読前読後2000年6月


■6/1 華麗なる大学者一族

ゆえあって、とある知識人のことを調べてみようと思いたった。
明治の人で、交友関係も広そうだから、石井研堂や宮武外骨と何かないかなあ、などと思っていたが、甘いようだ。唯一内田魯庵と交友がありそうなことをつきとめることができた。

その過程で、発売後すぐに購入してずっとそのままにしていた、小山騰著『破天荒〈明治留学生〉列伝』(99年10月、講談社選書メチエ)を手にとってめくってみた。すると、もともと調べていたこととは別の筋で本書に興味を持ったので、やおら読みはじめる。

本書は明治維新直後にイギリスに留学した日本人留学生たちの、向こうでの勉強のありさまや生活、人間関係をたどった面白い評伝である。

そのなかで多くの紙数を割いて取り上げられているのが、菊池大麓という人物だ。
本書によって菊池が就任した主な官職を列挙すると、「東京帝国大学教授、東京帝国大学総長、文部大臣、男爵、学習院院長、京都帝国大学総長、貴族院議員、帝国学士院院長、枢密顧問官、理化学研究所初代所長」
現在の学者連中が何人集まってもこれには及ぶまいという偉大な肩書群。

それにもまして驚くのは、その血族・姻族関係だ。
もともと私がなぜ菊池大麓という人物を知ったかということになるのだが、知ったのはほんの数日前。彼は箕作一族で、谷中墓地にある箕作家の墓地に彼のお墓もあるということで、実際に訪れたりした。そうした血族関係はおろか、それをはるかに凌駕するような姻族関係もあったことを本書で知ったのである。

本書の記述に基づいて系図を作り、ここに示すと一目瞭然なのだが、ずれて表示される可能性があるので、とりあえず文字だけでその関係を紹介しよう。

○祖父=箕作阮甫(幕末の蘭学者)、父=箕作秋坪(幕末明治の洋学者・教育家)、従兄弟かつ義兄=箕作麟祥(明治の法学者)
○弟=箕作佳吉(動物学者・東京帝大教授)・箕作元八(西洋史学者・東京帝大教授)
○箕作麟祥の女婿=長岡半太郎(物理学者・東京帝大教授)
○従兄弟=呉文聡(統計学者)・呉秀三(精神病理学者・東京帝大教授)
○長女の夫=美濃部達吉(法学者・東京帝大教授)、その子(大麓の孫)亮吉(東京都知事)
○次女の夫=鳩山秀夫(鳩山一郎の弟、民法学者・東京帝大教授)
○四女の夫=末弘厳太郎(民法学者・東京帝大教授)
○次男=菊池泰二(東京帝大物理学科を首席で卒業後、ケンブリッジ大に留学)
○三男=菊池健三(東京帝大動物学教授)
○四男=菊池正士(実験物理学者、東大原子核研究所初代所長、東京理科大学長)

いやはやすごすぎる。文系・理系を問わない(理系に傾いてはいるけれど)。
現代でも学者一族というのはたしかにあって、そうした話を聞くとただただ感心するばかりなのだが、ここまできてしまうと、いったいこの一族の「血」とは常人のそれと違うのかと思ってしまう。
鳩山・美濃部両家が姻族関係であることも初めて知った。

本書の冒頭から、このような記述に出会って圧倒されてしまったのであった。こうした話は嫌いではないので、当然ながら深みにはまってしまったというわけだ。

■6/2 視姦小説の衝撃的結末

文庫本ラックを整理していて、ふと『私小説名作選』(日本ペンクラブ編・中村光夫選、集英社文庫)を手に取った。
このアンソロジー・シリーズはなかなか粒ぞろいのもので、かつては半村良選『幻想小説名作選』、筒井康隆選『実験小説名作選』も持っていたはずなのだが、引っ越しのときに確認したところ、どうやら手放してしまったらしい。

なぜこの『私小説名作選』だけを手もとに残したのか、自分でも忘れてしまっている。もっともここに収録されている作品・作家を見ると、ある意味『幻想小説名作選』以上に面白いかもしれないのだ。

本書の冒頭に配置されているのが、私小説の元祖田山花袋の「少女病」という短編。心惹かれて読んでみた。
正直に告白すると、私は田山花袋の小説を読んだことがない。だから、今回読んだこの「少女病」という魅惑的なタイトルの小説が、花袋の小説を読むはじめての経験だったのである。

さてこの小説は、千駄ヶ谷から中央線(当時は甲武鉄道)に乗ってお茶の水で降り、神田方面の出版社に通う、妻子持ちの中年男が主人公。彼は出版社で編集をやるかたわら、美文調の「少女小説」を何本も書いて、仲間たちから半ば嘲笑されている。

その彼の楽しみは、通勤帰宅時の電車でいつも出会う少女たちを観察すること。
ここの駅からはこういう少女が何人、ここの駅からはこの少女が、この少女は胸が大きい、色が白いなどと、電車に乗りながら心のうちで女の子の品評会をやっている。

帰途、昔一度見たきりでその後見かけず、是非もう一度逢いたいと思っていた少女を満員電車の中で見かける。もみくちゃにされている娘を離れたところから熱心に観察し陶然とする主人公。彼は満員の乗客に押されて扉の外に立って、手で真鍮棒をつかむのがやっと。するとどうしたはずみか彼の近くの乗客が倒れかかってきて、令嬢の美にうっとりとしていた彼の手が、真鍮棒から離されてしまった。彼は線路に投げ出され、折悪しく反対からやってきた対面電車に轢かれてしまう…。

「おいおい」という感じの唖然呆然の結末。名作の裏にこういう怪作≠擁する作家は、決して忘れ去られることはないだろう。

■6/3 読み物としての予想コラム

競馬予想コラムは文学≠スりうるのだろうか。
過去に自分が購入したレースを振り返るよすがにするという現実的目的が存在するならともかく、まったく知らない馬ばかりのレースのコラムなど、読んで面白いのだろうか。それより何より、すでに終わってしまって結果がわかるレースの予想、これは自己矛盾的な存在ではないか。

科学的データに基づいた予想を読者にわかりやすく簡潔に伝えるのがコラムの必要条件であろうから、そこに文学的表現は必要ないものと思っていた。

ところがそうした考え方をくつがえすような予想コラムが過去に存在したらしい。
寺山修司『競馬場で逢おう』(宝島社文庫)は、寺山が昭和45年から同47年まで報知新聞競馬欄に連載した予想コラムである。

だいたいまったく知らない馬ばかりの、過去の予想コラムを読んだって、さっぱりわからないわけだから面白いはずがない…、寺山だからこそ実現した文庫化だろう…。
そんなことを考えて見くびっていたら、そうでもないらしい。パラパラとめくってみると、意外に面白そうなのだ。個別的なレースの予想でありながら、ときおり登場するレギュラーキャラクターがいる。一本筋が通っているのである。

以前寺山を取り上げたテレビの特集のなかで、寺山が登場したJRAのコマーシャルが流されたことがある。競馬場ほかの場所を歩く寺山の映像に、自らナレーションをつけている。その放たれた言葉にひどく感動して、鳥肌が立った。
独自の競馬観をもった寺山の予想は、どのような方法で組み立てられているのか、気になるところでもある。

■6/4 「麺ロードの旅」と「文化麺類学」

日テレ系日曜午前11時からの「雷波少年」で、タイムトラベラーが「麺ロードの旅」ということでヨーロッパからアジアを横断して日本に向かう旅をしている。今日はちょうどウズベキスタンに二人が入国して、そこの絶品麺料理「ラグマン」に舌鼓を打っていた。
世界各国いたるところでオリジナルの麺料理があるものだなあと、いつもいつも感心しながら見ている。

ところで一昨日触れた『私小説名作選』の隣に、石毛直道さんの『文化麺類学ことはじめ』(講談社文庫)があったので、何かこの旅に関係する記述はないかと、ページを繰ってみた。当然ながら言及があったのである。
しかも、日清食品社長の安藤百福さん編著の『麺ロードを行く』という本があるらしいことも知った(講談社刊)。ここらへんが雷波少年の種本なのだろうか。

まあだからといって、二人の旅の価値が貶められることにはなるまい。
二人に課せられたのは、すでに発見されている「麺ロード」を旅し、各国の麺料理を舌で味わい、かつ調理法を会得し、新たな麺料理を作ることなのだから。
その最終的に完成されるであろうオリジナル麺料理に大きなアイディアを提供すると目されるのが、このラグマンなのではあるまいか。

さてそのラグマンの製造法は、『文化麺類学ことはじめ』において写真付きで詳しく紹介されている。石毛さんも、タイムトラベラーの二人も、日本のうどんに似たコシと喉越しだという。もしこのラグマンをヒントに得たオリジナル麺料理が完成することがあるのなら、食べてみたいものだ。

いま思うに、なぜこの『文化麺類学ことはじめ』を買っていたのか、不思議でならない。95年の刊行時に購入したおぼえがある。このときは日本中世の麺料理に興味を持っていたからかもしれない。
意外なところで本書が役に立って嬉しい。

■6/5 求む!戸板康二

今日某所で戸板康二さんの『家元の女弟子』(文春文庫)を手に入れた。
歌舞伎役者中村雅楽が探偵役の連作推理短篇集である。
戸板さんの本、とりわけミステリーは集めてはいるが、読んだことがない。歌舞伎役者が探偵ということで、近年の趣味に合致した面白そうな本だ。

ところで戸板さんは、もともとは著名な劇評家である。中公文庫の『歌舞伎十八番』は読んだことがある。その戸板さんにミステリーを書かせたのは、かの江戸川乱歩。これは有名な話だ。
たとえば乱歩のエッセイ「推理作家を捜す話」(『江戸川乱歩推理文庫60 うつし世は夢』講談社)には、次のようにある。

数年前(本エッセイ発表は1960年)、創元社の座談会で戸板康二、花森安治両氏と同席し、両氏が大の推理小説ファンであることがわかったので、両氏ともに「誘い」をかけていたのだが、(…)戸板さんはあるパーティで飲みながら口説く機会があってそれが実現して、「宝石」の常連作家となっていただくことができ、その作品が直木賞を獲得したわけである。

その作品が『團十郎切腹事件』なのであるが、肝心のそれがまだ手に入らない。
むかし古本屋でアルバイトをしていた頃に何度も目にしたのだが、その頃は戸板康二という作家にも歌舞伎にもまったく興味がなかった。いまとは大違いである。

この『團十郎切腹事件』、講談社文庫に入っていたと思うので、もし見かけた方がいらっしゃいましたら、ぜひ情報をお寄せ下さい。

■6/6 変わる東京・変わらない東京

千駄木の往来堂書店で、堀晃明著・人文社編集協力の『ここが広重・画「東京百景」』(小学館文庫)を見つけたので買い求める。
本書は、歌川広重の有名な「名所江戸百景」の一葉ずつに、現在の同じ場所の写真と、同所の来歴を説明した文章が添えられたものだ。もっとも百景≠キべてが掲載されているわけではないようである。

東京という大都市は、日々刻々と古いものが壊され、新しいものができあがる新陳代謝の激しい街であるいっぽうで、ところどころに深く歴史が刻印された、変化しない一面も持ち合わせている街だと思う。

版画と写真のセットを比べながら見ていくと、田園風景がビルの林立する風景に変わっていたり、川沿いの緑がコンクリートの灰色に変わっていたりする。
たしかにそのほとんどが消え去った江戸の風景なのであるが、お茶の水にせよ、隅田川にせよ、関口の椿山荘付近、麻布広尾の古川付近、わずかながらだが痕跡が残っていないわけではないのだ。

逆に広重の描いた景色をそのままにとどめているのが、空虚なる中心″c居(つまり江戸城)のお濠端である。お濠端を歩いているといつも感じるのだが、都会の中心にこのような巨大な緑と水の空間があるということの不思議さ。やっぱり東京は面白い。

巻末をよく見ると、本書は、人文社で出している「古地図ライブラリー」中の一冊、『広重の大江戸名所百景散歩』のダイジェスト版らしい。
このシリーズは、明治東京のものを持っている。そういえば同じ往来堂書店にこのシリーズが並んでいたのを目にした。さすが憎い品揃えをする。

■6/7 絵葉書文化の謎

とある僥倖で、東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫に入る機会を得た。
それだけでなく、そこに所蔵されている(私にとっては)白眉中の白眉、宮武外骨の絵葉書コレクションを閲覧することができた。まったくの眼福であった。

外骨による絵葉書コレクションは30万枚にのぼるという。しかし、外骨コレクションのすごさは、こうした数にはない。その分類・整理の仕方にあるのだ。詳しくは、私がそのコレクションを知るきっかけともなった、赤瀬川原平さんの『外骨という人がいた!』(ちくま文庫)を参照していただきたい。

見ることができたのはほんの一部ではあるのだが、その分類整理の妙にただただ感服するのみ。そのうえ、「なぜこんなものまで絵葉書になるの」というたぐいのものが非常に多い。明治期の絵葉書文化≠フ広がり、深さを思い知った。

偶然、佐藤健二さんの『風景の生産・風景の解放』(講談社選書メチエ)を手にとったら、その最初に「絵はがき覚書」という論考が収められているではないか。さっそく拾い読みを開始する。
本書はメチエ創刊時(94年2月)のラインナップに入っていたもので、そのときに購入したままになっていた。6年を経てようやく読むことになる。

さてその佐藤さんの論考を読んでいて、少し納得した。明治期の絵葉書は、現在でいう写真週刊誌的なメディアだったらしいのだ。
事件絵葉書と呼ばれる、洪水や震災の現場写真を絵葉書にしたものや、果ては死体写真なども絵葉書にされたという。なるほど。

外骨コレクションには「なかよし」という一冊がある。見ると、微笑む女の子複数人が写った絵葉書のみが集められている。これはいわゆる美人絵葉書≠ナ、江戸時代の錦絵の延長線上にあるのではないかという。
井上章一さんの『美人論』(朝日文庫)をもう一度繙いてみる必要があろうか。

外骨コレクションは、さまざまな方向に興味の羽根を広げてくれる起点となるようだ。

■6/8 せどり男爵の思い出

ちくま文庫に、梶山季之さんの『せどり男爵数奇譚』が入った。
本書は以前河出文庫に入っていたが、長らく品切れであったので、この再文庫化は喜ばしいかぎりである。私も再読のきっかけができて嬉しい。

学生時代古書店でアルバイトをしていたほどであるから、古書は嫌いではないし、古書をテーマにしたエッセイや小説にも興味を持っていた。そこにこの『せどり男爵数奇譚』という心惹かれるタイトルがひっかかってきたのである。しかしすでにその時点で品切れ状態であり、なかなか手に入れることができなかった。

入手したのは今から9年ほど前の平成3年3月14日。。当時の日記にはこう書いてある。

文庫入れ中、以前から探求書リストのなかに入っていた『せどり男爵数寄譚』(梶山季之、河出文庫)をとうとう見つけ、購う。いつかは……と思っていたが、漸く現実のものとなって嬉しい。やはり待っていれば何とかなるものだとつくづく思う。

当時古書店での私の仕事の一つに、文庫を棚に配架することがあった。立ちっぱなし歩きっぱなしの重労働である。
しかし文庫好きであった私にとって、この仕事中に思わぬ掘出物があったりして、意外に好きな仕事であった。そこで『せどり男爵数寄譚』を見つけたというわけである。

読み終えたのは19日だから、見つけてからすぐさま読みはじめたらしい。しかし、感想は記していない。
同時に福武文庫内田百閧フ『タンタルス』も読み終えており、そちらのほうの感想しか書いていないのだ。その当時はどういう感想を抱いたっけ。
おめでたいことに内容も覚えていないので、再読するしかないだろう。余談であるが、この頃から立てつづけに百閧読みはじめている。

巻末に掲げられている『せどり男爵数寄譚』の書誌を見ると、河出文庫品切れのあと、95年に夏目書房から再単行本化されていたらしい。知らなかった。そして、今回のちくま文庫での再文庫化である。
タイトルのように本書も「数奇」な運命をたどっているのである。

■6/9 文庫本背丈考

前々から思っていたことなのだが、ひとくちに文庫本といっても出版社によって微妙にサイズが違うのである。作家ごとにまとめて並べたりすると、その違いがはっきりとわかる。
暇人と言われそうだが、仕方がない。各文庫のサイズを測ってみよう。奥行きはどこも同じようなので、高さのみ。大きい方から順に、単位はセンチメートル。

【15.3】
春陽,大陸
【15.2】
宝島社,文春,徳間,集英社,光文社,ハルキ,ハヤカワ,祥伝社,廣済堂,福武
【15.1】
中公,講談社文芸,新潮,旺文社,小学館,講談社大衆文学館
【15.0】
PHP,角川ホラー,サンリオ,学陽,双葉,角川復刊
【14.9】
河出,角川,創元推理,ワニ
【14.8】
朝日,ちくま,同学芸,岩波,同現代,講談社,同学術,現代教養,二見,大和

最大から最小まで、0.5センチも違う。道理で並べてみると凸凹が目立つわけだ。
大ざっぱに分けると、15.2グループ≠ニ14.8グループ≠ェ二大勢力である。後者は老舗岩波文庫。他の文庫は当然これにならったのだろう。もう一つの老舗新潮文庫は15.1だから、どちらかといえば前者に近い。ここには文春・集英社・徳間・光文社・中公など大手が並ぶ。

不思議なのは、というよりも、それを通り越して訝しいのは、講談社。
メインの講談社文庫が14.8、学術文庫もそれと同じなのに対して、文芸・大衆文学館などは15.1。そもそも担当するセクションや発注先が違うとしてしまえばそれまでだが、それにしてもなぜ同じサイズに統一しないのだろう。角川も同様だ。
角川と言えば、ハルキ文庫はもとの角川文庫とは別のグループに属しているのも興味深い。

■6/10 まりとあや

森田誠吾『明治人ものがたり』(岩波新書)を読了。
睦仁天皇(明治天皇)、森銑三、森茉莉・幸田文の三組の評伝風エッセイであったが、このなかでは最後の森茉莉・幸田文二人を描いた一篇が好きだ。

この二人は、森鴎外・幸田露伴という明治の文豪の娘という点で共通しているだけでなく、その親二人は紅露逍鴎≠ニ並び称されたこと、また、二人に斎藤緑雨を加えて「三人冗語」という批評を展開したことなどで盟友関係にあった。
娘二人に戻ると、生年が一年違い、没年が三年違いで、実に八十年の年月同じ空気の下で生きていたそうなのだ。中年になってから作家として登場したことも共通する。

それにもかかわらず、森田さんによれば、この二人はたった一度きりしか会っていないと言う。しかも会話は交わさず。

森田さんは、この二人の生涯を交互に平行に追いながら叙述していく。
性格や人間としての生き方が正反対に近いので、この対比の仕方は面白い。

この二人の著作は、それぞれ文庫になっているものの80%くらいずつ持っている。しかし恥ずかしながらどちらも読んだことがない。
両者の作品とも、パラパラとめくっただけなのだが、自分が好みそうなのは幸田文さんのほうかなと感じている。とりあえず実際に読んでみないと。

■6/11 朗読者

先週の土曜日だったか、新潮社の新聞広告のなかで『朗読者』(B・シュリンク、松永美穂訳)を大々的に取り上げたのを目にした。

そこに掲げられた書評の抜粋からは、養老孟司・川本三郎・池内紀・池澤夏樹という信頼できる本読み℃l人が激賞しているさまがうかがえた。この四人が読んで面白いというのだから、すぐさま読まねばと思いたつ。

追い打ちをかけるように、その日のTBS系『王様のブランチ』で、筑摩書房の松田哲夫さんもまた本書を取り上げ、「今年は今後どんな本が出ても、これが第一位の本だ」というくらいの褒めちぎりようであった。ランキングも徐々に上位に来ているらしい。

で、早速購入して読んでみた。期待が大きすぎたのが悪かったらしい。
池内さんのように「こんなに読み耽ったのはひさしぶり」という状態にもならなかったし、松田さんのように今年第一の収穫になるかといえば、あと6ヶ月あるし…という気分である。

こうした過度の期待を抱かなければ、純粋に面白い小説だと思ったかもしれない。
先人の評価を真に受けすぎるのも考え物だ。

■6/12 中村雅楽と春桜亭円紫

中村雅楽(がらく)とは、戸板康二さんの小説に出てくる探偵役にして歌舞伎の老名優。
かたや春桜亭円紫とは、北村薫さんの小説に出てくる探偵役にして落語家。

たまたま古書店で見つけた戸板康二『家元の女弟子』(文春文庫)を読み終えて、この二人の探偵は雰囲気が似ているなあと思った。
いずれの小説にも、派手な殺人はほとんどない。日常生活、人間関係のなかで起こるちょっとしたトラブル、謎を、感性の鋭さと豊かな人生経験のなかで培った観察眼で解決してゆく。
二人の探偵役に共通する暖かみ、その小説を読んだあとの後味の爽やかさ、最近こうしたたぐいの小説を好むようになってきた。

とりわけ中村雅楽関係は、小説を読む楽しさと同時に、戸板さんによる歌舞伎鑑賞話、歌舞伎の舞台裏の話も盛り込まれていると思われるから、一粒で何度もおいしい≠烽フとなっている。これにはすっかりはまりこんでしまった。
以前も書いたが、戸板作品は今後追いかけてゆきたい。

■6/13 ミシマの声

今年は三島由紀夫の生誕75年・没後30年の節目の年にあたる。新潮社で新版全集の企画があるという噂話を聞いたけれども、進行しているのかどうかわからない。

昨夜のNHK教育テレビ「ETV2000」は、「三島最後の歌舞伎」という特集であった。三島作の歌舞伎としては最後の作品「椿説弓張月」が国立劇場でかけられたさい、三島の右腕として演出にあたり、その経過を克明にノートに記録していた方(現在国立劇場の部長さん)のインタビューを中心に構成されていた。

そこで興味を持ったのは、三島本人が自作を朗読し、それがレコードになって今に残っているということである。
これを吹き込んださい、三島は上機嫌であったという。流れた肉声を聴くと、女形の台詞はちゃんと声色を使って読んでいるのだ。
「これが三島の声?」と耳を疑ってしまった。たしかに乗り乗りで、今から言えば貴重なものなのだろう。

もっとも、私個人がまともに三島の声を聴いているかといえば、実は聴いていない(聴いていてもしっかりとした記憶がない)。周囲の騒音のなかではっきりしないものの、自殺直前の市ヶ谷自衛隊での演説の声くらいしか記憶にないのである。
昨夜は前述の朗読のほか、別に講演でのテープも流された。「これが三島の声なのかあ」と感激する。澁澤龍彦とは異なり、まあ本人のイメージからそう離れていないものではあった。
余談だが、この講演の声は、私の知っている某氏の声にそっくりであった。

ところで、ある歌舞伎の掲示板によると、この「椿説弓張月」三島朗読版は、87年にCD化されたのだが、現在は廃盤になっているという。
手に入れたいものだが、古書と違って廃盤のCDというのは、どこで、どういうやり方で探せばよいのだろうか。

■6/14 「日和下駄」四冊目

銀座にある歌舞伎専門古書店奥村書店の支店に行った。
本店は歌舞伎座近く(ナイルレストランの脇)にあるが、支店はそこからちょっと北に行った、ウィンズ銀座の近く(松屋裏)に二店舗あって、うち一つは二畳ほどしかない小ぢんまりとしたところだ。

もともとは戸板康二さんの著作を探しにおもむいたのだが、やはり歌舞伎評論関係の著作しかなく、小説を探していた私にとっては残念な結果に終わった。

しかし、戸板さんの著作とは別に、買い求めた本がないわけではない。狭い方の支店に、新版『荷風全集』の端本が二冊あったのである。一冊は「日和下駄」が収録されているもの。もう一冊は「下谷叢話」が収録されているもの。いずれも食指をそそる。

「下谷叢話」は、鴎外の『澁江抽斎』に範をとった史伝で、荷風の外祖父鷲津毅堂を描いたものである。
この作品には興味があったので、以前旧版『荷風全集』の当該作品収録巻を端本で購入している。まだ読んでいない(本家の『澁江抽斎』すら読了直前で滞ったまま)。「日和下駄」はいまさら申すまでもないだろう。

さてこの新版『荷風全集』は、旧版と比べて、判型が大きくなったこと(四六判→A4判)、新字になったこと(旧かなのまま)、小説・随筆取り混ぜての編年構成になったことが大きな変更点であろう。やはり雰囲気としては旧版のほうがいい。

だから、とりあえず「下谷叢話」の入った巻は購入を見送った。
一方の「日和下駄」のほうは、函から本を取り出すと、何やら別に袋入りのものが入っている。「荷風文学地図」という全集附録であった。これはおいしい。
新版『漱石全集』にも同様に「漱石文学地図」が付いてきたが、荷風の場合、別に配布されたのではなく、この「日和下駄」の収録された第11巻にセットで組み込まれているとおぼしい。というのも、地図を取り出して中味の本だけにしてしまうと、函が大きすぎてスカスカになってしまうからだ。

値段も1500円と格安だったので、購入決定。
でも、私が持っている「日和下駄」のテクストは、岩波文庫『荷風随筆集』版、講談社文芸文庫版、旧版全集版に続いてこれが実に四冊目。いくら「日和下駄」が面白いからといって、ちとダブりすぎか。

■6/15 戸板ぐるい

中村雅楽物の連作推理短篇集『家元の女弟子』(文春文庫)を読んでから、すっかり戸板康二さんの世界のとりこになってしまった。ここ一、二週間ほど、古書店に立ち寄るさいには必ず戸板さんの文庫本を探求書の第一候補として見てまわるほどだ。

さて、戸板さんの著作は、大別すると三つのジャンルに分けることができるようである。

1)歌舞伎関係
2)評伝・人物伝
3)推理小説

1は戸板さんの本職であり、私はこのうち『歌舞伎十八番』(中公文庫)・『すばらしいセリフ』(ちくま文庫)の二冊しか読んでいないから、多くを発言する資格はない。これまでは歌舞伎関係の評論でいえば、河竹登志夫・渡辺保・服部幸雄各氏の著作で事足れりとしていたが、ついに戸板さんという大家に行きつくべくして行きついた。

2は『ちょっといい話』(文春文庫)に代表されるような著作群である。これもまったく読んでいない。ただ、最近『ぜいたく列伝』(文春文庫)・『あの人この人 昭和人物誌(文藝春秋)という二著を手に入れ、そこで取り上げられている人物のラインナップに興味を持っているので、近いうちに読むことになるのではなかろうか。

たとえば前者では、十一代目片岡仁左衛門・谷崎・大倉喜七郎・百閨E徳川義親・小林一三・鹿島清兵衛・花柳章太郎・御木本幸吉・五代目中村歌右衛門、後者では、乱歩・徳川夢声・三島・古川緑波・奥野信太郎・小宮豊隆・寺山・円地文子・澁澤秀雄・辰野隆・武智鐵二・安藤鶴夫などなど。

3は中村雅楽を主人公とした作品群である。残念ながら『家元の女弟子』と『松風の記憶』(講談社文庫)しか持っていない。一度興味を持つと熱狂的にわき目もふらず探し回す悪癖を持った私だが、今回ばかりはゆっくりと気長に古書店を回りながら集め、読みたいと思う。
まあ、古書店を回ること自体悪癖の一端が出てきているうえ、すでに「ふるほん文庫やさん」で二冊ほど注文を出してしまったので、いまさらゆっくり待つも何もないのだが。

ちなみにこの分野に関しては、こんなありがたいHPが存在する。

■6/16 ネタの宝石箱

昨日知ったかぶりで戸板さんの「2)評伝・人物伝」について触れたけれども、実のところ、購入したばかりの『最後のちょっといい話』(文春文庫)をパラパラめくってみて、はじめてそれらがどのような構成をとっているのか、知った次第である。

ある程度の分量の人物伝の集合体だとばかり思っていたら、数行〜一頁程度の短い笑い話風のエピソードが散りばめられているものなのだ。
お世辞にも面白いとは言えないような落とし話から、興味深い著名人のエピソードまで、玉石混淆ではあるが、それにしてもよくぞこうした大量のエピソードをさばけるものよと感服する。

この漫筆のネタに困ったら、このちょっといい話≠種本にして話をつくりあげることもできそうだ。

【おやじギャグ系】
大蔵省にいる役人が、ある年の暮れの予算編成の時、役所に泊まりこんで数日を送った。「これがほんとうの、ホテル・オークラ」

【ためになる系】
泉鏡花は二つ折りの半紙の下に、自分でこしらえた罫紙を敷き、原稿を墨で書いた。その罫紙は古くぼろぼろになるまで使ったという。親友の登張竹風が語っているが、鏡花は小説でも随筆でも筆がゆき詰まると、水さし代りに使っていた御神酒徳利の水をその原稿におまじないにふりかけたという。鏡花自筆の原稿のところどころに滲みがあるのは、そのためなのである。

■6/17 永井荷風の昭和

半藤一利『永井荷風の昭和』(文春文庫)を読み終えた。
本書のような『断腸亭日乗』を主たる素材とした著作を読むたびに思うのは、荷風(『断腸亭日乗』)という存在からは、絞っても絞ってもいろいろな着想が生まれてくるものだ、ということ。

まだまだ『断腸亭日乗』には、語り尽くされていないエピソードがたくさん眠っているのだろうし、他の記事や他人の日記などの記述を借りてはじめてその背景が分かるような個別的な記事もたくさんあるのだろう。
こうした本を読むたびに、『断腸亭日乗』を再読したいという気にかられる。

といっても、岩波版七冊は持ってはいるがどうももったいなくて読んでいず、もっぱら磯田光一編『摘録断腸亭日乗』(岩波文庫)にあたっている。それも通読したのは十年以上も前のことになろうか。
情けないことだが、岩波版『断腸亭日乗』にはルビをふってもらわないと読めないような言い回しの漢字が頻出するので、怖じ気づいて文庫版に逃げているのである。

本書のなかでは、第三章第四章あたりに興味を持った。
軍人と荷風の関係について述べた部分だ。本間雅晴中将の前妻(カフェーの女給)と契った話や、寺内寿一元帥とは中学の同級生で、彼らから軟派の荷風が殴られ、それをずっと恨みに思っていた話、東郷平八郎元帥の孫娘の非行ぶりを目撃した話など、痛快かつ興味深い。

■6/18 「戸板」二題

今日も「戸板」の話。一つは戸板康二さん、一つは家屋の内と外を空間的に区切る板としての戸板の話。

歌舞伎座六月大歌舞伎の夜の部を見に行く。今月の話題は、仁左衛門の当たり役として名高い「源平布引滝 義賢最期」と、歌舞伎座では久々の上演となる黙阿弥作「八幡祭小望月賑」(はちまんまつりよみやのにぎわい)

「義賢最期」は、立ち回りがすごいという話を前々から聞き知っていた。立ち回りが見所として有名な狂言には、「蘭平物狂」「丸橋忠弥」「新薄雪物語」などがあるそうだが、このうち「蘭平物狂」は以前見た。

今回の「義賢最期」が「蘭平」と異なるのは、主役自らがかなり危険な立ち回りを行なうことだろう。
一つは最後の「仏倒れ」
これは最後に果てるときに、階段の上から階段に向かってそのまま前方にバッタリと倒れるもの。柔道の「前受け身」(でいいんだっけ?)のような感じだが、自分が立っている平面に倒れるのではなく、前が木の階段であるうえに斜め下に倒れるわけだから、相当恐い。
もう一つが「戸板倒し」
二枚の戸板を立て、その上に一枚横に渡して(ホチキスの針の形、トランプでよく組み上げるあれ)、そのうえに義賢が乗って見得をきったあと、それを支えていた捕り手(敵)の集団が一人を残して立ち去る。残った一人が反対方向にちょこんとその戸板を押すと、戸板はバランスを失ってバッタリと倒れるという仕掛け。
この二つの立ち回りのときは、満場息を呑んでシーンとなった。

さて戸板康二さんの話。
歌舞伎座に来る前に、東京駅八重洲地下街の八重洲古書館・金井書店に立ち寄ったのだが、前者で戸板さんの『あどけない女優』(文春文庫)を発見(150円)した。たいへん嬉しい。
中村雅楽物でこそないが、新劇の世界を舞台にした推理短篇集だ。少しずつ戸板さんの文庫本が集まりつつある。

■6/19 ベンヤミンは三冊目

ヴァルター・ベンヤミンとは不幸な出会い方をしている。

大学二年のときのドイツ語の授業で、ベンヤミンのたぶん「暴力批判論」がテキストであった(テキストがそれであったかすらあやふやだ)
ドイツ語自体の成績がかんばしくないうえに、ベンヤミンの言葉も難しくてさっぱりわからない、そうした印象しか残っていない。晶文社の邦訳版著作集を繙いても、難しさに変わりはなかった。

しかしながら、お決まりの澁澤ルートで、また違った角度からベンヤミンの著作に触れることになったのは、思いもよらないことであった。
たとえば「一方通行路」「1900年頃のベルリンの幼年時代」(いずれも『ベンヤミン・コレクション3』ちくま学芸文庫所収)がそれである。

さらに鹿島茂さんの著作を読むようになって、有名な「複製技術時代における芸術作品」『パサージュ論』と出会った。
『パサージュ論』を知った当時は、まだ岩波書店から邦訳が刊行されていなかったので、それが出たときにはたいそう嬉しく、すべて購入し、ひまなときにポツポツと読んでいこうという気でいたが、実現できていない。

いっぽうの「複製技術時代における芸術作品」は、岩波文庫「ベンヤミンの仕事」版、ちくま学芸文庫「ベンヤミン・コレクション」版二つのテキストを持っている。
ところが先日多木浩二さんの『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(岩波現代文庫)を購入したところ、そのなかにも同テキストが収録されていたので、これで三つ目となった。訳者は岩波文庫版と同じ野村修氏。

実はこの論文は、私の好きな形式(短章の連なり)でありながら、いつも途中で挫折していて、最後まで読んでいない(と記憶している)。だから、冒頭の「マルクスが資本主義生産様式の分析を企てたとき、…」というフレーズは、暗唱できるほど、というと大げさだが、それに近いくらい馴染みのものになっている。

多木さんの著書購入をきっかけに、もう一度取り組んでみようか。

■6/22 探偵小説の探偵ではなく

久しぶりに購入欲をそそる単行本を見つけた。
題して『尾行者たちの街角』(永井良和著、世織書房)。「探偵の社会史」というシリーズの1冊目だそうだ。
帯によると、「近代都市における人間関係を「探偵」というキーワードで記述する」のがこのシリーズの趣旨である。

帯の背の部分には、「出歯亀からストーカーまで」とある。覗き・ストーカーといった、現代に先鋭化している犯罪を、明治大正期の警察おける犯罪捜査法、興信所・私立探偵の成立という角度からとらえなおそうという試みらしい。

いったいストーカー≠ネどという単語は、ここ数年で人口に膾炙したもので、この単語が社会に定着するまでは、これらストーカー行為≠ヘ犯罪として認定されにくかったのではないかと思われる。
ストーカーという単語がある特定の犯罪を意味するといった共通認識が出来上がった今日、その歴史的変遷をあらためて跡づけてゆくという本書は、登場すべくして登場したものといえるだろう。

ところで本書は、いわゆる「探偵小説」に出てくる架空の探偵たちではなく、本当に実在した探偵たちを対象としている。探偵小説好きとしては、その意味でも興味深い書物である。
後者の探偵たちは、石井研堂の『明治事物起源』を引用して、明治30(1897)年に始まったと論じられている(永井氏は1895年とする)。だいたい20世紀の産物であるということだ。

「探偵が出てくる小説」として真っ先に思い浮かぶのは、谷崎の「途上」である。本作品は大正8(1919)年に発表された。この作品は江戸川乱歩をはじめとするのちの探偵作家たちを熱狂させることになる。ここで探偵は、「私立探偵安藤一郎 事務所日本橋区蠣殻町三丁目四番地 電話浪花五〇一〇番」という名刺を主人公に差し出す。

石井研堂のいう探偵の誕生から二十数年を経過しているが、「途上」は、いかにも周辺にいそうな、現実的な私立探偵が登場する小説としては、やはり最初期の部類に入るのではあるまいか。

■6/23 谷崎潤一郎「途上」の地理学

昨日の記事を書いているうちに、谷崎の「途上」が気になりだし、久しぶりに読み返してみた。幾度となく読んだこの「途上」、今まではたんに探偵小説の先駆的作品≠ニいう角度からしか読んでいなかった。
ところが、東京に来て数年たった立場であらためて読んでみると、違った角度から読めることを発見できて新鮮であった。すなわち歩く小説≠ニして、である。

「途上」は、昨日条に書いたとおり、大正8(1919)年12月に発表された。
梗概は、ごく簡単に言えば、東京T.M株式会社員法学士湯河勝太郎の妻の病死が、実は湯河自身が仕掛けた死の罠によるものだったということを、探偵安藤一郎が暴いていく、というものである。

探偵小説史的にこの作品のトリックは、江戸川乱歩によってプロバビリティーの犯罪として定義され、乱歩の「赤い部屋」などに受け継がれていく。
プロバビリティーの犯罪≠ニは、犯人が直接手を下すのではなく、死ぬ可能性の高い状況に被害者を追いやり、あたかも自然死ないし事故死したと見せかけて殺害するというもの。
「途上」でいえば、湯河は、心臓の弱い前妻に酒や煙草、冷水浴を勧めたり、チブスに罹りやすくするためになま物を食べさせたり、事故のさいに一番危険な乗合自動車の一番前の席に座らせたり、感冒患者の見舞・付添をさせるなどして、結局妻を肺炎で死に至らしめている。

プロバビリティーの犯罪という着想の面白さと、湯河が使った方法から垣間見える当時の社会風俗、湯河の犯罪が探偵安藤の対話のかたちで論理的に解き明かされてゆくときの緊張感あふれる叙述は、探偵小説ファンならずとも一読に値するものだと思われる。

さて、以下この小説の「歩く小説」としての側面を見ていくことにしよう(テキストは集英社文庫版『谷崎潤一郎犯罪小説集』を使用)

主人公湯河が安藤に呼びとめられたのは、暮れも押し詰まった12月の夕方5時頃、「金杉橋の電車通りを新橋の方へぶらぶら散歩している時」であった。あとの記述によると、彼は芝口に住んでいることがわかる。

芝口とは、明治の参謀本部地図によると、現在のちょうど新橋駅から汐留の再開発地のあたり。「金杉橋の電車通り」とは、いまの第一京浜を指す。金杉橋とはそこから少し南へ行った、芝大門辺を流れる古川に架かる橋の名称。
新橋の方へということから、湯河が住んでいる芝口は、新橋から比較的離れたいまの新橋四丁目あたりになるだろうか。

彼はなぜ新橋方面へ散歩していたかというと、もらったばかりの給料袋をかかえて、新妻に手袋と肩掛けをプレゼントすべく銀座に買物にでる途中だったのである。「新妻のためにプレゼント」という湯河の行為からは、湯河と前妻との関係をすでに暗示してはいまいか。
話をもとに戻すと、第一京浜をそのまま北上して新橋を過ぎると、銀座の中央通りになる。

湯河と安藤はそのルートをとったと思われる。「二人はもう新橋を渡って歳晩の銀座通りを歩いていた」とあるからだ。
さらに二人の議論は白熱し、次第に安藤が湯河を追いつめてゆく。

そしてとうとう「二人は京橋を渡った」
しかし二人は「自分たちが今何処を歩いているかをまるで忘れてしまったかのように、一人は熱心に語りつつ一人は黙って耳を傾けつつ真直ぐに歩いて行った」

日本橋の手前まで来たとき、安藤は湯河の手頸を二、三度軽く小突いて合図すると、日本橋を渡らず「村井銀行の先を右に曲がって、中央郵便局の方角へ歩き出した」。日本橋川沿いを東に歩くかっこうになる。
村井銀行というのは今の何を指すのか不明だが、中央郵便局というのは、現在の日本橋郵便局であろう。そこには「郵便発祥の地」の碑が立っている。

さらに「中央郵便局の前から兜橋を渡り、鎧橋を渡った。二人はいつの間にか水天宮前の電車通りを歩いていた」
兜橋とは東京証券取引所の前、鎧橋は現存する。都内最古の鉄橋だそうだ。そこを渡ると日本橋蠣殻町。「水天宮前の電車通り」とは今の新大橋通り。対話のイニシアティブは完全に安藤に握られ、いよいよ湯河の企ては崩壊寸前である。

「二人は水天宮の電車通りから右へ曲った狭い横町を歩いていた」。その先には安藤の探偵事務所兼住宅があった。
ここが二人の緊迫した散歩の終着点であり、前妻の死が湯河の企みによる犯罪であったことが最終的に解き明かされる、小説の終着点でもある。ゴールには前妻の父が待ちかまえていたのであった。

これまでは、二人の緊迫した会話と論理的構成、プロバビリティーの犯罪の妙味という点からしか読んでいなかったが、その間新橋から水天宮まで、空間的な大移動もともなっていたのである。地図上で概算すると約4キロ。歩くとすれば相応の時間を要しよう。それだけ二人は熱中して議論をたたかわせながら歩いていたということだ。
小説中では、単純な地名表記に過ぎないが、そこには上述のような時間の流れと緊迫感が込められていたわけである。

ちなみに谷崎が生まれたのは当の蠣殻町(いまの住所表示では人形町)。このあたりを谷崎は何か隠微な空間として好んで使っている。
「途上」では探偵事務所を横町にすえ、「白昼鬼語」では、不可思議な犯罪が行なわれる家をここに設定する。そうした雰囲気が漂っていたのだろうか。

「途上」を歩く≠ニいうことで、この二人が歩いた道をたどってみるのも一興かもしれない。もっとも人と車の多い大通りばかりで、さほどの興趣があるというわけではないけれど。

■6/24 芥子飯

いまこつこつと百閧フ随筆索引を作っているのだが、そのさいに「芥子飯」というタイトルがあって(『北溟』所収)、「はて、これは何だろう?」と一瞬疑問に思った。

少したってから、芥子のご飯=辛いご飯、ということはカレーのことかと気づいて、本文を読んでみると、果たして正解であった。
カレーを「芥子飯」と言ったなんて、はじめて知る事柄である。石井研堂の『明治事物起源』にも載っていない。
銀座二丁目にあるカレー店ニューキャッスルの「辛来飯」(カライライス)を想起させるネーミングだ。
あるいは逆に辛来飯のもとをたどれば「芥子飯」なのかもしれない。

さて、この「芥子飯」というエッセイの内容はこんな風だ。

田端に用事があった百閧フ懐には十銭しかなく、それを帰りの電車賃として使うために田端まで歩こうとしていたとき、小石川でカレー十銭の看板を掲げているカフェーを発見する。
用事を済ませたあと、腹がすいてどうしようか、蕎麦を食べようか、あの十銭カレーもいいなと迷っているうちに、電車にも乗らずに再び小石川のくだんのカフェーの前まで来てしまい、結局カレーを食べる…。

そのあと、そのカフェーの女給二人に見つめられながらカレーを食べたことが面白おかしく報告されている。
女性に見つめられながら食べた、懐の全財産をつぎ込んだ味はどうだったのか。

一匙二匙食ふ内に、女のゐる事なんか気にならない程いい気持ちになつた。

うーん。カレーを食べたくなってきた。

■6/25 戸板を集めろ

早稲田の古本屋めぐりをした。某書店にて、戸板康二さんの旺文社文庫刊エッセイ集二冊『ハンカチの鼠』『女優のいる食卓』を手に入れた。500円・400円という、旺文社文庫にしては良心的古書価だ。
百閧ネらばともかく、戸板さんであればまだそれほど高くはなっていないのだろうか。にわか戸板ファンとしては大歓迎である。

少しずつではあるが文庫本の戸板作品が集まりつつある。とりあえず、現在把握している著作を整理しておきたい(太字は所有)。

【文春文庫】
 1.ちょっといい話
 2.新ちょっといい話
 3.久保田万太郎
 4.あどけない女優
 5.新々ちょっといい話
 6.松井須磨子 女優の愛と死
 7.泣きどころ人物誌
 8.見た芝居・読んだ本
 9.家元の女弟子
 10.最後のちょっといい話 人物柱ごよみ
 11.あの人この人 昭和人物誌
【講談社文庫】
 1.六代目菊五郎
 2.小説 江戸歌舞伎秘話
 3.写真 歌舞伎歳時記 春夏
 4.写真 歌舞伎歳時記 秋冬
 5.團十郎切腹事件
 6.グリーン車の子供
 7.松風の記憶
【河出文庫】
 1.塗りつぶした顔
 2.才女の喪服
 3.浪子のハンカチ
【旺文社文庫】
 1.ハンカチの鼠
 2.女優のいる食卓
 3.夜ふけのカルタ
【中公文庫】
 1.歌舞伎十八番
 2.折口信夫坐談
 3.物語近代日本女優史
【ちくま文庫】
 1.すばらしいセリフ
【集英社文庫】
 1.黒い鳥

私が把握している数だけでも三十冊近くに達している。
しかし、現在新刊書店で手に入るのは、文春文庫の「ちょっといい話」や「人物誌」シリーズ、それに最近出たばかりのちくま文庫『すばらしいセリフ』くらいではあるまいか。
手に入るだろうと予断して、まだこれらのシリーズの入手には躍起になっていないけれども、あるいは判断が甘いかもしれない。

戸板さんにはまる以前に偶然手に入れていたもののなかでも、今から思えば貴重だと思われるのは、講談社文庫の『写真 歌舞伎歳時記 春夏』。舞台写真で有名な吉田千秋さんとの共著である。
たしか門前仲町の古本屋で見つけたと記憶している。もう片方の「秋冬」は残念ながら一緒になってはいなかった。

本業である歌舞伎関連の著作は申すまでもなく多く、名著と言われているものも多い。それにも関わらず、そうしたたぐいの本の文庫化が少ないのは残念このうえない。
最近の『すばらしいセリフ』が売れていてくれれば、このシリーズの続刊も期待できるかもしれない。

これはある方から教えてもらったのだが、歌舞伎関連著作のなかでも代表的作品として、『歌舞伎への招待』正続、および『歌舞伎ダイジェスト』『卓上舞台』の四冊があるという。ところが戸板さんは、この四冊の新装復刻を固辞していたというのだ。
四冊を出版した「暮しの手帖社のために書き、その社のおかげだといつも恩に着ている心持ちを貫きたかったためだ」(「花森安治のスカート」『あの人この人』所収)という。

ファンとしては残念だが、これもまた気長に文庫化を待つか、古本屋で手に入れるかしようと思う。

■6/28 「鴎外読書月間」宣言

文庫化なった森まゆみさんの『鴎外の坂』(新潮文庫)を購入する。

講演会のおりにサインまでいただいた単行本は、90頁のところ(第二章の途中)に栞が挟んであるままで、頓挫していた。文庫化を機に、一から読み直そう。
ということで、さっそく読みはじめると、あれよあれよとプロローグを読み終え、第一章に突入する。この調子だと、今度こそ読み終えることができそうだ。

ちょうどいい。本書を助走にして、来月7月を「鴎外読書月間」にしてしまおうと思いたった。
偶然森一族に関する興味深い話を某所から聞いたこともあって、森鴎外、ひいては森一族に対する興味も沸いていたからだ。

さて、何から手をつけていこうか。以下優先順位を記す。

○回想・評伝
1.森まゆみ『鴎外の坂』(新潮文庫)
2.森於菟『父親としての森鴎外』(ちくま文庫) ※於菟氏は鴎外長男
3.森類『鴎外の子供たち』(ちくま文庫) ※類氏は鴎外次男(末子)
4.小金井喜美子『鴎外の思い出』(岩波文庫) ※作者は鴎外妹
5.森茉莉『父の帽子』(講談社文芸文庫) ※茉莉氏は鴎外長女
6.森茉莉『記憶の絵』(ちくま文庫)
7.石川淳『森鴎外』(ちくま学芸文庫)
8.山崎正和『鴎外 闘う家長(新潮文庫)

○作品
1.「青年」
2.『澁江抽斎』

これだけ掲げたが、すべて読めるわけがないことは自分が一番よくわかっている。評伝は4くらいまで、作品は二つとも読みたいものだ。
鴎外の子供たちの回想のなかで、唯一次女小堀杏奴さんの『晩年の父』が未所持なのが悔やまれる。

さて、ともかくも『鴎外の坂』だ!

■6/29 スキップ、ターン

昨日の『鴎外の坂』と同時に、北村薫さんの『ターン』も新潮文庫に入った。面白そうだったが、すぐに購入することは思いとどまる。
それよりも、すでに古本屋で買い込んでおいた先行作『スキップ』を読むことのほうが先決だからだ。

出かける直前に、それまで通勤電車で読んでいた本を読み終えていたことに気づいた。次に何を読もうかとあわてて書棚を物色していたとき、そのことを思い出して『スキップ』を手にとり、カバンにしまい込んだ。
だから『スキップ』読書の契機は偶然の積み重なりということになろうか。

そうした偶然の契機によって読むことになった『スキップ』であるが、これがすこぶる面白い。電車に乗っている時間を忘れてしまうほど。
北村薫さんの作品だから、面白いであろうことは購入時点から予想できた。なのにここまで読まなかったのは、他にも読みたい本があったことと、分量のある小説に手をつける勇気がなかった、この二つの理由からである。もっと早めに読んでおけばよかった。

内容は、昭和40年代(60年代後半〜70年代前半)の17歳の女子高生が、うたた寝をしているうちに25年後の平成の時代、つまり90年代にタイムスリップしてしまうという話だ。
起きてみると見なれぬ部屋に自分が寝ている。そのうちに、知らない女の子がその家に入ってくる。なんとそれは、自分の同い年、17歳になる自分の娘だという。

身体だけ25年後、つまり42歳の自分になり、頭は25年前の17歳のまま。25年の時間がスキップされている。
突然自分と同じ年齢の娘がいるという戸惑い、さらに、ということはすでに見知らぬ夫もいるというショック、父母がすでに亡くなっていることを知ったときの悲しさ、25年前には想像もできなかったような風俗、電化製品…。そのギャップがさりげなく、かつ丹念に書き込まれていて、楽しい。
しかもそうしたいかにもSF的主題の話が、SF臭なしに展開している点、新鮮だ(別にSFが悪いといっているわけではない)。

まだスキップ£シ後しか読んでいないので、今後の展開が楽しみなうえに、『ターン』もこの勢いで購入し、読んでしまうことになるだろう。