読前読後2000年10月


■10/01 濁るのか、澄むのか

秋葉原という地名は、いまは「あきはばら」と読むけれども、これは誤りである。というのは、荷風の『断腸亭日乗』大正15(1926)年7月12日条に見える指摘だ。
「秋葉ヶ原に停車場あり。これをアキハバラと呼ぶ。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり。高田の馬場もタカダと濁りて訓む」とある。

この「秋葉ヶ原」は、江戸っ子十四代目の林えり子さんに言わせれば、本当は「あきはのはら」と、すべて澄んで読むものなのだという(「ありがた山」、『東京っ子ことば抄』所収)。
東京語は、「全般に発音は澄んでいる」そうなのだ。父親が尾張出身の荷風はそこまで知っていただろうか。
林さんの文章には、荷風の指摘にある「タカタノババ」にも、もちろん触れられている。

こんなことを書いたのも、今度営団地下鉄南北線・都営三田線で開通した新駅白金高輪・白金台の駅名アナウンスを聞いたのがきっかけなのである。アナウンスで、これらの駅を「シロカネ…」と言っていた。
これまで「シロガネ」と発音していた「田舎漢」の私は、これに虚をつかれたのである。

そこで車内にあった路線図で駅名のローマ字表記を確かめると、たしかに“shirokane”となっている。
林さんの主張はこの白金の読み方にも該当することを知り、深い感動をおぼえた。

ただ、それが必ずしも統一されていないのも事実。
地下鉄の駅から地上に出て、横断歩道を渡ろうとしたとき、そこの交差点名表示「白金台5丁目」のローマ字表記を見ると、“shirogane”となっている。たぶん地下鉄の駅名呼称が正しいのだろう。そうするとこの交差点名はどうなるのか。どこが決定したのか(建設省?)。
私がいまこの文章を打っている日本語IMEのATOKでは、双方とも「白金」が表示される。

また、白金界隈にお住まいになっているハイソなご婦人方を称して「シロガネーゼ」と言っている。
上述の議論が正しいとすれば、これはよろしく「シロカネーゼ」と呼び直さなければなるまい。
東京語は難しい。

■10/02先人の痕跡

先日刊行が開始された筑摩書房『明治の文学』に寄せたエッセイだと思う。久世光彦さんが、中野翠さんの明治文学再評価論を読んで、自分も明治文学を見直したといった内容の文章を書いていたのを目にした。

自宅近所の古本屋で、その久世さんが目にしたとおぼしい中野さんのエッセイを収録した『ムテッポー文学館』(文春文庫)を偶然手にとったので、これも何かの出会いだろうと購入する。
文庫版は私の好きな菊地信義さんの装幀にかかる。

表題作の「ムテッポー文学館」は、『月刊Asahi』『Amuse』に連載されていたとのことで、夏目漱石『草枕』からはじまって伊藤整『日本文壇史』まで、必ずしもメジャーとはいえない作品をピックアップして再評価を試みたエッセイである(と思う)。
このなかに、久世さんがひっかかったという、近松秋江『黒髪』論も含まれていた。

買ってから気づいたのだが、本書のところどころに、肩のところを少し折っているページがあった。
傍線がギリギリと引かれてあったり、折ってあったりする古書は、基本的に好きではないのだけれど、買ってしまったものは仕方がない。折ってある部分を開いて、その折り目を元に戻そうとする。

…ふとそこで元に戻すことを思いとどまった。
というのも、前の持ち主(売主)は、自分の気になる本が登場するページを折ったとみえ、その痕跡をとどめておいて、前の人が何を読もうとしていたのか確認するのも悪くない、と思ったからだ。

たとえば折ったページにはこんな書名が記されてある。

好村冨士彦『真昼の決闘―花田清輝・吉本隆明論争』/パット・ムーア『変装』/花田清輝「楕円形の思想」/枝川公一『時計じかけの東京探検』/色川孝子『宿六・色川武大』

知らない本も多いが、この人がどのような傾向の本を読んでいたのか、何となくわかるような気がする。
また、花田清輝が登場する箇所が何ヶ所か折られている。同じ古本屋に講談社文芸文庫の花田清輝作品が何冊か並んでいたから、これらと『ムテッポー文学館』は一緒に売られたのに違いないと想像する。
他人の秘密をあばいたようで、何となく気が引けるいっぽう、謎解きのような快感もある。

まあしかし、こんなことを書くのは悪趣味以外の何ものでもないだろう。

■10/03久しぶりにばななでも

新聞広告に惹かれて、吉本ばななの新刊短篇集『体は全部知っている』(文藝春秋)を購入する。
吉本ばななの本を買うのは実に久しぶりである。「身体」じゃなくて「体」なのが何となくいい。

吉本ばななを初めて読んだのはいつだったか、例によって過去の日記をあたってみる。
一番最初に読んだのは『キッチン』だと思いきや、『哀しい予感』(角川文庫)であった。1991(平成3)年9月25日のこと。今からちょうど9年前だ。
『キッチン』が翌月に福武文庫で出ることを知っていて、ばなな読んでみたいモード≠ノなっていたところに、角川文庫で先行的に『哀しい予感』が出たのだった。
「話が綺麗だ。爽やかである。現実離れしているから、恋愛小説でも面白いと感じられるのだろう」と感想を記している。

そして10月15日に、福武文庫版『キッチン』を購入している。
このとき、この作品が泉鏡花賞受賞作であることを初めて知って、「鏡花賞なら信頼できるだろう」と妙な期待を寄せている。

『キッチン』を読んだ状況は、いまでも鮮明に覚えている。大学院修士二年のとき。
いま自分が就いているような職業を目指すことに嫌気がさし、出版社就職を目標に就職活動をしているときであった。

とある小さな出版社の書類選考をパスして、面接のために上京した日、帰りの新幹線で一気に読み終えたのであった。ここで書き写すのも恥ずかしいくらいの讃辞を贈っている。
「売れるのもむべなるかなと思う。鏡花賞受賞も納得す」であった。

次の『うたかた/サンクチュアリ』では、『キッチン』が予想以上に面白かったせいか、大きな期待をかけていて、逆に幻滅を覚えている。『キッチン』のような幻想味を帯びた恋愛小説ではなく、ストレートなたんなる恋愛小説に堕している点が気にくわなかったらしい。
「たまに読むからいい」という結論に達して、その後『TUGUMI』(中公文庫)・『白河夜船』(福武文庫)などを購入しているが、目立った感想を記していない。

だから、読むのはおよそ8〜9年ぶりくらいになるだろう。
はたして、三十路をこえた私に、久しぶりの吉本ばなな作品はどのような印象を与えるのであろうか。

■10/05 戸板康二と三島由紀夫の交友について

戸板さんの『あの人この人 昭和人物誌(文春文庫)を拾い読みしようと手にとって、冒頭の「江戸川乱歩の好奇心」を読み始めたら、止まらなくなってしまった。

『ちょっといい話』のようなエピソード集は、広い交友関係が土台にないととうてい作ることができまい。さらにその広い交友関係は、人間的にできている人でないと形成することができまい。
戸板さんの人間的な温かみと、人間に対する好奇心がじんわりと滲み出ている素敵な人物評伝集である。

さて、当初の目的が拾い読みだから、乱歩の次に「徳川夢声の話術」「有吉佐和子の笑い声」と順番に読み進めるいっぽうで、「三島由紀夫の哄笑」を飛ばして読んでみる。

戸板さんは1915年、三島は1925年の生まれ。
10歳の年齢差があるにもかかわらず、同年輩のような付き合いをしていたらしいことに、まず驚く。
そのうえ、三島がまだ大蔵省に勤務していた終戦直後以来の付き合いだというから、二度驚く。歌舞伎が二人を媒介していたのだろう。

戸板さんが記す三島との交友記を読んでいると、一方で澁澤と交わる三島がいて、また戸板さんは乱歩と交わり小説を書いて、三島は乱歩の『黒蜥蜴』を戯曲化して…などと想念がふくらみ、私の好きな作家の輪がまた違う次元でつながったことを嬉しく感じてくる。

戸板さんによれば、「三島由紀夫の文字は格調が端正であった。数十通届いた葉書や手紙は、じつに立派な筆跡である」そうだ。
私が興味を持ったのは、三島の筆跡ではなく、戸板康二宛三島由紀夫書簡そのもののほう。
これは『決定版三島由紀夫全集』に収録されるのだろうか。編集部にまだ認知されていないのであれば、教えてみようかと思う。
二人の間で交わされた書簡は、戦後の演劇界・歌舞伎界を知る材料だけでなく、三島の歌舞伎観を知るうえでも貴重であろうし、戸板・三島の交友関係を知るうえでも興味深い資料となるに違いない。

■10/06 澁澤龍彦の知の蔵に興奮の巻

私のホームページからもリンクが張ってある神田古書店連盟の公式サイト“ブックタウン神田”に、姉妹サイト“神保町ドットコム”ができたとのお知らせをいただいた。

お知らせを下さったのは、当サイトの編集担当の方で、私のホームページをよくご覧になっておられるとのこと。
ホームページを作っていると、ときおりこうした未知の方との素敵な出会いがあるから、続けていこうという気になる。感謝申し上げます。

ところでなぜ私にご連絡を下さったのかというと、その“神保町ドットコム”のコンテンツの一つ「書斎訪問」の第一回が澁澤龍彦だからなのだ。
10年ほど昔、澁澤龍彦にのめり込んだ頃の日録「シブサワーナ日々」をご覧になって、私のような一介の澁澤ファンが楽しめるような企画を立てたとのこと。

これを一見して興奮してしまった。
澁澤龍彦の書斎から書庫まで、何と420枚の画像を撮影して公開しているのである。
これほどの枚数にのぼるから、書庫に並んでいる細かな書目まで(ビデオテープまである)確認できるのが嬉しいではないか。

澁澤龍彦の書斎・書庫というと、没後、『みずゑ』の特集を皮切りに、雑誌・テレビなどさまざまなメディアで取り上げられたり、池袋西武で開催された澁澤龍彦展で写真ながら書斎が復元されたりしていたので、だいたいの雰囲気は知っていた。
でももう一つ物足りなかったのは、書斎や書庫に並んでいる本、あれはどんな本なのだろう、澁澤はどんな本を持っていたのだろう、そんな細かなことなのであった。
今回の画像群は、見事にその夢を叶えてくれている。欲を言えば「もっともっと細かく」なのだが、ここまでしていただいて文句は言えない。

細かく見ていくと切りがない。
興味深かったのは、森銑三氏の著作が結構あったこと。エッセイのネタなどを拾っていたのだろうか。
全集のラインナップもいい。芥川・鴎外・谷崎・花田清輝・柳田国男・南方熊楠など。
また、本の並びも一見雑然としていながら、なかなか系統立っていること。たとえば、『芸能史叢説』『中世賤民と雑芸能の研究』『中世芸能史の研究』『日本遊戯史』『日本の遊戯』『泰西玩具図史』『日本玩具史』などと並んでいる。うーん、たまらない。

書斎の机周辺に並んでいる洋書となるとわからないのだけれど、これを一つ一つ見ていると時間を忘れてしまう。このうえに書斎周辺を撮影した動画まであるのだ。
澁澤にのめり込んだ10年前、彼の書斎や書庫をパソコンの画面で見ることができるなど、誰が想像したであろうか。
私の読書世界が飛躍的に拡大した一つの原点が澁澤龍彦であるが、ここに見ることができる書斎・書庫は、そのまた原点ということになる。
私の読書世界の最深部がこことつながっているという気がする。感無量なり。

“神保町ドットコム”の素晴らしいのは、この澁澤書斎訪問だけではない。
特集として、「宮武外骨「絵葉書類別大集成」の楽しみ」というテーマで外骨収集の絵葉書を紹介しているのである。
何とも興味が尽きないサイトである。ぜひご一見あれ。

■10/07 書き手と読み手の八年間

鹿島茂さんの未文庫化著書中の大物『絶景、パリ万国博覧会』(河出書房新社、1992年12月)が、とうとう小学館文庫に入った。先月は『かの悪名高き』が同じく小学館文庫に入っているから、そうした縁なのであろう。
でも、私としてはこの本は、ちくま学芸文庫のカラーだとばかり思っていたので、少し残念な気がしないわけでもない。妙なこだわりだけれど、小学館文庫の活字の雰囲気と内容がミスマッチのような感じなのだ。

まあでも文庫化してくれたからいいだろう。このさい不満は申すまい。
ところで、「文庫版あとがき」で鹿島さんは次のように書いている。

文庫版のために、ゲラのチェックをしていて、最後のページまできたとき「一九九二年七月三一日」という日付を見て、ある種の感慨を覚えた。あれからすでに八年も経ってしまったのだ。…

これを読んだ私もある種の感慨を覚えた。あれからすでに八年も経ってしまったのだ…と。
鹿島茂というフランス文学者の名前をはじめて知ったのは、記憶に間違いなければ『太陽』1992年12月号(11月発売)。「澁澤龍彦の「驚異の部屋」」という特集の執筆者の一人としてである。
今年いっぱいで残念ながらも廃刊するという『太陽』誌であるが、このときの澁澤特集は実に二度目のこと。
没後のファンである私は、雑誌などで特集があるたびに買い求めていたが、執筆者はほぼ同じ顔ぶればかり。ちょっと食傷気味であった。そこに、鹿島茂という見なれない名前を知ったのであった。

もっともこれは私がたんに無知なだけで、このとき鹿島さんはすでに『馬車が買いたい!』(白水社、1990年、これも文庫化はまだだ)でサントリー学芸賞を受賞していた気鋭の文学者だったのである。

92年11月にはじめて名前を知った直後、12月に今回文庫化された『絶景、パリ万国博覧会』が上梓されたのである。
装幀の綺麗さと内容的な興味からさっそく飛びついた私は、一読して大いに知的刺激を受け、以来鹿島ファンでありつづけている。
この当時日記を付けることはやめてしまっていたため、8年前の私は、本書を読んで具体的にどう感じたのか、当時の興奮を残念ながら知ることができない。

同書刊行から8年で16冊の本を刊行されたという。たぶん私はその全てを購入しているのではあるまいか。おまけに文庫化されたものまで律儀に揃えている。
鹿島さんの著作の何に惹かれるのか、自分でもはっきりとまとめることはできないが、文章のうまさはもちろんのこと、素材の選び方や筋の運び方、現代的視点からの比喩のうまさ(複眼的思考)が素晴らしいのである。

この8年、私の身辺も大きく変化した。
鹿島さんは言う、「『絶景、パリ万国博覧会』を半年で一気に書き下ろしたような集中力はさすがにもはや望むべくもない」と。
私は思う、「『絶景、パリ万国博覧会』を興奮しながら一気に読み終えたような集中力はさすがにもはや望むべくもない」と。
せっかくこうして本書と再び出会った(もっとも元版は書棚にある)のだから、読みたいのは山々なのだが…。

■10/08 ふわふわ

歌舞伎座の芸術祭十月大歌舞伎夜の部にて、「加賀見山再岩藤」(かがみやまごにちのいわふじ)を見てきた。詳しい感想は“歌舞伎道楽の場”で記すとして、ここでは少し別の角度から気づいたことを書きたい。

この狂言は猿之助扮する局岩藤の亡霊が、傘をさしながら宙乗りをして、下界で咲き誇る満開の桜を眺めるシーンが有名だ。
猿之助の宙乗りというと、「義経千本桜」四の切における狐忠信のものが第一にあげられよう。私も二度見たが、いずれもスリリングで迫力がある素晴らしいものであった。

それに対して、今回の宙乗りは、スリリングというわけではなく、むしろのんびり・優雅といった感じのものである。先月だったか、地下鉄の車内広告でこの演目のポスターがあって、そこのキャッチフレーズには「ふわふわ」とあった。

最初この宣伝コピーを見たときには、「宙乗りにふわふわはおかしいなあ」と違和感を感じていたことを、正直に告白しなければならない。
ところが戸板康二さんの『楽屋のことば』(駸々堂出版)を拾い読みしていたら、この「ふわふわ」は正当な歌舞伎用語であることを知って、あわてて考え方をあらためた。

宙乗りのことを「ふわふわ」といった。
市川猿之助の忠信のようなのは、もはや、ふわふわという感覚からは遠い。
まず、「後日の岩藤」が、日傘をさし、ゆっくりと扇で蝶を追って宙に浮かぶあの芝居こそ、この名称にふさわしい。

と、戸板さんは書いている。
別に戸板さんを信用しないわけではないが、『日本国語大辞典』を念のため調べてみる。
「歌舞伎で、宙乗りの俗称。役者の体がふわふわと宙に浮きあがるからの称」とあった。
たしかにふわふわ=宙乗りであれば、岩藤の宙乗りほどこの言葉にふさわしいものはあるまい。

■10/09 平成日和下駄(10)―元麻布更科堀井

南北線全線開通の日、まっさきに降り立ったのは麻布十番駅であった。そこから仙台坂・南部坂を経て、広尾まで歩いた。
しかしながらこのときは日が暮れて暗くなったあとだったため、周辺の風景を楽しむことがあまりできなかった。そこで再訪を決意する。

麻布十番から、麻布十番商店街を西へ歩く。
場所柄か、外国人のファミリーや若い女性、さらに散策に来たとおぼしき老夫婦などが多い。
この商店街は、新聞でも報道されていたが、麻布のお洒落な雰囲気を持っているいっぽうで、下町の匂いも兼ね備えた、歩いて気分がよくなるような場所である。

老舗も多いと見えて、古いたたずまいをもったお店もちらほら。
「永坂更科」という蕎麦屋では行列ができている。帰宅してから物の本を見ると、二百年続いた老舗との由。しかしこの日の私の目的は、さらにその先にある蕎麦屋「更科堀井」なのであった。ここも創業二百年を超える老舗である。
更科堀井のはす向かいには、よく名前を耳にする麻布十番温泉があったりして、わけもなく感動してしまう。

お店に入ると待たずに座ることができた。やはり家族連れやカップルが多い。
ここは名前が更科だけあって、素麺のように白くて細いさらしながメインなのだが、普通のもりや、それを太くした太打などもあって、選ぶのに迷うところだ。
山形出身の私は、やはり太打を注文。これはさらしなももりも同じだが、「あま」と「から」二種類のつゆが出される。蕎麦は山形の板そばよりも太い。
つゆは「から」で。抜群にコシがあって、蕎麦を食べているという気持ちで満たされる。

結局「から」のみで蕎麦を食べ終えてしまったので、残った「あま」つゆは出されたそば湯で割って飲む。
たしかに「あま」だ。舌があまり効かない私でも判然とする。これで蕎麦を食べても美味しいだろうと想像する。そば湯自体も美味しいので、何杯も飲む。
また来てみよう。
(麻布編、続く)

■10/10 平成日和下駄(11)―麻布の坂道

さて、店を出てから少し来た方向に戻って、暗闇坂を上る。
今でこそ名前が醸し出すような雰囲気は薄れているのだが、夜はまだ恐そうだ。横関英一さんの『江戸の坂東京の坂』(中公文庫)によると、江戸には同じ名称の坂道が至る所にあったようだ。
坂道の両側にある屋敷の庭の木々が坂道に覆いかぶさり、昼でも暗闇をかたちづくったのであろう。勾配のきつさ、道の細さ、両側の屋敷の木々、そのような条件下に暗闇坂は生み出される。
麻布暗闇坂の途中には、美術館のようなつくりのオーストリア大使館がある。切絵図を見てみると、江戸期にはお寺があったあたりらしい。

坂を上ると、松の脇に石碑と説明板がある変則的な四辻に出る。この界隈を一本松という。
一本松の由来は、『江戸名所図会』によれば、「六孫王経基この地を過ぐる頃、この松に衣冠を懸けさせたまひしとて、冠松の名ありとも、その余さまざまの説あれども分明ならず。いまこの辺りを一本松と号して地名となれり」とある。いまの松はそれほど大きくないので、その何代目かにあたるのだろうか。

その地名が由来となった一本松坂を緩やかに上る。
右手には、これも博物館のようなパキスタン大使館と、超モダンなアルゼンチン大使館がある。
この二つの大使館にはさまれて、門前に警官の警衛所がある邸宅があった。VIPとおぼしいが、表札にある苗字を見てもそれに該当するような人物を思い出せない。その苗字で思い出すのは、演歌の某大御所くらい。

一本松坂の突き当たりは、仙台坂上交差点。先日上ってきたところである。
仙台坂の由来はもちろん伊達家の下屋敷があったことにあるが、いまそこは韓国大使館となっている。そこから有栖川宮記念公園方向に向かう。
途中、「中国大使館に要人来日のため、10/12〜16の間交通規制あり」という立て看板が。いかにも各国の大使館が集中する麻布らしい規制である。
(麻布編、続く)

■10/11 平成日和下駄(12)―有栖川宮記念公園

今回の散策の最終目的地が、この有栖川宮記念公園(以下有栖川公園)であった。
先日訪れたときには暗くて恐かったので、中に入れなかったのだ。

ここは名前のとおり、もとは有栖川宮邸だったらしいのだが、説明板も見つけられず、家にそれを調べられるような本がなかったので、詳細は不明。大正年間に有栖川宮家は断絶したので、それ以後に公園化されたものなのだろう。

切絵図を見ると、江戸期は盛岡南部家の中屋敷であった。
さらに明治初年の参謀本部地図を見ると、この敷地には建物がほとんどなく、梅・茶・芋などの畑になっている。池はちゃんと残っていて、中島にまで畑が作られていたようだ。地名は南部氏にちなんで「麻布盛岡町」。
ちなみに南部坂沿いにある現ドイツ大使館の敷地は、明治期には海軍囚獄署であったらしい。土地の来歴を調べるのは面白い。

さて有栖川公園は、西向きの急な斜面を利用した敷地となっている。下(西)に池があり、上(東)の台地上に屋敷が作られていたのだろう。
いまそこには東京都中央図書館がある。実は、以前キムタクと常盤貴子の共演で話題になったドラマ「ビューティフル・ライフ」で、常盤が勤務していた図書館はひょっとしたここかも…という淡い期待を抱いていたのだが、一見して違う建物とわかった。残念。

図書館の敷地から遊歩道にて斜面を下りる。
池に注ぐ小川の上流のほうで、何やら若い女の子を撮影しているらしき集団が。興味津々ながらも普通の散策をよそおって(実際普通の散策なのだが)近寄り、有名な人なのかどうか見てみる。
でも近づくと、ちょっといかがわしげな写真の撮影とおぼしく、立ち止まると不審人物と間違われかねないので、横目で通り過ぎる。

池まで辿りつくと、もう公園の出入り口である。
この有栖川公園は広いようでいて案外そうではない。台地上にいると、周辺の建物が木々に隠されて見えないので広く思えるが、坂を下るに連れて周辺の建物が木々の間から目に入ってくるのだ。
まあそれにしてもこのくらいの規模の大名庭園跡が、昔ながらの風情を残したまま公園化されているのだから、それだけでもよしとしなければなるまい。
(麻布の巻、完)

■10/12 東京都庭園美術館由来記

有栖川宮記念公園の土地の来歴を調べたのだが、私の蔵書からは結論が出せなかった。
たとえば鈴木博之さんの『東京の[地霊]』(文春文庫)。
麻布という場所の[地霊]が書かれてあったかと期待したが、惜しいかな、その近くのいまは聖心女子大学の敷地となっている広尾について、一章が割かれていたのみであった。まあここはここで、久邇宮邸にまつわるエピソードが興味深いものではある。

宮家の土地にまつわる本といえば、猪瀬直樹さんの『ミカドの肖像』(新潮文庫)であろう。
宮家の土地とプリンスホテルの関わりについてのルポルタージュである同書第T部の「プリンスホテルの謎」のページを繰る。

有栖川公園については結局わからずじまいであったが、かわりに、白金にある東京都庭園美術館についての面白い記述を見つけてしまい、つい読みふける。

東京都庭園美術館の建物は旧朝香宮邸。昭和8年(1933)に建てられたアール・デコの館≠ニしてつとに有名である。敷地はおよそ1万坪。
大正10年に、白金御料地の一部が朝香宮に下賜されたのだという。
白金御料地の残り8万坪(これだけでもすごい)は、昭和24年以来国立科学館附属自然教育園となって一般に開放されている。

庭園美術館がオープンしたのは昭和58年10月。その間いろいろな経緯があったらしい。
戦後、東久邇内閣のもとで外務大臣に就任した吉田茂が、この朝香邸を外務大臣公邸として借り上げることになる。
英国大使などの経験がある吉田は朝香邸の建築物としての「格」をよく認識していた数少ない一人、と猪瀬氏は評価する。昭和22年に借り出しは成功。以来首相に就任してから後もしばらく公邸として使用し続けた。

いっぽうで朝香邸を狙っていたのは、西武鉄道の堤康次郎(義明氏の父)。
裏工作により主要部分を昭和25年に買得、それ以外のすべての土地を取得完了したのは昭和46年。そこに「白金台プリンスホテル」建設を目論んだという。
しかしこれは、自然破壊を懸念した周辺住民の建設反対運動により挫折する。

昭和56年には都としてくだんの土地を買い上げることを議会に提案する。
買い上げがなり、土地が都に引き渡されたのは昭和57年3月。坪130万、総額138億で、当時この土地を買うことに対して、税金の無駄遣い∞都民に犠牲を強いるもの≠ニ批判があったという。

結果的にこの都の方策は良識だったと評価できるだろう。
もっとも、私のように犠牲を強いられたわけではない人間が、今になってこの美術館を称揚することに、複雑な思いがしないわけではない。

■10/13 戸板「人物記」の楽しさ

銀座の奥村書店にて、戸板康二さんの没後一年後に刊行された最後のエッセイ集『六段の子守唄』(三月書房)を買い求めた。本書は著者自ら編集を行ない、タイトルをつけたものの、刊行を見る前に急逝されたのだそうだ。私個人的は、そのなかに収められている「演劇史異聞」という中村雅楽物の小説が目当てだった。

「演劇史異聞」自体は、内容的には「團十郎切腹事件」系の、演劇史の謎を雅楽が推理する形式の掌編連作であった。計六篇で30頁ほど。これはあとのお楽しみにとっておこう。

さて他に収録されているエッセイを拾い読みする。
「人物記の楽しさ」という、何やら興味深いタイトルのエッセイを見つけた。人物記系著作の面白さの背後にある考え方をうかがい知るヒントを得るかもしれないと、さっそく繙いてみる。

私がいちばん楽しみに読むのは、人物について書かれた文章である。特定な個人の正伝や評伝からゴシップに至るまで、ずいぶん読んできた。エッセイ集をよく買うのだが、目次に人物を描いたのがあると、その頁をまず開く。…
…週刊誌やスポーツ新聞のスキャンダルは、一応目を通すが、すぐ忘れてしまわないと身体にさわる。しかし、ゴシップとしてうれしくなるエピソードは、暗い現実世界にうかぶ綿雲として、私には見すごせない。

「ちょっといい話」にはゴシップに類する話も多く登場するが、たしかにスキャンダルとしてマイナスに評価されるような話は見あたらない。
スキャンダルが「身体にさわる」とは、絶妙なる表現である。あるいはご本人にとっては切実なる表現だったのかもしれない。
そして最後のしめの文章がいい。

人間が不用意に示す弱点にしても、それは決して恥ずべきではなく、その人のよさが、結局しみじみ伝わって来るので、みんないい人だと思い、武者小路実篤の表現を借りて「人間万歳」とさけびたくなる。

これだ。これが戸板さんの人物記の根底にあるものの見方なのだ。
こうした考え方を常に見失わない人だったから、人物記にかぎらず、エッセイや推理小説を読んだあと、なぜかしら暖かい気持ち、爽快な気持ちになれるのだ。
「戸板さん万歳」とさけびたくなる。

■10/14 泉鏡花用鍋

季節ごとに送られてくる通販カタログ『BELLE MAISON』は、珍しもの好きの私にとって、格好の暇つぶしになるアイテムだ。
いよいよ季節は冬に向かう。冬の季節にとって欠かすことのできない鍋などの食器セットも紹介されている。

そこで私は「泉鏡花用鍋」を発見してしまった。
いや、カタログの正式名称は「仕切り土鍋」。でも私はこっそりとこれを「泉鏡花用鍋」と命名する。
これは普通の土鍋の真ん中に、鍋をちょうど半分に仕切る壁がついているものである。
なぜこれが「泉鏡花用鍋」なのか。

以前もここで紹介したが、嵐山光三郎さんの『文人悪食』(新潮文庫)に出てくる鏡花の食にまつわるエピソードが傑作で、それが印象深く頭に刻まれているのである。

小島政次郎の回想によると、水上滝太郎、久保田万太郎、里見トン(弓+享)と大根河岸のシャモ料理「はつね」で、偶然、鏡花と会い、さしむかいで一つ鍋をつつくこととなった。小島政次郎が煮える具をかたっぱしから食べていると、鏡花は鍋の真ん中に五分に切った葱をせっせと並べ、「小島君、これからこっちへは箸を出さないようにしていただきたいものですな。そっちはあなたの領分、こっちは私の領分、相犯さないようにしましょう」とジロリとにらみつけた。

鏡花の潔癖性がなせるこのエピソードは、これから鍋の季節になるたびに思い出すことになるのではあるまいか。

そういう鏡花の時代に、もしこの仕切り鍋が売られていたならば、鏡花先生は小躍りして喜んだに違いない。
ちなみにカタログでは、「二つの味が同時に作れる」「大人用とこども用に辛さを調節したチゲ鍋や、こってり味の土手焼と湯豆腐を一緒に味わえる」といったように、違う種類の鍋を一つの鍋で作ることができることをアピールしている。

まさかこれを発案した人は、同じ鍋をお互いの領分を侵犯しないで食べるために使われるなどとは考えてもいないだろう。
だいたい鍋というものは、大人数で一つの鍋をつつくことが楽しいのだから。

■10/15 『銀座百点』づいている

最近私が読む本の初出などをみると、銀座のタウン誌『銀座百点』連載のものが多かったりして、驚いてしまう。
私の読書の好みが、そのような(東京関係など)傾向になっているということなのだろう。

たとえば“銀座百点のホームページ”の、これまでの連載エッセイなどを一覧すると、最近になって本当に偶然に、これらのたぐいを立て続けに読んだり買ったりしているのである。
私が購入したり読んだりした本のデータを引用すると、次のとおりである。


◆山川静夫('76 1〜11月号奇数月 /'78 7〜12月号 /'79奇数月)
 ----『歌右衛門の疎開』'80 文春藝秋刊
◆池波正太郎「銀座日記」(〜'88 3月号)
 ----『池波正太郎の銀座日記 Part I』'85 『Part II』'88 朝日新聞社刊
◆色川武大 連載(〜'88 12月号)
 ----『なつかしい芸人たち』'89 新潮社刊
◆菊地信義「いつもの銀座で」(〜'93 6月号)
 ----『樹の花にて』(「いつもの銀座で」改題)'93 白水社刊
◆林えり子「東京っ子ことば抄」(〜'96 9月号)
◆関容子「花の脇役」(隔々月〜'96 5月/隔月偶数月'96 8月〜'99 2月号)
 ----『虹の脇役』'99 新潮社刊
◆林えり子「続東京っ子ことば抄」(〜'00 5月号)

林えり子さんの連載は、つい最近単行本にまとめられ、読んだばかり。
同じ『銀座百点』連載物だと知らずに、奇しくも色川武大さんの『なつかしい芸人たち』(廣済堂文庫版『寄席放浪記』)と並行して読んでいた。

このほかに連載されていた作品を見ると、それらも読んでみたいなあと思わせるものが多い。
『銀座百点』そのものは銀座のお店で数回見かけたことがある程度なのだが、どうやら相性はいいらしいのであった。

■10/16 ある釈迦掌上譚

とりたてて好きというわけではない。むしろ人の多さに辟易して、なるべく避けて通りたい場所。遊園地のことだ。

そういう私であるが、なぜか先月新刊で購入した橋爪紳也さんの『日本の遊園地』(講談社現代新書)が読みたくなって、書棚から抜き出した。
西洋と日本、関東と関西、明治と現代、いろいろな軸が交差した知的刺激あふれる書。読みながら、次もこの関連書を読んでいこうと思いたつ。

橋爪さんの本は出るとだいたい購入しているのだが、最近は買ってそのままになってしまい、読んでいないものが多い。
たとえば『化物屋敷』(中公新書、1994年)、『大阪モダン』(NTT出版、1996年)などである。やはりこの流れからいけば、次は『化物屋敷』か。

しかし考え直す。同じ著者の本を続けても妙味がない。そのほかの関連本を探す。
これまた買ったままだった川添裕『江戸の見世物』(岩波新書、2000年)を見つけた。日本の遊園地史から江戸の見世物史へ、よしこれだ。
さらに次は、つい最近古書店で入手したばかりの服部幸雄『大いなる小屋』(平凡社L、1994年)に移ろう。芝居小屋の空間論である。
日本の遊園地史→江戸の見世物史ときて、見世物小屋の親玉的存在芝居小屋論、我ながら妙案妙案。そのあと、満を持して『化物屋敷』にとりかかればいい。

ということで、『江戸の見世物』を読みはじめると、著者の川添さんは、橋爪さんの中国調査に同行したとあるではないか。二人の間に学問的な交流があったとは。まあ内容から見ても、相互に無関心なわけはないはずであった。
私の読書の選択肢は間違っていなかったと納得する。

さらに驚いたのは、巻末のほうで、服部幸雄さんへ謝辞が述べられていること。
「歌舞伎は大がかりな見世物という側面もあるんです」という服部さんの発言が引用されている。何と川添・服部ラインも存在していたとは。

素敵な読書の流れを構築したとひとり悦に入っていた私は、結局見世物史の広大なネットワークというお釈迦様の掌の上で遊んでいるにすぎなかったわけである。
だからといって、この線の読書をやめようとは思っていない。

■10/17 黙阿弥とオペラとアリア

井上ひさしさんの『黙阿弥オペラ』(新潮文庫)を読み終えた。
盟友市川小團次と組む前の悩める黙阿弥(河竹新七)が、身投げから救われて立ち寄った蕎麦屋で偶然知己になった仲間たちとの心暖まる交流を、笑いも交えながら軽快に描いた評伝的戯曲である。

戯曲というものは、いったん読みはじめると読み進むのが早いのだが、その世界に入り込むまでが大変だから、手をつけるのが億劫でそれほど読んでいない。
黙阿弥に夢中になった去年この本を購入したのだが、そういうこともあってそのままになっていた。
今度『日本国語大辞典』発刊記念講演会において、井上さんが「黙阿弥と日本語」という題で講演する。それを聴きに行く予定があるので、読もうという気になった。
読んでみるとやはり面白い。

ところで第二幕において、明治に入ってから、仲間たちが黙阿弥に新作オペラを書かせようと躍起になるという印象的な場面がある。
ここで仲間たちは、「三人吉三」の有名な「月も朧に白魚の 篝もかすむ春の空」以下の台詞をオペラで唄いあげ、黙阿弥の台詞がオペラにしても通用することを示して、黙阿弥を説得しようとする。

黙阿弥の台詞づかいがオペラのアリアであるという話は、何かの本で読んだことがある。
きっと井上さんもそのような考え方から、上のエピソードを戯曲に導入したのだろう。
でも、それが何に書いてあったか、思い出せない(渡辺保さん?)。
卓抜な「三人吉三」論である小林恭二さんの『悪への招待状』(集英社新書)を見ても書かれていないようである。

私はこれまでクラシック音楽とは無縁に生きてきた。ゆえにアリアの何たるかをまったく知らない。だから情けないが、辞書に頼るしかないのだ。
『広辞苑』には「オペラ・オラトリオなどの中の抒情的な独唱歌曲」とある。お嬢吉三の台詞といまの説明で、何となくだが、こんな感じだろうという想像がつく程度。

現時点では、私にとって、オペラを見に行くということは想像もつかないことである。
しかしながら、最近の私は、歌舞伎観劇に代表されるように、昔の私にとって想像もつかなかったような経験をたくさんしているので、あるいはいつの日かオペラにはまった私≠ェ存在しているのかもしれない。
私を知っている人は、とても想像できまいなあ。

■10/18 ロケ地を探せ

先日有栖川宮記念公園内にある都立中央図書館が、「ビューティフル・ライフ」で常盤貴子が勤務していた図書館かも、と期待していたという話を書いた(10/11条)。
一見して違う建物だとわかってがっかりだったのだが、すぐに友人から、あれ(常盤の職場)はICU、すなわち国際基督教大学の本部棟であるという情報をいただいた。その友人は、“ドラマロケ地案内”というサイトから、この情報を得たのである。

ミーハーたる私としては、このサイトを見逃すわけにはゆかない。さっそく訪れてみて驚いた。
近年のドラマから、ついこの間始まったばかりである今クールのドラマまで、シーンごとにロケ地の具体的な場所が記載されており、いくつかのものには写真まで添えてある。

もっとも、現在放送中のドラマについては、そのロケ地が現在もロケで使われていることから、場所はわかっていても具体名は記さないというように、配慮が行き届いており、その点とても好ましい。

「ビューティフル・ライフ」では、常盤の家の酒屋さんが東尾久にある実際の酒屋さんであったり、キムタクと屋台ラーメンを食べていたのが六本木交差点のところであったり、つい一つ一つのシーンを頭に思い浮かべながら見入ってしまった。

ところで今のクールでは珍しく二つ注目のドラマがある。
TBS日曜9時の「おやじぃ」と、フジ月9の「やまとなでしこ」だ。
とりわけ後者は、初回を見て「あ、これはあそこじゃないか」とわかったロケ地があって、とても嬉しかった。堤真一が演じる欧介が馬主のピンを返すために立ち寄った豪邸で、あれは○○にある○○○○なのだ。
この建物は昭和初期の建築で、元○○大学の△△△だったもの。ここには二度ほど行ったことがあり、それどころか一回は中に入ったこともある。果たしてくだんのサイトでは固有名詞はやはり公開されていない。ドラマの二話を見るかぎり、もう登場してこないと思われるので、あるいは公開されるかもしれない。

…やっぱりミーハーは東京に住むべきではないのかもしれない。

■10/19 鮨の効用

いま樋口一葉の「たけくらべ」を読んでいる。
このなかで、主人公の少女美登利が喧嘩で恥辱を受けて登校拒否になる場面がある。

めづらしい事、此炎天に雪が降りはせぬか、美登利が学校を嫌がるはよく\/の不機嫌、朝飯がすゝまずば後刻に鮨でも誂へようか、風邪にしては熱も無ければ大方きのふの疲れと見える、

という箇所。
「朝飯がすゝまずば後刻に鮨でも誂へようか」という一節の「鮨」「やすけ」とルビがふってあった。

まず気になったのは、食欲増進のために鮨をとろうと言っていること。
この時期鮨は高級食なのか大衆食なのかわからないが、上の文意や志賀直哉の「小僧の神様」などから類推すれば、若干高級よりの食べ物なのだろう。
こうした局面での食べ物といえば、お粥などを思い出すが、鮨とは意外である。
でも、よく考えてみれば、食欲がないときに目の前に鮨を出されると食べたくはなるかもしれない。
これはたんに私ががめついだけなのか。

もう一つは鮨=やすけ。
弥助鮨などという呼称は聞いたことがあるような気もするけれど、曖昧なのでやはり辞書に頼ろう。
『日本国語大辞典』では、「やすけずし(弥助鮨)の略、転じて、握り鮨の異称」とあり、ちゃんと「たけくらべ」の上に引いた文章が用例として提示してある。語源は『大言海』の説によれば「義経千本桜」の鮨屋弥助からだそうだ。
ついでに余計なことだが、この「弥助」には「男根の異称」という意味もある。浄瑠璃が用例としてあげられている。なかなか面白いではないか。

さらに同辞典の「やすけずし」では、「奈良県吉野郡下市町の名産、釣瓶鮨の異称。その店の主人が代々「弥助」を名乗ることから」とある。

どうせだから「釣瓶鮨」も調べよう。
「吉野川の鮎で作った鮎ずし。その容器が釣瓶に似ているところからいう。奈良県吉野郡下市町の名産」。「千本桜」が用例に出ている。どうやら弥助鮨・釣瓶鮨と千本桜には相互に関係があるらしい。

と思って、尾上松緑の『松緑芸話』(講談社文庫)を繰ってみると、果たして疑問は氷解した。
「義経千本桜」の俗に言う「鮓屋」の正式名称は「下市村釣瓶鮓の場」であり、その店主の役名が弥助なのであった。

大和下市村の名産が鮎鮨であり、それが俗に釣瓶鮨と言われるようになったのは事実なのだろう。
もっとも、釣瓶鮨の製作販売がある鮨屋だけの独占営業だったのかわからない。ましてやその店主も代々弥助を名乗っていたのか、これも私には追究不能だ。

しかしながら、一葉の小説で「鮨」に「やすけ」とルビがふられたのは、弥助鮨という呼称が、それを読む者も当時の共通認識として意味を理解できたほど人口に膾炙していたからだったのだろう。
となるとそうした認識を形成したもとは、浄瑠璃・歌舞伎の「義経千本桜」だったと考えてよいのではあるまいか。

■10/20 赤川次郎との劇的なる一致

『日本国語大辞典』発刊記念講演会に行ってきた。この感想は明日記すことにする。
なぜかといえば、その前に自分自身とても驚かされたことに遭遇したからだ。

会場に入って、入場券と引き換えに配布物を受け取った。チラシやら内容見本などである。
このなかに小学館のPR誌『本の窓』の最新号(9・10月合併号)も入っていた。これが驚きの種。

始まるまでの手持ちぶさたに、このなかに掲載されている赤川次郎さんの連載エッセイ「人形は口ほどにものを言い」を何気なく読んでいたら、脳天に雷が落ちたような衝撃を受けたのである。
そのまま引用してしまおう。

また、『義経千本桜』には「すしやの段」というのがある。
ここの主人の名が弥助といい、そこから寿司のことを「弥助」と読んだりした。
樋口一葉の『たけくらべ』で、主人公の美登利が、近所の悪ガキにゾウリをぶつけられ、そのショックで学校を休む、というところがある。
いつも喜んで学校へ行っている美登利が、行きたくないと言い、しかも理由を言わないので、母親は娘の具合が悪いのかと心配し、食欲がないようなら、
「弥助でもあつらえようか」
と言う。
別に、『義経千本桜』のことを持ち出すまでもなく、ごく当り前に「弥助」が寿司の代名詞として通用していたことが分る

お読みいただくと一目瞭然、私が昨日書いたこととほとんど同じ記述なのである。
「義経千本桜」の「鮓屋」と「弥助鮨」の関係。「たけくらべ」が引き合いに出されているところまで同じだ。

この赤川さんの文章が載った『本の窓』は十月一日発行だから、昨日私が記すずっと前に公表されていたものと思われる。言い訳がましいが、別に私はそれを読んで、パクった≠けではないのである。
「たけくらべ」を読んだら鮨に「やすけ」とルビがふってあったのに疑問を持ち、当の『日本国語大辞典』を引いて追究した結果をレポートしたまでなのだ。
それを書いた翌日に、まったく同じことを書いた文章に遭遇するとは…。

まあ誰しも考えることはある程度同じということで自分を納得させたい。
むしろ赤川さんと同じ思考過程をたどったということで、光栄に思わねばなるまい。生きているといろんなことがあるものだなあ。

■10/21 二人の山形県人作家

『日本国語大辞典』第二版発刊記念講演会は面白いものであった。
講師とタイトルは、
丸谷才一「漱石と日本語」
井上ひさし「黙阿弥と日本語」
の二本。
丸谷さんははじめて見る。井上さんは仙台にいた頃、谷崎賞受賞作『シャンハイムーン』にちなんだ魯迅の講演を聴いたことがあるから二度目。

丸谷さんのお話は、まるでご本人の評論を読んでいるかのような融通無碍な盛りだくさんの内容であった。(以下敬称略)

いきなり丸谷が池波正太郎と京橋の寿司屋で会った話からはじまる。
そして池波が司馬遼太郎を自宅に招いたときのエピソード、司馬は実はたいへんな方向音痴だったという話。
漱石の『三四郎』を文明小説として評価したのが司馬・丸谷の二人のみであると向井敏氏に指摘された、という話でようやく漱石が登場。

現代口語文の完成者が漱石であるとする。
昔の人はいまとは逆に口語文が書けないという話で、伊藤博文のエピソードが引き合いにだされる。伊藤は議会での演説原稿をまず文語文で書き、それを秘書に口語文に訳してもらっていたのだという。

反面で現代の人間は文語文をまったく書けなくなったという話。石川淳の文語文を評価している。また、「文語体最後の名著」として、政治家木下春城の『美味救真』を挙げ、大正末頃までは、確実に文語体は生きていたとする。

同じ時期に口語体で書かれた自然主義小説、たとえば花袋の『田舎教師』と『三四郎』を比較して、断然『三四郎』のほうが中味が詰まっていると言う。いっぽうの『田舎教師』は表現が稚拙だと切って捨てる。
『三四郎』のレトリックの素晴らしさを賞し、レトリカルでロジカルな点がいいとする。
やっぱり『三四郎』を読み返したくなってきた。

こうしたレトリカルで自由闊達な文体を持っていた点は、『猫』でいかんなく発揮され、これと比べて鴎外はいかにも窮屈であって玄人うけする文体だと評価は低め。

面白かったのは、日本の「サル学」は世界のトップクラスの水準にあるが、その原因はつきつめると漱石の「坊っちやん」にあるという指摘。
なぜかというと、学校の先生みんなにあだ名をつけて呼ぶ「坊っちやん」を(教科書にせよ)読んだ若者は、学生時代自分たちの先生にもあだ名をつけずにはいられなくなり、そうした習慣を根強く持った日本人が、サルを研究するときにサル一匹一匹にあだ名をつけて識別したからこそ、いまの「サル学」の発達があるのだという。
なんとロジカルな。

最後は「だから漱石はすごい」で締める。
評論と同じく次々とつながる話に惹きつけられてしまった(ちょっとウトウトしたけれど)。

さていっぽうの井上のほうは、前に聴いたときもそうだったよなあと思い出したほど、脱線に脱線を重ねて、なかなか本題にたどりつかないお話であった。
まず黙阿弥とはどういう人物かという評伝的なエピソードを説明するのに、時間の半分くらいが費やされる。でもこれが退屈なわけではない。コントなどを書いた人だけに、一つ一つの話に落語的なオチがちゃんとあって、何とも味があるのだ。

結局は、黙阿弥は江戸末期までの日本語のあり方を集大成した人である、ということ。
「河内山」と「三人吉三」の台詞が朗読されて、その効果が説明される。たとえば「三人吉三」冒頭のあまりに有名なお嬢吉三の台詞。

月も朧に白魚の、篝もかすむ春の空。冷たい風もほろ酔いに、心持ちよくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽。塒へ帰る川端で、棹の滴か濡れてで泡。思い掛けなく手に入る百両。ほんに今夜は節分か。西の海より川の中、落ちた夜鷹は厄落とし。豆沢山に一文の、銭と違った金包み。こいつァ春から、縁起がいいわえ。

前半部をひらがなで表記してみると、

つきもおぼろにしらうおの、かがりもすむはるのそら。つめたいぜもほろよいに、こころもちよくうと、うらすのただいちわ。ねぐらへえるわばたで、さおのしずくぬれてであわ。おもいけなくてにいるひゃくりょう。

太字にしたように、「か」の字が畳みかけるように使われている。
井上は、黙阿弥がこの台詞を書いていたとき、まわりにきっと蚊がブンブンと飛んでいたに違いないと言って、会場の大爆笑を誘ったが、それはもとより、上演される際の発音の切れの良さを念頭においた黙阿弥のレトリックを褒め称える。
自身の体験として、戯曲に銀行を登場させる場合、「住友」よりも「三菱」を使うのだそうだ。「ミツビシ」の発音のほうが、声が前面にでるからで、「スミトモ」では内にこもってしまい、舞台で喋るのに適しないという。
第一線で活躍している劇作家の、体験が込められたこうした発言は重い。

この黙阿弥の台詞術に対抗しうるのが、茂吉の短歌だというのも嬉しい。
茂吉も山形県人、そして講演した丸谷・井上両氏も山形県人なのだ。偶然ではあろうが、この二人の山形県人作家が日本語を語る第一人者であるというのも、同じ山形県人として何とも愉快な話である。

日本語論は嫌いではない。しかも丸谷・井上両作家も好きな作家だ。おまけに二人とも山形県人。
こんな楽しい講演会を聴いて、肝心の『日本国語大辞典』第二版が欲しくなってきてしまったではないか。でもお金もなし、第一版があるから、すでに置く場所もなし。
講演会が終わってからというもの、ずっと迷い続けている。

■10/22 追い出し

歌舞伎独特の用語に「追い出し」という言葉がある。

例によって『日本国語大辞典』を引いてみると、これは「追出芝居」の略語で、「芝居などで、番組の最後に入れる、軽くてにぎやかな一幕の狂言、または、総踊りなどの出し物。これによって見物を場外に出す」というもの。

ちょうどいまの歌舞伎座十一月の昼の部でいうと「お祭り」がそれに該当する。
私はこの「追い出し」が大好きである。見ていて気持ちがいい。見終わって外に出るときが実に爽快な気分になるのだ。
もちろん、世話物の幕切れで話がすっきりと落着し、見得が決まった場面で終わったり、重厚な通し狂言の幕切れのように、主立った役者が勢揃いで挨拶をして終わったり、それらも嫌いではない。

しかしやはり「追い出し」の爽快さにはかなわないのである。
ただ今回の「お祭り」にかぎって難点が一つ。清元の声があまりに気持ちいいので、ついウトウトしてしまうのである。
久しぶりに清元を聴くので楽しみにしていたのだが、その高音の唄声は実に眠気を誘うのだ。
すっきりしようにも、いまひとつすっきりしない、不思議な「追い出し」であった。

■10/23 もしかして超掘出物?

最近歌舞伎座で歌舞伎を見た帰りには、必ず歌舞伎・伝統芸能の専門古書店奥村書店に立ち寄ることにしている。
行くたびに新しい本が入っていて、訪れる気にさせるのである。

昨日ももちろん奥村書店に立ち寄った。
『東京歌舞伎散歩』という、歌舞伎の狂言で取り上げられる江戸の土地を訪ね歩く散策記があったので、東京好き歌舞伎好きとしては、買わないわけにはゆかないだろう。1000円。

レジで支払いをしていたときに、私の後方、店の入口すぐのところに、まだ紐にくくられたままの一山の本があった。よくよく見ると戸板康二さんの本の束ではないか。
ドキドキしながら書目を確認する。いま私が欲しいのは、雅楽物の推理小説集なのだが、残念ながら一冊もない。エッセイ集や句集ばかりであった。

…と思ったら、一冊だけ見慣れないものを見つけた。
戸板さんの未亡人当世子さんが編者となっている『「ちょっといい話」で綴る戸板康二伝』という本である。
戸板さんに関わる評伝的な本としては、矢野誠一さんの『戸板康二の歳月』があるが、人間的に魅力あふれる方だったので、ほかにも彼に関する本であれば読んでみたい。

おずおずと店員の方に、「これはまだ売り物ではないでしょうか」とくだんの束を指さして訊ねたところ、「じゃあ欲しい本を抜き取って見せてください」という返事。
心を落ち着かせて抜き取って、手渡す。
店員の方は、中をパラパラと見て、「2000円でよろしいでしょうか」と値付けをされた。1000円位であればいいなあと淡い期待を抱いていたけれども、2000円ならばこのさい出しましょう、ということで購入した。

嬉しくて帰りのバスで、袋から取り出して眺めたところ、仰天。
この本は、戸板さんの友人知人による追悼文集であった(戸板康二追悼文集編集発行委員会発行)。しかも非売品。
奥付を見ると、制作は文藝春秋が請け負っている。本のつくり自体は、普通に新刊書店で売られるハードカバーの本と変わらない。四六判344頁。

当世子未亡人による「あとがき」によると、三回忌を機に刊行されたようであり、「生い立ち、暁星時代」「慶應大学時代」「結婚、明治製菓、山水高女時代」「日本演劇時代」「座談会」「評論家時代T」「評論家時代U」のパート(目次の表現では「幕」)に分かれている。
数えてみると、実に九十人を超える人たちが追悼文を寄せたり、座談会で追懐している。戸板さんの交友の広さがこれだけでもうかがえるというものである。

この本が何冊刷られ、どの程度の範囲の方々に配られたのか知らないが、いずれにしても私のような一介の戸板ファンごときには入手できるような代物ではないだろう。本書の性質上、増刷されることはなかろうし、ましてや文庫化されるということも考えられまい。
とすれば、2000円で入手できただけでも、かなりの幸運だと言わなければなるまい。
店員さんには、突然値踏みをお願いしてしまって、じっくりと考える余裕を与えなかったのは申し訳ないなあと思うかたわら、同書店は割合良心的な値付けをしているから、せかさなくとも値段は変わらなかったかもしれないと推量したりする。
もとより本書が稀覯本かどうかすら、確実なことではないのだ。

真実がわかるまでの間はこんな気持ちにさせてもらってもよいのではないか。
超掘出物を手に入れてしまったのかもしれないと思うと、この幸せを思い返しているだけでも一週間は何も食べずに生きていけるようだ(大げさ)、と。
たとえ貴重な本ではなかったにしても、戸板さんの追悼文集を読むことの嬉しさは変わらないのである。

■10/24 意外に違う読み味

丸谷さんの本と講演に触発されてさっそく漱石の『三四郎』を読み出した。
前に読んだときにはたしか岩波文庫版だったと記憶しているので、今回は一番新しい『漱石全集』版で読んでみる。

文庫版が新字新かななのに対し、全集版は旧かなであり、また、注釈をつけている人も違う。
もっともこうした体裁の問題だけでなく、読み味も異なることに気づいた。
周知のように本作品は『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』に連載された。一日一日に掲載される分は当然少ないわけである。
新全集は漱石の自筆原稿があるものはそれを底本としているように、可能なかぎり初出に近いテキストを採用している。だから、『三四郎』の場合、大きな章立ての中に、「一の一」とか、「一の二」などの節番号も付して、新聞連載時の切り方をそのまま踏襲しているのである。
いっぽうの文庫版は節区分をいっさい廃している。

元来根気がない私にとって、このような細かい章分けはとてもありがたい。
それにくわえて、子供と遊びながら、あるいはテレビで日本シリーズを見ながら読んでいると、ちょっとしたことですぐ読書を中断しなければならなくなることがあり、区切りが短いと助かるのである。
私以外の人にとっては、たいした違いではないのかもしれない。

さて途中まで読んでみて、丸谷さんなどが言われるように、たしかに『三四郎』は都市小説・東京小説であり、文明・社会批判の側面を持っていることを感じてはいる。
しかし私はもっと細かく、この小説は「本郷小説」、これで狭ければ「谷根千+本郷小説」と言いたい。
読んでいると、本郷界隈の空間が眼前に立ちのぼってくるのだ。

作品中に出てくるような場所は、この二年半でほとんど訪れている。
注釈の後ろについている地図を常に参照しつつ、その空間をイメージしながら読み、さらにその後登場した場所を実際に歩いてみると、明治の頃の息吹を感じるような気がするのである。

以前読んだときには、もちろん空間的な知識をひとかけらも有していなかった。だから、また別の意味で青春小説%Iな楽しさを味わったのだろう。
東京移住という環境の変化と、谷根千+本郷地域の魅力に惹かれたことが、『三四郎』観の変化をもたらしたと言うべきであろうか。
すぐれた小説は、読み手の変化につれて、何度も違った顔を見せるものだ。

■10/25 産業遺跡・土木遺産

日本近代の工業的な遺物、たとえば工場の廃墟などを歴史的に位置づける産業考古学≠ニいう言葉をはじめて聞いたのは、荒俣宏さんの『黄金伝説』(集英社文庫)ではなかったかと思う。
たかだか五、六十年から百年前のものを「遺跡」と呼んで注目することに、最初は戸惑いを感じつつも、反面でそうした角度から考察を加えるという切り口の新鮮さに驚いたのである。

しかし今回伊東孝さんの『東京再発見』(岩波新書)を読んで、学問の世界ではさらに早くからこれらの遺物を研究し、保存することの必要性を説いていたことを知り、さらに驚いた。

この本で取り上げられているのは「土木遺産」、つまり橋梁や水門・トンネルなどの大きめの建造物である。
もちろんこれらのデザインや建造の経緯などに興味がないわけではなかったが、土木史≠フ観点からなされた歴史的位置づけを踏まえると、あらためてこれらの建造物に興味がわいてくる。

中央線の万世橋駅の跡が今も残っており、中央線に乗るとそれが確認できることは有名な話だが、「土木遺産」という観点からすると、その下、つまり線路をのせている高架橋も意匠的にたいへん面白いという。
たしかに新橋辺の高架橋の下などは趣があって、歩きながら「ふーん」と見る場合があった。
でもだいたいはそれでおしまいで、注目しないで脇を通り過ぎることの方が多いのである。お茶の水−東京間の高架橋も、言われてみるとそういえば、という感覚しかない。そこには明治の橋台なども残っているのである。

万世橋でいえば、銀座線に万世橋駅があったということもはじめて知った。
浅草−上野間で開通した銀座線が、神田まで延伸するまでの仮駅だったのだそうである。
しかし今もこの駅に降りるための階段が、通風口に改造されて残っているという。
こういう話が好き。

さらに銀座線の話では、各駅に特有の色を決め、意匠をその色で統一し、駅の識別を容易にしようという目論見があったらしい。たとえば神田=赤、三越前=濃青、日本橋=濃緑など。
これは現在の南北線のいわゆるステーション・カラー≠フ発想にほかならない。
こうした発想はすでに昭和初年に存在していたわけである。

まだまだ東京という都市から目が離せそうにない。

■10/26 出張先へ持っていく本

11/1まで長丁場の出張にて、更新できません。
さて今回は日数は長いけれども、じっくり本を読めるような状況に乏しいと思われるので、あまり持っていかないことにしようかな。

1.宮部みゆき『蒲生邸事件』(文春文庫)
この出張のために読まないでとっておいた。

2.南條竹則『中華料理小説 満漢全席』(集英社文庫)
宮部さんの本はかなり分厚いので、これすら読み終わらない可能性があるのだが、あまりにも面白くて惹きこまれ、読み終えてしまったという事態に備えて。

3.丸谷才一『好きな背広』(文春文庫)
小説ばかりだと息抜きできないので、肩肘張らずに読める面白いエッセイ集も一冊。
どんな内容かな、と最初のほうを読んでみたら、思ったとおり面白くてつい読み進んでしまった。

このほか読みたい本は何冊かあるのだが、それらは十一月になってからにしよう。