためには、赤瀬川さんのような動機付けがないと駄目なのかもしれない。
ちなみに宿泊リポートはというと…。

実はトラブルで宿泊できなかったのだ。赤瀬川さんのステーションホテル描写が楽しみだったのに。
山形から新潟回りで東京に戻ろうとしたところ、吹雪のため電車が足止めをくい、やむなく新潟で一泊せざるをえず、ステーションホテルはキャンセルとあいなった。
この本をつい読み進んでしまったのは、赤瀬川さんの飄々たる文章もさることながら、『一葉の四季』と同じく一つのまとまりが見開き二頁に収まっていることが大きい。よほどこうした短章形式が私の性に合うらしい。

「老人力」への注目もそうだが、赤瀬川さんの発想はすこぶるユニークで、その著書には、なるほどなあと感心する指摘が必ず含まれている。
たとえば三月M日の記述。

ぼくは展覧会に行くときはポケットに五十億円ほど持っていくことを提案した。現金ではムリ、いや現実にはムリということは重々承知しているが、持っているつもりで、ピカソやマチスやゴッホのどの絵を買おうかと思って見ると、思想やその他の知識で見るのとは違って自分の本心があらわれてくる。
それから、展覧会は短く早く、三十分ぐらいの早足でさっと見る。そうするとムダな知識の干渉のいとまがなくて、これも自分の本心が得られる。

思わず「なるほど」なのだ。まだロートレック展を見に行っていなかった。
懐に50億円はムリでも、1億円くらい持っているつもり、ロートレックの絵を買うつもりで見てみようかな、そういう気持ちにさせられる。

本書は前述のように読売新聞の連載小説をまとめたものだ。
赤瀬川さんは文中で何度もこの文章が「小説」であることを強調している。しかし中身はほとんど日記、社会批評、身辺雑記とみなしていいもので、フィクションが混在しているといわれれば、「はあ、そうですか」と受け流す程度のもの。
連載時かなり反響(いい意味で)があったそうだが、なるほど斬新で毎日読むのを楽しみにさせるかもしれない。

以前森鴎外の『渋江抽斎』に触れたとき(200/8/28条)、『ちくま』誌上における藤森照信・坪内祐三両氏の対談を紹介した。
そのとき引用したものと同じ部分を引用する。

坪内:(略)だけど『渋江抽斎』だってよく読むと変な小説です。
藤森:小説というか。散歩の話みたい(笑)。
坪内:よくあれを新聞で連載していた。
藤森:そう。赤瀬川さんといい勝負(笑)。

最後の藤森さんの発言は、ちょうど連載が終わって(1/11〜6/4)単行本刊行直前(9/10発行)の本書を念頭においていたのだろうなあと思うと、微笑ましくなる。

■2001/02/26 ポケットに50億

のほほんとしていたらすでに最終週。
ポケットに50億円を詰めこんで、あわてて東武美術館で開催中のトゥールーズ=ロートレック展を見に行った。
さて50億円でどの絵を買おうか。

昨日は1億円と書いたけれど、やはりそれでは足りなそうだ。しかしもはや時代はバブルではない。日本人が有名画家の絵の価格をこれでもかと吊り上げるようなことはないだろう。
だから、ロートレックとはいえ、50億も持っていれば三枚くらい買えるのではなかろうか。

両足を骨折して歩けなかった少年時代に書いた父母の油絵は印象派風。
私の家には派手すぎて合わない。かと思えば、自分が宿泊した宿屋の木戸板や漆喰壁に書いた油絵なんてものもある。即興で描いたものというべきなのか。
画家ではなく「絵師」と呼んでしまいたい気持ちを抑える。

驚いたのは、書かれた対象物の材質がカンヴァスではなく厚紙のものが多いこと。しかもその雰囲気がいい。
厚紙の茶色の地色とマティエールを生かした一連の作品が新鮮で、素晴らしい。
うん。これなら高級感が前面に出ず、部屋にしっくりとなじむかもしれない。
しかし見た人がロートレックとわからないのも癪なので、いかにもロートレック風の絵を選ぼう。
一枚目は「娼家の洗濯屋」。洗濯屋の男の卑猥な顔がいい。

ロートレックといえばムーラン・ルージュのポスターが有名だ。これらは石版画で描かれている。石版石の実物が展示されていて興味深い。
美術の技法に疎い私は、この平らな石版石からどうしてあのようなカラフルなポスターが生まれるのか、不思議でならない。

二つ目はこの石版画から「騎手」という作品。
左前に馬二頭が疾駆している情景を、ちょうど三番目に走っている騎手の視点から描いたもの。馬のお尻のほうから描いているという視点のユニークさと、前を走る馬の鞆やお尻に漲る筋肉の躍動感がなんともいえずいい。

さて最後はポスターから。一つ一つが予想以上に大きい。やはり図録などで見るのと実際に見るのとでは印象が違ってくる。
「演奏会にて」というポスターのなかでも一番小さいという作品を選ぼう。
アメリカの印刷会社兼石版画用インク製造会社のために制作されたポスター。石版ではなく、亜鉛板に製版したものをアメリカに送り、現地で印刷したものだという。繊細な線と微妙な色づかいが素敵だ。

さあこの三枚。版画が二枚だから、おそらく足しても50億円で十分おつりがくるのではあるまいか。安い買物である。

ふーっ。この頭の遊び、自分が50億円を持っている、しかもそれをただ絵の購入代金として充てる、そのうえに展示品が即購入できるものであるという三重の現実を解体しなければ成り立たないから辛い辛い。

■2001/02/27 本を寝かせれば

言い訳めくが、本(仕事・研究用を除く)を購入するときは、すべてについてすぐにでも読みたいと思っているのである。嘘だと思われるかもしれないが、本当なのだ(いったい誰に言い訳しているのだろう?)。
ところが諸般の事情により、なかなかそういうわけにはいかない本が、残念ながら多くなってしまう。

その場合、そのまま忘れ去られてしまうもの、読まないまま結局古本屋に売る羽目になるものなど、悲惨な末路をたどる本があるいっぽうで、しばらくたって「発掘」され、めでたく読まれる本もある。
ちょうど先日触れた赤瀬川原平さんの『ゼロ発信』はその一例である。もっとも『ゼロ発信』の場合、書棚の目につきやすい場所に置いてあったため、救われる可能性が非常に高かった。
言い換えれば、「すぐにでも救ってあげたかった」本であった。購入してから半年足らずだから、まだまだ「軽傷」である。

これが書棚の奥深くに沈んでいる本の場合、偶然の契機といったものでもなければなかなか救われない。
ちょうどこのほど読みはじめた佐野眞一さんの『旅する巨人』(文藝春秋)はそうした類の本にあたる。
たまたまスライド書棚の一番下の段の一番奥の一番隅に置いておいたのを、井上章一さんの本をがさごそと探している過程で「発掘」し、読んでみようかと抜き取ったのであった。何とも幸運である。

同書は宮本常一と彼をパトロネージュした澁澤敬三という二人の民俗学者についての評伝であり、刊行後佐野さんは本書で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞されている。
刊行直後に買ったはずだが、大宅賞受賞のニュースを聞いても読む気にはならなかったらしい。奥付を見ると平成8年。何といまからはるか四年以上前のことになってしまう。近いうちに文庫に入るかもしれない。

まあそれはそれとして、読み手の側の事情による場合が大きいけれども、お酒やある種の食物のように、寝かせると購入当初より「読書欲」が増幅するような本というのもないわけではないらしい。
この『旅する巨人』、なかなか面白いのだ。

■2001/02/28 こういう本が欲しかった

いつも利用している大学生協書籍部に入ると、入口近くの平テーブルに散歩関係のガイド本がたくさん並べられている。暖かい「散歩日和」になりつつあるゆえであろうか。

何気なくそれらの本を眺めていると、ある一冊に目がとまる。思わず手に取ってパラパラとめくる。
「そうそう、こういう本が欲しかったんだ」と即購入決定。その本とは…。

『あの人の眠る場所―東京のお墓めぐり』(ブルーガイド編集部編、実業之日本社、1000円)。

「ぽけっと東京」というシリーズの一冊で新書をひと回り大きくしたサイズ、ほかに同シリーズには『東京御利益案内』というものも出ている。
内容はタイトルどおりで、東京に遍在する著名人のお墓があるお寺・霊園などのガイドブックだ。著名人とは、歴史的人物から現代の作家までいろいろ。
四章立てで、一章では地域ごとに数時間の散歩コースを設定し、お墓があるお寺を歩くルートを地図入りで紹介する。
たとえば2時間の「深川コース」では、霊厳寺の松平定信、成等院の紀伊国屋文左衛門などのお墓をめぐる。

二章では東京六大霊園(谷中・染井・雑司が谷・青山・小平・多磨)にあるお墓の紹介。地図もついていて便利。荷風や鏡花のお墓がある雑司が谷、団十郎や茂吉のお墓のある青山などは再訪したくなった。また、三島や乱歩、白秋や花袋のお墓のある多磨にはますます行きたくなった。
多磨霊園を今年の目標の一つに据える。

三章は異色の寺ということで、著名人のお墓が集中し、しかもそこにはある特色が存在するような豊島区の南蔵院(大相撲年寄)、増上寺・寛永寺、護国寺(明治の元勲)、江戸川区の大雲寺(役者)などが紹介されている。
四章ではそこまでに漏れたマイナーなお寺・霊園に眠る人々を地域別に紹介する。本門寺の露伴・文親子のお墓、高尾霊園の寺山修司、中野区金剛寺の内田百閧フお墓などは相変わらず行ってみたいランク上位。

東京に来てから街歩きという新しい趣味が増え、とりわけ最近はお墓めぐり(掃苔のこと。これはお寺めぐりとはちょっと違う)が街歩きをするにあたっての主要なきっかけの一つになっていることもあって、本書は今後散歩のお供になることはまず間違いない。